あるもの探しの旅

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2015/12/27

Io sono il feticismo di cuoio capitolo 3】

私、革フェチなんです 【第3幕】

クセに なりそう なってます。
肌に吸いつく魅惑のナッパレザー


 従前よりViaggio al Mondo をご愛読いただいている皆様は、庄イタが「革フェチ」であることを、先刻ご存知のことと思います。念のため申しておきますと、制服フェチの芸人が先日逮捕されて世間を騒がせましたが、革フェチには反社会性はございません。

 「革フェチ散財記」(2013.7拙稿参照)において、革を格子状に組み合わせる技法「イントレチャート」への偏愛ぶりを語ったのが BOTTEGA VENETAボッテガ・ヴェネッタ。そしてコインケースや名刺入れを「Io sono il feticismo di cuoio 私、革フェチなんです。(2010.12拙稿参照)で取り上げたPeroni ペローニなど、MADE in ITALY のハンドメードによる魅惑的な皮革製品が、庄イタの身の回りには少なくありません。

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【Photo】美の殿堂のようなフィレンツェで培われた皮革加工の伝統技術の結晶がPeroni ペローニの皮小物。その茶色のコインケースは、仙台銘菓「玉澤総本店 黒砂糖まんじゅう」と重なって見えてしまいます。それを実証した〝革フェチまんじゅう〟(2010.11拙稿参照)の元ネタとして取り上げた前回5年前から代替わりしながら使い続けているのがPeroni のコインケースと名刺入れ。縫い目がない一枚皮仕上げによる滑らかな曲線で構成されたフォルム。革フェチの動かぬ物証その1&2

 丹念な手作業による仕上げの良さ、使うたびに手で触れ、肌で感じる心地良さ。そしてイタリアンデザインならではの美しいフォルム。職人の手仕事フェティシズムに火がついてしまうと、容易にはその魔力から離れられなくなってしまいます。それが直接身につける靴や手袋などとなれば、なおさらのこと。

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【Photo】履き心地の良さとフォルムの良さを兼ね備えたイタリア靴コレクションより。革フェチの動かぬ物証その3&4&5。(左より順に)美食とポルティーコと斜塔と靴の街、ボローニャで1958年に創業したGianfranco Pini ジャンフランコ・ピーニ製メダイヨン装飾ウイングチップ。GUCCI グッチのビットモカシンは、黒を履き継いだこれが3代目。セットアップのジャケットスタイル用に一昨年購入したロングノーズのスリッポン・ローファー。靴好き垂涎の某「● erulutti」とデザインがほぼ共通のイタリア製

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【Photo】革フェチの動かぬ物証その6alfa Brera の革シートは、オプション設定だったイタリアを代表する家具ブランドPoltrona Frau ポルトローナ・フラウ製を指名。暖房機能付きで真冬のドライブでも優しく背後から暖かく包み込む官能的な触感は、まるで女性の滑らかな肌のようだった...。と、今はもう手放したクルマと別れた女性に思いを馳せ、革フェチならではの妄想と感傷に浸ってみる(笑)

 革フェチぶりの披歴ついでに、物証その7の前段となる参考品としてお示しするのが、茄子紺のハーフコート(下写真)。前々回「Principe di Salinaサリーナ侯爵」で、画像とともにご紹介したPiacenza のピュアカシミアは、濃紺のロングコートでした。残るもう一着のピュアカシミアコートがコチラ。

 ドレッシーな印象となる濃紺のロングコートはダークスーツと好相性。一方でこのハーフコートは、スーツやジャケット&パンツは無論のこと、休日の比較的カジュアルなスタイルで、素材感が近いウールのボトムスとの着回しにも対応可能です。

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 オンタイムユースの脇役には、馬蹄をかたどったアルファベットの〝A〟がアイコンとなる「AIGNERアイグナー」のA3サイズより若干小さめのカーフレザーバッグ(下写真)を使っています。

 ミュンヘン発祥のアイグナーは、ドイツ語で〝Chianti-Rot(キアンティの赤)〟と呼ばれるエンジ色がイメージカラー。カーフレザーの皮革製品で定評あるブランドです。濃紺にしろ、茄子紺にしろ、コートとの色の相性が良いので重宝しています。

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【Photo】革フェチの動かぬ物証その7。ドイツのブランドながら、本拠地のミュンヘンはイタリアとも近く、革製品は人材と技術の蓄積があるフィレンツェで製造するケースが少なくないというAIGNERのレザーバッグ。大切に使えば、新品時とそう変わらない高いクオリティが損なわれることはない

 生後6か月以内の仔牛の皮は表面が滑らかで、空拭きや栄養クリームなどの手入れをしておけば、色つやが褪せることはありません。ドイツブランドらしい飽きのこないオーセンティックな定番デザインと、型崩れしない堅牢な作りは定評あるところ。実際のところ、四半世紀に及ぶ庄イタの使用に耐え、ご覧の通りの高い質感を今なお保っているのですから、大したものです。

 なれど、デザインの美しさを重んじるイタリア人の感覚からすると、ドイツ製品は質実剛健ですが、今ひとつ〝華〟がない印象があります。そのため現在では、2着のピュアカシミアコートとの組み合わせ限定で、冬場だけ活躍してくれています。

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 革製品といっても、使用する素材と鞣(なめ)しの良し悪しによってクオリティは千差万別。皮革用として一般に加工される素材の中で、最も柔軟性に富むのが羊革です。キメ細やかでソフトなその感触は、まるで赤ちゃんの肌のよう。

 ピュアカシミアとの組み合わせにおいて、相性が最もよいと目されるのが、羊革でも最もキメ細やかで柔らかいラムスキンを加工したナッパレザーです。上質な鞣しを施したナッパ革は、セミマットな表情で、肌に吸い付くような触感があり、手の微妙な動きを損なわないため、手袋には理想的な素材となります。

 Piacenza の茄子紺のコートの襟元には「L'anima d'Italiaイタリア魂」(2015.9拙稿参照)の冒頭に登場したErmenegildo Zegna エルメネジルド・ゼニアのスカーフを、袖口にはこの極めて質感が高いラムナッパレザーの手袋を組み合わせています(下写真)

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【Photo】革フェチの動かぬ物証その8。細身のフォルムで、とろけるように柔らかく、しっとりとしたデリケートな触感のラムナッパレザーを用いた「Correalegloves コレアーレグローブス」の革手袋。心地良い革の感触を確かめるべく、意味もなく手袋のまま頬をスリスリすることが増えたかも

 柔軟なナッパレザーは、革素材の中でも、とりわけ伸縮性に優れています。そのため、手袋の使用後には縦方向に引っ張ると、多少の型崩れは元に戻ります。それでも10年以上使ってきた「Sermoneta Gloves セルモネータ・グローブス」の手袋には、ここ最近ヘタりが出てきました。

 昨年から後継となる革手袋を探してきた今シーズン。「阪急メンズ」の店頭で質感の素晴らしさに〝ビビ・・っ〟ときて即買いしたのが、ナポリで1986年に法人として創業した「Correalegloves コレアーレグローブス」のナッパレザー製手袋。PRADAほか世界のハイエンドブランドから手袋製造を委託される逸品中の逸品たる素材と仕立ての違いは、表裏一体の仕上げが施されたカシミアの裏地に手に通してすぐにわかりました。

correalegloves-2.jpg【Photo】Correalegloves 製手袋の裏地にはカシミアを使用。手首に馴染むよう半円形にカットされ、ギャザーの入ったが袖口が寒気の入り込みを阻む。シルエットの美しさと縫製の良さが光る

correalegloves-logo.jpg クラシコ・イタリアの聖地ナポリ発の手袋ブランドというと、1870年創業の老舗「Merola メローラ」が有名です。ほぼ同価格帯となるCorrealegoves の出発点は、小さな工房からスタートした1960年代のはじめ。素材選びとハンドメード技術の確かさに裏打ちされた仕立ての良さは、使うたびに実感できます。

 暖冬気味で、年の瀬を迎えた実感が伴わない2015年も残すところわずか。寒さ本番を迎えるこれからの季節、ハートまで暖めてくれる官能的なラムレザーの逸品を取り上げ、ヒツジ年のViaggio al Mondoを締めくくることにします。

 どうぞ皆さま良い年をお迎えください。
 Buon Natale e Felice anno nuovo!
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2015/12/20

La Fontane di Roma a casa mia

出現、ローマの噴水 @我が家

 良く言えば臨機応変。率直に申せばユル~い国民性ゆえの、イタリアでは往々にしてある「エェーっ!?」という予想だにしない展開。かかる事態への(前世)イタリア人流対処法と、そんな時に冷静さを取り戻すため、想起した曲について今回は語ります。

 先行きが見通せない今の時代ではありますが、ご紹介する事例が極端なレアケースのため、ほとんど役に立たないであろうことをお含みの上、お付き合いください。

showerhead2.jpg 2011年3月11日に発生した東日本大震災で、庄イタが暮らす仙台市青葉区は震度6弱の揺れに見舞われました。

 5分近く続いた強烈な揺れに耐えた自宅は、幸いにも基礎から躯体に至るまでビクともしていません。

 とはいえ築14年が経過した拙宅では、耐用年数が経過した住宅設備機器まわりで、ちょっとした不具合が発生するようになってきました。

 12月16日の夜、トラブルは何の予兆もなく発生しました。それは14回目の冬を迎えたリビングルームの温水ルームヒーターが故障したのと奇しくも同じ日のこと。

 皆さんも家電品や住設機器の故障って、不思議とタイミングが重なったりしませんか? テルマエ(バスルーム)壁面のフックからシャワーヘッドを取り外そうと手をかけた瞬間、予期せぬ事態が発生したのです。

shower-head.jpg なんと、ホースとの接続箇所で、樹脂製のシャワーヘッドが根元からポキッと折れてしまったではありませんか。

 ボディの外装部品がポロっと外れたり、雨が降るたびにエンジンが不調をきたす故障が頻発したAlfa Brera(通称:イタ車≒痛車)で懲りている庄イタ。「この壊れ方はイタリア製か?」と一瞬疑いましたが、シャワーはれっきとした日本製でした。

【Photo】床に落下させるなど、激しい衝撃が加えたわけでもないのに、根本から折れてしまったのが、14年間使い続けたシャワーヘッド(右写真)。まともにシャワーが使えない状況をいつまでも放置できないため、節水機能付きのシャワーヘッド(上写真)を新たに購入し、DIYで装着

 事態をすぐには飲み込めず、シャワーヘッドだけでなく心まで折れそうになりましたが、なにはともあれ頭を洗わなくてはなりません。

 そこで慌てず騒がず、壁面のフックに取り残された接続箇所に残った付け根のネジ部分の残骸を取り出しました。そしてフックに戻したシャワーヘッドが無いホースの先端から、モノは試しにお湯を出してみると・・・(下写真)。 

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 当然といえば当然ですが、ホースの先端からは、青森・酸ヶ湯温泉の名物「千人風呂」の打たせ湯「湯瀧」さながらに、お湯が弧を描いて噴出するという自宅のテルマエでは14年目にして初めて目にする新鮮な光景が出現したのです。^ ● ^;

 そのありさまから頭に浮かんだのが、オットリーノ・レスピーギ(1879-1936)が作曲し、1917年3月11日にローマで初演された交響詩「La Fontane di Roma (ローマの噴水)」冒頭〝La fontana di Valle Giulia all'alba 夜明けのジュリア谷の噴水〟の旋律。

fontana-di-Villa-Medici.jpg【Photo】ローマの街並みを一望するスペイン階段を上った先の高台にあるヴィッラ・メディチの庭園にある噴水を描いた19世紀の絵画。レスピーギは、夕闇迫る黄昏時が最もふさわしい噴水として、交響詩「ローマの噴水」第4楽章で取り上げた

 「ローマ三部作」と呼ばれる「ローマの松」、「ローマの祭り」の中では、最も早い時期に作曲された交響詩がローマの噴水。レスピーギは、ローマに実在した4カ所の噴水を、それぞれ最も周囲の風景と調和する1日の時間の移り変わりごとに取り上げています。

 第1楽章〝夜明け〟はジュリア谷の噴水。第2楽章〝朝〟がバルベリーニ広場にあるトリトーネの噴水(2015.9拙稿:「L'anima d'Italia イタリア魂」参照)。第3楽章〝真昼〟は1年半に及んだ修復を先月初旬に終えたばかりのトレヴィの泉(下写真)。第4楽章〝黄昏時〟がボルゲーゼ公園の南隣りにあるヴィッラ・メディチ庭園の噴水(上写真)

primo-fontana-trevi.jpg【Photo】今から〇年前、観光客でごった返すトレヴィの泉にて。恐らく世界で最も有名なこの噴水を庄イタが初めて訪れたのは、5月の真昼の出来事だったことを思い起こさせる1枚

 第2楽章以降の3か所は題材となった噴水の特定が容易です。唯一はっきりしないのが、冒頭に登場するジュリア谷の噴水。ローマ北部の高級住宅地パリオリからボルゲーゼ公園北側にかけての「Galleria Nazionale di Arte Moderna 国立近代美術館」がある一帯を指す古い地名であるValle Giulia 。そのいずれの噴水が題材となったのかは特定できないのだといいます。

【Movie】朝もやに包まれた牧歌的な風景が目に浮かぶ木管楽器による情景表現が見事な交響詩「ローマの噴水」第1楽章「夜明けのジュリア谷の噴水」。1917年のローマにおける初演は失敗したものの、名匠トスカニーニによる再演が成功。作曲家としてレスピーギが歴史に名を残すきっかけとなった

 創作活動の傍ら、16世紀に創設されたサンタ・チェチーリア音楽院で教鞭をとるなど、ローマで活躍したレスピーギが、この曲を完成させた1916年から来年で100年が経過します。2000年前に敷設された上水道を今も水源とする噴水に限らず、いたるところに悠久の時を刻む歴史の痕跡を残す永遠の都ローマ。

Fontane_Oscure-Borghese.jpg【Photo】「ローマの噴水」第1楽章のモチーフとなったジュリア谷付近。国立近代美術館(中央)と境を接するボルゲーゼ公園北端の噴水。これがレスピーギが題材とした噴水かどうかは定かではない

 そこではとりわけ早起きをして、ボルゲーゼ公園の北側とされるジュリア谷で夜明けの噴水についての謎解きをするのも一興です。そんな夢想へと誘ってくれた即席ローマの噴水@我が家。湯量と角度によっては、意外と難なく頭を洗うことができるという新たな発見がありました。

 とはいえ普通にシャワーを使えない状況を年明けまで放置するわけにもゆきません。はなはだ名残惜しいのですが、この週末に二代目シャワーヘッドへと代替わりし、我が家のテルマエ噴水は、あっけなく消えてしまったとさ。

 おしまい。
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2015/12/13

Principe di Salina サリーナ侯爵

Il Gattopardo
山猫の世界を体感するピュアカシミアコート


 路面に積雪や凍結がなく、雨が降らない限りは、真冬でも自転車を仕事中の移動や通勤の手段としている庄イタ。暖冬予想が出ている今年。現在のところは、あまり出番がないイタリア製のピュアカシミアコートについて今回は語ります。

 4.5万人の住民の多くが繊維産業に従事するBiella ビエッラなど、ピエモンテ州北西部のヴァッレ・ダオスタ州にほど近い風光明媚な地域は、羊毛を服地に洗浄加工する際に欠かせないアルプスの良質な伏流水が豊富。そのため高級服地ブランドの生産拠点が集中することで知られます。

【Movie】イタリア繊維産業の心臓部がピエモンテ州ビエッラ県。自然豊かな環境に恵まれた町Pollone ポッローネにある「Fratelli Piacenza S.P.A.」本社工場では、膨大な生地見本のストックを抱える

 アルプスの山懐に抱かれたコムーネのひとつ、Pollone ポッローネで、ピエトロとジョヴァンニのフランチェスコ親子が毛織物工場を創業したのが1733年。

 1799年にはトリノで服地店を開店。1814年にはLanificio Fratelli Piacenza と改称。産業革命が起きた19世紀に編み出された最先端の紡績技術をいち早く取り入れた進取の気性は、創業から250年の伝統を積み重ねた今日もFratelli Piacenza S.P.A. の企業精神として受け継がれています。

【Movie】ゴビ砂漠北方の外モンゴル地域産カシミア山羊の胸の部分から刈った柔らかな産毛を厳選。手間を惜しまぬ伝統技法を受け継ぐ「Fratelli Piacenza S.P.A. 」の珠玉のカシミア生地は、触れた途端に魅了されるような繊維の宝石と呼ぶにふさわしい心地良い質感を有する

 Piacenza ブランドが、1990年から特に注力しているのが高級カシミア生地です。普及品で用いる金属針ではなく、伝統的なCardo dei lanaioli (オニナベナ)の実を人の手で組み込んだローラーで生地の表面を梳(す)くことで生まれるのが、逸品の証となるシルクのような光沢と独特の文様。その手触りは特有のヌメリ感があり、肌を包み込むような柔らかさがあります。

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 鈎状の突起が密集するオニナベナで起毛加工を施した上質なピュアカシミアは、妖艶なまでの輝きを放ち、しなやかで保温性と吸湿性に優れ、着心地はあくまでも軽やか。天女が羽織る羽衣は、きっとこんな着心地なのでしょう。

 希少性の高い美しい光沢を放つPiacenza のピュアカシミアに魅了され、一生ものとして濃紺のロングコートと淡い茄子紺のハーフコートの2着を愛用しています。着用後のブラッシングを怠らなければ、高い質感が損なわれることはありません。

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 今回、取り上げるロングコート(上写真)は、東京支社勤務時代に銀座・並木通りのセレクトショップ「サンモトヤマ」のメンバーセール「サンフェア」で購入した「Principe di Salina プリンチペ・ディ・サリーナ」のブランドタグが付いた一着。

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 その名を聞いてピンと来る方は、筋金入りのイタリア映画通とお見受けします。1963年に劇場公開された巨匠ルキーノ・ヴィスコンティ(1906-1976)の映画「Il Gattopardo (邦題「山猫」)」の主人公、Don Fabrizio Corbera , Principe di Salina (ドン・ファブリツィオ・コルベーラ,サリーナ侯爵)を連想させるからです。

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【Photo】当初はマーロン・ブランドを主役として想定していたというサリーナ侯爵。ハリウッド製フィルムノワールや西部劇への出演が多かったバート・ランカスターは、時代の荒波にのみ込まれてゆく威厳と憂いを湛えたシチリア貴族を演じ、新境地を開いた

 Il Gattopardo は、祖国統一運動でイタリアが混乱のさなかにあった1860年の物語。5月にガリバルディ率いる赤シャツ隊が上陸したシチリア島が舞台となります。18世紀からシチリアを支配していたスペイン・ブルボン王朝のもとでは、不在地主として体制側に属したサリーナ侯爵家。山猫を紋章とする名門シチリア貴族の目線を通して、民衆が台頭する歴史の転換点の中で、滅びゆく貴族階級の姿が描き出されます。

 ヴィスコンティが遺した17本の監督作品のうち12作の脚本を担当したスーゾ・チェッキ・ダミーコ(1914-2010)によれば、サリーナ侯爵は、貴族社会で育ったヴィスコンティ自身を投影した役柄だったといいます。侯爵を演じたのは、米国出身ながら見事なまでにシチリア貴族を演じきったバート・ランカスター(1913-1994)

 サリーナ侯爵家の当主たるバート・ランカスターは、185cmの身長以上に大きく感じる存在感を示しています。威厳に満ちた立ち振る舞い。伝統ある名門貴族の領袖たる気品。その一方で、抗いがたい時代のうねりに飲み込まれ、世代交代を迫られる者の諦念。やがて迫りくる死への怖れ...。

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【Photo】サリーナ侯爵にとっては華やかな舞踏会に身の置き場がなかった。疲れを覚えた公爵は裏部屋へと逃れる。死の床にある老人を描いたグルーズの絵画「義人の死」を前に物思いに耽るサリーナ公爵。胸に去来するのは自らに迫りくる滅びの予感

libro_gattopardo.jpg 人生経験を積み、酸いも甘いも知り尽くした男の魅力。50歳を目前にしていたバート・ランカスターの好演と、それを引き出した監督の眼力と手腕は、さすがというべきでしょう。

 原作は同じシチリア出身の貴族ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896-1957)の同名小説。ミラノを拠点とする貴族出身だったヴィスコンティが1963年に映画化した山猫は、同年のカンヌ国際映画祭で、最高賞のパルム・ドールに輝きました。

【Photo】 フランス語版を元に日本語訳した河出文庫版の山猫(2004年刊)に続き、2008年には待望のイタリア語の原作から翻訳された岩波文庫版(右写真)が刊行された

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 数え切れぬほどのロウソクが灯る大きなシャンデリアのもと、着飾った実際のシチリア貴族80名を含むエキストラ240名と出演者が優雅に舞い踊る絢爛豪華な舞踏会シーン(上写真)は圧巻の一言!!

 サリーナ侯爵が目をかけている甥タンクレディ(アラン・ドロン)の婚約者アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)から、是非にとせがまれてワルツの相手をする侯爵。衆目を集める2人にジェラシーを感じつつ見つめるタンクレディならずとも、庄イタから見ても堂々とした侯爵のエスコートぶりには惚れ惚れするほど(下写真)

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 名家の誇りを表現するのに欠かせない舞台装置のひとつが、丹念に作り込まれた衣装です。1951年公開の「ベリッシマ」以降、ヴィスコンティが手掛けた舞台や映画で、衣装デザインを担当したのが、1927年フィレンツェ生まれのピエロ・トージ氏。

 その証言によれば、ヴィスコンティは、幼少期から慣れ親しんだ貴族文化と時代考証をもとに、登場人物の衣装や帽子の微妙な色合いやデザインに関して事細かに指示を出したといいます。ハイレベルな監督の要求に応えるべく、舞踏会シーンのヘアメイク・裁縫師は総勢120名にも及びました。

 完全主義者として知られたヴィスコンティは、舞踏会の撮影だけで36日を費やしました。未明まで舞踏会が行われた広間の床には、ドレスから抜け落ちた鳥の羽根が舞います。幼少期の体験に基づくこうしたディテール描写には、ファシズムの反動から生まれたネオレアリズモ運動の旗手として〝赤い貴族〟と呼ばれた第二次大戦終結後間もない初期の作品にみられた徹底したリアリズムを見ることができます(下写真)

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 オープニングから全編を通して一幅の絵画のようなシーンが連続する山猫。VFX (特殊視覚効果)を多用する今日では、もはや再現不可能といわれるこの作品の日本における劇場初公開は1964年のこと。

dvd_gattopardo.jpg 当初は、作品の真価を理解しえない米国人監督が、この映画を語る時に欠かせない舞踏会の場面を25分もカットした英語版でした。現在は、舞踏会の場面が全編のおよそ1/3を占める186分に及ぶイタリア語完全版DVD(左写真)が紀伊國屋書店から発売されています。

 冒頭に登場するサリーナ侯爵邸は、パレルモ郊外に1768年に建てられた「Villa Boscogrande ヴィッラ・ボスコグランデ」。クライマックスの舞踏会が催されたドン・ディエゴ ポンテレオーネ公爵邸は、パレルモ市内に現存する「Palazzo Valguarnera-Gangi ガンジ宮」。そこに登場するシチリア貴族の衣装を観賞するだけでも見応え十分。

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 山猫は、「揺れる大地」(1948)や「若者のすべて」(1960)などの社会的弱者を取り上げた初期の作品から、「ベニスに死す」(1971)、「ルートヴィッヒ」(1972)、「家族の肖像」(1974)、遺作「イノセント」(1976)など、晩年においては〝滅びの美学〟を追求してゆくヴィスコンティの転機となった作品です。

 日本においても、戊辰戦争と西南戦争を経て武家社会が終焉し、明治維新を迎えて近世から近代への一大転換点となったのが1860年代。その時代に第4代バイエルン国王となり、作曲家ワーグナーと築城に莫大な国庫を費やした挙句、狂気の烙印を押され謎の死を遂げたルートヴィッヒ2世。

 映画「ルートヴィッヒ」について〝私は敗北を語り、孤独な魂、現実に押しつぶされた運命を描くことが好きだ〟とヴィスコンティは語っています。〝偉大なる敗北者〟という、巨匠が後半生を通して追求したテーマは、山猫にその萌芽をみることができるのです。

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【Photo】夜の帳が明けきらぬ日の出前。白み始めた東の地平線からは太陽に先駆けて金星が昇ってくる。夜の名残りともいうべき明けの明星の美しさは古来より人の心をとらえ、ラテン語で金星を指すVenus は女性美や愛の象徴とされた

 明け方に舞踏会が終わり、馬車に乗ってサリーナ邸へと戻る家族と離れ、ひとり歩いて帰ると告げるサリーナ侯爵。東の空が白み始めても消え残る星に、侯爵はこう語りかけます。

  おお星よ 変わらざる星よ
  儚きうつし世を遠く離れ 
  汝の永遠の時間に我を迎えるのはいつの日か?

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 ラストシーンは遠くに聞こえる晩鐘が響く路地裏へ消えてゆくコート姿のサリーナ侯爵。その後ろ姿には、時代の表舞台から去りゆく者の哀愁と、ひとつの時代の終焉とが重なって見えてきます。

 言葉巧みなイタリア人とて、大人の男は背中で語るのですよ。

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2015/12/06

再見。菓子の樹

蘇る昭和の記憶。
超能力シリーズ@福島・相馬


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【Photo】社会人として、庄イタがまだ駆け出しだった頃、公私ともにお世話になったのが、仙台が政令指定都市となる以前で、区制施行前の仙台市二十人町にあったケーキショップ「菓子の樹」。河北新報社が仙台圏で29万部を発行する月刊誌Piattoの前身にあたる河北アルファ1987年12月号に掲載された同店のペイドパブリシティ

 今日、仙台市営地下鉄東西線が開業し、来春にはJR仙台駅東西自由通路が拡充。エキナカを含む商業施設の集積が加速度的に進む仙台駅東口は、この先、装いを一新することでしょう。

 広瀬通りからJR仙台駅北側の線路を跨いでいた「X橋」の先で、道はかつて南北二手の細道に分岐していました。東行き一方通行の北側は鉄砲町。西行き一方通行の南側が二十人町。

 その昔、戦災による焼失を免れたこの地域は、古い木造家屋と低層の店舗が密集。大型商業施設やオフィスビルが集中する駅西側とは対照的な古い街並みがレトロな雰囲気を醸し出していました。

 現在、かつてのX橋は片側3車線の宮城野橋に架け替えられました。榴ヶ岡公園に向かう幅40mの都市計画道路「元寺小路福室線」が東西を貫き、仙台アンパンマンこどもミュージアムが開館。楽天Koboスタジアム宮城に向かう「宮城野通り」と国道45号線とに挟まれた仙台市宮城野区二十人町一帯は、〝駅裏〟と揶揄された昭和の面影は全くみられなくなりました。

Sendaieki-higashi_2015.12.jpg【Photo】駅西口の高層ビルAER(写真奥)から真っ直ぐ延びる片側3車線の都市計画道路「元寺小路福室線」に組み込まれた格好の二十人町。そこに「菓子の樹」があった頃は一方通行だった当時の街並みは、区画整理によって一変した

 1960年度に着手し、半世紀以上を要した大規模な区画整理事業。駅東口の複合ビルBiVi北隣にあったJR仙石線の仙台駅は、同線の地下化により15年前に廃止(「までぇに街いま」参照)。高層のオフィスビルやマンション、そして空地を転用した駐車場が目立つ没個性的で無機的な現在の街並みを見るにつけ、過ぎ去った時代にノスタルジアを覚える昭和世代の庄イタなのです。

mappa-sendai1969.jpg【Map】かつてのX橋と鉄砲町・二十人町周辺。現在もある榴岡小学校前の通りを除き、仙台駅東口周辺が、いかに現在とは異なるかが、一目瞭然。1969年(昭和44)発行の国土地理院仙台市街地図より(出典:21世紀版みやぎ地図百科 / 2001年河北新報社発行)

 元寺小路福室線沿いの現在地に移転する前の「いたがき本店」が、左側にあった二十人町の通りに面して手前右側に「菓子の樹」というケーキショップがありました。

 庄イタよりも幾分か年長にお見受けした女性店主の田中さんからは、相馬の実家から地飼いしているニワトリの卵を毎日取り寄せてケーキ作りに使っていることを当時伺っていました。クリスマスシーズンに社内でケーキの注文を取りまとめていた数店舗の中で、ケーキ好きの間で最も人気があったのが、菓子の樹だったと記憶しています。

 特に好きだったのが、洋酒をきかせた甘さ控えめのチョコレートケーキ(上写真左側)。良質な生チョコレートクリームでコーティングされたしっとりふわふわのスポンジ生地には、ふんだんにイチゴが挟み込まれていました。クリスマス時期だけではなく、ショートケーキでも店頭に出ていたため、しばしば買い求めていました。

kashinoki-bldg-soma.jpg そして時代は平成へと変わり、6年間の東京勤務から仙台に戻る頃には、区画整理事業によって、立ち退きが進み、空地が目立つようになっていました。そんな二十人町の街並みから菓子の樹は知らぬ間に無くなっていたのです。去る者は日々に疎し。激変した二十人町付近を通りかかっても、菓子の樹を思い起こすことは次第になくなってゆきました。

 それから20年近い時を経たつい先日。仕事で訪れた福島県相馬市でのこと。ちょうど昼時だったので、つきぢ田村で修業した親方が厳選した相馬の素材をビュッフェ形式で味わえるコスパ抜群の「までいにランチ」を頂こうと「割烹やました」を半年ぶりに訪れました。しかしながら、までいにランチは10月末をもって終了したとのこと。う~ん残念 !!

 そのため、スマホで検索したランチが充実したJR相馬駅近くの中華料理店「李龍(リーロン)」を訪れることに。初めて訪れる李龍の駐車場に車を停め、何気なく視線を送ったのが、向かいの5階建てビル。四角形の小さな看板に目が釘付けとなりました。

kashinoki-soma.jpg まごうことなく「菓子の樹」。1階は閉鎖され、テナント募集の表示があり、営業している様子はありません。連絡先の電話番号の主は「田中」とあります。間違いありません。見覚えのある茶色に白い文字の懐かしいロゴタイプを目にして、店の前に樹木が生えていた二十人町にあった当時の菓子の樹の記憶が蘇りました。

 李龍のフロア係の女性に訊ねたところ、以前は菓子の樹として営業していたものの、昨年秋からは空き店舗となっているのだそう。それまではパティスリー・シュシュという名のケーキショップとして人に貸していたとのこと。

riryu-hanakago-lunch.jpg【Photo】ズワイガニとレタスの炒飯・豚チリ卵・豚角煮・海老マヨ・生春巻・肉みそがけ豆腐・チーズ春巻・点心二種盛り・大根サラダ・玉子豆腐・杏仁豆腐。全11品の彩り豊かな味を楽しめる「李龍」冬かごランチ(税込980円・1日20食限定)。ジャスミンティーとコーヒーがフリードリンクサービスで付くという大盤振る舞い (◆李龍 / 住所:福島県相馬市中村1-2-6  Phone:0244-36-6833)

 偶然が重なった結果、ピンポイントで空白の年月をたぐり寄せ、懐かしい菓子の樹の消息を知っただけでも収穫でした。そのうえ李龍で食した「冬かごランチ」が、コストパフォーマンスが高い充実した内容で、ご覧の通りボリューミーであったことを申し添えておきます。

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