あるもの探しの旅

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2015/04/20

日本海ひな街道2015

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神通力ふたたび!? 酒田編

Da cosa nasce cosa.〟「物事は思わぬ展開をする」といった意味のイタリアの諺(ことわざ)です。

 予想だにしないことが起こるのは世の東西を問いません。〝The dog that trots about finds a bone.〟(⇒駆け回る犬が骨を見つける=犬も歩けば棒にあたる) この江戸かるたでもお馴染みの諺には、こんな英語の言い回しが存在します。

 アンビリーバボーな展開に遭遇することが少なくないのは、前々回、気仙沼の郷土料理「あざら」をご紹介した折に触れた荷受人の参上事件を引き起こした庄イタも例外ではないようです。

 見事な時代雛が数多く残る庄内地域に春の訪れを告げるのが、日本海ひな街道。今月初旬に閉幕した2015シーズン最終盤に滑り込みで訪れた酒田と鶴岡で、自身の〝引きの強さ〟を再認識する新たな出来事が起こりました。

 鶴岡での出来事は後編でご紹介することにして、酒田で発揮した(のかもしれない)神通力について今回は語ります。

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【Photo】風間家7代当主幸右衛門が住居兼店舗として建造した丙申堂。庄内地域特有の冬の暴風に耐える4万個の石を並べた杉皮葺き石置き屋根が特徴。2000年(平成12)国指定重文指定を受けた

 所有権を巡る訴訟の和解が成立し、酒田から鶴岡にこの春65年ぶりの里帰りを果たしたのが、江戸後期に京都と江戸で作られた風間家のお雛様。鶴岡きっての豪商・風間家の住まいであった旧風間家住宅「丙申堂」で、雛飾り56点が公開されるとあって、庄イタも第二の故郷である庄内へ里帰りし、実家でお過ごしの男雛・女雛と久方ぶりにお逢いせねば、と思っていたのです。

 呉服や太物(→綿織物や麻織物の総称)を扱う庄内藩の御用商人から明治以降は金融業に転じ、鶴岡きっての豪商となった風間家。1896年(明治29)築の商家造りの母屋の建坪は380坪。丙申堂以外では、酒田の鐙屋にだけ見られる五枚重ね構造の杉皮葺き石置き屋根が特徴です。

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【Photo】風間家9代目故・眞一氏の姉のために大正末期に手に入れたという古今雛。明治から昭和にかけて三代に渡って活躍した東京の人形師「永徳齋」二代目、気品ある作風で名工の誉れ高い山川慶次郎(1858-1927)の作

 手前の仏間と部屋続きの御座敷で風間家のお雛様が一般公開されるのは今年が初めて。座敷の幅に合うよう作られた雛段の最上段に公家の正装姿で居並ぶ古今雛は、しっかりと正面を見据えて少し取り澄ました表情。京製のお雛様に共通する切れ長のまなざしが、そうした印象を与えるのかもしれません。対して玉眼を与えられ、現代に通じる写実的な江戸製の古今雛は、端正なお顔を少し下に向け、訪れる人に春を迎えた悦びを語りかけるかのよう。

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【Photo】公益財団法人本間美術館が所蔵する風間家雛段飾り。1996年(平成8年)に始まった酒田雛街道が20周年を迎える来春から3年間は本間美術館で、その翌年は鶴岡丙申堂で公開される <画像提供:本間美術館>

 風間家に伝わるお雛様は、長いこと酒田の「本間美術館」で公開されてきました。9年前の春、庄イタが初めてこのお雛様とお会いしたのも本間美術館本館の表座敷でのこと。

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【Photo】風間家の雛飾りに添えられる押絵細工の技法による雛菓子。上方の細工菓子が庄内で独自の発展を遂げた例。菊水・短冊・鯛・桃・竹梅扇・鶴など、おめでたい意匠を組み合わせる

 日本国憲法が施行された1947年(昭和22)5月、戦後初の私設美術館として出発した本間美術館。その設立趣旨は、太平洋戦争で疲弊した人々の心に潤いを与え、地方の文化芸術の発展に寄与すること。公益の精神が息づく庄内と、現在は公益財団法人化された本間美術館を語る時、本間家の存在を忘れてはなりません。

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【Photo】公益財団法人本間美術館が所蔵する白崎家雛段飾り。酒田雛街道20周年「雛祭古典人形展」(2016年2月27日(土)~4月4日(月))で公開予定 <画像提供:本間美術館>

 およそ450年前の永禄年間に酒田に移住した本間家。北前船と最上川舟運で繁栄した酒田湊を拠点に商業・金融業を営む傍ら、本邦随一の大地主として名を馳せました。これは東北を襲った飢饉で打ち捨てられ、荒れ地と化した耕作地を蘇らせるため、田畑を買い足しては土地改良と水利事業を行った結果です。

 本間家中興の祖、三代目本間光丘が、飛砂害に苦しむ沿岸部に私財を投じて植林を始め、庄内砂丘一帯に今では1,000万本を越える防砂林を形成するのがクロマツです。〈拙稿「だだちゃ豆は、ががちゃの賜物」(2009.8)冒頭参照〉。世のため身を挺して大地に根を張るクロマツと同様、公益のために尽力したのが本間家でした。

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【Photo】現在は本間美術館本館として広く公開される本間家別荘「清遠閣」。池泉回遊式庭園「鶴舞園」は、第10代庄内藩主酒井忠器(ただかた)公の命名。本間家4代光道が、北前船が欠航する冬の港湾従事者の失業対策に作庭した。200年以上の時を重ね、いずれも格別の趣と風格がある

 本間美術館が創設された昭和22年は、敗戦国日本が、米軍の占領下にあった時代。食料不足にあえぐ都市部では闇市が立ち、ヤミ米に手を出すことをしなかった佐賀の裁判官が栄養失調で死亡するなど、世相は混沌としていました。そんな時代にあって、日本人に誇りと心の潤いを取り戻す美術館としての新たな役割を与えられたのが、1813年(文化10)に竣工した本間家の別荘「清遠閣」です。

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【Photo】JR酒田駅から徒歩5分の本間美術館から直線距離にしておよそ1km、歩いて15分あまりの本間家旧本邸。漆喰の白壁と瓦の塀で囲まれ武家屋敷の風格を漂わせる

 清遠閣は、庄内藩主酒井家の領内巡視時の休憩所としても供され、明治以降は本間家の賓客を迎え入れてきました。昭和天皇が摂政・皇太子時代の1925年(大正14)、東北行幸で酒田を訪れた際の滞在先として二階を増築。酒田の迎賓館としての役割も担います。

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【Photo】樹齢400年を超す堂々たる枝ぶりのアカマツ「伏龍の松」と、丸に本の字を組み合わせた本間家の家紋入り赤瓦屋根が訪れる人を出迎える本間家旧本邸

 本間家所有の北前船6艘で、米を運んだ上方からの帰路、古手(ふるて=古着)や雛人形などの物資と共に運んだ各地の銘石を池の周囲に配した回遊式庭園「鶴舞園(かくぶえん)」。秀峰鳥海山を借景とする庭園は、清遠閣の手漉(てす)きガラスの窓越しに眺めることができます(下写真)。

1-cul200-seienkaku.jpg 美術館として生まれ変わって以降、一般に公開されてきたのが、庄内藩酒井家や米沢藩上杉家など諸大名からの拝領品。そして丸山応挙・歌川広重・藤原定家・松尾芭蕉の書画などの本間家による蒐集品。さらに安井曾太郎、棟方志功、土門拳など当代きっての芸術家による作品に酒田市民は間近に触れることができました。

 激動の時代を乗り越えた本間家所蔵のお雛様を公開する「雛祭古典人形展」が本間美術館で初開催されたのが1948年(昭和23)。

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【Photo】徳川家から拝領したことを物語る葵の御紋入りの精緻な蒔絵が施された碁・双六・将棋などの雛道具(上写真)など、雛街道で展示される所蔵品は毎年入れ替わる。独自の発展を遂げた酒田・鶴岡の菓子職人が、伝統の技で仕上げた雛菓子<拙稿「お雛様は、いとをかし」2009.5参照>もお見逃しなきよう <所蔵・画像提供:本間家旧本邸>;

〝西の堺、東の酒田〟と並び称された商都酒田の繁栄を支えた三十六人衆など、年を追うごと新たな旧家の由緒ある時代雛が公開されてゆきます。これが市民の評判を呼び、現在各地で春先に開催されるお雛様を公開する催しの端緒となりました。

 空襲を受け廃墟と化した都市部では、多くの人がバラック小屋で夜露をしのぐ寝食にすら事欠いた当時。公開された珠玉の美術品や雛人形は、人々の心に希望の光を灯したことでしょう。

aioi-sama-primavera.jpg【Photo】白髪の男雛・女雛で対となる百歳雛を本間家では「相生様」と呼び慣わしてきた  <所蔵・画像提供:本間家旧本邸>

 長く厳しいモノトーンの季節に別れを告げ、庄内各地でも梅の花がほころび始める頃。目にも鮮やかな緋色の雛段にお出ましになる時代雛。優美なほほ笑みを浮かべるお雛様と相見える時、去来する春を迎える悦びと、当時の日本人の思いは相重なるのではないでしょうか。

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【Photo】雛人形と一緒に飾られる雌雄一対の犬筥(いぬばこ・幅30cm・高さ19cm)は、中に雛道具を収納できる。多産でお産が軽い犬は子孫繁栄を願う女児の守り神とされ、本間家に伝わるこの犬筥は狛犬のように口が阿吽(あうん)の相をしている <所蔵・画像提供:本間家旧本邸>

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 知恩報徳」を代々の家訓として、福祉・慈善事業に尽力してきた風間家。丙申堂を管理運営する公益財団法人克念社が、本間家による所有を認めた上で、風間家のお雛様が4年ごとに丙申堂で公開されることとなりました。第二次大戦が終わって70年目を迎える今年。両家の歩み寄りを一番喜んでおられるのは、ほかならぬ風間家のお雛様に違いありません。

 鶴岡から酒田に移動したのは、思うところがあり、羽黒山頂にある出羽三山神社の開祖・蜂子皇子を祀る蜂子神社と出羽神社三神合祭殿に詣でんがため。隋神門から数えて山頂まで本来は2,446段あるはずが、二の坂から上は雪に覆われていた石段&雪山登山に等しい参道を難行して往復した後のこと。

【Photo】樹齢300~500年を数える杉並木の間をゆく出羽三山神社参道。最も長く急勾配の「二の坂」から先の石段と石畳は、雪に覆われていた

 酒田雛街道では「雛の味わい」と題し、市内の各飲食店で雛祭りにちなんだ特別メニューを提供します。今回は太田政宏グランシェフのもとで研鑽を積んだ武田亘シェフが厨房を預かる「フランス風郷土料理レストラン欅」で「ひなランチ」を頂きました。

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【Photo】レストラン欅「ひなランチ」(パンまたはライス・コーヒー付 / 税込2,160円)
1皿目:「ヤリイカのキモト(アサツキ)詰めトマトソース」

keyaki2015hina3.jpg【Photo】3皿目(上):庄内浜の春告げ魚の代表格がサクラマス。「サクラマスとプリプリ海老のポワレ・帆立エキス入り白ワインバターソース」2皿目(左下):野菜のうまみが溶け出したスープの中に浮かび上がってくるのは、桜の花をかたどったニンジン。そんな演出に思わず笑みがこぼれる「和野菜と紅花のスープ」 4皿目(右下):菱餅と同じ3色。お雛まつりにちなんだデザート「抹茶とイチゴのムース」

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 酒田でお雛様にお会いするために今回まず伺ったのは、これまで何度か訪れている本間美術館ではなく、本間光丘が幕府の巡見使を迎え入れる本陣として、1768年(明和5)に建てた「本間家旧本邸」。旗本二千石の格式を備えた武家屋敷造りと商家造りを合体させた全国でも例を見ない特異な構造をしています。

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 庄内藩酒井家に献上後、住まいとして拝領し、仏間より北側の商家造りの部分を歴代本間家が住居としたのは1945年(昭和20)春まで。光丘が造った当主の部屋は、家が栄える吉方とされた北西の角にあり、狭さといい、薄暗さといい、日本一の大地主の主人が過ごす部屋としては意外なほど質素な造り。

 いかなる時も町と共に歩み、公益に資することを旨とした本間家。1949年(昭和24)から1976年(昭和51)まで旧本邸は公民館として利用されたのだといいます。

 本間家旧本邸で、とりわけ印象深いのは、「相生様(あいおいさま)」と本間家では呼ばれてきた百歳雛。ともに白髪が生えるまで仲睦まじくという願いを込めたお雛さまです。

 百歳雛は山居倉庫の敷地に建つ「酒田夢の倶楽(華の館)」にも、どれほど眺めても見飽きない加藤家の古今雛と共に展示されており、雛街道開催中の酒田では、必ずお目にかかってきました。

 酒田市内で展示されるお雛様の展示場所3か所をコンプリートすると、風間家のお雛様と共に丙申堂の雛段に飾られていたような「傘福」ほか、お雛様関連グッズが抽選で当たる「雛めぐりスタンプラリー」にも参加。旧家に眠っていた可愛らしいお雛様が展示されていた「マリーン5清水屋」6Fの専用応募箱に投函し、家路に就きました。

 スタンプラリーに応募したこと自体、さして気にも留めずに今日まで過ごしてきた庄イタ。「そういえば」と思い、改めてスタンプラリーの応募台紙を兼ねた酒田雛街道のパンフレットを見直しました。そこには4月3日応募締め切りの抽選結果は、酒田の観光情報を紹介するWEBサイト「さかたさんぽ」で発表とあります。

 そこで4月14日付で発表されていた当選者リストに何の気なしにアクセスすると...。

Σje.Σje.Σje.( ゚ Д ゚;!!!!

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 仙台市在住の同姓の方で「我こそ酒田雛街道スタンプラリーに応募し、傘福をゲットした強運の持ち主だっ!!」と仰る方は、どうぞコメントをお寄せ下さい。庄イタの淡い期待は即刻打ち捨てますので。

 当選者発表にある通り、全国から寄せられた応募総数は1,267件。さて、1,267分の2の確率で見事当選した(はずの)傘福が、自宅あてに届くのかどうか、もうドキドキですわ(笑)。 


「神通力ふたたび!? 鶴岡編」に続く。
to be continued.


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2015/04/05

餅モチ ~ハレの食~

 米どころ宮城で育まれた餅文化を紹介する特別展「餅モチハレの食~」が、仙台市宮城野区五輪の榴岡(つつじがおか)公園にある「仙台市歴史民俗資料館」で開催されています(4月12日まで)。

 今回の企画展の特徴は、日本民俗学の祖である柳田國男が唱えるところの「ハレ」(=非日常)と「ケ」(=日常)の分類で、ハレの食べ物という視点で餅をとらえている点。

Mochi_mochi.jpg 会場の仙台市歴史民俗資料館は、1874年(明治7)9月に竣工した宮城県内に現存する最古の疑洋風木造建築物です。

 普仏戦争(1870~71)でプロイセン王国にナポレオン3世が惨敗を喫するまでは明治新政府が軍制の規範としたフランス兵法に倣った兵舎の遺構となります。同時期に竣工し、現在は名古屋の明治村に保存されている歩兵第6連隊兵舎(1783竣工)とほぼ外観が共通なのはそのため。

 瓦葺寄棟造りで、白漆喰仕上げの外壁には、四隅にコーナーストーンを配し、重厚さが増している点が第6連隊の兵舎とは異なります。前述の通り、造営当初の用途は、歩兵第4連隊所属の200名以上が訓練に明け暮れる兵舎でした。戦前の街並みが空襲により焼失した仙台にあっては、希少な歴史の生き証人でもあります。

hohei-4rentai.jpg【Photo】1895年(明治28)当時の旧日本陸軍歩兵第4連隊全景。現在は榴岡公園として市民憩いの場となっている11ヘクタールの敷地を囲むように建物が建っていた

 戦後は1956年(昭和31)まで米軍が駐留したのち、1975年(昭和50)まで東北管区警察学校として使用。市制88周年記念事業の一環で1977年(昭和52)に榴岡公園が整備された際、移築・補修され、2年後から資料館として公開されています。

 四季を彩る年中行事や祭礼、人生の節目といった特別な日を意味する〝ハレの日〟。御所に備えられていた三種の神器のひとつ、銅鏡をかたどった年神様にお供えする鏡餅に象徴されるように、日本人にとって餅は古来より特別な食べ物でした。

sendai-rekimin-muzeo.jpg【Photo】元禄年間に伊達家4代綱村公がツツジと京都から取り寄せた桜の苗1,000本を植えたことに端を発し、今では仙台屈指の桜の名所として知られる榴岡公園。その一角に建つ仙台市歴史民俗資料館。表裏同じ作りの建物の全体像が見やすい裏手側より撮影

 今日においても世界最大の小麦輸出国であり、生乳生産国はアメリカです。日本を統治した米国の意向により、戦後間もなく再開された学校給食では、米国産原料で製造されたパンとバターの副産物である脱脂粉乳(スキムミルク)が全国で導入されました。〈データ出典:米国農務省Foreign Agricultural Service/USDA 2015.4

 敗戦後しばらくは食糧難にあえいだ日本から見れば〝豊かさの象徴〟と映ったのが米国。生活習慣病や肥満の増加を招いた一因とされるファストフードやコーラ飲料に代表される食文化に限らず、アメリカ文化を日本人は積極的に取り入れました。挙句は慶大医学部教授による〝コメを食べると頭が悪くなる〟という「米食低脳論」なる極論まで登場し、それが広く庶民に受け入れられます。

 米国の資金を後ろ盾に、国は日本各地に米国の農産品を普及させる栄養指導車(通称:キッチンカー)を派遣。タンパク不足を訴える「栄養改善普及運動」によって、日本人の食の嗜好を変化させる素地が巧妙に形づくられました。

tamagami-kesenuma.jpg【Photo】前回ご紹介した気仙沼の元・網元宅の神棚。鏡開きを終えた2月末の撮影ゆえ鏡餅は見られない。海老と宝珠が描かれた「玉紙」が、鯛、扇などのおめでたい絵柄と開運福禄寿の文字を切り抜いた南三陸町周辺で見られる「切紙(きりこ)」〈拙稿:南三陸の新春を飾る「きりこ」(2011.1)参照〉と共に神棚に供えられている

osonae-tamagami.jpg 食生活に限らず、暮らしぶりの変化に伴い、日本古来の暮らしの中で受け継がれてきた年中行事もまた、核家族化が進む都市部を中心に簡略化の傾向が強いと思います。多世代が一つ屋根の下で暮らす旧家は別として、神棚がある家庭は、果たしてどのくらいあるでしょう。
 
 新年を迎えた年神様にお供えするのが鏡餅。庄イタの幼少期は亀ヶ岡八幡宮から授かった縁起物の宝珠と海老や昆布が描かれた「玉紙」とともに神棚や仏壇に鏡餅を大晦日の午後にお供えしました。これは宮城周辺だけの習慣のようですね(右写真)。

 仙台の年越しには欠かせない子持ちナメタガレイの煮付けを夕飯で頂き、除夜の鐘に交じって聞こえてくる亀ヶ岡八幡宮の宮司が打つ太鼓の音とともに新年を迎えていました。

omisoka-nameta.jpg【Photo】特別展「餅モチ~ハレの食~」の展示「年中行事とモチ」より。仙台の一般家庭の大晦日の食事を再現した子孫繁栄を願う子持ちのナメタガレイ、柿なます、漬け物、白米、お吸い物

 時効成立済みなので白状しますが、玉紙と鏡餅をお供えしてから、祖父の定番だった「極上黒松剣菱」をお神酒のお裾分けと称して舐めていたことが懐かしく思い起こされます(⇒8歳にして剣菱で酒の味を覚えた「こち亀」の両さんと相通じる幼少体験かと)

 自ら居を構えた現在、そこには神棚はなく、もっぱら餅は楽しみに頂くものとなりました。至高の食味を備え、もはや替えが利かないという意味では、禁断の実に等しい「本女鶴」〈拙稿:「酒田女鶴と本女鶴」(2012.10)参照〉を知ってしまったことが、その傾向に拍車をかけているように思います。

shogatsu-sendai-zouni.jpg【Photo】特別展「餅モチ~ハレの食~」の展示「年中行事とモチ」より。昭和30年代の仙台の商家の元旦膳を再現。きな粉餅、イクラのなます、大根・人参・伊達巻・凍豆腐・なると・セリなどの具と焼きハゼや芋がらで出汁をとったすまし汁の仙台雑煮、当主と神前に供える雑煮には、飾りで焼きハゼを載せることも

 今回の特別展「餅モチ~ハレの食~」では、紀元前3世紀には稲作が行われていた仙台平野で出土したクヌギの木で作った古代の竪杵(たてきね)や、脱穀や精米にも用いられた臼の残片など、糯米を餅にする道具の展示で始まります。

ceppi-zunda.jpg【Photo】仙台西部の上愛子(かみあやし)地区のある農家における1865(元治2)~68(慶応4)にかけての行事食の記録。旧暦7月7日には「七夕祝」として「さとう糯」と「ぢん(た)糯」を食し、同15日に「さとう小豆入糯」と「ぢんたもち」を食したと記されている(矢印部分)

 仙台の旧家における伝統的な正月膳が再現されているほか、多彩な餅の食べ方を食品サンプルで紹介する展示も。枝豆をすりつぶし少量の砂糖を加えて味を整え、餅にからめて食する宮城の郷土食「ずんだ餅」が、豆(zu)を打(da)つことから転じた呼称であり、その起源がいつ頃なのか?といった展示も目を引きます。

aramaha-zouni_hatsukine.jpg【Photo】2月19日に東北ろっけんパークで開催された「オモイデゴハン食堂」で、限定100食のみ振る舞われた希少な糯米「ハツキネモチ」の餅が入った荒浜地域の仙台雑煮

 いそべ餅、あんこ餅、きなこ餅、胡麻餅など、現在でもポピュラーな食べ方のほか、くるみ餅、生姜餅、納豆餅、大根おろしに醤油をたらしたおろし餅、縄文時代には食用にされていたとされる栃の実をアク抜きしてから糯米と混ぜて作る栃餅、鰹節でとった出汁に餅を入れて味わう汁餅、ヨモギやヤマゴボウの葉を摘んで糯米と和えた草餅(ヨモギ餅)、前述のずんだ餅などなど・・・。

 宮城で主力となる糯米は「ミヤコガネモチ」ですが、仙台市の沿岸部で東日本大震災の津波被害が最も深刻だった地域のひとつ若林区荒浜で農業を営んできた佐藤善男さんは、昭和30年代に紹介された「ハツキネモチ」という品種を、だた一人作り続けてきました。その理由は「餅にすると抜群においしいから」。

 種籾は津波で全て流されてしまいましたが、福井県農業試験場に少量だけ冷凍保管されていた種籾100gを入手。除塩を終えた圃場で栽培を再開したのが2013年。まとまった量が確保できたのは、昨年秋の収穫から。

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【Photo】東北ろっけんパークで開催された「オモイデゴハン食堂」(右上)。希少な糯米ハツキネモチを震災後に復活させた若林区荒浜で農業を営む佐藤善男さん(左上)。御年79歳にして堂々たるハツキネモチの餅つきを披露して下さった佐藤さん(下左右)。

 旧正月の2月19日、仙台市青葉区中央にある東北の観光や産業の復興をバックアップする「東北ろっけんパーク」には佐藤さんが駆け付け、作り手ご本人が杵で搗(つ)いたばかりのハツキネモチが入った荒浜風仙台雑煮が振る舞われました。

isshou-mochi.jpg【Photo】紅白の餅を満1歳の誕生日を迎えた子に背負わせる「一升餅」
 
 「人生儀礼とモチ」で紹介されるのは、紅白合わせて一升分の糯米を使った紅白の餅を満1歳を迎えた赤ちゃんに背負わせ、「一生食べることに不自由することがないように」と願いを込める「一升餅」や家の上棟式で餅や小銭を撒く「振る舞い餅」など。

 最近では珍しくなった上棟式の振る舞い餅ですが、家と同様、決して焼いてはならないため、うるち米の上新粉に砂糖を加えた「すあま」を用いることもあるそうです。

 〝餅は餅屋〟と申します。餅にまつわる興味深い展示を見た上は、無性に餅が食べたくなるのが人情というもの(笑)。そこで帰り足で青葉区北目町の「村上屋餅店(下左写真)に寄りました。村上家は仙台藩に菓子を納めた御用菓子司で、明治維新後の1877年(明治10)に創業した老舗です。

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 大正時代に先代が初めて商品として売り出し、今や押しも押されぬ仙台名物となった「づんだ餅」」(上右写真/ 3個入税込561円)は、一粒づつ枝豆の薄皮を除く手間を惜しまない製法ゆえのクリーミーな食感と風味が魅力。桜餅、すあま、健康大福など、いずれも朝から仕込みを行うご当主の丁寧な仕事ぶりが光ります。

 現在の業態としては4代目のご主人、村上康雄さんが気が向かないと作らないという、和洋折衷な「いちごショコラ大福」(下写真)が、幸運にも「いちごミルク大福」(各292円)とともに残っていました。

ichigo-chocola-daifuku.jpg その日がバレンタインデーで、少し多めに作ったのかもしれません。モチモチした求肥に包まれたふんわりとしたチョコレートクリームに1個丸ごと入った甘酸っぱい仙台イチゴ。それらの風味が混然一体となって絡む鉄板の組合せを味わえるのは、5月末まで。

 資料館を2月なかばに訪問しておきながら、多忙を極めた3月を挟んだため、ご紹介がすっかり遅れてしまいました(滝汗)。なれど、榴岡公園の桜が見頃を迎えるタイミングと重なったのは怪我の功名。残り6日を残すのみとなった「餅モチ ~ハレの食~」。〝花より団子〟は風流を解さない無粋を指しますが、この春の狙い目は、花と団子の一石二鳥。

 未訪の方は、榴岡の桜を愛でながら、ラストチャンスのこの機会にぜひ!!

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仙台市歴史民俗資料館 特別展「餅モチ~ハレの食~」 
●会期:2015年4月12日(日)まで 
●入館料:一般・大学生200円 高校生150円 小中学生100円 
 ・住:仙台市宮城野区五輪1-3-7(榴岡公園内)
 ・開館:9:00~16:45(入館は16:15まで)  ・休館日:毎週月曜日
 ・Phone:022-295-3956
 ・URL: http://www.city.sendai.jp/kyouiku/rekimin/
(※注:村上屋餅店やエンドー餅店(青葉区宮町)などの老舗では、「ずんだ餅」ではなく、旧仮名遣いの「づんだ餅」を使用。なお、特別展では餅の試食や販売は行いません)


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