あるもの探しの旅

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2018/05/26

極楽浄土を垣間見てもうた...

2018 Ciliegi Giapponesi
a Patrimonio mondiale Sala della Fenice〝Byodoin〟
2018さくら絶景探訪 第二章 : 世界遺産「宇治平等院」編


 言葉を失う美しさ。光に包まれた浄土が、まさに出現していました。

 そこは2014年(平成26)に完了した平成の大修理で創建当初の色鮮やかさが蘇った京都宇治の世界遺産「平等院」。

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 鳥が翼を広げて飛び立つ優美な姿に似ており、江戸時代の初め頃、鳳凰堂と呼ばれるようになったもう一つの由来とされる中堂の屋根に対で頂く黄金に輝く青銅製の鳳凰は1万円札の裏側に、そして中堂を挟んで南北の翼廊からなる平等院の姿が10円硬貨の裏に刻まれています。

 分厚い札束にほくそ笑む拝金主義者は別にして、極楽浄土をそこから思い描くことは到底できないかと下画像

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 ブッダが入滅して1000年の時が経過すると、仏の教えが忘れられ、悟りを得ることのない混沌とした時代になるという末法思想が世に広まったのが平安末期。

 それは4~5年間隔で宇治川が干上がるほどの旱魃(かんばつ)が襲い、各地で飢饉や疫病が発生。平安京でも餓死者が出る時代でした。

gachizosi.jpg【Photo】国宝「餓鬼草紙」平安末期(12世紀・部分)東京国立博物館蔵 岡山の河本(こうもと)家に伝わる巻物。平安末期の六道思想は、生前の行いによって、成仏できずに餓鬼道・地獄道・修羅道・畜生道などに堕ち、6つの苦しみを味わうとした教え。この「塚間餓鬼」は、平安京の鳥野辺などの墳墓地において、身分が高いものは盛り土塚に埋葬され、庶民層は風葬が一般的だった当時の埋葬の様子を今に伝える

 末法を迎えるとされた1052年(永承7)、仏の世界を現世に出現させようと摂政・藤原道長の子頼通は、道長の別荘であった宇治殿(うじどの)を寺院に改装。阿地池(あじいけ)の中島に西方浄土を造り出すべく、翌年完成したのが、現在は平等院鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂です下画像

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 ちょうどその頃、10万人以上が暮らし、平安京に次ぐ人口規模の都市だった岩手県平泉では、奥州藤原氏によって中尊寺金色堂や毛越寺、平等院を模した無量光院などの世界遺産群が造営されています。これは大和朝廷によって「征夷」の名のもとで繰り返された坂上田村麻呂の蝦夷征伐や前九年の役、さらには初代清衡は内紛で妻子を惨殺されており、多くの犠牲を生む争いのない浄土を再現しようとしたもの。

 そこでは官軍も蝦夷も関係なく、人が生きてゆく糧となったこの世に生きとし生けるもの全てが浄土に導かれるようにという願いが込められていました。そんな切なる願いも空しく、1189年(文治5)源頼朝によって奥州藤原氏は滅亡。全てが黄金に輝く極楽を再現した往時の姿を今に留めるのは中尊寺金色堂だけとなりました。有為転変は世の習い。あぁ無常。

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 昨年の紅葉シーズン、平等院では15年ぶりに夜間拝観が行われました。それに先立つ一昨年11月、庄イタは伊達政宗の嫡孫(ちゃくそん)で、19の若さで早逝した光宗の霊廟として1647年(正保4)に松島に開山した「円通院」を訪れていました。

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【Photo】円通院三慧殿(国指定重文)上画像には束帯姿で騎乗する伊達光宗像を収めた桃山様式の厨子が収められる。下画像伊達家の家紋のひとつ九曜紋とともに、慶長遣欧使節としてスペインやローマに渡った支倉六衛門常長が初めて日本に持ち込んだバラとスイセンが、ローマとフィレンツェの象徴として左右の扉に描かれる。交易を求めたローマ法王への謁見を成し遂げながら、禁教令のため帰国後は蟄居となった常長の無念も浄化されたのだろうか

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 その目的は夜間拝観。昼とは趣を異にする闇を照らすライトアップの光に照らされた円通院は強い印象を残しました。

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 仙台藩江戸屋敷にあった小堀遠州作の庭園と本堂・大悲亭を移築した円通院。本堂前の「心字の池」には、ライトアップされた紅葉がホログラムと化し、水面に幻想的なシンメトリーで映し出されていたのです上画像

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 桜の見頃に合わせ、平等院で夜間拝観が実施されることをニュースで知ったのは、吉野山を訪れた翌々日のこと。

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 仕事を終え、北浜駅から京阪電車で向かった宇治駅までは1時間弱。宇治川を渡り、茶どころ宇治ならではの店が並ぶ門前街を移動。駅から10分ほどで夜間拝観が始まる18:30過ぎには表門に到着しました。

 600円の夜間特別拝観料を支払い、古代の建造物に使われた丹土(につち)で落ち着いたベンガラ色に塗り直された表門から境内へ。その先は京都の名だたる観光スポットでは避けては通れない人また人の波。 

 真正面に鳳凰堂を見るビュースポットは入れ替え制になっており、人びとはそこを目指して5,6人ずつ横一線で並んでいます。

 それでも京都の有名な観光地には昨今つきものの古都の情緒を台無しにする中国語やハングルによる耳を突き刺す大声を張り上げての会話はあまり聞こえて来ません。何故ならば、阿地池を挟んで斜めからのアングルの鳳凰堂が、極めてフォトジェニックゆえ、行列をなす誰もがスマホやカメラでの撮影に余念がないのです(笑)。

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 死後の極楽浄土さながらに此岸(しがん)から蓮池を挟んだ彼岸の鳳凰堂は、正面が東に向いて建っています。つまりは見る者にとって、鳳凰堂は西方浄土そのものであるよう設計されているのです。

 創建当初の姿を蘇らせた平成の大修理に先立つ1950年(昭和25)の修復で使用された鉛を加熱した顔料・鉛丹が剥落したかつての外観は、侘び寂びを感じさせこそすれ、この世に極楽浄土を造り出すという創建に込められた願いは伝わりにくかったはず下画像

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 阿弥陀経の経典では、西方の彼方にある極楽浄土は黄金や七宝で出来ており、池には色とりどりのハスが咲き、良い香りがする。美しい鳥の鳴き声は説法となり、極楽に迎え入れられた者は念仏を唱えているとあります。

 落慶当時の彩色や金をふんだんに使う修復計画が発表されるや、異を唱える動きがありました。〝原典に忠実たれ〟は文化財修復の大原則。この世に浄土を顕現させようと創建された平等院に21世紀の価値観や尺度を持ち出すのはお門違いというものでしょう。

 そうは言ってみたものの、現代の照明テクノロジーにより、極楽浄土を彷彿とさせる鳳凰堂が目の前に出現しています。それは平等院を建立せしめた藤原頼道が決して目にすることがなかった到底この世のものとは思えぬ美しさでした。

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 そんなことを考えながら行列に並ぶこと35分。鳳凰堂正面に移動すると、中堂の本尊・阿弥陀如来像(国宝)と真向かいに対峙する形に上画像

 発掘調査の折、江戸時代の地層から見つかった種を発芽させたハスの葉が浮かぶ池の州浜は、1990年(平成2)に発掘された平安期の遺構や当時の文献に沿って、握り拳大の礫を敷き詰めて復元されています。

 寄木造技法を確立させた平安後期の仏師・定朝(じょうちょう)晩年の作による本尊・阿弥陀如来坐像がおいでになる中堂前には本尊を照らす開口部が大きく穿たれた石灯籠が置かれています。

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 阿弥陀如来坐像を覆い隠すように格子が設けられていますが、顔の部分のみ丸く空いています。カメラのファインダーから目を離し、しばし揺らめく燈籠の炎に浮かぶ阿弥陀如来の姿に思いを巡らせたのでした。

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 2001年(平成13)に開館したミュージアム「鳳翔館」は、中堂の屋根には金箔が蘇った複製上画像を頂く青銅製の鳳凰、天人や獅子の精緻な彫りが四面に隙間なく施された梵鐘下画像、雲上で古楽器を奏で、印を結び、舞い踊る雲中供養菩薩26体などの国宝をはじめとする平等院の所蔵品を1Fフロアに展示しており、必見です。

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miidera_bonsho.jpg【Photo】平等院の梵鐘は創建当時の鋳造。鐘楼には複製が下がるが、これほど精緻な装飾が全面になされた梵鐘は他に例を見ない。姿形が特に優れた平等院、当代きっての名手が序詞・銘文・揮毫を手がけ「三絶の鐘」の異名を持つ京都・神護寺、音色が美しい滋賀・園城寺(おんじょうじ・別名:三井寺みいでら・右画像とともに、天下の三名鐘に数えられる

 景観を損なわぬよう、半地下構造で造られたミュージアムには、臨終を迎えた者の生前の行いにより、極楽から迎えに来る仏様が異なるとする「観無量寿経」に基づく九品(くほん)来迎図など、中堂内陣の壁画や扉絵、螺鈿を嵌め込んだ天蓋(一部)などを創建当初の色鮮やかな姿で再現しています。

 極彩色で描かれたのは、阿弥陀如来が観音菩薩や勢至菩薩などの仏を伴って雲や蓮に乗って来迎する姿。そこには、混沌とした平安末期にあって、極楽浄土への往生を切望した関白・藤原頼通の思いが込められています。

 鳳翔館の1Fフロアには、中堂壁面の長押(なげし)上の壁面に本尊を囲むように配置された雲中供養菩薩52体のうち、26体を移設して展示しています。そこでは長い戦乱の世を経た11世紀の仏像群としては唯一現存する仏様を間近に見ることができます下画像4点

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 大理石の造型において卓越した才能を遺憾なく開花させ、バロック彫刻の頂点に輝く天才ジャン・ロレンツォ・ベルニーニのみならず、高い精神性を物語る日本の仏像彫刻も愛好する庄イタ。

 その原点は、わが心の故郷・山形県酒田市にある土門拳記念館で高校時代に出合った「古寺巡礼」のマスタープリントでした。リアリズム写真の巨匠は1964年(昭和39)に平等院を訪れ、阿弥陀如来坐像などを撮影。帰りしなに遭遇した〝走る風景〟と表現した刻一刻と表情を変える夕焼け空に飛び立つかのような鳳凰の姿を捉えた名作を残しています。

 2014年(平成26)、東日本大震災復興祈念特別展として仙台市博物館で開催された「奈良・国宝 室生寺の仏たち」では、室生寺で拝観するよりも遥かに間近な距離で、奈良では叶わない12体揃った十二神将像や十一面観音菩薩像とお会いすることができ、感激に浸ったものです。

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 ヒノキ一木彫りによる坐像・立像は、いずれも柔和な表情を浮かべ、美しい調べと共に天上から舞い踊りつつ降臨する姿を立体的に表現しています。本尊を囲んで漆地に華やかな彩色がなされてた当初の姿は、さぞや感動的だったことでしょう。
 
 黄金に輝く阿弥陀如来と雲中供養菩薩とに誘(いざな)われ、夢か現(うつつ)か判然とせぬまま、極楽浄土の入口に立っていたのかもしれません。

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 夜間拝観が終了する21時直前まで夢のような時を平等院で過ごした庄イタ。JR宇治駅に向かいながら、2019年のロサンゼルスを舞台とするSF映画の金字塔「ブレードランナー」のクライマックスシーンで語られるセリフを思い起こしていました。

 外見は人間と変わらずとも、知力は創造主である天才科学者タイレルに匹敵し、身体能力が極めて高い代わりに4年の寿命しか与えられていない人造人間レプリカント。その最新型ネクサス6型のロイ・バッティは、宇宙植民地で働く仲間3人と反乱を起こし、ロスに潜伏します。その目的は、残された寿命がどれほどか、延命は不可能なのかを知るため。

 ロイはハリソン・フォード演じるレプリカントを抹殺する任務を帯びた捜査官(通称:ブレードランナー)デッカードと死闘を繰り広げます。超人的な体力を備えたロイは仲間を殺した仇敵を死の淵まで追い詰めますが、自らの死が迫っていることを悟り、高層ビルの屋上から転落寸前で命を救ったデッカードを前にして語り始めます。

  I've seen things you people wouldn't believe.
  Attack ships on fire off the shoulder of Orion.
  I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.
 (and incridible mt.Yoshino full of cherry blossom, also Byodoin Temple illuminated.)

   【⇒ fabricated
  All those moments will be lost in time, ... like tears in rain.
  Time to die.

 【和訳】
  お前たち人間が信じられないような光景を俺は見てきた
  オリオンの肩(⇒「ベテルギウス星」の詩的な比喩?)を離れたところで炎に包まれた宇宙戦艦
  タンホイザーゲート近くの闇で輝きを放った閃光
  (目を疑うほどに桜が溢れんばかりの吉野山、そしてライトアップされた平等院も)
     【⇒ 書き換え 改ざん済】
  そうした瞬間瞬間も、やがて時の流れの中に消えてゆく ... 雨の中で流す涙のように
  最期の時がきたようだ

 限られた時間枠で生きる人間とて同じ宿命。人間の身勝手で造られたレプリカントの苦悩につい感情移入させてしまうロイを好演したルトガー・ハウアーは、台本にはなかった All those moments 以下のフレーズをアドリブで追加。撮影に臨んだといいます。

 吉野での感動が冷めやらぬまま平等院を訪れた庄イタも原作にはなかった〝and incridible mt.Yoshino full of cherry blossom, also Byodoin Temple illuminated..〟という一節をルトガー・ハウアーに語らせる白日夢に浸っていました。

 短い一生を終えたロイの手から空へ飛び立った白いハトは、酸性雨が降り続けるロサンゼルス上空からロイのもとへと来迎する阿弥陀如来や菩薩たちと必ずやすれ違ったことでしょう。 

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2018/05/06

太閤殿下、全山満開でござる!

2018 Ciliegi Giapponesi
a Patrimonio mondiale Monte Yoshino
2018さくら絶景探訪 第二章 : 世界遺産「吉野山」編

 あっぱれじゃ! 

 こんな感嘆の声を上げたであろう豊臣秀吉が目にした光景と同じ、いえ、恐らくはそれ以上に見事な絶景が庄イタの目の前に広がっています。

 天下を統一し、太閤として権勢の絶頂にあった豊臣秀吉が、1594年(文禄3)に諸国の大名・文人墨客ら総勢5,000名を引き連れ、奈良県吉野山で5日間にわたって催した花見の宴は、つとに有名。

yoshinohanamizu-byobu.jpg 【Photo】「豊公吉野花見図屏風」(部分・国重文・細見美術館蔵)織田信長の遺志を引き継ぐ形で戦乱の世に終止符を打った豊臣秀吉。我が世の春を謳歌する太閤が、吉野で催した花見の模様を江戸初期に描いた屏風絵。輿(こし)に乗った秀吉が、役行者が開基した「金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂」に向かわんとしている。当時の風俗が描かれており、絢爛な桃山時代の雰囲気を今に伝える


  年月を 心にかけし 吉野山 花の盛りを 今日見つるかな 

 吉野入りして3日間降り続いた雨が止み、興に乗って舞も披露した花見の宴を催した喜びを上記のように三十一文字(みそひともじ)に残しています。

kimpsenji@nakasenbon2018.jpg【Photo】上千本から続く細道を上千本口バス停近くまで下り、左手に折れる脇道を入ると「大塔宮仰徳碑」と刻まれた大きな石碑がある。武芸に秀でた大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王(1308-1335)は後醍醐天皇の皇子。建武の新政(1333)で、征夷大将軍の地位を巡って父と対立。太平記によれば、同じ官職を欲していた足利尊氏によって鎌倉で幽閉され、若くして非業の最期を遂げた。討幕のため大塔宮が吉野で挙兵した地に立つと、山の稜線を越えて斜めから射す朝日が、シロヤマザクラを鮮やかに照らし出した(上画像)。その彼方に望むは、木造軸組建築として世界最大の東大寺大仏殿に次いで大きい寺院建築で、2004年にユネスコ世界文化遺産に登録された「金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじざおうどう)」の大屋根(下画像)

〝大名より身分が低い者の姿で参加すべし〟との秀吉のお達しで、金剛杖を手にした山伏に変装したのが伊達政宗。茶屋の下人に扮する秀吉を前に、配下の者にホラ貝を吹かせて斎料を所望。洒落っ気がある秀吉を大層悦ばせた事が、政宗の小姓であった木村宇右衛門の記録によって伝えられています。

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 花見が行われる4年前、秀吉による天下統一の総仕上げとして小田原攻めに踏み切った際、先代から盟友関係にあった北条氏包囲戦への参戦要請に応じなかった政宗。五奉行筆頭の浅野長政による説得を受け、重い腰を上げて怒り心頭だったであろう秀吉の陣に参じます。

 弱冠22歳だった政宗は、到着早々、千利休による茶の手ほどきを願い出ます。命が危うい状況にあっても物怖じしない度量の大きさに齢(よわい)50を過ぎていた秀吉は感嘆します。家康のとりなしで叶った秀吉への謁見には切腹覚悟の白装束で臨む一世一代の大芝居を打った政宗。その役者ぶりを気に入った秀吉の許しを首の皮一枚で得た逸話はご存知の方が多いかと。

 太閤秀吉・関白秀次親子ほか、徳川家康・前田利家ら年長で官位も高い戦国武将が居並ぶ中、従五位下の侍従としては唯一、政宗は花見への同席を許されます。戦国の世に遅れて生まれてきた稀代の若武者が詠んだのは、文武両道の才覚を示して余りある格調高く、そして、天下人となった秀吉を持ち上げるサラリーマン処世術的な内容でした。

  君がため 吉野の山の槇の葉の 常磐(ときは)に花も色やそはまし

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 吉野山の桜は、標高が低い順に海抜200mの下千本(しもせんぼん)から中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、標高700mの奥千本(おくせんぼん)まで順番に見頃を迎えます。それぞれ一目千本桜と呼ばれ、ほとんどがシロヤマザクラを主体とする全体では3万本ある桜が、今年は見渡す限り一斉に満開となっているのです(下画像)

 急に気温が上昇した4月初旬、吉野山の桜が全山一斉に満開となっているとTVニュースで知りました。関西に居を移した庄イタにとって千載一遇に違いないこんな望外の好機を逃す手はありません。 

yoshimizu2018.4.3.jpg【Photo】豊臣秀吉が吉野山滞在の本陣としたのが、中千本の吉水院。秀吉が吉野で催した花見から424年を経た今年は、世界文化遺産・吉水神社の境内から下千本から上千本まで同時に満開となった稀有なシロヤマザクラを見ることができた

 吉野の達人からは、クルマで行くのなら日の出前に標高600m付近からの展望が開ける花矢倉(はなやぐら)に着き、中千本・下千本へと、大方の流れとは逆に動くのが鉄則だと昨年聞いていました。

 意を決して当日は深夜2時半に西宮を出発。襲い掛かる睡魔を払いのけ、頭の中ではフニクリ・フニクラの替え歌「♪ 行こう 行こう 花の山へ」がリピート。阪神高速神戸線から南阪奈道路を経由し、吉野山への玄関口となる近鉄吉野神宮駅付近に到着したのが早朝4時半。

 明治天皇妃が桜をご覧になった地点に標柱が立つ「昭憲皇太后 御野立跡」ほか、クルマのすれ違いが困難な細道に土産物屋や飲食店が並ぶ下千本と中千本を通過しても、まだ外はまだ真っ暗。

kamisenbon2018.4.3.jpg【Photo】夜が明けやらぬ花矢倉からは、明かりに浮かび上がる金峯山寺蔵王堂の大屋根がランドマークとなる中千本から下千本方面まで、一幅の布を敷き詰めたように見えることから「布引の桜」と称されるシロヤマザクラが手に取るよう

 やがて商店や人家が途絶え、上千本へと登ってゆくと、ヘッドライトに照らされて漆黒の闇から浮かび上がってきたのは、道端にカメラの三脚を立ててスタンバイする人びと。その数の多さには驚きました。

 2004年(平成16)にユネスコ世界文化遺産に登録された「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する吉野水分(みくまり)神社を暗がりの中を訪れましたが、楼門は固く閉ざされたまま。都を追われて吉野に潜伏していた源義経が、兄・頼朝が差し向けた追手から逃れた地とされる花矢倉付近で日の出を待つことしばし。

 5時前になって東の空が白み始めると、祈りの山・吉野は清浄な朝の気配に包まれます。やがて去り切らぬ夜陰に溶け込む濃緑の山並みに、微妙に色合いが異なる青白い光を放つかのようなシロヤマザクラが、至る所で眼下の山肌を覆っているのが目に飛び込んできました。

hanayagura2018.4.3.jpg【Photo】ドラマチックな演出効果をもたらす朝日が差し込み始めた6時30分。真っ暗いうちから花矢倉でスタンバイしたご褒美は、吉野ならではの唯一無二の眺めだった

 吉野のシンボルともいえるシロヤマザクラは、吉野にほど近い大和国葛城上郡(現・奈良県御所市)に生まれた修験道の開祖・役小角(えんのおづの=役行者)が衆生救済のため、千日回峰行の果てに会得した蔵王権現をヤマザクラに刻み、山上ヶ岳の山上本堂と共に献堂した金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂に由来します。

 山岳信仰の聖地でもある吉野山を埋めつくす桜は、蔵王権現への信仰の証として、平安期以降に全国の善男善女が寄進したもの。〝Roma non fu fatta in un giorno (ローマは一日にしてならず)〟というではありませんか。秀吉と家康の庇護を受けた摂津の豪商・末吉勘兵衛は、苗木1万本を寄進しています。先人は酔客で賑わう花見の名所を造ろうと意図したのではありません。

shokenkotaigo-nodachiato.jpg【Photo】明治天皇妃・昭憲皇太后は、1891年(明治24)吉野に行啓。後醍醐天皇陵墓に参詣した折の思いを「吉野山 陵(みささぎ)ちかくなりぬらん 散りくる花も うちしめりたる」という短歌に残している。桜をご覧になった場所には「昭憲皇太后 御野立跡」の石柱があり、七曲り周辺を指す下千本、金峯山寺周辺の中千本を間近にするビュースポットとなっている(上画像)

 江戸前期の儒学者貝原益軒の「和州巡覧記」には、現在の近鉄吉野駅付近から中千本まで続く坂道「七曲り」の登り口で〝童ども桜の木の高さ二尺ばかりなるを多く売る。(中略)往来の人、これを買いて、植えさせて通る〟との記述があります。蔵王権現に奉じるため植え続けられたシロヤマザクラは、このようにして山の斜面を覆う群生「一目千本桜」となったのです。

 ルーツが同じソメイヨシノとは違い、シロヤマザクラは微妙に色合いが異なるように一本ごとに先人の思いが込められている事実を知ると、移ろう季節の中で、ほんのひと時だけ目にすることができる浄土のごとき光景も、また見る目が変わってきます。

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 駐車場が満杯になる前に中千本の駐車場へと車を移動。早朝で係員が不在の場合、出庫時に代金を払うのが吉野のローカルルールです。

 元々、五郎平という人物が茶屋を営んでいた小高い丘は展望台になっています。そこから谷を挟んで10世紀初頭の延喜年間に創建された如意輪寺が桜の木々に囲まれていました(下画像)

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 寺の裏手には、1339年(延元4)、52歳で吉野に没した後醍醐天皇が永遠の眠りにつく塔尾陵があります。歴代天皇の陵墓では唯一、北側を向いているのは、帰還が叶わなかった京都が吉野からは北側に位置するがゆえ。

 宝物殿では、鎌倉期に慶派の仏師源慶によって造られた蔵王権現像(国重文)を拝観できます。この仏は、インドや中国には存在せず、山岳信仰と結びついて日本のみで信仰されてきました。過去・現在・未来を象徴する慈悲に満ちた釈迦・観音・弥勒菩薩が、猛々しい仮の姿で顕現した蔵王権現を所蔵する寺院が吉野には他にもあり、谷越えの険しい地勢を目の当たりにして如意輪寺は体力温存のためスル―。

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 そこで目指したのは、16世紀後半の天正年間に再建された修験道の根本道場・金峯山寺。蔵王堂(上画像)の本尊・金剛蔵王権現(国重文)は、通常は非公開の秘仏ですが、折しも修復中の国宝・仁王門勧進のための特別公開が、GW最終日の5月6日まで行われていました。

 大いなる慈悲を示す〝青黒(しょうこく)〟と呼ばれる深みのある蒼身で躍動する姿に魅了された金剛蔵王権現像を本尊とする世界遺産・金峯山寺蔵王堂には、かねてより公開時に訪れたいと思っていました。つづら折りの七曲りを散策してから、蔵王堂に参詣したのは公開が始まる朝8時30分ちょうど。

 果たせるかな、怒髪天を衝く憤怒の形相で仁王立ちする三体の金剛蔵王権現(撮影禁止のためリンク参照)は、迫力満点。〝こちらでご本尊と直接お話し頂けます〟と、障子で間仕切りされた「発露の間」から間近に見上げる高さ7mの秘仏を前に、日常の穢れを祓い落としたのでした。

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 足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立したことで京都を追われ、吉野で南朝を興した後醍醐天皇。後亀山天皇まで4代続いた大覚寺統の皇居跡に建つ「妙法殿」(上画像)の御所桜を愛でつつ、歩いて向かったのが、金峯山寺の塔頭(たっちゅう)のひとつ「脳天大神(のうてんおおかみ)」。

 首から上の病に霊験あらたかだという謳い文句に惹かれ、谷底へと続く急斜面に設けられた階段を下りました(下画像)。谷底へ続くつづら折りの階段の先に人の姿はなく、急斜面を進めど進めど、なかなか脳天大神は見えてきません。

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 どうやら途中で引き返す人が少なくないようで、2人だけ階段を登って来る人とすれ違いましたが、苦悶の表情を浮かべて息も絶え絶えになっています。それを見て「引き返そうよ」と同行者は不安顔。

 それなりの説得力がある提案でしたが、2011年(平成23)9月に「出羽三山神社」の石段2,446段を3日間の山伏体験修行で2往復している庄イタ。《2011.12拙稿「修験道体験@出羽三山 暮れゆく月山御縁年の大晦日に思うこと」参照》 初志貫徹あるのみと歩みを進めます。揺るがぬ固い意志の理由はズバリ!ボケ封じ(笑)。

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 蔵王権現の化身・脳天大神を祀った本殿に参拝(上画像)。石段が455段もあるとは知らなかったため、帰路はヘロヘロになりながら蔵王堂へと帰着。♪行きは良い良い帰りは怖い。危うく行き倒れになるところでした。

 疲れたときは甘いモノ。一息つこうと立ち寄ったカフェ「陽(ひなた)ぼっこ」でオーダーしたのが桜風味のジェラート。この日のジェラート、お味はともかく、眺めに関しては日本一だったに違いありません(下画像)

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 夜が明けやらぬうちに上千本で軽い朝食を済ませ、ジェラートで胃袋が覚醒したのか、午前11時にはお腹が空いてきました。中千本と下千本には土産物や吉野名物「柿の葉寿司」の店などが集中します。午後の吉野山探訪のために腹ごしらえ。

〝塩蔵した鯖が酢飯と馴染む夕方以降、できれば翌日召し上がって〟と勧められた「ひょうたろう」のみならず、郷土の味の食べ比べをしようと吉水神社鳥居脇の「醍予(だいよ)」で、柿の葉寿司を持ち帰りで購入。良質な葛の産地として名高い吉野での昼食は、黒門近くの「花屋」で食した吉野葛がけうどん(下画像)

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 エナジーチャージを済ませ、訪れたのが世界文化遺産「吉水神社」。鎌倉幕府滅亡後、建武の新政が破綻した後醍醐天皇は、足利尊氏が擁立した光明天皇に追われる形で吉野で南朝を興します。4代57年続いた南朝の皇居とされたのが、役小角が創建した吉水院でした。

 時代を遡れば、源義経が静御前と隠遁生活を送った当時の痕跡として、頼朝の追手を蹴散らすため、弁慶が親指で岩に押し込んだと言い伝えられる「力釘」が明治以降に吉水神社と改称された境内に残されています。そんなニッチな見物はさておき、上千本から下千本にかけてを一望する境内から一目千本のクライマックスともいうべき眺めを愛でることができました。

hitome-sennen.jpg【Photo】標柱の「名勝 吉水神社 別名 一目十年」とは、この素晴らしい風景を見ると十歳若返るという意味

 この世のものとは思えない美しい光景は、しかと目に焼きつけました。いかなる美辞麗句を書き連ねても筆舌に尽くしがたいその見事さを実感するには、吉野へ足を運ぶのが一番。そんな思いを強く抱いた庄イタ。

 早朝に上がってきた吉野神宮方面への車道は歩行者天国化されているため、駐車場を出たクルマは中千本と下千本を周回する観光車道へ。

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 上千本橋に差し掛かると、山肌を流れ下る奔流のごとき見事な「滝桜」に見送られて吉野を後にしました(上画像)
 
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