あるもの探しの旅

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2015/08/23

知 覧 茶

70年目の夏に思う

 あまねく人は、生きる時代を選ぶことはできません。

 70年前までの日本では、個の意志では抗うことが出来ない大きな時代の潮流が存在していました。70年前の出来事は、もはや歴史の領域に入りますが、私たちの父母や祖父母が生きた時代であり、決して他人事ではありません。

 現行の日本国憲法で国民主権、言論・表現の自由が保障され、戦争放棄を宣言した戦後の視座から歴史を俯瞰することは現代人の特権です。それをどう生かすのか、思うところがあった今年の夏でした。

 70年前。大日本帝国憲法で認められていた臣民の権利は〝法律の定める範囲内〟という制約がありました。現行憲法では誰も侵すことが出来ない基本的人権を当然のこととして享受する戦後世代の目で見れば、国のありようが全く違いました。

KAHOKU_1945.8.11.jpg【Photo】昭和天皇が玉音放送で敗戦を告げる4日前、1945年8月11日の河北新報1面(部分)。報道機関への徹底した言論統制により、刀折れ矢尽きた満身創痍の状況にあっても「國民一億特攻隊たらん」と民衆は鼓舞されていた。同年3月の東京大空襲をはじめとする都市部への空襲の激化で地方への新聞輸送が不可能となり、朝日・毎日・讀賣報知の題号を各県地方紙の題字下に記載する「持ち分合同」の状況下で発行された。資材困窮のため、この頃の新聞は2~4ページ建て

 19世紀初頭までにアフリカや東南アジア諸国を植民地化していったイギリス・フランス・オランダなどに伍するべく、日清・日露の戦いで獲得した朝鮮半島や台湾・満州・南樺太といった領地にも展開した軍を指揮する統帥権は、大日本帝国憲法のもとでは天皇に帰属。結果として中国・遼東半島の警護にあたった関東軍の自作自演による柳条湖事件(1931.9)に端を発する満州事変、そして盧溝橋事件(1937.7)が発火点となった日中戦争、さらに真珠湾攻撃(1941.12)まで突き進む軍部の暴走を招く結果を招きます。

Japanese_trillion_balls_of_fire.JPG【Photo】国民生活を戦時一色に締めつける役割を果たしたオール与党化よる「大政翼賛会」が掲げた戦時スローガンの一例。国策遂行のための宣伝手段として、言論統制を担った内閣情報部が1938年から発行した週刊グラフ誌「寫眞週報」と共に仙台市歴史民俗資料館に展示されている

 「八紘一宇」を掲げ、東アジア諸国に軍事進出を図る軍政優先のため、「大政翼賛会」は〝挙国一致〟〝ぜいたくは敵だ!〟といった官製標語で国民生活の締め付けに躍起。国家総動員体制のもとで食料や生活物資は配給制となり、兵器生産のため金属類は供出を強制されました。一般公募で〝欲しがりません勝つまでは〟〝足らぬ足らぬは工夫が足らぬ〟といった戦時スローガンを唱え、鬼畜米英への敵愾心を煽っていました。

KAHOKU_1945-8-5.jpg【Photo】1945年8月5日河北新報(部分)。不足する労働力を補うため、12歳以上の女性で組織されたのが女子挺身隊。学校での授業は行われず、もんぺ姿に必勝の鉢巻を締め、軍需工場などでの勤労奉仕や銃剣や竹槍の訓練に励んだ(右上)。「これで仇打だ」の勇ましい見出しで紹介されているのは、松島の僧侶が考案した必殺の国民兵器「石弓」(右下)。この翌日、サイパンから飛来した大型爆撃機B29エノラゲイが原子爆弾を広島に投下した

 同年1月には、東條英機陸軍大臣が〝生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ〟の一節で知られる「戦陣訓」を示達。アリューシャン列島アッツ島・サイパン島・硫黄島・沖縄など、次第に敗色濃厚となる各戦線での一部民間人を巻き込んだ玉砕、集団自決の悲劇を生む素地となります。

 物量で圧倒する米軍の猛攻に歯が立たず、多くの艦船と艦載機を一度に失い、3,000名以上が戦死して戦局の転換点となったのがミッドウェー海戦(1942.6)。22,500名が戦死した揚句、西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島からの撤退(1943.2)を決断した大本営は、劣勢を公にはせず「転進」と称していました。

   
【Movie】米軍からは「Kamikaze attack」と恐れられた神風特別攻撃隊と米艦船が繰り広げた死闘。そして1945年10月21日、雨の神宮外苑競技場で挙行された出陣学徒壮行式の模様を伝えるニュース映像

 兵力不足を補うため、20歳以上の学生について徴兵猶予が撤廃されたのが1943年10月。翌年には徴兵対象が19歳に引き下げられ、およそ13万人の若者が出征してゆきます。物心両面で追い込まれた軍令内部で秘密裏に開発が進められ、やがて公然と語られるようになったのが、人間を肉弾として扱う特攻作戦でした。

 特攻機や特攻艇(人間魚雷「回天」)の操縦を短期間で習得させるには、知力に優れた高等学府で学ぶ学徒兵は、軍令部や指揮官にとって(本人が望んだ姿とはおよそかけ離れた人生の幕引きを余儀なく迫られ、若くして逝った特攻兵に対して甚だ不遜な表現ながら)願ってもない戦力だったはず。

KAHOKU_1944-10-28.jpg【Photo】〝日本の被害は過少に、米英の被害は過大に〟で首尾一貫していた大本営発表によるフィリピン・レイテ沖海戦のでっち上げ戦果を伝える1944年10月28日河北新報(部分)

 1944年10月、帝国海軍第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将(1891-1945)がフィリピン・マニラ基地に着任します。乗員もろとも爆装した戦闘機で敵艦に突入する特攻作戦について、指揮官は当初「統帥の外道」だとして消極的でした。逼迫する兵站と戦況の悪化を受け、同月25日のレイテ沖海戦において特攻作戦は初めて実行に移されます。

「神風(しんぷう)特別攻撃隊」として出撃した関行男大尉(23)率いる敷島隊の零戦が、250kg爆弾ともども米国・豪州の艦隊に突入。大型の正規航空母艦の半分程度の大きさの米護衛空母セントローは、弾薬庫の誘爆を引き起こし撃沈。これが海軍軍令部内で搭乗兵の死と引き換えの〝一機一艦轟沈〟という特攻への過大評価を生む結果を招きました。

KAHOKU_1944.11.3.jpg【Photo】1944年10月20日、大西司令長官臨席のもとフィリピン・クラーク基地群のマバラカット飛行場で結団式が行われた「神風特別攻撃隊」。同25日、足を負傷していた第201海軍航空隊司令の山本栄大佐と同副長玉井浅一中佐の立会いのもと、別れの水盃で特攻出陣する関隊長(左端)率いる敷島隊。1944年11月3日河北新報(部分)より
 
 河北新報紙面(1944.10.28)では、特攻は日本精神の発露であり、世界に例を見ないこの極限の武器に対抗しうる手段は存在しないとする東北大学の前身である旧制第二高等学校の校長職を前年に退官した阿刀田令造(1878-1947)の「新兵器體當り」の見出しを掲げる一文が掲載されました。戦時下の新聞・ラジオは大本営発表による嘘で固めた水増し戦果を伝えており、特攻が当時の日本人の心に引き起こした興奮ぶりを物語っています。

 表向きは志願制とされた特攻による戦死者は陸海軍合わせて6,418名(特攻隊戦没者慰霊顕彰会調べ)。前途有望な若者の犠牲を前提とする理不尽極まりない無謀な作戦に手を染めた参謀や現場指揮官、そして特攻兵を神格化して報じた報道機関、兵士を前線に送り出した当時の日本人は、一蓮托生の同時代人にほかなりません。

KAHOKU_1944-11-12.jpg【Photo】レイテ沖海戦で初出撃した神風特別攻撃隊の敷島隊5名。特攻隊員は出撃前から「神鷲」と称して神格化された。大本営が「特別攻撃隊」という表現を初めて使ったのは、真珠湾攻撃で実戦に投入された魚雷2本を搭載する2人乗り特殊潜航艇「甲標的」。片道分だけの蓄電池が動力ゆえ、帰還を想定せずに出撃し、戦死した9人は二階級特進(捕虜となった1名は対象外)。特攻ではそれが慣例化する。1944年11月12日河北新報(部分)

 薩摩半島の南、知覧(ちらん)陸軍飛行場に報道班員として滞在し、多くの特攻兵に接した高木俊朗(1908-1998)の求めに応じ、出撃前夜に「所感」を残したのが上原良司大尉です。1922年(大正11)長野に生まれ、慶応義塾大経済学部在学中に学徒出陣。1945年5月に沖縄戦における陸軍の特攻作戦の拠点となった知覧より出撃、沖縄嘉手納湾で戦死しました。享年22。

 上原大尉は、軍国主義一辺倒の当時、特攻隊員としては立場を公にすることが憚られたであろう自由主義者と自らを規定。人間の意志で自己実現を可能にする自由主義の勝利とファシズムの敗北を予見しています。1949年10月に出版されベストセラーとなった戦没学生の遺稿集「きけ わだつみのこえ」巻頭に収録された所感だけでなく、避けられぬ死を前に、頭脳明晰な青年らしい自意識の発露として学徒兵たちが遺した言葉は、70年の時を経た今も胸を打ちます。

KAHOKU_1945.7.15.jpg【Photo】敗戦1か月前の1945年7月15日付河北新報(部分)に掲載された陸軍第六航空軍の特攻基地で機体整備を受ける陸軍三式戦闘機「飛燕」(左上)。特攻機は250kg爆弾を装填し650km離れた沖縄まで3時間を要して飛行するため、機銃や無線などの計器を外し機体を軽くしていた。太平洋戦争末期には、機材が不足し、老朽機や練習機を投入せざるを得ず、大本営発表によるこの写真の撮影時期は早い時期の撮影かもしれない。基地の所在は極秘だったため、〇〇基地とだけ記載されている

 戦後、高木俊朗は、従軍体験を基に戦争の内実を文筆活動を通して問い続けました。旧軍関係者への聞き取りや資料調査を通して戦後20年目に著した「特攻基地 知覧」によれば、陸軍の戦闘機に搭載可能な陸上攻撃用爆弾を装着した航空機が体当たりで敵軍艦を撃沈できるのは、小型艦船かセントローのように艦船内の弾薬庫に誘爆する偶然が味方しなければ無理である事実を、1943年に茨城・鉾田飛行学校で行った実験の結果から作戦参謀は知っていたといいます。

 ところが、兵器の研究開発を行っていた第三陸軍航空技術研究所の所長が〝体当たり攻撃は日本精神の発露ゆえ、日本人の精神力をもってすれば、計算外の威力で敵艦を必ず撃沈可能だ〟と主張。報告を受けた参謀も先行する海軍の後塵を拝してはならじと作戦決行に踏み切ったというのです。科学技術は万能ではありませんが、航空技術開発の責任者にして、こうした精神至上主義を振りかざしていました。

873-chiran.jpg【Photo】太平洋戦争後期に実戦投入された「陸軍四式戦闘機 疾風(はやて)」。富士重工業の前身である「中島飛行機」製。唯一現存する機体は鹿児島県南九州市の「知覧特攻平和会館」(下写真)で公開されている © K.P.V.B

 運命のいたずらで生き残った隊員の証言から、少なからず特攻は命じられていたことが現在では明らかになっています。その指揮官たちは「我々もすぐ君たちの後に続いて飛び立つ」と言いつつ、悲壮な覚悟で出撃する特攻兵を次々と送り出しました。連合国側の論理で裁かれ、戦争犯罪人として戦後処刑された東條英樹などを除き、特攻を命じた指揮官は、そのほとんどが戦後まで生き延び、人生を全うします。

chiran-museum.jpg【Photo】旧知覧町が1975年に開設した「知覧特攻遺品会館」を拡充、1987年に竣工した鹿児島県南九州市「知覧特攻平和会館」は、知覧飛行場跡地の北端に建つ

 数少ない例外は、レイテ島沖海戦直前の1944年10月15日、フィリピン防衛が任務の海軍第26航空戦隊の指揮官だった有馬正文少将(1895-1944)。「戦争では年長者がまずは逝くべき」と制止を振り切って一式陸攻に乗りこみ、敵艦を目指してクラーク基地を離陸したまま消息を絶ちます。現場指揮官が率先垂範したのでは都合が悪かったのでしょう。海軍省と軍令部はこの事実をほぼ黙殺。関大尉ら敷島隊の敵艦突入だけを国民に知らしめ、国威発揚を狙いました。

 玉音放送直後に「停戦命令は出ていない」として部下を伴い特攻出撃を行ったのが、第五航空艦隊司令長官宇垣纏(まとめ)中将。そして敗戦の翌日未明、特攻兵と遺族へ詫びる遺書を残して自刃したのが大西瀧治郎中将。特攻を指揮した司令官たちは、特攻は志願制だったと口を揃え、その責任をひとり大西中将に負わせた側面がありました。

chiran-saruyama.jpg【Photo】日中戦争が3年目を迎えた1939年(昭和14)、サツマイモや茶畑が広がる知覧町西元木佐貫原地区に飛行場の建設が決まり、少年航空兵を養成する「大刀洗飛行学校知覧分教所」が日米開戦から間もなく開校。敗戦後すぐに滑走路や兵舎は取り壊され、かつての姿を取り戻した。飛行場跡を見下ろす小高い猿山からは、2本の滑走帯があった飛行場跡と、沖縄を目指して飛び立った特攻機が目印とした開聞岳が一望のもと

 GHQの占領下、極端な精神主義の悪弊に陥った戦前の反動で日本を覆った政治的作為のもとで編纂された「きけ わだつみのこえ」に対し、昭和史に詳しいノンフィクション作家、保阪正康氏(1939-)は著書「『特攻』と日本人」で、前者から漏れた学徒兵の心情にも光を当てており、特攻の実相をより多角的に知る手掛かりとなります。

 そこでは身体壮健で血気盛んな20歳前後の若者が、人生の終止符を打つ意味を煩悶しながら模索する姿が描かれます。世相が変化した現在では全く理解不能な「悠久の大義」や「七生報国」などの言葉を残し、彼らは皇国に殉じてゆきました。徹底した軍国主義教育によって人格が解体された帰結として片付けられるほど事は単純ではないように思えます。

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chiran-2014-sign.jpg【Photo】国破れて山河あり。特攻隊には飛行経験が少ない学徒兵や少年兵が指名され、初出撃が最後の出撃を意味した。エンジンを全開にして離陸後、飛行場上空を右旋回しながら翼を上下に振って見送る人々に別れを告げ、南へと飛び立っていったという。主滑走帯が延びていた北北西方向に猿山がある。現在「特攻機発進の地」と刻まれた石碑(左写真)が立つそこは、開戦前の茶畑やサツマイモ畑に戻っており、70年前の様子を窺い知ることは難しい(上写真)

 すでに確定した過去の歴史に〝もしも〟を持ち込むことは空しい試みですが、北海道を除く日本本土への空襲が可能となることを意味するサイパン島の陥落(1944.7)時点で、もしも日本が連合国側に講和を申し出れば、その後の展開はどうなったでしょう。

 日本軍が住民を楯にした結果、米軍による非戦闘員への殺戮が繰り広げられた沖縄戦(1945.3-6)や、一夜にして10万人が犠牲となった東京大空襲(1945.3)など都市部への無差別爆撃と同様、明らかに戦時国際法に抵触する広島・長崎への原爆投下(1945.8)、米英に対する仲介の打診を無視し、対日参戦したソ連が引き起こした残虐な葛根廟事件、シベリア抑留による30万以上の犠牲も免れることが出来たはず。太平洋戦争における310万人にのぼる邦人の犠牲は、大幅に少なくて済んだことは論を待つまでもありません。

chiran-entaigo-2014.10.jpg【Photo】米軍機からの空襲の標的となった知覧飛行場では、爆発から特攻機を守るため、高さ4mほどの土塁をコの字型に築き、樹木の枝で覆い隠すシェルター「掩体壕(えんたいごう)」に戦闘機を格納していた。これは掩体壕周辺の茶畑

 激動の昭和という時代は、玉音放送が流れた1945年8月15日正午を分水嶺として、いわば分厚い水槽で隔てられた水の中と外とに世界が隔絶されてしまった感があります。自由に呼吸ができる陸上からは、水中は歪曲した姿にしか映りません。戦前と戦後には時間軸だけではない決して越えることが出来ない深い溝が横たわっているように思います。

 戦前の極端な精神主義の反動としての戦後的な価値観で、過酷な時代背景の中で死を選択せざるを得なかった特攻隊員に犬死の烙印を押すのは、いささか傲慢に過ぎるのではないでしょうか。かといって英雄として特攻作戦をいたずらに美化するのでは、生を享けた時代に絶望し、散っていった若者の深い悲しみを共有することもできないはず。

chiran-bronzo.jpg【Photo】知覧特攻平和会館の敷地に立つ特攻勇士の像「とこしえに」は、愛媛県西条市出身の彫刻家、伊藤五百亀(いおき)氏の作

 戦前の日本は、偏狭なナショナリズムを煽動する国家指導者の暴走を許し、明治維新以降の国の舵取りを誤ったツケを前途ある若者に支払わせました。2年前、政権与党が国内外からの慎重な審議を求める声を押し切った特定秘密保護法と同じく、安全保障関連法案が衆院本会議で7月に強行採決されました。〝戦後レジームからの脱却〟を目指す現政権が示す国の姿(⇒《脚注》参照)には、拭い去ることが出来ない不安の影がつきまといます。

 70年前、多大な犠牲を払って日本は二度と戦争をしない誓いを立てました。以来、表向き日本は平和を謳歌してきましたが、世界に目を向ければ、争いが絶えたことがないのも厳然たる事実。今年、戦後生まれが人口の8割を越えたといいます。10年後、私たちは戦前・戦中を知る世代の体験を肉声として聞くことが困難になっているでしょう。子や孫の世代に昭和史の悲劇を繰り返させてはならない重い責務が私たちには課されているのです。

874-chiran.jpg【Photo】知覧特攻平和会館の展示より。知覧に配属された元特攻隊員で、今年4月に90歳で亡くなった板津忠正氏は、特攻隊員が集う「富屋食堂」の鳥濱トメ(1902-1992)さんと知覧で再会した時、「生き残ったのは、何かをせねばならないからだ」と諭された。郷里であった名古屋市役所職員を54歳で早期退職。遺品探しに奔走し、1,036名全員の遺影・遺品を、館長職の事務局長を自身務めていた知覧特攻平和会館で展示することが叶ったのは1995年。 © K.P.V.B

 国家が主導した昭和史最大の悲劇ともいうべき特攻。その実相をこの目で確かめ、自らの来し方を振り返り、これからの指針とする意味で、戦後70年の節目に訪れたのが、太平洋戦争末期の沖縄戦で陸軍の特攻前線基地があった鹿児島県南九州市知覧町です。

 太平洋戦争末期の沖縄戦における特攻基地は、九州各地と台湾に点在していました。4,174人が犠牲となった神風特別攻撃隊の名称で統一していた海軍は鹿児島の鹿屋などから出撃。一方、陸軍の特別攻撃隊は、439人の知覧が最多で、2,244人が帰らぬ人となりました。

56.jpg【Photo】特攻隊員が富士山に似た姿を目に焼き付けて南方へと向かった薩摩半島南端の開聞岳(924m)。その裾野にも国内産出量の2割を占める全国第2位の茶処・鹿児島を支える茶畑が広がる © K.P.V.B

 沖縄戦に出撃して亡くなった隊員1,036名の出身地は、当時日本領だった樺太・朝鮮を含む47都道府県全てに及びます。東京の86名を筆頭に、愛知43・鹿児島40と続き、東北では青森7・岩手18・宮城27・秋田9・山形10・福島22。

 かつての飛行場跡地には、沖縄戦で亡くなった陸軍特別攻撃隊全員の遺影と遺書・遺詠などを展示する「知覧特攻平和会館」があります。これは1945年5月に特攻隊員として知覧から出撃するも機体の不調で徳之島に不時着し、再出撃の命令が下らぬまま終戦を迎えた板津忠正氏(1925-2015)が、旧厚生省復員局の名簿をもとに全国各地を回って蒐集した遺品を展示し、教訓を後世へ伝えようという施設です。

te-chiran.jpg 知覧特攻平和会館へと続く沿道には、近年になって奉納された特攻隊員の姿を刻んだ石灯篭が、数え切れぬほど並び、御霊よ安らかなれの願いが街中に満ちているのを感じます。ある程度の特攻隊に関する予備知識は持ち合わせているつもりで知覧を訪れましたが、国難に殉じた兵士が遺した肉筆や遺品に直接触れるうち、やり場のない怒りと深い悲しみがこみ上げてきました。

 近代日本にあって、昭和10年代ほど国の指導者が劣化した時代は無かったと保阪正康氏は断じます。3年8カ月続いた太平洋戦争は、ある時期を越えて以降、国家間の軍事衝突の次元を超え、国家指導層が責務を放棄し、戦争終結を相手任せにし、ただ軍の体面を重んじる〝美学〟の領域に入っていたとも。

【Photo】知覧は鹿児島を代表するお茶の産地

 本来ならば人生の理想に燃える青年(最年少は17歳の少年も含まれていた!)に、逃れようのない死を強要した時代に対する痛烈な反省を忘れた時、日本は再び取り返しのつかない過ちを犯しかねません。不条理な時代を受け入れた特攻隊員の葛藤を知るにつけ、同情を禁じ得ません。どんな時代にあっても普遍的な生命尊重の大原則は守られるべきもの。

 出撃する特攻兵は水盃で出撃してゆきました。それから70年。一服の知覧茶に彼らの無念の思いを噛みしめる夏なのです。

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《注》 自民党の「日本国憲法改正草案」では、国民の生命、自由、幸福を追及できる権利は、公の秩序に反する場合は制約を受けると読み解ける(第13条)。現行憲法では「侵してはならない」思想と良心の自由は、(時の政府が)「保障する」(第19条)可塑的なものへと変質。「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができ...(中略)国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない」(第99条)。政令は法律とは違い、国会審議を経ずに内閣の一存で定めることが出来る。安保関連法案の前提となる集団的自衛権に関する憲法解釈変更をなりふり構わず押し通した現内閣のやり口そのままに。これは近代法の模範となった独ワイマール憲法第48条「国家緊急権」を楯に「全権委任法」を成立させ、一党独裁を確立したアドルフ・ヒトラー率いるナチス党が、第二次世界大戦に突入していった経緯と恐ろしいほど酷似している。


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