あるもの探しの旅

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土佐日記風 会津日記 【会津若松編】

じもてぃもすなる あさらーといふものをしょういたもしてみむとてするなり
 
現代語訳】地元の人たちも嗜む 朝ラーというものを 庄イタも試みてみる


 日々新鮮な大阪からお届けする庄イタの近況レポ「土佐日記風 会津日記 【序章】摂津国」 に続く本編は、(6ヵ月間の山形駐在を挟んで)20年以上に及んだ仙台在任中、奥州域内での最後の遠征となった福島・会津訪問記です。

 泊りがけで会津若松を訪れたのは、小学校の修学旅行、そして拙稿「晩秋の三原色、黄・朱・橙」および「会津の橙、身不知柿」としてまとめた2013年の秋以来3度目。

 1ヵ月に及ぶ籠城戦に耐えるも、鍋島藩所有のアームストロング砲など最新兵器を投入した物量に勝る官軍の猛攻を受けて無念の降伏。1874年(明治7)に基礎を残して解体され、1965年(昭和40)に天守閣がコンクリート造りで再建された鶴ヶ城と白虎隊が自刃して果てた飯森山を久方ぶりに訪れました。

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【Photo】歴史を感じさせる落ち着いた佇まいの城下町・会津若松のシンボル、鶴ヶ城こと若松城に夕闇が迫る。天守閣再建50周年にあたった2011年、国内に現存する城では唯一の赤瓦拭きとなった。頑固一徹な会津っぽの反骨精神を示すかのように、城が燃え立つ赤にライトアップされていた

 庄イタが小・中学校で学んだのは、勝者の視点で綴られた歴史観に基づく明治維新でした。今回の会津訪問では、無垢な小学生がこぞって買い求めた会津土産の定番・木刀を飯森山で買った当時とは全く異なる感慨を抱きました。

 大阪転勤に伴う引越しのドタバタを挟んだため、5月はブログ更新ができず、探訪から5か月の時間が経過してしまいました(汗)。そのため季節感に若干のタイムラグをお感じになるかもしれない点はご容赦願います。

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 改めて申し上げるまでもなく、庄イタは前世ではイタリア人でしたが、現世では父方が伊達者の血筋、母方が福島の血筋を引いています。そんな庄イタが、会津について語るとき、どうしても幕末から明治維新にかけての激動の時代を避けて通るわけにはいきません。

 260年の長きに及んだ徳川幕府体制にほころびが出始めた江戸時代末期。清国が大英帝国に惨敗し、香港を割譲したアヘン戦争(1840年~42年)、そして欧米列強諸国による東アジア植民地化の動きを受けて高まったのが、排外主義を掲げる尊王攘夷の機運です。

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【Photo】鶴ヶ城から2.8キロ北東方向にある飯盛山中腹の白虎隊自刃の地。陽が傾き始め、逆光に照らされた白虎隊士の石像が右手をかざして鶴ヶ城を見やる(画像左下)。白虎隊は猪苗代湖北西畔の戸ノ口原の戦いで士中二番隊の3名を失い敗走、31kmに及ぶ洞穴水路「戸ノ口堰」を抜けて飯森山へと落ち延びた。1868年(慶応4)旧暦8月23日(10月9日)午前、火の手が上がる城下の光景を前にして、もはやこれまでと覚悟を決める。そうして自刃した16歳~17歳の少年の中で、唯一、蘇生した飯島貞吉を除く隊士がこの地で短い生涯を終えた

 1853年(嘉永6)の黒船来航で、幕府は一気に開国・通商条約締結へと舵を切ります。薩摩が大英帝国に牙を剥いた薩英戦争(1863年)や、長州が英米仏蘭の連合艦隊との砲撃戦を繰り広げた下関戦争(1863年,64年)へと突き進んだ尊王攘夷派は鎖国の継続を主張。

 その急先鋒となったのが、吉田松陰の私塾「松下村塾」や、海防僧こと月性の私塾「海防僧」門下生ら、長州藩を軸とする討幕急進派です。血気盛んな志士による刃傷沙汰などで乱れた京都の治安維持のため、実働隊として剣豪を揃えた新選組を配下として新設された公職が京都守護職です。

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【Photo】戊辰戦争から150年。今も献花と紫煙が絶えることがない白虎隊十九士の墓。武道の心得がある女性で組織された私設の「娘子隊」を率い、長州・大垣藩兵に薙刀で立ち向かうも被弾し、壮絶な最期を遂げた中野竹子や、親類縁者21名が揃って自害した城代家老・西郷頼母家の婦女子など二百余名の御霊を弔うため、1928年(昭和3)に旧藩士の山川健次郎らが「会津藩殉難烈婦の碑」を白虎隊の墓前に建立した

 京都守護職は、本来、譜代大名筆頭格である彦根藩の役回り。ところが幕府が尊王攘夷派を弾圧した安政の大獄(1858~9年・安政5~6)を断行した大老・井伊直弼が水戸・薩摩の浪士に殺害された桜田門外の変(1860年・安政7)で状況が一変します。

 会津藩祖で名君の誉れ高い保科正之が残した〝徳川将軍家に忠勤すべし〟という遺訓を幕閣の松平春嶽に持ち出され、1862年(文久2)、固辞していた任にやむなく就いたのが第9代会津藩主・松平容保(かたもり)でした。

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【Photo】南北朝時代から江戸までの歴代天皇の住居兼執務所であり、昭和天皇までの即位の礼など公式行事を執り行ったのが京都御所。広大な京都御苑の敷地内にある仙洞御所の一角に土佐から帰還した紀貫之の居宅があった。そうした公家が暮らす区域と市中との境界となる外構に設けられた9カ所の出入り口の一つが蛤御門(上画像)。禁門の変における弾痕が門柱や門扉の各所に残る(下画像)

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 14代将軍・家重に嫁いだ皇女和宮の降嫁に象徴される公武合体による幕藩体制の立て直しを唱えたのが薩摩や会津。かたや急進的な尊皇攘夷を唱えた長州は、八月十八日の政変で京都を追われます。起死回生を図ろうと孝明天皇の拉致を狙い御所警護の任にあった会津藩兵が守りを固める蛤御門に向け発砲。京都市中を戦火に巻き込んだ禁門の変(1864年・元治1)で長州藩は朝敵となり、二度に及ぶ長州征伐がなされます。

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【Photo】会津松平家第3代正容(まさかた)が五穀豊穣を願って建立した「宇賀神堂」内部。1890年(明治23)に白虎隊の墓を改修した折、ここに十九士の霊像が安置された。額装された肖像写真は、隊士唯一の生き残りで、白虎隊の最期を後世に伝えた飯島貞吉翁(上画像)。
郁堂和尚の発願(ほつがん)により1796年(寛政8)に建立された「さざえ堂」(下画像・国指定重要文化財)。時計回りの昇り専用と反時計回りの下り専用の螺旋状二重スロープを有する高さ16m、三層構造の世界で唯一となる木造建築。当初は西国三十三観音を堂内に配置していた。その左手に宇賀神堂は建っている

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 策略家であった岩倉具視が主導して発せられた討幕の密勅(1867年・慶応3)を受け、討幕派に転じた薩摩藩は、幕府ご用達の商家を狙って浪士に略奪や放火を働かせます。浪士は悪化する江戸市中の治安を守るため警固役を担った庄内藩士や新徴組も襲撃。事態を看過するわけにはいかなかった庄内藩は、狼藉を働く浪士をかくまった薩摩藩邸を焼き討ちにします。

 大政奉還後、藩閥政府は(明らかに私怨から)征討令を発し、奥羽鎮撫総督の九条道孝は秋田藩に庄内討伐を、仙台藩に会津討伐を命じます。

 犠牲覚悟で自ら斬り込むのではなく、このように東北諸藩の同士討ちを目論んだ西軍(☚どうよ)。下参謀の大山格之助(薩摩藩)に宛てた〝奥羽皆敵〟と記した密書が発覚し、福島滞在中に仙台藩士に捕らえられて馘首された西軍下参謀・世良修蔵(長州藩)は、会津を討つ意図のない仙台・米沢など東北諸藩による会津救済嘆願を三度にわたって却下。

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【Photo】戦死四十人墓。1968年旧暦9月2日~3日(10月19日~20日)、下野街道から会津若松城下へと進軍する西軍と迎え討つ会津軍が会津美里町関山で激突。県道131号線・大内宿こぶしライン沿いにひっそりと立つ青龍足軽三番隊長・野村悌之助ほか会津藩士40名を弔う墓。官軍の非情な指示で墓標はおろか、遺骸の埋葬すら当初は許されなかった

 そのため、主戦派だった世良修蔵が和睦の道を断ち、戊辰戦争(1868~69)の端緒を開いたとされます。明治以降、薩長土肥から〝白河以北 一山百文(⇒白河の関から北の東北は、一山百文しか価値がない)〟と揶揄された東北、とりわけ苦難の道を歩んだ会津にとって、世良修蔵は紛れもなく不倶戴天の仇敵。こうした評価が定着した背景には、明治新政府が亡き世良一人に責任転嫁した側面もあるようです。

 もとより火中の栗を拾う形で京都守護職の務めを実直に果たす容保に宸翰(しんかん / 天皇自筆の手紙)を下賜するほど会津に篤い信頼を寄せ、長州を遠ざけた孝明天皇の(謀殺説が囁かれる)急逝こそが、会津にとっては痛手でした。権謀術数に長け、蟄居を命じた孝明天皇の死への関与が疑われる岩倉具視は9代有栖川宮と結託。錦の御旗を振りかざして東北を朝敵と称して侵攻しました。

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【Photo】難攻不落な鶴ヶ城は最後まで西軍の突入を許さなかったが、天守閣の東方1.6kmの小田山に据えた鍋島藩が所有するアームストロング砲ほか、50門あまりの四斤山砲から連日一千発以上の砲弾が撃ち込まれ、無残な姿となった降伏直後の鶴ヶ城。炊き出しや怪我人の介護にあたった婦女を含め、5,000名ほどが決死の籠城戦に臨んだ〈画像出典:「会津戊辰戦史」会津戊辰戦史編纂会 1933年刊〉

 台頭する討幕派と新選組ら佐幕派の二手に分かれ、京都・上野・長岡・東北・函館などで展開した内紛は1年半に及びました。12歳から17歳の少年が戦場の露と散った二本松少年隊や白虎隊の悲劇を生んだ旧会津藩領ほか、白河・二本松などの各地には、今も当時の痕跡が残ります。

 言いがかりをつけて殴った側は、拳の痛みなどすぐに消えてしまったのでしょう。郷里が戦火に巻き込まれた会津戦争で3千余名が犠牲となり、幕末時点での石高23万から、未開の地を開墾すれば3万石が見込めるとされた(実情は1/4程度だったといわれる)斗南藩へと移住を迫られただけに、殴られた側の痛みは容易に消し去ることはできないのは物事の道理です。

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【Photo】ファシスト政権下のイタリア王国首相ベニート・ムッソリーニが、1928年(昭和3)に寄贈、飯森山に建てられた白虎隊顕彰碑。ブロンズ製の翼を広げた鷲とポンペイ遺跡から発掘された古代ローマ時代の円柱を頂く台座には〝ALLO SPIRITO DEL BUSHIDO S.P.Q.R(武士道精神に捧ぐ 元老院ならびにローマ市民)〟と銘が刻まれる

 歴史の大転換期に身を置いた立場の違いから衝突し、勝者・敗者ともに毀誉褒貶の応酬がなされた感がある戊辰戦争。武家社会の終焉で(奥羽越列藩同盟発足からわずか2ヵ月で西軍に寝返った秋田・久保田藩を除き)東北諸藩は、いわれのない賊の汚名を着せられたまま、名誉回復の機会は失われました。

 1968年(昭和43)、同郷(山口〈=長州〉選出)の出身で大叔父にあたる佐藤栄作内閣のもとで挙行された明治百年記念式典を意識したか、安倍首相は慶応から明治へと元号が変わって150年目となる来年、政府主導で明治維新を礼賛する一連の記念行事を国費で執り行うのだそう。そのお膝元では平成の薩長土肥連合なる新たな錦の御旗を掲げ、観光誘客を目論む動きも。

 薩長土肥出身者の主導による藩閥政治のもと、列強に伍さんと富国強兵・一極集中型の国造りがなされたのが明治から昭和初期にかけての時代。アジア各国のように植民地化は免れたものの、日清・日露戦争を経て突入した太平洋戦争で都市は焦土と化し、邦人だけで310万人もの犠牲を出しています。手放しで明治維新を称賛するのは、いかがなものかと。

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【Photo】太平洋戦争終結後、GHQの指示で一度は撤去され、のちに修復されたムッソリーニ寄贈による白虎隊顕彰碑の台座に刻まれた碑文
・原文:S.P.Q.R. NEL SEGNO DEL LITTORIO ROMA MADRE DI CIVILTÀ CON LA MILLENARIA COLONNA TESTIMONE DI ETERNA GRANDEZZA TRIBUTA ONORE IMPERITURO ALLA MEMORIA DEGLI EROI DI BIACCO-TAI ANNO MCMXXVIII - VI ERA FASCISTA
・日本語訳:元老院ならびにローマ市民 文明の母なるローマは、白虎隊精神に不朽の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスト党章の鉞(マサカリ)を頂く永遠に偉大な証となる千年の古石柱を贈る 1928年 ファシスト党 6年目

 民主党政権下、岩手・宮城両県知事への高飛車な言動が問題化して辞任した松本龍 元復興大臣(福岡選出)に続き、「震災が発生したのが東北の方でよかった」と本音を漏らした今村雅弘前復興大臣(佐賀〈=肥前〉選出)など、諸手当を含めて年間3000万円を超える議員報酬の原資は、当然、東北の納税者も負担しています。(⇒こんなお偉い先生方には討幕派が好んで使った言葉を捧げます。天誅っ!!

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【Photo】柔和な表情がかわいらしい会津の伝統的な郷土玩具「起き上がり小法師」。たとえ転んでも立ち直る七転び八起きの会津精神を投影している縁起物

 新安保法制やテロ対策特措置法など、現政権は国論を二分する議案を数の論理で成立させました。これは国政選挙の議席数が極端に振れる小選挙区制の弊害以外の何物でもありません。

 さらには2020年までに憲法改正を目指すと公言、主義主張のためには手段を選ばず、政見が異なる人々をぞんざいに扱う宰相の姿勢に〝勝てば官軍〟意識が影を落としている紛れもない現実を見た庄イタなのでした。

 閑話休題。

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 戊辰戦争の勝敗を決した母成峠(ぼなりとうげ)を突破し、会津若松城下へと進軍した参謀・板垣退助(土佐)と伊地知正治(薩摩)率いる西軍が進軍した磐梯山の東南麓から猪苗代湖畔に抜けるルートから会津若松入りした庄イタ。

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 城下町の歴史を感じさせる会津若松市内を散策しました。城郭界隈でとりわけ目を引いたのが、西郷頼母邸跡がある鶴ヶ城北側の追手門外濠に面して建つ重厚な蔵造りの和菓子店「上菓子司 会津葵本店(上画像)。老舗の呉服店に見られるような大福帳が似合う畳敷きの座売りで接客する「会津葵南蛮館」(下画像)も風情があります。

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 かつて楽市楽座が開かれた一之町で、安永年間(1772~80)に漆問屋として創業した老舗漆器店「鈴木屋利兵衛(下画像)。一階部分はなまこ壁、鶴ヶ城と同じような赤瓦を頂く二階部分に黒漆喰を配した店蔵造りの店構えです。応対頂いた女将の鈴木幹子さんに戊辰戦争で西軍の陣地となった際につけられた刀傷が柱に残る店舗2階へとご案内頂きました。

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 2階部分は会津民芸館「漆乃舎」となっており、鈴木さんの蒐集による色漆や金箔を用いて文様を描き出した蒔絵が施された江戸期を中心とする会津塗の名品が数多く展示されていました。

 会津漆器は、1590年(天正18)の秀吉による奥州仕置で伊勢松坂から会津に転封となった蒲生氏郷が、郷里の近江(滋賀)から漆器職人を伴って会津に伝えた漆器「日野椀」をルーツとします。江戸後期の家老・田中玄宰が京都から招いた職人によって完成の域に達したとされる会津独自の伝統手工芸品です。

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 朱や黒の漆器に色漆や錆漆、金箔を用いて蒔絵や沈金で構成される松・竹・梅・鶴・亀・破魔矢など縁起の良い絵柄が散りばめられます。桧垣と呼ぶ菱形や、養蚕が盛んだった会津ならではの糸巻を表すともいわれる矩形の図柄も。

 地元で「會津絵」と呼ばれるこうした図柄は、華やかでありながら武家使いならではの格式を備えています。手描きの装飾を施した会津塗の見事さに時間を忘れて見とれてしまいました。

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 誇り高き会津精神の精華ともいうべき会津漆器ですが、会津藩が歩んだ苦難の歴史と同様に、その歩みは順風満帆というわけではありません。

 戊辰戦争後、下北半島北部の斗南藩への転封により、蒔絵職人が四散し、一度は伝統の技が途絶えたのだといいます。

 時代の変遷とともに生活様式が変わり、幻となった技の結晶と鈴木さんが出合ったのは半世紀前。鈴木さんは旧家や一部の愛好家のもとに残るに過ぎなかった忘れられた技の復元に動きます。
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【Photo】鈴木屋利兵衛商店で購入したワインカップペア(中)は、高さ107mm×幅50mmというハンディな大きさ。平成28酒造年度全国新酒鑑評会での金賞受賞が22点で、5年連続日本一の栄誉に輝いた福島県産酒を頂くのにもピッタリ。會津絵ワインカップペア(中)税込み定価 21,600円・(小・高さ90mm×幅45mm)税込み定価16,200円

 物腰の柔らかさの中にも凛とした芯の強さが滲み出る会津女性そのものの印象だった鈴木さん。蒔絵師との二人三脚の作業で復元された技を用いたワインカップや椀物・箸・重箱など、新たな感覚も取り入れた會津絵の商品が店舗1階に並びます。

 匠の技が生み出す美しい工芸品を愛する庄イタが、そこで衝動買いに走ったのは申すまでもありません。

 副題〝じもてぃもすなる あさらー〟がさっぱり登場しないまま、次回は雪の大内宿へと移動します。(☚雪って、いつの話だよ

土佐日記風 会津日記 【大内宿編】へ続く
To be continued.

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