あるもの探しの旅

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4Kで蘇った絢爛たる歴史絵巻 〈前編〉

Il Gattopardo 山猫 4K修復版」上映によせて
ミラノ公国の礎を築いたヴィスコンティ家


 首都ローマに次ぐ国内では2番目にあたる130万の人口を擁する北イタリア最大の都市ミラノ。市内各所で新作の展示会やショーが行われる「ミラノファッションウィーク」、世界最大級の国際家具見本市「ミラノサローネ」など世界を牽引するデザイン分野をはじめ、商工業や金融の中心でもあります。

 (蛇足ながら)相互に商工業が栄え、長い歴史を有し、独自の文化を築いた都市同士という共通点から、大阪市とミラノ市は1981年に姉妹都市となっています。

donna_roiya-g.lombardi.jpg【Photo】゛G. Lombardi 1957〟のサインが入ったミラノのドゥオーモの尖塔群を描いた絵画。イタリア商船や進駐軍キャンプのコックから身を転じ、旧外国人居留地で1952年に創業した神戸で最も歴史あるイタリア料理店「ドンナロイヤ」創業者のジュゼッペ・ドンナロイヤが購入。阪神淡路大震災で被災し加納町に店舗を移転した現在も壁を飾る。伝統の味を伝える厨房を預かる渡辺シェフと接客担当のマダムと共に、時流に流されない店の変遷を見守ってきた

 インパクト重視な大阪のおばちゃんのヒョウ柄ファッションは、世界をリードするモード発信地の街を行き交うミラネーゼとは大きく違います。同じヒョウ柄使いでも神戸元町旧居留地近辺で目にするそれとは雲泥の差。...ま、姉妹都市の縁に免じ、細かいことは不問に付しましょう。

 その発祥は紀元前600年頃。アルプス以北からロンバルディア平原へと移住したケルト人によって築かれた居留地で〝平原の真ん中〟を意味するMediolanumという呼称が簡略化、Milanoとなったようです。

Milano_castello_sforzesco_natale.jpg【Photo】電飾がダンテ通りを彩るクリスマスシーズンのミラノ。14世紀半ばにミラノ僭主ガレアッツォ2世・ヴィスコンティが居城として着工し、ヴィスコンティ家の傭兵だったスフォルツァ家に権力の座が移って後に要塞化された「Castello Sforzesco スフォルツェスコ城」前のロータリーに建つ祖国統一を成し遂げた英雄ガリバルディ像

 第二次ポエニ戦争(BC219~BC201)直前に共和制ローマの支配下となってからは、アルプス越えの通商拠点として発展。フン族による破壊と再興を経て13世紀後半から15世紀中葉にかけて公国となった自治都市ミラノを統治する僭主を14代に渡って輩出した貴族がヴィスコンティ(Visconti)家です。

biscione-castello-sforza&alfaromeo.jpg【Photo】スフォルツェスコ城中庭壁面に残るヴィスコンティ家の紋章であるサラセン人を飲み込む大蛇「Biscioneビショーネ」とミラノ公国のシンボル聖ゲオルギウス赤十字が組み合わされた意匠はミラノ発祥の自動車メーカー「アルファロメオ」に受け継がれている

 家名は12世紀半ばに授かった副伯(vis-conte)に由来し、ラテン語でvice comitisは伯爵の代理人を意味するので、代官的な地位にあったことが推測されます。僭主(Signore シニョーレ)とは、王族の出ではなくとも行政権や裁判権を行使する座に就いた者を指し、覇権を競うコムーネ(都市国家)との闘いや他国との婚姻政策により権力を確固たるものとしました。

 580年の時を要して1965年に完成したミラノのシンボルといえる世界最大のゴシック建築ドゥオーモ下画像の建造に1386年に着手したのが、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1351-1402)。

facade_duomo_milano.jpg

 当時、ボヘミア・ドイツ・オーストリア・スイス・フランドル・イタリア北部・フランス東部までの広大な地域に領土を広げた神聖ローマ帝国皇帝から1395年にミラノ公の爵位を授かります。

 親兄弟間ですら骨肉相食み、ボルジア家の例を挙げるまでもなく権謀術数渦巻くこの時代。ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは他の都市国家との戦いに明け暮れ、急速に領地を拡大。自らを〝カエサルの再来〟と称したほど権勢の絶頂期を迎えます。

Massima_espansione_Viscontea.jpg【Photo】ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが版図を広げたミラノ公国最盛期の領地(1402年・グリーン)。現在はスイス領のクール司教領と神聖ローマ帝国邦領のトレント司教領(薄黄)、ヴェネツィア共和国(水色)、ジェノヴァ共和国(薄緑)、サヴォイア王国(青)やモンフェラート侯国(グレー)と境を接し、南はローマ法王領(黄)近くに及んだ。侵攻したピサ・シエナ・ボローニャを手中に収め、寡頭政下のフィレンツェ共和国を脅かしたが、ジャン・ガレアッツォがペストで没した後は縮小した

 ジャン・ガレアッツォの次男フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは直系の嫡子を残さずに没し、直系のミラノ公はそこで途絶えます。フィリッポ・マリーア庶出の娘ビアンカの夫として傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァが代わってミラノ公となって以降、フランス、スペイン、オーストリア、ナポレオン支配の時代を経てもミラノ屈指の名家の血筋は絶えることがありませんでした。

 ミラノ領主マッテオ1世(1250-1322)の弟ウベルトを始祖とする分家筋にあたる一族は、18世紀にミラノ郊外のVimodorone ヴィモドローネを侯爵領として獲得。イタリアに侵攻した皇帝ナポレオン・ボナパルト軍に兵站を提供した功績から1813年にモドローネ侯爵の爵位を与えられています。

guido visconti di modrone.jpg【Photo】1910年頃に撮影されたヴィスコンティ伯爵一家。(左から)長男グイード、父ジュゼッペ、長女アンナ、母カルラ、四男エドアルド、三男ルキーノ、次男ルイージ。当時の貴族は6歳ごろまで男児も女児のような恰好をしていた

 1898年、地方の歌劇場でのキャリアしかなかった弱冠31歳のトスカニーニをスカラ座の芸術監督に抜擢、20世紀前半を代表する世界的指揮者となるきっかけを作ったのは、繊維業で成功して財を成し、上院議員から身を転じて1898年からスカラ座の運営を任されたグイード・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ伯爵(1838-1902)。

 その息子ジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ(1879-1941)は、ミラノを本拠地とする名門クラブ「F.C.インテルナツィオナーレ・ミラノ」の旗揚げを後押し、後に会長に就任するなどした起業家・慈善事業家で、超高級ホテルVilla d'Esteがあるコモ湖畔の街チェルノッビオで製薬会社を営むエルバ家の令嬢カルラと1900年に結ばれます。

 その三男として生まれたのが、映画監督、演劇・オペラなどの舞台芸術家として輝かしい足跡を残し、庄イタが畏敬の念を抱く巨匠ルキーノ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ(1906-1976)です。

Palazzo-Visconti-Milano.jpg【Photo】ルキーノ・ヴィスコンティの生家であるPalazzoBolagnosVisconti di Modroneは、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼により「最後の晩餐」を残したレオナルド・ダ・ヴィンチ像が立つスカラ座広場から徒歩10分。Cino del Duca 通りに面した正面入口からエレガントな曲線を描くリバティ様式の鉄製ゲートを入った中庭。1959年にルキーノの弟である四男エドアルドが不動産管理会社に売却したが、内部はヴィスコンティ家の人々が暮らした当時そのままに保たれている

 日曜日の午後、子供たちを伴って出かけたヴィスコンティ家専用の桟敷席(オーケストラボックス左側4番)があったスカラ座からほど近いCino del Duca通りに面して建つのが、PalazzoBolagnosVisconti di Modrone。17世紀初頭にジュゼッペ・ボラニョス伯爵の邸宅として建造され、幾度か所有者が変わった後、1840年からヴィスコンティ一族が暮らしました。

 モドローネ公ジュゼッペ・ヴィスコンティ伯爵は1907年から名家にふさわしい間取りと内外装の増改築に取り掛かります。

Palazzo-Visconti_modrone.jpg【Photo】現在は人手に渡ったPalazzoBolagnosVisconti di Modroneの床にモザイクが残るヴィスコンティ家の紋章Biscioneビショーネ。広くイスラム教徒を指すサラセン人を飲み込む大蛇を図柄としたことから、遠い祖先は十字軍に参加した騎士であったことが推測される

 中庭を有する三層の邸宅で最も印象的なのがバロック様式の凝った装飾が施されたボールルーム下画像。そこでは毎週のように映画「山猫」を地で行くような舞踏会や、演劇好きの伯爵が主宰する演劇鑑賞会、さらにはチェロの練習を登校前2時間の日課にしていたルキーノを含め、ヴィスコンティ家の子どもたちの楽器演奏会が催されていたのだといいます。

palazzo-visconti-camera-ballo.jpg

 家族一人ごと専属で食事の世話をするメイドやウエイター、お抱えの料理人・服飾係・庭師ほか、広大な屋敷の窓の開閉専門の従僕など、常時20人は下らない使用人に囲まれた屋敷と夏と冬に過ごすコモ湖畔やイスキア島などに所有する別荘とを行き来する環境でルキーノは育ちしました。

ballo-bolagnos-1901.jpg【Photo】ルキーノが3歳になった1909年、PalazzoBolagnosVisconti di Modroneのボールルームで催された舞踏会の様子を収めた貴重な写真。映画の撮影当時、50代半ばに差し掛かっていたルキーノ・ヴィスコンティが、自己を作中の登場人物(サリーナ侯爵)に投影した唯一の映画といわれる「山猫」を見直すと、映画のクライマックスとなる舞踏会の華やかな雰囲気そのものであることに改めて気づかされる

 10代半ばを過ぎ、青年期に差し掛かると反骨精神が目覚めたのか、一度ならず家出を経験。この頃から芝居好きの父が旗揚げした劇団の手伝いで舞台に興味を持つ一方、1926年から兵役に就き、ピエモンテ州Scuola di Cavalleria di Pinerolo ピネローロ乗馬学校で騎兵訓練を受けた経験から情熱を注いだのが、ミラノ郊外サン・シーロに所有する厩舎「Scuderia Luchino Visconti」所属の合計20頭の競走馬の飼育。1942年に厩舎を手放すまで幾多のレースで勝利を重ねました。

luchino-cavallo.jpg【Photo】サンシーロ競馬場で開催されるイタリア春競馬の総決算Gran Premio di Milano(ミラノ大賞典)優勝馬となったSanzioサンツィオほか、1932年に出走した81レース中28勝の強さを誇ったのが、ルキーノ・ヴィスコンティ厩舎。サンツィオと若き日のルキーノ・ヴィスコンティ(写真右

 1936年、旅行先のパリで出入りしたサロンで詩人ジャン・コクトーやココ・シャネルらと知己を得ます。シャネルの紹介で映画監督ジャン・ルノワールの「トニ」を端緒に「ピクニック(原題:Une Partie de Campagne )」(1936)で助監督として参画したのが、天職となる映画人としての出発点となります。

 詩的な映像が秀逸なこの映画は、モーパッサンの短編小説「野遊び」を原作に、思想家ジョルジュ・バタイユの妻シルヴィア・バタイユ演じるヒロインが、婚約中に家族で出かけたピクニックで出逢った青年に感情の赴くまま惹かれてゆくというストーリー。

 道徳や理性では制御がきかない人間性の謳歌とでもいうべきルノアール作品から少なからず影響を受けたことは、後年ヴィスコンティが語っています。

 ルノアールから仏語訳版を託されたジェームズ・M・ケインの同名小説に着想を得た抗(あらが)いがたい男女の業(ごう)を描いた初監督作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)、搾取される貧しいシチリア漁民の悲哀への共感を滲ませた「揺れる大地」(1948)、南イタリアからミラノに移住した家族の崩壊を通して南北格差を浮き彫りにした「若者のすべて」(1960)までのネオレアリズモ的な作風からの転機となったのが、シチリア貴族の末裔ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ晩年の著作を映画化した「Il Gattopardo 山猫」(1963)です。

 山猫は、ヴィスコンティ映画の中でも、庄イタが偏愛する作品のひとつゆえ「Principe di Salina サリーナ侯爵 ~ 山猫の世界を体感するピュアカシミアコート(2015.12拙稿参照)の中で詳しく取り上げています。

【Movie】ヴィスコンティとの共同作業を30年以上も携わったフランコ・マンニーノ(1924-2005)作曲の遺作「イノセント」のテーマ曲に乗せ、ヴィスコンティ本人、兄ルイジの息子ジャンマリア、姉アンナの娘メラルダといった血縁者に加え、助監督を務めた映画監督のフランコ・ゼフィレッリらが登場。名家に生まれ育った生い立ちが紹介されるほか、ミラノのドゥオーモ屋上でのシーンが印象的な「若者のすべて」ほか、「地獄に堕ちた勇者ども」「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」などの映像を織り交ぜ、英語かつ約60分の長尺ながら興味深い内容

 生前から語り尽くされた感がある巨匠ヴィスコンティ、そして第16回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞に輝いた山猫ではありますが、新たな発見が必ずや得られるはずの鮮明で精細な4K修復版が3月から日本国内では最後となる上映が行われることになりました。

 本稿〈後編〉のアップ前にアーカイブ・Dicembre 2015「Principe di Salina サリーナ侯爵 ~ 山猫の世界を体感するピュアカシミアコート」を再読され、バート・ランカスターの名演が光る山猫について予習・復習を怠りなきよう願います。

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