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4Kで蘇った絢爛たる歴史絵巻〈中編〉

続「Il Gattopardo 山猫 4K修復版」上映によせて
偉大なる敗北者。王の夢・ルートヴィヒⅡ世

 東京都写真美術館を皮切りに3月17日(日)から順次各地で上映される映画「山猫4K修復版」に関しては〈後編〉に回し、今回の〈中編〉ではヴィスコンティと庄イタの馴れ初めについて回顧します。

 ヴィスコンティ作品との初めての出合いは学生時代に観た映画「Ludwig(邦題:ルートヴィヒ ~ 神々の黄昏」4時間完全版。バイエルン王ルートヴィヒⅡ世(1845-1886)が18歳で即位してのち、今も真相が謎に包まれたままの最期を迎えるまでを描いた長編巨編です。

ludwig-visconti.jpg【photo】DVD「ルードヴィヒ」復元完全版デジタル・ニューマスター/237分/税別6,000円/販売元:紀伊国屋書店©1972MegaFilm-Cinetel-Dieter Geissler Filmproduktion-Divina Film

 作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)のパトロンで、幼少期に愛読した中世騎士伝説を体現した3つの城を19世紀末に築城、40歳で謎の死を遂げた孤高の国王。

 映画をきっかけに不遜にも〝狂王〟などと称されるルートヴィヒⅡ世の生涯に強い関心を抱き、王が遺した3つの城とミュンヘンなど南ドイツからオーストリア湖水地方までワーグナーをBGMに旅をした記憶は、今も色褪せることがありません。

Ludwig_II_Bayern.jpg 1864年3月、バイエルン王国第3代国王の父マクシミリアン2世が急逝、神父への告解を終えたヘルムート・バーガー演じる18歳の新国王が、緊張した面持ちで臨んだ戴冠式の場面で映画は幕を開けます。

 ドイツ統一を目論むビスマルク率いるプロイセン王国と対峙する困難な局面にあったバイエルン王国の政務は二の次。191cmの長身でギリシャ彫刻にたとえられるほど当時の王族では目立って美しい容貌の持ち主だった若き王は、15歳で楽劇「ローエングリン」を観てからというもの、ワーグナーに心酔していました。

【photo】29歳のルートヴィヒⅡ世(1874年)

 1864年5月、潜伏先のシュツットガルトに宮中秘書官を遣わし、パトロンとなることを申し出ます。浪費癖から多額の債務を抱えて債権者から追われ、各地を転々とする流浪の身であったワーグナーの借金を肩代わりして身柄を保護します。
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【photo】16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだエリーザベト皇后(1837-1898)。皇后に淡い思いを寄せるルートヴィヒは8歳年少の従弟にあたり、孤独な王の数少ない理解者だった。皇太子ルドルフが情死して以降、無政府主義のイタリア人に暗殺されるまで黒の服装で通した

 傲慢で金銭感覚が欠如していた上、指揮者ハンス・フォン・ビューロー夫人コジマとの内縁関係が表面化するに及び、王との蜜月は1年半で終わります。ワーグナーはミュンヘン追放後もルートヴィヒに資金援助を乞い、相互の文通はワーグナーがヴェネツィアで客死するまで続きました。

 1865年6月、台本の完成から6年を経てなお上演できずにいた楽劇「トリスタンとイゾルデ」が国費で初演にこぎつけます。台本を執筆中だった楽劇「ニーベルングの指輪」上演に向け、1873年にバイロイト祝祭劇場の建造に着手。

 第1部「ラインの黄金」から第4部「神々の黄昏」まで全4作からなる長大なニーベルングの指輪や楽劇「パルジファル」は、ルートヴィヒⅡ世の庇護なくしては完成を見なかったでしょう。

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 閣僚など王の周囲から不興を買ったワーグナーの庇護にも増してルートヴィヒⅡ世が情熱を傾けたのは、ノイシュヴァンシュタインだけで当初見積もりの倍近い620万マルクの資金を注ぎ込んだ築城でした。

 ローエングリンやタンホイザーに登場するゲルマン英雄伝説を具現化した耽美世界を現出せしめんと、ノイシュヴァンシュタイン上画像 1869年着工)を皮切りに、リンダーホーフ中画像 1870年着工)、ヘーレンキームゼー下画像 1878年着工)の3つの城を築城する莫大な費用で王室の財政は逼迫。

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 ノイシュヴァンシュタインやヘーレンキームゼー建設費用捻出のため、すでに1,400万マルクの債務を負っていた1886年初頭、ルートヴィヒⅡ世は4箇所目となるファルケンシュタイン築城を夢想していました。そこで600万マルクの新たな歳出を諮るも議会で否決されてしまいます。王の生前に建設が唯一完了したのは、規模が小さなリンダーホーフだけでした。

 バブル期に日本語の標識が立った観光ルート「Romantische Straße ロマンチック街道」の終着地で、TDLシンデレラ城のモデルとして日本でも有名なノイシュヴァンシュタインは居城としての機能は整うも一部未完となります。

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 ルートヴィヒⅡ世が1874年にヴェルサイユ宮殿を訪れた4年後に着工、王の存命中に完成した「鏡の回廊」ほか、世界最大のマイセン製シャンデリアや昇降格納式テーブルを備えたダイニングルーム、ルイ14世のそれより遥かに豪華な寝室、ヴェルサイユ宮殿「大使の階段」を規範としつつも、色大理石と採光目的のガラス屋根の恩恵で明るい印象を受ける大階段室など、計画の1/4ほどが完成したに過ぎないヘーレンキームゼーは、王の没後間もなく国有化されました。

 王の隠遁の場となったノイシュヴァンシュタインで昼夜逆転の生活を送り、政治に関与せず国の舵取りを放棄したとして、老獪なビスマルクと通じた臣下ホルンシュタイン伯爵らの企てでパラノイア(偏執病)による精神錯乱の烙印を押されます。逆臣たちの手を逃れるべくチロル亡命の段取りをつけた忠臣デュルクハイム侍従武官の助言にも耳を貸そうとはせず、毒薬を用立てるよう命じるのでした。

kutsche-ludwig-nahat.jpg【photo】1880年に描かれた月夜に興じるルートヴィヒⅡ世。王が生まれたニンフェンブルグ城「馬車博物館」の展示より。王は夜陰に紛れて外出する姿をしばしば村人に目撃された。映画Ludwigでは、乗馬を好んだ王妃エリーザベトと月の光が照らす山野を巡り、リンダーホーフに招待した俳優ヨーゼフ・カインツにヴィクトル・ユーゴーやシラーの戯曲を朗唱させて悦に入り豪華な褒美を与える。カインツを伴って馬橇(そり)で雪原を駆け、(☞ タンホイザー第3幕「夕星(ゆうずつ)の歌」に乗せ、スローモーションで馬が雪原を駆ける場面の美しさといったら!!)、小型蒸気船トリスタン船上でも演じ続けるよう命じる王の機嫌取りに倦み果てたカインツは、際限のない王の要求を拒否。落胆した王はカインツと訣別する ©München, Bayerische Verwaltung der Staatlichen Schlösser, Gärten und Seen Bildquelle: Kunsthistorisches Museum

 身に迫る危険を察知していたルートヴィヒでしたが、1886年6月12日、ノイシュヴァンシュタインの塔に籠城しようとした矢先に拘束されます。王位を剥奪されたルートヴィヒは、王家の夏の離宮として使われていたミュンヘンに近いベルク城へと移送。監視下に置かれた翌13日の夜、散策に出たまま戻らず、精神科医グッデン博士とともにシュタルンベルク湖で溺死体で発見されます。

venusgrotta-Linderhof_lohengrin.jpg【photo】小編成による楽団がワーグナーの楽劇ローエングリンの一節を繰り返し奏でる中、少年期に憧れた白鳥の騎士ローエングリンの銀色に輝く衣装に身を包んだ21歳のルートヴィヒⅡ世を乗せたトリガイを象った金色の小舟がリンダーホーフの人工池に漂う。当時、プロイセンとオーストリア主導による連合軍が衝突した普墺戦争(1866)が勃発。バイエルン王国はオーストリア側について参戦。4年後の普仏戦争(1870)でもルートヴィヒの弟オットー皇子は最前線で闘った後遺症で精神に異常を来たした。オーストリア連合側の敗戦による賠償責任をバイエルンが軽減されたのは、国王が戦いに全く加担しなかったことが、結果としてメッテルニヒの温情的な処置につながったといわれる

 映画では、雨の中を夜の散策に出るルートヴィヒがグッデン博士に夜や月の神秘性こそが理性の証であると話し掛けた後、こう言葉を締めくくります。

「私は謎なのだ。謎のままでいたい。永遠に。他人のみならず自分自身にとっても。」

Herrenchimsee-ball-room.jpg【photo】ミュンヘンからザルツブルグに向かって南東約60km。湖水地方のキーム湖に浮かぶ島に造営されるも、王の死により建造が中止された3つ目の城ヘーレンキームゼー。ブルボン王朝の絶頂期に君臨した太陽王ルイ14世が建造したヴェルサイユ宮殿を手本にフランス式庭園と城郭を目指して1878年に着工。宮殿1階西側全てを占める「Spiegelgalerie鏡の回廊」は全長98mでヴェルサイユの73mを上回る。壁面の鏡17枚に映し出されるのは、44台の燭台とシャンデリア33基に灯される1848本のローソクの明かり。映画ルートヴィヒでは、ロミー・シュナイダーが演じたオーストリア皇妃エリーザベトが侍女役のフェレンツィ伯爵夫人を伴ってリンダーホーフとヘーレンキームゼーを優雅な身のこなしで見て回り、鏡の回廊の桁外れなスケールに呆れて笑い出す声がホールに響き渡るシーン(下動画 6:10過ぎ)がここで撮影された

 王は生前、3つの城は死後取り壊すよう側近に命じていましたが、その願いが実現することはありませんでした。

 独創的なトリスタン和音に象徴される官能に訴える響きを有するワーグナーの楽劇が上演される音楽祭が毎年開催されるバイロイト祝祭劇場を含め、ルートヴィヒⅡ世が遺した遺産は、20世紀以降のバイエルン州にとっては、莫大な歳入をもたらす大切な観光資源となっています。

 そんな皮肉な事実をルートヴィヒⅡ世は知る由もありません。

starnbergsee_ludwig_foundedpoint.jpg【photo】ルートヴィヒⅡ世と精神科医フォン・グッデン博士が遺体で発見された地点に立つ十字架。映画ルートヴィヒのシナリオは、王が何者かによって銃で暗殺され、シュタルンベルク湖に遺棄されたのが真相だとする従僕の会話で終わっている。そこで王が着用していた上着やシャツなどの証拠隠滅から漏れた外套に銃弾が残した穴が示される。断定的な表現を避けた映画では、湖から引き揚げられた遺骸の前に駆け付けたホルンシュタイン伯爵が「王が博士を殺害した後、自害した」と告げ、城に遺体を運ぶよう指示。横たわる王の横顔のアップで結ばれる

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 国王を籠絡したとしてミュンヘンを1865年12月に追放されたワーグナーが、1858年頃に作曲した原曲をシチリア・パレルモで死の前年に完成させたピアノ曲「Elegy エレジー(悲歌)WWV93。ルキーノ・ヴィスコンティの祖父グイードが才能を見出したアルトゥーロ・トスカニーニが1931年にバイロイトで楽劇パルジファルを指揮した際、ワーグナーの娘エヴァからトスカニーニに譜面が贈られます。

 世に出ることなく未刊行のまま眠っていた13小節からなるワーグナー最晩年に完成したピアノ曲の楽譜を入手したヴィスコンティは、自らの映画や舞台で音楽を担当してきたフランコ・マンニーノにオーケストラ用の編曲を依頼します。

 オリジナルのピアノ曲とマンニーノ指揮によるサンタ・チチェリア国立音楽院管弦楽団の哀感漂う演奏が映画ルートヴィヒで使用されました。それが世界初演であったことがエンドロールの直前、降りしきる雨の中、瞼を閉じ、口を半開きで横たわる遺骸となったルートヴィヒの横顔が大写しで静止するラストで紹介され、静かな感動を呼びました。

 現実に圧し潰されてゆくルートヴィヒⅡ世への共感と哀惜の情を抱いていたに相違ないヴィスコンティ。ラストシーンで流れるエレジーには非業の最期を遂げた王の鎮魂を祈る葬送曲としての意味合いが賦与されているように思えてなりません。

 後期ロマン派の楽曲を多用したヴィスコンティ後半生の作品の中でも、映画ルートヴィヒは、夢の世界に生きた孤独なルートヴィヒⅡ世の心象風景をワーグナーの楽曲と融合させ見事に描き切っています。

 美食家で甘い食べ物を好んだ王は30代半ばから太り始め、虫歯が進行。その痛みに苛まれていました。ヘルムート・バーガーは鬼気迫る演技で変貌著しいルートヴィヒを演じ切り、米国のアカデミー賞にあたるイタリア映画界で最高の栄誉である1973年度「David di Donatello ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞」特別賞の栄に浴しています。

josef_kainz-ludwig.jpg【photo】夕食を終えたテーブルに着いたまま、リンダーホーフに招いた俳優ヨーゼフ・カインツが朗唱するシラーの戯曲「ヴィルヘルム・テル」に恍惚として聞き入るルートヴィヒ。「お前が演じるヴィルヘルム・テルの足跡を辿ってスイスへ行こう。そしてイタリアに。そう、イタリアには是非」と王は夢見心地。忠節な真の友人をやっと見出したとして、「朝日に輝く山々、穢れのない真の王国を見せよう」と疲労が滲むカインツに馬橇への同行を求める

 オールロケによる舞台装置の素晴らしさは言うに及ばず、「ベニスに死す」で前年の英国アカデミー衣裳デザイン賞を受賞するなど、多くのヴィスコンティ映画で衣裳デザインを担当したピエロ・トージの素晴らしい仕事も見逃せません。特に撮影当時34歳で美貌のエリーザベト皇后を演じたロミー・シュナイダー下画像右の気品に満ちた香り立つような美しさが際立ちますが、それは衣裳に負うところが少なくありません。

 1955年に「Ludwig Ⅱ- Glanz und Elend eines Königs(邦題:ルートヴィヒⅡ世-ある王の栄光と没落)」が、2012年には「Ludwig(邦題:ルートヴィヒ)」がドイツで製作・公開されています。

 60年以上前の映画ゆえ、ストーリー展開が古色蒼然としているのは致し方ないにしても、故・加藤剛似の主演オットー・ウィルヘルム・フィッシャーの演技は悲劇性が希薄で、むしろ映画「パリ・テキサス」や「テス」に出演したナスターシャ・キンスキーの父クラウス・キンスキー演じる弟オットー王子が精神に異常をきたす怪演ぶりに目が奪われがち。エリーザベト皇妃など女性陣の衣装が全体に垢抜けしないのは、ドイツらしいかも(笑)。

 リヒャルト・ワーグナー生誕200年の'12年に公開された後者に至っては、ルートヴィヒ役の新人俳優は線がか細く、バイエルン王としての品格に欠け、役者としての力量不足は明らか。物語の舞台や登場人物が同じだけに余計に粗が目立ちます。芸術性が高いヴィスコンティとの落差の大きさは如何ともしがたいのでした。

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 1972年1月31日、氷点下7℃のバート・イシュイルでクランクイン。4月14日ミュンヘン王宮まで続く厳冬期から春先まで行われたロケ撮影の3か月後、脳血栓の発作を起こし入院。一命はとりとめるも左半身の麻痺が後遺症で残り、母方が所有するコモ湖畔チェルノッビオの別荘で療養します。歩行訓練などリハビリの傍ら、編集作業に自ら当たり4時間半の長尺に仕上げます。

 文字通りヴィスコンティが心血を注いだ大作でしたが、伊・仏・西独3国からなる製作会社と配給元MGMの契約では上映時間が3時間以内とされていました。やむなくヴィスコンティ監修のもと3時間5分に再編集。劇場初公開時は第三者によって2時間に短縮されたのです。

Romy-Schneider_neuschvin.jpg【photo】前触れもなくノイシュヴァンシュタイン城を訪れたエリザベート皇妃に対し、居室の窓から様子を窺っていたルートヴィヒは病気を理由に会わないことを取り乱した様子で従僕に告げる。滞在中は城を自由に使って構わないという王からの伝言を従僕から伝えられるも皇妃は入城することなく帰路に就く。ヴェール姿のエリーザベトが馬車に揺られて物思いに沈む憂いを帯びた横顔にオーバーラップして皇妃の名を繰り返すルートヴィヒの悲痛なむせび泣きが空虚に響く

 半身不随の体を押して取り組んだのが、ローマで一人暮らしをする老教授と上階を借りた家族に降りかかる悲劇を描いた「家族の肖像」(1974年)、そして妻と愛人との間で揺れ動くエゴイストの貴族が嬰児殺しに手を染めて破滅してゆく「イノセント」(1976年)撮影中に右足を骨折。次第に体力が衰えてゆく中、車椅子で仕事を続けます。
 
 イノセントの編集作業が続いていた1976年3月17日の夕刻、ヴィスコンティはブラームス交響曲2番を繰り返し聞いていました。ヴィスコンティが手掛けた映画や舞台で音楽を担当し、パレルモ貴族の血を引くフランコ・マンニーノに嫁いだ妹ウベルタに「もう十分だ」告げると、やがて静かに息を引き取りました。 

 映画ルートヴィヒは、21億5千万リラ(当時の為替レート換算で11億2千万円)に膨らんだ巨額の製作費が負担となった製作会社の倒産で散逸したフィルムを第二次大戦終結直後から「無防備都市」や「自転車泥棒」ほかヴィスコンティ作品で脚本を担当したスーゾ・チェッキ・ダミーコが中心になり復元。庄イタが初めて観たバージョンはヴィスコンティの意図に沿って再構築されたものでした。

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 映画Ludwigで初めてヴィスコンティ作品に接した頃、小学館からルートヴィヒⅡ世やヴィスコンティの足跡を追った篠山紀信氏の写真集が立て続けに発売されました。

 没後6年を経た1982年には当時まだ健在だったヴィスコンティと接した人々の貴重な証言や秘蔵資料を織り交ぜた「ヴィスコンティの遺香」が、その翌年にはルートヴィヒが遺した城を映画と同じ冬に撮影した写真集「王の夢・ルートヴィヒ Ⅱ世」が刊行されています。

 この2冊は、ヴィスコンティ自身の手で3時間に編集された「ルートヴィヒ 神々の黄昏」が日本で初めて1980年に劇場公開されるや巻き起こったヴィスコンティブームの中で企画・出版されたものです。

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 さらに写真集の刊行に合わせ、ラフォーレミュージアム赤坂を会場に、3枚の巨大スクリーン「Shinorama(シノラマ)」を使用した音楽と映像の複合によるインスタレーション展示が行われました。

 縁あって大学のサークルメンバーで会場運営のアルバイトとして連日携わったのが、篠山紀信劇場「ヴィスコンティの遺香~王の夢・ルードヴィッヒⅡ世」だったのです。

 高貴で(幼児性と紙一重なほど)純粋なルートヴィヒの精神性を示す3つの城とバイエルンの山並みを映画と同じ冬に撮影し、2冊の写真集に収められた映像がワーグナーの楽曲や映画「家族の肖像」の挿入歌イヴァ・ザニッキ「Testarda io (邦題:心遥かに)」などに乗せ、会場の幅いっぱいに映し出されます。
 

 楽劇ワルキューレ第3幕のラストで神々の長ヴォータンが朗々とバリトンで歌い上げる一節(上動画)とともに、スクリーンの前にバイエルン公国の国旗が掲揚されると巨大なファンが回り、風を受けて白地に菱形スカイブルー柄の旗がたなびき、エンディングを迎えるという趣向でした。

 生誕100年にあたった2007年、「ヴィスコンティの遺香」が復刊した折にイタリア文化会館で収録作品の写真展が開催されました。庄イタがラフォーレミュージアム赤坂に連日通い詰め、オープニングから終了まで張り付いたプログラムは大判の3連スクリーンで音楽と映像がシンクロ。ほとんど映画を観る感覚に近かったように思います。

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 当時、都内各所のラフォーレミュージアムでは企画会社「ツルモトルーム」がプロデュースする意欲的なアート関連イベントを開催していました。学業よりも優先して携わった催事から主だったものを列記すると...。

 前年公開の映画「ブレードランナー」でアートディレクターに抜擢されたシド・ミード「21世紀のカー・デザイン展」、米国の女性写真家シンディ・シャーマンのセルフポートレート展(原宿)、ロキシー・ミュージックのオリジナルメンバーでアンビエントミュージックの祖といわれたブライアン・イーノ「ビデオアートと環境音楽の世界」、ローリー・アンダーソン 「Mister Hartbrake」パフォーマンスライブ(赤坂)、ISSEI MIYAKE Spectacle Body Works(飯倉)などなど。

 いずれも先鋭的な催事ばかり。高低差をつけた薄暗い会場各所に縦置きされた36台のモニターに映し出されるスローモーション映像の一部は、Thursday afternoonと題して後に発売されました。ゆったりと薄闇にたゆとう調べや虫の鳴き声が流れるビデオインスタレーションの会期中、赤坂に毎日顔を見せていた初来日のブライアン・イーノに頂いたサイン入りのリーフレットは家宝となりました。

 何体ものマネキンが立体的に配置された会場に大都会の夜景やフィリップ・グラスのコヤニスカッティなどのBGMが流れるISSEI MIYAKE Spectacle Body Worksには、三宅一生氏は当然のこと山本寛斎氏、YMOの3人、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンも来場。ブライアン・イーノをプロデューサーに迎え、アフリカンビートとロックを融合した傑作「Remain in Light」を発表していたバーン氏の手荷物を受付にいた庄イタが預かり、言葉を交わしたのは忘れえぬ思い出です。

 「ヴィスコンティの遺香~王の夢・ルードヴィヒⅡ世」会期中には篠山紀信氏が奥様と連れ立って来場。芸能界を引退後に篠山氏とご結婚されて以降は、当時メディアに出ることがなかった南沙織さんとお目にかかることが出来たのは、得がたい経験でした。

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 ミーハー路線に転落した話を本筋に戻すべく〈後編〉では版権の関係から日本国内では最後となる上映が行われる映画「山猫4K修復版」について語ります。

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