あるもの探しの旅

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善因善果 あるいは 因果応報

当選スマすたー

 サルデーニャ島とシチリア島が、紀元前8世紀から続いたカルタゴによる統治を離れ、イタリア半島を手中にしていた共和制ローマの領地となったのは、カルタゴに勝利した第一次ポエニ戦争(BC264~BC241)後のことです。

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【Photo】現在のチュニジア共和国の首都チュニス近郊の湖チュニス湖のほとりにあった都市国家カルタゴ(ラテン語:Carthāgō/イタリア語:Cartagine)。地図中では英語でCarthageと表記されているカルタゴが、紀元前3世紀初頭に勢力圏としていた地域が青の部分。北アフリカから西ヨーロッパの地中海沿岸地域にフェニキア人の入植都市を築いていた

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 西地中海一円に版図を広げつつあった共和制ローマの前に常に立ちふさがったのが、地中海交易で繫栄を謳歌したフェニキア人が築いた強国カルタゴでした。

 第二次ポエニ戦争(BC218~BC202)におけるトラシメヌス湖(現ウンブリア州トラジメーノ湖)の戦いやカンネの会戦で全軍殲滅の憂き目を見るなど、幾度となくローマ兵を苦しめたのが、人類史上屈指の天才戦略家ハンニバル。

【Photo】第二次ポエニ戦争でカルタゴ側についた古代都市カプア(カンパーニャ州カゼルタ県)で出土したハンニバル・バルカの胸像(ナポリ国立考古学博物館 Museo Archeologico Nazionale 蔵)

 難敵ハンニバル率いるカルタゴは、史上名高いザマの会戦で大スキピオことププリス・コルネリウス・スキピオ率いるローマに破れ、敗軍の将は命からがら逃亡。そして第三次ポエニ戦争(BC149~BC146)におけるカルタゴ包囲戦で陥落します。

 当時、カルタゴは少なくとも15万の人口を擁し、ローマとほぼ同規模の都市であったと推定されます。戦死や餓死をせずに生き残った女性や子どもを含む5万のカルタゴ人は、全て国を追われ奴隷として売り払われました。

Assaut_Carthago.jpg【Photo】紅蓮の炎に包まれて陥落するカルタゴ(19世紀の挿絵)

 700年にわたって栄華を誇った都市国家カルタゴは、積年の恨みを抱くローマ兵によって破壊の限りを尽くされます。小スキピオこと総司令官スキピオ・エミリアヌス指示のもと、ローマ兵によって火が放たれ、呪われた不毛の地とすべく大地に塩が撒かれます。

 その場に立ち会った歴史家ポリピウスによれば、小スキピオは燃え盛るカルタゴを前にして、地中海世界の覇者となったローマも、やがてはカルタゴと同じ道をたどる運命にあることに思いを馳せ、落涙したのだといいます。

Scipio_Carthage.jpg【Photo】3年に及んだ第三次ポエニ戦争の末、廃墟と化したカルタゴ。栄華を誇った強国の滅びを目撃したギリシャ人歴史家ポリピウス(右)は、38歳でカルタゴ包囲戦の総指揮を執ったスキピオ・エミリアヌス(左)が、いつか故国に訪れる同じ末路を思い、悲哀の涙にくれた史実を書き残した(19世紀の挿絵)

 第二次ポエニ戦争が勃発する3年前、遥か極東の地、中国に初の統一王朝が秦の国王・始皇帝により樹立されます(BC221)。乱世を平定した皇帝として権力を誇示した始皇帝の死後ほどなく、国家統一を成し遂げた秦は、漢の台頭により、わずか四半世紀で命脈を絶たれました。

 盛者必滅。
 
 春秋から戦国時代にかけての中国大陸は、秦・燕・趙・韓・魏・楚などの国が群雄割拠する混沌とした状況にありました。その時代に生きた儒学者・孟子(BC372~BC289)は、次の箴言を残しています。

 噫戯嘑出于爾者還于爾者也
 ああ、爾(なんじ)に出ずるものは爾に反る
 《意訳》自らの言行は、やがて自分に戻ってくる

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 歴史は繰り返すと申します。ゆえに賢明な為政者は歴史から多くを学びます。他国との軋轢を意に介さず海洋進出を推し進める現在の中国を率いる習近平国家主席、翻っては戦後レジュームからの脱却や憲法改正を目指す安倍晋三首相らは、孟子の教えをどう受け止めるのでしょうか?

【Photo】第三次ポエニ戦争でカルタゴを滅ぼした総司令官スキピオ・エミリアヌスの胸像。第二次ポエニ戦争で戦功を上げ、スキピオ・アフリカヌスの称号を与えられた大スキピオに対し、小スキピオと呼ばれる(ナポリ・カポディモンテ美術館Museo e Gallerie Nazionali di Capodimonte蔵)

 ポエニ戦争で明暗を分けた両雄がその後たどった道筋を本稿の最後にご紹介しておきます。

 ローマを不倶戴天の敵として戦いに明け暮れたハンニバルは、シリアからクレタ島を経て黒海沿岸のビテュニア王国まで逃亡。BC183、国王プルシアス1世に身柄引き渡しを求めたローマの追手が迫ると、自ら毒をあおり波乱に富んだ64年の生涯を閉じます。

 かたやカルタゴを滅亡させたスキピオ・エミリアヌス。第二次ポエニ戦争を勝利に導き、ハンニバルと相前後してBC183に没した偉大な養祖父・大スキピオと同様、アフリカを制した「アフリカヌス」の称号を得ます。さらにBC147とBC134には、共和制ローマの国家元首である任期1年のコンスルの座に就いています。

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【Photo】古代ローマ時代、政治の中枢であったForum Romanum(フォロ・ロマーノ)。権謀渦巻く政争の場となった元老院議場が置かれた往時から2000年の時を経た現在、フォロ・ロマーノの主役は世界中から訪れる観光客と野良猫にとって変わった

 二度目の最高権力者の座に就いて5年後のBC129、元老院で改革派として台頭してきたティべリウスとガイウスのグラックス兄弟による農地政策への反対演説を控えた前日、小スキピオは死亡しているのが発見されます。

 その首には絞められたような痕跡があったのだとか。死因は明らかではありませんが、義母コルネリアないしは妻センプロニアを含むグラックス一族による謀殺説が否定できないのだといいます。

 そのグラックス兄弟とて、元老院と対立した兄は改革の道半ばで暗殺され、退路を断たれた弟も自ら命を絶っています。金正男氏謀殺事件と同様、〝事実は小説よりも奇なり〟といったところでしょうか。

 怖いデスネ~、恐ろしいデスネ~。

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 クアラルンプール国際空港で事件が発生した日、一つの小包が自宅に届きました。それは一国家の存亡ほど劇的な出来事ではありませんが、孟子が残した人の営みは良くも悪くも因果応報であるという言葉を思い起こさせたのです。

 小包は、あるキャンペーンに当選した賞品なのでした。次回、その顛末を明らかにします。

To be continued...

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