あるもの探しの旅

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CiRO a Akashi チーロ @ 明石 〈前編〉

赤穂さくらぐみファミリー第3弾
 

 一括りにイタリア料理というのではなく、リグーリア、トスカーナ、プーリア、シチリアなど、より実像に即した地域的な細分化と深化が進んだ平成の時代。今となっては隔世の感がありますが、昭和50年代までは日本で一般に西洋料理といえばフランス料理でした。

 今回の〈前編〉では旧約聖書風にナポリピッツア黎明期を回顧。〈中編〉&〈後編〉CiRO チーロ実食レポートへとつなげます。

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創世記・天地創造

Venezia-San-Marco-cupola.jpg【photo】現在は堂内撮影不可となったヴェネツィア、サン・マルコ聖堂。撮影可能だった1995年当時、入口すぐの柱廊ホール右端の天蓋モザイク「天地創造」(1220~1230年代)。万物の創造主である神が、光と闇を手始めに空と海、昼と夜、植物、命あるもの、アダムとイブなど7日間で世界を作り上げる旧約聖書冒頭の創世記の記述を文字が読めない信者のためにビザンティン様式で図像化。一説にはUFOも描かれているというが、空腹時にはモザイクの図像自体が「額縁」の意味がある盛り上がったcornicioneコルニチョーネ(→ピッツアの縁)にこんがりと焦げが入り、モッチリ柔らかな内側に黒オリーブ、プチトマト、シラス、チーズなどの具を散りばめたジェノヴェーゼ系創作ピッツァ(下・参考画像)にも見える... かも?

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 イタリア料理が日本で市民権を獲得して定着、隆盛をみる以前の1981年(昭和56)。播州赤穂の誇りである大石内蔵助ら赤穂義士を祭神とする赤穂大石神社近くのお城通りに面した一角でイタリア料理店「さくらぐみ」を開いたのが西川明男シェフ(当時21歳)

 いささかイタリアンとしては風変わりな店名の由来は、郷里である赤穂の市木がサクラであること。そして西川さんの実家には大きなサクラの古木があり、その下で毎年花見をするのが恒例行事だったからなのだそう。

 現在の王道ナポリスタイルとは全く異なり、創業してしばらくはアメリカ経由で日本に上陸したフカフカ生地のピザをガスオーブンで調理し、提供していたといいます。

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出エジプト、もとい、入ナポリ記

San Maurizio Monastero Maggiore.jpg【photo】1503年に建築が始まったミラノ「Chiesa di San Maurizioサン・マウリッツィオ教会」。大洪水からノアの家族と雌雄つがいで動物を救った旧約聖書・創世記の箱舟の逸話を描いたフレスコ画。ロンバルディア・ルネサンス様式の簡素な造りの外観だからと素通りするなかれ。内部は別世界。1554年に製作されたパイプオルガンの荘厳な調べやバロック音楽の演奏会がしばしば行われる礼拝堂、その奥のマッジョーレ修道院は必見の価値あり。ダ・ヴィンチ派やベルナルディーノとアウレリオのルイーニ親子による16世紀の保存状態が良いフレスコ画で壁面すべてが覆われた修道院は〝ミラノのシスティーナ礼拝堂〟とも称される。観光客だらけのバチカン・システィーナ礼拝堂よりも静謐な祈りの空間に浸れるこちらの方が、ミケランジェロの筋骨隆々としたマッチョな画風を好まない庄イタ的にはお勧め

 イタメシブームが巻き起こったバブル絶頂期の1990年(平成2)、西川さんは初めて訪れたナポリ下町の「Timpani & Tempura ティンパニ・エ・テンプラ」で伝統料理研究家としての顔を持つアントニオ・トゥベッリ氏に師事。本物との目からウロコの邂逅こそが、〝ナポリばか〟を自任するほどナポリ料理、とりわけピッツァにのめり込む今日へと至るコペルニクス的転回の契機となります。

 ちなみにアントニオ・トゥベッリ氏には、西川シェフ門下生のピッツァイヨーラ松岡佳代子さんも師事しており、同窓の柴田美緒さんとコンビを組む店「Mio & Temprina ミオ・エ・テンプリーナ」をご紹介した昨年8月に写真と共にご紹介済みなので、ご記憶の方もおいでかと。
 〈 ※ 2018.8拙稿「Mio & Tempurina ミオ・エ・テンプリーナ@赤穂」参照〉
  http://blog.kahoku.co.jp/shokuweb/vam/2018/08/mio_temprina.html

 足繁くナポリを訪れて食べ歩きを重ねる一方、毎年秋にナポリで開催され、プロの職人が参加し、各部門ごとに技能を競うピッツァの祭典「Nopoli Pizza Fest ナポリ・ピッツァ・フェスト」'97にSAKURAGUMIとして参加します。この催しは17世紀まで起源が遡るナポリピッツァの伝統を継承する目的で1984年に発足した「Associazione Verace Pizza Napoletana(AVPN)真のナポリピッツァ協会」が主催する秋の恒例行事です。

 その際、西川シェフに同行したのが、1988年(昭和63)にアルバイトとして働き始め、西川さんが料理のセンスを買っていた3番弟子にあたる船曳紀三子さん(当時27歳)でした。

 ところが西川さんらに主催者が用意したのは、名だたる名店のピッツァイオーロがしのぎを削り、来場者が群がる中心エリアから遠く離れた人影のない広大な会場の隅っこ。そんなアウェー状態の中、地元「IL MATTINO」紙の記者が東洋人チームの存在に目を留めます。

 船曳さんのピッツァを食べてその味に感激した記者は、翌日の紙面でナポリ人が忘れてしまったハートを日本人が持っていると称賛。遠く日本から参加した西川さんらを継子(ままこ)扱いする運営のあり方に疑問を投げかけます。すると翌日、会場入りしたチームさくらぐみメンバーには入口近くの条件が良い場所が用意されていたのだといいます。

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十戎を授かる「汝、コルニチョーネを食べ残すなかれ」

Ghiberti-Porta-Pradiso-10.jpg【photo】花の都フィレンツェのシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属のサン・ジョヴァンニ礼拝堂。後世、ミケランジェロがそう呼んで定着した東面を飾る「天国の門」(1452年,ロレンツォ・ギベルティ作)は、このモーセの十戒ほか、アダムとイブ、カインとアベル、ノアの洪水など、旧約聖書に記された物語を図像化した10の金箔を施したブロンズパネルで構成される。現在、礼拝堂を飾る天国の門は、銀座並木通りに本店があり、かつてPiacenzaのカシミアコート(2015.12拙稿「Principe di Salina サリーナ公爵~山猫の世界を体感するピュアカシミアコート」参照)やETROのネクタイなどを購入したセレクトショップ「サン・モトヤマ」創業者の故・茂登山長市郎氏が1990年(平成2)に寄贈したレプリカ。オリジナルはドゥオーモ付属博物館所蔵

 西川さん一行がナポリで出合ったピッツァは、生地の外側表面はカリッ・サクッとして中心部はモッチリ。独特な生地の食感を生み出す決め手が、薪火の輻射熱で炉内を450℃から485℃に保つナポリ製の薪窯であると知った西川さんは一つの決断をします。

 炉内の保温性能に優れ、60秒~90秒で焼き上げるナポリピッツァの焼成に理想的な炉床温度400~420℃を保持しやすく、堅牢で高性能な薪窯を日本のピッツェリアとしては初めてナポリからオーダーメードで取り寄せたのです。

 さらにグラニャーノ産パスタ《2010.7拙稿「珠玉のパスタ、Gragnano グラニャーノ」参照》や本場のピッツァ職人が厚い信頼を寄せるデュラム小麦、空輸による鮮度の高い水牛乳モッツァレラチーズなど、店で使用する素材を厳選してきました。

 ナポリ製の薪窯のごとく熱いハートと技が認められ、1997年(平成9)9月、さくらぐみはイタリア国外の店では初めて真のナポリピッツァ協会92番目の認定店となります。それはナポリ伝統の食文化に心からの敬意を抱く西川明男オーナーシェフにとって何よりの嬉しい勲章でした。

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バベルの塔「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」

stufa@regalo22.jpg【photo】色といい形といい、ピッツァを街頭で売り歩く際に使われ、内部が3枚程度を重ねる棚状の構造になった銅や錫の容器「Stufa Napoletana ストゥファ・ナポレターナ」(上画像中央/ロケ地:大阪市福島区福島1丁目「La Pizza Napoletana Regaloラ・ピッツァ・ナポレターナ・レガロ」)が絵のモデルと思いきや参考リンク、古代ローマの円形闘技場コロッセオに着想を得たのだというピーター・ブリューゲル「バベルの塔」(1563年,ウィーン美術史美術館蔵/ 下画像)。創世記によれば、東方からシンアルという地に至ったノアの子孫である人間たちは、町を造るにあたり「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と声を掛け合いながら天まで届く塔を造ろうとした。これを見た神は意思の疎通が出来ないよう、互いの言葉を異なるものとし、塔の建造は頓挫。言語が多様化したという

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 日本人が作るナポリピッツァの実力を協会に認めさせたのは西川さんの情熱があってのこと。日本初の快挙を成し遂げるに際しての最大の功労者こそが、当時ピッツァ窯を任されていた船曳紀三子さんだったのです。

 紀三子さんは、現在も師と仰ぐ西川シェフから料理の腕を見込まれ、'97年にナポリ修行に送り出されます。ナポリ中心部から西に向かった近郊のBagnoli バニョーリ地区にあるAVPN認定店「O'Calamaro オ・カラマーロ」で名匠ガエターノ・エスポースィト師から本場の技と心を会得。協会の認定は、ピッツァイヨーラとして成長し、日本に帰国して間もなくのことでした。

※再生時に音がします

【Movie】AVPN技術委員やナポリピッツァ職人協会会長を務めたマエストロ、ガエターノ・エスポースィト氏が自身の歩みを語る。2001年、ナポリ市ヴォメロ地区に自身の店「L'Arte della Pizza」を開くまで所属した「O'Calamaro オ・カラマーロ」で、船曳紀三子さんにピッツァ作りを指導する様子を収めた写真が2分20秒付近で登場。パルテノペ総料理長、渡辺陽一氏の著作「生活人新書 至福のナポリピッツァ」(2002.6NHK出版刊)と共に、庄イタのナポリピッツァに関するニッチかつディープな知識の源泉となった雑誌BRUTUS「日本のピッツァはこれでいいのか⁉」(1996.9.15号)。日本のピッツァを食べ歩き、完膚なきまでにメッタ斬りした親日家のガエターノ・ファツィオ氏ら3名のナポリ・ピッツァ協会メンバーの一人がガエターノ・エスポースィト氏だった
 
 室町時代に起源が遡る船曳姓は兵庫県南西部から岡山県東部にかけて多く、船引という播磨地域の古い伝承に基づく地名に由来するとのこと参考リンク

 2003年(平成15)に紀三子さんが職場結婚したお相手で、後輩の小谷聡一郎さんは、ル・コルドン・ブルー東京校で習得したソース主体のフランス料理の濃い味付けに馴染めずイタリアンに転身。ナポリ出身のサルヴァトーレ、ラッファエーレ、ルイージのクオモ3兄弟が東京中目黒で営んでいた「サルヴァトーレ」勤務時代、店に食べに来た西川さんのもとに移籍、さくらぐみでナポリ料理の腕を磨きました。

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水牛の乳とオリーブの蜜が流れる地、カナン、もとい明石

presepio-napoletano.jpg【photo】ナポリの伝統工芸「プレセピオ」。Di Matteo, Da Michele など人気のピッツェリアからすぐ近くの「Spaccanapoli スパッカナポリ」地区の一角Via San Gregorio Armeno サン・グレゴリオ・アルメーノ通りは、プレセピオの職人街になっている。1年を通してこのようなキリスト生誕の場面を芸術性の高いジオラマで表現する聖家族ほか、ナポリピッツァを食べさせてくれる店の小道具として欠かせないナポリの仮面劇の道化プルチネッラほか、芸能人やサッカー選手などの人形が見られる

 結婚の翌年、お二人は海の幸に恵まれた明石での独立を果たします。そこは藩制時代は城下とは橋で結ばれた米蔵や茶屋(≒ 遊廓)があった浮島で、現在は錦江橋で繋がる明石市中崎。石造りの灯台としては日本最古の旧波門崎燈籠堂(国登録有形文化財)越しには淡路島と明石海峡大橋のパノラマが開けるビルの2階というロケーションでした。

 独り立ちする紀三子さんには、西川シェフからキラキラと海面が光り輝く瀬戸内海のようなウルトラマリンブルーの中に淡いパウダーブルーの丸タイルを散りばめた装飾が施された薪窯が嫁入り道具として贈られました。

 3か月後に出産を控えた紀三子さんと聡一郎さんが、夫婦二人三脚で歩み始めた「Trattoria Pizzeria CiROトラットリア・ピッツエリア・チーロ」は、たちまちにして予約困難な人気店となります。

 2016年9月、明石港に面した現在の場所に移転。遠方から訪れるピッツァ好きを含め、数多くのリピーターに支えられて今日に至っています。

 実のところ今回ご紹介しようと思っていた昨年11月と今年3月の食レポ2回分 @Ciro。黎明期とドッキングさせてしまうと、あまりに長文になります。申し訳ありませんが、次回に譲らせて下さい。Ci vediamo ~♪.


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