あるもの探しの旅

メイン

2016/09/29

鳴子「むすびや」復活へむけて

鳴子の米プロジェクトの新たな挑戦


 コメ余りによる生産者米価の低迷、そして住民の高齢化と人口減少に直面した我が国の中山間地域では、耕作放棄地が広がり続けています。

 その典型的な縮図ともいえる一つが、秋田・山形との県境に位置し、宮城県内で唯一の特別豪雪地帯に指定されている宮城県北部の大崎市鳴子温泉地域

2016.9.24-narugo.jpg

【Photo】9月末の週末。実りの季節を迎え、黄金色に染まる宮城県大崎市鳴子温泉鬼首 上川原地区

 なかでも山間部の鬼首(おにこうべ)地区は、長雨と冷夏を引き起こすオホーツク海高気圧が優勢な夏に吹く東風「やませ」の影響を受けやすく、かつては年によって皆無作となる稲作農家も少なからずありました。「鬼首のコメはまずくて牛も食べない」と揶揄され悔しい思いをしたそうです。

fiume-arao.jpg

【Photo】鳴子温泉郷の入口にある上川原地区から、28年に及ぶ難工事の末、昨年11月に開通したR108花渕山バイパスを経由して秋田県境へ向かって20kmあまり。栗駒山系の峰々が迫る山あいを流れる荒雄川。日の目を見ることがなかった東北181号の試験栽培が2006年に行われたのは、ここ鬼首中川原地区と山あいへと更に分け入った寒湯(ぬるゆ)地区・岩入(がにゅう)地区だった

 温泉街の近くを流れる江合川(荒雄川)の源流域となる鬼首地区と中山平地区のコメ作りに一つの希望の光を灯したのが、2001年(平成13)に「ササニシキ」や「ひとめぼれ」を育種した宮城県古川農業試験場で寒冷地向けに開発された品種「東北181号」でした。

 2005年(平成17)の秋、生命と生存のための食糧の作り手と農地保全の大切さを訴え続けてきた民俗研究家・結城登美雄氏の提唱により、生産者・旅館経営者・直売所グループのお母さん・木工品の職人・行政ら30名で構成される「鳴子の米プロジェクト会議」が発足します。 

yukimusubi2016.9.24.jpg

【Photo】鳴子温泉郷の最深部にあたる鬼首(おにこうべ)。トンボが舞う田んぼで収穫を待つばかりとなった鳴子の米プロジェクトの象徴であるコメ「ゆきむすび」。9月に収穫される早生種で、今年も収穫が始まった9月24日(土)、通りかかった鬼首では、頭(こうべ)を垂れた稲穂が秋風に吹かれていた

 プロジェクトが掲げた目標は、生産者だけでなく地域を挙げて地元のコメ作りを支えること、生産者が持続可能な価格設定をすること、食べる人と作る人との信頼関係を構築すること。

 その理念と実践を知って以降、ずっとずっと庄イタが応援している取り組みです。

〈2008.10 拙稿「鳴子の米プロジェクト」稲刈り交流会【前編】【後編】 
 2014.6 拙稿「ゆきむすび 田植え交流会2014」【前編】【後編】参照〉

komepro_pack2010.jpg

【Photo】雪深い山里で命の糧を作る人の思いが一粒ごとに込められている「ゆきむすび」。事前に予約し、毎年手元に届くのを心待ちにしている新米のパッケージに記されたメッセージ。豊という漢字の旧字体〝豐〟は、穀物を足付きの器「高坏(たかつき)」に盛った様子が語源。旧字体には、山の中で育つ稲穂が見て取れる

 国の減反政策により、作付けが行われることがなかった東北181号の奨励品種登録を目指す実証実験として、2006年(平成18)5月中旬、残雪に包まれた栗駒山系の冷たい雪解け水が流れ込む鬼首の稲作農家3戸が、10アールずつ合計三反歩の水田で試験栽培の田植えを行いました。

 東北181号は、コメどころ宮城の代表的な奨励品種「ササニシキ」や「ひとめぼれ」が生育できない山間地特有の日照量が限られる冷涼な気象条件に見事適合。豊かな実りを得たのです。

2016.9.24-ganew.jpg

【Photo】杭掛けの準備を整え、収穫を待つゆきむすびと、すでに刈り取りを終え、杭掛けされたゆきむすび。ここは荒雄岳を迂回するように鬼首の最深部に分け入った上ノ台地区。廃屋が散見されるこの一帯で大地を耕す人がいなくなった時、こうした瑞穂の国の原風景は、たちまちにして失われてしまう

 地域の相互扶助「結(ゆい)」の復活、そして農村と都市とを結ぶ懸け橋となることを願い、2007年12月に「ゆきむすび」と名付けられた東北181号は、県の奨励品種として翌年2月登録されます。

 今年度産米の稲作農家が農協から受け取る仮渡し金は、宮城ひとめぼれで1俵60kgあたり1万1千円程度が見込まれています。農家の採算ラインを大きく下回る1万円を割る事態に至った米価の暴落にひとまず歯止めがかかった格好ではあります。

2016.9.24-onikobe.jpg

【Photo】30万~20万年前の火山活動で形成された鬼首カルデラの平野部分、上山崎地区の大場隆英さんの圃場。手間がかかる杭掛け・日差しを浴びた天日乾燥による「ゆきむすび」は500俵限定。11月末にで予約者の手元に届く

 余剰小麦の輸出拡大を図る米国の意向で推し進められた戦後の復興期に始まったパン給食が功を奏し、コメ中心だった日本人の食生活は様変わりしました。北米や豪州など9割を輸入に依存する小麦とは違って、コメは自給可能な日本人の伝統的な主食です。

 瑞穂の国ニッポンの国土保全にも役立つコメ作りを続けていくうえで、1年間の労働や必要経費を差し引いた対価として、果たしてこれは妥当な額なのでしょうか?

 日本の農業が国際市場で競争に打ち勝つというお題目のもと、農地の大規模集約化を目指そうと、平成19年度産米からは、4haに満たない耕作地の稲作農家への国の財政支援が打ち切られました(中山間地域には基準の8割程度の緩和措置あり)

ichio-oba2016.9.24.jpg

【Photo】鬼首・山崎前地区でゆきむすびを育てている大場市雄さんの圃場。繁殖牛1頭を飼い、その発酵堆肥をコメ作りに活用。杭がけのため稲を束ねていた奥様は「鬼首は雪深いけれど、春が来れば自然に解けるから苦にならない」とカラカラと笑った

 国の方針転換により、担い手として国の支援対象となったのは、鳴子地域の稲作農家620戸のうち、わずか5戸に過ぎません。

 グローバル化・空洞化が進む工業生産品と同じ市場原理を導入した霞が関の発想と地域の実情とのズレは明白でした。「このままでは地域の疲弊は進む一方。」そんな危機感からスタートした鳴子の米プロジェクト発足3年目の2008年(平成20)、推進母体である鳴子の米プロジェクト会議は、恒常的な組織としてNPO法人化されます。

 鳴子の米プロジェクトでは、農家の手取り額として玄米1俵あたり1万8千円を保証。購入者が支払う60kgあたり2万4千円との差額6千円は、若者を中心に地域を支える後継者を育成するためと事務局運営の必要経費に充てています。

miyagiroman_kobayashi.jpg

【Photo】(株)こばやし(本社:仙台市宮城野区)が2008年(平成20)に発売した駅弁「宮城ろまん街道」(税込850円)。2つのおむすびに使用されるお米は「ゆきむすび」。包装紙には鳴子の米プロジェクトに当時参加していた鬼首と中山平地区の作り手24名の顔が揃う

miyagi-roman-kaido.jpg

 ゆきむすびは、低アミロース米特有のモチモチした粘りが強い食感と、特Aの常連である宮城産ひとめぼれに勝るとも劣らない食味の良さを兼ね備えます。炊き立てはもちろん、冷めても美味しいため、お弁当やおにぎりにも向く用途の広いお米です。

「初めて人に美味しいと言ってもらえるコメができました。」東北181号の試験栽培への協力を2006年2月に決断した曽根清さん(上画像左から11番目・故人)の言葉は、今も耳に残っています。〈2010.12拙稿「酷暑を乗り越えた『初ゆき』の味」参照〉

 食べる人の安全を考え、除草剤や化学肥料の使用を県の慣行栽培比5割以下までに抑えたゆきむすびの対価は、ごはん茶碗1膳あたり約24円。米国資本の某ファストフードのハンバーガーは100円。子どもたちに伝えたい味は果たしてどちらでしょうか?

27erYukimusubi-dobu.jpg

【Photo】冷めても美味しく用途の広い「ゆきむすび」。全ての商品にゆきむすびを使用するおにぎり専門店「おむすび権米衛アパホテル神田神保町駅東店(下)のように、おむすびやお弁当が美味しいのは言わずもがな。加工品で庄イタが最も愛好するのが、濃醇な甘酸っぱさが堪能できる「ゆきむすび 鬼のどぶろく」(上・300mℓ 税込750円)

omsubi-gonbe-kanda.jpg

 9月24日(土)、秋田・湯沢に向かう道すがら立ち寄った鬼首では、好天のもと早生種であるゆきむすびの稲刈りに汗を流す農家の姿が見られました。

 プロジェクト発足3年目からゆきむすびを栽培しているという山崎前地区の大場市雄さんによれば、寒冷地での栽培に適したゆきむすびゆえ、初夏に高温傾向が続いた今年は分けつ数が少ない上、スズメによる食害も少なからず発生。収量的には少ないとのこと。

 ゆきむすびの購入者も参加して例年行われる5月末の田植え交流会や9月末の稲刈り交流会で振る舞われる食事でお世話になる「やまが旬の市」のお母さんたちも、ゆきむすびの栽培農家にとって、除草や病害虫との闘いに加え、今年は暑さで苦労したと口を揃えます。

 今年も予約済みの28年度産米。12月初旬、鳴子に受け取りに行くことになっています。手を合わせて頂くことにしましょう。

harvest-yukimusubi2016.9.24.jpg

【Photo】親・子・孫。先祖伝来の田んぼに家族三世代が集い、ゆきむすびの収穫・杭掛け作業に精を出す。鬼首・上山崎地区にて
 
 NPO法人鳴子の米プロジェクトが、大切な命の糧を作る人と食べる人との縁を結ぶ場所として、大崎市鳴子温泉要害地区のR47に面した農協の施設を借り受け、おむすびを提供する「むすびや」を土日限定営業でオープンしたのが2009年12月。

 麹南蛮味噌焼き、青菜漬巻き、クルミ炊き込み、きな粉、古代米炊き込みなど、地元のお母さんが握った鬼首産ゆきむすび100%のおにぎりは常時10種(120~140円)。岩手・野田村の塩、宮城・七ヶ浜「星のり店」の海苔といった選りすぐりの海産物ともコラボ。

kobiru_2008.jpg

 具だくさんの味噌汁・煮物の小鉢・漬物と、宝石のような前出のおむすびから2つが選べる農作業の合間に田んぼで食する「小昼(こびる)」をイメージした「小昼らんち」(600円)も人気を博しました。

 こうして過去形で語るのには理由があります。鳴子温泉を訪れる観光客や地元の人々で賑わったむすびやは、2011年(平成23)の東日本大震災で設備が損傷。2013年末の賃借契約満了をもって建物が取り壊されたのです。

 再開を待ちわびる声に背中を押されたNPO法人鳴子の米プロジェクトでは、比較的少額な個人からの寄付金を募るクラウドファンディングの手法を取り入れて待望久しい「むすびや」営業再開に向けて始動しました。

logo_musubiya@narugo.jpg 9月15日、READYFORに支援窓口が開設された「鳴子の米プロジェクト、伝説のおにぎり屋『むすびや』を復活!」。

 来年4月の復活を目指し、資金の一部250万円をインターネットを介して2か月間で調達しようという試みです。

 おむすび10個引換券(学生限定)ないしはサンクスレターが届く一口3千円ほか、鳴子の温泉宿利用券と交流会無料参加資格が得られる一口1万円から5万円まで、多彩な特典つきの支援コースが用意されます。

 11月14日(月)23時までに目標額に達しない場合、善意が活かされることはありません。現時点で目標額の40%強の資金協力を得ています。

onikobe2016.9.24.jpg

【Photo】北東イタリア・チロル地方に相通じる景観を生む神室連山を背景に一面の穂波で黄金色に染まった鬼首。そこに人の温もりを感じるのは、営々と築かれてきた耕土の営みがあってこそ

 2007年3月4日、東北181号が初めて世に出た「鳴子の米発表会」で配布されたパンフレットに記された鳴子の米プロジェクトの提唱者である結城登美雄氏の言葉の一節を最後にご紹介しておきましょう。

 ----この世には、あきらめてはいけないことがあり、失ってはならないことがあります。私たちの「生命と生存のための食料」(ソクラテスの言葉)と、それを育ててくれる人びとと大切な農地の存在です。

*****************************************************************

鳴子の米プロジェクト 

◆28年度産ゆきむすびのご予約はFAX(0229-29-9437)で。
 申込書はこちら 201604yukimusubiyoyaku

◆「むすびや」復活のご支援はREADYFORサイトで。
 申込みはこちら https://readyfor.jp/projects/musubiya

baner_decobanner.gifブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

2015/10/18

山に聞き 牛に聞く

中 洞 牧 場 牛 乳
健やかで幸せな牛から おいしい牛乳
自然と共生する「日本の山地(やまち)酪農」
〈2015.7.18拙稿〉【 続 編 】

nakahora1-2015.7.13.jpg【Photo】今年は10月6日に初霜が降りたという中洞牧場。夏の盛り、爽風が吹き抜けてゆく山の稜線など、牛は思い思いの居心地の良いお気に入りの場所で青草を食む

 この夏に出合い、ススキの綿毛が秋風に揺れる季節へと移り変わった今、改めて噛みしめ直している言葉を今回のタイトルとしました。そう、あたかも牛の反芻のように。

casa-nakahora.jpg【Photo】中洞牧場の事務作業、牧場長の中洞夫妻・社員・研修生の住まい、見学者の宿泊などの役割を果たす研修棟(上写真・黒屋根の建物)完成記念として入口の壁に掲げられているのが、額装された下写真の言葉

sentile-monte&mucca.jpg

 盛岡から東へ車でおよそ2時間。すでに朝は氷点下の冷え込みになっているという岩手県下閉伊郡岩泉町で、年間を通して屋外で牛を放牧する山地酪農を実践。並外れた美味しさを体験できる牛乳と乳製品を生産する「中洞(なかほら)牧場」で、2012年6月に完成した研修棟の入口にこの言葉は掲げられていました。

 牧場長の中洞 正さんからサイン入りで頂戴した最新刊「山地酪農家 中洞正の生きる力」(六曜社刊)にも同じ言葉が記されています。

autograph-nakahora.jpg【Photo】最新刊の表紙裏にスラスラとサインをして頂き、落款を捺印された途端、中洞さんは頭をかきながら「あ゛っ~、押す向きを間違えちゃった」(笑)

 庄イタが中洞牧場を訪れたのは好天に恵まれた7月中旬。抜けるような青空からは真夏の日差しが降りそそいでいました。北上山地の標高710m~860mに拓かれた中洞牧場ですが、まだ昼前だというのに、車の温度計が示す外気温は、28℃を越えていました。

 日本の酪農ではごく一般的な濃厚飼料を与えるためのケージ飼いする牛舎が存在しない中洞牧場。生体リズムで乳が張ってくる朝夕2回、群れで行動する牛たちは総面積50haにおよぶ広大な牧草地から自発的に搾乳所へと集まってきます。

 通常、いずれ出荷する家畜には名前を付けません。牛には出生後すぐに10桁の数字からなる個体認識番号を記した耳標(じひょう)と呼ばれる黄色いタブが付けられるだけです。

 中洞牧場はその点でも違います。「大島優子」(!!)「悦子」「ゆかり」「すず」といったヤマトナデシコ系に加え、ニュージーランド生まれのジャージー牛は、青い目を連想させる「バーバラ」や「ニコール」。我が郷里・ピエモンテ州ランゲ丘陵の森の良い香りが漂ってきそうな「トリュコ」だっています。「きなこ」「みたらしこ」といった和風スイーツ系の「黒蜜」もいますが、「壇蜜」はいませんでした。

yco-e-nakahora.jpg【Photo】1999年8月生まれで現在16歳で最年長のY子。中洞さんが歩み寄ると、顎を中洞さんの膝に預け、安らいだ表情を浮かべ(⇒そう庄イタには見えた)、瞑目したままじっと動かなくなった

 こうした名前は、搾乳をはじめとする牛の世話や、製品の加工、灌木の伐採など、牧場の運営・管理作業を住み込みで行う社員や研修生が名付け親となって付けたものです。南部曲がり屋の一つ屋根の下で牛馬を家族同様に扱ってきたこの地方の伝統が、そうさせるのかもしれません。

nakahora2015.7.13.jpg

 広大な牧草地を中洞さんの案内のもと車で巡る中洞牧場の見学ツアーは、山を切り開いた地形そのままの急斜面もありスリル満点。運動豊富でいずれ劣らぬアスリート揃いの牛たちは、急斜面をものともせず移動し、食べ頃の野シバが生えている場所で時間を過ごすのだといいます。

nakahora2-2015.7.13.jpg 離乳後に独り立ちしたばかりのつぶらな瞳の仔牛ですら、トゲのある野バラほかアジサイ・ワラビなど食用として適さない植物には草食動物の本能から口をつけません(上写真)。ちょうど今頃の10月半ばには牧草を食べ尽くすため、採草地から採取した乾草やサイレージが飼料に切り替わります。
nakahora6-2015.7.13.jpg すると青草の水分とカロテン由来の緑がかった青白い色のさらっとした飲み口から、乾草中心の給餌によって乳脂肪分が増加し、色が黄色く濃厚な味に変化します。それでも超高温殺菌によるタンパク変性が起きない中洞牧場牛乳の飲み口は、後味に重ったるさが残りません。FOODEX JAPAN 2013において実施された「ご当地牛乳グランプリ」で、実質的な頂点に輝いた中洞牧場牛乳の卓越した風味に関しては既報の通りです。

【Photo】中洞牧場の研修棟に到着してすぐ出していただいたウエルカムドリンク。前日に搾乳して殺菌したコップ1杯のジャージー乳。温めて飲むとまた格別とはいうものの、牛たちを眺めながら頂くひんやり冷たい牛乳の美味しいのなんのったら!!

 牧場を巡る見学ツアーの途中、中洞さんは何度か車を停めてさまざまな話をして下さいました。牧場訪問直後のレポート「中洞牧場牛乳」では触れなかった内容を今回はご紹介します。

nakahora3-2015.7.13.jpg【Photo】牧草地の境界線に立つ中洞さん。1984年に11頭のホルスタインとともに入植した当初は、境界の先に広がるような灌木とクマザサなどが生い茂る手つかずの土地だったという

 牛を野に放つと木の葉や野草を食べながら徐々に日当たりの良い空間ができ始めます。上写真にある境界の手前側に生えている再生力に優れた在来の野シバが表土を覆うまでに3年ほどを要し、それで植生は安定します。

 一般的な日本の酪農では欠かすことのできない濃厚飼料の原料となる輸入穀物で常に問題視されるのが、遺伝子組み換えやポストハーベスト農薬。そうした不安要素とは無縁の無施肥・無農薬で育つ青草や自家製の乾草を食べる健康な牛の排泄物は、野シバの良き養分となります(下写真)

nakahota7-2015.7.13.jpg 放牧を初めて30年以上、外来種のカモガヤなど生育が早いために牧草地で導入されるイネ科の植物には投与される場合が多い化学肥料に頼らずとも、中洞さんは自然の摂理に寄り沿いつつ、牛と人の共同作業で緑なす健全な放牧地を作り上げてきたのです。

 野シバの上を歩いてみると、上質なカーペットのように弾力があり、フカフカであることに気付きます。これは長い年月をかけて幾層にも重なったランナーから出る根がびっしりと表土を覆っている証拠です。中洞さんの説明では、A3判の用紙大の面積に生えている野シバの根を繋ぎ合わせると、その長さはなんと20mから30mにも達するのだといいます。

nakahora4-2015.7.13.jpg【Photo】野シバは地上と地中にランナー(葡伏茎)を横に延ばしながら根を地中深くまで張って次第に大地を覆ってゆく。冬は枯れるが、春になると新芽を出して幾層にもそれが重なり合うことでバリアの役割を果たして他の植物の侵入を阻む

 その保水力たるや、ブナにも引けを取らぬ相当なものでしょう。温暖化が原因とされる地球規模の気象の極端化によって、局地的な豪雨による土砂災害が頻発しています。表土が流出しやすい傾斜地の土壌保全に果たす野シバの力は想像を遥かに超えていました。

jimin-koyaku.jpg【Photo】3年前の年末総選挙で自民党が掲げた選挙公約ポスター(大笑)。当時政権の座にあった民主党への批判票で圧勝した自民党のどなたか、お得意の「丁寧な説明」をして下さいな

 およそ食糧自給の重要性など念頭にない経団連や産業界の後押しを受け、日本の食を支える心ある人々が被る損失は、補助金で穴埋めしようという安易な瀬踏みをしている現政権によって、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に参加する道筋がつきました。

 秘密裏に進んだ妥結実態が次第に明らかになるに従って、一次産業従事者からは将来への不安の声が上がっています。現状でも歯止めがきかない耕作放棄地の拡大が懸念される中で、放牧地への転用を期待する声も聞かれます。

 安心して口にできる乳製品を届けたいという一心で歩み続けてきた中洞さんの30年におよぶ足跡は、資源に乏しい日本が、これから歩むべきひとつのロードマップと言えるのではないでしょうか。

nakahora-curry.jpg 見学終了後は、中洞さんと共同生活を送る牧場のスタッフの胃袋も満たす「牧場カレーライス」(上写真・1000円)を中洞牧場長とともに食しました。これは中洞牧場から岩手畜産流通センターに出荷され、食肉に加工された牛肉を使っているのだそう。面倒を見てくれた人たちの労働の糧となることで、牛は最後まで役目を立派に果たしてくれているのです。

nakahora-ice-milk.jpg 食後は中洞さんのご好意で地元の和グルミと絶品ミルクの風味、隠し味の生醤油の香りが混然一体となって調和する限定品カップアイス(上写真)がデザートで登場。これがまた結構なお味で。

 中洞さん、牧場の皆さん、ご馳走さまでした~。(^0^ 
大変お世話になりました。 m(_ _)m

*****************************************************************

中 洞 牧 場

住:岩手県下閉伊郡岩泉町上有芸字水堀287
・Phone:050-2018-0112
・URL: http://nakahora-bokujou.jp/index.html
・事業主体:農業生産法人 株式会社 企業農業研究所
       株式会社 山地酪農研究所
・見学随時:詳細はコチラ参照
・問い合わせ:https://nakahora-bokujou.jp/bokujou/mail.cgi


baner_decobanner.gif
ブログランキング・にほんブログ村へ


2013/12/15

会津の橙、「身不知柿」

terme_ashinomaki.jpg ぽつぽつと降りだした雨に急かされるように後にした大内宿。R118下野街道を大川ダムから大川(阿賀川)沿いに進むと、渓谷を見下ろす芦ノ牧温泉を通ります。「牛乳屋食堂」の看板を左折した先は会津鉄道芦ノ牧温泉駅。小さな木造の駅舎にいつの間にか住みついたのだという「バス」という名のメス猫が名誉駅長を務めています。どうやら"構内巡回"の名目で職場から姿をくらますことが多いらしく、空振りのリスクは避けることにしました。本能と欲求に忠実な仕事ぶりは動画とブログ「ネコ駅長『ばす』の日記」で。

【Photo】会津若松市街地と大内宿まで、ともに車でおよそ30分の中間地点にある芦ノ牧温泉郷

 大内宿近辺では目にすることすら稀だった人家が道沿いに増え、その庭先を飾る鮮やかな橙(だいだい)色に目を奪われるようになりました。登る日輪が照らす東の空、沈みゆく夕陽に燃える西の空、そして茶の間ではコタツの卓上に置かれたミカンの色である橙色の語源となった「橙(ダイダイ)」は"代々"につながる縁起物ゆえ、正月飾りに欠かせません。Bitter orange(英語:ビターオレンジ)、Arancio amaro(イタリア語:アランチョ・アマーロ)という名の通り、酸味と苦味が強く生食には適しません。地球温暖化が進む昨今、その栽培の北限は福島浜通りから宮城県南にまで達しようとしています。しかるに冬の冷え込みが厳しい会津での露地栽培は不可能。会津で橙色の果物といえば、「身不知(みしらず)」をおいて他にはありません。

mishirazu_cac hi2013.jpg【Photo】すっかり葉を落とした枝からこぼれんばかりに橙色の実をたわわに結んだ身不知柿が冬近しを告げる。会津若松市大戸町雨屋にて

 現在の二本松市小浜一帯を治めていた戦国武将・大内氏が、西念寺の僧侶夕安(せきあん)を中国に留学させ、帰朝時に中国から苗木を持ち帰ったため、「西念寺柿」という別称も存在する身不知柿。父・輝宗の弔い合戦に臨んだ伊達政宗に追われ、会津に逃れた大内・畠山ら二本松勢とともに16世紀末に会津へと持ち込まれたといわれます。

mishirazu2_cachi.jpg【Photo】晩秋の雨にしっとりと濡れ、より一層鮮やかさを増した身不知柿

 初代・朝宗が居城を構えた伊達氏発祥の地が福島県伊達市。同市北部の梁川町五十沢(いさざわ)地区から宮城県丸森町耕野(こうや)地区にかけては、寒風に晒して柿渋を抜き、うま味を凝縮させる「あんぽ柿」ないしは「ころ柿」と呼ばれる干し柿の一大産地です。そこで使われるのは同じ渋柿でも「蜂屋柿(はちやがき)」と「平核無(ひらたねなし)」。明治期には甘柿・渋柿あわせて1,000種類が存在したという日本では、現在およそ300種が栽培されているといいますから、ところ変われば品変わる、ですね。

 身不知柿という風変わりな名の由来には諸説あります。まずは重さで枝が折れるほど大量の実を結ぶ身のほど知らずの柿だからというもの。我を忘れて食べ過ぎてしまうから、という異説にも頷けます。さらには蘆名と伊達が領地争いを繰り広げた室町期、ときの足利将軍に献上したところ、「これほど美味しい柿を知ることがなかった」と賞賛を得たという伝承も存在します。当の柿は真相を黙して語りませんが、その真相やいかに。

mishirazu3_cachi2013.jpg 会津を訪れたのは11月半ば。現在では会津一円で栽培される身不知柿が色づく季節を迎えていました。そぼ降る雨の中、柿を収穫していた方がおいでだったので、千載一遇の機会と路肩に停めた車を降り、話しかけました。話が出来すぎですが、そこは会津若松市大戸町雨屋。南会津鉄道の無人駅「あまや」がある地区です。阿賀川扇状地の南端にあたるそこから3kmあまり北上すると、皇室に献上する身不知柿の樹が西向きの斜面を覆う一大産地、門田町御山(もんでんまちおやま)となります。

【Photo】見ず知らずの庄イタに、雨の中で収穫したばかりの身不知柿を分けて下さったのがこの方。重ねて謝意をお伝えして、ありがたく頂戴した

 「これが身不知柿ですか?」という庄イタの問いに脚立の上で柿もぎ作業中だった男性は、収穫の手を休めずに「そうですよ」と応じます。聞けば畑の持ち主から依頼され、一人で収穫を行っているところでした。10月下旬から11月いっぱいが収穫時期となる身不知柿も、近年では温暖化の影響で、色付きが遅れがちなのだそう。ムラなく色がつくよう育てるのが栽培農家の腕の見せ所なのだといいます。卒爾ながら声を掛けた私としばし言葉を交わし、「食べきれないから持って行って」と採ったばかりの身不知柿を「まだ渋抜きしていませんよ」と袋に入れて渡して下さいました。

mishirazu4_cachi.jpg【Photo】コロンとした丸みを帯びた形状の身不知柿。一大産地の会津若松市門田町御山に隣接する同市大戸町雨屋のR118沿いには、収穫期には直売所が開設される

 ドライアイスを使う炭酸ガスによる渋抜きでは、4~5日で柿渋を感じなくなるため、パリっとした固めの食感となります。酒造りが盛んな会津では、渋抜きには伝統的に日本酒の副産物としてできる焼酎を用いてきました。会津の花春酒造では柿渋抜き専用の甲乙混和焼酎を発売しているほど。ヘタの部分を焼酎に浸して袋で密封すると、柿渋が抜けるまでの目安は2週間。正月までは日持ちする肉質が固めの身不知柿も、その頃には食感に柔らかさが出てきます。

mishirazu5_cachi.jpg【Photo】収穫直後を頂き、焼酎でさわしてほぼ1カ月を経た身不知柿。甘さがより一層のって、目の詰まった果肉の食感には柔らかさが加わった

 期せずして鶴岡の知人が送ってきたフルーツタウン櫛引産の庄内柿との食べ比べとなった今年。さわして(=渋抜きして)から2週間目に、もう大丈夫かと袋から取り出した身不知柿は、すっきりとした上品な甘さの後に渋みがまだ幾分残りながらも、シャキシャキとした歯ごたえが感じられました。ならばと再度焼酎に浸して1週間ほど経過した身不知柿は、もはや完全に柿渋が抜けて味がより濃厚になり、まったりとした食感に変わっていました。

 う~ん、おいしい。

 丸森や庄内の柿より、遥か遠方の奈良や和歌山産が幅を利かせる仙台では、身不知柿を見かけることはまずありません。ならば会津を訪れて一粒で二度おいしい身不知柿を召し上がってください。どのタイミングで食するかはお好み次第。ただし、"ならぬことは、ならぬものです"という会津藩士としての規範を定めた「什の掟(じゅうのおきて)」にある通り、戸外で物を食べてはなりませぬ。こらんしょ、ふくしま会津。

 驚愕の後日談、「ことだまみしらず」につづく。
  to be continued.baner_decobanner.gif 

2013/12/08

晩秋の三原色、黄・朱・橙。

深まる秋の大内宿@会津

 黄金色に輝くカラマツの森と燃え立つように色付いた裏磐梯の山並みをいくつ越えたことでしょう。深まる秋を映し出す"うつくしまふくしま"の美景に、幾度となく車を停めて見入ったものです。

hidama_toge.jpg【Photo】秋の装いを深める氷玉峠。現在は自動車で難なく越えることができる「大内宿こぶしライン」も、かつては深い谷と急峻な山を越える下野街道の難所だった。大内宿のひとつ手前の宿場であり、つい数分前に通過した関山宿は、山肌を流れる雲の下に覆われていた 

 会津若松から会津美里を経て日光へと続いていた石畳や復元された茶屋一里塚、苔むした石碑などが随所に残る国史跡「下野街道(別名:会津西街道・南山通り)」に沿って整備された県道131号下郷会津本郷線(通称「大内宿こぶしライン」)で氷玉峠を越えて目指すは、いにしえの宿場町の面影を今に伝える大内宿。本来の読みである「おおちじゅく」は、時の変遷を経て「おおうちじゅく」の呼び名が一般的になりました。

oouchi_jyuku-2013.jpg【Photo】海抜665mの高地にあり、1年の半分近くは雪景色に変わる大内宿。草屋根を根雪が覆い隠すまでの束の間、周囲の山並みは燃え立つかのように秋色に染まる。集落北端の扇屋分家脇の階段をいくばくか登った小高い子安観音堂からの眺望。高度成長期には赤や青のトタン屋根が浸食した家並みは、苔むす草屋根が軒を並べる往時の姿を取り戻しつつある

 観光シーズンの週末には、会津若松から芦ノ牧温泉を経てR118を南下するルートとの合流地点まで渋滞が続き、5km進むのに1時間を要することもあるのだといいます。そのため、観光バスの混雑が予想される湯ノ上会津高田線ルートを避けたのが奏功。10時を回ったばかりということもあって、意外なほどスムーズに大内宿に到着しました。それでも日光方面からR121を北上してくる関東方面からの車も相まって、家並みに最も近い有料駐車場はすでに満杯。蕎麦打ち体験ができる「食の館」から、4~5分徒歩で移動する必要がある宿場北側の駐車場に誘導されました。

shohou_ji-ouchi.jpg【Photo】茅葺き屋根の家並みが軒を連ねる宿場北側の高台に建つ浄土宗正法寺の境内をイチョウが黄色に染める

 1580年(天正18)の秀吉による奥州仕置で会津に入部し、鶴ヶ城を築城した蒲生氏郷の治世には、近郊の村とともに宿駅としての役割を担っていたとされる大内村。徳川の治世となった17世紀には、会津松平家初代・保科正之が、総勢600名にもなる参勤交代の休憩所とした400坪の本陣や、その半分ほどの脇本陣「石原屋」と肝煎住居「美濃屋」を除き、街道に面した間口がおおよそ七間半(約13.5m)、奥行き十一間半(約21m)の建坪40坪の短冊型に屋敷割がなされます。21世紀を迎えた今も、江戸にタイムスリップしたかのような街並みが保存されています。

 古来あまたの人馬が通り過ぎてきた大内宿。かつての宿場へと歩みを進めると、路傍に立つ庚申塔や巳待塔、湯殿山碑などがまずは出迎えてくれます。「浅沼食堂」を営む扇屋分家の前に立つと、南側へと緩やかに傾斜した全幅7m近い旧街道の両側に軒を連ねる茅葺きの家並みが目に入ってきます。会津若松から険しい山越えを強いられたかつての旅人の目には、さぞ人の温もりを感じてほっとする光景だったはずです。

oouchi_jyuku5-2013.jpg 大内宿が人や物資の往来で賑わった当時、山水を引いて街道の真ん中を流れていた水路は、1886年(明治19)に街道の両端へと移設され、現在も用水路として使われています。水場が設けられた水路と家屋の軒下との間は、観光地化が進んだ昭和40年代に作られた植え込みを含めて2間(約3.6m)ほどの仕切りのない空間になっています。

 手入れの行き届いた茅葺屋根は、数軒単位で共有する茅場で収穫し、屋根裏で保管するカヤを融通しあう相互扶助「無尽」に支えられた共同体「結(ゆい」)」によって保たれてきたもの。寄棟造りや兜造りの現存家屋46軒が、南北450mにわたって整然と軒を連ねる統一感ある佇まいは、木造と石造りの違いはあれど、庄イタの目には景観保護の意識が高い欧州の旧市街地と重なって見えるのでした。

S50_ouchijyuku.jpg【Photo】観光客が訪れるようになり、いにしえの街道は1970年(昭和45)アスファルト舗装された。突き当たりに位置し、現在は食事処となった扇屋分家がそうであるように、アルミサッシではなく上部が障子張りの木製「上透かし雨戸」が見られる。煙突の役割を果たす「煙出し」や、寄棟屋根の尾根にあたる棟押え「軒(ぐし)」の一部に青や赤のトタンが見られるものの、茅留めに木材を使う会津の伝統的な建築様式が主流だった1975年頃の大内宿 〈画像出典〉:図説日本の町並み第2巻「南東北」第一法規出版 1982年刊 / 撮影:馬場直樹

 街道に面した2室が客間として使われたのは、3代会津藩主・松平正容(まさかた)の代に参勤交代路が白河街道に移った江戸初期17世紀中葉まで。その後は、会津23万石のコメを江戸へと運ぶ廻米など物資の輸送路として命脈を保ちます。18世紀初頭には類焼家屋が60軒にも及んだ大火に見舞われます。南会津地域に残る茅葺き集落でも、1907年(明治40)の火災で全戸焼失後に再建された人馬一体の暮らしを物語る茅葺き曲家の町並みが2年前に「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けた南会津町舘岩の「前沢集落」、1896年(明治29)に同じく集落が全焼した同町「水引集落」とは違って、その後は大きな火災もなく200年以上を経て今日に至っています。

S57_ouchijyuku.jpg【Photo】重要伝統的建造物群保存地区に指定され、茅葺きへの葺き替えなどの修景に着手する前、1980年(昭和55)頃の大内宿。現在は無粋なカラートタン葺きの住宅は姿を消し、家並みの東西に迂回道路が新設されて車を締め出した旧街道のアスファルトや電柱は撤去された。路上のTOYOTA初代セリカに時の変遷を感じる 〈画像出典〉:図説日本の町並み第2巻「南東北」第一法規出版 1982年刊 / 撮影:馬場直樹

 余剰電力で揚水発電を行う目的で1974年(昭和49)に着工した大内ダム(画像のダム湖上方が大内宿)に姿を変えた大内沼から大内峠付近は、戊辰の役で戦場となりました。日光口守備隊長・山川大蔵指揮の会津藩士と新政府軍双方による焼き討ちをかろうじて免れます。廃藩置県後の1884年(明治17)、県令三島通庸の独断で着工した会津三方(さんぽう)道路が阿賀川沿いに開削されて以降は、旅人の姿も途絶えます。太平洋戦争前には会津若松-会津田島間に鉄路が敷設され、陸の孤島と化した大内宿はタイムカプセルに納められたかのようにひっそりと命脈を保ってきました。

 1878年(明治11)6月末、英国人女性紀行作家イザベラ・バードがこの地で一泊しています。しかしながら家並みには特段触れずに"山にかこまれた美しい谷間の中にあった"と「日本奥地紀行(原題『Unbeaten Tracks in Japan』)」で簡潔に記しています。

miyamototsune_showa_nippon.jpg それから90年の時を経た1967年(昭和42)、武蔵野美術大学の学生が、甲州で出逢った会津の茅葺き職人「会津茅手(かやて)」研究のため、大内宿を訪れます。それが当時、民俗学者・宮本常一の門下生として同大建築学科に在籍し、現在は母校で教鞭をとる相沢韶男(つぐお)教授。

【Photo】1967年9月、初めて大内宿を訪れた相沢韶男氏が夢中でフィルムに収めたという大内宿。タバコの葉を家並みの前に干す大内宿が表紙に使われた「あるくみるきく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本16巻東北③」(農山漁村文化協会 2012年刊)

 中山道・甲州街道・六十里越街道の田麦俣など、各地の宿場を探訪してきた相沢青年は、目にしたこともない宿場時代そのままの面影を留めていた大内宿に魅了されます。恩師が所長を務めていた「日本観光文化研究所」の刊行物で2度にわたって大内宿を紹介。これが大内宿が世に知られる端緒となります。足繁く会津に通うなかで目の当たりにした伝統美を破壊しながら日本中に蔓延していた(相沢教授の言葉を借りれば)無国籍な「官軍建築」の浸食に危機感を抱くようになります。

 電源三法交付金がもたらした徒(あだ)花である赤や青のトタン屋根への葺き替えとアルミサッシ化など景観改変を憂い、宮本常一が朝日新聞紙上で文化財保護の必要性を訴えたのが1969年(昭和44)6月。すぐに観光客が訪れるようになり、炭焼きと自給自作に等しい稲作や葉タバコ栽培、出稼ぎ茅手を生業としてきたムラは、観光業に新たな活路を見出します。その年、旧街道がアスファルト舗装されたことに象徴される開発か景観保護かで意見が二分したまま、街並み保存を旗印に下郷町長に就任した大塚実氏の努力もあって、1980年(昭和55)に景観保護条例が制定され、修景と景観保護に向けた機運が高まります。長年に及ぶ相沢氏らの働きかけに文化庁が法令改正に動き、全国で3例目となる重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けたのが1981年(昭和56)。

oouchi_jyuku2-2013.jpg【Photo】有料駐車場からの経路となる南側から見た大内宿。信州高遠(たかとう)育ちの保科正之がもたらした大根のすり汁を加えた「高遠そば」をネギ1本で食する「ねぎ蕎麦」として観光客向けに売り出した「三澤屋」前を流れる洗い場が設けられた用水路

 現在は年間100万人を超える観光客が訪れる一大観光地と化したかつての宿場町。現在の表通りは、いかにも一見の観光客向け土産物店や飲食店で占められ、幾分なりとも興ざめを覚悟せねばなりません。それは何も大内宿に限った話ではなく、世界遺産の白川郷を訪れた際にも同じ印象を抱きました。とはいえかく申す自分も一介の観光客。地域資産に魅力を見出した若い世代が戻って町並み保存に取り組む現在の大内宿に対してモノ申す立場ではありません。

snowfesta-ouchijyuku.jpg【Photo】例年2月の第二土曜・日曜に開催される「大内宿雪まつり」

 まして会津は国賊の汚名を着せられ、斗南へと流刑同然に追いやられました。いびつな明治以降の国造りの中であてがわれた原発が引き起こした人災にこれから先も翻弄され続けなければならない相双地域など、多くの人々が会津若松でも避難生活を送っています。そこを旅することも、きっと福島再生の力になるはず。年明け2月8日(土)・9日(日)には雪灯篭が灯る夜をオススメしたい「大内宿雪まつり」が行われるほか、2015年4月の大型観光キャンペーン「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレキャンペーンイヤーとなる来年。懐の深い魅力に満ちた会津と福島を訪れてはいかがでしょう。

tateiwa_kabu.jpg【Photo】大内宿から下野街道を日光方面へ南下した山あいの南会津町舘岩の在来作物「舘岩カブ」。惜しむらくは焼畑作から現在は畑栽培に移行している。2つの製造元が甘酢漬として製品化。稲作が困難な山間高冷地の貴重な命の糧として自家採種で300年以上にわたって受け継がれてきた。漬物のほか、かつては雑穀に混ぜて食された

 「今年は初雪が遅くてなし」と、土産物店「叶屋」の若旦那が温かい茶を勧めながら話しかけてきました。そこで目にとまったのが、隣接する南会津町舘岩の高原地域に伝わる在来作物「舘岩カブ」の甘酢漬。このカブのルーツは、平家に反旗を翻して都を追われた高倉宮以仁王が持ち込んだとも、近江(滋賀県)蒲生郡日野出身の蒲生氏郷が会津入部の折に持参した近江野菜「日野菜カブ」だともいわれます。しかしながら、藤沢カブの焼畑の一角で研究用に栽培されていた細長く深紅の日野菜カブとは著しく形状が異なることは確か。

tateiwa_kabu2.jpg【Photo】舘岩カブは辛味が少なく子どもでも食べやすい。写真奥は民田ナス辛子漬

 「おしゃべりな畑(山形大学出版会 2010年刊)には、数多くの在来カブが伝承されてきた山形県最上地域を行商で訪れた近江商人が日野菜カブの種をもたらしたことが「やまがたフィールド科学センター」山﨑彩香さんによって紹介されています。会津から越後・庄内を経て最上に種が伝播していったのでしょうか。山形在来作物研究会会長で山形大学農学部の江頭宏昌准教授は、天候不順で食料が不足しそうな年でも、飢饉に備えて8月のお盆時期に播種すれば10月中旬に収穫できる救荒作物として、東北の山あいでカブが大切にされてきた事実を指摘します。

 武蔵野美大の相沢教授は、"草屋根は数万年単位の技術伝承の結果"だと語ります。そして次世代にそれを伝えてゆく意義を、1969年9月「あるく みる きく31号」(日本観光文化研究所)で発表した「草屋根-会津茅手見聞録」が再録された「あるく みる きく双書 宮本常一とあるいた昭和の日本16巻東北③」(農山漁村文化協会 2012刊)のあとがきで強調しています。黄色に色付いたイチョウの葉が舞う晩秋の大内宿で、鮮やかな朱に染まった舘岩カブに、地域資産を伝えてゆくことの価値を改めて感じ入ったのでした。

 開店時刻の10時をまわって30分ほどというのに、少なくとも1時間待ちを宣告されそうな繁盛ぶりの高遠そばは予定通りパス。昼食の予約をしていた猪苗代湖畔のイタリアン「cucina Incontra クッチィーナ・インコントラ」への道すがら遭遇した秋の会津を彩る3原色のひとつ、色鮮やかな「(だいだい)」に関する話題は次回、会津の橙「身不知柿」で。 to be continued.
baner_decobanner.gif

2013/10/20

Bigでビックリ、西明寺栗。

日本一の栗とカタクリの里、仙北市西木町でクリ拾い

 JR秋田新幹線ならば、角館駅で角館と鷹ノ巣とを結ぶ秋田内陸縦断鉄道に乗り換え、2つ目の「西明寺駅」か次の「八津駅」で降車。秋田自動車道経由なら「大曲IC」下車、R105で25Km離れた角館経由で。秋田空港からは40kmほどR46を進み角館を経て。そこは実りの季節に訪れたい日本一大きいといわれる「西明寺栗」の里。観光栗園でクリ拾いが始まったという知らせを受け、秋のすがすがしい陽気のもと、仙北市角館と同西木町西明寺小山田地区を訪れました。

saimyoji_01.jpg【Photo】佐々木栗園の娘さんが手にした西明寺栗は、ズシリと重い40g超の4Lサイズ

 2005年(平成17)の広域合併で仙北市となった旧角館市・旧田沢湖町・旧西木村は、古来「北浦」と呼ばれており、藩制期は佐竹北家の領地でした。伝承では佐竹の殿様が飢饉に備えるため、平安初期に栽培が始まった丹波(京都)や養老(美濃)からクリを取り寄せ、岩手境となる秋田駒ケ岳の山麓で栽培を奨励したのが始まりとされます。

saimyoji_02M.jpg【Photo】西明寺栗の産地、大仙市西明寺八津・鎌足地区。秋田内陸線八津駅には、鷹ノ巣駅方面への上りが1日9本、角館駅方面への下りが1日8本停車。そこは雄物川水系の河川が創った肥沃な穀倉地である横手盆地(仙北平野)最北端に位置する

 夏の最高気温が37℃前後までに達する一方で、夜間は涼しい盆地性気候のこの地域。この寒暖差で風味を増し、かんじきを履いて根雪の上で剪定を行う冬場の耐寒性に優れているため、特別豪雪地帯に指定される雪深い条件下での省力栽培に適合し、北浦栗はクリ栽培に適した田沢湖西畔の西木や西明寺へと次第に広まってゆきました。

saimyoji_03.jpg【Photo】収穫期を迎えた西明寺栗。並外れたその大きさ・重さゆえ、食べ頃を迎えた完熟のクリは、ほとんどがパックリと開いたイガの開口部が次第に大きくなり、実が1個づつこぼれ落ちるようにして落下する

 西明寺周辺では、現在も一般家庭の庭先で栗の木が育っている光景が珍しくありません。300年前まで遡る長い栽培の歴史において、大きな実を付ける個体が生まれます。先人の努力により選抜と改良を重ねて優良種を固定し、今日に至っています。1998年(平成10)に収穫された天地47mm×左右57mm、重さ66gを最高記録とする日本一大きい西明寺栗として、その名を轟かせています。

 秋田県広報協会発行の県政広報誌「あきた」162号(1975年11月発行)によれば、クリの新芽に産卵し、枝を枯死させる害虫クリタマバチによる被害で、県全体の栽培面積が1/5の40ヘクタールまで激減したのが1950年代末から1960年代初頭にかけて。

saimyouji_04.jpg【Photo】昭和中期、日本各地でクリを枯らしたクリタマバチ禍を乗り越えた古木が、今年も大玉の実を結んだ佐々木栗園の栗林。200年の樹齢を物語る幹の太さが印象的(上写真) 現在の主力品種は、西明寺1号・2号。市場には滅多に流通しない3Lクラスが珍しくない(下写真)

saimyoji_1.jpg 害虫被害を免れた木が多かった旧西木村西明寺に県営試験農園が造られたのが1961年(昭和36)。耐性の強いクリから育成した苗木が移植され、現在の主力となる西明寺1号(善兵衛)、2号(茂左衛門)のほか、3号(寒月)、4号(駒錦)、5号(早生種)が選抜されます。これが県奨励品種として採用され、今日に至ります。

 自然交配の野性種シバグリを品種改良したニホングリは同品種間での受粉率が著しく低いため、栽培においては異なる品種同士を混植するのが普通。西明寺では奨励5品種を中心に収穫時期の分散を図りながら栽培が行われています。「あきた」162号による各品種特性は以下の通り。

◆西明寺1号=樹勢が極めて強く大樹となる。果実は20~30gの大粒が中心で、甘味があり、生乾食用・加工用ともに向く。熟期は10月中旬で収量が多い

◆西明寺2号=優れた樹勢、樹姿、収量、品質、食味は1号とほぼ同等だが、果実は大きさ3cm強・重さ25~35gとより大きめ

◆西明寺3号=昭和39年に選抜。樹勢・樹姿よく、大樹となる。果実は25~30g。堅密で甘味強く、煮崩れしないためシロップ詰めなど加工用に向く

◆西明寺4号=2号の予備品種として選抜。果実は35gと最も大きいが、風味がやや劣る

◆西明寺5号=早苗種として選抜。樹勢・樹姿は他と同じだが、果実は15gほどと比較的小ぶりで収量が少ない。熟期は9月上旬

 クリ拾いに伺ったのは、角館市街から6kmあまり北に位置する仙北市西木町小山田鎌足の「佐々木栗園」。  【Photo】観光栗園の受け付けは農家民宿「くりの木」(下写真)へ

saimyoji_05.jpg そこは出羽山地と奥羽山脈とに囲まれた肥沃で平坦な穀倉地帯である横手盆地の最北部。10代の頃から父親のクリ栽培を手伝ってきたというご主人の佐々木茂義さんは、先代から受け継いだ西明寺栗を栽培して47年のベテラン。奥様の弘子さんは農家民宿「くりの木」も営んでおいでです。

 ランチタイムと重なった角館からの道すがら、木元恵子さんと料理研究家の千恵子さん親子が営む「ガーデンカフェ&デリカ kimoto」に寄りました。R105沿いにあるこちらの「秋の味覚ランチ」(1,500円)には西明寺栗を使った栗ご飯がつくからです。ローズヒップが色付いたバラが絡まる窓の外には、稲刈りを終えた秋の田園風景が見渡せます。(下写真)

vista_kimoto_otto.2013.jpg

 田沢湖・角館観光連盟から「秋田美人証明書」を公布された千恵子さんは留守でしたが(残念っ!)、「Tale Padre tale Figlio(=この親にしてこの子あり)」という諺を地でゆくお母さまの恵子さんがいらっしゃいました。この日は仙北市主催の観光誘客会議出席のため不在だった千恵子さんは、10月から始まった「秋田ディスティネーションキャンペーン」のPRで角館町観光協会が結成した「秋田美人100人隊」隊長として、今年5月に観光キャラバンで仙台にいらしていたのです。

 saimyoji_06.jpg saimyoji_07.jpg
【Photo】西明寺栗の栗ご飯(左写真) 西明寺栗のシフォンケーキはテークアウトも可能

 おかずのワンプレートは、花好きの恵子さんが摘んだ秋の生花や、自家製のニンジン、イチゴの葉を彩りに盛り付けてあります。ほっこりと優しい和栗の甘味と、有機栽培の自家製ひとめぼれ新米で炊いた栗ご飯の美味しさが、クリ拾いへの期待感を否応なく高めます。西明寺栗のシフォンケーキも完食し、店を後にしました。

   saimyoji_10.jpg saimyoji_11.jpg
【Photo】日本一大きな西明寺栗と日本一の群生地が見られるカタクリの里・西明寺のロードサインは、「くり」&「クリ」のオンパレード。佐々木栗園がある八津・鎌足地区へは「かたくり館」の看板が目印

 西木温泉ふれあいプラザ「クリオン」と市営交流施設「かたくりの館」と、"クリつながり"な施設前を通り過ぎ、秋田内陸線八津駅の踏切を渡り、バイカモが流れにたゆとう堀沿いの道を進むと、ほどなく農家民宿「くりの木」に到着しました。最寄駅の秋田内陸線「八津駅」からは徒歩10分前後の距離でしょう。

saimyoji_09.jpg【Photo】段々に整地された斜面に植林されたクリは、日照を考慮してか、木の間隔が広い。西明寺栗といえど、適切な間伐と剪定、施肥などの手入れが十分でないと、大きな実は結ばないという。日本一大きな栗の称号は、生産農家のたゆまぬ努力が生んだ結晶でもある

 娘の佐々木こう子さんから、2kgほどのクリが入る袋を渡され、裏手の栗林に案内されました。長靴や手袋の用意が必要かを事前に確認しましたが、全て不要とのこと。なぜなら西明寺栗は食べ頃を迎えると、イガがパックリと開いて巨大なクリの実が大きな音を立てて落ちてくるのでした。生い茂った下草は害虫クリシギゾウムシにとって格好の棲息場所となり、落ちたクリに卵を産み、幼虫が果実を食い荒らしてしまいます。そのため下草は丹念に刈り取られます。

katakuri_2012-5.jpg【Photo】八津・鎌足地区の栗林は、4月中・下旬にかけて国内最大規模で群生するユリ科の多年草「カタクリ」の花畑と化す。うつむき加減に淡い紫の花を咲かせるカタクリの花言葉は「初恋」。楚々として可憐な秋田美人のようなカタクリの自生面積は20haにも及び、ローマのコロッセオや東京ドームがすっぽり4個分という広さに相当する。西明寺全体で50haの栗林がある日本一大きなクリの里は、日本一のカタクリの里でもある 

 某老舗和菓子処が所有する栗園でクリ拾いをした数年前。クリを食い荒らして逃走したクマの巨大な置き土産(笑)にビビっただけに、「ここにクマは出没しますか?」と問うた庄イタ。すると「出ますよ~」と、こう子さんは事もなげ。「大きいクリを選んで下さいね~」と言い残して戻ってゆきました。

 そうして栗林に残された庄イタ。クマの足音に聞こえなくもないガサッ!という、枝から落ちたクリがたてる音にビビりながらも、日本一大きいクリの誘惑には勝てません。西明寺栗としては出荷されないLサイズに満たないものや、虫喰いを慎重に除きながらの宝探しが始まりました。

saimyoji_12.jpg【Photo】イガごと落ちるこうしたクリは珍しく、ほとんどは大きく開いたイガからバラバラにこぼれ落ちるのが西明寺栗の特徴。3Lサイズの西明寺栗と比較すると、ひときわ小さく見えるスズムシは、深まる秋に何を思う

 口を開けた特大サイズのイガごと落ちているクリも、一応あるにはありますが、ほとんどは落下した実だけが転がっています。なるほど、これならば長靴で踏みつけてイガを開き、トングでほじくり出す必要はありません。1964年(昭和39)に発足した「西明寺栗生産出荷組合」では、無農薬・有機栽培による丹念な土作り、剪定と整枝による日照の確保や適切な施肥などで味と大きさの追及に余念がありません。

saimyoji_13.jpg【Photo】クリ拾いの成果(右写真)

 クリには大きさと重さによって統一規格が存在します。組合員が西明寺栗として出荷するのは、大きさ33mm以上、重さ11g以上クラスのLサイズ以上としています。およそ30分ほどで大きさ40mm以上重さ21g~30g以上の3L~4Lサイズのクリを中心に1.9kgほどが収穫できました。

 観光栗園として開放している丘陵部の栗林は赤土土壌で、40年もすると樹勢が衰えるため、若木に植え替えをしなければなりません。私が案内された自宅裏手の栗林と桧木内川(ひのきないがわ)の中州に所有する栗畑には樹齢200年を越える現役の古木もあるのだといいます。

 3ヵ所都合5haの栗林で奨励5品種の西明寺栗を栽培するという佐々木さん。その作業場には、朝から昼前まで近所のクリ拾い名人に収穫を手伝ってもらったという西明寺栗が、大きなカゴ入りで4つ。収穫したクリの選別は、傾斜のついた目の大きさが異なる金網を振動させることで移動しながら行われます。こう子さんは分別作業を実演して下さいました。

   keiko_sasaki.jpg saimyoji_14.jpg
【Photo】午前中に収穫された西明寺栗が大きな赤いカゴ入りで4箱(右写真)。5haの栗林を所有する佐々木栗園では、収穫シーズンを迎えるとパートを雇わないと収穫が追いつかないという。収穫したクリの大きさ選別は、最上流のSから最後のLLまでブロックごとサイズが異なる網目に高低差をつけ、網目部分を電動で振動させることでクリが移動し、最後まで残るのが3Lという具合のブラボーな専用選果機で行う(左写真)

 収穫したクリは入園料200円+1kg当たり800円で持ち帰りができます。生栗は放置すると虫が発生するため、佐々木栗園では虫止め処理をしてから直接販売、発送にも対応します。生産者によって栽培する品種が異なるため、収穫の旬は異なります。自宅に持ち帰ったクリは虫止めしてあれば冷蔵室で1ヵ月程度置くか1~2日天日干しすると甘味が増します。

 佐々木栗園では、年によっては3週間、平年で2週間程度クリ拾い体験ができますが、伊豆大島に甚大な被害を与えた台風26号による強風のため、ほとんど落果してしまった今年は、今月17日で観光栗園を切り上げたそうです。開花期の6月末に天候がぐずついた今年は、ただでさえ収量が少ないうえ、収穫期に台風が来襲したため、わずか1週間での終了となった次第。自然相手の仕事には、人の力ではどうしようもない領域があるものです。

  saimyoji_19.jpg saimyoji_18.jpg

 帰路、西明寺栗を用いた生ケーキや焼菓子を取り揃えた角館の洋菓子店「プチフレーズ」で、トッピングのマロンクリームと1個丸ごと甘露煮にした西明寺栗がスポンジ生地に隠れた「西明寺モンブラン」(右写真/368円)と、マロンペーストに包まれた中身の甘露煮のサイズによって400円~700円と価格に幅があるパイ生地で包んだ「西明寺栗くん」(左写真)も買い求めました。和菓子がお好きな方なら、ペーストにした西明寺栗を練り込んだ「くら吉」の期間限定商品「西明寺栗生あんもろこし」という選択肢もあります。

 青森・三内丸山遺跡からも多数のクリが発見されたという事実から、日本で稲作が始まる以前、豊かな狩猟文化が花開いた縄文人の食を支えたことが分かっているクリ。西明寺栗は、圧力釜で茹で栗にしたり、定番の栗ご飯でも美味ですが、佐々木栗園でも全国発送に対応する渋皮煮や甘露煮のほか、栗きんとんといった加工品にも向きます。びっくりな大きさに歓声を上げながら、童心に帰ってクリ拾いに興じる秋の一日。ホント楽しいですよ。来シーズンはぜひ!
************************************************************************
農家民宿くりの木 (佐々木栗園)
住:秋田県仙北市西木町小山田字鎌足186
Phone:0187-47-3046 
※ 栗拾いは要予約 入園料200円 拾った栗は1キロ当たり800円で持ち帰り可
  今年度のクリ拾いは終了。直接販売は在庫が無くなり次第終了につき、要問合せ
  全国発送可 P:あり
※ 宿泊:1泊2食付き 6,000円 1泊素泊まり 4,000円/ 母屋に宿泊/冬期間暖房費別途
Facebookで最新情報をチェック:https://www.facebook.com/farm.kurinoki

ガーデンカフェ&デリカ kimoto
住:秋田県仙北市西木町西荒井字熊野田107-3
Phone:0187-47-2948
営: 9:00~19:00 (ランチ&カフェ 12:00~16:00)
定休:第2・第4水曜
P:あり
URL: http://www.e-kimoto.jp/ Blog:http://kimotosan.exblog.jp/

角館プチ・フレーズ
住:秋田県仙北市角館町大風呂2
Phone:0187-54-1997
営: 9:00~20:00 年中無休
P:7台分
URL: http://www.kakunodate-puchi.com/


baner_decobanner.gif

2013/04/20

上映期間延長

在来作物と種を守り継ぐ人々の物語
  映画「よみがえりのレシピ」仙台上映 期間延長

・2013年4月27日(土)~5月3日(金・祝)@フォーラム仙台

 川崎市アートセンター「アルテリオ映像館」と大阪府淀川区「第七藝術劇場」で映画「よみがえりのレシピ」劇場公開が始まった本日、先週13日から劇場公開が行われている仙台での上映期間延長が決定しました。パチパチパチ...。

frier_yomireci3.jpg

 宝谷カブのピッツァなど、アル・ケッチァーノが編みだした料理の写真が加わった最新のフライヤーに写真提供をなさった東海林晴哉さんの写真展「山形在来作物の世界」@美術カフェ ピクニカは明日が最終日。6月には再びレストラン「パリンカ」での作品展示がありますが、21日(日)15時頃から東海林さんご本人が会場にいらっしゃるとのこと。作品を前に直接話をうかがえるまたとない機会です。

 映画に登場するオーナーシェフは、遠方からの客が多い週末といえど、必ずしも店に居るわけではない点、加えて店主不在の折に出される???な料理には大きな落差がある点を除けば、虚構はもちろんのこと、少しの誇張もないおとぎ話のようなこのドキュメンタリー作品。まだご覧になっておられない方。そして今一度カタルシス体験をなさりたい方。どうぞ「フォーラム仙台」へお運びください。

 延長期間は4月27日(土)~5月3日(金・祝)まで。上映は10:00~となります。じんわりとこみあげてくる映画の感動さめやらぬ今年のGWは、撮影の舞台となったロケ地を訪ねてみるのもいいかもしれません。

primavera_fujisawa2009.5.jpg【Photo】春の大型連休を迎える頃、湯田川温泉と藤沢集落を結ぶ金峰山中の林道に分け入ると、新緑の山中で藤沢カブが人知れず一斉に花をつけた秘密の花畑が視界に入ってくる。カブはアブラナ科ゆえ、4月下旬になると菜の花のような黄色い花を咲かせ、やがて実を結び、翌年以降に撒かれる種となる。撮影:2009年5月4日
(Photoクリックで拡大)

 庄内平野を見はるかす高台にある鶴岡市宝谷地区、藤沢集落の山中、そして湯田川温泉から温海温泉へと向かう道筋の田川地区から一霞地区にかけては、映画に登場する宝谷カブ・藤沢カブ・田川カブ・温海カブが、新たな種を結ぶための楚々とした黄色い花を咲かせて訪れる人を優しく出迎えてくれることでしょう。

baner_decobanner.gif

2013/04/14

在来作物と種を守り継ぐ人々の物語

映画「よみがえりのレシピ」仙台上映
  ・2013年4月13日(土)~26日(金)@フォーラム仙台

東海林晴哉写真展 山形在来作物の世界
  ・同4月2日(火)~21日(日)@美術カフェ ピクニカ 
  ・同6月5日(水)~7月15日(月)@レストラン パリンカ

tokairin_haruya.jpg 我がホームグラウンド・山形県庄内地方をはじめとする個性豊かな在来野菜と生産者、そして周囲の人々の姿を追った二つの企画が、仙台で同時開催されています。

 4月2日に美術カフェ「ピクニカ」で展示が始まった鶴岡在住の写真家・東海林晴哉さんの写真展「山形在来作物の世界」。在来作物をライフワークとする東海林さんとは、藤沢カブの焼畑作業が行われた2006年8月、湯田川の山中で初めてお会いして以来、折につけご一緒してきました。地中深くに根を張り、みずみずしい生命力と存在感を示す作品が仙台では展示されている「宝谷カブ」の収穫の模様を収めた写真をViaggio al Mondoにご提供いただいたことが過去にあります。

picnica_1.jpg【Photo】美術カフェ「ピクニカ」での東海林晴哉写真展「山形在来作物の世界」は21日まで。
6月5日からは青葉区霊屋下のレストラン「パリンカ」で開催

picnica_2.jpg

 写真展には、金峰山南麓の山中で伝統的な焼畑農法で作られる田川カブと生産者の姿を収めた作品20点と、「生きる」をテーマに作物の目線で捉えた平田赤ネギ・藤沢カブ・漆野インゲン・孟宗・大滝ニンジン・外内島キュウリといった在来作物15点、合わせて35点が展示されています。田川カブの生産者の中には、金峰山の北側にあたる鶴岡市藤沢集落で、藤沢カブの種を守り継いだ後藤勝利(まさとし)さんのお姉さまで、田川赤かぶ漬グループ代表を務める武田彦恵さん(予告編で赤カブを手に収穫の喜びを語る下画像のあねちゃ。今年で御歳77)の姿もありました。

 そして4月13日(土)、渡辺智史監督作品のドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」の劇場上映が仙台で始まりました。2011年11月の初公開から1年半あまり。ようやくの宮城初公開です。上映は4月26日まで。お見逃しなきよう。

 地元で上映が始まって以降、日本各地で上映が行われてきたこの映画については、鶴岡での公開初日に仙台から駆けつけた2年前の11月、Viaggio al Mondo でもいち早くご紹介していましたLink to backnumber。繰り返しになるので、ここで映画の内容について触れるのは控えます。
haruya_tokairin.jpg【Photo】ドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」鶴岡での上映最終日となった2011年11月25日、上映後に講演を行った民俗研究家の結城登美雄先生を交えて懇親会が行われた。その席上、鶴岡市小真木で、育種家であった義父の武さんが1965年(昭和40)に育種した「大滝ニンジン」を唯一作り続ける大滝小菊さんが翌日収穫を行うとの情報を、同席した山形大学農学部江頭宏昌(ひろあき)准教授から入手。翌朝10時に待ち合わせした東海林さんほか、毎日新聞の長南里香記者も合流し、大滝さんの畑に伺った。月山を背景に収穫したての大滝ニンジンを撮影する東海林晴哉さん

 外内島キュウリ藤沢カブ平田赤ネギだだちゃ豆・・・。無いものねだりではなく、身近かにある地域資産に光を当てることを旨としてきたViaggio al Mondoでは、「足もとのこと」カテゴリーで幾度となく取り上げてきたワン・アンド・オンリーな地域の伝承文化を体現する在来作物。

 スクリーンに登場するのは、こうした在来作物の宝庫である庄内の事例だけではありません。今年1月にスローフード協会から絶滅の危機に瀕する保護すべき作物を指定する「味の箱舟(アルカ)」として認定された真室川町の甚五右ヱ門芋や、同じく2005年にアルカ認定を受けている米沢雪菜などが、おのおの自家採種を営々と繰り返してきた生産者とともに登場します。

frier_yomireci2.jpg【Photo】山形市北部風間地区原産の「山形赤根ホウレンソウ」がキービジュアルに登場した第一弾に続き、さまざまな山形の在来作物が並ぶ第2弾フライヤーに表情豊かな作物の写真を提供したのも東海林晴哉さん

 そこで描かれるのは、国論を二分する環太平洋経済連携協定(TPP)で、主に産業界から聞かれる推進派の論拠となるあくなき経済性の追求や、遺伝子組み換え大豆が全作付の9割を超える米国のような大規模集約型農業を志向する動きとは無縁の営み。効率性や金銭的な価値といった物差しでは決して推し量ることができない地域の宝を取り巻く人々の姿は、目まぐるしい変化と目新しさを追いかける都市生活者の目にどう映るのでしょうか。

 これまで全国各地で上映されてきた作品をご覧になった人の多くが、スクリーンに登場した作物を実際に食べてみたいと思うようです。現場主義を貫いてきた庄イタは、作り手の思いや作物が生まれる風土や歴史を知らずして、本当の魅力は到底理解できないと信じて疑わない者です。

 この映像作品をご覧になって何か感じるところがあったなら、ぜひ五感を研ぎ澄ましてそこを訪れてみてください。今まで目に入らなかった新鮮でどこか懐かしい普遍的な価値観を発見できるかもしれません。
************************************************************************
◆東海林晴哉 写真展「在来野菜の世界」
・2013年4月2日(火)~21日(日)
   会場:美術カフェ「ピクニカ」(仙台市青葉区一番町1-5-31)
   PHONE: 022-721-2181
   営:12:00~20:00( 土日祝:~18:00 )月曜定休
   URL: http://picnica.net/
・2013年6月5日(水)~7月15日(月)
   会場:レストラン「パリンカ」(仙台市青葉区霊屋下19-8)
   PHONE:022-213-7654
   営:11:30~14:00(土日祝14:30) 18:00~21:00 火曜定休
   URL: http://r-palinka.com/
・東海林晴哉氏ブログサイト〈Haruyaの写真日記〉http://d.hatena.ne.jp/Haruya_T/

◆やまがた発長編ドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」
・2013年4月13日(土)~26日(金)
   上映:フォーラム仙台(仙台市青葉区木町通2-1-33)
   1日2回上映 ・1/10:00~  ・2/18:30~
   PHONE:022-728-7866
   公式サイト http://www.y-recipe.net/
  【今後の上映スケジュール】
   ・神奈川  川崎市アートセンター 4月20日~26日
   ・大阪   第七藝術劇場 4月20日~5月10日
   ・北海道  シアターキノ 4月27日~5月3日
   ・京都   京都シネマ  5月4日~
   ・石川   シネモンド  5月11日~5月24日
   ・兵庫   神戸アートビレッジセンター 5月18日~

 ★4/20追記
   仙台上映が1週間延長決定ッ!!!!
   ・4月27日(土)~5月3日(金・祝)1日1回上映 ・午前10時~ 
   ・東海林晴哉氏が撮影した在来作物を被写体にしたポストカード(1枚160円)や、
    アートポスター「やまがたの在来作物たち」vol.1(A2判・筒入り1,200円)を会場で販売
   ・上映実行委員会製作「みやぎ在来作物NewsPaper」を鑑賞者に無料配布


baner_decobanner.gif

2013/01/06

新年明けまして女鶴餅

杵つき女鶴餅を仙台雑煮で味わう癸巳のお正月

 「今日餅が搗き上がったさげ・・・」

 暮れも押し迫った昨年の12月30日夕刻、酒田市布目に伝わる幻の糯米「本女鶴」の生産者、堀芳郎さんから電話を頂戴しました。それは不思議なめぐりあわせで昨年9月にお会いして以来、久しぶりに耳にする訥々(とつとつ)とした堀さんのお声でした。杭掛けを終えたばかりの女鶴を前に、年末には昔ながらのやり方で、杵と臼で餅を搗くと仰っていた堀さん。大晦日の前日に餅を用意する庄内の稲作農家の伝統に倣い、本女鶴を餅に仕上げたのでした。

nunome_inverno.jpg【Photo】杭掛けされた本女鶴が並ぶ布目地区(写真右手)を前回訪れた昨年9月の黄金色に染まった豊穣の風景に見とれた場所に立つと、モノトーンに包まれた冬景色を肌を刺す寒風が吹き抜けてゆくのだった

 家人の帰省のため気仙沼へと向かう前日の大晦日に酒田までの雪道を往復することを一度は躊躇したものの、私のことを気にかけて下さっていた堀さんに発送の手間をおかけしては申し訳ないと思い、「明日頂きに上がります」と申し上げて電話を切りました。

sankyo2009.inverno.jpg 冬期間は仙台‐酒田の最短ルートとなるR347鍋越峠が閉鎖となるため、距離的なロスがある山形自動車道経由ではなく、R48から東根を経て、R13で新庄から酒田を目指しました。関山峠から村山市までは穏やかな天候だったものの、豪雪地帯の尾花沢に差しかかる頃には、吹雪模様に。風雪のため最上川の対岸の風景が淡い水墨画のごとく霞むR47から酒田市内に入り、まずは山居倉庫の産直館で酒田女鶴の餅を購入しました。それはここ数年来、我が家の正月の雑煮に欠かせない酒田女鶴と今年初めて口にする本女鶴とで餅の食べ比べをするために他なりません。

【Photo】山居倉庫の欅並木も冬の佇まい

 昨年の11月初旬、堀さんとのご縁をつないで下さった酒田女鶴の生産者である渡部正弘さん・由美子さん夫妻のもとを訪れた際、加工場で真空パック詰めする直前の半生状態にある酒田女鶴餅を私に持たせて下さいました。渡部さんは頑としてその対価を受け取ろうとしないため、その再現ではかえって申し訳ないので、今回は産直館で渡部さんの餅を購入した次第。そこではこれまた2年前の夏に偶然お会いした新関貴美子さんが所属する「ミセスみずほの会」が、シーズン最後に出荷する在来種「鵜渡川原キュウリ」の粕漬と奈良漬もあわせて入手しました。

     ika_2012koise.jpg nodoguro_2012koise.jpg
     kandara_2012koise.jpg mahagi_2012koise.jpg
【Photo】暮れゆく2012年を締めくくった酒田の寿司割烹「こい勢」旬の地魚おまかせ握り(1人前3,150円)より。 烏賊(左上)・ノドグロ炙り(右上)・寒ダラ昆布〆(左下)は振り塩で・カワハギの上品な白身と濃厚な旨味が詰まった肝は自家製の煮切り醤油で(右下)

 訪問しようと電話した酒田市内のフレンチレストランが、すべからく年末休に入っていたこの日。年間を通してさまざまな山海の美味との邂逅があった庄内での有終の美を飾る腹ごしらえはJR酒田駅にほど近い相生町の「寿し割烹こい勢」のカウンター席へ。今回も親方に注文したのは庄内産ササニシキのシャリと季節ごと旬のネタ10貫が味わえる旬の地魚おまかせ握り。

     dadami_2012koise.jpg gasaebi_2012koise.jpg
     tonno_2012koise.jpg yoshigani_2012koise.jpg
【Photo】鱈の白子の庄内での呼称ダダミの炙り(左上)・日本海側の各地でシロガスエビやドロエビといった可哀そうな異名を持つクロザコエビを庄内浜ではガサエビと呼ぶ。その身は甘エビ(ホッコクアカエビ)よりも美味(右上)・酒田沖産ホンマグロのトロ(左下)・ズワイガニ(♂)の庄内での呼称ヨシガニの軍艦(右下)

 振り塩と柚子の香りのイカに始まり、寒ダラの昆布〆と炙って香ばしさが加わった絶品ダダミ(白子)、トッピングの肝が旨味を増幅させる上品な白身のカワハギ、店一番の人気だというトロけるようなノドグロの炙り、ふっくらとした肉質が身上のヨシガニと庄内浜では称されるオスのズワイガニ、甘味が強いものの鮮度が失われやすいため生食は地元ならではのガサエビ・・・。お江戸ならば倍額の出費は覚悟せねばならぬでろう江戸前握りとコチのアラ汁で心底満たされたところで、堀さんのもとへと道を急ぎました。

 円能寺地区に向かう車窓から見る風景は、実りの季節に訪れた前回とは打って変わった厳しい冬の表情。雪雲に覆われて鳥海山はその稜線すら垣間見ることができません。車から降りて寒風吹きすさむ道端に建つ地蔵堂越しに、女鶴が命脈を保った堀さんの圃場を眺めました。車に戻る前、振り向きざまに視線を送った赤い頭巾と胴衣をまとったお地蔵様のお顔に目が釘付けになりました。
nunome_jizodo.jpg

【Photo】北西方向を雪囲いで覆われた県道367号線の道端に建つ布目地蔵堂

 何故なら、地蔵の口には誰かが何かを塗りつけた跡があったからです。茶色のそれはザラメ砂糖のように見受けられました。その布目地蔵を見て思い起こしたのが、民俗研究家の結城登美男先生の著書「東北を歩く」(2008・新宿書房刊)に登場する山形県新庄市の接引寺山門脇にあるという「まかどの地蔵」。東北の稲作の歴史は、凶作と飢饉との戦いの繰り返しでもありました。新庄のある最上(もがみ)地方は、豪雪と冷害に見舞われることが幾度となくあった地域。
nunome_jizou.jpg
【Photo】黙して語らぬ口の周りに黒砂糖を塗られた布目地蔵

 天明・天保とともに江戸三大飢饉に数えられる宝暦の大飢饉(1755)では、夏の低温と長雨、そして冬の豪雪により、埋葬しきれぬほどの餓死者が出ました。その供養にと祀られたのが、まかどの地蔵。以来、地元の人々は餓鬼道に堕ちた者のため、春と秋の彼岸にぼた餅を地蔵の口に運んで食べさせるようになったのだといいます。布目の地蔵様まつりは4月と8月の地蔵盆の日(23日・24日)に行われています。これは田植えを行う直前と旧盆明けの時期にあたります。

 庄内地域に6体が現存する即身仏は、飢饉や災禍で苦しむ衆生を救わんと、穀断ちの千日行の末に生きながらにして土中に籠り即身成仏を果たしたもの。(今日からNHKのBSプレミアムで全話再放送が始まった)明治末期に小作農家の貧しさゆえ年端も行かぬ7歳にして口減らしのため1俵の米と引き換えに年季奉公に出された「おしん」はフィクションですが、不幸にして先立った我が子、柳田國男が遠野物語で紹介したデンデラ野ほか各地に残る姥捨て山伝説など、日本各地には農村庶民史の暗黒部ともいえる伝承が残ります。飽食の時代といわれる今もなお、口に黒糖を塗られた布目地蔵に、亡者を想う施餓鬼の意味と食べ物を大切にする地元の心を見た庄イタなのでした。女鶴が命脈を保った田んぼの脇で寒風に耐えるようにひっそりと息をひそめる地蔵の姿に胸を打たれました。

shogatsusama_horitaku.jpg【Photo】お正月様をお迎えする堀家のお供え。氏神ほかの掛け軸、子孫繁栄を願うユズリハ、喜ぶにつながる昆布、長寿を願う干し柿、女鶴から作った鏡餅とチョポ餅(上写真) 本女鶴のチョポ餅を供えられた堀八十八さんの遺影(下写真)

yasohachi_hori.jpg 昨年9月に伺って以来となる堀さん宅には、お正月を迎える鏡餅が供えてありました。毎年30日に先祖伝来の臼と杵を納屋から取り出して餅を杵搗きするという堀さん。水回りほか家の各所にお供えする小さなチョポ餅もすべて本女鶴から作られたものです。お正月様を迎える祭壇脇の仏壇には、チョポ餅を供えられた先代の八十八(やそはち)さんの遺影もあり、線香を上げさせて頂きました。

 自身のお名前には一年届かず87歳で亡くなられたという八十八さん。大の餅好きで、酸化鉄粘土質土壌の布目と隣村の円能寺が白眉とされる女鶴の味に心底惚れ込み、田植えは一本植え、1m以上に及ぶ丈が災いして倒伏するため、手刈りせざるを得ないという手間のかかる農作業に汗を流していたそうです。女鶴は八十八さんが生まれて2年後の1911年(明治44)に地元の飽海郡全体で最多の772haが作付された記録が残ります。農業の機械化が進んだ昭和40年以降は、それまで庄内平野の糯米の主力であった彦太郎糯と同様、女鶴も近隣の圃場から急激に姿を消してゆきました。

88_meduru.jpg【Photo】農家の道楽と言いつつ、精魂を注いだ女鶴の刈り取りを行う存命中の堀八十八さん(上写真)  ご自身で杵搗きした本女鶴餅をご用意して下さった堀芳郎さん(下写真)

yoshiro_mochi.jpg 効率を度外視した農業経営など成り立たなくなった時代にあっても八十八さんは、穂先が二つに分かれ、その長さが揃っている女鶴糯の特徴を供えた個体を原種として3年ごと種籾を選別していたとのこと。そうして今は芳郎さんが受け継いだ20アールの圃場で自家用に命脈を繋いできた女鶴。1980年(昭和55)に酒田市の老舗菓子店「菓匠 小松屋」が桜餅の道明寺種として使い始めたことが地元紙山形新聞で報道されます。これによって戦後は姿を消したと思われていた女鶴が、農業試験場の保存種籾ではない地域の宝として、しっかりと大地で息づいていたことが世に知られます。

 栽培しやすいよう短稈(かん)化した後継品種「酒田女鶴」誕生に至る経緯は拙稿「酒田女鶴と本女鶴」を参照いただくとして、その恩人との対面を果たした後、菓匠小松屋の折箱にうやうやしく入れられた手ごねの丸餅を頂戴しました。「わざわざ仙台から来てもらったから」と、予想通り代金を受け取ろうとしない堀さんには、持参した白石温麺をお礼としてお渡ししました。

meduru_2013zouni.jpg【Photo】昨年は酒田女鶴の丸餅が主役を張った庄イタ家の仙台雑煮。今年はこの本女鶴の丸餅との共演が実現した

 こうして本女鶴と酒田女鶴をそれぞれ仙台雑煮に入れるなどして迎えた2013年癸巳(みずのとみ)の初春。堀さんが杵搗きした本女鶴餅と渡部さんの機械搗き酒田女鶴餅とでは、炊き方が異なるため粘りや食感が当然のごとく異なりました。とりわけ印象的だったのは、本女鶴の尋常ならざる粘り腰。贅沢極まりない餅の食べ比べで幕を開けた今年もどうぞ「Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅」にお付き合い下さいますよう、よろしくお願いします。m(_ _)m

baner_decobanner.gif

2012/10/13

酒田女鶴と本女鶴

女鶴餅をおいて餅を語るなかれ

sankyo_soko_ottobre2009.jpg

【Photo】錦秋の山居倉庫

 堂々たる体躯の欅並木沿いに12棟の土蔵が建ち並ぶ酒田市の山居倉庫は、1893年(明治26)の創建以来、100年余に渡って庄内米の貯蔵庫として稼働してきました。四季折々に移ろう表情を見せるその敷地内に2004年(平成16)に開設された産直施設「みどりの里 山居館」で、「酒田女鶴(めづる)100%使用の自然乾燥米杵つき餅」と出合ったのが4年ほど前の冬。角餅文化圏となる東日本・東北では珍しく、庄内地方は西日本で主流の丸餅を食します。これは山居倉庫から米を運んだ北前船交易によってもたらされた上方文化の一端です。

 酒田女鶴という糯(もち)米には聞き覚えがありました。Viaggio al Mondo あるもん探しの旅でこれまで幾度か引用してきた伊藤珍太郎の名著「改訂庄内の味」(「本の会」刊)で、"比較の味ではなく絶対の味においてなら女鶴餅は最高秀逸の一つであることはたしか"であり、"一度おぼえたら忘れがたい贅沢な舌の記憶"になると絶賛されているのです。

sakata_mezuru_mochi.jpg【Photo】酒田女鶴餅の味を知って4年。この餅を抜きにして、新たな年を迎えることなど到底できなくなった庄イタ。パッケージ裏面の製造者欄に渡部由美子さんのお名前が記載された杵つき「ふるさともち」 12個入り(500g)1パック 税込840円で酒田市 ト一屋で購入

 酸化鉄を多く含む土壌のため、飲用に適した井戸は皆無ながら、糯米栽培の最適地とされる酒田市円能寺。地元で名高い円能寺餅の産地ですら、伊藤珍太郎が改訂版を著した1981年(昭和56)時点で、女鶴の作付はわずかに2、3反歩。3、4人の奇特な農家が種籾を受け継ぐに過ぎない状況にあったことが記されています。本間家に次ぐ酒田きっての名家の出身で、上智大文学部卒業後、講談社編集局に勤務し、のちに酒田市助役を3期務めた幅広い見識を備えた伊藤珍太郎。稀代の食通でもあった伊藤珍太郎が、新潟「黄金糯(こがねもち)」や異名同種の宮城「みやこがねもち」、庄内で主流となる「でわのもち」など、定評ある美味しい糯米を差し置き、孤高の味と評するのですから、その改良種である酒田女鶴を看過するわけにはいきません。

nunome_2012sakata.jpg【Photo】珠玉の餅の産地・酒田市円能寺から布目地区にかけての秋の田園風景。杭掛けされるのは「もう一度あの餅を食べてみたいのぅ」と酒田の古老が語り継ぐ糯米「女鶴」

 1反(10アール)当りの収量が豊作でもぜいぜい7俵と少なく、1mあまりに達する稲穂の丈ゆえ倒伏すると刈り取りが厄介。そのため農家から敬遠され、農業経営効率がひたすら求められた昭和が終わるころには、すっかり姿を潜めた幻の糯米「女鶴」。コメに限らずそうして消えていった品種が一体幾つあることでしょう。

risorosso_sakatamezuru.jpg【Photo】みどりの里 山居館で購入した酒田女鶴を渡部由美子さんが炊き上げた赤飯。田の神おろし(3月)、さなぶり(4月)、土用餅(7月)、刈り上げ餅(10月)、田の神上げ(11月)。庄内地方の農村では、正月は言うに及ばず心改まる節目や祝儀不祝儀の折など、ハレの場に赤飯や餅が用意された

 改訂庄内の味には、現在の鶴岡市寺田の南東に酸化鉄土壌ゆえ馬耕すら難儀する草田地帯があり、そこで育つ「寺田餅」が代々庄内藩主献上品とされたとの記述があります。県立農業試験場尾花沢分場で育種され、1966年(昭和41)に登録された糯米でわのもちが、現在でも寺田餅として少量作られ、誉れ高き伝統を受け継いでいます。

 かたや円能寺集落の佐藤実さんの父祖が明治期に皇室御用達の栄に浴した女鶴も、昭和から平成に時代が変わる頃には、たった1軒の地元農家が作るだけになっていました。他の土地では本来の味が出せないため、風前の灯となった女鶴ですが、そのまま忘却の彼方へと消え去ることはありませんでした。たぐいまれな食味を忘れられない人々の熱意により、1991年(平成3)に開設された庄内バイオ研修センターが、3年前に農業生物資源研究所 放射線育種場で突然変異を誘発させた女鶴の種籾を使って品種改良に着手。優れた食味はそのままに栽培しやすいよう15cmほど短稈(かん)化し、平成の世に蘇った酒田女鶴の餅を初めて食べた時の感激は忘れることができません。

【Photo】大根・人参・牛蒡などの千切り野菜を凍らせた「おひきな」・凍り豆腐・蒲鉾・イクラといった定番具材とともに酒田女鶴の丸餅が主役を張る庄イタ家門外不出の仙台雑煮。文武両道で食に関しても造詣が深かった伊達政宗公とて、この究極の餅の味はご存知なかった(ハズ)

zouni_mezuru.jpg 旧庄内藩士が開墾した松ヶ岡で培われた伝統と技が生み出す鶴岡シルクのようにキメ細やかで目が詰まった滑らかな食感。どこまでも伸びる桁外れの強い粘り。雑煮に入れても全く煮崩れしないコシ。そして長い余韻を残す豊かな風味・・・。庄内の味における伊藤珍太郎の記述が決して誇張などではなく、絶品とされた女鶴の美点を受け継ぐ酒田女鶴が、いずれをとっても一級の糯米であることを雄弁に物語ります。酒田女鶴をおいてほかに、杵と臼でついたばかりの餅にしろ、それまで口にしたいかなる餅も、私の経験上では杭掛けで自然乾燥されたその糯米を搗(つ)いた丸餅には及ばないのでした。

 昨年秋、みどりの里 山居館で、たまたま丸餅を納品にいらした生産者と思しき方と遭遇しました。品質保持のための脱酸素剤を封入して真空パック詰めされた酒田女鶴餅の裏面には、生産者名が記載されていました。千載一遇の好機にバックラベルの生産者名を今一度確認した上で「渡部由美子さんですよね」と声をかけ、年が改まってからの訪問を申し出たのでした。

   yumiko_watanabe.jpg masahiro_watanabe.jpg
【Photo】作業場においでだった渡部正宏さんと奥様の由美子さん。手前の卓上には、伺う直前に買い求めた渡部さんの酒田女鶴の赤飯と、山居倉庫の物販施設「酒田夢の倶楽」で購入した酒田市内にある菓子店「栗原甘泉堂」が円能寺産の女鶴を使って製造する女鶴豆大福

 今年6月24日(日)、酒田市吉田のご自宅脇の作業場で、ご主人の正宏さんと仕事中の由美子さんのもとに伺いました。その折に酒田女鶴や遊佐町生まれの彦太郎糯が植え付けられた圃場も訪れました。自身無類の餅好きだと笑顔で語る正宏さんは、14人の同志からなる生産者組織「酒田女鶴部会」の部会長を立ちあげから3年間務めました。その間、自前の餅加工施設に組合員から持ち込まれる酒田女鶴をすべて味見しつつ、品質向上に尽力したといいます。これぞまさしく"好きこそ物の上手なれ"
takuseisho.jpg
【Photo】渡部さん夫妻が酒田市立琢成小学校と10年以上続けている食農交流。今年春に総合学習の一環で酒田女鶴の田植えを見学した3年生の児童が、9月19日(水)に渡部さん指導のもと、酒田女鶴の手刈りに挑戦した  〈左写真提供:庄内バイオ研修センター〉

 およそ1ヵ月天日干しされ、じっくりと理想の水分含有量に仕上げた今年の酒田女鶴。自然乾燥米杵つき餅として、年間通して取扱いのある山居倉庫みどりの里 山居館や、酒田市内に10店舗を構える生鮮スーパー「ト一屋」の店頭に11月初旬には並びます。餅はつきたてが最高ゆえ、お召し上がりはお早めに。

【Photo】観測史上最も暑い9月となった今年。高温のために稲の登熟が一気に進み、昨年比で一週間早くコメの収穫が始まったという知らせ受け、ヒエ~とばかりにアワを食って渡部さんの圃場を9月15日(土)に急ぎ再訪。全て人力でこなすため、「腰に負担がかかる杭がけは一苦労なんだ」と正宏さんが語る杭がけ作業を終えた酒田女鶴。秋晴れの抜けるような空のもとで風に吹かれ黄金色の穂先を揺らしていた(下写真)

sakatamezuru_kuigake.jpg こちらの連絡先を渡部さんに伝えていなかったため、稲刈り開始について連絡を下さったのが、「ル・ポットフー」のフロアサービス係だった阿部泉さん。みどりの里 山居館に入居する地酒専門店「木川屋山居倉庫店」に現在はおいでです。阿部さんのご主人真さんも交え、地元の旦那衆が集う「久村の酒場」でご一緒した翌朝、酒田女鶴のルーツとなった女鶴糯の特産地であった円能寺地区を訪れました。うるち米の刈り取りはまだでしたが、すでに杭がけされた糯米が散見されました。女鶴発祥の地・円能寺でも、高単価な商品を揃える清川屋と取引をしている生産者が、本女鶴のみならず、でわのもちや酒田女鶴も栽培しているといいます。

 特にあてもなく隣接する布目(ぬのめ)地区に差し掛かったところで、道路脇の畑で仕事中だった年配の女性に声を掛けました。他愛のない言葉を交わしたところで、「酒田女鶴ではなく、女鶴を育てている農家さんは、円能寺でも多くはないと伺いました」という私の問いに対するお母さんの返答に我が耳を疑いました。

 「ほら、そこに見える隣の田んぼに杭がけしてあるのが、種籾をたった一人で守り抜いてきた堀さんの女鶴だよ」

 「えっ、えええええーーーーー????」

honmezuru_hori.jpg【Photo】唯一の女鶴伝承者であった堀芳郎さんが、今年も円能寺との境界にある布目の圃場で育てた本女鶴が、昇る朝日に照らされて神々しい輝きを放つ。本州を直撃した台風19号が迫りつつあった10月初旬、酒田大火があった1976年(昭和51)に杭掛けしていた女鶴の稲穂全て吹き飛ばされた苦い経験を持つ堀さんは、納得のゆく仕上がり具合を確認した上で、これらの稲を全て脱穀したという

 酒田女鶴を愛してやまない庄イタは、そのルーツである女鶴が命脈を保った聖地に辿り着いていたのです。これは時に彼の地で発動する動物的な霊感を備えた嗅覚が働いたのか、あるいは鳥海山頂に鎮座する大物忌神の思し召しなのでしょうか。偶然にしてはあまりの展開です。お母さんに教えてもらった堀さん宅に伺うと、居間においでだった奥様が私を圃場へと誘って下さいました。

yoshiro_hori.jpg【Photo】明治初期から江戸まで遡るとされる来歴はつまびらかではないものの、この世にこんな糯米があったのかと感動すら覚える女鶴を食する悦びを今日に残して下さった恩人、堀芳郎さん

 初めて渡部さん宅を訪れた日、正宏さんから酒田女鶴の原種である本女鶴(⇒酒田女鶴の登場以降、地元では「本女鶴」と区別して呼ばれている)の種籾を手に入れた経緯を伺っていました。正宏さんが土地改良区の役員をしていた十数年前、役員の会合で、かつて父から話に聞いただけで口にしたことのなかった女鶴餅が話題に登ります。その宴席には布目の役員を務めていた堀芳郎さんが居合わせました。

 渡部さんは、そこで女鶴糯を唯一伝承するのが堀さんであることを周囲から知らされます。堀さんは、10歳年下で自他共に認める餅好きの正宏さんに「女鶴を自分で育ててみたら」と貴重な種籾を譲ってくれたのだそう。"女鶴は趣味で育てています"と言いながらも、尊敬する堀さん直伝の女鶴を手塩にかけて育てる渡部さん。毎年ねだられる親類縁者など行き先が決まっており、残念ながら市場には出回りません。最近やっと収量が安定してきたと笑顔をみせた渡部さんも、心強い女鶴の継承者にほかなりません。

honmezuru_watanabe.jpg【Photo】女鶴と出合えて幸せだと語る渡部正宏さんが杭掛けした本女鶴。高さを増した青空と秀峰鳥海山のもと、爽秋の乾いた風が吹き抜けてゆく実りの季節を迎えた北庄内

 杭がけされた本女鶴の前で奥様と待つことしばし。コメの登熟具合を軽トラで確認して回ってきた芳郎さんが、戻っていらっしゃいました。今年で古希を迎えたという芳郎さんは、今も自ら杵を握って臼で餅を搗くというのが合点がゆく70歳とはとても思えないがっしりとした体つきと日焼けした風貌の持ち主でした。ご子息の正人さん(44歳)と2日がかりで杭がけを終えたばかりという女鶴を眺めながら、あれこれ話を伺いました。

 先代の八十八(やそはち)さんから受け継いだ先祖伝来の女鶴にとって最適の酸化鉄粘土質土壌の圃場のうち、先代と同じ20アールの区画で女鶴を毎年育てているそうです。春先の低温が続いた後、夏場の暑さと日照りによる水不足のもとで、品質管理に心を砕いた今年の女鶴の収量は、7俵半から8俵ほど。反当たり4俵も穫れない本女鶴は、まさに希少価値の高い糯米なのでした。突然の訪問者である庄イタを迎え入れて下さったばかりか、最高の贅沢ともいえる機械搗きではない杵つきの女鶴餅を年末に譲って下さるという芳郎さんと奥様にお会いできたのが、私にとっては望外の喜びであり、収穫でした。

 餅の出荷のため大晦日まで忙しさが続くのだという渡部さんの酒田女鶴に加え、今年は堀さんの本女鶴という極めつけ糯米の豪華競演による仙台雑煮が、新たな年を寿ぐ庄イタ家の食卓を飾ることでしょう。早いもので今月8日には冬の使者オオハクチョウがシベリアから酒田に渡来し、昨年より10日遅い鳥海山の初冠雪の知らせが本日届きました。紅葉も平年より10日ほど遅れているようですが、この冬の備えは、まず女鶴餅の準備から。 ♪ もういくつ寝るとお正月・・・ 

************************************************************************
◎「酒田女鶴100%使用の自然乾燥米杵つき餅」については
 農業 仁助屋 http://www15.plala.or.jp/nisukeya/index.html#hpb-container 

 みどりの里 山居館 
  住 : 山形県酒田市山居町1-3-1
  Phone : 0234-26-6222
  営 : 9:00~18:00
  URL : http://www.sankyokan.jp/
  E-Mail : info@sankyokan.jp


baner_decobanner.gif

2012/09/17

だだちゃ豆食べ比べ会

Road to だだちゃ豆食べ比べ会
湯田川朝ミュージアム#6 「続だだちゃ豆」より続き

白熱の食べ比べ審査
チャンピオン・オブ・ジ・イヤーは誰の手に?

tabekurabe_1.jpg【Photo】だだちゃ豆食べ比べ会の冒頭、ご挨拶に立つ月山パイロットファーム相馬一廣氏
 
 月山山麓にある月山パイロットファームの研修施設に到着すると、すでに20人ほどが集結していました。参加者は総勢28名。顔ぶれは同社の相馬一廣氏ご夫妻と同社第二農場を預る成沢昭信氏ら生産者のほか、山形大学農学部、庄内経済連、県農業改良普及所などで、だだちゃ豆の研究や普及に関わってきた方たち。加えて歴代の荘内日報社社長、日本の伝統食を考える会(本部:大阪)〈Link to Website、税理士、医師など地元庄内を中心に、京都・新潟・仙台(⇒庄イタ)からの多彩な顔ぶれ。

tabekurabe_2.jpg【Photo】生産者が腕によりをかけた無記名のだだちゃ豆が並ぶ。参加者がこれぞと思った番号に2票を投じ、獲得投票数で順位を決める。食べ進めてゆくうちに味と香りが重複しあってくるため、見極めは容易ではない。3回食べ直しをして悩んだ挙句に票を投じた

 国内の産学関係者からなるエダマメ研究会Link to Website会長を務め、今年3月に山大農学部を退官した赤澤經也氏が恒例により冒頭ご挨拶をするはずでした。ところが、食べ比べ会に提供する天然アユを調達に行く道すがら、車で自損事故を起こし、足に重傷を負って入院されたためパイロットファームの相馬一廣さんが代わってご挨拶をされました。

 食べ比べ会に出品されただだちゃ豆は12品。これでも例年より出品者数が少なかったそうです。今年は8月26日(日)の開催でしたが、春先の寒さが響いた今年は、全体に生育が平年より1週間ほど遅れたため、出荷のピークがずれ込んだ白山だだちゃや庄内3号の出品が多かったようです。6月以降の降水量が平年の1割と極端な水不足と酷暑のもとで育った本年産だだちゃ豆。食べ比べ会は、無記名で出品された豆を試食し、「これぞ!」と思う番号を2つ記入するというもの。順位は投票数の多さで決まります。

tabekurabe_3.jpg【Photo】12種の中から2つを選ぶ審査に臨む参加者の表情は真剣そのもの

 審査に臨む誰もが真剣な表情でモグモグ。私も順番に食べてゆくうち、この審査が容易ではないことに気付きました。だだちゃ豆は香りが強いため、ともすると食べ比べてゆくうちに風味が混ざってしまいます。神経を味覚に集中させて甘さの強弱、風味の良さ、コク深さなどを確かめてゆきます。1番から12番までひと通り食べた後で、もう一度食べ直し、5点ほどに絞ったところで、再びトップの二つを決めてゆきました。

tabekurabe_4.jpg【Photo】いずれ劣らぬ秀作揃いのだだちゃ豆の中から、悩み抜いた庄イタがオレンジ色の投票用紙に記した番号は3と12。厳正なる審査の結果はいかに?

 開票の結果、最多票を獲得したのが12番の月山パイロットファーム第二農場の成沢昭信氏が山場の畑で栽培した白山だだちゃ、次点が3番の元荘内日報社編集局長 松木(まつのき)正利氏夫人の道子さんが、鶴岡市内にあるご自宅の畑で育てた庄内3号のワンツーフィニッシュ。これは奇しくも庄イタが投じた一票と同じもの。ビギナーズラックというべきか、これまで鶴岡各地の産直でつまみ食いを重ねてきた成果というべきか...(´∀`*)

tabekurabe_5.jpg【Photo】栄冠に輝いた12番月山パイロットファーム成沢昭信氏の白山だだちゃ

 最多票を獲得した成沢氏は、輪作による資源低投入型月山パイロットファーム式無農薬有機農法を取り入れています。標高約300mの山場と平場にある畑から豆を出品した成沢さんによれば、気温が低い山場では平地と比べて収量が1/4しかないそうです。厳しい栽培環境がもたらす負荷がストレスとなり、糖分が増して風味が良くなったのではないかと勝因を語りました。次点の松木さんは、いつも相馬さんが優勝をさらってゆくので、打倒相馬を目指して精進してきましたと本音を披露。会場は笑いに包まれるのでした。

 和やかな中にも、この会が大真面目で行われていることを示したのが、「だだちゃ豆のおいしさ 香りについて」と題する慶応大学先端生命科学研究所の富田淳美さんによる解説。最新の研究結果に基づく未発表の内容を含むため、ここではその詳細は伏せます。湯田川温泉朝ミュージアムでお会いし、食べ比べ会にも参加しておいでだった山形大学農学部江頭宏昌(ひろあき)准教授(下写真左から2人目)の指導を仰ぎ、現在は鶴岡にある同研究所で植物に関する研究を行っているそうです。

 tabekurabe_6.jpg【Photo】慶応大学先端生命科学研究所の富田淳美さんによる科学的な分析データに基づく解説がなされた「だだちゃ豆のおいしさ 香りについて」。興味深い解説に一同興味津々

koino_kawa.jpg【Photo】出羽桜・くどき上手・東北泉・竹の露など、さまざまな銘柄の日本酒が用意された食べ比べ会は、飲み比べ会さながら(笑)。持ち帰りさせて頂いたのは、まだ飲んだことのない一本。最晩節に登場するだだちゃ豆品種「尾浦」をつまみながら、自宅で空けた鯉川酒造の純米吟醸「恋の川」生酒

 この日は所用で参加できなかった鯉川酒造の佐藤社長が、だだちゃ豆に合わせて選んだ山形各地の日本酒が並びました。それを庄イタが指をくわえて見ていたのは、塩引き鮭の調達に新潟村上まで車で移動することになっていたため。宴たけなわの酒席を中座せねばならなかったのも心残りでした。

 空気が乾燥し、強風が吹いた翌朝はだだちゃ豆の香りが弱くなるなど、興味深い皆さんの話をウーロン茶を飲みながら拝聴する私に、好きな酒を持ち帰っていいからと仰って頂いた相馬氏に後日連絡を入れました。電話口で「たまには勝ちを譲らないと」と悪戯っぽく笑ったものの、そこは「沈潜の風」を旨とする鶴岡の人だけに、来年こそはと捲土重来を目指していることでしょう。 

baner_decobanner.gif

2012/09/15

Road to だだちゃ豆食べ比べ会 

湯田川朝ミュージアム6 「続だだちゃ豆」

 鶴岡市羽黒町手向(とうげ)にある月山パイロットファームの研修施設で恒例の「だだちゃ豆食べ比べ会」が8月26日(日)に催され、会の存在を知ってから足かけ10年目にして念願の初参加を果たしました。だだちゃ豆については3年前のレポートをチェック・プリーズ《Link to Backnumber

compe12_dadacha.jpg【Photo】今年で17回目を迎えた「だだちゃ豆食べ比べ会」。並みいる腕自慢の挑戦を押しのけ、これまで高い勝率を誇ってきた月山パイロットファームの相馬一廣氏。食べ比べに臨む表情は真剣そのもの。果たしてその結果はいかに

 平成の大合併で鶴岡市と藤島町が合併する前の2003年(平成15)、藤島町の助役であった月山パイロットファームの相馬一廣氏から、8月の最終日曜日に開催される食べ比べ会に参加しないかとお誘いを頂いたことがあります。山形営業所が開設され、当時は月~金で仙台から山形まで通う毎日。山形県全域を車で回るなかで、内陸とは全く異なる庄内へと頻繁に訪れていた頃のことです。

【Photo】イタリア・マルケ州から2006年3月に有機農業を通じた民間交流を促進しようと訪れた一行の歓迎会。(写真奥から)相馬氏、スパール山澤清代表、鯉川酒造佐藤社長ら、食に関して一家言を持つお歴々が集ったテーブルの話題は「だだちゃ豆はどの旬が最も美味であるか」

benvenuti_arcevia.jpg その年は都合がつかず参加を見送りましたが、食べ比べ会で供される日本酒の調達係だという鯉川酒造の蔵元・佐藤一良氏や相馬氏らと、その3年後に鶴岡で催されたイタリア・マルケ州からのゲストご一行をお迎えする会合でご一緒しました。席上話題となったのが、だだちゃ豆食べ比べの会のこと。

 会の発足は、20年近く前に所用で郷土紙の・荘内日報社を訪ねた相馬氏が、当時の編集局長で園芸家としての顔を持つ松木(まつのき)正利氏と交わした会話がきっかけでした。だだちゃ豆栽培の最適地として地元で知られるのが、赤川に合流する大山川の支流・湯尻川沿いの白山から矢馳地区の一帯。収穫が行われる早朝に立ち込める朝霧の湿気と肥沃な土壌とが、一味違うだだちゃ豆を生むのです。それに相馬氏が、ご自身がだだちゃ豆を栽培する月山中腹の畑も負けてはいないと応じます。

dadacaha_watamae.jpg【Photo】次回のレポートで明かされる今年の食べ比べ会で栄冠を勝ち取った生産者が所有する畑に隣接する井上農場の「白山だだちゃ」。だだちゃ豆の商標を持つJA鶴岡のエリア外ゆえ、「たかくんの茶豆」として出荷。だだちゃの名を語らずとも、こだわりの土作りと糖蜜散布など、独自の工夫がもたらす風味の違いは歴然!!

 ならば味の優劣は、食べ比べによる投票で決めようと両者合意。だだちゃ豆という名の由来〈Link to Website〉からも、代々庄内藩主を務め「酒井の殿はん」と呼ばれ、鶴岡市民の敬愛を集めた酒井忠明(ただあきら)第17代当主(1917-2004)の参加は必須でした。腕自慢の育種家に声をかけ、毎年の恒例行事となって以来、スタート当初から事務局は、現・荘内日報社社長の橋本政之氏で、今年もお世話役を買っておいででした(一番上の写真で相馬氏の背後の階段に陣取り、参加者名簿の照合に余念がないお方デス)

dadacha_otaki.jpg【Photo】3年前に99歳で亡くなった鶴岡市小真木(こまぎ)の大滝武氏は、大滝ニンジン・金峰だだちゃなどの作物を選抜育種した篤農家。義父が遺した畑を守る大滝小菊さんを訪ねた8月26日早朝。ただ一人種を受け継ぎ、7月初旬に播種した大滝ニンジンの間引きの手を休め、こうして白山だだちゃを土産に下さった

 食べ比べ会には、長い歳月をかけ自家採種による選抜を重ねる地元の腕自慢が持ち寄る自信作が揃うと聞けば、いやがおうでも興味をそそります。早生から晩生種まで出回る時期と風味の特徴が異なるだだちゃ豆。それぞれ旬の走り・盛り・終盤で、いずれのだだちゃ豆が最も美味であるかという、相馬さんらが繰り広げる真剣な議論は、次第に熱を帯びてゆくのでした。

 今年の新物を漬けた民田ナス辛子漬特別仕様の調達に相馬さんのもとを訪れた8月25日(土)のこと。朝採りならではの風味豊かな自家製だだちゃ豆をご馳走になりながら、翌日食べ比べ会があることを教えて頂きました。千載一遇の幸運とはまさにこのこと。日帰りの予定を変更し、食べ比べ会に急遽混ぜて頂くことになったのです。

 食べ比べ会当日の26日朝は、湯田川温泉の若手が中心に旬の地域資産を見直す取り組みとして、昨年9月から実施している「朝ミュージアム」が開かれていました。6度目となる今回のテーマは第1回と同じくだだちゃ豆。その企画のひとつがテーマに沿った「朝カフェ」。ワンコインでだだちゃ豆が主役の定食が食べられるほか、葛餅、だだちゃ豆シェイク、変わったところではコーヒー豆ではなく、だだちゃ豆を焙煎したコーヒーも味わえるというもの。

   museo1_yutagawa.jpg museo2_yutagawa.jpg
【Photo】毎回設定されたテーマに沿って展示やガイドツアーが実施され、見て・聞いて・体験できる仕組みが用意される。だだちゃ豆に関する豆知識の掲示(上左写真) 早生種の「小真木だだちゃ」の種(上右写真) だだちゃ豆の豆乳を使った「だだちゃ豆シェイク」(300円)は、朝カフェのおめざにふさわしい爽快な風味(下左写真) 日本酒がテーマとなった前々回は「SAGE(さげ)」(笑)。取り上げるテーマのスタンプが開催ごとに増えてゆくスタッフTシャツ。この逞しい後ろ姿は前回テーマの孟宗掘り名人・ますや旅館の齋藤 良徳専務(下右写真)
   museo4_yutagawa.jpg museo3_yutagawa.jpg

 個人的に嬉しかったのは、前日の夕刻、湯田川郊外の畑にお邪魔したばかりの小田茂子さんが育てた「萬吉ナス」が田楽で登場したこと。今年は久方ぶりに納得のゆく出来だと語った小田さんが、大滝小菊さんと同じく先祖伝来の萬吉ナスを一人で受け継いでいます。ナス特有のアクやエグミがない透き通った味と爽快な香りが特徴の萬吉ナスと共に運ばれてきたのが「緑のいくらご飯」です。

   asacafe2_teishoku.jpg asacafe_teishoku.jpg

 【Photo】ワンコインで旬の恵みを頂ける充実の朝カフェ定食

 これはエビなどに見られる緑色の魚卵が入った炊き込みご飯などではなく、サヤからはじいただだちゃ豆を白飯に混ぜ、醤油をかけて頂くという極めてシンプルな鶴岡の郷土料理。ご飯と一緒にだだちゃ豆を炊き込む本格的だだちゃ豆ご飯もありますが、簡易版ともいうべきこの食べ方も一般的。炊きたてのご飯と茹でただだちゃ豆の濃厚な風味に、香ばしい醤油味が重なることで醸し出される、えもいわれぬ三位一体の旨さに言葉を失いました。

   mankichi_dengaku.jpg howto_mamegohan.jpg
【Photo】「萬吉ナス」の田楽(左写真) 緑のイクラご飯こと、お手軽だだちゃ豆ご飯の作り方に目を凝らしていると、お隣りの食卓ではアラ、山形大学農学部の江頭宏昌(ひろあき)准教授がご家族連れでお食事中(右写真)

 だだちゃ豆ご飯にはどうやら流儀があるようで、小皿に豆をのせてから醤油をかける派は、朝ミュージアムでお会いした在来野菜の写真を多く手掛ける写真家の東海林晴哉さん。ご飯に豆を直接はじいてから醤油をかける派は、厨房と客席との間を行き来していた理太夫旅館の太田百合若女将。旨みを倍増させる醤油の量はお好みでどうぞ。

    methodo_atogake.jpg dadacha_mamegohan.jpg
【Photo】サヤからはじいただだちゃ豆を小皿に載せて醤油を適量(左写真) 温かいご飯に載せて口に運ぶと...。旨いのなんのって、も~タイヘン!(右写真)

 鶴岡にある山形大学農学部の阿部利徳教授が著した「ダダチャマメ おいしさの秘密と栽培(2008:農山漁村文化協会刊)によれば、うま味成分であるグルタミンやアラニンなど遊離アミノ酸が、ほかの枝豆よりも元来だだちゃ豆には多く含まれ、新鮮なだだちゃ豆には芳香成分の「2-アセチル-1-ピロリン」という物質も通常の枝豆の含有量と比べて4~5倍に達するのだといいます。この物質は、炊きたてのご飯の香りと同じだといいますから、相性が悪かろうはずがありません。

 いつも変わらず湯触りの優しい湯田川の湯で癒された全身の細胞が、一口ごとに目覚めてゆくかのよう。カニ汁の風味に変化するはずの(⇒本当です)味噌汁に入っただだちゃ豆が、いささか加熱時間が長かったためか、栗のような味に感じられる新たな発見もありました。だだちゃ豆シェイクをデザート代わりに頂いてから、はやる気持ちを抑えつつ、11時の集合時刻に間に合うよう、食べ比べ会が行われる月山へと向かいました。

 白熱の食べ比べ会の模様はPart2でご報告!

baner_decobanner.gif

2011/11/13

よみがえりのレシピ

山形発・在来作物と種を受けつぎ守る人々の記録

 プロの役者でも大根役者でもなく、ココロ震える値千金の千両役者ぶり発揮する出演者で占められる映画「よみがえりのレシピ」をご存知でしょうか? 鶴岡市出身の映像作家・渡辺智史さん(30)が、山形県内各地の在来作物の種を受け継ぎ、次代に伝えようとする人たちの営みに焦点を当てた95分のドキュメンタリー映画です。

 「藤沢カブ」後藤勝利さん、「宝谷カブ」畑山丑之助さん、「外内島キュウリ」上野武さん、資源低投入型循環有機農業のパイオニア「月山パイロットファーム」相馬一廣さん...。これまで「Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅」でもご紹介してきた私の琴線に触れる尊い仕事をなさっておいでの生産者の皆さんが数多く登場するとあって、製作段階からその完成を心待ちにしていました。11月5日(土)から始まった山形市での一般公開(~18日)に続いて、12日(土)からは「鶴岡市まちなかキネマ」での公開が始まりました(~25日)。

recipi1_tsuruoka.jpg【Photo】鶴岡での公開初日の初回上映後、舞台あいさつに立った渡辺智史監督、冨樫裕子さん、畑山丑之助さん、「この映画を観るのは3回目だけれど、同じ場面で感動する」と感極まって涙ぐむ後藤勝利さん

 公開と機を一にして、TPP参加の是非に関する議論が巻き起こっています。賛否渦巻く交渉のテーブルに日本をつかせようという米国は世界に冠たる農業国。東北のように中山間地が多く地理的制約で経営規模が小さな農業者が多い島国日本で、いかに大規模集約化をしたところで、その営農規模は日本の比ではありません。

frier_resipe.jpg【Photo】映画のポスター・フライヤーには、寒河江市風間地区が発祥とされる「山形赤根ホウレンソウ」が登場(写真撮影:東海林晴哉氏)

 我が国にも国内法人がある米国の巨大企業が、自社の除草剤とセットで遺伝子操作で耐性を得たF1種子の販売権を独占しています。農業分野における米国の狙いは明白なのです。TPP推進派の経済界をはじめ、日本中に蔓延している効率優先の考え方や拝金主義とは対極にある世界をこの映画は淡々と描いています。登場するのは、経済最優先の時代には金にならないからと生産農家が消えていった在来作物を今も作り続ける生産者と、加工業者・研究者・料理人ら、互いに支えあう周囲の人々の人間模様。

fujisawakabu_2010.8.jpg

 二粒入りの鞘のうち、巾着型でシワの寄った種だけを選び、選抜を重ねてゆく鶴岡市白山の「だだちゃ豆」生産農家・冨樫裕子さんの自家採種の模様や、孫が通っている小学校で子どもたちと栽培から種採りまで一緒に行うことで、作物の一生を学ぶ機会を持たせた外内島キュウリの生産農家・上野武さん、安い輸入材に押されて森林が放置され山が荒れてゆく中、藤沢カブの収穫後に植林まで行う後藤勝利さんの伝統的な焼畑農法が、化学肥料や農薬を一切必要とせず、森の再生を促す自然のサイクルにかなった農法であることなどが、山形大学農学部 江頭宏昌准教授による解説などを交えて描かれています。

【Photo】まっ暗いうちに始まる焼畑作業があらかた終わったところにノコノコ伺う羽目になった2010年8月9日朝6時過ぎ。鶴岡市湯田川近くの金峰山中で行われた藤沢カブの火入れの模様を撮影するよみがえりのレシピ渡辺監督らスタッフ

 昨年、真夏の鶴岡の夜空を彩る赤川花火大会が催された翌朝、藤沢カブの火入れが行われるというので、投宿していた鶴岡市西荒屋の「知憩軒」から、土地勘のある金峰山の山中へと夜がまだ明けやらぬ早朝に車で向かいました。前夜の酒も手伝って到着が遅くなってしまいましたが、そこには後藤さんご夫妻や江頭先生や在来作物の撮影を続けている写真家の東海林晴哉さんの顔もありました。その現場に渡辺監督ら映画の撮影クルーもちょうど居合わせたのです。

seedtalk1_nagai.jpg seedtalk2_nagai.jpg【Photo】「未来への種まきトーク in 置賜」より。進行役は渡辺監督、基調講演後はコメンテーターを務めた島村菜津さん(左写真)、吉田昭市さん、鈴木徳則さん、井沢良治さん(右写真)

 昨年12月、よみがえりのレシピ製作委員会の主催で山形県長井市で行われた「未来への種まきトーク in 置賜」では、映画では山中で藤沢カブにかじり付く姿が登場するノンフィクション作家の島村菜津さんが「スローな生き方」と題して講演。その後、米沢雪菜の生産者・吉田昭市さんや、高畠町二井宿小学校で11年前から子どもたちに自分たちが食べる給食の野菜栽培を行う取り組みを行なった元校長先生・井沢良治さん、スローフード山形事務局長・鈴木徳則さんらが、島村さん・渡辺監督とともに登壇し、トークセッションを行いました。

recipe2_tsuruoka.jpg 【Photo】鶴岡公開初日の初回上映後「鶴岡まちなかキネマ」でのアフタートーク。23年前に後藤さんの奥様・清子さんに「この種をあなたが守ってほしい」と託した近所に暮らす渡会美代子さんが、ご自身も出演したこの映画の完成を待たず、今年の9月に急逝されたことが渡辺監督から明かされた。10年後・20年後を考えた時、この映画は貴重な映像記録となるはず

 80名が観賞した鶴岡での初上映後は、渡辺監督と映画に登場した冨樫裕子さん、畑山丑之助さん、後藤勝利さんの舞台あいさつがありました。心揺さぶられる映画の内容が素晴らしいことは勿論、ご縁あって「未来への種まきトーク」打ち上げと鶴岡初上映後、市内の知る人ぞ知る超・穴場の蕎麦店を貸し切って行われた昼食会に居合わせた関係上、恩義のあるこの映画は応援しなくてはなりません。酒田・仙台でも上映に向けた機運があるといいます。今後の詳細については、下記公式サイトを参照願います。

やまがた発長編ドキュメンタリー映画
よみがえりのレシピ公式サイト
 http://www.y-recipe.net/

baner_decobanner.gif

2011/11/10

祝・初出荷。仙台せり

香り高き和製ハーブ「仙台せり」
 @朝市・夕市ネットワーク合同市

 宮城県内の農漁業者50名ほどで構成されるNPO法人「朝市夕市ネットワーク」(本部:仙台市)では、毎月1回、生産者が直接対面販売を行う定期合同市を開催しています。会場は仙台市青葉区の勾当台市民広場。頻繁に催しが行われるそこでは、今週も8日・9日の2日間、県内各地から自慢の鍋料理が揃った「仙臺 鍋まつり」Link to websiteが催され、多くの人出で賑わいました。

takahiro_miura.jpg【Photo】本日11月10日(木)、恒例の「朝市夕市ネットワーク合同市」に今季初出荷となるセリを出品した三浦隆弘さん

 有機農法で栽培された新鮮な農産物や、私が知る限りにおいて三陸随一の美味しいワカメ産地である石巻市北上町十三浜の漁業者、糖度15度にもなる県産ミヤギシロメの豆乳と伊豆大島のにがりで作る濃厚な豆腐など、いずれ劣らぬこだわりの生産者が集います。15年に渡って開催されている催しだけに、固定ファンが多く、午前中には売り切れることも珍しくありません。ゆえに可能な限り早めに足を運ぶようにしています。


 東日本大震災では、朝市夕市ネットワーク加盟生産者のうち10名ほどが命を落としたり、漁具を津波で失うなどしました。灌漑施設が津波で壊滅したため、コメの作付を見送った生産者もおり、春先は合同市の開催を見送らざるを得ないこともありましたが、夏以降は出店可能なメンバーが出店するようになりました。

seri1_miura.jpg【Photo】今シーズン初物となる三浦さんのセリ。来月にはシャキシャキした茎とゴボウのような風味がある根がもう一回り太くなる

 仙台市役所で打ち合わせを終えた今日、目の前の勾当台市民広場で合同市が開催されていました。震災前の半分ほどの出店数ではありましたが、旬の新鮮な作物やこだわりの加工品類が並んでいます。ざっと見渡した中に、河北新報朝刊に連載された「食でつなごう」執筆者の一人で、名取市下余田の専業農家・三浦隆弘さん(31)の顔がありました。現在は地域SNS「ふらっと」 Link to websiteで、被災後の東北の声を発信する「オピのおび」ブロガーとしてお世話になっています。

 ミョウガタケ、セリ、仙台長ナスといった特徴ある在来作物が作られる名取市下余田地区は、震災で多くの犠牲者が出た閖上(ゆりあげ)から2kmほど内陸側に位置します。堤防のような盛り土構造の仙台東部道路のお陰で、津波による直接の浸水被害はありませんでしたが、農業用水の確保に欠かせない灌漑施設が壊滅したため、コメの作付ができなかったといいます。

seri2_miura.jpg

 名取川水系の豊富な地下水脈を利用して江戸初期から下余田地区周辺で栽培されてきたセリは、宮城が全国一の生産量(2010年)。その大方が名取で栽培されています。およそ40軒の農家が一斉にセリの植え付けを行うのが3月から4月。寒さが増す年の瀬に出荷のピークを迎えます。ハゼの焼き干でダシをとった澄まし汁に千切りにした凍り豆腐・ゴボウ・ニンジン・大根といった野菜にハラコ(イクラ)とともにトッピングされるセリは、伝統的な正月料理「仙台雑煮」の具として無くてはならないもの。ここ数年、三浦さんが仕掛け人となった「せり鍋」や「せりしゃぶ」といった新メニューも登場しています。

 7代続くセリ農家を継いだ三浦さんは、子どもやその親に農業生産現場を知ってもらうため、2004年(平成16)に「なとり農と自然のがっこう」を開講。削減対象農薬や化学肥料を使わない有機農法を通して、食べる人の安全に配慮した持続可能な農業に取り組んできた三浦さんにとって大きな心配の種となったのが、東京電力福島第一原子力発電所の放射線漏れ事故でした。原発から85kmの下余田で暮らす三浦さんは、震災直後から複数の線量計を常に携帯、今日も3台の線量計を合同市に持参していました。

 先月末、東京の専門調査機関に根付きの状態で送って検査を依頼したセリの残留放射性物質検査の結果は、放射性ヨウ素(I-131)・放射性セシウム(Cs-134・137)・放射性カリウム(K-40)とも、1kg当たり1ベクレル以下の測定可能下限値で測定されない「検出せず」というもの。国が定めた暫定基準値が2,000ベクレル以下ですから文句なしの結果です。これで出荷のメドがつきました。 

seri3_miura.jpg【Photo】東京電力福島第一原発事故の影響が気になる方は、こちらをご確認の上、安心してお召しあがり下さい。東京の専門機関に委託した検査報告書のコピー ※Photoクリックで拡大

 蔵王からの冷たい風が吹き抜けるセリ畑の水は冬でも12~13℃ほど。腰まで水に浸かって全て手作業で行われる収穫作業は、否応なしに体温を奪ってゆきます。寒さが募るこれからの最盛期から見れば、まだ茎や根が細く、香りも優しいセリですが、まずはおひたしにで旬の到来を感じたのでした。

 秋田が生んだ魚醤の傑作「しょっつる」で味付けするきりたんぽ鍋の主役は、日本海の荒波を乗り越えてやってくるハタハタですが、隠れた主役の座にあるのが三浦さんのセリ。今年もこのかぐわしい和製ハーブとともに季節が巡ってくることに感謝しつつ、この週末は鶴岡でいよいよ公開される在来作物の生産者を追った山形発ドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」Link to Website公開初日に向けて庄内入りです。

baner_decobanner.gif

2011/08/20

めっちゃこい鵜渡川原キュウリ

瓢箪(ヒョウタン)から胡瓜(キュウリ)な出合い
 @酒田市亀ヶ崎

 酒田市亀ヶ崎にあるフレンチレストラン「Nico(ニコ)」に昼の予約を入れた7月半ばのこと。そこは庄内浜をはじめとする豊富な地元の食材を積極的に使い、フランス料理のエッセンスを取り入れた郷土料理という、誰も成し得なかった独自の世界観を確立した故・佐藤久一の高い理想を皿の上に体現してみせた太田 政宏さんの次男・舟二さんが3年前に独立した店です。若きサラブレッドの店をこれまでに4回訪れていますが、この日は予約した時刻より若干早く着いたため、店の脇に車を停めました。

udogawara_niizeki.jpg【Photo】酒田市亀ヶ崎で新関 貴美子さんが栽培する鵜渡川原キュウリの畑(上写真)
8人の組合員が1シーズンに合計6tを出荷する鵜渡川原キュウリは、長さ5cm~10cm未満のうちに収穫する(下左写真) 採種用の目印を付けられた鵜渡川原キュウリ。熟して褐色に変化した表面に無数のひび割れが生じている。長さは15cmほど(下右写真)

 udogawara_4.jpg udogawara_3.jpg

 店の周辺には、脂身こそが豚肉の醍醐味と身をもって教えてくれるヘルシーなコメ育ち金華豚が購入できる「平田牧場本店」のほか、立ち寄り先が数軒あるため、「レストラン欅」が地階にある産業会館周辺と並んで酒田市中心部でも庄イタ出没率が高いエリアです。この時、密かに目論んでいたのが、訪れた時期が旬の真っ盛りを迎えていた亀ヶ崎地区在来のキュウリの畑を探すことでした。

udogawara_2.jpg【Photo】黄色い花の花床と子房部が肥大してキュウリの実を結ぶ。雨が多い年は収量が目減りするという

 車を停めた駐車場のすぐ隣りには、住宅地の一角に残る浮島のような耕作地がありました。灌漑設備を備えたビニールハウス数棟はさておき、私の関心を惹いたのは覆いを取り払って露地栽培されているキュウリと思しき4畝(うね)。ちょうど大人の背丈ほどに組まれた逆U字型の支柱をのぞいて見ると、うりざね型の小ぶりで色の淡いキュウリが実を付けていました。中には採種のため、目印を付けたまま取り置かれた長さ15cmほどの無数のひび割れが表面に生じた個体もあります。

 それはまさしくお目当ての「鵜渡川原(うどがわら)キュウリ」でした。予約時刻より早く到着しゆえの瓢箪から駒、瓢箪からキュウリな出合いです。3年前の「沖田ナス」〈Link to backnumber〉もそうでしたが、これも庄内で培った嗅覚のなせる神業。そこは1991年(平成3)に会員8名で発足した「ミセスみずほの会」のメンバーで、現在代表を務める新関 貴美子さんが所有する畑でした。ご子息の店で食事をしておいでだった太田さんにご挨拶ができたその日の翌日、再び立ち寄った畑で収穫作業中だった新関さんからお話を窺うことができたのは二重の幸運といえましょう。

kimiko_niizeki.jpg【Photo】庄内地方の女性が農作業の折に着用するハンコタンナ姿の新関 貴美子さん。今年からミセスみずほの会代表を務めている

 砂丘地帯を進むR112と幹線道路R7を結び、酒田市役所へと続く羽州浜街道に抜ける表通りに面して店が続く亀ヶ崎。今でこそ宅地化されたこの一帯は、1929年(昭和4)に酒田町に編入される以前は、飽海郡鵜渡川原村と呼ばれていました。最上川河口右岸のそこは、現在も河口域に群生が見られる葦原が広がり、その名が示す通り、水鳥が羽根を休める牧歌的な風景だったのでしょう。貴美子さんが新関家に嫁いで来た当時の亀ヶ崎は、まだ畑が一面に残っていたそうです。

udogawara_shukaku.jpg【Photo】収穫したばかりの鵜渡川原キュウリ

 鵜渡川原という旧地名は、江戸末期に京都伏見から北前船で庄内に伝播した素朴な風合いの土人形「鵜渡川原人形」に残ります。もうひとつが鵜渡川原キュウリ、ないしは隣町の大町でも作られていたゆえ「大町キュウリ」ともいわれた在来野菜です。舌を巻く名文をもってして郷土・庄内の食の魅力を綴った故・伊藤珍太郎の著書「改訂版 庄内の味」(S56・本の会刊)によれば、酒田に急速な宅地化の波が訪れた1973年(昭和48)当時、80歳以上の高齢者は、少なくとも江戸期から栽培されてきたこのキュウリを大町キュウリと呼んでいたのだといいます。

 よって、当時すでに畑が姿を消した大町こそが、シベリアから渡来した鵜渡川原キュウリの本拠地だったのだろうと伊藤珍太郎は記しています。畑で赤くなるほど熟れたものをキュウリもみにすると、淡白味と熟成味が渾然となった至上の味を体験できると語るこの通人が、民田ナス〈Link to backnumber〉と並ぶ夏の味としているのが、鵜渡川原キュウリです。経済発展がすべてに優先した高度成長の真っ只中だったその頃、伊藤珍太郎は次第に姿を消しつつあったこのキュウリの行く末を案じています。果たせるかな、現在このキュウリを栽培するのは作付けが減る一方だった1991年(平成3)に発足した「ミセスみずほの会」の8人だけとなりました。

mogamikyuuri.jpg 【Photo】今年7月上旬、袋詰めされて店頭に並ぶ鵜渡川原キュウリ(500g 300円 / 写真提供:みどりの里 山居館

 パキパキしたすがすがしい独特の食感がある一方で、生食では甘さよりほろ苦さが勝り、収量が上がらず、収穫翌日には黄変してしまうほど鮮度の落ちが早いという気難しい一面を持ち合わせた鵜渡川原キュウリ。ミセスみずほの会では、「めっちぇこきゅうり」の名称で商標登録をし、自家採種による栽培を行っています。めっちぇことは酒田の言葉で小さくてかわいらしいという意味。地元で愛されてきためっちぇこいキュウリへの愛着を感じさせる秀逸なネーミングですよね。

udogawara_asazuke.jpg【Photo】めっちぇこきゅうりで自作した浅漬。すがすがしい歯応えが秀逸

 鵜渡川原キュウリは、4月中旬に播種、6月上旬に定植し、下旬から翌月末までが収穫期。栽培から加工・出荷まで厳しい品質管理のもとで生産を行うミセスみずほの会では、500g入りの青果品として、また浅漬・辛子漬・ビール漬・粕漬に加え、最近ではピクルスへの商品化にも取り組んでいます。収穫する大きさは5~7cmほどに限定され、当然ながら規格外が少なからず生まれます。品質の劣化を避けるため、朝夕2回行われる収穫後は、すぐに出荷・加工へと回さなくてはなりません。

udogawara_kasuzuke.jpg
 
 今年で発足から20年を迎えた会のメンバーは、採算性だけでは決して語ることのできない故郷の味を守ろうと、決意を新たにしています。めっちぇこきゅうりは、酒田市内に10店舗を展開する「ト一屋」と「みどりの里 山居館」に加え、鶴岡市「つけもの処本長」では、山形大農学部教授を務め、在来野菜研究の先鞭をつけた故・青葉高が提唱した「酒田きゅうり」の名前で入手することができます。みどりの里 山居館には、市北部の西荒瀬地区でこの種を守ってきた齋藤 隆介さんが出荷する姿かたちが鵜渡川原キュウリとほぼ同一の「もがみきゅうり」も店頭に並びます。

【Photo】昨年12月、みどりの里 山居館で購入したミセスみずほの会メンバー池田けい子さんお手製の粕漬け。手間をかけた分、美味しさはまた格別(上写真) 現在では見られなくなった地這い栽培による鵜渡川原キュウリを収穫する農婦(下写真・「改訂版 庄内の味」より)

jiue_udogawara.jpg 最後に伊藤珍太郎が庄内の味で書き記した逸話をご紹介しておきましょう。その昔、鵜渡川原キュウリは、スイカやメロンのように支柱を立てず地面に直接ツタを這わせて栽培されていました。日照時間が長い夏の庄内にあって、ジリジリと焼け付く大地の生気をじかに吸い取るよう育てられていたのです。試みに支柱を与えて育てたところ、味は格段におちてあった(原文ママ)とあります。

 支柱を用いるトンネル栽培法は、技術が確立された1970年(昭和45)頃から導入されています。収穫時に中腰を強いられる地這い栽培から、作業性の向上がはかられて以降、もはや味の原型は幻となったのかもしれません。

 仮にそうだとしても、滅びる寸前だった特徴ある酒田の味はそうすることで守られたのです。昨年ご紹介した「外内島キュウリ〈Link to backnumber〉」と同様、特色あるこの長い歴史の生き証人と、それをを受け継ぐ人の思いに触れることができたことは、この夏の何より得がたい収穫だったと思っています。 

************************************************************************
ミセスみずほの会による
  めっちぇこキュウリの漬け方指南

 ◆その1/ 浅漬
    鵜渡川原キュウリ 500g 塩20g 砂糖50g
 ◆その2/ 辛子漬
    上記に 辛子20g 酒50ccを追加
 ◆その3/ ビール漬
    上記1 に ビール100ccを追加
 ◆その4/ 粕漬
    1 を水出しして水分を除き、砂糖と酒粕で漬け込む
   2~3週間後に一度酒粕を取り除き、再び砂糖と粕で漬けると約1ヵ月で完成

● ト一屋 URL: http://www.toichiya.co.jp/
● みどりの里 山居館 URL: http://www.sankyokan.jp/
● つけもの処 本長 URL: http://www.k-honcho.co.jp/
問合せ先:JA庄内みどり めっちぇこきゅうり部会
 Phone:0234-24-7511(酒田支店)
baner_decobanner.gif

2011/07/30

10年もの岩ガキ @象潟

鳥海山が育んだ海の加糖練乳・岩ガキ &
  この道50年以上、加藤名人との出会い

gulfo_kosagawa.jpg

【photo】岩ガキ漁に用いる小型漁船が陸揚げされた小砂川漁港

 にかほ市象潟町小砂川(こさがわ)は、山形県飽海郡遊佐町と県境を接する秋田最南端の地。沖合いの洋上には飛島を、緑の段丘の先には溶岩や火山灰が幾層にも重なった典型的なコニーデ式火山の扇形をした稜線を描く鳥海山が間近かに迫ります。海沿いを進む旧7号線・羽州浜街道沿いに人家が点在する小砂川は、農地には不向きな起伏に富んだ地形ゆえ、おもに漁業を生業とする280世帯が暮らします。


大きな地図で見る

 山形県境となる三崎公園の周辺は、鳥海山の溶岩流が日本海の荒波によって浸食された断崖の岩場となっています。かつては浜街道きっての難所とされた三崎峠も、現在はキャンプ場を備えた公園として整備されました。海沿いを走るR7にせよ、車窓に美しいオーシャンビューが広がる羽越本線を利用するにせよ、現在では想像すらつきませんが、1804年(文化元年)に発生した大地震で象潟一帯が隆起して陸地化する前は、松島のような幾多の浮島・九十九島(つくもじま)が織りなす見事な美観だったといいます。

marina_kosagawa.jpg【photo】砂浜の至るところから夏でも10℃ほどしかない鳥海山の清冽な伏流水が湧き出す。湧水が幾筋もの流れを砂浜に刻みながら日本海へと戻ってゆく小砂川海水浴場

 今から322年前の1689年(元禄2)6月16日(陽暦8月1日)、俳聖・松尾芭蕉は、おくの細道の最終目的地・象潟を訪れます。景勝地として知られた象潟への道すがら、酒田からの道筋で最も難渋した三崎峠には、有耶無耶の関があったと伝えられます。9世紀に朝廷が蝦夷に備えた有耶無耶(うやむや)の関は、宮城・山形県境の笹谷峠に設置されたとする説もあり、時を隔てた今となっては、その在り処は文字通りうやむや...。

mitsuki_sugawara.jpg

 秋口の産卵を控え、たっぷりと抱卵したミルキーな岩ガキを目当てに象潟まで足を延ばした2年前の8月、県境手前の脇道を入った小砂川漁港を訪れました。港へと向かう道筋に数軒の番屋があり、午前の素潜り漁を終えた漁師たちが休憩時間を過ごしていました。そこでお会いしたのが、加盟する15人の組合員全てが夏は岩ガキ漁を行う小砂川漁協の組合長を務める菅原 光禧さん(75)。

【photo】松尾芭蕉を慕って明治26年におくの細道を巡り、紀行「はて知らずの記」を残した正岡 子規が象潟を訪れた際、ウチに立ち寄ったんだよと語る菅原 光禧さん

 海流の関係で、湾内に砂が堆積しやすい小砂川は、定期的に浚渫する必要があるのだそう。漁港を維持するのもご苦労が絶えないのです。山形県吹浦から象潟にかけての一帯は、至る所で膨大な年間雨量に達する鳥海山の伏流水が湧出する地点があります。それは海中とて同じで、養分豊富な海水のもとで増殖する植物プランクトンを目当てに動物プランクトンが集まります。そうした場所にはプランクトンを餌にする天然岩ガキの群生がわんさと見られます。人家が多い象潟市街中心部や酒田市街から離れた小砂川のエメラルドグリーンの澄んだ海は、生活排水が流れ込む川が無いため、とりわけ岩ガキにとって恵まれた環境となります。

      fukura2_2011.7.jpg fukura4_2010.7.jpg
【photo】店頭で殻を開けサッと水洗い。産地ならではの鮮度抜群の岩ガキゆえ、レモンを利かせ過ぎないほうが、持ち味を満喫できる

 例年6月末から7月上旬に解禁となる岩ガキ漁は、8月いっぱいが漁獲期。庄内浜から由利沿岸の天然岩ガキ漁は、素潜りで行われます。昨年「カワいすぎる海女」で有名になった岩手県久慈市小袖地区で100年以上の伝統がある北限の海女を挙げるまでもなく、素潜り漁は女性のイメージがあります。由利から吹浦にかけての漁場では、水深5~15mの岩場やコンクリート製テトラポットに張り付いた天然ものを専用の金具を用いて捕獲しますが、海に入るのはもっぱら男の仕事です。

maestro_sumoguriryo.jpg【photo】どうです、この風格。今年で82歳ながら現役バリバリ素潜り漁名人、加藤 長三さん

 「誰よりもいい岩ガキを採ってくる」と7歳後輩の菅原さんが語るのが、80歳を越えながら、海が荒れない限りは漁に出ているという加藤 長三さん(82)。加藤さんは現在のように岩ガキが一般に流通する以前から、半世紀以上に渡って素潜り漁を続けてきたのだといいます。海を知り尽くした寡黙な海の男は、多くを語るでもなく窓の外に広がるグランブルーな大海原へと目線を送るのでした。冬が旬のマガキ特有の香りが苦手な私をも虜にする今が旬の岩ガキ。冬ガキにはない甘味の強い風味が広く知られるようになりました。シーズンの週末ともなれば、岩ガキ目当ての長い行列が道の駅に出現します。

fukura3_2011.7.jpg

 賢明なViaggio al Mondo 読者は、そうした長蛇の列には並ばず、象潟や吹浦にある鮮魚店を覗いてみることをオススメします。小砂川・象潟・金浦などの産地名・船名など、トレーサビリティ情報を表示した保冷ケースから取り出した鮮度抜群のリーズナブルな岩ガキを店頭で食することができます。

 最後に私の握りこぶしよりも遥かに大きな小砂川産10年もの岩ガキのあで姿お見せしましょう。養分豊かな海水温が低い海域の岩場に張り付き、長い時をかけてじっくりと栄養を蓄え、卵を孕んだ熟女ならではのフェロモンがムンムン(笑)。いかがです? ヨダレが垂れてくるでしょ?!

baner_decobanner.gif

2010/08/29

種を受け継ぐ人

外内島キュウリ @ 鶴岡

tonojima_takeshi.jpg

 鶴岡市外内島(とのじま)地区に伝わる在来野菜「外内島キュウリ」の存在を初めて知ったのは、2003年(平成15)夏のこと。春に赴任した山形営業所で、初めて庄内地方を訪れた5月初旬のある日、櫛引町(現・鶴岡市) の「地場イタリアン」なる看板が立つ店にふらっと昼食に寄ったのが、すべての始まりでした。〈Link to backnumber〉さもない店の外観とは裏腹に、訪れるたび出される料理の素晴らしさに驚愕、目まぐるしいほどに切り替わる旬の地元食材を使った料理の背景を探るため、週2 回ペースで庄内に通い始めていた頃のことです。

【photo】残雪の月山を望む畑に立つ外内島キュウリの生産者、上野 武さん(71歳・右写真)

tonojima_shoyunomi.jpg【photo】上野さんから頂いた朝採り外内島キュウリを、鶴岡・井上農場から頂き物の自家製の絶品「しょうゆの実」で頂く。みずみずしくもすがすがしい庄内の夏の味(左写真)

 鶴岡市内の書店で手にした庄内地方のタウン誌「庄内小僧」8月号の「在来野菜探訪記」というページに目が留まりました。金沢の在来野菜「加賀太キュウリ」のような瓜ざね型をしたキュウリが 3 カ面にわたって紹介されています。早くから地域ブランドとして確立した金沢の加賀野菜と同様、いえ、それ以上に数多くの在来作物が存在する庄内地方。在来種の存在意義が今ほどは地元でも理解されていなかったその頃、かけがえのない種が急速に数を減らしていました。

【photo】 庄内浜では口細ガレイと呼ぶマガレイの水分をわざと飛ばすよう火を通し、みずみずしい外内島キュウリをソースがわりにするアル・ケッチァーノ奥田シェフのスペチャリテ「口細ガレイと外内島キュウリ」2005年バージョン(下左)と、生と塩もみした二種類のキュウリを合わせる進化をした2006年バージョン(下右)
   kuchiboso_tonojima.jpg tonojima_kuchiboso.jpg

 特集は在来作物の価値に目覚め、学術的なアプローチをその頃から始めた山形大学農学部の江頭 宏昌助教授(当時)と、地元でも忘れ去られようとしていた在来作物に光を当て、比類なき輝きを放っていたアル・ケッチァーノの厨房を取り仕切る奥田 政行シェフが生産者を訪問、それぞれの立場から作物の紹介を行うものでした。地元向けに在来作物の価値を紹介するこのシリーズは、2年後の春に地元紙で連載が始まった「やまがた在来作物」と、それを一冊にまとめた労作「どこかの畑の片すみで〈Link to backnumber 〉」、さらに今年出版された続編「おしゃべりな畑」として実を結んでゆきます。足元を見つめ直す一連の動きの先駆けとなった外内島キュウリを紹介する特集は、他愛のない記事が並ぶ庄内小僧の中で(笑)、唯一ココロに訴えるものがありました。

tonojima_2010.5gatsu.jpg【photo】5月中旬。定植したばかりの外内島キュウリ

 疲弊した農村を元気にしたいからと、国内外を問わず神輿に乗る現在の奥田シェフ。理由はどうあれ、店を不在にする時間が増えた中でメディアを通して発信される情報と、店の実像との乖離が当然の帰結として生じています。虚像が一人歩きをしている現在とは違って、料理に全力投球していた2003年。料理人の本分である厨房を離れる唯一の日だった定休の月曜にあたった6月23日は、日本海側を北上した台風6号がさほど大きな被害も出さずに去った暑い日でした。江頭先生と奥田シェフが連載1 回目の取材に訪れたのは、当時2 軒だけとなっていた鶴岡市外内島の栽培農家、上野 武さんのもと。

tonojima_2010.1.jpg【photo】収穫の最盛期を迎えた7月。今年はアブラムシにやられたという畑をご案内頂いた上野さん。特に小柄なわけではない上野さんと比較すれば、竹製の組み支柱に沿って伸びる蔓丈の大きさがお分かり頂けるかと

 残念なことに当時の画像データがPC のトラブルでもはや残っていないため、記録していた当時の料理の写真をお見せできませんが、こうして外内島キュウリの存在が初めて地元で紹介された時、毎年7月1日に解禁となる県下屈指の清流、温海川流域の天然鮎の塩焼とともに夏の香りを運ぶ生の外内島キュウリをアル・ケッチァーノで食していました。そこで奥田シェフが席まで持ってきた調理前の外内島キュウリを初めて目にしたのです。若草色の果頭部、特に蔓の付け根付近に顕著な苦味を感じ、白っぽい下半分が甘い外内島キュウリは、グリコのように一粒で二度美味しい個性的かつ不可思議なキュウリでした。
tonojima_2010.2.jpg
【photo】上野さんの身の丈より高い場所にあるキュウリの収穫には自作した竹製の収穫棒が欠かせない。食べ頃を迎えたキュウリを下から持ち上げるようにすると・・・(左下写真へ)

 庄内と内陸を結び、山岳信仰の霊場・出羽三山への参詣路でもあった古道・六十里越街道は、現在の鶴岡城址公園付近から外内島地区を通り、十王峠から御神域となる月山越えの後、内陸地方へと続いていました。その道筋にあたる旧櫛引町東荒屋地区で赤川を渡った先は「弘法渡し」と呼ばれています。その名が示す通り、街道沿いの外内島には、弘法大師(空海)にまつわる言い伝えが残っています。

tonojima_2010.3.jpg 【photo】内側に返しがついた受け部分にはご覧の通り、見事キャッチされた外内島キュウリが入る(左写真)

 庄内小僧の取材が行われた日と同じく、遠い昔のとある暑い夏の陽盛り、一人の高僧が出羽三山に詣でる道すがら、のどの渇きを覚えて外内島の民家に立ち寄ります。想像するに家人から「これ食うかい? (^O^)_0 ...(-_- ;) 」とさりげなくギャグを交えて勧められたのが、その地で育つキュウリでした。それを食した高僧は忽ち元気を回復、月山へと向かったのだといいます。それが弘法大師であったと今日まで語り継がれてきました。

tonojima_hatsuko.jpg【photo】目のまわりを除いて顔を覆い隠す庄内地方伝統のハンコタンナ姿で収穫した外内島キュウリを手にする奥様の上野 初子さん(右写真)

 今年がそうだったようにアブラムシや葉ダニなどの害虫がつきやすく、天候不順のもとで発生するベト病への耐性が低いなど、栽培が難しい一面を持つ外内島キュウリ。着果するのが葉5枚間隔前後で、最近主流となっている保存がきく品種ブルームレスと比較して収量は決して多くありません。加えて外皮が薄いために収穫後の保存が利かないことから、地元消費が主で、流通経路に乗って対外的に知られることはありませんでした。味はそこそこながら生産効率が高いために普及したブルームレスのような新品種に押される形で個性的な外内島キュウリは次第に姿を消してゆきます。10年ほど前には種を守るのは上野 武さん・初子さんご夫妻だけとなっていました。

tonojima_seed01.jpg 【photo】 葉が枯れ始める7月末。出来の良さそうな個体は採種用にするため、蔓に目印をつけて収穫せずにおく

 3m 以上の丈になる外内島キュウリは、ハウス栽培ではなく露地栽培されます。育苗ポットから5月中旬に定植、収穫期間は 6月下旬から7月末までと長くありません。蔓を這わせるのは、市販の樹脂コーティングされた逆U字型のスチール支柱ではなく、自ら毎年X 状に組む竹製の支柱。これは多くの葉を付け旺盛な成長力が得られるよう芯止めをしないから。先端に受けを設けた長さ1.5 m ほどの手製の収穫棒を用いるなど、上野さんは手間と愛情をたっぷりと注ぎ込んで、生食や酢漬けなどで慣れ親しんだ味を守ってきました。

    tonojima_per_seed.jpg tonojima_seed.jpg
 【photo】 完熟して表面に無数の亀裂が生じた翌年の種採り用となる外内島キュウリ(左写真) 中には種がビッシリと詰まっている(右写真)

 あらかじめ採種用に目をつけておいたキュウリが黄色から茶褐色に完熟して変色し、表面に無数のひび割れが生じるまで蔓に付けたままで採らずにおきます。葉がすっかり枯れる8月直前に収穫した後、一週間ほどそのまま置いておき、中から種を取り出して沈潜法により選別、翌春まで大切に種は保管されます。

 藤沢カブの商品化をいち早く手掛けた鶴岡市大山の漬物店「本長」の本間 光廣社長が、2002年にJA鶴岡の外内島地区担当者から、ただひとりで栽培を続けていた上野さんの存在を聞き、漬物として商品化することを打診します。それが自分もそろそろ生産をやめようかと限界を感じ始めていた上野さんの背中を押す格好になります。かつては外内島キュウリを作っていた近隣に住む上野 勇さん・幸子さん夫妻にも声を掛け、長い歴史を持つ種が守られます。以降、本長では毎年一定量を買い取って、味噌漬や洋風のピクルスとして加工、郷土の味を提供しています。

tonojima_picrus.jpg honcho_oyama.jpg tonojima_picrus2.jpg 【photo】 鶴岡の造り酒屋街・大山にある漬物処「本長」(中写真) によって洋風のピクルスとして生まれ変わった外内島キュウリ(右写真)。酸味のすっきりとしたその味は、スライスした完熟トマトと頂いてよし、カレーライスに添えてもよし。味噌漬ともに525円(税込)

 近年では、収量確保のため農業試験場が試験栽培を行って栽培方法の改良に向けた研究に取り組んだ行政の後押しや、上野さんのお孫さんが通う市立斎(いつき)小学校の子どもたちが学校で栽培を始めるなど、新たな動きがありました。tonojima_pomodoro.jpg2003年秋に発足した山形在来作物研究会の努力によって、在来野菜の価値が地元で広く認識されるようになった現在では、小真木・民田など近隣の地区でも栽培を始める農家が出てきました。これまでは収量が少ないために一般には流通しなかった外内島キュウリが地元の産直施設に今年初お目見えするなど、徐々に広がりが生まれています。

【photo】 樹熟ならではのたっぷりと詰まった感動モノの旨味は変わらぬものの、酷暑のため割れが多数発生した今年。商品化できないトマトをお土産にと頂いた鶴岡・井上農場産の桃太郎。外内島キュウリのピクルスをカット、さっとオイルをふれば、超・簡単夏バテ防止の一皿に

 ひときわ暑さが厳しかった7月中旬、体を冷やす効果がある外内島キュウリを譲って頂こうと、上野さん宅を訪ねました。作業小屋の中においでだった上野さんご夫妻から、鶴岡出身の映画監督・渡辺智史さんによる長編ドキュメンタリー映画「よみがえりのレシピ」の撮影が始まり、上野さんが撮影対象となったことを伺いました。
baner-2.gif
 在来作物を守り伝える人にスポットライトを当てるこの映画には、ご縁を結んだ生産者が数多く取り上げられるようです。移り変わりの早い刹那的な時代にあって、揺るがぬ価値を持つ地域の宝物を守る心揺さぶる生き方をしておいでの方ばかり。あぁ、来年秋の公開が待ち遠しい。
baner_decobanner.gif

2010/07/04

消えゆく山里の暮らし

幻の山里・長滝

nagataki_01.jpg 鶴岡の南西、田川地区にかつて長滝という小さな集落が存在しました。あえて過去形で語るのは集落に至る狭隘な山道が除雪されないため、冬は雪に閉ざされ往き来が困難となり、現在そこに暮らす人がないからです。住民はいないものの、荒れ果てた廃村というわけではなく、昭和50年代に集団で鶴岡の市街地に移住した人々が、かつて過ごした山での暮らしを懐かしむように、春から秋にかけて行う野良仕事のために通ってきます。

【photo】長滝へと向かう道すがら、地名の由来となった岩肌を流れ落ちる細長い滝が流れ込む谷あいの渓流沿いに建つお社

 摩耶山系の金峰山(きんぼうさん)・母狩山(ほかりさん)一帯は、かつてブナの原生林でしたが、木炭用に伐採が進み、植林された杉の二次林が今では多く見られるようになりました。それでも長滝に向かう道沿いのシダ類が生い茂った林は、原始の風景を連想させます。道沿いを流れる少連寺川の上流域の渓流が数段の長い滝のように流れる場所には小さなお社が祀られており、岩肌を流れ落ちる清冽な水とともに長滝という地名の由来と考えられます。清らかな気がみなぎるそのパワースポットを過ぎると、間もなく人の手が入った田畑の先にひっそりと佇む砂谷(いさごだに)長滝へと至ります。

nagataki_07.jpg 【photo】集落の入口に引かれた水をポリタンクに汲む子ども連れの家族

 住民の高齢化によって、地域としての機能保持ができなくなる限界集落は、日本各地に存在します。これは命の糧を生み出す農漁村をなおざりにしてきた我が国の当然の帰結です。国交省によれば住民の過半数を65歳以上の高齢者が占める限界集落は全国に7,878件あり、東北にはその一割が存在するといいます。

 暮らす人のない長滝は、もはや限界集落ではなく、廃村と呼ぶべきでしょうが、私がそこを久しぶりに訪れた今年の5月中旬、家の改築を行っている人と出会いました。長滝には鎮守の大鳥神社のほか、かつて人の暮らしがあった痕跡を残す家の苔むした土台だけが残る区画と、わずかに数軒の人家が残っています。庄内ナンバーの車で畑仕事の手伝いに来ていた小さな子ども連れの夫婦が、路肩に引かれた水を汲んでいる姿もありました。

nagataki_02.jpg 【photo】ご婦人に教えてもらった更地となった廃屋跡のスイセンが咲く水場に引かれた水は、口当たりの良い中硬水だったものの、飲むとすぐに喉が渇くので、沢水のようだった

 その水を味見しようと道端に停めていた仙台ナンバーの私の車を見て、「あら、仙台から来たの」と一人の女性が声をかけてきました。閉鎖的な山里では、ジロジロと排他的な視線を向けられることが時としてありますが、山形在任当時にも幾度となく体験したこうした敷居の低さは、北前船や出羽三山信仰で人の往来があった庄内地方ならではのことです。ひょっとすると庄内にシンパシーを持つ私が、庄内人と共通のオーラを発しているのかもしれません。60歳代とお見受けするその女性は、廃屋跡に引かれた水を指差して「こっちの水のほうが美味しいし、汲みやすいよ」と見ず知らずの私に教えてくれました。

nagataki_04.jpg【photo】1979年(昭和54)まで冬季間は分校としても使われた旧田川公民館長滝分館

 周囲の山からはキツツキが木を突く乾いた連続音や野鳥の歌声が聞こえてきます。かつて市立田川小学校冬季分校としても使われていた旧田川公民館長滝分館の前に咲く山桜に見とれていると、手前に建つ木造の建物の中から作業着姿のご夫妻が出てきました。今は空き地となった公民館の手前に建っていた家で暮らしていたというご夫妻。「サクラがきれいでしょ」と話しかけてきたお二人と軽く挨拶をして太いゼンマイを塩もみして日干しする作業のかたわら話を伺いました。

nagataki_06.jpg【photo】虫除けの網で覆われたその表情は読み取れないものの、おそらく飛びきりの笑顔でシイタケを差し出す奥様。初対面の私にかけて頂いたご厚意にもかかわらず、ご夫妻のお名前も聞かぬままお別れしてしまった

 かつて過ごした長滝の野良仕事が好きで、今も週末になると弁当を持参して日がな一日を過ごすこと。集落のはずれにとても美味しい湧水があること。かつての住民同士、今も助け合いながら田畑の仕事をしていること。私もよく利用する仙台北環状線の建設工事にご主人がかつて出稼ぎに行ったこと...。そこには「普請」という日本のムラ社会が持っていた相互扶助の精神がきちんと息付いているようでした。

nagataki_00.jpg

 庄内とは妙に水が合って頻繁に来ているんですよと語る私に「これ、持って行って」と採れたてのシイタケを二つ差し出す奥様に御礼を言ってお別れしました。今から30年以上前に途絶えた長滝での暮らしを懐かしんで足を運ぶこうした人たちのように、10年後、20年後にこの山里を耕す人がいるのだろうか?という疑念を打ち消しきれぬまま、長滝を後にしました。

【photo】耕作放棄地を少なからず目にした長滝への道すがら、山あいの田んぼでひとり黙々と仕事をする年老いた農夫の姿があった

baner_decobanner.gif

2010/05/09

(みやび)に香る「いぶりがっこ」

薪の香は 移りにけりな だいこんに...
    これぞ秋田が生んだ珠玉の発酵食品

iburigakko_barolo.jpg【photo】協働学舎のカマンベール「笹ゆき」と絶妙の組み合わせとなるいぶりがっこ。イタリアワインの王Baroloバローロ屈指の名醸「E・Pira e Figli エンリコ・ピラー・エ・フィリ」きっての高貴な単一畑Cannubi カンヌビ'96 と十分に渡りあう。収穫後14年を経てやっと飲み頃の入口に差し掛かった著名な女性醸造家キアラ・ボスキスが手掛ける素晴らしい一本と掛け算の好相性を発揮。Buonissimo!

 まずは前々回「桜と名残り雪」でご紹介した共働学舎新得農場の世界が認めるカマンベールとベストマッチなワインの良き伴侶のタネ明かしから。チラ見せした写真でお察しの通り、それは秋田県南部で愛されてきた漬物「いぶりがっこ」です。

iburigakko_image.jpg【photo】雪国・秋田の風土が生んだ保存食いぶりがっこは漬け込む前工程として燻煙処理を施す。香ばしい広葉樹の香りが深い味わいを生む(右写真)

 大根を糠漬けする一般的な沢庵漬けのようにまず寒風のもとで日干しされるのではなく、収穫後に水洗いした秋大根を囲炉裏の上に吊り下げて燻醸・乾燥させてから糠漬けするのが伝統的な製法です。これは晩秋から冬場は雪模様が続き、冬の日照時間が全都道府県の中で最も少なく、北西の季節風が山々によって遮られる秋田内陸地方特有の気象条件ゆえのこと。小正月に横手で行われる行事「かまくら」をみても判るとおり、そこは我が国屈指の豪雪地帯なのです。ゆえにいぶりがっこは雪国で暮らす人の知恵が生んだ産物といえます。

sannai_PA.JPG【photo】横手市山内筏地区にある秋田自動車道山内PA‎より大日向山(写真左手奥)方向を望む。いぶりがっこはこの山里の風土から生まれた(上写真) 無添加・無着色の手作業で作られる秋田県湯沢市 伊藤漬物本舗のいぶりがっこ。決して見栄えは良くないが・・・(下写真)

iburigakko_itou.jpg

 黒ずんでしなびたその外観は、お世辞にも食欲をそそるものではありません。それでもひとたびスライスしたそれを口に含めば、パリっとした歯ごたえと、燻煙する薪に使われるナラやサクラ・リンゴといった広葉樹の心地よい香りが後を引きます。「がっこ」は秋田の方言で漬物のこと。一風変わった名前は「(みやび)るもの」が語源といわれるのも合点がゆきます。スモーキーな香りと入り混じるのは、米糠に含まれる微生物の働きによって醸成される深い旨味。そのまま頂いても充分に美味しいのですが、熟成が進んだカマンベールとミディアム~フルボディで味の構成要素が複雑な赤ワインとの饗宴はまた格別。・・・こりゃ、たまらんわ。

 いぶりがっこ作りが盛んな秋田県南、奥羽山脈沿いの仙北・平鹿・雄勝地域にあって、とりわけ多くの農家が自家製いぶりがっこを作っているのが、横手市街から南西方向に直線距離で15kmほど離れた山内(さんない)地区です。秋田自動車道横手ICから山あいに入り込み、優に30分を要するそこは、隣接する東成瀬村にほど近い山里。自家消費する分だけを作る例を含めて100軒以上の農家がいぶりがっこ作りを行う地区の腕自慢が持ち寄るがっこの味・色・香り・歯ざわりなどのiburinpic_2010.jpg出来栄えを競う「いぶりんピック」が2007年(平成19)から横手市と山内いぶりがっこ生産者の会により行われています。その狙いは農家の高齢化により減り続けている伝統技術の伝承・保護と、メディアを通した知名度の向上にあります。

【photo】「さて今年の出来栄えは?」 真剣な表情で味・色合い・歯応えなどをチェックする五十嵐 忠悦横手市長ら8人の審査員。今年1月に開催された第4回いぶりんピックのクラシカル部門には「山内いぶりがっこ生産者の会」会員農家から27人が丹精込めた自家製いぶりがっこを出品した 〈写真提供:横手市産業経済部〉

 化学調味料など一切の人工的な添加物を用いない本来の味を追求する「自家製法部門」、市販の調味料を使用した「漬物の素部門」、特に規定を設けない「フリースタイル部門」という3カテゴリーが設けられ、27名の生産者が43点を出品して完成度を競ったのが初年度。3回目の昨年からは、それまでの自家製法部門にあたる横手市民を対象とする「いぶりがっこクラシカルスタイル部門」と、県外からも参加可能で大根以外の食品でエントリーする「いぶりフリースタイル部門」の2ジャンルとなりました。

medalist_iburinpic.jpg【photo】いぶりがっこの象形文字が秀逸な横断幕が掲げられた審査会場に勢揃いした第4回いぶりんピックのメダリストたち。クラシカル部門で金、フリー部門で銀のダブル受賞を果たし、金樽を手にする高橋トシさん(写真中央)。フリー部門で金賞に輝いた宮城県名取市在住の鈴木敬一さん(右から2番目)〈写真提供:横手市産業経済部〉

 クラシカルスタイル部門でいぶりがっこ本来の味を競う山内地区の方たちは、初代自家製法部門優勝者のレシピを基にした統一ブランド「金樽」(1本700円・約400g)を数量限定で一昨年より販売しています。いぶりんピック優勝者には、伝統的ないぶりがっこ作りに欠かせない秋田杉を用いた樽にちなんで金メダルならぬ「金樽」が贈られます。コンテスト優勝者のレシピを再現した最強のいぶりがっことも呼ぶべき金樽ブランドで全国におらが郷土食の素晴らしさを発信をしようという試みです。

iburi_gakkou.jpg 【photo】生産農家による大根の栽培から実際の漬け込みまでの実技指導と講習などが行われる「山内いぶり学校」。6 回のカリキュラムを終え、2009年3月に実施された卒業試験を無事クリア、卒業式後に晴れがましい表情を見せる20名の第一期生〈写真提供:横手市産業経済部〉

 山内地区の農家が廃校となった地元の小学校で横手市民を対象にいぶりがっこ作りを伝授する「山内いぶり学校」が2008年(平成20)から開設されています。同年11月に行われた開校式の模様は、第一期生となった横手市在住のフードコーディネーター、「オフィスNORIMAKI」代表のたなかのりこさんが、食WEB研究所「ご当地グルメ発見伝」にレポを投稿されています。ともすると埋もれがちな地域資産を掘り起こし、そこに広がりと持続性を求めるには、まずは足元から。これは鉄則ですね。

takahashi_reico.jpg

 小泉 武夫 東京農大名誉教授は、今年1月の第59回河北文化賞贈呈式で記念講演を行いました。「発酵王国・東北の食文化」と題する講演の中で、肉・魚・チーズなどを燻製にしたスモーキーな味を一般に好む欧米人に、いぶりがっこは充分通用しうる世界に誇るべき発酵食品であると発酵学の権威は太鼓判を押しました。金樽ブランドのいぶりがっこはアジア諸国へも輸出するそうです。寿司・天ぷらに続いて五大陸に雄飛せよ! われらが世界ブランド iburigakko!!

【photo】横手市中心部から奥羽山脈の懐深くに分け入る山内三又地区。山里の風土が生んだいぶりがっこを作り続けて40年以上という高橋麗子さん

 名人の呼び声が高い山内三又(みつまた)地区の高橋 麗子さん(76歳)は、ご子息の登さん(60歳)の奥様で第1回いぶりんピックで最優秀となる自家製法部門金賞の栄誉に輝いた篤子さん(58歳)とともに、栽培する1万2千本から3千本の青首大根と近年復活を遂げた在来種の「山内ニンジン」(⇒詳しくはコチラを毎年漬け込んでいます。

 囲炉裏のある家庭が少なくなった現在では、燻煙専用の「いぶり小屋」で大根を燻醸するようになりました。いぶり小屋には煙が上から抜けやすい茅葺屋根が適しています。火を扱う作業であることに加え、煙を絶やしてはいけないため、昼夜を問わず細心の注意が求められます。加えて煙が均等に回るよう、吊り下げた大根の吊り下げる場所を定期的に移動しなくてはなりません。青首大根は組成の90%以上が水分のために重く、縄1本につき12本前後の大根が下がる重さは10kg以上。数多くのカバーが生まれたプラターズの名曲 Smoke gets in your eyes ではありませんが、煙が目にしみるいぶり小屋での作業は生易しいものではありません。

           reiko_takahashi2.JPG   iburi_takahashi.jpg
 【photo】収穫した大根の葉を落とし、水洗いしてから燻煙するのがいぶりがっこ作りの手順。高橋麗子さんは熟練の手さばきで次々と大根を結えてゆく(左写真) いぶり小屋で作業にあたる高橋 登さん・篤子さんご夫妻。火加減には細心の注意が必要(右写真)

 例年11月上旬から12月中旬にかけて漬け込み作業を行う高橋さん宅では、燻醸にはナラとサクラの薪を使い、地元の方たちの言い回しで"4泊5日"をかけています。日って昼夜を問わない作業を表す面白い表現ですよね。家ごとの味があるいぶりがっこだけに、家庭によって薪の種類や燻す長さは丸4日から6日と幅があり、漬け込みに使用する味付けの材料もまたさまざま。高橋家では、11月上旬から12月中旬にかけて行う漬け込みには、糠のほかに玄米・ざらめ砂糖・海塩・麹などの自然素材だけを使います。

reiko_takahashi3.jpg  atsuko_takahashi.jpg
【photo】4泊5日の燻煙工程を終えた大根を紐からはずす高橋麗子さん。煤(すす)を洗い流してから、樽で漬け込まれる(左写真)。  がっこの漬かり具合をみる初代いぶりんピック金賞の栄誉に輝いた嫁の篤子さん(右写真)

 半世紀近くいぶりがっこを作り続けてきた麗子さん直伝の製法を受け継ぐ篤子さんは、仕上がりの発色を良くするためにウコンや紅花を用いるなど、ちょっとした工夫を加えています。細身のニンジンは仕上がりが早いものの、大根は秋田杉の樽でおよそ50日間漬け込みます。寒さが厳しく仕上がりが幾分遅れたという今年は、3月24日に最後の作業を終えたそうです。とりわけ雪が多い地域ゆえ、仕上がったいぶりがっこは雪室で保存します。近頃は体調が優れずに伏せる日が多くなったという麗子さんですが、またお元気になって伝統の味を末永く伝えてほしいものです。

iburigakko_ito.jpg

 残念なことに一般に流通するいぶりがっこの中には、市販される多くの漬物がそうであるようにソルビン酸K(保存料)、サッカリン(甘味料)、タートラジン(一般に黄色4号と呼ばれる着色料)といった人工的な添加物や「アミノ酸等」と表記されるうま味調味料(=化学調味料)を用いた製品が見受けられます。 秋田県内に店を構える大手スーパーや道の駅などで扱ういぶりがっこにしても大方はそう。(シーズンには30軒ほどの農家の手作り品がズラリと並ぶR107沿いにある「道の駅さんない・ウッディらんど」の売店はこの限りにあらず)

【photo】伊藤漬物本舗のいぶりがっこは、合成着色料・保存料・人工甘味料などの添加物を使用しないため、いぶりがっこ本来の味を知りたい方にお勧めしたい逸品だ

 特に味覚の形成途中にある子どもにはホンモノの味を覚えてほしいと思う者のひとりゆえ、繊細な味覚をもつ日本人が大切にしてきた自然な旨味を活かした伝統食が、こうした状況に陥っている事実は全くもって残念なことです。ともすると見栄えを重視しがちな消費者心理も問題ですが、どちらにせよ無添加の漬物を届けてくれる良心的な生産者の存在は有難いもの。

iburigakko_ito2.jpg 【photo】これが自然ないぶりがっこの色。しみじみと味わいたい

 平安前期の女流歌人で、秋田美人の元祖ともいうべき小野小町の出生地とされるのが秋田県湯沢市です。小町の故郷で1965年(昭和40)に創業した伊藤漬物本舗は、そんな品質にこだわったいぶりがっこを届けてくれる生産者です。同社では、年産約2万本のいぶりがっこや秋田県南特産の「ナスの花ずし」などの製品を13年前から無添加に切り替えています。仙台市青葉区サンモール一番町で先月開催された物産市マルシェ・ジャポン【注】会場に、同社の伊藤 明美 代表の姿がありました。

 素材の味を活かすよう低塩化したという同社のいぶりがっこは、けれんみの無いしみじみとした味が魅力です。燻煙材に使用する薪はサクラとナラが8対2の割合。akemi_ito.jpgナラ材よりもスモーキーな香りがしっかりと付くサクラをメインに、4泊5日で燻煙をかけた後、全て手作業で漬け込みを行います。「正直な漬物」をモットーに作る伝統を重んじたいぶりがっこを気軽に楽しんで欲しいと考えた伊藤さんは、食べやすいように小分けにした真空パックのワンコイン製品や、スルメと昆布の旨味を効かせたいぶりがっこの松前漬、素材を燻すという秋田の食文化に着想を得たこの春発表の自信作「燻り塩」と「燻り醤油」などの新商品開発にも意欲的に取り組んでいます。基礎調味料を燻すことによって料理の味の幅が広がるので、ぜひ組み合わせの妙を楽しんで欲しいとのこと。

 【photo】いぶりがっこを筆頭に食品を燻す秋田の食文化の啓蒙に意欲的な伊藤明美社長。年間100日は全国の物産展などに出向いて直接消費者と接するという二代目は「仙台でも声をかけてくれるお馴染みさんが増えました」と笑顔で語る

 古今和歌集に収められた「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」は、晩年の小野小町が詠んだものとされます。自分が無為に時を過ごしている間に、桜の色もいつしか移り変わってすっかり色あせてしまった、という意味。絶世の美貌を称えられた小町も寄る年波には勝てず、見頃をとうに過ぎ、散りゆく桜に自身を重ね合わせて儚(はかな)さを憂いています。黒ずんで皺だらけのいぶりがっこは、年老いた卒塔婆小町の肌を連想させなくもありませんね。いぶりがっこの里で生まれた六歌仙への返歌で今回は締めくくるとしましょう。

 薪の香は 移りなけりな だいこんに 雅香ひと口 噛み締めし間に
   ・・・オソマツ ( ̄ー ̄;)

************************************************************************
伊藤漬物本舗
秋田県湯沢市角間字白山下26
phone:0183-73-7716
F a x :0183-72-6823
URL: http://www.aiakita.jp/itou.html
E-mail :info@ito-tsukemono.co.jp

※仙台では藤崎、ザ・モール仙台長町、SELVAなどに出店している漬物専門店「丸越」で伊藤漬物本舗のいぶりがっこを扱う

【注】 生産者と消費者を結び、食料自給率向上・地産地消を推進するといいながら、産地を想起するにはおよそミスマッチな仏語のネーミングと、短絡的な仏国=アコーディオンという前世イタリア人が鼻白む(笑)BGMが流れる会場。高齢化が進む生産現場の実態と地域性を無視した画一的な霞ヶ関の発想が破綻を来たした証に、仙台では回を追うごとに出店者が著しく減少している。火を見るよりも明らかな予想通りの展開だが、事業仕分けで廃止が決まり、今や「マルシェ・ドボン」と呼びたいこの事業に6億円もの多額の税金が投入された事実を鑑みると思いは複雑。う~む...

baner_decobanner.gif

2010/02/21

宝谷カブ in 寒鱈まつり

鱈汁に垣間見た「蛸煮」の面影

「寒鱈汁、寒鱈汁、寒鱈汁。」(拙稿〈2010.1〉参照)より続き

 先月、3年ぶりに訪れた鶴岡の日本海寒鱈まつり会場で目にした「宝谷カブ」のノボリ。鶴岡市宝谷(ほうや)地区では、江戸・天保期にはすでに存在していたとされる在来作物、宝谷カブが作られています。青首ダイコンをぐっと小ぶりにし、中ほどで心持ち折れ曲がった細長い形状の白カブを、ひと頃はたった一人で種を守って自家用に生産を続けていた畑山 丑之助さんの存在を初めて私が知ったのは2003年(平成15)の冬、そして実際に口にしたのは翌年のことです。

hoya_kabu@zaisakuken09.jpg【photo】山形在来作物研究会の主催で鶴岡市の山形大学農学部を会場に2009年11月29日(日)に行われた公開フォーラム「日本の伝統野菜・在来作物のこれからを考える」。その会場に展示されていた宝谷カブ。一般に流通する規格のタガをはめられたお行儀のよい形状の青首ダイコンとは違い、思い思いの形に育つ宝谷カブの形状は実に個性的

 平成の大合併によって鶴岡市が東北一の面積となる以前、そこが櫛引町宝谷と呼ばれていた6年前の夏、初めて訪れた宝谷の印象は鮮烈でした。赤川に架かる王祇橋を渡り、黒川能が奉納される春日神社を過ぎると、やがて家並みが途絶え、田んぼと庄内柿の畑へと風景が変わります。庄内東部広域農道(通称:庄内こばえちゃライン)を突っ切ると、道は嫁入坂などの名前が付いたいくつもの曲がりくねった上り坂に。それは車のなかった時代、上るのにさぞ難儀したろうと思わせる胸突き八丁の急坂です。月山山系の山並みへと続くその坂道を3km近く進むと、突如視界が開けて山中に平坦な人里が現れます。そこが50世帯ほどが暮らすという宝谷でした。
 
 海抜250mの高台にある宝谷地区で栽培されるソバを使った蕎麦打ちや稲作などのグリーンツーリズム体験施設「ふるさとむら宝谷」が櫛引町によって整備されたのが1999年(平成11)。当時から地区住民の手で運営されてきた施設の先には、なだらかな棚田が続き、あぜ道を先に進むと手前には鶴岡、彼方には酒田の街並みが手に取るよう。

 高みからの視線の先には、緑なす庄内平野と遥か水平線まで海原が続く日本海、左手には母狩山と金峰山が迫り、頂を雲で覆われた鳥海山が描き出す大パノラマが広がります。遮るもののない展望が得られる宝谷には、かつて領地警護のための監視台が置かれていたそうです。

【photo】鶴岡・日本海寒鱈まつり会場においでだった畑山 丑之助さん

ushinosuke_01.1.17.jpg

 ふるさと村宝谷は、その頃頻繁に足を運んでいた同町下山添のアル・ケッチァーノ(以下、アルケと略)とは直線距離にして10kmと離れていません。素泊まりも可能なため、夕食をアルケで済ませるのには好都合でした。質量ともに満足のゆく奥田シェフ渾身の料理の余韻に浸りながら漆黒の闇を照らす車のライトだけを頼りに宝谷まで戻りました。

 昼に訪れた田んぼの先端まで移動すると、満天の星空に溶け込むかのように渾然一体となってきらめく人家の明かりが一望のもと。無数の星たちが地上に舞い降りたかのような下界の夜景は、息をのむほどの美しいものでした。

 その日宝谷を訪れたのは、私の定宿のひとつだった一日一組限定で宿泊客を受け入れる同町西荒屋の農家民宿「知憩軒」に先約があって泊まることができなかったのが直接の理由ですが、宝谷カブの里を見ておきたかったこともありました。地元で栽培されるソバで打つ「宝谷そば」を土日に味わえるふるさとむら宝谷の宿泊申し込み窓口となる櫛引町役場農政課の方に、ただ一人の生産者であった畑山さんの連絡先を伺い、事前に電話で畑山さんから話を伺うことができました。

houya_soba.2010.1.17.jpg【photo】鶴岡・日本海寒鱈まつり会場の宝谷地区の方々が運営する出店で寒鱈汁とともに販売されていた宝谷そば。薫り高い蕎麦を味わうには最も適したざる蕎麦で頂きたいところだったが、底冷えする屋外にずっといたため、かけそばで暖を取ることにした

 傾斜地ゆえに田畑の急なのり面を活用した焼畑農法で栽培されてきた宝谷カブは、積雪が比較的少ない庄内地方でも降雪量の多い山間部にある宝谷地区では冬場の貴重な保存食として大切にされてきました。甘味が増すよう雪室で生のまま保管したほか、漬物や葉を付けたまま味噌で煮込む「蛸煮」と呼ばれる郷土料理や、どんがら汁(寒鱈汁)の具材として広く用いられてきたといいます。

 しかしながら急斜面での作業は重労働。加えて出荷の際にヒゲ根を取り除く手間がかかる上、収量もさほど上がらないことから、地区の生産者仲間が次々と栽培をやめてゆく中、たった一人で作り続けていること。ちょうど播種をしたばかりというその年のカブは、美味しいからとそれまで続けてきた焼畑をやめ、交雑を避けるためにビニールハウス内で採種用だけに栽培する予定しかないことなどを伺いました。こうして日本の至るところで数多くの在来作物が消えていったのでしょう。70歳を過ぎ、一人で種取りを続けていた畑山さんの声は、心なしか寂しげで弱々しく聞こえました。

ushinosuke061212.jpg 【photo】2006年12月、雪化粧した鳥海山を望む宝谷の棚田で収穫作業にあたる畑山 丑之助さん <写真提供:東海林 晴哉氏>

 そんな畑山さんに転機が訪れたのが2006年(平成18)。絶滅の危機にある宝谷カブを作り続ける畑山さんを支援するため、地元行政の主導で民間有志が一口7,000 円で「蕪主」となる宝谷カブ蕪主制度を立ち上げたのです。蕪主は収穫された宝谷カブを配当として入手できるほか、真夏に行われる急斜面への火入れと播種、山里に雪が降り始める頃に行われる収穫作業に参加した後、宝谷カブを使った奥田 政行シェフと知憩軒の長南 光さんの手になる和洋の創作料理を味わう「蕪主総会」に参加する権利を得るというもの。4回目の開催となった昨年12月の蕪主総会では30人の蕪主にひとり4kgの配当がありました。

kabunushi071202.jpg 【photo】2007年12月2日(日)、そぼ降る氷雨の中、蕪主たちが宝谷カブの収穫を行った <写真提供:東海林 晴哉氏>

 食の文化遺産としての宝谷カブの価値(⇒「カブ価」と言うべきか?)をいち早く見出した山形大学農学部の江頭 宏昌准教授、奥田シェフ、長南 光さんらと、蕪主になった県内外の新たな食べ手の登場によって背中を押された格好の畑山さんは、郷里のカブに誰よりも誇りと愛着を持っていたはずです。この年、宝谷カブ本来の味を知ってほしいと考えた畑山さんは、蕪主と共に田んぼの急なのり面を焼畑にする本来の栽培法を2年ぶりに復活させます。連作障害を避けるため、鶴岡市藤沢の後藤 勝利さん・清子さんご夫妻が受け継ぐ「藤沢カブ」同様、毎年栽培場所を変えなくてはなりません。

 地域の歴史文化の生き証人としての在来作物への再評価の機運が高まる中、蕪主制度が始まった翌年、かつて宝谷カブを作っていた5人の生産者が栽培を再開します。寒鱈まつり会場でお会いした畑山さんによれば、今シーズンは畑山さんを含めて7名の方たちが宝谷カブを栽培したのだそう。かつて宝谷カブはどんがら汁に用いる具材として鶴岡でも人気があったといいます。

kandara_hoya.jpg【photo】往時を偲ばせる素朴さが魅力の宝谷カブ入り寒鱈汁。ひとり種を守り抜いた畑山 丑之助さんに感謝、感謝

 過去の蕪主総会の折に登場した宝谷カブを使った料理など約30点を紹介するレシピ集の発刊が来月末に予定されています。宝谷カブ主会事務局の蛸井 弘さんによれば、レシピ集2,000部はアルケや知憩軒で無料配布されるほか、生産者支援のために宝谷カブとセットで販売するなどの活用法が検討されています。4年前に始動した周囲の支えもあって復活しつつある宝谷カブを守ってきた畑山さんは今年で79歳。次の世代にカブが受け継がれてゆく確かな手応えを感じておいででしょう。

 「ガラをたくさん入れて下さいね~♪ 」とお願いした寒鱈汁には、宝谷カブもたっぷりと入っています。しっかりとしたカブの外皮を噛み切ると、優しい辛味と甘さが味噌と入り混じります。酒粕の入らない味噌仕立ての宝谷カブ汁を味わいながら、これに葉が付いていれば蛸煮になるのだろうか?と思いを巡らせました。ホロホロとした独特の食感を持つ宝谷カブを守り抜いて下さった畑山さんに感謝しつつ、宝谷そばを挟んで4杯目となる畑山さんの宝谷カブへの熱い思いも目いっぱい詰まった寒鱈汁を完食したのでした。

baner_decobanner.gif

 

2009/12/13

秋田の味「しょっつる」

「神の魚」
 復活にまつわる二つの神話

 
kanpuzan_22.11.09.jpg【photo】男鹿半島の中央に位置する寒風山頂から眺めた雲間から射す神々しい陽光に輝く日本海の南はるか彼方には鳥海山が遠望される(上写真)。標高355mの山頂からは、琵琶湖に次ぐ日本第二位の広さだった八郎潟の干拓事業で広大な耕作地が生まれた大潟村(下写真)がすぐ目の前。

1-villa_ogata22.11.09.jpg

北に目を転ずれば世界自然遺産白神山地の山並みも一望のもと
1-monti_shirakami22.11.09.jpg

 ♪ コラ 秋田名物 八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ、アーソレソレ・・・。大館の「曲げわっぱ」や能代の「春慶塗」など、秋田音頭の歌詞に登場する秋田名物の冒頭に出てくるのが、県最北の八森漁港に揚がる魚偏に神と書く魚「鰰(ハタハタ)」と、奇習ナマハゲで知られる男鹿半島一帯がおもな産卵場となるハタハタの卵「ブリコ」です。海藻に産み付けられたブリコが冬の日本海の荒波で引き離され、海岸線に打ち上げられて波打ち際が茶褐色に染まる光景は、津軽・秋田・北庄内にかけての冬の風物詩です。

namahage_22.11.09.jpg【photo】秋田市方面から男鹿半島へと向かう船川街道沿いの「男鹿総合観光案内所(通称:なまはげ案内所)」前にある巨大な二体のナマハゲ。大晦日の晩、「わりご(悪い子)はいねがー、泣く子はいねがー」という怒声を上げ、出刃包丁を手に登場するナマハゲが体長15mまで巨大化したド迫力に思わず腰がすくむ。デカッ...!!(゚ロ゚)

 普段は沖合いの水深250m 近辺の日本海に生息するハタハタの漁期は、産卵のために海岸線近くの浅瀬まで上がってくる10月~12月。秋田県沿岸の八森・男鹿・象潟周辺はハタハタが好んで産卵するホンダワラ類の海藻が多く、稚魚のエサとなるプランクトンが豊富な好条件が整っていたため、その一帯がハタハタの主な漁場となります。秋田の人々は、雷鳴が轟く冬場になると、産卵のために接岸してくる通称「季節ハタハタ」を心待ちにします。そのためハタハタは魚偏に雷と書く「鱩」という字で、カミナリウオという別名もあるほど。雷神は「ハタタガミ」とも呼ばれることから、ハタハタの名の由来とも考えられています。

hatahati.jpg 【photo】産卵を控えた季節ハタハタのメスは、独特のぬめりを伴ったプチプチした食感のブリコを抱えているために腹部が大きい(写真上列に並ぶ4匹の右から2番目)。旬の白身の美味しさはオスに軍配が上がる

 沖合いの底引き網漁と接岸する季節ハタハタを狙う定置網と刺し網による漁によって、漁獲高が最も多かった1966年(昭和41)には、県全体で年間2万トンを超える水揚げを記録しましたが、沿岸整備による産卵環境の悪化や乱獲が影響して次第に水揚げが減少してゆきます。漁獲高が1万トンを割った翌年の1977年(昭和52)に4,500トンまで落ち込んだ水揚げは、1992年(平成4)には、わずか70トンに激減しました。

 そこで秋田の漁師たちは、世界でも例を見ない3年間の全面禁漁を実施し、漁業資源保護に乗り出します。ハタハタ漁で生計を立ててきた漁師にとっては、苦渋の選択でしたが、事態はあわや絶滅かという局面まで逼迫していたのです。生息数が一定の回復を見せた1995年(平成7)10月の漁獲再開後は、県の予測に基づく推計生息数の半分は資源として保護するために漁獲枠を設けています。'96年以降、青森・秋田・山形・新潟の4県は、体長15cm未満のハタハタを漁獲禁止とする史上初の複数県による漁業資源保護協定を締結。2,600トンの漁獲枠が設定された今年は、11月24日に男鹿半島北側の北浦港に初水揚げがあり、今月8日には秋田全域に季節ハタハタが接岸し、いま漁の最盛期を迎えています。

shottsuru_nabe11.12.09.jpg【photo】霞ヶ関の農水官僚が6億もの税金を投入して始めた「マルシェ・ジャポン」。事業仕分けで来年度の廃止が宣告され、ドボン!と沈没したこの意味不明な根無し草イベントと対極の発想で仙台のNPO「朝市夕市ネットワーク」が毎月運営する合同市。そこで入手した宮城県名取市の専業農家・三浦 隆弘さん自慢のかぐわしい根付きセリが入るある日の庄内系流「しょっつる鍋」。定番の子持ちハタハタ・豆腐・ゴボウのほか、加熱によって旨味と甘さが増す酒田市「平田赤ねぎ生産組合」が出荷する「平田赤ねぎ」を加える。味付けはハタハタ100%の伝統製法で作られる「諸井醸造所」のしょっつる。同じく伝統的な杉樽仕込みの鶴岡市羽黒町 亀の井酒造「くどき上手 純米吟醸 桶仕込」との相性は完璧!!

kudoki_jyozu_oke.jpg

 ハタハタ漁の再開以降、秋田県水産振興センターの手で人工授精が行われ、毎年400万尾から500万尾の稚魚が放流されています。人工授精は隣接する青森・鰺ヶ沢や山形・鶴岡などでも実施しているほか、現在では山陰から北海道にかけて行われています。護岸工事によって藻場が減少している海岸には、人工的にブロックを整備して藻場の回復を図るとともに、漁師が海藻を巻きつけた使い古しの魚網を設置するなどして、資源の回復に取組んでいます。こうした栽培漁業へ転換した効果が表れ、2002年(平成14)に秋田県の「県の魚」となったハタハタの県内漁獲高は3,000トン前後まで回復しています。

hatahata_sushi.jpg【photo】男鹿の正月に欠かせないハタハタ寿司。麹をたっぷりと用いていており、フナを使う癖の強い熟れ寿司とは違って、はるかに上品で食べやすい

 ウロコが無く加熱すると骨と柔らかなクセのない白身が簡単に離れるハタハタは、新鮮なら刺身でよし、おろし醤油で頂く湯上げでよし、塩焼きでよし、煮てよし、田楽でよしと、さまざまな味付けで食されます。師走を迎える頃から、正月を迎えるために秋田の一般家庭で作られるのがハタハタ寿司です。同じ発酵食品である日本酒と合う保存食としても親しまれてきたこの熟(な)れ寿司には、各世帯ごとの味があり、互いに交換して味自慢をするのだとか。

 同様に、かつて男鹿の各家庭で作られていたのが、ハタハタの生魚と塩を原料とする魚醤「しょっつる」でした。醤油がまだ高級品だった昭和初期まで、秋田・男鹿地方の家庭では日々の食卓で使う基本調味料、いわゆる「サ・シ・ス・セ・ソ」の醤油に代わる手前味噌ならぬ自家製の「手前しょっつる」を作っていました。しかしながら、今ではそうした自家製のしょっつるを作っているのは、男鹿市1万3千世帯のなかで把握される限りでは70歳代以上の高齢者がいる数十軒の家しかありません。多様なしょっつる文化は今や風前の灯火といわざるを得ないのです。

hideki_moroi.jpg【photo】諸井醸造所 3代目 諸井 秀樹 代表

 ハタハタの不漁による価格の高騰や3年に及んだ禁漁によって、男鹿のしょっつる製造業者は次々と廃業に追い込まれます。残った業者は安価に手に入る代替品のイワシやアジを使用したため、強い魚臭さが出るだけでなく、化学調味料を使用したり安価な東南アジアの魚醤や水を混入したしょっつるが出回るようになります。こうして塩とハタハタだけで作られる男鹿のしょっつるは、漁獲の減少とともに姿を消してゆきます。伝統的な本物の味が忘れ去られてしまうことに危機感を抱いたのが、男鹿市船川港にある「諸井醸造所」を営む諸井 秀樹さんです。1930年(昭和5)に創業した味噌・しょうゆ醸造元の三代目は、20年ほど途絶えていた男鹿伝統の味復活に向けて動き出します。それは1997年(平成9)、諸井さんが43歳の時でした。

spaghetti_hatahata.jpg【photo】淡白なハタハタを使ったスパゲティの味付けにも、ハタハタをの湯上げした茹で汁にしょっつるを加え、仕上げに10年熟成のしょっつるで香り付け 
 
 ハタハタを原料とする男鹿に伝わるしょっつるの製法は、熟練者の勘によるものだったため、体系的にまとまった資料が存在しませんでした。諸井さんには、家業を継いで10年目の1983年(昭和58)に自己流でしょっつる作りを試みたものの、断念した経験がありました。そこで諸井さんはパン生地の発酵に使われる「白神こだま酵母」を開発するなど、食品加工業者に対する技術指導や情報提供などを行う「秋田県総合食品研究所」応用発酵部門の協力や、自家製しょっつるを作っていた漁師の助言を得て、わずかに残っていた文献をひもといて試験醸造に着手します。ハタハタの浜値は現在キロ200円前後に低迷しており、諸井さんが漁師の生活維持を心配するほど暴落しています。'95年の禁漁明け直後の浜値はキロ3,000円を突破、'97年当時でもキロ1,000円以上もする高級魚と化したハタハタだけを使う諸井さんの取り組みは、採算をまったく度外視したものでした。

    hatahata_sale_shikomi.jpg moromi-08anno.jpg moromi-3anni.jpg
【photo】諸井さんが苦心の末に見出したのが「ハタハタ7:天日塩3」という黄金比率。1トンのハタハタから出来上がるしょっつるは500リットルに過ぎない(左写真) 前年に仕込んだばかりのタンクには、まだ原型を留めた発酵途中のハタハタがびっしり(中央写真) もろみは月に一度撹拌され、空気に触れることで発酵が促される。あとは時間が味を仕上げてくれる(右写真)

 無謀だという周囲の制止に耳を貸さず、伝統製法によるしょっつるの復活に没頭する諸井さんを突き動かしていたのは、本物だけがもつ美味しさと男鹿の風土に根ざした食文化を絶やしてはならないという使命感でした。新鮮な男鹿産のハタハタと男鹿の天日塩と混ぜ合わせて5トン容量のホーロータンクで漬け込み、月に一度だけ撹拌して熟成させること最低2年。気温や湿度などの気候条件が異なるもとで、なかなか思うような結果が得られず、雑菌が繁殖して腐敗させてしまい、泣く泣くタンク全量を廃棄処分した苦い経験もあります。幾度もの試行錯誤の末、ようやく完成をみたのは2000年(平成12)のこと。最初にしょっつる作りに挑んだ時から17年の歳月が経過していました。澄み切った琥珀色のかぐわしい液体を口にした昔のしょっつるを知る人は、「久しく忘れていた本物の味が記憶の底から蘇った」と諸井さんの労作を褒めたたえたといいます。

   moroi_tank.jpg moromi-10anni.jpg shotsuru-moroi.jpg
【photo】諸井醸造所では8 基のタンクでしょっつるを仕込んでいる。熟成庫には一切生臭さはなく、理想的な発酵がなされていることが窺える(左写真) 限定品の「十年熟仙」用のもろみ。白身魚特有の上品な味わいに磨きが掛かったしょっつるは全て布で漉した後、通常のしょっつるに施す加熱処理を加えず、通し番号の入ったボトルに詰められて出荷される(中央写真) 最低2年の熟成期間中に、魚体のタンパク質はグルタミン酸やアミノ酸成分に変化して旨味の詰まった原液に変化する。布で漉した澄み切った琥珀色を呈するハタハタ100%のしょっつるは、不快な魚臭さを全く感じさせないばかりか、加熱すると甘みが加わって味に深みを与える(右写真)

 近年のエスニックブームで、魚醤としてはタイのナンプラーやベトナムのニョクマムのほうが、むしろ日本では入手しやすく、その料理を口にする機会が多いかもしれません。醤油が広く普及した日本では、江戸初期以来の伝統に培われた魚醤は秋田のしょっつると石川県能登地方のイカの腑を原料とする「いしる」が残る程度。かつて日本三大魚醤といわれたコウナゴ(小女子)の稚魚イカナゴの生魚と塩を原料とする香川の「イカナゴ醤油」が、一般家庭の食卓からほぼ途絶えて久しい今、300年前からイカの塩辛を仕込む際に、「つゆ」と呼ばれる腑を仕込んだ魚醤を仕込みダレとして使っている酒田沖に浮かぶ飛島や、最近になって鮭を原料とする魚醤を作り始めた岩手県釜石市などの動きはあるにせよ、bottiglia-shottsuru.jpgハタハタと海塩から作られる男鹿伝統のしょっつるは、四方を海に囲まれた日本が誇るべき天然素材のみを用いた希少な食文化の遺産です。2006年(平成18)、スローフード協会は漁師が資源を回復させたハタハタから作るしょっつるを、絶滅に直面した保護すべき伝統食品を選定対象とする「味の箱舟」に登録しました。

【photo】八森漁港のおかみさんで組織する秋田県漁協 北部総括支所 女性部ひより会が製品化した「鍋通亭しょっつる」と並んで希少なハタハタ100%を貫く諸井醸造所の「秋田しょっつる」(130g・写真左) 醸造家の情熱と10年の歳月が作り出した魂の一滴を味わいたい「十年熟仙」(200mℓ・写真右 ※今年販売された1999年製造分は完売)

 去る11月22日(日)、秋田県男鹿市で「男鹿・イタリア魚醤フォーラム2009」が開催されました。今回の催しではギリシャ・古代ローマ時代の万能調味料「Garum ガルム」の流れをくんだ魚醤の生産者など関係者一行が男鹿を訪れました。そのきっかけは、ノンフィクション作家の島村 菜津さんが南イタリア・アマルフィ海岸の小さな漁村Cetara チェターラを訪れた際に出合ったカタクチワシ(=alice アリーチェ/ 複数形:alici)を原料とする「Colatura di alici コラトゥーラ・ディ・アリーチ」の存在を諸井さんに伝えたことでした。

slowfish_07genova.jpg【photo】2007年にジェノヴァで開催された「Slow Fish」には、スローフード協会が特に保護すべき食品「プレジディオ」に認定する20の海産物がブース参加。コラトゥーラの生産者らで組織するカタクチイワシ協会のコーナーでは、日本と同じ形状の木樽で塩蔵されるイワシの展示、コラトゥーラの試食が行われたArchivio Slow Food / Egidio Nicora

 2007年5月4日から7日の4日間、イタリア・リグーリア州ジェノヴァでスローフード協会が開催した「Slow Fish スローフィッシュ【Link to website】」では、海の生物多様性と持続可能な漁業、伝統的な魚食文化の保護に向けた意見交換などが行われました。この催しに「スローフード秋田」の会員として参加した諸井さんは、今回男鹿を訪れたチェターラのコラトゥーラ生産者らと出会い、意気投合します。コラトゥーラが地域活性化に果たす役割がいかに大きいものかを知るにつけ、その後も交流を続けてきました。次回 io sono shozzurista ショッツリスト宣言では、男鹿地域の人々にとって示唆に富んだ提言がなされたフォーラムの模様をお伝えします。

************************************************************************
諸井醸造所
住:秋田県男鹿市船川港船川字化世沢176
Phone:0185-24-3597
F a x:0185-23-3161
URL:www.shottsuru.jp
E-mail:shottsuru@basil.ocn.ne.jp
baner_decobanner.gif

2009/09/30

奇跡のリンゴ part 1

リンゴ農家・木村 秋則さんの金言
「大事なものは見えない 土も同じだ」

firima_akinorikimura.jpg
 化学肥料や農薬に依存しない自然農法で栽培した野菜を我が家に届けてもらっている宮城県村田町の「ボンディファーム」の鹿股国弘さんと、その野菜を使った料理を店で提供する吉田克則シェフが仙台市青葉区で営むイタリアン「Enoteca il circolo エノテカ・イル・チルコロ」Link to backnumberの共催による「畑の真ん中で愛を叫びつつ、バーベキューパーティ」が8月上旬にボンディファームの畑で催されました。

 ボンディファームの顧客を対象とした収穫体験と作業後のバーベキューには、昨年も家族で参加していますLink to backnumber。この催しを主催したご縁の浅からぬ鹿股・吉田のご両人から、私はある特命事項を計画段階から託されていました。それは催しのキモとなる青森県弘前市で自然農法でリンゴを栽培する木村秋則さん(59)をお招きすることでした。昨年5月、木村さんはご不在でしたが、吉田シェフを一度木村さんの畑にご案内していたのです。

【photo】木村さんに頂いたサイン

 2006年(平成18)12月にNHKで放映された「プロフェッショナル-仕事の流儀」で紹介され、翌年1月に初の著作「自然栽培ひとすじに」(創森社刊)で無施肥・無農薬による自然農法に至る足取りと実践を語り、2008年(平成20)7月に、NHKの番組制作班による監修のもとノンフィクションライター石川 拓治氏が著した「奇跡のリンゴ―『絶対不可能』を覆した農家・木村秋則の記録」(幻冬舎刊)はベストセラーとなりました。今回の副題「大事なものは見えない 土も同じだ」はバーベキューパーティに持参した石川氏の著書に木村さんから頂いた直筆のサインに記してあった言葉です。

zuppa_yamazaki-akinori.jpg【photo】
木村 秋則さん(写真左)のリンゴにいち早く注目した地元弘前のフランス料理店「レストラン山崎」の山崎 隆シェフ(写真右)。冷製仕立てのクリームスープは店の看板メニュー


 メディアを通して紹介された現在に至る苦難の道のりと、飾らないお人柄から、にわかに時の人となった勢いは一向に衰えていません。所詮は自然の一部に過ぎない人間は、自然の摂理に逆らうことができないのだから、謙虚であるべきと説いた「リンゴが教えてくれたこと」(日本経済新聞出版社刊)と、UFOに拉致された驚愕の体験などをまとめた「すべては宇宙の采配」(東邦出版刊)を立て続けに上梓。畑の見学や自然農法についての講演依頼が後を絶たず、最近では国内各地は言うに及ばず、韓国やドイツなど海外からも農業指導の依頼が殺到、本業の畑仕事がちゃんと出来ているのかな、と心配になるほど多忙な毎日を送っておられます。

succo_melo.jpg【photo】古い洋館とフランス料理店が多い弘前を代表するフランス料理店「レストラン山崎」にて。木村さんのリンゴを使った冷製スープは夏場はなくなるものの、ジュース(写真中央)なら季節を問わず味わうことができる

 そもそも私が初めて木村さんを知ったのは、たまたま見ていたNHKの番組(プロフェッショナル~)を通してです。訥々(とつとつ)とした津軽弁でキャスターの脳科学者・茂木健一郎と住吉美紀アナに笑顔で語りかけるその人は、日本で初めて本格的にリンゴを無農薬・無施肥栽培することに成功したという弘前の農家でした。改めて確認した新聞のTV欄には「りんごは愛で育てる」という番組のタイトルが載っていました。

 温暖で多湿な日本では、病害虫に犯されやすい果樹栽培には、さまざまな農薬が使用されます。ことにバラ科のリンゴには一般的に幾度も散布が行われます。効能が異なる農薬の種類ごとに農協が散布時期を定めた防除暦では、年間で約10回の農薬散布が推奨されます。野生の原種をもとに近代になって品種開発された果樹は、草取りに明け暮れていた農家の労力を軽減する目的で開発された除草剤、病害虫の被害を防ぐための殺菌剤や殺虫剤、落果防止のためのホルモン剤などを使用することを前提にしていると言っても過言ではないかもしれません。果樹ではありませんが、私の自宅の庭で育つバラも、春先から夏にかけて、さまざまな病害虫に襲われるゆえ、リンゴを無農薬で育てることの困難さは容易に察しがつきました。それゆえ番組を見て「さすがはリンゴの里、津軽には並外れた生産者がいたもんだ」と感心することしきりでした。

akinori@azienda.jpg【photo】岩木山を背景とする南向きの傾斜地にある木村さんのリンゴ畑には、木村さんが「樹の実」と呼ぶリンゴにとって、自然にあるがままの理想的な生育環境が整っている。9年間の艱難辛苦の果てに理想とする自然栽培に至る軌跡について語る木村さん。笑いあり涙ありの話は2時間に及んだが、時が経つのを忘れた


 そんな私が弘前に木村さんの畑を初めて訪ねたのは、番組が放映されて8ヵ月後の2007年(平成19)8月のこと。その年の4月に弘前のフレンチ「レストラン山崎」の山崎 隆シェフがオリジナルレシピで作られた木村さんのリンゴを使用した冷製スープを頂いたのがきっかけです。かつては絶対不可能といわれた自然農法で栽培されたリンゴの皮と種を除いてスライスし、弱火でコトコト煮込んで作ったという冷製クリームスープは、TV番組で得た若干の予備知識も手伝ってか、生き生きとしたリンゴの風味に、生クリームのまろやかさとカルヴァドスの柔らかな香りが加わり、私を感動させて止みませんでした。人を感動させる料理との出逢いって、そう頻繁にあるものじゃありませんよね。"百聞は一にしかず"と言うではありませんか(?)。ここは是非ともリンゴを作った木村さんにお会いしたいと思ったのです。

fuji_akinori.jpg【photo】初秋の青空に一層映える"奇跡のリンゴ"。「自分は樹が実を結ぶのをお手伝いしているだけ」と木村さんご自身は語る

 8月にレストラン山崎を訪れた時は、リンゴの収穫前であったため、スープはありませんでしたが、木村さんのリンゴで作ったジュースは頂くことができました。食後に席にご挨拶にお見えになった山崎 隆シェフに、木村さんとの橋渡しをお願いしました。地元の素晴らしい素材を取り入れた弘前ならではのフランス料理を心掛けるという山崎シェフは、快く木村さんの携帯番号と畑の所在地の略図を書いたメモを渡して下さいました。事前にご自身が木村さんに電話を入れておくので、畑の場所がもし判らなければ、木村さんに直接電話してみてとも。ただ「携帯に電話しても、ほとんど出ないんだよね」と苦笑されました。その理由は、三回目の弘前訪問の折にご自宅に隣接した作業場にお邪魔して判明します。ご自宅の母屋脇にある作業場でリンゴの箱詰めと発送作業に追われる木村さんご夫妻の傍らには、注文を受けるFAX機能付き電話があります。お二人とも全く電話を取ろうとしないため、ひっきりなしにかかってくる電話は決して鳴り止むことがないのでした(笑)。

akinori_okusama.jpg 【photo】作業場に鳴り響く電話のコール音など意に介さず、仲睦まじく箱詰め作業にあたる木村ご夫妻。美千子さん(左)、秋則さん(右)

 弘前市中心部から鯵ヶ沢街道を岩木山の麓へと向かうと、次第にリンゴの樹が目立ってきます。通称アップルロードを右折し、目印とされた神社はすぐに判ったものの、周囲に広がるリンゴ畑のどこが木村さんものか皆目見当がつきません。神社に戻って木村さんの携帯をコールすると、山崎シェフの懸念が嘘のようにすぐに電話に出た大きな声の主は紛れもなく番組で耳にした木村さんその人でした。間もなく迎えに来て頂いた木村さんと簡単にご挨拶を済ませ、軽トラックで先導されて着いたリンゴ畑は、周囲の畑とは明らかに異質なものでした。下草がきれいに刈り込まれた他の畑とは対照的に、木村さんのリンゴ畑には一面の雑草が生い茂っています。その畑に腰をおろして45分弱に編集されたTV番組では語られることのなかったご自身の来歴やリンゴ畑で起きている奇跡に関するお話を2時間に渡ってじっくりと伺いました。

apple_road.jpg【photo】木村さんのリンゴ畑(下写真)は旺盛な雑草に覆われる一方、慣行栽培の畑(上写真)は丁寧に下草が刈り込まれ違いは歴然。自然の摂理通りに秋に紅葉する自分の畑のリンゴとは違い、農薬を散布したリンゴは雪が降っても紅葉することがなく葉が青いままという。そんなリンゴを不気味だと木村さんは言うakinori_hatake.jpg

 出版された3冊の本すべてで紹介されているので、ここでは詳しく繰り返しませんが、1978年(昭和53)、28歳になった木村さんが完全無農薬でリンゴを育てようとしたのは、当時は人体への悪影響について論議されることすらほとんどなかった農薬を散布するたびにしばらく寝込んでしまうほど化学物質に対して過敏な体質であった奥様、美千子さんのためでした。若い頃から大好きだった車のエンジン改造に関する本を探して入った書店でひょんな偶然から手にした福岡正信の著作「自然農法」に感銘を受けた木村さんが慣行栽培をやめた結果、病害虫にすっかり犯されたリンゴの樹は軒並み落葉し、秋に狂い咲きの花を付けた樹は翌年以降結実することをやめてしまいます。

akinori_e_mele.JPG
【photo】色付き始めたリンゴを慈しむように見つめる木村さんのまなざしはあくまでも優しげだ

 リンゴ農家としての収入が完全に途絶えても、なお無農薬栽培を諦めずに花すら咲かない病害虫の猛威に晒されたリンゴの樹と向き合った9年間の苦闘は筆舌に語り尽くせないものでした。当初800本あったリンゴの樹は葉を落として活力を失ってゆく8年の間に半数近くが枯れ果てたといいます。私が初めて伺った当時は幻冬舎から奇跡のリンゴが出版される前でしたから、40代にして木村さんが歯をほとんど失った理由は全くの初耳。日がな一日リンゴの樹の下で横になってシャクトリムシが葉を食べる様子を凝視し、害虫の生態を知るなどの徹底した自然観察や、酢やワサビなど思いつく限りの効果がありそうな食品の希釈液の散布をもってして、いかに手を尽くしても無農薬栽培法の答えを見出せなかったという木村さんの苦労話に引き込まれてゆきました。

 津軽弁で破産者を意味する「竈消し(かまどけし)」。婿入りした木村さんにとってはさぞ辛かったであろう不名誉な陰口を叩かれ、道で会っても挨拶すらされなくなり、家族を極貧に追い込んだという自責の念に駆られた木村さんは、無農薬栽培を試みて6年目の満月の夏の夜、もはや万策尽きたと死を決意します。畑の物置がわりに使われていた軽ワゴン車(昨年撤去された)を指差し、「ここから取り出したロープを手に、月明かりの中を山に入って首を吊って死のうとしたんだよ」と語りました。死に場所を求めてさまよい歩いた山中で、木村さんは一本のリンゴの樹を目にします。農薬や肥料を与えないのに青々とした葉を茂らせているように映ったその樹は、リンゴではなくドングリなのでした。まさに命を絶とうという極限状態で、その根元を支えていた柔らかく湿気を帯びた山の土にこそ、リンゴを自然栽培で育てる答えがあると直感したという木村さんの話を伺い、人間が持って生まれた宿命や天命の存在を信じずにはいられませんでした。

akinori_zassou.jpg【photo】大事なものは見えない。土も同じ

 土の重要さに気付いて以降、雑草を刈らなくなった木村さんの畑では多種多様な微生物・昆虫・ミミズ・野ネズミなどが生息する生態系が形作られてゆきます。マメ科植物の窒素固定作用や、耕土層の下にある岩盤層のミネラルをリンゴの根が吸収しやすいよう、雑草や地中深くに根を張る作物を活用し、本来の土の力を取り戻していきます。一匹ずつ手で駆除していたハマキムシなどの害虫の発生を抑えるため、バケツを活用した蛾の殺虫法やハチなどの益虫による駆除を取り入れるうちに、リンゴの自然栽培に理想的な局所環境を次第に作り出してゆきます。

 1988年(昭和63)、一本のリンゴの樹に7輪の可憐な花が咲き、秋に2つの飛び切り甘いリンゴが実ります(その樹の根は20m以上も地中で伸びていることが後に判明する)。翌春、木村さんの畑一面にリンゴが白い花を咲かせているのを発見した隣の畑の持ち主が、わざわざ木村さんに知らせてくれたのだそう。はやる気持ちを抑えて畑にバイクで駆けつけた木村さんは、9年ぶりに目にする光景を前に、奥様と手を取り合いながら涙が止まらなかったそうです。その時の感激を昨日のことのように語る木村さんの言葉に、私も我が事のように熱いものがこみ上げてくるのでした。

2008.5azienda-akinori.jpg【photo】岩木山の雪が解けやらぬ昨年5月中旬、エノテカ・イル・チルコロの吉田シェフご一家をお連れした木村さんの畑には、北国の遅い春の訪れを祝うかのように、白いリンゴの花々が一斉に咲いていた。21年前の春、木村さんご夫妻はどのような思いで豊かな秋の実りを約束するこの光景を見つめたのだろう

 昨年12月に東北6県のTV朝日系列の放送局で放送されたTV番組「るくなす」に登場した木村さんは、24年ぶりに山中で再会を果たしたドングリの樹に手をかけ、何度も「ありがとう、ありがとう」と万感の思いを込めて語りかけていました。自らの命を救い、答えに導いてくれたドングリに語りかける木村さんの言葉には、いささかの誇張や作為も感じられませんでした。木村さんは「自分はバカだから、リンゴが可愛そうに思って実を結んでくれたんだ」と笑います。人生の奈落をかつて経験した木村さんは、本当にカラカラとよく笑う方です。それでいてまっすぐな生き方を貫く津軽の「じょっぱり」を地でゆくような木村さんは、いかなる困難な状況にあっても己が信念を曲げませんでした。木村さんの芯が通った生き方は、閉塞感にとらわれがちな今の時代に生きる人々の強い共感を得ています。

 恐らく日本一有名なリンゴ農家となった現在では、残念ながら極めて入手が難しいのですが、大地の力を存分に取り込んで実を結ぶ木村さんのリンゴは、お人柄そのままの邪気のない味がします。akinori_smile.jpg放置しても腐敗しないというそのリンゴ果汁100%からなるジュースなら、仙台でも入手できる店があります。生涯忘れることがないであろう時を過ごした木村さんの畑で果たした出会いから、あまり時間を経過しないうちに、木村さんについて書こうと実は思っていました。しかし、その生きざまを直接伺うに及んで、若輩の私が軽々に木村さんについて語ることを躊躇するようになり、時間ばかりが無為に経過してしまいました。今回こうして、2年前の体験をまとめることができ、少し肩の荷が下りた思いです。

 【photo】畑からの去り際、カメラを向けると律儀に帽子を脱いだ上で満面の笑みで見送って下さった木村秋則さん

 木村さん人気(...言うまでもなく私のコトではない)で昨年に比べて倍以上の130人あまりが参集した先月のバーベキューパーティについては、奇跡のリンゴ part2 リンゴ農家・木村 秋則さんの金言 「奥歯見せて笑える一生」にて。

baner_decobanner.gif

2009/08/09

だだちゃ豆は、ががちゃの賜物。

鶴岡の夏に欠かせない味、だだちゃ豆 

kuromatsu_hamanaka.jpg【photo】道沿いにメロンの直売所が点在する酒田市浜中付近。日本三大砂丘のひとつ、庄内砂丘に営々と植林されてきたクロマツがR112沿いに続く防風林を形作る。不毛の砂地を豊かなメロン産地へと変えたクロマツは、冬の北西風に耐えてすべからく東の内陸側に傾いている。鬱蒼としたこの林が人造林であるとは、にわかに信じ難い

 鶴岡市湯野浜から酒田を経て遊佐町に至るR112やR7沿いには、長さ34kmに渡って835haに及ぶ広大な面積におよそ1000万本のクロマツが防風林を形成しています。これは江戸期以降に、不毛の砂地に私財を投じてクロマツの植林を始めた酒田の豪商・本間光丘(1733-1801)など、多くの先人がたゆまぬ植林の努力を続けた結晶です。植林前は強烈な季節風による飛び砂の被害に悩まされてきた酒田市浜中地区は、現在では日本有数のメロン産地となり、砂丘メロンは夏の庄内の味覚として欠かせないものとなりました。

malone_hamanaka.jpg【photo】先人が脈々と植林を続けてきたクロマツ林の中に防砂ネットが張られた一角に広がる砂丘メロン畑。巨大なメロンのオブジェがある庄内空港近くの酒田市浜中にて

 1872年(明治5)、旧庄内藩士が未開の原生林を切り開いて桑畑と一大養蚕施設に変えた鶴岡市羽黒町の「松ヶ岡開墾場」には、酒井 調良(1848-1926)が10万本に及ぶ苗木を和歌山や新潟など各地へ広めた「平無核」(ひらたねなし)こと庄内柿と、福島から導入された「あかつき」などのモモ畑が広がっています。お盆の頃、松ヶ岡では甘味の乗ったモモが旬を迎えます。明治政府から賊軍の扱いを受け、禄を失った3000名の士族たちは、まかないの食事だけの全くの無給で311ha の桑園と10棟の大蚕室を築きました(うち5棟が現存)。クロマツの防風林と松ヶ岡は、公益を重んじる庄内の気風を今に伝えます。

akatsuki_matsugaoka.jpg

【photo】旬を迎えた松ヶ岡の主力品種「あかつき」

 砂丘メロンやモモのみならず、昨年取り上げた民田ナスや沖田ナス、岩ガキなどと並んで、食の都・庄内において夏の訪れを感じさせてくれる食べ物の代表選手が、鶴岡在来の枝豆「だだちゃ豆」です。

ooizumi_chokubai.jpg【photo】シーズン到来を待ち焦がれる多くのだだちゃ豆ファンの期待に応えて今年もJA鶴岡大泉支所前にオープンした直売所〈左写真〉

 先月19日、旬を迎えただだちゃ豆の直売所が、鶴岡市白山(しらやま)のJA鶴岡大泉支所にオープンしました。近隣の栽培農家で早朝に収穫されたばかりのだだちゃ豆が枝つきで持ち込まれる直売所は、同支所前の駐車場で例年8月末まで営業を続けます。鮮度が命のだだちゃ豆だけに、朝8時30分の開店に間に合うよう次々と軽トラックで農家が持ち込む枝付きのだだちゃ豆を買い求める人で、直売所には行列ができます。車で訪れる来店客のナンバープレートを見ると、地元庄内のみならず、内陸山形ナンバーはもちろん、新潟・宮城・秋田など、県外からもその味に魅せられた人々が訪れていることが窺えます。同支所内にあるJA鶴岡産直館では、用意された生産者別の試食品を品定めしながら、袋詰めされた好みの豆を選ぶことができます。産直館・直売所とも、飛ぶように売れてゆくため、午前中のほうが品数は多くなります。お買い物は早い時間帯の方がよろしいかと。

【photo】鮮度抜群のだだちゃ豆は午前中に完売することも多く、午後再び畑で収穫した農家によって、第二便が直売所に持ち込まれることもしばしば
ooizumi_09.jpg

 ほかの枝豆の追従を許さない甘さ・香り・旨みは、鶴岡でも極めて稀な例外を除くと、本来の産地を離れると失われてしまうデリケートな一面を持つだだちゃ豆。酒田市助役を3期務めた伊藤 珍太郎(1904-1985)は、郷土史家・名文家としても知られ、著作「庄内の味」(昭和49年刊)で、数ある庄内の優れた味覚のうち、誇るべき東の正横綱に位置するのが、旧大泉村白山産のだだちゃ豆であるとしています。噛み締めるほどに次々と異なる旨味が舌の上に生まれる白山だだちゃは、畑の芸術院賞ものに値するとも絶賛するのですから、ひとかたならぬ入れ込みようです。

edatsuki_dadacha.jpg

 収穫後、常温で長時間置くと味が変わりやすいため、だだちゃ豆はかつて庄内人だけの密かな夏の楽しみでした。予冷庫の整備と流通段階における保冷技術の発達、鮮度保持フィルム包装や脱酸素剤の導入で、今では全国にその名を轟かせるまでになりました。だだちゃ豆は築地市場で通常の枝豆の2倍にあたるキロ当たり1000円で取引されています。その登録商標権を持つJA鶴岡と鶴岡市が主体となった「だだちゃ豆生産者組織連絡協議会」(会長:富塚 陽一鶴岡市長)は、収穫時期が異なる10の品種【注】をだだちゃ豆として認めています。

【photo】根に根粒菌がついた枝付きのだだちゃ豆

 JA鶴岡の商標マークが入った袋詰めのだだちゃ豆は、厳格な基準に基づく採種・管理と、栽培法のもとで作られます。出荷されるのは、白山だだちゃの基本形となる2粒ザヤと3粒ザヤのみ。全体の15%程度発生する1粒ザヤは、手作業による選別の過程で規格外となりますが、旬に関係なくだだちゃ豆特有の風味を楽しめるフリーズドライの「殿様のだだちゃ豆」や、男女問わず好評だという「だだちゃ豆アイスクリーム」の加工用に回されます。鶴岡市大鳥ほか庄内地域をメーンロケ地に撮影され、今年8月全国公開されたホラーコメディ映画「山形スクリーム」(竹中直人監督)とコラボしたパッケージ商品が山形県内限定2万個で発売されています(8月末まで)。その旨さにあなたもきっと「んめの~!!(=庄内語「美味しい!!」の意)とscream(=英語「叫ぶ」の意)することでしょう。

dadacha_icecream.jpg 【photo】だだちゃ豆を使用したオススメ加工品2種。バニラアイスのひんやりミルキーな香りと、粒々になっただだちゃ豆の香りが溶け合う「だだちゃ豆アイスクリーム」は後を引く美味しさ(左写真)。オールシーズンだだちゃ豆ならではの芳香を味わえるフリーズドライの「殿様のだだちゃ豆」はビールのつまみやおやつに大活躍。どちらも やめられない 止まらない~(右写真)

 例年まず店頭に並ぶのは早生種の「小真木(こまぎ)」で、順に「甘露」「庄内1号」「早生白山」と続き、主力品種「白山(しらやま)」が出始めるのは、これからお盆の頃。今年は8月20日前ごろだろうといいます。この最も風味の良い白山の原型とされる系列「藤十郎」を創選したのが、良質のだだちゃ豆の産地として名高い現在の鶴岡市白山地区に生まれた森屋 初(1869-1931)という一人の女性でした。初の生家は、藩主から感謝状を受けたこともある篤農家で、明治期から昭和初期まで「亀ノ尾」「神力」と並ぶコメの三大品種とされた「愛国」の一系統「中生愛国」を創出したのは、実弟の利吉です。

【photo】収穫しただだちゃ豆の選別作業にあたるお母さんたち。鶴岡市白山地区にて

 1907年(明治40)、隣村の寺田にある長女の嫁ぎ先から「娘茶豆」と呼ばれる枝豆の種子を貰い受けた初は、実を結ぶのが遅い1本の変異種を偶然見いだします。茶色の産毛が覆ったサヤの谷間がくびれ、片側がほぼ平らで、反対側が大きく盛り上がり、多くが二粒入りであったその豆は、お世辞にも外見が良いとは言えませんでしたが、風味が優れていました。たいそうな働き者だったという初は、3年に渡って丹念に選抜を繰り返し、屋号に由来する品種「藤十郎」を確定させます。その豆の種子は、大豆のような球形ではなく、形状が歪んだシワの寄ったものでした。

shirayama_dadacha.jpg

 シワの寄った枝豆は、そうでないものと比較して発芽率が劣るとされますが、枝豆農家ではそうした種子から実を結ぶ枝豆が美味しいことが知られていました。初は地区のお母さんたちと種を交換する中で、「オライの豆は一段と香りたげのぉ(=うちの豆は一段と香り高いわよ)」「いや、わぁのだて負けちゃいね(=いいえ、私のだって負けちゃいない)」と味を競いながら次第に作付を増やしてゆきます。庄内では、伝統的にコメ作りは「だだちゃ」(=お父さん)、畑仕事は「ががちゃ」(=お母さん)の仕事とされてきました。

【photo】今から99年前に森屋 初が創選した「藤十郎だだちゃ」の流れをくむ「白山だだちゃ」(上写真) 金峰山(写真右奥の山)から湯田川を経て、だだちゃ豆の畑が両岸に広がる白山地区を流れる湯尻川(下写真)

yujiri_gawa.jpg 
 昨年4月に地域団体商標に登録された岩木山の麓で採れる津軽特産のトウモロコシ「嶽きみ」のような並外れた甘さと、茹でるそばから漂い始めるフェロモンたっぷりな香りを兼ね備えただだちゃ豆のトップブランドとして、藤十郎の直系品種である白山は後に品種が確立されます。直売所に持ち込まれる枝付きだだちゃ豆の根には、美味しさの証ともいわれる根粒がびっしりと付いています。これは空気中の窒素を葉から取り込んで固定化、自ら養分を生成するマメ科の植物に見られる現象です。白山地区は水はけの良い砂地土壌で、そこに良水に恵まれた金峰山麓より湯田川温泉を経由し、温泉水を含んだ湯尻川が流れてきます。川沿いの畑に朝霧が立ち込め、この適度な湿度が味わいに微妙な差異をもたらします。

 余剰米対策として国が生産調整を進める中で、コメどころ庄内では収益性の高い転作作物として、だだちゃ豆は農家にとって農地活用の救世主となりました。市町村単位で見た枝豆の作付面積は、鶴岡市が全国第一位の座に君臨しています。JA鶴岡大泉支所の直売所近くの公民館前には、森屋 初の業績を称える「白山だだちゃ豆記念碑」が2002年(平成14)に建てられました。白山だだちゃの誕生と普及にまつわる物語は、ひとめぼれ・ササニシキ・あきたこまち・コシヒカリdadacha_kinenhi.jpgなど、近代日本が生んだ良質米のルーツとなったコメ「亀ノ尾」を選抜した阿部 亀治の逸話にも相通じるエピソードです。庄内地域は民間育種が盛んな土地柄ゆえ、研究熱心な農家自身が品種改良を重ねる進取の気性が今も息付きます。碑文には豆の行く末を案じていた晩年の初が、家族に「豆の葉陰から見守る」と言い残したと記されます。

【photo】発祥の地に建てられた白山だだちゃ豆記念碑

 ニッポンの夏に欠かせないビールのつまみとしてはもちろん、皆さんにオススメしたいのが、数年前に農家民宿「知憩軒」の長南 光さんから教えていただいた味噌汁の具に使う調理法です。

 1:コメを洗う要領でサヤを洗って茶色の産毛を除く
 2:ダシ汁を沸騰させてサヤごと入れ3分ほど茹でる
 3:箸で茹で加減をみて、柔らかさが出たら味噌を加えて出来上がり
   ※風味が変わらぬよう、茹でるまで豆は必ず保冷状態に置くこと
 
ふっくらとしただだちゃ豆入りの味噌汁からは、アラ不思議、カニ汁のような香りが漂うではありませんか。普通に茹でる場合と同じで、くれぐれも茹で過ぎは禁物です。だだちゃ豆特有の心地よい香りが、美味しそうなカニの芳香に変化する不思議を味わえなくなりますので。

************************************************************************

大泉だだちゃ豆直売所
住所: 鶴岡市白山西野191 (JA鶴岡大泉支所・産直館白山店 駐車場内) 
時期: 7月20日前後 ~8月末
営業: 8:30~16:00頃 (売り切れ次第終了)
Phone: 0235-29-7865(大泉枝豆直売グループ)

JA鶴岡産直館白山店
住所: 同上
営業: 9:00~18:00(11月~2月は~17:30)
Phone: 0235-25-6665

JA鶴岡オンラインショップ「だだぱら」
URL: http://www.dadacha.jp/


【注】
「庄内一号」・「小真木(こまぎ)」・「甘露(かんろ)」・「早生白山」・「白山(しらやま)」・「庄内三号」・「晩生甘露」・「平田」・「庄内五号」・「尾浦」の10品種。このほか一般には種子が出回らず、「砂越(さごし)」・「細谷」・「金峯」・「外内島(とのじま)」などの地名や、「長五郎」・「庄左ェ門」・「伊兵ェ」など屋号の名がつく主に自家採種されてきた系列も存在する。saishu_dadacha.jpg(上写真:採種のため農家の軒先で風乾されるだだちゃ豆の株の様子)。天日干しの後、サヤから脱粒した種から、虫食いや病気の豆を除き、翌年の植え付けに使用する。森屋初が納得のゆく品種に育てるのに3年を要したように、自家採種は根気と時間を要する仕事である

baner_decobanner.gif

2009/07/05

秘密の花園@深山

花盛りの「藤沢カブ」を訪ねて

yakihatasummit.jpg

 仕事の都合がつかずに私は参加できなかったのですが、昨年11月に鶴岡で総合地球科学研究所(本部:京都)と山形在来作物研究会(鶴岡)・東北文化研究センター(山形)・鶴岡市の共催による「第二回焼畑サミット」が行われました。焼畑と野焼きの文化-今、東北が熱い!-と題するフォーラムの告知ポスターには、まだ真っ暗な早朝、山の斜面に火を放つ人の姿が写っています。炎に照らし出された眼鏡をかけた男性の横顔には見覚えがありました。それは紛れもなく2年前に「藤沢周平の故郷の味」Link to backnumberでご紹介した湯田川温泉街に隣接する鶴岡市藤沢地区で在来野菜「藤沢カブ」を栽培しておいでの後藤勝利(まさとし)さんでした。  【クリックで拡大⇒】

 焼畑によるカブ作りには、森林資源保持のために計画伐採される区画の確保がまずは必要です。消防署に届けをした上で、山焼きを行う前日までに切り株だらけとなった急斜面の下草を刈って整地するきつい作業〈clicca qui 〉を終えなくてはなりません。藤沢カブは連作障害が出やすいため、栽培する場所を毎年変えています。6年前、鶴岡市金峰山中の急峻な斜面に切り開かれた畑というよりはカブが一面に生えた山の一角を訪れて以来、後藤さんご夫妻の素敵な笑顔にお会いしたくて後藤さんのもとを毎年訪れて来ました。

yamayaki_06.jpg【photo】好天に恵まれた2006年(平成18)8月9日早朝。鶴岡市湯田川郊外、山谷地区の急斜面で行われた焼畑の火入れ 

 「焼畑農業」にどのようなイメージをお持ちでしょう? 未開地の非文明的な耕作法だという印象を持つ方や、環境保全型農業とは程遠い否定的な見方をされる向きが多いのではないでしょうか。これには、南米アマゾンや東南アジアの一部で横行する自然の回復サイクルを無視した無計画な伐採で熱帯雨林が失われており、伐採の主たる目的である焼畑が地球環境を破壊する元凶だとする情報が影響しているように思われます。対して、東北各地では雑草を燃やした草木の灰を肥料に地力を上げ、持続可能な循環サイクルのもとで雑穀や根菜類の栽培が古来より広く行われてきました。岩手・宮城を貫流する東北最大の川、北上川河口域には、茅葺屋根や葦簀(よしず)の材料となる国内最大級のヨシの原群落があります。収穫されないまま立ち枯れしたヨシに火を放ち、新たな芽吹きを促す野焼きが行われるのが、4月中旬。こうした「火耕」の知恵は、昭和末期までにわずかな例外を除いてほとんどが失われてゆきました。

2003.11.3fujisawa-kabu.jpg【photo】 20年前に当時60代半ばを過ぎた近所に暮らす女性から盃一杯分の種を託された後藤清子さんが、ご主人と採種を繰り返しながら大切に育ててきた藤沢カブ。2003年(平成15)11月、アル・ケッチァーノ奥田シェフの案内で初めて訪れたこの後藤さんの畑〈clicca qui 〉で勧められるままに土からもぎたてのカブにかじりつくと、すがすがしい辛みがパキッとしたみずみずしい食感と共に口腔いっぱいに広がった

 一帯を森林に覆われた鶴岡市温海(あつみ)の山あいにある一霞(ひとかすみ)地区では、400年以上前から伝統野菜「温海カブ」作りが行われています。湯田川温泉の南方、虚空蔵山を挟んで隣接する少連寺地区には、形状は温海カブ同様に丸いものの、より赤みと辛味が強い「田川カブ」、温泉街の東方に位置する藤沢地区でも地上に露出した部分が赤くなる細長い「藤沢カブ」、これら赤カブ系統ではなく、白く細長い形状の「宝谷カブ」は、同市宝谷地区にお住まいの畑山丑之助さんによって作られてきました。これらのカブに共通するのは、全て焼畑農法で作られているということ。これら以外の地区でも作付けされる温海カブ系統の品種は、焼畑ではない普通の畑で栽培されます。夏場は幾分品薄になりますが、晩秋から春先にかけて、鶴岡IC近くの「庄内観光物産館〈 Link to website 〉」では、各地の生産者が栽培した温海カブや同市大山の漬物専門店「本長」が製品化した藤沢カブの甘酢漬やたまり漬などを試食しながら選ぶことができます。私の好みは、焼畑で作られる藤沢カブや一霞産の温海カブですが、一口にカブの甘酢漬といっても造り手によって味はさまざま。どうぞお好みのカブラ漬をじっくりと選んで下さい。

yamayaki_2006-3.jpg

ojiichan_no_kabu_zukuri.jpg【photo】火の勢いを注視しながら山焼きの指揮をとる後藤勝利さんの凛々しい立ち姿。物腰が柔らかで小柄な後藤さんがいつになく大きく見えた     

(上写真)

後藤さんのお孫さん、ほのかちゃんの目を通して描かれた藤沢カブ作りが絵本化された「おじいちゃんのカブづくり」

(右写真)


 農村から都市部へ働き盛り世代の流入が続いた高度成長期、それまで各地に伝わっていた焼畑で栽培される在来種のカブの多くが、残された高齢者の手では重労働の焼畑で作ることができなくなり、多くの種が消滅してゆきました。庄内では珍しい赤く細長い系統のカブの種をただ一人作っていた近所の知人から「種を絶やさないで」と託された奥様の清子さんと共に後藤さんが作り続けてきた藤沢カブは、徐々に需要が広がり、作付けを増やしてきました。そんな後藤さんご夫妻にとって、大きな励みになったのが、昨年2月に鶴岡市出身の絵本作家 土田 義晴さんの手で、後藤さんをモデルにした絵本「おじいちゃんのカブづくり」(そうえん社刊 1260円)が出版されたことでした。現在は郷里の鶴岡を離れて東京で創作活動を行っている土田さんは、1年半に渡って後藤さんの畑に足を運んで精力的にカブ作りの模様を取材されたのだそうです。

【photo】私たちが今日この美味しいカブを食することができる恩人自らが漬け込んだ甘酢漬は、一般の流通には乗らない限定品。譲って頂いた藤沢家富(カブ)〈clicca qui 〉と、お土産にと頂いた美味しさはなんら変わらない不揃いのカブ。この藤沢家富 甘酢漬のラベルにある通り、「まぼろし」のカブにまつわる物語を知るにつけ、味わい深さもまたひとしお
fujisawakabu_2008.jpg 
 杉材が切り出された区画を選んで下草を刈り、8月の夜が明けきらぬ早朝から行われる山焼きに始まる後藤さんのカブ作り。自家採種した種を撒いてから2ヶ月弱で収穫が始まる藤沢カブが、収穫の最盛期を迎えるのは10月末から。火入れによって土壌から病害虫が駆逐されるため、肥料や農薬などの人工的な要素は一切使用せずに育つカブの収穫は、山一面が雪に覆われる頃まで続きます。昨シーズンは生育が遅れ、丈の短いカブしか収穫されず、思うように出荷できなかったご苦労を年末にご自宅で伺いました。

fujisawa_29_12_2008.jpg【photo】昨年12月29日朝に訪れた藤沢カブの畑(上写真手前)。2003年にカブを栽培した畑があったのが奥の白い山肌を見せる山。例年より積雪が少ないものの、一面を雪で覆われたそこは、静寂が支配していた。それから4ヶ月あまりを経た今年5月初旬、上記と同じ畑を再訪した(下写真)。丸5年を経過して緑の潅木が回復しつつある奥の山を見ても明らかなように、茫漠とした冬とは打って変わって生命の再生を感じさせた

fujisawa5_2009-1.jpg

 カブの焼畑栽培が行われる地域では、5月になるとアブラナ科特有の菜の花に似た花を咲かせるカブに出合えます。温海カブを焼畑で作っている一霞地区では、道沿いに黄色い花が咲き乱れています。地元の有志が3年前から始めた「蕪主制度」で再評価の機運が起こり、長らく唯一の栽培者だった畑山さん以外にも栽培を再開する生産者が出始めた宝谷カブは、棚田の畦道に花を咲かせます。いずれも比較的身近かな所で栽培されるカブです。一方、後藤さんの藤沢カブは、ほとんど人が足を踏み入れない金峰山周辺の山中で栽培されています。人里離れた山の中でひっそりと花を咲かせる藤沢カブの菜の花畑は、私が大好きな春の風景です。

primavera_fujisawa2.jpg【photo】周囲の木々のバリエーション豊かな緑色の中に黄色いじゅうたんを敷き詰めたような愛らしい藤沢カブの花。人知れず深山に咲く花々は、北国にようやく訪れた春と、やがて種を結んで命の連環を果たす喜びに満ちている

 人を容易に寄せ付けない山中ゆえ、雪が積もる季節には、かんじきを履いて山に入り、雪の下から甘みの乗ったカブを掘り出すこともあるといいます。昨年12月29日の朝、例年より積雪が少ない山に入って畑の様子を見に行きました。そこはキツネやカモシカはもちろん、クマも生息する場所です。新雪の上に点々と続く野生動物の足跡の先にある畑で、藤沢カブたちは雪の下で眠りについていました。

 そして金峰山が一斉に芽吹きの季節を迎えた5月上旬。私が初めて後藤さんのもとを訪れた2003年(平成15)にカブを作っていた区画の手前に作られた新たな畑では、藤沢カブが種をつけるために精一杯黄色い花を咲かせていました。「 誰も知らない秘密の花園...」というアイドル時代に松田聖子が放ったヒット曲はもちろん(?)、小鳥のさえずり以外は何も聞こえてきません。深山の木々は、萌黄や浅緑など多種多様な緑のパッチワークで彩られています。鬱蒼とした木々に囲まれた畑の一角だけが、黄色に輝くありさまは「金の峰」というその山の名にふさわしい光景でした。
primavera_fujiswa3.jpg

 詳細は追ってご案内しますが、この秋、収穫作業真っ只中の藤沢カブの畑を訪れる行程を組み込んだ仙台発のバスツアーを計画しています。ツアーのプロデュースは庄内の魅力を知り尽くした庄内系イタリア人。実りの季節を迎えた旬の美味の数々と癒しに満ちた庄内の魅力を一泊でたっぷりと味わって頂けますので、どうぞご期待ください。
baner_decobanner.gif

2009/06/21

散居ふたたび

「日本三大散居」@岩手県奥州市胆沢区

 歌舞伎「桜門五三桐」で京都南禅寺の三門の上に立った石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな。春の眺めは価(あたい)千金とは、小せえ小せえ。この五右衛門の目から見れば、価万両、万々両」と見得を切る名ゼリフ。そして松島の絶景を前に言葉を失った松尾芭蕉が、やっと捻り出した句「松島や ああ松島や 松島や」。これらはいずれも後世の創作で、どうやら史実とは異なるようです。

 今を遡ること320年前に記された紀行文「奥の細道」には、旅の最大の目的地であった松島訪問を果たした芭蕉の句が残されていません。満開の桜を前に雄弁な大盗賊とは対照的に、さすがの俳聖も浮島が生み出す奇観を的確に表現する言葉が見つからなかったのでしょう。isawa_sinistra.jpg【photo】焼石岳(写真奥)から奥州市胆沢区へと延びる扇状地は、水に恵まれた穀倉地帯。そこに日本三大散居のひとつに数えられる散居風景が広がっている

 この春、富山県砺波平野の浮島【Link to back number】が織り成す散居風景を前にした私も「絶景かな、絶景かな。この庄内系の目から見れば価万€(エウロ)、万々€ 」と口走り、「浮島や ああ浮島や 浮島や」と呟いたとか、呟かなかったとか...。コメ作りを営む人々が作り出した農村風景の白眉ともいえる散居。その特徴が最も顕著に見られる砺波平野を一年で最も美しいであろう時期に訪れた上は、残る日本三大散居も見ておかなくては。そのひとつ島根県出雲平野は、いかにETC装着車の休日高速料金が1000円といえども、さすがに遠いっす┐(´~`;)┌ 。京都議定書で掲げた ‐6%のCO2削減目標達成に協力するためにも、遠方への移動は差し控えることにしました。

isawa_destra.jpg【photo】見分森公園展望台から眺めた上写真の風景から東側に連続して広がる散居。屋敷の北西側を覆うように茂る居久根

 そこで5月24日(日)に訪れたのが、岩手県奥州市胆沢区の散居です。奥羽山系の焼石岳(1548m)南麓から流れる胆沢川とその支流が北上川へと注ぐ扇状地に位置する奥州市は、2006年(平成18)に 水沢市・江刺市・胆沢郡前沢町・同胆沢町・同衣川村が合併して誕生しました。そこはかつて大和朝廷に反旗を翻し、坂上田村麻呂に滅ぼされた蝦夷の英雄アテルイの本拠地であり、平安末期の平泉に黄金文化を花開かせた奥州藤原氏の勢力下にありました。廃藩置県後は岩手県に編入されましたが、戦国末期から江戸期には伊達氏が治めた地方です。

 東北自動車道を平泉前沢ICで下車、その地勢を確認するために、散居の様子が地上から確認できる展望台が整備された見分森公園展望台へと向かいます。小高い丘に造られた展望台からは、360度のパノラマが一望のもと。低い雲が垂れ込めたこの日は北に聳える岩手山と早池峰山こそ確認できませんでしたが、西側の雲の合間に残雪を頂く焼石岳と田植えを終えて間もない田んぼに囲まれた散居の様子が間近かに眺められました。砺波の散居展望台がある夢の平地区は、庄川を挟んだ山の上にあるため、散居とはいささか距離がありますが、この見分森公園展望台は散居村との距離が近く、「居久根(エグネ)」と呼ばれる屋敷林を備えた散居の様子が手に取るよう。散居を仔細に観察できる点では、胆沢の散居もなかなかですが、散居村自体の規模の大きさと屋敷林「カイニョ」を備え、ヨーロッパの町並みに相通じる統一感すら感じさせる切妻の住まい「アズマダチ」が点在する景観の美しさでは砺波に軍配が上がるでしょうか。
isawa_igune.jpg


【photo】
大きな杉木立と軒先程度の背丈の竹垣(写真右側)、青々とした生垣(写真左側)、が組み合わされた居久根。その一部(真ん中部分)が木妻になっている胆沢における典型的な散居

 鳥の目線で散居風景をしばし堪能した後、地域内を車で回ってみました。冬の季節風を遮るため、胆沢の散居は北西側を杉木立の居久根で囲まれています。数が少ないため探すのに苦労しましたが、居久根の一角を丸太や流木などを縦横交互に積み上げて、本来は稲藁や麦藁の屋根を葺いて(最近はトタンで代用されるケースがほとんど)、塀状にする胆沢地域特有の木妻(キヅマ)が残る家もわずかながら認められました。木妻はかつて焚き木用の薪として、風除けとして、さらには塀の代わりとして大切にされたのだといいます。岩手県内屈指の穀倉地帯ならではの伝統的な散居様式の住まいが点在する一方で、残念ながら没個性な今風の住宅や店舗が徐々に散居の景観を侵食している印象は拭えませんでした。
isawa_kizuma.jpg【photo】 昼食に訪れた農家レストラン「まだ来(き)すた」には、長さ10mはあろうかという「木妻」が組まれていた。薪を背丈ほどの高さまで縦横交互に積み重ねてトタン葺きの屋根をのせたそれは、立派な塀の役割を果たす

 世界文化遺産に指定されて以降、テーマパークと見まごうばかりに観光地化が進む白川郷はいささか興醒めにしても、先月訪れた世界文化遺産、五箇山に残る合掌造りの家々は、養蚕が盛んであった雪深い山あいの暮らしから生まれたものです。その幾つかが本来の用途を離れて資料館や土産物店・民宿などの観光資源として命脈を保っていたとしても、屋根の葺き替えなどの保守管理に大変な労力を要する歴史的な町並みが今も保たれていること自体は、とても尊いことです。水が豊かな扇状地ゆえに発達した胆沢の散居は、コメ作りを続けてきた先人の知恵と工夫の結晶でもあります。そんなかけがえの無い散居を末永く守り伝えてほしいものですね。

 散策の合間に立ち寄ったのは、散居村からほど近い旬の地の物を食べさせてくれる一軒の農家レストランでした。そのレポートは次回「初めてだけど まだ来すた」【Link to next issue】」にて。

baner_decobanner.gif

2009/03/15

手前味噌なハナシ

手作り味噌仕込み@我が家

 「手前味噌」・・・自分のことを誇ること。自慢。(出典「広辞苑」)

 あまり褒められたものではない意味合いで使われる手前味噌ですが、今回は、先月仕込みを行った我が家の定番「手前味噌」作りについて、あくまで謙虚にどこまでも低姿勢でレポートします。

kamehyou70s.jpg【photo】 1970年代初めごろの亀兵商店。煙突の右側の黒い屋根の建物が私の遊び場でもあった仕込み蔵。現在はビルが建つ広瀬通に面した敷地の裏手に当時の建物が一部残っており、今なお伝統の味噌・醤油造りを行っている
(写真提供:亀兵商店)

 
 仙台城のお膝元にある立町小学校に通っていた私の同級生に、1861年(文久元年)に創業した味噌・醤油醸造元「亀兵商店」【Link to Website】の6代目跡取り息子K 君がおりました。現在も暖簾を守り、専務取締役として味噌・醤油造りに取り組む彼の実家は、今でこそ表通りに面した部分がビルになっているものの、当時は木造の仕込み蔵があり、時々そこへ遊びに行っていました。kamehyou09s.jpg人間の五感の中で、最も記憶に深く刻まれるのは香りだといいます。蔵の中には大きな木桶やタンクがいくつもあり、仕込み中の味噌と麹、香ばしいもろみの香りが色濃く立ち込めていたのを鮮明に記憶しています。

【photo】現在も続く亀兵商店の味噌造り。スチーム暖房で室温30度ほどに設定された熟成庫で、FRP樹脂製の熟成箱で眠る味噌の上下を入れ替え、呼吸を促す「返し」の作業。仙台の市街地中心部にあるこの蔵でこうして4ヶ月近くを経たものが製品として出荷される

 藩政時代より、仙台の特産品として知られるのが仙台味噌。大友 克弘と共に宮城県登米市迫町出身である偉大な漫画家、石ノ森 章太郎原作の仮面ライダーでライダー1号を演じた「藤岡 弘、」同様、名前に句読点が入る数少ないタレント「ウィリーささき。」氏(プロフィールはコチラ)によって、「ミソ・ミソ・みそ汁」なる歌が作られるほど、地元では馴染みのある食品です。この歌、イントロとサビ部分の「♪ミソ・ミソ・仙台味噌・・・」の「味」と「噌」は、ちゃんと「♪ミ」と「♪ソ」で始まるのがミソ(笑)。「石ノ森漫画館」がある石巻出身のウィリー氏は、他にも「仙台牛たん音頭」も手掛けており、次作に登場する仙台名物は「笹かまぼこ」なのか「ずんだ餅」なのか、目が離せません。
Let's sing 「ミソ・ミソ・みそ汁」!
                  

 仙台味噌は、仙台藩祖伊達 政宗が、貯蔵の利く味噌を兵糧として重視し、仙台城内に「御塩噌蔵(おえんそぐら)」という味噌蔵を作らせたのが始まりとされています。開府400年以上を経た今も、お膝元の仙台市内と県内各地には、味噌造りを行う店が数多くあります(参考:宮城県味噌醤油工業協同組合【Link to Website】)。政宗公が生誕地の山形県米沢から仙台に居城を移す前の12年間統治し、後に嫡子である伊達 宗泰が領主となった宮城県北の岩出山にも、数軒の麹屋と味噌屋があります。食に関する造詣が深かった政宗が、その地に残した遺産のひとつ、岩出山納豆や凍み豆腐と共に、滋味深い味噌文化醸成の基礎を作った政宗公は、発酵食品にゆかりの深い武将だったようです。

ginjyou_konnno.jpg 【photo】イタリア人がオリーブオイルの味にこだわり、マンマが手作りするトマトソースの味を忘れないのと同様、ニッポン人なら、本物の醤油の味を忘れちゃイケマセン。まろやかな旨みに溢れた今野醸造の「吟醸」は、食材王国宮城が誇るべき逸品。化学調味料入りのだしの素や味噌は確かに便利かもしれませんが、味覚の形成途中にある子どもたちにこそ、醤油や味噌本来の味と、煮干しや昆布からとった出汁だけが持つ「旨み」をきちんと伝えたいもの

 倹約と謙虚さの大切さを説いている伊達 政宗の遺訓には、朝夕の食事が美味しくなくとも、褒めて食べるべし。人間は元来、この世の客の身ゆえ、好き嫌いは言わざること。とのくだりがあります。天下泰平の世になってからは、食通としても知られた政宗は、客人をもてなすには、料理が最も重要だと考えていました。政宗の含蓄ある名言を収集した命期集(めいごしゅう)には、旬の食材を自ら料理して振舞うべし、との言葉が残されています。我が家ではここ数年、伊達者ならば、味噌ぐらいは自ら仕込むべしと、自宅で使う味噌は自家製の手前味噌を使っています。その仕込み用の大豆と麹は、旧伊達藩・宮城県加美郡加美町の「今野醸造【Link to Website】」から調達しています。

taue_konnojyouzou.jpg【photo】 船形山の雪どけ水もぬるむ春。原料第一主義を貫く今野醸造が、味噌と醤油造りに欠かせない麹の原料となるコメ、ひとめぼれを自家栽培する田植え風景。今野さんの畑と水田で収穫される農産物は、県の農薬・化学肥料節減栽培認証を得ている


 明治期に創業した今野醸造が、醤油本来の味を作り出そうと1996年(平成8)から造り始めた濃口本醸造醤油「吟醸」は、ここ8年ほど我が家の定番調味料として活躍してくれています。「親戚が原料からこだわって造っているから」という知人の薦めで使い始めたその醤油は、やがて全国醤油品評会で濃口醤油部門の最高賞である農林水産大臣賞を受賞します。1ℓ入りが504円と、決して高価な醤油ではない吟醸。農業生産法人でもある同社は、自家製の原材料で製品を造っています。つい先日、国が "安全性に問題はない" との問題ある見解を発表した「遺伝子組み換えではない」ことぐらいしか明記されないアメリカやブラジル・中国・カナダ産などの輸入大豆。特定の除草剤(⇒製造元が遺伝子組み換えを行う米国資本の某多国籍企業であるという事実!)に対する耐性を高めるよう遺伝子操作を行った大豆の用途の大半は製油用などの加工用で、日本人が消費する大豆の国内自給率はわずか4%に過ぎません。外国産と比較して生産コストが10倍ともいわれる国産の食用大豆は、自給率が18%前後と幾分持ち直すものの、いずれにせよ調達が困難な状況です。納得のゆく原料を調達するbaodo_konnojyouzou.jpgには、高い品質の原料を自家栽培するしかないと、今野醸造の今野 昭夫(てるお)社長は大豆と麹の原料米を自らの手で減農薬有機栽培しています。味噌・醤油の醸造元自身が主原料の大豆やコメを共に栽培している例は、私が知る限りでは新潟や宮崎にある程度で、今野醸造の取り組みは得がたい希少なものです。


【photo】 今野醸造が所有する広大な大豆畑。トラクターで土を大豆茎の根本に寄せて成長を促すと共に、畝の間に生えてくる雑草を機械的に取り除く「培土」の作業が続く。夏場は人手のかかる草取り作業に追われるが、それも「あなたのために」という食べる人の健康を願ってゆえ

 今野さんが育てるコメは主力が「ひとめぼれ」と「まなむすめ」。大豆は「タンレイ」という品種です。吟醸の原料に使う大豆と小麦に種麹を加えた麹と、2年の歳月をかけて自然乾燥で作る天日塩の塩水からなるもろみは、一般的な製造法より塩水の割合を減らしているのだそう。原料から見直して丹念に仕込んだ吟醸は、3年連続で農水大臣賞を受賞するという過去に前例のない快挙を成し遂げました。毎年4本(濃口3・薄口1)が選出される同賞の濃口部門には、昨年181品が出品され、石巻の高砂長寿味噌本舗の「長寿醤油」も最高賞の栄冠に輝いています。日本食の味付けのベースとなる宮城の醤油が、こうして品質の高さが全国から認められ、頂点を極めたことを、かつて天下制覇を夢見た政宗公もさぞ喜んでいることでしょう。

tanrei_konnojyouzou.jpgkouji_konnojyouzou.jpg【photo】 《左写真》 今年の手前味噌の原材料。水洗いした大豆タンレイ(右)と一晩水に浸けて肥大化したタンレイ(左) / 《右写真》 種麹2種。今野醸造が自家栽培したひとめぼれから作る米麹(右)と静岡の麹屋から調達した麦麹(左)

 今野醸造から斡旋して頂いた手前味噌の原材料は、同社製の無添加味噌「あなたのために」でも使用する大豆品種タンレイと、ひとめぼれに酵母「まろい」を自家培養した種麹です。微生物の発酵作用によって仕上げる味噌の仕込には、雑菌が繁殖しにくい季節が適しています。よって正月明けから2月にかけての味噌の寒仕込みが我が家の恒例行事となっています。ただし風邪気味の場合は仕込みを控えましょう。麹菌が風邪のウイルスに感染してはいけませんので。仕込みに使う塩は、工業的に生産された鋭角的な塩味のものではなく、まろやかな自然塩がお勧め。今年の手前味噌には、新潟県村上市山北(さんぽく)地域の名勝天然記念物に指定される「笹川流れ」の日本海の澄み切った海水を汲み上げて薪火で煮詰める伝統製法で作る「笹川流れ塩工房」製の「海の磯塩」を使いました。

【手前味噌の製法は以下の通り】

◆分量: 大豆 1.2kg  米麹 1.2kg  塩 550g
◆用意するもの: 肉挽用機器(無い場合はフードプロセッサーや摺り鉢でも可)
            熟成用の容器(陶器製の甕や蓋付きのタッパーウエアなど)

◆作り方 (▼写真は製法が同じ「麦味噌」の仕込み)
1:大豆を一晩水に浸ける。
2:指先で潰れるくらいの柔らかさになるまで大豆を水煮する。煮汁を少量とっておく。
3:麹を揉みほぐし、塩とあわせる。
4:煮豆をザルに上げ、暖かいうちに挽肉機器などですり潰す。【photo1】 【photo2】
5:塩と合わせた麹と、挽いた大豆をよく混ぜる【photo】。その際、煮汁を1~2カップ加えて混ぜる
【photo】

6:手ですくったソフトボール大の塊【photo】を空気が抜けるように容器の底に叩き付けてゆく  
  【photo】。空気が入らないよう上にラップをして、カビ防止のため別途用意した塩2kg(一般的
  な食塩で可。ビニール袋に入れる)で塩蓋をして、冷暗所に置く。(我が家ではあまり実施しないが)
  夏場に熟成中の味噌の天地をかき混ぜて入れ替える「返し」を行うこともある。
7:およそ8ヵ月後には、美味しい味噌の出来上がり。 

2er_temae_miso.jpg【photo】熟成を経た2年目の手前味噌。黒ずんだ表面をかき混ぜると、内側はきれいな味噌色に仕上がっており、心地良い香りが漂う

 祝日の2月11日に仕込みを行い、ワインセラーが設置してある北東向きの部屋で只今発酵中の手前味噌。今年の10月頃には馥郁たる香りを放つ味噌となることでしょう。2年前からは、国産丸麦を使った麦麹1kgを静岡の麹屋から入手して、麦味噌造りも行っています。現在我が家の調理用に使っているのは、3年前に仕込んだ味噌がメイン。こちらは八丁味噌のような黒味の加わった色合いに変化しています。仕込みたては煮豆色だった味噌生地が赤みがかる頃には、香りの深みが増して、味わいに一段とまろやかさが加わります。気温によって発酵速度が変わってきますが、半年も経てば、自家製味噌として美味しく頂くことができます。年によって微妙に仕上がりが違うのも、かえって楽しいものです。3er_temae_miso.jpg味噌造りというと、大げさに聞こえるかもしれませんが、意外と簡単ですよね。我が家の味を大切にしたいとお考えの皆さん、手前味噌造りに挑戦してみてはいかがでしょう。

【photo】黒光りする3年目の手前味噌。さ、あなたも作ってミソ。...(゚・゚*)

baner_decobanner.gif

2008/09/06

瓢箪(ひょうたん)から沖田ナス

置賜の沖田さんのナスは庄内・沖田で沖田ナスとなった

 何故かナスに関する"あるもん探し"が多かった今年の夏。民田ナス萬吉ナスと続いた庄内在来丸ナス3部作(?)の最後は「沖田(おきた)ナス」の登場です。紛らわしいタイトルを付けてしまいましたが、瓢箪からナスが生る奇跡の突然変異がおきたナスの話ではありません(笑)。ややこしい副題の意味は、やがてお解かりいただけますので、しばしお付き合いのほど。

chikeiken_natsu_asa.jpg【photo】フウセンカズラが夏の陽射しを和らげる。喧騒と隔絶された「知憩軒」の朝

 イタリア人と結婚したペルージャで暮らす友人のお祝い食事会が催され、鶴岡市西荒屋の農家民宿兼レストラン知憩軒で一泊した翌7月21日。海の日にふさわしいギラギラとした真夏の太陽が顔を出し、早々に目が覚めました。柔らかな肌触りで全身を優しく包み込んでくれる名湯で朝風呂を浴びようと、朝一番で湯田川温泉に向かいました。いつにない早朝に訪問した馴染みの庄イタに、いつもの柔和な笑顔で「ウチで朝ごはんを食べていったら」と声を掛けて下さったのは、旅館「ますや」の大女将・忠鉢泰子さん。

 なれど知憩軒では朝食の準備ができているはず。せっかくの女将のご好意でしたが、後ろ髪を引かれながら、ますやを辞去したのでした。そうして頂いたのが、知憩軒の朝採り野菜中心の朝ごはん。それは、あわただしい日々を送る中で蓄積する体内毒素をさらりと洗い流してくれます。フウセンカズラが這う窓からは、風鈴の音と共にすがすがしい朝の新鮮な風がすだれ越しに入ってきます。いつも"足るを知るとはかくありなん"と教えてくれる朝食。

chikeiken_asagohan.jpg 大女将の長南光(みつ)さんと話をしていると、いつしか心まで満たされてゆきます。まだ8時過ぎだというのに、蝉たちはフォルテシモで鳴いています。ふぅー、今日も暑くなりそうだ。モバイルでチェックしたその日の仙台の天気は、最高気温22℃の曇り。どんよりと薄ら寒い仙台に急いで帰る気など毛頭ありませんでした。

【photo】 自家製の梅干、ばんけ(フキノトウ)味噌、青紫蘇の味噌汁...。ほとんどが自家製の素材を使った知憩軒の朝食。薄味の出汁加減が上品なナスの煮浸し、生姜醤油の風味が心地よいサヤインゲンのおひたし、月山筍とシイタケ・厚揚げの煮物、丸ナスとキュウリの浅漬、コシヒカリのおにぎりを鮮やかな手つきで握るのは娘のみゆきさん。「うちでは伝統的な庄内の田舎料理を出しているだけ」と謙遜する長南さんだが、洗練された味付けはいずれもハイレベル(上写真)

okita_keiko.jpg【photo】鶴岡市羽黒町狩谷野目の今野恵子さんが有機無農薬で栽培する「沖田ナス」。ご子息が沖田地区の知り合いから譲られた沖田ナスの苗を自家採種しているので、沖田ナスを名乗ることができる。ほかにも先に取り上げた「民田ナス」や「萬吉ナス」、置賜地方がルーツの「薄皮丸小ナス」「梵天丸ナス」など個性派揃い


 真夏の庄内グリーンツーリズムを満喫し、かつて一緒にイタリアに行った三浦琢也さんが鶴岡市馬場町で営むナポリピッツアの店「Gozaya」でマルゲリータを注文しました。香ばしい薪の香りが漂うカウンターでアツアツの一枚を平らげ、エスプレッソを引っ掛けてから、そろそろ引き上げようかと店を出たのが13時30分過ぎ。山形自動車道・庄内あさひICの手前で高速の道路状況を確認するためにカーナビのVICS画面に目をやりました。そこには「沖田」という地名が表示されています。詳細に地名表示をするようにカーナビの設定を変えるまでは、気付かずにいましたが、そこはいつも通りかかる場所でした。

 庄内の深遠なる魅力に開眼した2003年(平成15)、沖田ナスという丸ナスの存在を初めて知ったのは、鶴岡市羽黒町の産直「あねちゃの店」でのこと。「沖田ナスは朝日村で採れるナスなのよ」と、佐藤典子店長から聞いていたので、「ここが沖田ナスの産地だな」と、ピンときました。仙台へ直行しようとしていた予定は急遽変更、少し集落の中を歩いてみました。そこの地名は鶴岡市東岩本字沖田。畑でそれらしき少しひしゃげた巾着状の丸ナスを栽培しているokita1.jpgお宅を見かけたので、畑の持ち主と思しきお宅を訪ねましたが、残念ながら留守の様子。隣のお宅のご主人に伺うと、「すぐ近くに沖田ナスの生みの親の小野寺さんが住んでいるから訪ねてみたら」と教えてくれました。

【photo】 同じ丸ナスでも、沖田ナスは民田ナスよりも幾分丈が大きい。8月の最盛期には、うっかり見逃すと一晩で巨大化してしまう(右写真)

onodera_masakazu.jpg【photo】引きの強さが奏功し、庄内地方に沖田ナスを広めた小野寺政和さんとご対面(左写真)

 目指す目印は、小野寺さんが沖田ナスを初めて育てた手掛けたというビニールハウス。それと思しきハウスすぐに見つかりましたが、中を覗くと肥料袋に仮植えした普通の形状をしたナスの苗が10本ほど。「ん?ここでいいのかな」と半信半疑のまま、隣接する小野寺姓のお宅を訪ねると、荷台に農業用水タンクを載せた軽トラックが停まっています。敷地の奥からちょうど出てきた丸顔の男性は、なんとも沖田ナスにウリふたつ(まったくもって失礼ながら、そう思ってしまったのデス...m(。_。;))m)。  

「あの~ぅ、小野寺 太(ふとし)さんのお宅はこちらでしょうか?」
  軽トラに乗り込もうとする丸顔の男性に尋ねました。
「おぉ、そうだよ。今、太は留守にしているけどね」
 よく日焼けしたその方は、先ほどの隣家のご主人に教えて頂いた太さんのお父様、政和さんなのでした。
「突然で申し訳ありませんが、沖田ナスについてちょっと調べておりまして...」

onodera_mitsuko.jpg かくなる上は、名刺を差し出して氏素性を明かした上で、これ幸いと突撃インタビューの開始です。

「今から畑に行ってナスの水やりに行くんだ」と応じた政和さん。

 小野寺さんは一旦仕事の手を休めて陽射しを避けるように私を軒下へといざないます。時計を見るとちょうど14時。まだ日盛りの太陽がジリジリと照りつけています。小野寺さんは私と並んで長椅子に腰掛けながら、家の奥に「おーい浅漬け持ってきてー」と声を掛けました。ほどなく奥様のみつ子さんが、沖田ナスの浅漬のパッケージとガラス小鉢を手に登場しました。

okita_onodera.jpg【photo】小野寺みつ子さん(右写真)の手になる沖田ナスの浅漬け(左写真)。よく冷えたコロンとした小ナスを頬張ると、うまいんだ、これが。
 
 「ウチで漬けたんだけど、無添加だから食べてみて」と、小野寺さんは封を開けて小鉢に盛ったナスを勧めます。みずみずしい蒼さのナス漬けは、いかにも美味しそう。かくなる上は遠慮無用。一粒つまんでパクリ!! 口いっぱいに、すがすがしい夏の香りとほのかな塩味が広がります。

 いつも感じることですが、私がお会いする庄内の方たちには、敷居が低い独特の懐の深さと優しさがあります。突然訪ねてきた見ず知らずの私を、こうして受け入れてくれるのですから。よく冷えた浅漬けをもう一粒頂き、(「美味しいですね」を意味する庄内弁)「んめのぉー」と口走る私に、小野寺さんは沖田ナスの由来を語り始めました。
「このナスと出合ったのは、かれこれ30年ほど前のことかなぁ・・・」

kubota_nasu.jpg 昭和40年代末に小野寺さんが世話になっていた農業改良普及員【注】が、出身地の山形県置賜(おきたま)地方に伝わる食味が優れているという2種類のナスの種を「育ててみたら」と持ってきました。ひとつは「窪田ナス」。米沢市の北東部、最上川左岸の窪田地区を中心に上杉藩政時代に家老職を務めた重臣の色部一族によって栽培が奨励されてきた丸ナスです。もうひとつが「沖田ナス」。南陽市宮内地区の沖田与太郎(おきたよたろう)が、およそ50年前に新潟から訪れた行商人から仕入れた長岡の在来ナス「巾着ナス」の系統とも、窪田ナスから外皮が柔らかい個体を選抜したともいわれる丸ナスです。

【photo】偶然通りかかった米沢市窪田町家中地区の畑でやっと見つけた窪田ナス

 周囲の勧めから自分の名前を付けて銘々した沖田ナスとしては今ひとつ普及せず、特徴をストレートに描写した「薄皮丸小ナス」と改名したところ、人気が出ていったという経緯をもつ沖田ナス(=薄皮丸小ナス)。その経緯については、沖田 与太郎と交流があった米沢市窪田町家中(かちゅう)地区で今も窪田ナスを守り伝える生産者、石山 忠美さんにも詳しく教えて頂きました。置賜地方産の丸ナスのルーツとされる窪田ナスについては、機会を改めてレポートします。

【photo】7月から10月まで毎日収穫が続くという小野寺さんの沖田ナス畑で

 旧朝日村沖田集落で生まれ育った小野寺さんは、勧められた二つのナスのうち、どうせ育てるなら、たまたま郷里の地名「沖田」の名前がかつて付いていたナスを育てようと考えたのです。もらい受けた種を徐々に増やしていった最初の10年近くは、ほぼ自家消費のみ。小野寺さんはこの品種を選抜してゆく過程で、沖田集落の生産者の手で大切に育てていったのだそう。その若干寸詰まりの巾着袋のような形状の丸ナスは、皮が柔らかく浅漬けにぴったりで、歯が弱ったお年寄りでも美味しく食べられると評判を呼んでゆきます。2004年(平成16)にR112号沿いの旧朝日村下名川地区に開店した「産直あさひ・グー」では、春は山菜、秋はキノコやトチ餅など豊かな山の恵みを扱いますが、夏から初秋にかけては沖田地区の畑で採れた沖田ナスがふんだんに店頭に並びます。

 畑の様子を見に行くという小野寺さんの軽トラックで案内されたのは、古道六十里越街道の十王峠の分水嶺から流れ出る月山水系の岩本川の豊富な水を引いた畑でした。おおよそ7月から10月上旬まで毎日収穫が続くという沖田ナスには、毎朝の水遣りが欠かせません。そこには塩ビパイプとホースを使った自作の潅漑(かんがい)施設がありました。典型的なナスの害虫であるアブラムシやアザミウマのほか、土の中にいるコガネムシの幼虫が実に付くそうで、畑には足繁く通わなくてはなりません。

okita_mizu.jpg ご自身は塩漬した翌日の新鮮な浅漬けが好きだと語る小野寺さんの奥様、みつ子さんが漬けた沖田ナスは、鶴岡市内に多店舗展開するスーパー「主婦の店」およそ十店舗にご子息の太さんが直接届けて回ります。180g入り一袋268円の浅漬けは、売り切れ続出のため、10月まで出荷は毎日続きます。私が伺った時はご不在だった太さんも父の跡を継いで専業農家として頑張っているのだそう。

【photo】沖田ナス畑の下には月山水系岩本川の農業用水。良質の水とメリハリのきいた四季が稀に見る多彩な作物をもたらす

 米沢に転封となった越後の上杉氏が、会津経由で米沢に持ち込んだ窪田ナス。その変異種かもしれない外皮の柔らかなナスを広めようとした沖田さんは、沖田ナスと名付けるも地元の置賜(⇒「おきたま」 おっと、ここにも語呂合わせが・・・)地方では別の名・薄皮丸小ナスで一般化。たまたま沖田つながりで沖田地区から沖田ナスを庄内地方に広めた小野寺 政和さん。そのご本人に私は期せずして巡り会うことが出来ました。在来作物に詳しい山形大学農学部の江頭 宏昌准教授によれば、沖田ナスは、もはや庄内の在来野菜と呼んで何ら問題がない品種なのだそうです。沖田ナスが歩んだ歴史同様、瓢箪から駒、いえ"瓢箪からナス"な展開となった今回の突撃取材には後日談があります。

okita-nasu2014.jpg【photo】コロンとした形状の沖田ナス。ナス特有のエグさがない食味の良さが身上

 とびきり海の水が綺麗な新潟山北町の「笹川流れ」と越後村上を訪れた8月12日。米沢を経由して県道101号線「米沢浅川高畠線」を通って高畠町に抜ける仙台への帰路、奥羽本線 置賜駅の手前で「窪田」の地名標識を発見しました。「おおっ、ここは窪田ナスの産地に違いない!」と、車を左折。そんなデジャヴな展開の末、最上川に架かる置賜橋を渡って立ち寄ったところは、まさしく窪田ナスが生まれた米沢市窪田町家中地区でした。

 つい先日、家中地区のとある農家で1969年(昭和44)3月11日付の新聞に包まれた窪田ナスの種が見つかりました。その種を入手した石山さんは、現在伝わる窪田ナスと比較するため、その種の発芽試験を山大農学部の江頭准教授に依頼したのだそう。江頭先生によれば、作物の種が発芽するのは、通常は冷蔵状態で保存しても10年が限度。そのため、この種の発芽は、最後の手段ともいうべき試験管内での胚培養技術を用いて試みるのだそうです。

 さて、40年もの時間(とき)を経たその種は、果たして現代のバイテク技術をもってして芽吹くのでしょうか? また、いかなる実を結ぶのでしょうか? いずれにせよ沖田ナスのルーツ探しに端を発した"あるもん探しの旅"は、まだ続きそうです。


【注】 戦後の食糧難を打開すべく、食糧増産と農業支援を目的に1948年(昭和23)に施行された「農業改良助長法」によって設立された「農業改良普及所(後に「センター」と改称)」所属の地方公務員。各都道府県には同普及所を設立・運営する義務があり〈必置義務は2004年(平成16)に撤廃〉、栽培技術指導や新品種の紹介などの営農支援を行った。

baner_decobanner.gif

2008/07/27

スピンオフな民田ナスのパスタ

Spagetti alla ragù bolognese melanzane Minden
@al.chè-cciano

 在来野菜「民田ナス」の食べ方は漬物ばかりではありません。

 ナスは組成の9割以上が水分で食物繊維が豊富。糖質がほとんどですが、「茄子紺」と表現される外皮にはアントシアニンが含まれており、抗酸化効果がある野菜でもあります。ナスは体を冷やすとされ、暑い夏を乗り切るにはぴったりの野菜でもあります。
caponata.jpg

【Photo】 野菜たっぷりな南イタリア発祥の料理「カポナータ」は、Autostrada アウトストラーダにあるオアシス、Autogrill アウトグリルなど作り置きの軽い食事をとれる店やRosticceria ロスティッチェリア(=惣菜屋)の定番メニュー

 ナスは油との相性が良い野菜です。オリーブオイルでさっと素揚げし、炒めたパプリカや玉ネギ、セロリ、トマト、ズッキーニなどの夏野菜と合わせて軽く煮込んだ「Caponata カポナータ」は南イタリアを中心に夏の食卓に欠かせない料理です。西リヴィエラのフランス国境を越えてプロヴァンスに入ると「Ratatouille ラタトゥイユ」と名前が変わり、これまたポピュラーな料理となります。イタリアでは年産376,000トンあまりのMelanzana メランツァーナ(ナスの伊語)が生産されており、日本の395,000トンに次いで世界6位のナス食い民族でもあるのです。

 さて、皮が硬めでナス特有のアクがある実が詰まった民田ナスは、私も大好きなカポナータ向きのナスとはいえません。かといって和風の漬物ばかりじゃ・・・と仰る向きに、自宅でもコピー可能な民田ナスを使ったプロのイタリア料理をひとつご紹介しておきます。それが今年の7月上旬に鶴岡の「al.chè-cciano」で土田学料理長が出してくれた「Spagetti alla ragù bolognese melanzane Minden(≒民田ナスのラグーソーススパゲッティ)」です。

 2004年(平成16)、アル・ケッチァーノの奥田シェフが、当時まだ黒板メニューにオンリストしておらず、ぜひ攻略したい庄内産伝統作物として挙げていたのが民田ナスでした。その後、「笑貝と民田ナスのエゲシスープ」や「羽黒仔羊の腎臓と民田ナスのぺペロンチーノ」などのスペチャリテが誕生し、特徴的な民田ナスのエグミを活かした料理を店で実験台として(笑)味わってきました。庄内浜のムール貝こと「笑貝」は別にしても、トウモロコシのヒゲのような海藻の「エゲシ」や「花沢ファーム産の羊の内臓」などは、なかなか入手が難しい食材でもあります。いざ自宅で挑戦しようにも限界があろうというもの。

 昨年7月に al.chè-cciano の隣にオープンしたカフェ「il.chè-cciano イル・ケッチァーノ」で先月からランチタイムに出すようになったシンプルなパスタ料理と夜のお任せコースを奥田シェフが担当し、土田料理長がアル・ケッチァーノのほとんどを任されるようになった今、それぞれのメニューに変化が生まれています。夕方までに仙台に戻らなくてはならなかったある日、「民田ナスを使った料理を」という私の唐突なリクエストに応えて土田さんが用意してくれた初見参のパスタは、山伏豚をミンチにして、唐辛子を加えた深みとコクのあるラグーソースのスパゲッティでした。鶴岡市渡前の井上農場産樹熟トマトと赤ワイン風味のしっかりとしたラグーのピリッとした辛味が、軽く塩をしてさっとソテーした今野 惠子さんの畑から土田さんが朝に採ってくるオーガニックな民田ナスとうまくマッチしています。

ragubolognesemelanzaneminden.jpg
 【Photo】 民田ナスのラグーソーススパゲッティ @al.chè-cciano 2008年7月

 ゴロンとしたしっかりした食感が特徴的な民田ナスの存在を主張しますが、口の中では重過ぎないラグーのコクと唐辛子の辛味が太めのパスタと絡んでゆきます。そうそう、この一体感。山伏の里・羽黒で実を結んだ鶴岡の在来野菜が、山伏豚のラグーとあいまって見事なイタリアンにメタモルフォーゼしていました。こうした独自の世界観こそ、アル・ケッチァーノの真骨頂ともいうべきもの。とはいえ、これならもぎたての民田ナスを手に入れたどなたでもコピーが可能なパスタ料理に挑戦できそうです。私のように山伏豚を鶴岡市みどり町の「クックミートマルヤマ」に買いに行かない方は、豚と牛の合い挽き肉を使ったしっかりしたラグーソースをご用意ください。ポイントは唐辛子の辛味が民田ナスのエグミとうまくマッチすること。ラグーソースに使った Vino rosso をグラスに注げば、一層パスタが引き立つことでしょう。

それでは、Buon appetito!!  

baner_decobanner.gif

2008/07/26

めづらしや山をいで羽の初茄子

松尾 芭蕉も愛でた丸小ナス「民田ナス」

 今からちょうど319年前の今日、1689年(元禄2)7月26日(陰暦6月10日)、奥の細道を訪ねる旅の途中で、松尾 芭蕉は出羽三山を詣でた後に鶴岡を訪れました。そこで芭蕉は城下の山王町、現在も長山小路と呼ばれる細い路地の一角に居を構えていた庄内藩士 長山 重行の屋敷に招かれます。俳句を嗜む重行は、江戸勤めをしていた折に深川に暮らす芭蕉と交友がありました。同行した曾良ら芭蕉の門人が集ってその夜催された句会で芭蕉が詠んだのがこの一句です。

 めづらしや山をいで羽の初茄子

【Photo】 芭蕉が滞在した長山重行邸跡(鶴岡市山王町)
《備考》 蛇足ながら現在そこにはなぜか「バナナハウス」という名のアパートが建っている。
せめて「ナスビハウス」にしてほしかった・・・?(笑)

mindenynagayama.jpg この句に登場する「初茄子(はつなすび)」が今回のお題、「民田(みんでん)ナス」です。山頂まで登った月山をはじめとする酷暑の中の山歩きよる疲れで、鶴岡滞在中の3日間は体調が優れなかったという芭蕉。俳聖をもてなす食膳に粥とと共に供された民田ナスは、旬真っ盛りならではの軽く塩で漬けた浅漬けだったに違いありません。初めて目にする民田ナスの小ぶりでコロンとした丸い形状と、パキッとした歯ごたえが、よほど芭蕉の心をとらえたのでしょう。在来作物の宝庫・庄内地方産の伝統野菜でも、だだちゃ豆と並んで有名なのが、この可愛らしい丸ナスかもしれません。

 昨年出版された「どこかの畑の片すみで」(山形在来作物研究会編)によれば、1908年(明治41)、東京で開催された蔬菜(そさい=「野菜」の意)展覧会に出品された民田ナスが表彰を受けたことで、全国の研究者から注目され、大正・昭和と多くの園芸書に登場したことで広く名が知られるようになったのだといいます。藤沢 周平の原作では「茄子」とだけ記され名前が登場しないものの、黒土 三男監督の映画「蝉しぐれ」では、緒方 拳が演じた牧助左衛門が組屋敷の菜園で育てていた丸小ナスは民田ナスの設定でした。2005年の封切りに先立って前年の9月に訪れた同市羽黒町松ヶ岡のオープンセットの庭に植えてあったのも、民田ナスのように見受けました。【注】
mindenvista.jpg

【Photo】 民田地区の外れにある畑の2畝(うね)で栽培されていた民田ナス越に望む金峰山

 鶴岡を流れる赤川の分流「青龍寺川」と「内川」に挟まれた地区が「民田」です。鶴岡南バイパスから水田が広がる民田地区の平坦な地勢を車窓越しに眺めることができます。この一帯は、かつては暴れ川だった赤川の左岸にあたるため、砂利が多い土壌で、地下水が地中の浅い位置にあるのだといいます。隣接する「外内島(とのじま)」や「小真木(こまぎ)」を中心に鶴岡周辺で今も栽培が行われる民田ナスの由来は定かではありません。一説では「茄子太夫」なる神職が伝えたものとも、京都から流れてきた宮大工がこの地に種を持ち込んだものともいわれます。民田地区から青龍寺川を渡った目と鼻の先の西側には、古来より山岳信仰の山として知られる「金峰山(きんぼうさん)」の参道へと続いています。

 京都の伝統野菜では、大柄な丸ナス「賀茂ナス」が有名ですが、ヘタとの境界の実が白くなる小ぶりな形状や硬い外皮と締まった果肉などの特徴を備えている「椀(も)ぎナス」は、民田ナスとの類似性が認められます。ひょとすると、慶応年間から明治初期にかけて京都聖護院で選抜された「椀ぎナス」の原種が、民田ナスのルーツなのかもしれませんが、DNA鑑定でもしない限り、今となっては知る由もありません。
mindennasi.jpg

【Photo】 さまざまな大きさで並んだ民田ナス。鶴岡市羽黒町狩谷野目の今野 惠子さんが害虫忌避剤として唐辛子の希釈液を撒くなど、手間のかかる有機無農薬栽培で育てたもの。ここで一句「ありがたや羽黒いで羽の丸茄子」・・・お粗末。「あねちゃの店」で取り扱う

 民田ナスの特徴である硬い外皮と締まった肉質を愛でるには、もぎたてを浅漬けで頂くのが一番。漬物に向くのは、せいぜい長さ3~4センチ、重さ15グラム程度の小さなものです。まだ小さいからといって、未熟なわけではありません。夏の庄内特有の強い日差しを浴びて育つ民田ナスは、わずか1日収穫時期を逃すだけで、ひとまわりもふたまわりも大きくなって、香りが飛んでしまうのだとか。主な用途となる加工用の需要は小ぶりなナスに限られるため、大きくなった民田ナスは、流通サイドの論理で「規格外」という理不尽なレッテルを貼られたにせよ、煮物や素揚げとして美味しく頂けます。組成の94%が水分からなるナスの栽培には、こまめな水遣りが欠かせません。米沢の在来種「窪田ナス」を選抜して後世登場した「梵天丸小ナス」や「薄皮丸小ナス」の系統とされる旧朝日村産の「沖田ナス」などと比べて虫がつきやすいため、現在では民田ナスから他の品種に切り替える農家が多くなっています。

 仙台市青葉区の勾当台公園市民広場を会場に、ほぼ毎月第3木曜日に合同定期市を開催しているのが、NPO法人「朝市夕市ネットワーク」です。安全な農産物・加工品を届けようという意識が高い生産者が集う、この青空市に鶴岡市民田から軽トラックでやってくるのが五十嵐 正谷さん・京子さんご夫妻。会話の中で庄内ローカルな単語(地名・食べ物etc)を連発する私とはすっかり顔なじみです。「旬菜畑」ブランドの豆餅や赤カブ漬けなど、旬の庄内の味をいつも届けてくれる五十嵐さんによれば、民田の農家では、稲作のかたわら、近隣の農家向けに販売する民田ナスの苗作りが盛んだったのだそう。しかしながら、実際に民田を訪れても、集落内ではほとんど民田ナスを栽培している畑を見かけません。
 mindenkanban.jpg

【Photo】鶴岡協同ファームの民田ナス畑。「日本一!」の看板はご愛嬌

 民田の西隣、高坂地区には山形大学農学部の演習農場があり、その通り向かいに"日本一!「民田なす」の栽培面積"という看板が立つ鶴岡協同ファームのナス畑があります。地域特有の作物である在来野菜の作付け面積が日本一と言われても苦笑するしかないのですが、その志は立派なもの。なぜなら畑の持ち主、鶴岡協同ファームの代表、五十嵐 一雄さんは、自分が生まれた集落の名前が付いた伝統ある民田ナスが、お膝元でほとんど作られていない状況に疑問を感じ、2003年(平成15)から地元で栽培を始めました。連作障害が出やすく、害虫にも弱いため、高度経済成長が始まった頃から、徐々に安価な中国や韓国で生産された丸小ナスが漬物の加工用として用いられるようになっていたのです。こうした経緯は、仙台名産の「仙台長ナス漬け」でも起きたこと。最近は日本の食料自給率の低さとフードマイレージのズバ抜けた高さがやっと問題視されるようになりました。仙台の味として名高い牛タン焼きもそうですが、原料のほとんどを輸入に依存する名産品って、「なんだかなー」と感じてしまいます。仕入れ原価を抑えて利益を上げようという経済効率を重んずる価値観が跋扈し始めたこの時代以降、日本中でこうしたことが平然と行われてきました。
mindenhanami.jpg

【Photo】 収穫期真っ盛りの7月、民田ナスは次々と花を咲かせては実をつける
 
 6月、地植えして間もない民田ナスの茄子紺色の根元を見ると、接木がされているのがわかります。これは連作障害を避けるための処理。収穫期を迎えるころに咲き始める薄紫の花の黄色い花粉が付いた雄しべには、蜜蜂が飛んできます。その八角形の花の蕾は、茎から枝分かれした長いヘタが始めから下向きに付くのが面白いところ。はにかむようにうつむき加減で下を向いて咲く淡い紫の花の姿には、いじらしさを感じませんか? やがて結実する黒光りする実がリリー・フランキーの漫画「おでんくん」に登場する「ガングロたまごちゃん」にどこか似ている(「つみれちゃん」とも似ているかも・・・)ように思うのは私だけでしょうか。(「ガングロ・・・」が思い浮かばない方はコチラをどうぞ)

 民田ナスが、おでん鍋の中ですっかり煮染まったガングロたまごちゃんと違うのは、夏の庄内の食卓に欠かせない人気者である点。民田に最も近い鶴岡市外内島にある「産直もえん」や、同市西荒屋の「産直あぐり」、量り売りをしてくれる同市羽黒町狩谷野目「あねちゃの店」などで、まずはプリプリの民田ナスを入手しましょう。塩とミョウバンを加えて手揉みした採れたての民田ナスに水を加えて加圧すれば、半日から一日で浅漬けが出来上がります。鮮やかな青みが加わった浅漬けは、新鮮さが命ゆえ、召し上がるのはよく冷やしてお早めに。保存食としても活躍する民田ナスは、庄内町(旧余目町)特産のカラシ菜を使って加工される辛子漬けや、藩政時代以来の酒どころ鶴岡市大山地区で造られる酒粕漬け、味噌付けやたまり漬けなどとして、地元以外でも広く知られるようになりました。

mindenasazuke.jpg

【Photo】 今野さんの民田ナスを仕込んだ自家製の浅漬け

 最もポピュラーな辛子漬けは、鶴岡で130年の暖簾を守る老舗「佐徳」の創業者、佐藤 徳次郎が1877年(明治10)に商品化したもの。1908年(明治41)に創業し、今年で創業100周年を迎える鶴岡市大山の「本長」の粕漬けは、仙台などの主要百貨店でもよくみかけます。観光で鶴岡を訪れた際には、都市間バスのターミナルにもなっている鶴岡IC近くの「庄内観光物産館」を訪れて下さい。試食サンプルをつまみながら、好みの製品を選ぶことができます。
mindenpfarm.jpg

【Photo】月山パイロットファームの民田茄子からし漬け特別仕様

 個人的に最も美味しいと思う民田ナスの漬物は、以前も登場した鶴岡市三和の農事法人「月山パイロットファーム」製の「民田茄子のからし漬け特別仕様」です。私が敬愛するエコファーマー相馬 一廣さんは、1977年(昭和52)に月山山麓の未開地の開墾に着手、永年に渡る試行錯誤と研究の結果、輪作と緑肥の活用による独自の無農薬栽培法を確立しました。ご子息の大(はじめ)さんと共に栽培サイクルの中で自家栽培する民田ナスを塩蔵後、同じく自作するカラシ菜とササニシキを「竹の露酒造」に委託醸造してもらう吟醸酒(残念ながら(笑)非売品。うまいんだ、これがっ!!の酒粕を塩抜きのために加えたもの。添加物を全く使わないために日持ちはしませんが、それが自然の摂理。Non-GMO(「非遺伝子組み換え食品」)ゾーンを示すヘタウマな手書き看板が立つ雑草だらけの畑から採れる野菜は、どれも安全で美味しいものばかり。発酵によって旨みを増した素材の持ち味を活かした自然な味を知ってしまうと、蛍光色に近い色をした漬物など、到底食べられなくなってしまいます。一部の生協や特定消費者団体との直販システムのため、簡単には入手ができないのが唯一玉にキズですが、かつてイタリアにご一緒したご縁もあり、顔を出すたびに買わせていただいています。(いつもオマケして頂いてもっけです~
今年も間もなく赤川花火大会とだだちゃ豆の季節がやってきます。また伺いますね、相馬さん。

※「スピンオフな民田ナスのパスタ」に続く

【注】 藤沢 周平の生家は、東田川郡黄金村大字高坂(現在の鶴岡市高坂)にあった。すでにその家は取り壊されて現在は空き地になっている。唯一の名残りは「藤沢周平 生誕之地」と刻まれた石碑のみ。今は山形自動車道によって分断されているものの、民田とは青龍寺川を挟んで目と鼻の先。農家に生まれ育った藤沢 周平にとって、民田ナスは馴染み深い郷里の味だった

baner_decobanner.gif

2008/06/25

元気いっぱい!放牧牛

いわて山形村短角牛 牧場めぐり


 「夏山冬里」で飼育される短角牛の放牧が始まったというので、先月中旬、仙台市青葉区にあるイタリアン「Enoteca il Circolo エノテカ・イル・チルコロ」の吉田 克則シェフと岩手県久慈市山形町に出向いて牧場の牛たちを見てきました。

elite_farm1.jpg

【Photo】霧にかすむ久慈市短角牛基幹牧場

 庄イタが提唱し、生産現場を料理人と共に訪問するツアーは以前にも実施しています。2006年7月には、山形県庄内町の立谷沢川沿いでオーガニックなハーブと食用鳩を育てる「スパール」の山澤 清さんや、同町で発酵サイレージなどの粗飼料や安全な国産配合飼料を与えて飼育される庄内牛、だだちゃ豆の鞘や稲ワラを食べて臭みのない肉質に育つサフォーク羊を手がける鶴岡市羽黒町の「花沢ファーム」、同町で飼育されるキメの細やかな肉と美味しい脂身が堪らない山伏豚を扱う鶴岡市みどり町の「クックミートマルヤマ」などにご案内しています。

 これがきっかけで、山伏豚を店の看板メニューとして成長させた吉田シェフの声掛けで、そのとき同行されたのが、当時、太白区向山に店を構えて間もなかった「AL FIORE アル・フィオーレ」の目黒シェフと、青葉区一番町「IL CUORE イル・クオーレ」の渡辺シェフでした。高い志を持った生産者と安全で美味しい食材を求める意欲ある料理人を単なる食べ手の立場を越えて「繋(つな)ぐ」のも、それぞれにご縁が生まれた者としては嬉しいことです。

pioneerMorioka.jpg

 遠征には絶好の好天に恵まれたこの日。朝9時に東北道 泉PA・スマートICで合流した吉田シェフ家族の alfa 155と私のalfa Brera は、危惧されたマシントラブルもなく高速を北上、予約していた盛岡市の「パイオニア牧場 」(上写真)に予定より幾分早い時刻に到着しました。

 〝牧場〟とはいうものの、牧場併設のバーベキューハウスではなく、 (吉田シェフは最初そのように思ったのだとか...^ ^;) 盛岡市街中心部にあるれっきとしたレストランです。オーナーシェフの多田 久雄さんは、岩手の風土が生んだ短角牛に深い愛着を持ち、これまでその味を伝えてきました。多田シェフにこの日用意いただいたのは、短角牛の厚切りリブロースとサーロインのバーベキューセット。

libesarloin.jpg

【Photo】レストランパイオニア牧場でのランチ「短角牛のリブロース(左)とサーロイン(右)、旬の野菜いろいろバーベキューセット」

 あれっ?? 短角牛の味わいのバリエーションを体感してもらうため、予約の電話では多田シェフにシチューなどの煮込みなども出してくれるようお願いしたのですが、すっかり抜けていたようです。モォ~、多田シェフったらぁ。

sig.tada_pioneer.jpg 【Photo】ある時は岩手短角牛の伝道師、またある時はレストラン「パイオニア牧場」のお茶目なシェフ、多田久雄さん

 いずれにせよ、ここはグリルする肉のファンタジスタ、「Nicuyakista ニクヤキスタ」を自認する吉田シェフの出番。一定期間、冷蔵で熟成させてグルタミン酸やイノシン酸などの旨み成分を増した庄内牛や山伏豚をいつも店で提供している肉のスペシャリストでもあるシェフに「餅は餅屋」と" 焼き奉行 "をお願いする流れに。オフだというのにモーしわけない!?

 グリルした短角牛を噛み締めると、深みのある旨みが肉汁と共に滲み出してきます。吉田シェフも改めて短角牛の「赤身」の魅力を再確認したようで、「脂がしつこくないですね」とも。自然放牧で傾斜地の草原を移動しながら肥育される短角牛は、もとより脂肪分が少ないのですが、脂自体のしつこさがないため、食べ疲れすることがありません。

 持ち帰り用にと打診した自家製ビーフシチューの缶詰めは残念ながら在庫切れとのこと。すべて自分の手作業で缶詰めまでこなすため、「あれ作るのって、大変なの」と笑う多田シェフ。牛肉の旨みに溢れた短角牛のシチューは、フルボディなカベルネ系の赤ワインとよく合います。

 聞けば、今食べた肉は久慈市山形町にある短角牛専門の精肉店「食考房 北風土」〈Link to Backnumber〉から仕入れたものだそう。その北風土の佐々木 透さんとは、放牧場で翌日お会いすることになっていました。夕食を弘前のイタリアン「ダ・サスィーノ」で予約していた私たちは、多田シェフに見送られ、さらに北を目指しました。

【Photo】久慈市短角牛基幹牧場で放牧が始まった短角牛の親子。生後間もない毛羽立った子牛のかわいいこと!
bambinitankaku.jpg  海から吹き付ける冷たい東風「ヤマセ」の影響からか、八戸道を東に移動するに従って空模様がどんよりとしてきた翌朝。九戸(くのへ)IC近くの道の駅「おりつめ」で待ち合わせした佐々木さんの先導で久慈市山形町荷軽部にある「久慈市短角牛基幹牧場」を訪れました。

 肉付きの良い牛を集めるため、「エリート牧場」とも呼ばれるそこへは、牛舎へ牛を戻す「山下げ」直前の昨年10月以来の再訪です。海抜400m以上と標高が 高いため、5月なかばとはいえ肌寒さすら感じます。牧草地の中を進みながら「フンを踏んだら大変なので、足元に注意して下さい」とオヤジギャグをかます佐々木さん。確かに、あちらこちらにエリートたちが残した地雷が落ちています。侮るなかれ、この有機肥料は、牧草と土を肥やすミミズなどにとっての大切な養分となるのですから。これぞ資源低投入循環型畜産。

glass_of_elite.jpg

【Photo】 放牧期間中の牛たちの主食は天然の青草

 5月9日に牛舎から放牧場に牛を移す「山上げ」をされたばかりの短角牛たちは、60 ヘクタールにも及ぶ広大な牧草地の思い思いの場所を移動しながら草を食み、あるいはリラックスしている状態で行うという反芻(はんすう)をしながら座り込んで寛いでいる様子。放牧中に自然交配される短角牛の出産シーズンは2月から3月にかけて。生まれてまだ間もない子牛は、甘え盛りで、母牛からあまり離れようとはしません。飼育環境が山あいの傾斜地のため、おのずと運動量が豊富になる放牧牛は、舎飼いの牛と比べて心臓が大きくなるそうです。

 佐々木さんが営む北風土で冷凍保管されている成牛の心臓を見せていただきましたが、私の拳ふたつ分ほどの大きさでした。高地トレーニングを積むアスリートと同じで、放牧中の短角牛は心肺機能が発達、心拍数が減少する一方、赤血球が増えて余分な脂肪の蓄積が抑制されるのだそう。これは、逆に出荷を控えた牛舎での肥育段階で与えられる粗飼料や配合飼料の吸収効率が上がる効果もあるのだといいます。

mucca_e_bullo.jpg

【Photo】すぐにそれと判るたくましい体躯の種牛(中央)が、一頭のメスの後をついて離れない。実に職務に忠実なエリート君。健康な肉牛を提供してくれるよう、産めよ増やせよ、ってか

 母牛と子牛合わせておよそ200頭が放牧されている中で一頭しかいないオスの種牛は、ガッシリと体が一回り大きく一目瞭然。ストレスフリーな自然環境の中では、繁殖率も上がるらしく、メスの分娩間隔が短くなる傾向があるそうです。発情牛が発する匂いに誘われるのか、マッチョな種牛が一頭のメスの後を追うようについてゆきます。佐々木さんの話では、ハーレムさながらの環境に置かれた種牛は、山下げの頃になるとゲッソリしているのが解るといいます。(笑) 種付けの激務がたたるためか、去勢した牛と比べて種牛は寿命が短いのだそう。両手に花の? 種牛に「男はつらいよ」と声を掛けたくなりますが、ヤツは"トラさん"ではなく、"ウシさん"なのでした...(爆)。

【Photo】佐々木さんが厚い信頼を寄せる肥育農家のひとり、落安兼雄さん。「牛が可愛くてね」と目を細める

sig_ochiyasu.jpg

 すっかり体が冷えてしまったところで車に戻り、ヒエやアワなど雑穀類を脱穀・製粉するためにこの地域で伝統的に作られてきた「バッタリ」こと水車小屋を復活させた「バッタリー村」を通り抜けて、出荷を控え牛舎で肥育中の短角牛も視察。その足で北風土に立ち寄り、ストーブで暖をとりながら作業場での佐々木さんと吉田シェフの食談義が始まりました。

 出荷価格に高値がつき肥育農家にとって収益性が高い黒毛和牛、それもA-5ランククラスの銘柄牛の人気が日本では高いですね。つい最近も岐阜の「飛騨牛」において、偽装が疑われる事例がありました。そんな霜降り信仰が支配する市場では出荷価格が引く抑えられがちな短角牛(黒毛A-2ランク程度の枝肉価格だといいます)を大切に守り育てる生産者に惚れ込んで北風土を立ち上げたという佐々木さん。

yoshidasasaki.jpg

【Photo】北風土の作業場で思いのたけを語り合う佐々木さん(右)と吉田シェフ(左)

 20年前、北東北3県と北海道で2万2千頭あまりが飼育されていた短角牛のメスは、今や6千頭ほど。採算性を理由に黒毛に切り替える生産者が後を絶ちません。一部では枝肉価格の向上を目的とした黒毛和牛との交雑(F-1化)がなされ、純血種の希少性は増しています。北風土では、飲食店との取引きに際して、まず料理人に飼育現場に足を運んでもらい、互いに顔の見える関係でパートナーシップを築きたいと語ります。

 吉田シェフは短角牛一筋の情熱家、佐々木さんの熱い語りに魅せられたようで、一時間以上に及んだ語らいの末、晴れて取引き成立。今回もこうして新たなご縁を繋ぐことができました。今月から屠畜・枝肉加工後4週間熟成させた24ヶ月月齢から28ヶ月月齢の食べ頃を迎えた短角牛を新メニューがエノテカ・イル・チルコロに登場しています。

gremolata_tankaku.jpg

【Photo】 アラカルトはもちろん、プリフィクスのディナーコースでもチョイス可能な山形町産短角牛の煮込みグレモラータ風味。重過ぎない味付けのグレモラータソースが短角牛の個性を最大限に引き出してくれる。付け合せは吉田シェフがおまけしてくれた特別栽培米ササニシキのグリーンピースリゾット

 リブロースの煮込みグレモラータ風味と、未食ながらニクヤキスタが本領発揮する炭火でグリエするビステッカがそれです。鶏のブロードを使用した短角牛の柔らかな煮込みは、味覚中枢を至福の喜びで満たす肉の芳香がムンムン。細かくスライスしてオイルで炒めた玉ネギ・ニンジン・セロリに、レモン果皮の砂糖漬けと少量のニンニク・パセリで香り付けした Gremolata グレモラータソースが爽やかな柑橘系の香りを添えてくれます。仙台で由緒正しき山形町産のエリート短角牛が頂ける店はそうはありません。
百聞は一食にしかず。andiamo!(= Let's go!

*************************************************************
レストランパイオニア牧場
※現在は移転し「レストラン PIONEER FARM」として営業中
住) 盛岡市本町通2-1-34
Phone:019-656-6224
営) 11:30~14:30
   17:30~22:00(L.O.21:30)

*************************************************************
※現在は「カフェ・エ・デリ・チルコロ」に業態変更
Enoteca il Circolo エノテカ・イル・チルコロ
住) 仙台市青葉区国分町1-7-10 SKビル1F
phone/fax : 022-227-0180
休) 日曜・祝日 
営) 12:00 - 13:45(火~土)
    18:00 - 23:00(L.O.22:00)
◎アラカルトメニュー(ディナータイムのみ

岩手県久慈市山形町産短角牛の煮込みグレモラータ風味  2,800円
同上   ビステッカ(炭火焼ステーキ)   3,900円


baner_decobanner.gif

2008/06/01

どぶろく特区@鳴子

農家レストラン土風里
 そして 鳴子の米プロジェクト

doppuri_vista.jpg

【PHOTO】
大崎市街からR47を鳴子温泉に向かって江合川の対岸、小高い丘の上にある農家レストラン「土風里」からのうららかな春の眺め

 雪解けとともに巡ってくる山菜の季節。長い冬の眠りから目覚めた大地と木々の恵みである山菜には、強い香りと特有のアク、苦味があるものがあります。先人は冬の間に代謝が鈍って澱んだ体の細胞から毒素を排出する効果があるとされる山菜の働きを知ってか知らでか、コゴミ・ウド・ゼンマイ・ワラビ・ミズ・アイコなどの山菜を口にしてきました。甘味が多くなるよう人為的に生み出された野菜や、最近増えている人の手で栽培された山菜と比べて、山に自生する山菜は、雪と氷に閉ざされる冬の終わりとともに一斉に芽吹き始める生命のエネルギーを感じさせてくれます。

doppuri_entrata.jpg

【PHOTO】土風里(奥の建物)へと向かう小道沿いの斜面にも料理に使われる山菜があるのだという

 秋田・山形と県境を接する宮城県大崎市鬼首(おにこうべ)への出張を控えた先日、仕事のパートナーとなる滋賀と東京からの客人をご案内しようと、出張の下見で近場の鳴子温泉郷を訪ねました。ひとつの温泉場としては、日本一多彩な泉種を誇る鳴子温泉郷。地域資源を活かして地域おこしをしようという構造改革特区計画の一環として、温泉と自然・食文化などを組み合わせた「鳴子温泉郷ツーリズム特区」が、2004年(平成16)6月に国から認可を受けました。 国の規制緩和によって、民宿や飲食店を併せ営む稲作農家が、自ら生産した米を原料に濁酒(通称:どぶろく)製造の免許を取得する際、製造数量の制限が撤廃されたのを受け、鳴子町で農業を営んでいた高橋 直子さんが宮城県内初の製造免許を取得、「どぶろく特区」として認定されたのが2005年(平成17)4月のこと。同年5月、どぶろくが飲める宮城県内初の飲食施設となる農家レストラン「土風里(どっぷり)」はオープンしました。
doppuri_suiden.jpg

【PHOTO】土風里で提供するお米「ひとめぼれ」が育つ高橋さんの水田。コメが育つ田んぼを見渡しながら田舎料理を味わえるのは農家レストランならではの贅沢
 
 出張の下見とはいうものの、今回の遠征のもうひとつの目的は、この農家レストランを訪れること。1899年(明治32)に自家用酒税法の廃止で自家製造が禁止されて以降、かつては密造酒の代名詞だったどぶろく。旬の山菜を使った田舎料理もさることながら、白昼堂々と飲めるどぶろくを提供するという土風里には、かねがね行きたいと思っていたのです。小泉政権下の規制緩和の流れを受けて、各地でどぶろく特区が誕生しました。" 地方切捨てだ " との声も聞かれた小泉構造改革ですが、岩手県遠野に端を発したこの動きによって、表向きは100年以上の長きに渡って途絶えていたどぶろくの味が再び楽しめるようになったことは、素直に喜ぶべきだと思いませんか? 日本人の主食であるコメ文化の副産物とも言うべきどぶろくが鳴子の地で飲めることは、とりわけ喜ばしいことだと私が考えるのには少々訳があります。

yukimusubi_harvest.JPG

【PHOTO】荒雄岳の北東側に位置し、鬼首でも最も奥地にあたる岩入(がにゅう)集落に、2007年9月30日、地元の旅館関係者や県外の支援者らを招いて行われた稲刈り交流会

 肥沃な大崎耕土が広がる一大穀倉地帯、宮城県北の大崎市でも、鳴子地区は奥羽山脈の山懐に位置する県内最北の内陸部に位置します。仕事を通してご縁が生まれた鬼首は、鳴子温泉郷からさらに山あいの奥地にあり、日照時間の少なさと夏でも冷涼な気候によって、たびたび冷害に襲われた地域。かつては"うまい米はできない"とまで言われてきました。そんな鳴子や鬼首の稲作農家に光が射したのは、2001年(平成13)に宮城県古川農業試験場で誕生した新品種「東北181号」を試験的に導入した2006年(平成18)から。東北181号は、5月中旬過ぎに田植えをしても9月末には収穫可能な早生種で、優れた食味は優良銘柄米の「ひとめぼれ」に勝るとも劣らないとまでいわれます。加えて低アミロース米特有の粘りとコシは、冷めても失われることはありません。yukimusubi_kobir.jpg

 炊きたてはもちろんのこと、仕出し弁当やおにぎりで食べても美味しい用途が広いコメだと言えるでしょう。耐冷性・耐病性に優れた山間高冷地栽培に適したこの新品種を鳴子地域でも気候条件が厳しい鬼首など山間地に位置する3軒の農家の水田30アールで始まった取り組みは、「鳴子の米プロジェクト」と名付けられました。

【PHOTO】稲刈りと杭がけがひと段落したところで、ちょっと一服。地域のお母さん達が用意した東北181号のおにぎりなど、心尽くしのご馳走が振舞われる伝統的な農作業の休憩時間を指す「小昼(こびる)」が再現された

 コメの消費減少と米価下落を受けて、消費者重視・市場原理重視の考え方のもと、需要に即応した米づくりの推進を通じて、水田農業経営の安定と発展を目指すため、2002年(平成14年)に農水省が定めた「米政策改革大綱」。コメ余りのもとで霞ヶ関のお役人が定めたこの施策は、市場原理によって米価の下落に一層の拍車がかかる結果を生みました。コメを作った対価として農家が手にする額を指す生産者米価は、必要経費を差し引くと、もはや赤字の状態。大綱では「平成22年度までに農業構造の展望と米づくりの本来あるべき姿の実現を目指す」というものの、命をつなぐ食べ物、しかも日本人の主食であるコメ作りの担い手である農家の将来には、明るい展望は開けないままだと言わざるを得ません。 【河北新報朝刊連載の「田園漂流~東北・兼業農家のあした」を参照願います】

【PHOTO】県のアクティブシニア・ビジネスコンテストで起業モデルに認定された土風里を切り盛りする高橋 直子さん(右下)。開業4年目を迎えてどぶろく作りの腕にも磨きがかかる

doppuri_takahashi.jpg

 日本の農村、なかでも高齢者が多い中山間地域では、いま耕作放棄地が急速に広がっています。鳴子の米プロジェクトでは、農家が生活を維持し、コメ作りを続けられる生産者米価をあらかじめ 1俵(60kg)当たり 18,000円と算出。農家には5年間この手取り額を保障しています。作り手の生産意欲と若干の利幅を確保した上で、営農希望の若い世代を受け入れる受け皿を地域に作るための社会資本整備の資金や、輸送・保管などの必要経費を1俵当たり 6,000円上乗せして設定した1俵当たり 24,000円(玄米5kg 2,000円・白米同 2,100円)で購入希望者からの事前申し込み制を採っている点が大きな特徴です。

 使用する農薬を地域慣行の半分に減らし、収穫後は棒がけによる天日干しをするという栽培条件で、3軒の農家から始まった鳴子の米プロジェクト。二年目だった昨年は、5月末に地元の旅館関係者や県内外の購入希望者を招いて田植え交流会を実施しました。作付けも 20軒の農家 3ヘクタールの水田へと 10倍に広がり、収穫された180俵は予約完売。秋には購入予約者を招いての稲刈り・くい掛け交流会が催され、地域との交流も生まれています。 doppuri_inside.jpg昨年末に「ゆきむすび」という品種名が付いた東北181号は、こうして"食べ手が作り手を支え続ける"という新たな相互の結びつきを生みました。地域の農家に希望の光を灯したゆきむすび。今年は35軒の稲作農家が合計 10ヘクタールの水田でコメ作りに取り組んでいます。

【PHOTO】古民家の部材を利用した土風里。高い天井の吹き抜けに渡された太い梁(はり)、宮城県北に伝わる釜神の面、鳴子漆器の組膳、代々伝えられた酒器。黒光りする魚形の大きな横木と囲炉裏

 こうして、鳴子では日本の農のあり方を根本から変えるかもしれない新たな胎動が始まっています。その地で日本のコメ文化が生んだどぶろくを地域の恵みと共に頂けるというのは、象徴的な意味を持っています。高橋さんにこの日ご用意頂いたのは、地元で採れたアイコや青コゴミ・ウルイなどのおひたしやタラの芽とウド・コシアブラなどの天ぷらduppuri_nerimono.jpg菜の花が添えられたヨモギとジャガイモの練り物の葛あんかけなど山菜中心のメニューでした。高台にある店の窓から「先だって田植えが終わったばかりです」と語る高橋さんの田んぼを見下ろしながら頂くのは自家製のひとめぼれ。高橋さんが手がけるのは、すべて米どころ宮城が誇る食味に秀でたこの品種です。よほど水の管理をしっかりされておいでなのでしょう、炊き立てのひとめぼれには、文字通り一目惚れする美味しさ。作り手と田んぼを目の前にしての食事は、豊かな農家の味そのものでした。

【PHOTO】手前より「ヨモギとジャガイモの練り物の葛あんかけ」と「煮付けたフキとニンジンの俵巻きアスパラのせ」。いずれも自然でやさしい味付けがされる(右写真)

doppuri_ohitashi.jpg

【PHOTO】コゴミの胡麻和え、ウルイとキクラゲ・もって菊の酢味噌和え、アイコのキムチ醤油味・・・。鳴子の地にようやく訪れた春の味を満喫できる素朴な料理が並ぶ(左写真)

 どぶろくは高橋さん自身が栽培した「ひとめぼれ」を、すぐ近所に湧出する温泉の「まつばら源泉水」で仕込んだもの。優良県産品推奨を受けたこの水は、飲用可能な純重曹泉の源泉をセラミックでろ過、さらに独自のミネラル還元装置を通したものだといい、ミネラルウオーターとしても販売されています。「かつてこのあたりでは、どの農家でもどぶろくを密かに造っていて、自分も子どもの頃にその味を覚えた」と笑う高橋さん。すると、居合わせた 60代と思しき男性客も「昔の農家では、みんなそうやってどぶろくを楽しんでいた」と相槌を入れます。うーむ、うらやましや古きよき時代。国税局の方、もう時効ですよね? (笑) 「仕上がったばかりで、もう少し経つと味にまとまりが出るのだけれど」と、地元の伝統工芸品である鳴子漆器の朱色のお盆に載せられた素焼きの酒器で出された自家製ひとめぼれのどぶろくは、どろりと濃厚で若干ピリピリとした口当たり。柔らかな酸味とコメ由来のほのかなでまろやかな甘味を備えています。どぶろくは上澄みを漉(こ)すことを禁止されており、よくかき混ぜて提供されるため、口の中ではしっかりと米粒が存在を主張します。発酵作用でアルコール度数が 12%程度に達する仕込みから 2週間を経過する頃が飲み頃というどぶろくは、酸味が出ないよう低温での管理が必要なため、冷蔵庫で仕込むのだそう。後を引く旨さのどぶろくを仕込む高橋さんには製造免許はあるものの、販売免許はないため、レストランで飲食用に提供する以外、持ち帰りはできません。
doppuri_bianco.jpg

 山菜料理の活き活きとした緑、朱色のぐい呑みで頂く純白のどぶろく。 ん? 緑と白と赤・・・。Verde,Bianco e Rosso...Brava!!  おお、偶然にもイタリア国旗と同じ「Italian Tricolore イタリアン・トリコローレ」な配色ではありませんか! 高橋さんは全く意図していないであろう私の前世の愛国心をくすぐる組み合わせにひとり勝手にご満悦。お土産に頂戴した「どぶろくプリン」ともども、素朴な田舎料理と共に頂いたどぶろくの味は、懐かしくも新鮮なものでした。

【PHOTO】「ひとめぼれ」で作った土風里のどぶろく。造り酒屋で味わう仕込み中の醪(もろみ)のように「どっぷり」とハマる味わい

 現在、鳴子地域では、土風里のほかに 2年前に製造免許を取得した川渡温泉の「旅館ゆさ」が「ひとめぼれ」を山中に湧く水でどぶろくに仕込み、鬼首地区で栽培した「ゆきむすび」を醸したどぶろくを提供する「鬼首ロッジ」も加わって、個性豊かなどぶろくを計3軒の施設で提供しています。今年1月に岩手県二戸で行われた「全国どぶろく研究大会」では、出品した17道県47銘柄の中から、鬼首ロッジのゆきむすびを使ったどぶろくが「濃醇(のうじゅん)」の部で製造開始4年目にして最優秀となった山形県飯豊町の「がまのどぶろく」に次いで、第2位(優秀賞)に輝きました。
 
 こけしと湯の町・鳴子に新たなコメにまつわる物語が生まれようとしているようです。
doppuri_gaikan.jpg 

農家レストラン 土風里 (どっぷり) 
宮城県大崎市鳴子温泉字蓬田124
季節料理 1,500円より  どぶろく1合 350円
TEL:0229-84-6641  ※完全予約制・1日限定20名
営:11:00-14:00 水曜・木曜定休

*******************************************************************
※「ゆきむすび」の申し込み・問い合わせは
 鳴子の米プロジェクト事務局(大崎市鳴子総合支所 観光農政課 内)へ
 TEL:0229-82-2026 FAX:0229-82-2533 
 e-mail:n-kanko@city.osaki.miyagi.jp

baner_decobanner.gif

2008/05/03

うまっ!! 短角牛

短角牛一筋。熱い男の手ごねハンバーグ

elite_farm.jpg
【Photo】岩手県久慈市にある「久慈市短角牛基幹牧場(通称:エリート牧場)」で。60ヘクタールにも及ぶ広大な放牧場でのんびりと草を食む短角牛たち

 思わず「うまっ!!」と口をついて出た「ウシ」の肉。そんなギャグはサラリと流してお付き合いのほど...(^0^;

 味を感知する舌の表面にある器官「味蕾(みらい)」の数が、およそ四万個まで増えて、人間に備わる五感のひとつ「味覚」が形成されるのは10歳前後の児童期とされます。加齢とともに味蕾は数が減ってゆき、成人では八千個が平均だといわれます。昨今、味を感知できない味覚障害の子どもが増加したことで、幼児期に味覚のトレーニングを積むことの大切さが改めて指摘されています。甘味・辛味・酸味・苦味・塩辛味と、古来より中国で分類された「五味」に加え、昆布やカツオなどのダシが生み出す「旨味」を感じる日本人の繊細な味覚を是非とも子どもたちに育みたいものですね。

 いわゆる"キレやすい"子どもやアレルギー体質の子どもの増加を見ても、毎日の食事を通して体内に取り込まれる化学物質が、遺伝子レベルを含めて人間に何ら悪影響を及ぼさないと言い切ることができるでしょうか?そのためには、スナック菓子やインスタントラーメンなどに使用される化学調味料と、市販の加工食品で多用されるタンパク加水分解物や防腐剤などの食品添加物の弊害から子どもたちを遠ざけなくてはなりません。 食にまつわる不安が増す時代だからこそ、子どもには良質で安全な食べ物を選びたいと思うのが親心。
tannkaku_gyuusha.jpg 
【Photo】牛舎で干草やサイレージなどを与えられ肥育中の短角牛

 子どもが好きな料理といえば、寿司、カレー、ハンバーグが定番です。食べ盛りのお子さんがおいでの家庭でも、家族で気兼ねなく行ける手頃な値段の寿司店が増え、今や寿司ネタも大方が輸入物に依存しています。

 成長期の子どもにとって良質なタンパク質の摂取は欠かせません。ところが、東南アジアのマングローブ林を伐採し、抗生剤を投与されて養殖されるエビや、不気味な排水を垂れ流しする中国から流れ出る大量の有機塩素系農薬やダイオキシン・水銀など、広く魚介の体内に残留する環境汚染物質も気になります。市販のカレールウには多くの場合、動物由来油脂や化学調味料・乳化剤・香料などが含まれます。

 「お肉大好き!」という子どもが多いなか、スーパーで扱う焼き鳥のは、産地を遡ると多くは劣悪な飼育環境で育つ中国産。BSEや鳥インフルエンザの発生が報告されて以来、食肉をめぐる不安も増大しています。「・・・いちいちそんなことを気にしていたら、何も食べられなくなる。」そんなお母さんたちの声が聞こえてきそうです。便利さと引き換えに失ったものは少なくはない。そんな思いがよぎります。

atsuiotokosasaki.jpg 東北の風土に根ざした健康で良質な牛肉だけを扱う精肉店をご紹介します。日本短角種(短角牛)を専門に扱う「短角考房 北風土」を岩手県久慈市山形町で営むのは佐々木 透さん(43歳)。かつて八戸藩と南部藩にまたがる三陸沿岸から北上産地を抜けて盛岡・鹿角といった内陸を結ぶ山間地を踏み固めて造られた"塩の道" を、塩や米を背に往き来したのが"赤べこ"の愛称で呼ばれた南部牛でした。傾斜地を歩むのに適した丈夫な脚を持つこの荷役牛と、1871年(明治4年)に米国から輸入されたショートホーン種(英国原産の世界三大肉用牛のひとつ)を交配して誕生したのが日本短角牛です。

kitafuudo.jpg【Photo】「北風土」の看板が目印の自宅兼事務所兼作業場「短角考房 北風土」で保冷中の肉を前に立つ佐々木 透さん

 東北の厳しい気候のもと、雪に覆われる冬は牛舎で過ごし、春に親子で山あいの牧草地に放たれて自然放牧で育ちます。夏の間、澄んだ空気と水のもと、広大な放牧地で豊かな牧草を食(は)みながら肥育されます。

 放牧期間中に自然交配がなされ、秋に里に降りる頃には、一回りも二回りも体が大きくなっています。そこでは牛の排泄物が土地を肥やし、牧草が育つ循環型の牧畜が成り立っているのです。この「夏山冬里」飼育によって、短角牛は大自然の中で暑さ寒さと病気に強い健康体に育ちます。こうして幾世代にわたって品種改良を加えられた肉用牛は、1957年(昭和32年)、固有の日本短角種として認定されました。現在、日本で飼育される肉用牛の95%は黒毛和種。霜降り信仰に支配された市場では、短角牛は乳牛並みの値段でしか取引されません。最盛期には300戸の肥育農家で年間4千頭あまりが出荷されていましたが、ここ10年でその数は1/4ほどに激減しています。人為的に網の目のようにサシを入れる霜降りの肉質に仕上げる黒毛和牛全盛の中、消滅の危機にある伝統食品を守る「味の箱舟」を推進するスローフード協会は、日本短角種をプレシディオ 〈注〉に指定しています。
hitonatsukoi.jpg
【Photo】。短角牛は温和な性格で人なつこい。牛舎で飼われる牛たちは、アポなし訪問者であるこちらに興味津々の様子で顔を出してきた

 短角考房 北風土の佐々木さんは、上質とされる黒毛和牛特有の柔らかさと甘味をもたらすのは、脂肪分だと語ります。ビッシリとサシが入った霜降り牛肉のとろけるような食感は、確かに脂身そのもの。牛舎の中で霜降りに仕上げるのに欠かせない濃厚飼料は、青草を食べる牛にとってハイカロリーなトウモロコシや大豆・油かす・麦などが主原料となります。濃厚飼料は、およそ9割を米国などからの輸入に依存しているのが現状。たとえ食味は優れていても、健康的な牛といえるでしょうか。かたや放牧中は傾斜地を移動しながら自然の青草だけを食べ、冬を越す牛舎では、干草や草を発酵させたサイレージ、デントコーンといった粗(そ)飼料で育つ短角牛。サシがほどんど無い肉質の短角牛は赤身が多く、しかもその肉には旨みの元となるグルタミン酸・アラニン・グリシンなどの成分が、黒毛和牛と比較すると飛びぬけて多いのです。噛み締めると口の中にじんわりと広がる牛肉本来の旨みと甘さ。短角牛は牛肉の美味しさを改めて教えてくれることでしょう。

 佐々木さんは高校時代、大手スーパーの精肉部門でアルバイトを始め、そのまま就職。肉を扱う技術を身に付けました。1995年に地元食材の加工・販売を行う目的で設立された第三セクターの「総合農舎山形村」の設立に協力。そこで短角牛と出合います。安全で美味しい地元原産の短角牛の良さをもっと多くの人に知ってほしいと考えた佐々木さんは、調理師免許を取得。惚れ込んだ生産者と消費者を直接つなぐため、7年後に農舎の職を辞し、2004年(平成16年)4月、短角牛を専門に扱う短角考房 北風土を自宅の裏に立ち上げました。地元の農協からの依頼で、食感を良くするため、肉の繊維に沿った包丁の入れ方や加熱の仕方、部位別の料理法など、短角牛の肉の扱い方を指南することに情熱を燃やす佐々木さん。モモ肉はカルパッチョに、肩ロースネックやスネ肉・モツは煮込み料理に、外モモや肩ロース・ランイチは焼肉やしぐれ煮にと、さまざまなレシピを公開しています。子どもたちが大好きなハンバーグを作り始めたのも、短角牛の美味しさを幅広い人たちに紹介したいという思いから。ミンチにした短角牛に玉ネギ・ニンジン・鶏卵などを加えたハンバーグの美味しさは評判を呼び、今では地元だけでなく、盛岡からも直接買い求めに来る顧客が増えたといいます。

hanburgsteak.jpg
【Photo】ナイフが不要なほど柔らかいハンバーグからは、切らずとも肉汁が溢れ出る

 昨年10月、放牧地と牛舎をご案内いただくため、佐々木さんのもとを訪れました。短角牛にかける想いを滔々(とうとう)と語る佐々木さん。「熱い人だなぁ」というのが第一印象。BSE騒動以来、子牛の価格が跳ね上がったため、肥育農家の経営を圧迫しているのだそう。ご自宅で民泊を受け入れ、自ら調理した短角牛の料理を遠来の客に振舞っています。訪問を前に、あの感動を再び味わおうとハンバーグを先日注文しました。前回より若干値上がりをしたハンバーグは、1ヶ160gのものが2ヶ入りで900円。

 冷凍状態で届いたハンバーグの肉汁を逃さないため、佐々木さんの指定どおりに冷蔵室で解凍すること丸一日。こんがりとフライパンで焼き目をつけたハンバーグに佐々木さんオススメのニンニクを加えた醤油を加熱した香ばしいタレでハンバーグをほおばると、口の中にはたっぷりとした肉汁とともにふんわりとした肉の旨みが溢れんばかりに広がります。そこで口を突いて出たのが「うまっ!!」の一言。ぜひお子さんにこの短角牛のハンバーグを食べさせてあげて下さい。そして、できることなら人懐っこいこの牛たちが育つ放牧地を見せてあげて下さい。

 山での放牧を再開した短角牛と佐々木さんとの再会を果たすために今月再び久慈を訪れるので、改めて山での放牧の様子をご紹介します。 (⇒※レポートはこちらをClick!)

短角考房 北風土
岩手県久慈市山形町霜畑5-9 電話:0194-75-2370


〈注〉バックナンバー「Terra Madreテッラ・マードレに参加して」文末(注1)脚注参照のこと

baner_decobanner.gif

2008/02/08

「亀の尾」の故郷の酒

庄内の美味を堪能する会 《中編》

庄内の美味を堪能する会 《前編》 寒中に寒鱈で乾杯 より続き

 大寒の前日1月20日(日)に決行された「庄内の美味を堪能する会」もいよいよ佳境。次なる目的地は、私が密かに仕込んだツアーの隠しテーマ「燗酒と寒鱈のマリアージュ」に向けた伏線となる「鯉川酒造」です。目指すは、田園風景が広がる庄内平野のほぼ中央、山形県東田川郡庄内町。sigkameji.jpg 2005年7月に旧余目町と旧立川町が合併して誕生した町です。そこは私たちが日頃食べているササニシキ・ひとめぼれ・コシヒカリといった優良銘柄米のルーツとなった米「亀ノ尾」の生みの親、阿部 亀治(1868~1928)が生まれた地でもあります。亀治の生家がある同町小出新田から目と鼻の先では、8基の風力発電用の巨大な風車が「日本三大悪風」に数えられる強い局地風「清川ダシ」を受けて回っていました。この一帯は春から秋にかけて、新庄盆地から最上峡を抜けて吹き抜ける寒冷な強風のために、たびたび稲作への深刻な被害を受けてきました。冬場には地吹雪に見舞われるこの地に暮らす人々は、過酷な自然と向き合わねばならなかったのです。

swan.jpg【Photo】近代のコメ作りに偉大な足跡を残した阿部亀治(上写真)一面の雪原と化した庄内平野。この旧藤島地区から旧余目地区にかけては、地吹雪が頻発する地帯。最上川河口から飛来して羽根を休めるオオハクチョウ(下写真)

 その地が冷害に襲われた1893年(明治26年)、青立ちの穂波の中で黄金色の実をつける3本の稲穂をたまたま目にした亀治は、「耐冷性に優れた個体ではないか」と直感し、その稲をもらい受けます。試行錯誤の育種を重ねた4年後に再び襲った冷害の中、亀治の稲は見事に実を結びました。その米は育種に成功した発見者の名をとって亀ノ尾と名付けられます。亀治は評判を聞きつけて籾を求める人々に無償で種籾を分け与えたといいます。

 1905年(明治38年)、東北の太平洋側は天保飢饉以来の大凶作となり、大量の種籾の注文が亀治のもとに寄せられました。亀治は、厳選した種籾一斗分(約18ℓ)を宮城県庁あてに寄贈したのです。優れた耐寒性と早収性、食味から亀ノ尾は東北の主力品種として広く普及してゆきます。現在では日本の穀倉地帯としての役割を担う東北地方も、明治・大正期には、単位あたり収量で16位の山形、20位台後半の宮城・福島以外、青森・秋田・岩手の北東北三県は全国でも最低レベル。凶作時には口減らしをせざるを得なかった東北のコメ作りの歴史は、ひとえに寒さとの闘いであったのです。

KiichiAbe.jpg【Photo】風ぬるむ5月中旬。残雪を頂く鳥海山(右奥)を望む先祖伝来の田に亀の尾を手植えする亀治の曾孫、阿部 喜一さん(左)と奥様のひろ子さん(右)

 その構図を劇的に変えたのが、耐冷性に秀でた亀ノ尾でした。このコメは大正末期の1920年代には19万haあまりに作付け面積を増やし、大正期から昭和十年代にかけて、東北・北陸はおろか、朝鮮半島や台湾にまで普及してゆきます。やがて戦後生まれの耐病性に優れ収量も多い品種に押されて飯米としての作付けが減り、一時は幻の米と言われた亀ノ尾。 漫画「夏子の酒」のモデルとなり、近年では酒米として復権しつつあります。

 その発祥の地・庄内町で1725年(享保10年)に創業した鯉川酒造は、現在も自ら所有する水田で亀の尾(※注)を育て、地元の米にこだわった酒造りを続ける蔵です。年産850石(=153,000ℓ)を醸すこの蔵の11代目となる佐藤 一良社長が目指すのは、米の旨みが凝縮し、適度に熟成した純米の酒。アルコール添加の本醸造酒も需要があるために若干は造るものの、主力はあくまで純米酒。冷やで香りが立つ淡麗な生酒ではなく、理想は複雑な味わいが楽しめる「ぬる燗」で食事を通して楽しめる酒だといいます。 (※注:現在では「亀の尾」と表記する)
kamenoo_shachou.JPG 
【Photo】鯉川酒造では、蔵に隣接する水田に井戸水を引いて亀の尾を育てている。無農薬栽培のため雑草に覆われた畦に立つ佐藤社長

 鯉川酒造の先代、佐藤 淳一氏が亀治の曾孫にあたる阿部 喜一氏から亀の尾の原種籾を譲り受けたのが1979年(昭和54年)の冬。"亀治爺さんの遺言だから"と、喜一氏は毎年水田の10平米ほどの狭い一角で亀の尾を細々と造り続けてきたのです。その場には後に稼業を継ぐ長男の一良氏も立ち会ったのだそう。蔵の近隣で米作りをしていた当時の杜氏 佐藤 隆氏とともに栽培を始めたのが翌1980年春のこと。初年度の秋は全て種籾用に収穫されました。穂丈が長く倒伏しやすいうえ、化学肥料や農薬が導入される以前の品種だけに、現代の一般的なコメ造りとは異なる亀の尾の栽培には、苦心を重ねたようです。

 無農薬による栽培を軌道に乗せた1981年の翌年2月には亀の尾を混醸した純米酒を世に出します。その年の秋に収穫した亀の尾だけで仕込んだ純米酒が作られたのは、翌1982年春のことでした。その歩みには亀の尾を生んだ郷土の蔵元として、忘れられた米・亀の尾復活にかけた淳一氏の使命感と矜持があったように思えます。こうして地域の伝統に根ざした特色ある酒造りをしていた淳一氏が1993年に急逝します。落胆する間もなく蔵を継いだのが一良氏です。それは氏が前年7月にそれまで11年間勤めた協和発酵工業㈱から実家に戻った矢先のことでした。

2006.7.1attico.jpg【Photo】梅雨期に訪れた鯉川酒造の亀の尾栽培田。冷立稲の中から亀治が発見した3本の稲のDNAを受け継ぐ直系の稲が育つ。「無農薬田の土の色を覚えておいてください」とは社長の弁

 協和発酵在職中にワインアドバイザーの資格を取った一良氏は、ワインの買い付けと営業を担当しました。商談で訪れた欧州のワイナリーで目にしたのが、土壌や気候といった産地のテロワール(≒風土)を反映した結晶ともいうべきブドウへの徹底したこだわりでした。s-2006.7.1jyunmaidaiginjyou.jpg Enologist エノロジスト・Enologo エノロゴ(=醸造家)の技量もさることながら、常に畑でブドウと向き合う Agronomo アグロノモ(=栽培家)の存在が、醸造酒であるワインの品質を決めるのです。いかに腕の良い醸造家でも、品質が悪いブドウから良いワインは造れないのが道理。それは氏が酒造りと表裏一体になった農業の大切さを認識する契機となりました。造り酒屋の跡取りとして、原料となる米に及ぼす土や水の力、いわばテロワールの重要性を肌で感じたのです。かつて清川ダシに苦しめられた農民たちを救ったコメ発祥の地で酒造りをする以上、亀の尾は避けて通れない道筋。契約農家を含め蔵に隣接した自家所有の水田で無農薬で亀の尾を栽培する佐藤社長は、将来的には原料米も全て地元産にしたいと夢を語ります。

【Photo】亀の尾を40%まで磨く贅沢な造りをする「純米大吟醸生原酒 阿部亀治」。繊細な香りを活かすため、中硬度の自家井戸水ではなく鳥海山系の軟水を仕込み水に用いる。郷土の偉人、阿部 亀治に捧げた酒。墨痕鮮やかな揮毫は亀治の曾孫、阿部 喜一氏の手になるもの

risi.jpg
【Photo】仕込みを待つ米は、ほとんどが地元産。庄内町に4町歩以上の契約栽培田がある。中央にうずたかく積まれたのが亀の尾。手前は蒸した米を平らに伸ばした上に麹種をかけた状態。この後、麹室に入れられる

 
 バスで一面雪に覆われた庄内町を走ることしばし。ほどなく黒塀とこんもりとした木立に囲まれた鯉川酒造に到着しました。佐藤社長には、冷たい風のなか、わざわざ蔵の外で迎えて頂きました。築100有余年の歴史と風格を漂わせるお屋敷の座敷で社長のお話を伺いながら、奥様に蔵の仕込み水となる井戸水で点(た)てた抹茶とお茶菓子でおもてなし頂きました。こちらの蔵では、いつもこうして仕込み水の味を確認してもらおうと抹茶とお茶菓子でおもてなし頂きます。凛とした空気が漂う仕込み蔵に移り、契約農家から納められる酒米の90%以上が地元産という米蔵を見せていただきました。酒造好適米として広く高い評価を受ける「山田錦」や、kamijikoujitsu.jpg熟成に耐えるバランスの良さで近年注目を集める秋田生まれの「美郷錦」に加え、特Aランクの優れた食味を持つ「はえぬき」や高級酒用に開発された「出羽燦々」、そして「亀の尾」など地元山形ならではのコメが仕込みを待ち受けています。この冬から杜氏を勤めるという高松 誠吾 製造部長の解説のもと、亀の尾で仕込んだ純米吟醸「亀治好日」を試飲させていただきました。通常は火入れをして味を落ち着かせてから出荷される酒ですが、このしぼりたての生酒は亀の尾特有のほのかな酸味と甘味が入り混じり、炊き立てのご飯のような米の香りが含み香として残ります。燗をつけた食中酒としての旨さをかつて私に知らしめてくれたこの酒、ぜひぬる燗でお試し下さい。

s-koikawa 004.jpg
【Photo】火入れ前のしぼりたて「亀治好日」を試飲。「まだ味が落ち着いていませんが・・」というものの、精米歩合55%の活き活きとした亀の尾の香りが後を引く(上写真)      裸電球の熱で発酵を促すと語る杜氏の高松 誠吾 製造部長。櫂棒(かいぼう)で醪(もろみ)を攪拌すると底に溜まった炭酸ガスがボコボコと抜けてくる(左写真)

 温度管理に細心の注意を払うという発酵中の大吟醸の酒母からは、すでに良い香りが立ち上がってきます。発酵を均一に進めるため、日に2~3回の攪拌は欠かせないといいます。蔵限定の火入れ前の亀治好日を味わえただけでなく、手をかけた造りをする日本酒の奥深い世界を窺い知ることができ、一同感激した面持ちでした。大吟醸特有の華やかな吟醸香を楽しむだけではなく、数年寝かせてから燗にして複雑な味わいを楽しんでほしいというこの蔵では、純米大吟醸のバックヴィンテージをいくつか抱えているようです。この日の夜、食卓を共にした佐藤社長が持参されたのは、まさにそんな秘蔵の一本でした。

 仕込み蔵から再び座敷に戻った私たちを待っていたのは、ぬる燗をつけた「鉄人うすにごり」なる純米吟醸でした。2005年3月に劇場公開された映画、実写版「鉄人28号」の監督、冨樫 森 氏は佐藤社長の高校時代の同級生。1960年代にアニメ放映された横山 光輝原作の「鉄人28号」tetsujinusunigori.jpgのリメイク映画を友人が手掛けるとあって、佐藤社長が一肌脱いで造った酒です。通常は庄内町の契約農家が栽培する酒米「五百万石」から造る酒ですが、私たちが頂いた平成18BYの酒は、五百万石が不作だったため、「出羽燦々」で醸したのだそう。かつて社長も胸躍らせたであろう鉄人の名を冠した酒は無敵の旨さ。淡い粉雪のような濁りはさほど強くはなく、43度の適温に燗をつけた酒は、さらりとした飲み心地。佐藤社長によれば、人間の体温に近いぬる燗の酒は、アルコール吸収のストレスがなく、肝臓が効率的に働くのだそう。仕込み水をチェイサーにすれば、二日酔いなど決してしないのが純米酒の良さでもあるとも断言。世の呑ん兵衛諸氏、純米酒を愛飲しましょうね。(笑)

【Photo】細やかなもろみの粒子が溶け込んだ「鉄人うすにごり」。和風モダンなラベルともども、音楽を愛し、自作した「出羽燦々」のPRソングを持ち前の美声で歌い上げる蔵元の遊び心ある一本

usunigori.jpg

 蔵元が座敷の障子を開くと、雪に埋もれたお屋敷の庭が目に入ります。重ねる盃は淡い白雪のような「うすにごり」。飲み心地の良さも手伝って、つい長居をしてしまいそうでしたが、ツアーの仕上げとなる「燗酒と寒鱈のマリアージュ」を皆さんに体感いただく時間が迫っていました。とっぷりと日が暮れ、ツルツルのアイスバーンと化した「庄内こばえちゃライン」を時速30キロで向かった先は、鶴岡市のアル・ケッチァーノ。奥田シェフには「寒鱈尽くしで一行を昇天させてね」と頼んでありました。佐藤社長を交えて始まった寒鱈と燗酒の宴はいかなるものだったか? "細工は流々、仕上げを御覧じろ" ということで、詳報は次回庄内の美味を堪能する会 《後編》 「燗酒と寒鱈で乾杯」! (引っ張るなぁ、今回は・・・)  つづく

baner_decobanner.gif

2007/12/15

どこかの畑の片すみで

 だだちゃ豆、温海カブ、民田ナス、佐藤錦、もってのほか・・・。皆さんも一度は耳にしたことがあるであろう農作物の名前。これらは山形県に伝わる在来作物です。すでに商品化され名が知られたこうした例だけでなく、山形各地には個性豊かな伝統野菜に代表される在来作物が数多く残されています。

 在来作物に詳しい山形大学農学部 江頭 宏昌准教授によれば、現在山形県内で確認されている在来作物は133 品目。ひとつの県単位でこれだけの在来作物の存在が確認されている例は全国でも珍しいといいます。山形県下四地域における在来種の分布数は以下の通り― 新庄市周辺の最上地域20 品目、山形市周辺の村山地域34 品目、米沢市周辺の置賜地域22 品目、酒田市・鶴岡市周辺の庄内地域64 品目。この中には、複数地域で栽培されるケースも含まれますが、他地区の2倍~3倍の在来作物が伝わる庄内地域の突出ぶりが目につきます。

【Photo】鶴岡市白山地区に広がるだだちゃ豆の畑。収穫時期が異なる品種を栽培するため、丈が異なるのがお判りいただけるかと

 鶴岡市在来の枝豆「だだちゃ豆」にしても、極早生種「舞台(ぶで)」から最晩生種「彼岸青(ひがんあお)」に至るまで、系統を大別すると20 種以上。収穫時期にも二ヶ月もの開きがあるのです。地元の食味コンテストでトップクラスの評価を受ける無農薬のだだちゃ豆を生産する「月山パイロットファーム」の相馬一廣氏【下の集合写真・前から3列目右から2番目 】によれば、細分化すると40 種は存在するはずだといいます。64 品目という庄内地方における在来作物の数では、だだちゃ豆はあくまで1品目としてカウントしているのだそう。いやはや恐れ入りました。

 鶴岡市外内島(とのじま)地区に伝わる在来野菜「外内島キュウリ」を、ごく最近まではただ一人で栽培してきた上野 武さん【集合写真・前列から3列目右から4番目】の畑を8月上旬に訪れた時のこと。もはや旬を過ぎた畑には褐色に変色した採種用のキュウリがわずかに残るだけです。その畑の片すみに育つ枝豆を指差し、「あの甘露(かんろ)という品種は8月中旬、そっちの外内島だだちゃは8月下旬が旬。」と仰っていました。鶴岡市近辺に点在する産直施設を7月末から9月の夏場に訪れてみて下さい。時期ごと、場所ごとに多種多様なだだちゃ豆が試食用に出ており、系統ごとの形状と味わい・香りの違いを実感することができるでしょう。

mousou.jpg【Photo】朝採りプリップリの谷定孟宗。真っ白な断面の形状が楕円形の地中で圧力をうけた平孟宗(ひらもうそう)は美味しさの証

 桜前線が通り過ぎた後、まだかまだかと私がその到着を待ち焦がれるのが"筍(タケノコ)前線"です。鹿児島・福岡・京都・静岡・・・と北上する筍のなかでも食味に優れる孟宗(もうそう)の北限とされるのが南庄内。柔らかでエグミが無く、アク抜きの必要すらない庄内産孟宗。鼠ヶ関に近い海沿いの鶴岡市早田(わさだ)地区と、湯田川周辺から信仰の山・金峯山(きんぼうざん)北東側斜面の鉄分が多い粘土質土壌が広がる集落、滝沢・谷定(たにさだ)へと産地が東へ移動すると、姿は同じでも微妙に味が異なってきます。鮮度が命の孟宗ゆえ、何を差し置いても地元へ赴いて食べるのが一番。庄内は孟宗に関して一人当たりの消費量が日本一だといわれる土地柄です。酒粕と味噌仕立てで頂く庄内の郷土料理「孟宗汁」 【click!】は、春から初夏への季節の移ろいを旨みたっぷりに感じさせてくれます。金峯山南東斜面や修験道の里・羽黒町高寺(たかでら)に広がる孟宗竹林は、京都からこの地を訪れた修験者が植えたものが広まったのだとされます。
 
 ちなみに鶴岡市早田地区には、在来のマクワウリ「早田ウリ」も残っています。1950年代に登場した甘味が強く日持ちするアンデスメロンに押され、現在では10軒ほどの農家によって細々と栽培される早田ウリ。キュウリのような味にメロン特有のほのかな甘みが交差する早田ウリは、大正期に北海道松前町へと出稼ぎに出向いた早田地区の男性が持ち帰ったものだとか。そのためか、「松前ウリ」とも呼ばれているようです。私を魅了して止まない庄内の食文化は、こうしたさまざまな物語を持つ個性豊かな在来作物を受け継ぐ人々の存在と、四季折々の山の幸と庄内浜の海の幸の恵みがもたらすものです。

IMG_2080.jpg
【Photo】在来作物を伝える生産者が、行政・研究者・料理人と結束して地域の宝を守ろうとしている庄内。今年7月、al.chè-cciano の隣に開店したカフェ il.chè-cciano のオープニングパーティに集った「藤沢カブLink to back Number」「平田赤葱Link to back Number」「カラドリイモ」「ヤマブドウ」などの生産者・研究者と店のスタッフ。彼らは固い信頼で繋がっている
 
 2003年11月には「山形在来作物研究会(略称:在作研)」が発足しました。在作研には、研究者・行政・料理人・生産者・一般消費者など、県内外のさまざまな立場の人々からなる360人ほどの会員が現在参加しています。在作研の母体となった山形大学農学部は、1947年に前身の山形県立農林専門学校が設立されて以来、ずっと鶴岡の地に置かれています。当初、実習に欠かせない演習用地探しが内陸の村山地域で難航していたところに、1945年に当時の加藤精三 鶴岡市長(加藤紘一衆院議員の父)が周辺町村に呼びかけて用地提供を含めて誘致に乗り出した経緯があります。

 1949年から山形県立農林専門学校で教鞭をとり、山大農学部の教授を1976年まで務めた青葉 高氏(1916~1999)は、著書「北国の野菜風土誌」(東北出版企画 1976)や「野菜-在来品種の系譜」(法政大学出版局 1981)の中で、かけがえのない在来作物の価値を指摘、わが国でいち早く保護の必要性を訴えた研究者です。日本が飽食の時代を迎えた1980年代中盤以降、京野菜や加賀野菜が脚光を浴びる以前から、山形には在来種の価値を見抜いていた先人がいるのです。在作研では、現在年1回の公開行事と会員向けの会報「SEED」を発行しています。青葉氏が撒いた種は、教え子や遺志を受け継ぐ人々によって芽吹き、在来研を通して実を結びつつあるのです。

dokokanohatake.jpg【Photo】表紙は温海カブ。かけがえのない地域の固有の遺産である在来作物が数多く残る山形の底力を知るには最適の一冊「どこかの畑の片すみで」

 今年(2007年)8月末、山形大学出版会から在作研が編纂した「どこかの畑の片すみで」が出版されました。研究者向けの専門的な内容ではなく、身近かにある宝物の価値を一般消費者に認識してもらうための、平易な読み物となっています。冒頭では、生物多様性が必要な理由や、在来作物の保護の必要性が解りやすく解説されています。在来研の幹事を発足以来務める江頭准教授と在来研のメンバーに名を連ねるアル・ケッチァーノ奥田シェフによる対談を挟んで、地元・山形新聞夕刊に連載中の「やまがた在来作物」で紹介された45 種の在来作物の物語が写真入りで紹介されています。そこでは足掛け5年にわたる綿密なフィールドワークを通して、在作研が確認した個性豊かな在来作物とともに風土が生み出した貴重な種を受け継ぐ人々の声が紹介されています。

【Photo】2006年3月に鶴岡を訪れたイタリア・マルケ州アンコーナ県 Arceviaアルチェヴィアのシルビオ・プルガトーリ町長(中央)から、地元の在来作物を守る取り組みに対し、表彰状を贈られた江頭准教授(右)と奥田シェフ(左)

 しかし現実に立ち返ってみると、人の手による品種改良が加わった商業品種と比べれば、生産効率が悪く、個体間のばらつきが出やすい在来作物は、種を受け継ぐ人たちの高齢化も手伝って、急激に数を減らしています。山形県内各地の畑を精力的に回る江頭先生は、「去年までは作っていた」「数年前までは見かけた」という言葉とよく出くわすといいます。現代のバイオテクノロジーをもってしても、一度途絶えた種は、もう永遠に甦らせることはできません。まさに覆水盆に帰らず。在来種が途絶えることは、単にひとつの品種の滅びと、先人が残した生産技術の消失を意味するのではありません。それは特徴ある食べ物や生産物にまつわる暮らしぶりや調理法など、営々と受け継がれてきた地域の記憶とかけがえの無い財産の消失にほかならないからです。

 あなたもそんな畑の片すみに目を凝らしてみませんか?

************************************************************************

どこかの畑の片すみで =在来作物はやまがたの文化財=
山形在来作物研究会 編  発行:山形大学出版会
A5判 167ページ  本体定価1,429円+税

山形在来作物研究会
URL:http://zaisakuken.jp/

baner_decobanner.gif

2007/11/21

鮭を極める哲人

「味匠 喜っ川」の深遠なる世界

「鮭のまち村上」より続き

 私が一年だけ山形エリアを担当した 2003年の夏。新潟県境の小国町から新潟県岩船郡関川村を経由し、庄内へと向かう途中で通りかかったのが、村上との最初の出逢いです。カーナビを頼りに迷い込んだのが、情緒ある店が点在する大町周辺と細い路地が続く寺町一帯でした。その風情ある黒塀の街並みに「へぇ~、いい町だなぁ」(寒っ! )と思ったことを今もありありと覚えています。その記憶をもとに村上を再訪したのは、本社勤務となって3年目の 2006年春のことでした。

【photo】
市民の手になる 5,000 本の竹灯籠が、黒塀の風情ある町並みに灯され、揺らめくロウソクの明かりが幽玄の世界へと誘う「宵の竹灯籠まつり」(10月第二土曜・日曜に開催)。二日間の祭り期間中、この「浪漫亭」ほか市内数箇所で琴や尺八・大正琴などの市民手づくりの演奏会が催される


 三面川に面した「イヨボヤ会館」から国道345号線を越えて歩みを進めると、ほどなく落ち着いた寺町へと辿り着きます。特徴的な白壁土蔵造りの浄念寺の角を左折すると、そこは城下町らしい佇まいを見せる安善小路。かつて若旦那衆は、借金をしてまで料亭や置屋が点在する寺町周辺に通じる通称"親不孝坂"を行き来したのだとか。小路の由来となった安善寺の山門前を過ぎ、黒塀が続く通りを左に折れると、ひときわ大きなお屋敷「浪漫亭」が目に飛び込んできます。新潟の地銀「第四銀行」の支店長宅としてかつて使われていた総二階造りの屋敷の主こそ、鮭の町村上を代表する鮭の加工品を手掛ける老舗「味匠 喜っ川」の15代目 吉川 真嗣(きっかわ しんじ)専務その人です。村上の景観に重要な役割を果たしていた、この歴史的建造物が売りに出され、取り壊される可能性が強いと聞いて、自ら建物を買い取ったのが2002年。大正浪漫風の内装にリフォームして自らの住まいとする一方、後述する催し物の会場としても一般に公開。町の賑わい創出に一役買っています。

【photo】伝統文化に新たな価値を付加して見事に花開かせた"村上ルネッサンス"の仕掛け人・吉川 真嗣 専務

 大型複合商業施設誘致や旧市街の再開発に誰も異論を唱えなかった1998年。戦後にできたアーケードで覆われた大町など村上中心部の商店街は、郊外にできた大型店に客足を奪われ、すっかり活気を失っていました。持ち上がった旧市街地の道路拡張計画に対し、町屋・寺町・武家町・城址が揃って残る全国でも珍しい城下町村上の魅力を失ってはならないと、単身反旗をひるがえしたのが吉川氏でした。ここ数年で、日本の地方都市の郊外には至るところ同じような商業施設が並ぶ金太郎飴のような景観が広がるようになりました。

 かたや客足が遠のいた旧来の商店街中心部の活性化は、地方都市が抱える共通の課題です。村上には売り場と生活空間が通路で一体となった奥行きのある町屋造りの店が今もなお残っています。吉川氏は、表を素通りしただけでは判らない建物自体の魅力に着眼しました。そこで伝承されてきた雛飾りや屏風などを含め、"自らの足元にあるもの"を巧みに組み合わせて観光資源として公開し、町の活気を取り戻そうとしたのです。後に「町屋の人形さま巡り」や「屏風まつり」clicca qui といった歴史ある城下町ならではの風情ある催しで、多くの人を呼び寄せることに成功します。この地域起こしの取り組みは、吉川氏が商店街を一軒ずつ説得して始まったものでした。

kikkawazashiki.jpg【photo】毎年 7月 7日・ 8日に開催される村上大祭に繰り出す「おしゃぎり(=山車)」の模型(写真右下)が飾られた「喜っ川」の茶の間。お仏壇と神棚が上下で組み合わされる村上の町屋造りの特徴を備えている。大きな一枚板の幅木が奢られた上がりかまちは来客が座敷に上がる際に使うもので、家人は一段低い右側の上がりかまちを使う点はいかにも商家らしい。写真下は毎年春に開催され、多くの観光客で町が賑わいをみせるようになった「人形さま巡り」開催中の喜っ川の茶の間。あでやかな段飾りの雛人形と全国各地から集めた素朴な土人形の数々が、落ち着いた小さな囲炉裏のある茶の間を賑やかな祝祭空間へと一変させる

kikkawahina.jpg【photo】"うちの人形さま"と呼び習わすほど大切に伝えられてきた村上の人形飾り。毎年 3月 1日~ 4月上旬に開催される「町屋の人形さま巡り」では、さまざまな時代の雛飾りに加え、三河から伝わった素朴な大浜人形(村上土人形)・武者人形・市松人形など 4,000体が 75軒もの町屋で公開される。一ヶ月間の人形さま巡り開催期間中に 3万人が訪れたという初年度 2000年、これといった特徴のない閑静な一地方都市であった村上市にもたらされた経済効果は1億円。それが現在では 5億円ともいわれる。まつり期間中、人口3万のこの町は、たいへんな賑わいをみせる

 真嗣氏は現社長である父君と母上を説得し、江戸情緒溢れる瓦葺屋根と格子窓・障子戸を備えた店構えに改装します。それを皮切りに、市民基金による店舗の歴史的外観の再生と町に賑わいを取り戻すための新たな試みに着手したのです。出資者を募って黒塀を1枚1,000円で購入してもらい延伸する「黒塀プロジェクト」や、黒塀通りを5,000本の蝋燭の灯火が照らす「宵の竹灯籠まつり」、「十輪寺えんま堂の骨董市」など、城下町村上に新たな魅力を加える事業を次々と仕掛けてゆきます。その実績から、氏は2004年に国交省認定の観光カリスマ百選の一人に選定されています。今年43歳になる真嗣氏をして「まだ本業のモノ作りでは親父には敵(かな)わない」と言わしめるのが、14代目主人・吉川 哲鮭(てっしょう)氏です。来店客に気さくに話しかける哲鮭氏の語り草は、いかに村上の鮭文化が深遠なるものかを気付かせてくれることでしょう。

    s-shiobiki.jpg kikkawashiobiki.jpg

【photo】鮭の町・村上の歴史と風土が生み出す塩引き鮭。現当主・吉川 哲鮭氏の手で風干しされ、旨みが凝縮した塩引き鮭の身と皮は、鮭に関する既成概念を覆して余りある

 今でこそ鮭の町として知られる村上でも、太平洋戦争を挟んで戦後間もない頃には、三面川の鮭は途絶えたといわれるほど漁獲高が激減しました。"先人が残した村上の鮭文化を絶やしてはならない"と立ち上がったのが一部の地元の人々でした。そんなひとり先代の豊蔵氏は、奥様と共に鮭料理の講習会を催し、忘れ去られようとしていた鮭料理の素晴らしさを地元の人々に伝える活動を始めたのです。そんな父の姿を目にしていた現社長の哲鮭氏は、稼業を鮭の加工一本に絞り、伝統の味に磨きをかけるべく研鑚を重ねます。やがて食料事情が豊かになり始めた高度成長期、地元でも鮭がないがしろにされた時代もあったのだそう。そんな時代に抗うように哲鮭氏は化学調味料や保存料などを一切使わずに、村上の風土に根ざした味を追求し続けてきたのです。

【photo】村上ならではの加工品「鮭の酒びたし」。喜っ川では漁期後半に汽水域で揚がった 5kg以上の赤い婚姻色が出た魚体のオス鮭のみ使用。漁期を通じて数匹しか揚がらない希少な10kgを越える個体も。遡上に備えて汽水域に留まる日数によって、鮭の顔つきが変わってくる。そこに長く留まっていた鮭ほど、オス同士の諍(いさか)いによって凄まじい形相になるという。漁期前半に多い早生(わせ)の鮭は、余分な脂肪で酸化が進むため酒びたしには不向き。卵に栄養を取られるメスも身に旨みが乗らないので使用しない。開け放たれた母屋の窓からは北西から吹く新鮮な風が出入りし、発酵という自然が織り成す神技の手助けをする

 墨痕鮮やかに「鮭」と記された「味匠 喜っ川」の暖簾をくぐると、店内には三面川の居繰網漁(いぐりあみりょう)で使われていた舟が置かれています。先代の豊蔵氏までは鮭製品だけではなく、造り酒屋も営んでいたという喜っ川。店頭には甕に入った冷たい井戸水が置かれ、かつての仕込み水を味わう事ができます。鮭を余すところなく使ったさまざまな鮭の加工品が並ぶ売り場の先は、登録有形文化財に指定された母屋と蔵になります。そこは村上の鮭文化を象徴する風情を湛(たた)えた空間でもあります。

    tesshoushachou.jpg sakebitashi.jpg

【photo】風乾干しされる「酒びたし」(写真右)の鮭が下がる母屋に立つ店の主人・哲鮭氏。町の北側にある下渡山や鷹取山が冷たい北風を遮り、瀬波温泉がある海岸線から 3~4キロ離れた村上の町場は、ゆっくりと熟成が進む発酵に適した湿度が保たれる。「村上の町場でなけばこの味は出せないのです」とは哲鮭氏の弁

【photo】鮭に粗塩を引く真嗣氏。一週間塩蔵した後、水洗いをして風乾干しする。梅雨時の高い湿度が塩分を身の奥まで行き渡らせ、夏の高温で発酵が進み、"仕上げの雨"こと秋雨の時期に味が落ち着く。この過程でタンパク質が旨みの成分である 20種以上ものアミノ酸に変化。一年がかりで深みのある旨みを帯びた酒びたしが生まれる。「"風味"とは風が作り出す味のことなのです」と哲鮭氏は語る
 
 鮭が銀鱗を躍らせるとは良く使われる表現ですが、燻し銀のように輝く魚体は鮭が海にいる間だけで、川へ遡上を始めた鮭は「薄ブナ色」と表現されるくすんだ色に変化します。水の臭いを頼りに生まれた川に戻った鮭が上流域に生えるブナと同じような色の魚体に変化するのは興味深い偶然といえましょう。村上では家々で男が仕込むのが習わしだという「塩引き鮭」。喜っ川では、10月下旬から11月にかけて村上の沖合いと汽水域周辺にいる鮭を使用します。塩引きに適した4.5kg以上の魚体を哲鮭氏が目利きします。一尾ずつ浸透圧が異なる鮭の状態に合わせて、塩を引く加減を変えるという哲鮭氏。塩を引いていると、鮭が「もういいよ」と手を伝って語りかけてくるのだとか。「のべつ同じ加減であれば、機械だって仕事はできるでしょう? 」もはや名人の域に達した哲人は、そう言って目を細めました。

         sakehannbo.jpg
【photo】「簠(はんぼ)」と呼ばれる浅い楕円形の桶で4~5日寝かせた後、水洗い。その後一ヶ月弱店内に吊るされて発酵熟成される「塩引き鮭」。簠とは元来、神様への捧げ物を盛る器の名。これは鮭がいかに神聖視されていたかを物語っている。一般に流通する新巻鮭は、鮭に塩をした直後に冷凍されたもの。自然解凍によって塩を身に馴染ませるだけで、村上の塩引き鮭のように気候風土と発酵作用が味を作り上げるものではない。皮まで滋味深い塩引き鮭を一口含めばその香りと味の違いは歴然

 2007年11月22日(木)に仙台で催される「宮城ブランド発信フェスティバル」(主催:河北新報社)の際に基調講演をしていただくべく、8月末に吉川専務のもとを訪れました。さらにイタリアから訪れたジョルジョ・チリオ氏らと「宵の竹灯籠まつり」にボランティア参加するため、再訪を果たしたのが10月14日。ちょうど今年の鮭漁が始まったばかりの時でした。その二度とも親子二代から身に余る厚遇をして頂きました。

    shachouocha.jpg murakamicha.jpg
【photo】驚くほどの旨みを持つ村上茶を頂きながら、哲鮭氏の話を伺ううち、村上の伝統文化がいかに奥深いものかに気付くはず

 村上には「亭主の茶」という習慣が残っています。その家の主(あるじ)が、先祖伝来の茶器を使って客人をもてなすのです。お茶の栽培が奨励された江戸期においては、村上は北限の産地とされ、寒冷な気候で生育が遅い分、渋味が少なく甘さを感じる在来種のお茶が育つのです。専務には浪漫亭で、社長からは母屋の座敷で、薫り高くまろやかな村上茶でもてなしていただきました。様式美すら感じさせる澱みのない所作で淹れられた村上茶の味わいは、決して忘れ得ぬものです。

 もともとの家業であった味噌・醤油から造り酒屋を経てきた蔵に隣接して、大正期に作られたという糀室(こうじむろ)があります。江戸の創業当初から発酵食品を手掛けてきた吉川家。先祖伝来の昔ながらの完全手造りによる麹(こうじ)作りが、今もそこで行われています。麹の仕込みが行われるのは 1月~3月にかけての厳寒の時期。米を炊き上げるのは、樹齢500年の秋田杉を材料に能代の職人に特注で作ってもらったという、底板の中心に10cm弱の穴が開いた「甑(こしき)」(⇒樽型のせいろ) 【clicca qui】。厳密な温度管理を要求される麹室での麹菌の培養には、寝ずの番をしなければなりません。木目を通して余分な水分を飛ばしてくれる甑で炊き上げた米は、絶妙な具合に仕上がるといいます。村上では、正月に鮭の熟(な)れ寿司を食する習慣があります。塩引き鮭とハラコにご飯と麹を混ぜて室温に置き、発酵が進んだ一ヶ月を経過した頃が食べごろ。子どもの頃、真嗣氏はこれが大の苦手だったそうですが、今ではこの熟れ寿司を食べないと正月を迎えられないのだとか。熟れ寿司に使用する米麹を伏流水で仕込んだ天然甘酒「雪乃華」もまた絶品です。
     koujimuro.jpg amazake.jpg
【photo】神棚が祀られた麹室の入口には「学を修め 技を極め 一(はじめ)に還る」という哲鮭氏の警句が貼られてあった(写真左) 良質な米麹ともち米に由来する柔らかな甘さは後を引く美味さ。天然甘酒「雪乃華」180cc 税込315円(写真右)

 作務衣姿で店に立つ哲鮭氏の頭の被り物には、魚偏に「生」と書いてサケと読む昔ながらの村上の当て字が染め抜かれています。平安期より、村上では自分たちを生かしてくれる鮭への感謝の気持ちを込めてこの字を使っていました。敢えてその字を用いて、日々鮭と向き合う哲鮭氏の姿に、鮭とともに生きてきた村上の伝統と、それを受け継ぐ者の気概を見たのでした。

************************************************************************

味匠 喜っ川(みしょう きっかわ)
kikkawalogo.jpgmishoukikkawa.jpg
住所:新潟県村上市大町1-20 
TEL : 0254-53-2213    FAX : 0254-53-2213
URL : http://www.murakamisake.com/ 
※喜っ川の正式表記は「喜」の略字である「七」が三角形に組み合わされた字をあてる

baner_decobanner.gif

2007/11/18

鮭のまち村上

s-2006.3.5%20031.jpgs-2006.3.5%20032.jpg

【photo】村上城址から見た村上。正面には下渡山と日本海へと注ぐ三面川が望める

 越後村上藩15万石の城下町として栄えた新潟県村上市。
鬱蒼とした木々に覆われた臥牛山(がぎゅうざん)山頂の村上城跡からは、人口3万人あまりの村上市街と下渡山(げどやま)を巻き込むようにして日本海へと流れ着く三面川(みおもてがわ)が望めます。落ち着いた佇まいの旧市街には、昔ながらの武家屋敷や印象的な黒塀が続く寺町、町屋造りの商家の家並みが残ります。

   ROMANTEIKUROBEI.jpg SOUSENDO.jpg
 

【photo】かつて地方銀行の支店長宅として使われていた「浪漫亭」(写真左)
趣ある金看板が目印の和菓子店「早撰堂」(写真右)
 

           EDOSHOU.jpg TAMURASAKETEN.jpg
 

【photo】名産の村上牛を食せる風情ある店構えの「江戸庄」(写真左)
〆張鶴・大洋盛など村上の銘酒は櫓が目印の「田村酒店」へ(写真右)

細工町・塩町・鍛冶町・肴町などの町名からは、町人・職人が住まったかつての名残りが伺えます。伊達藩制時代に推奨されながらも一度は途絶えた仙台堆朱の伝統を明治末期に復活させたのは、仙台に招かれた村上の堆朱職人・川崎栄之丞でした。今ではウレタン塗装が当たり前になってしまった仙台堆朱とは異なり、今も木彫りと漆塗りの匠の技を受け継ぐ村上木彫堆朱は、経産省指定の伝統的工芸品に指定されています。
s-tsuishu.jpg urushiyakin.jpg

【photo】木地師・彫師・塗師らが伝統の匠の技を発揮して精緻な文様を施す村上堆朱(写真左)。かつては栽培の北限と言われた名産の「村上茶」の産地にふさわしく、茶器の種類が豊富。村上には、茶碗の欠けたところ(写真右:金色の箇所)を見事に修理する腕を持った漆職人と金細工職人がいる。鮭加工製品の老舗・喜っ川の吉川社長によれば、こうした茶碗は「景色が変わった」と言って愛でるという

 仙台の市街地を流れる広瀬川など、鮭が遡上する川は日本各地にあります。新潟と山形の県境に連なるブナ林が広がる大自然を湛えた朝日連峰に端を発する清流・三面川は、鮭の川として知られています。わけても村上の人々が営々と築いてきた鮭の食文化は特筆すべきものです。頭から尾に至るまで捨てるところなく加工・調理される村上の鮭料理は、優に100種類以上にのぼります。毎年秋になると産卵のために三面川に戻ってくる鮭は、たとえ飢饉の年でも人々の貴重なタンパク源となったことでしょう。晩秋から春にかけてこの町を訪れると、家々の軒先に下がる鮭を目にします。特徴的なのは、腹を真一文字に割くのではなく、腹びれのあたりを一箇所を残して切る「止め腹」と呼ばれる仕込み方。豊かな恵みをもたらす鮭に切腹させることを忌み嫌った城下町村上ならではの慣わしです。村上で鮭を指す言葉「イヨボヤ」の「イヨ」とは、平安時代に編纂された辞書「和名抄」によれば、魚(ウオ)から転じて魚を指す言葉です。そして「ボヤ」は魚を指す村上の方言。つまりイヨボヤとは、鮭に対する親しみと敬いの気持ちを込めた"魚の中の魚"を意味する呼び名なのです。

【photo】家々の軒先に下がる「止め腹」をした塩引き鮭は、村上の晩秋から冬にかけての風物詩

 平安中期の律令細目を記した延喜式(927年)には、村上の鮭が京都まで運ばれていたことを示す記載があります。そこには「鮭楚割(さけそわり)」⇒塩引き、干物 ・「背腸(せわた)」⇒血合いの塩辛、めふん ・「鮭内子(こごもり)」⇒子をもった雌鮭 ・「氷頭(ひず)」⇒頭部の軟骨 ・「鮭鮨(さけずし)」⇒内臓を除いた鮭に米と酒を詰めて発酵させた熟(な)れ寿司 ・「鮭子(さけこ)」⇒スジコなどの表記が見られ、当時から鮭をさまざまに加工・調理していたことが窺えます。漁業権の入札制度が導入された江戸時代、資源保護の観点から稚魚の捕獲が禁じられます。同時に鮭の成育環境保持に森が果たす役割に気付いていた村上藩は、町の対岸にあたる下渡山から河口近くにある多伎神社(たきじんじゃ)周辺のタブノキなどの照葉樹林の保護に乗り出します。現在でこそ漁業資源と森林資源が密接に関係している事は周知の事実ですが、「魚つき保安林」の先駆けともいうべき村上藩の「御留山(おとめやま)」制度によって無用の入山や、許可無く木を伐採することが制限されました。鮭の成育に果たす樹木の役割に気付いていた村上の先人の知恵には驚きを禁じえません。こうした保護政策によって、鮭がもたらす税収は村上藩の財政を支える重要な柱になってゆきます。

      s-miomotegawa.jpg
【photo】白雪に覆われた朝日連峰に端を発する「三面川」。豊かな鮭文化を村上の地に育んできたのは、この母なる川にほかならない

 当時は漁獲高に応じて漁師が納める租税額が決められていました。しかし、江戸中期になると、乱獲のため鮭の漁獲量が激減します。それは漁業者と藩にとって大きな痛手となります。この状況を打開したのが、川役人をしていた下級藩士・青砥 武平治(あおと ぶへいじ・1713-1786)でした。武平治は鮭の母川回帰性を世界で最初に発見した人物として今も語り継がれています。ことによると武平治は三面川流域の人々から、鮭が生まれた川に産卵のため戻ってくるのではないかという話を耳にしていたのかもしれません。治水の専門家だった武平治は、鮭の産卵環境整備の必要性を藩に具申します。それを受けた藩は、鮭の産卵に適した流速が穏やかで清冽な湧水が湧き出る場所に産卵床が設けます。

 1763年からはおよそ30年の歳月をかけて鮭の産卵に適した水深に設計された支流(種川)が、三面川と枝分かれして造られます。武平治が考案したこの世界初の自然孵化(ふか)施設の成果は目覚しいものでした。乱獲によって漁獲高が減少する以前は、豊漁時でも200~300両ほどだった税収が、この「種川の制」が導入されるやいなや1,300両あまりに、幕末期にはおよそ2,000両へと増えたといいます。明治17年に三面川で確認された73万7千匹という遡上数は、我が国における最高記録です。

 漁業資源の枯渇が叫ばれる今、その必要性が増す "捕る漁業"から"育む漁業" への転換は、世界に先駆けて村上から始まったのでした。

【photo】鮭公園に建つ 青砥 武平治 の像

 廃藩置県後の1878年、米国で編み出された鮭の人工孵化技術を導入した日本初の人工孵化場が村上に設けられます。漁業資源保護のための鮭の捕獲は、遡上の時期に川幅いっぱいに設けられる堰(せき)「ウライ」で行われています。最盛期には1日に1,000匹あまりの鮭がかかることもあるといいます。ウライの下流域では、引き網による捕獲に加え、今日では村上だけに伝わる伝統漁法「居繰網漁(いぐりあみりょう)」が行われています。二人乗りの小さな木舟が組になって鮭を追い込むこの漁法や、針に鮭を引っかけて竿で釣り上げるダイナミックな「テンカラ漁」も晩秋から冬場にかけての村上ならではの光景です。

            Iguriami.jpg
【photo】三面川の居繰網漁。二人乗りの木舟が 3~4艘で一組となり、鮭を追い込んだ上で網で捕獲する

 村上と鮭の関係を知りたければ、まずは種川の堤防を挟んで隣接する鮭公園内にある「イヨボヤ会館」を訪れてみましょう。この日本で最初の鮭に関する博物館では、この地の人々がいかに鮭と深く関わってきたかを知ることができます。三面川の四季の移ろいや青砥 武平治の功績を映像で紹介しているほか、漁具の展示・子ども向けの学習コーナーなども。館内には孵化場が設けられ、漁が始まる10月中旬から4月にかけては鮭の孵化・飼育を行っています。地階は種川の川底へとつながっており、遡上シーズンには、ガラス越しに鮭が群遊する様子や、運が良ければ感動的な産卵シーンを間近かに見ることができるでしょう。

 「イヨボヤ会館」で村上と鮭に関する理解を深めたところで、ぜひとも訪れていただきたい鮭の町村上の心と技を伝える一軒の老舗へ次回「鮭を極める哲人」にてご案内します。

************************************************************************

イヨボヤ会館
iyoboyakaikan.jpg
新潟県村上市塩町13-34  TEL 0254-52-7117 FAX 0254-53-4300
URL http://www.iwafune.ne.jp/~iyoboya/
開館時間 / 9:00 ~16:30 休館日 / 12月28日~1月4日 
入館料 : 大人600円 小中高生300円 団体料金(20名以上)大人500円 小中高生250円

村上市へのアクセス】
JR利用の場合 / JR羽越本線 村上駅下車
自動車の場合 / 磐越自動車道⇒日本海東北自動車道・中条IC下車⇒国道7号線経由 または 東北道 福島飯坂IC下車⇒国道13号線⇒米沢⇒国道287号線・国道113号線経由(※3年連続水質日本一の清流「荒川」が流れる関川村周辺の美景が楽しめるルート) または 鶴岡方面からは国道7号線⇒国道345号線経由(※周辺きっての美しさを誇る名勝「笹川流れ」を経て日本海沿いを南下するルート)


baner_decobanner.gif

2007/09/28

平田の赤ねぎ

 江戸幕府の御用商人・河村瑞賢によって開かれた西回り航路の北の基点として、最上川交易の集積地であった湊町・酒田。1893年(明治26)の稼動以来、114年を経た今も庄内米を備蓄する山居倉庫の黒い板壁と、冬の季節風や西日を遮るため明治期に植えられた欅並木が、季節ごと美しいコントラストを見せます。井原西鶴の日本永代蔵で日本海側随一と称えられた酒田の繁栄を支えた商家「三十六人衆」のうち、現存する旧鐙屋(あぶみや)や本間家旧本邸の豪奢な佇まいに、活気に満ちた往時の面影が偲ばれます。

Sankyo_Souko.jpg【Photo】緑したたるケヤキ並木が美しい初夏の山居倉庫

 酒田のみならず、山形県を貫流する最上川沿いには北前船交易の遺産が残ります。小鵜飼舟や一回り大きい艜(ひらた)舟といった小舟で最上川河口の酒田まで運ばれた物資は、そこで大きな千石船に積み替えられ、海路上方へと運ばれてゆきました。江戸期より重要な交易品だった紅花の産地・山形内陸の河北町谷地(やち)には、享保雛や古今雛などの雛人形が、江戸期から明治にかけて紅花商人たちによって上方からもたらされました。これらの雛飾りは、旧暦のひな祭り(4月2日・3日)に公開されています。

      IMG_1245.jpg
【Photo】享保10年に創業した庄内町の造り酒屋「鯉川酒造」所蔵の江戸末期の雛飾り二対。11代目当主佐藤一良社長のご好意で見せていただいた天保雛cliccca qui と古今雛clicca qui (一般非公開)

 近年では最上川沿いの山形県内各地で、今に残る雛飾りを公開するようになりました。最上川河口に位置する酒田や近郊の鶴岡など、庄内地方でも「庄内ひな街道」と称してその地に伝わる雛人形を春先に公開しています。商家や武家で母から娘へと大切に受け継がれてきた艶(あで)やかな雛人形は、洗練された上方文化の粋を物語る見事なものです。

        IMG_1246.jpg
【Photo】同上所蔵 甲冑姿の神功皇后(右)と皇后の子・後の応神天皇を抱く武内宿禰(左)(一般非公開)

 江戸末期、酒田から最上川を遡った小鵜飼船が最初に立ち寄る宿場だったのが山形県飽海郡平田町(現 酒田市)飛鳥地区でした。この地で一夜を明かした船頭と商人らは、次の宿場となる川上にある戸沢村 草薙温泉を目指して最上川を再び上って行ったといいます。現在では護岸工事で堤防が築かれたために、当時の船着場の面影はありませんが、集落の名の由来となったと推察される飛鳥神社【注1】 がある現在の集落付近まで当時は最上川が蛇行していました。もとより日本三急流のひとつ最上川のこと。雨による増水はもちろんのこと、日照りによる渇水などで船の航行が困難となることも稀ではなかったはずです。地元の言い伝えによれば、上方よりこの地を訪れた商人が何らかの理由で飛鳥に足止めをくい、その際に美味しい湧き水でもてなされたお礼に、とあるネギの種を置いてゆきました。その種は、最上川北側の水捌けのよい砂を含む肥沃な堆積土壌の飛鳥の地で適応し、川下の砂越地区や西隣の楢橋地区でも代々伝えられてゆきます。

mtchokai.jpg【Photo】堆積土壌の飛鳥地区は水捌けが良く、栽培が難しい赤ねぎの栽培に適しており、休耕田を転用した赤ねぎの畑が広がる。地名の由来となった飛鳥神社は写真右手奥にある。彼方に聳えるのは鳥海山

 それが今回の物語の主役、在来野菜「平田赤ねぎ」です。茎が根本から枝分かれ(=分けつ)しない形状の一本葱で、土寄せをする土中の葉鞘部が鮮やかな赤紫色を呈するのが特徴。強い芳香を放つ平田赤ねぎは、そのまま刻むとシャキシャキとした強いネギ特有の辛味を伴います。加熱すると一転、糖度が 5.9度から 8.1度に上昇、まったりとした甘みが加わります。よって、薬味や鍋料理に使用すると素材の持ち味が活きるネギといえましょう。山形大学農学部 五十嵐 喜治教授の分析によって、赤色部分にアントシアニンやポリフェノールを含むことが判明しています。また、通常の長ネギに比べてビタミンCの含有量が多く、風邪の薬用としても重宝されてきました。

shouhin.jpg【Photo】豊富なアントシアニンによって、茎が赤紫色を呈する平田名産の赤ねぎ。平田赤ねぎ生産組合から出荷されるこの鮮度保持フィルムのパッケージには、赤ねぎの由来が記されている

 通常の長ネギは栽培に要する期間が 6ヵ月(180日間)なのに対し、この赤葱は、収穫までに倍以上の14ヵ月もの長い時間を要します。伝統的な栽培法では、8月から 9月かけて畑に播種(はしゅ)をした後、発芽後の仮植えを経て一年後の夏に分けつした個体を除いて土寄せをして定植。里に雪の便りが届き始める11月から 12月にかけてが収穫の最盛期となります。それだけ手間がかかる露地栽培の赤葱には天候によるリスクが伴うのです。赤葱が栽培される旧平田町の最上川沿いは冬季間、時として猛烈な北西の季節風が吹きつける地域。2005年12月25日に発生したJR羽越線の脱線事故現場は、赤葱の畑が広がる最上川の河川敷とすぐ目と鼻の先にあります。5人の尊い命が失われたあの痛ましい事故の原因は局地的な突風だったといわれている通り、遮蔽物の無い最上川沿いは季節風の通り道となります。この強烈な風に庄内地域特有の霰(あられ)が混じったり、冬場に多く発生する雷と共に雹(ひょう)が降ると、柔らかな葉の部分に黒班ができてしまい、商品価値が失われてしまいます。そのため、食味は優れているものの、ごく最近までは一部の農家の畑で自家用として細々と栽培されてきたに過ぎませんでした。

sig_goto.jpg【Photo】畑で赤葱の説明をして下さった後藤 博 平田赤ねぎ生産組合長

 そんな状況に変化をもたらしたのが、7年前に設立された農産物直売所「めんたま畑」の登場でした。厳冬期を除けば、四季おりおりに多彩な産物に恵まれた庄内地方は、地産地消が盛ん。いわば個性豊かな産直施設の激戦区です。当時、平田町地産地消推進協議会会長だった同町農林課長 前田 茂実 氏(55)が「特色ある農作物を商品化できないか」と相談したのが、県立庄内農業高校の 2年先輩で親しくしていた飛鳥地区の篤農家 後藤 博さん(57)でした。後藤さんはそれまでも河川敷に広がる田んぼの一角にある畑で自家用の赤葱を栽培していました。それまでは転作地で大豆の栽培もしてきましたが、連作障害が出やすく新たな転作作物を模索していた時期でもあったといいます。何とか伝統ある赤葱を特産化できないかと考えた後藤さんは、赤葱の特徴である鮮やかな赤色と太さを備えた葱の種を分けてくれるよう、周辺の農家を一軒ずつ回ったのです。庄内地方は自家採種が盛んな土地柄でしたが、もとより収量が少ない赤葱の種は思うように集まりませんでした。どうにか集まった種で10a ほどの作付けをし、特産化に向けた挑戦を始めました。

saishu.jpg【Photo】今年7月初旬に訪れた後藤さんの畑では、採種用の赤葱のネギ坊主が風に吹かれていた

 まず県の出先機関である庄内酒田農業技術普及課と共に取り組んだのが、およそ14ヶ月を要していた栽培期間の短縮でした。国内で他に赤葱が栽培されている生産地として知られているのは茨城と広島の 2ヶ所のみ。栽培法の研究のために、そのひとつ茨城県東茨城郡桂村(現 城里町)を訪れたりもしました。そこで実践していたのが育苗用のセルトレイに播種してハウス内で栽培する手法だったといいます。この栽培法を取り入れることによって、厳冬期の 2月から 3月にかけて播種した後、仮植えをせずに 4月から 5月にかけて定植。10月以降 12月末に畑が根雪で覆われるまで続く収穫期までの所要期間を およそ 9ヶ月に短縮することができました。しかし、栽培を始めた 2000年から 2002年にかけては、思うような太さに生育しない個体が多く、収量もごくわずか。地元の秋祭りなどで売り出すのがやっとだったといいます。赤葱の命とも言うべき赤の発色が悪く、全く色付かないものも全体の 1割ほど発生。そのため、苦労して育てたネギの大方をトラクターで潰さざるを得なかったのです。

      7.1hatake.jpg
【Photo】定植後 間もない赤葱。丈は15cmから20cmほど

 そもそも平田の赤ねぎは、「仙台曲がり葱」同様、斜めにネギを定植させる栽培法だったため、湾曲した形状をしていました。めんたま畑では、そうした在来種の姿を伝える「曲がり赤ねぎ」を主に地元向けに扱っています。一方、首都圏などに赤葱を出荷しようとしていた後藤さんらは、大方の流通・小売サイドの「曲がったネギは扱えない」という要請に応えるため、畝(うね)を高く盛り上げて根から茎までを土で覆って、葱の形状をまっすぐにする工夫を加えたのです。更に個別に袋詰めをして、野菜の見栄えを気にする消費者心理に巧み訴えてゆきます。こうして試行錯誤を繰り返しながらも、徐々に手ごたえを感じ始めていた2003年春、赤葱の特産化に向けた町主催の説明会が行われました。後藤さんは、この日集まった平田町一円の農家 12戸と共に、栽培法や販路の確立に向けて「平田赤ねぎ生産組合」を発足させました。世話役だった後藤さんが組合長に推挙されます。それから、以前は大豆を育てていた圃場 30 aで赤葱栽培が本格稼動し始めたのです。そのころ開設 3年目を迎えていた「めんたま畑」組合加盟の生産者 10戸も赤葱栽培に本腰を入れて取り組み始めていました。

brushup.jpg【Photo】収穫の最盛期、畑の近くにある作業場では陽が落ちてもは作業続く。持ち込まれた赤ねぎは一本ずつタオルで磨き上げられた上で、鮮度保持フィルムに包まれ出荷される

 優良種の選抜による改良を加えるなど、関係者の熱意は徐々に実を結んでゆきます。出荷先の首都圏では、平田赤ねぎの優れた食味は市場関係者の高い評価を受けます。通常の長ネギの 3倍近い高値で取引されるにもかかわらず、一度口にした消費者は、必ずリピーターになってくれたといいます(何を隠そう、私もそんな平田赤ねぎファンの一人)。生産者たちにそうした確かな反響が届き始め、2004年に 1.5ha、翌年は 2.5ha、そして昨年は 3haと、作付け面積を徐々に広げてゆきます。柔らかな赤葱を傷付けないよう、収穫の際に必ず手で泥を落とした上で薄皮を風圧で吹き飛ばし、仕上げにタオルでやさしく磨き上げるなど、厳格な品質管理を徹底してきた生産者にとって、作付面積が増えるということは、栽培環境の多様化を意味します。平田赤ねぎの栽培には、地中深くまで水捌けが良い堆積土壌が向いていることが、これまでの経験から明らかになってきました。

      at.house.jpg
【Photo】更なる品質の向上を図るべく 2006年から組合で始めた交配用ハウス内での赤ねぎ栽培。その管理は組合員からの信頼が厚い後藤さんが任されている

 そのため平田赤ねぎ生産組合では、昨年から平田赤ねぎの特徴を備えた、いわば純血種の平田赤ねぎを再現・普及させようとする試みを始めました。露地栽培では避けられない受粉時の交雑を避けるため、外部と遮断した環境のビニールハウス内で採種用の赤ネギを栽培するのです。先日、実験中のハウスを後藤さんにご案内いただきました。2年目を迎えた今年は、栽培するサンプルの間隔を広げるなど、山形大学農学部 江頭 宏昌准教授の助言を仰ぎながら、葉鞘部の太さと鮮やかな発色を兼ね備えた個体を絞りつつあるとのことでした。そうして固体ごとの特徴を見極め、食味の良い優良種を厳しく選抜しようというのです。加えて強い季節風と地吹雪で飛ばされる霰(あられ)を遮るために、赤葱の栽培期間中、西側の畑に丈が高いトウモロコシを植えた区画を設け、更なる品質の向上を図るとのこと。 7年前、地域をあげて地元農業活性化の切り札にしようと歩み出した平田赤ねぎは、いまだ改良の道半ばにあるようです。

      shabu.jpg
【Photo】 ある日の我が家の平田赤ねぎ活用簡単メニュー「最強庄内産食材揃い踏み・無敵の豚しゃぶ」 
◆材料:平田産赤ねぎ適量 / 鶴岡市藤島地区 井上農場産 寒い時期が最高に美味しい噛むと畑の水が溢れ出す驚きの小松菜 適量 / 鶴岡市羽黒町産 上品な脂身とキメ細やかな肉質が魅力の山伏豚のバラ肉しゃぶ用薄切り(→しかもアクが出ない!) 適量 ◆つけダレ:しょうゆ / ゴマ油 / ダシ汁 / ニンニクとショウガのみじん切り各適量 ◆お湯 :庄内で汲んだ軟水系の湧き水 ⇒ これより美味しい豚しゃぶがあったら私までご一報を

 産直施設 めんたま畑では、今や赤葱は食味の良さから晩秋から冬場にかけての人気商品として定着しています。県外を含めた市場での高い評価を支える背景には、形状や傷の有無などについて組合が自主的に定めた厳しい出荷基準があります。その際にはじかれた赤葱を有効活用しようと、うどんや煎餅に練りこんだり、甘酢漬けなどの加工品として新たな需要の掘り起こしにも取り組んでいます。2004年から後藤さんが届ける赤葱を使った創作料理を提供している鶴岡市のイタリアンレストラン「アル・ケッチァーノ」のオーナーシェフ奥田 政行さん監修のもと、和洋問わず幅広い料理に活用可能な調味料「赤ねぎROSSO(ロッソ)」の本格販売にもこの秋から取り組むなど、生産者・県・地元自治体・学術研究者・料理人らが一体となって、消費拡大と一層のブランド化を後押ししています。
  
akanegirosso.jpg【Photo】この秋から本格的に販売される万能調味料「赤ねぎROSSO」。ROSSO ロッソ=伊語で「赤」の意。ラベルデザインは鶴岡出身の絵本作家土田義晴氏。平田赤ねぎの旬以外に上記「無敵の豚しゃぶ」をする場合のコク出しにも最適! 130g入り一個840円(税込)

 そんな平田の赤ねぎに心強い後継者が現れました。後藤さんの後輩に当たる庄内農業高校の農業専攻科を今年の春修了した高橋直希さん(21)が、平田赤ねぎ生産組合の仲間に加わったのです。農業後継者の不足は日本の農業生産現場が抱える共通の悩み。高橋さんは、在学中必須の実地研修を自宅のある飛鳥地区で赤葱作りに取り組む後藤さんのもとで12回にわたって受けたといいます。そこで意欲的に生産に取り組む後藤さんたちの姿を見て、自身その輪の中に入って勉強しながらこの道に進もうと思ったのだそう。組合が借りている転作田の一角、30aで高橋さんの赤ねぎ作りが始まっています。

hirataakanegi.jpg【Photo】どうです、この堂々とした千両役者ぶり。生産者や関係者の熱意と創意工夫によって、優良種の選抜が進み、特産化に向けた取り組みを始めて6年を経た昨シーズン。このように見事な赤ねぎが作られるまでになった。鮮やかな緑・白・赤からなるイタリア国旗を連想させるこの配色。前世イタリア人の私にとって非常に親しみが沸くのは当たり前!?

 陽が傾き始めた畑からの去り際、川沿いの堤防の上に立ってみました。背後には滔々(とうとう)とした最上川がキラキラと輝きながら流れてゆきます。目の前には赤葱の緑のじゅうたんが一面に広がります。紅花を積んだ船が往き来した最上川がもたらした一握りの種がこの地で芽吹いてから幾星霜。地元だけで愛されてきた紅差す葱は、今新たな輝きを放ち始めています。その葱が経てきた気の遠くなるような歩みと、厳しい自然の中で代々それを受け継いできた人たちの思いにしばし思いを馳せたのでした。
    fiumemogamis-.jpg
【Photo】枯れススキが風に揺れる堤防の上で。左手には最上川が静かに流れてゆく。収穫を待つ赤ねぎの畑が乳白色の靄(もや)に霞んで見えた

************************************************************************
ひらた農産物直売所 めんたま畑 
  山形県酒田市飛鳥字堂之後83-3 TEL:0234-61-7200
  http://bananan.net/mentama/web/

ひらた悠々の杜 アイアイひらた 直売所 (※平田赤ねぎ生産組合 商品取り扱い)
  山形県酒田市山楯字南山32-4 TEL:0234-61-7520
  http://www.aiaihirata.co.jp/top.html
  
平田赤ねぎ生産組合
  【問い合わせ先】庄内みどり農業協同組合 酒田園芸センター TEL0234-23-4124
  http://ja.midorinet.or.jp/
  アドレス toshikazu@ja.midorinet.or.jp

【注1】大和国高市郡(現 奈良県高市郡明日香村大字飛鳥)の飛鳥坐(あすかにます)神社を分詞、8世紀に現在の社殿が建つ地に勧請したのが起源とされる。興味深いことに、奈良県明日香村には「平田」という地名が存在する。彼の地を訪れたことがある後藤さんによれば、飛鳥坐神社の四祭神のうち、三つまでが平田の飛鳥神社と同じだったという。また、奈良県明日香地方では明治初期までは赤葱が作られていたという資料が存在する。これは、当時から奈良と平田地区との間に何らかの交流があった証拠ではないか?というのだ。だとすれば、北前船の時代よりも遥か以前から平田地区で赤ねぎが育てられていた可能性も出てくる。 さて真相は?

baner_decobanner.gif

2007/06/05

藤沢周平の故郷の味

藤沢カブ @鶴岡市湯田川

 作家・藤沢周平のペンネームの由来となった鶴岡市藤沢地区。信仰の山・金峰山(きんぼうさん)の西側、湯田川温泉のすぐ南東にある集落です。その周辺の山中で在来野菜「藤沢カブ」が作られています。鶴岡でも酒造りが盛んな大山地区にある漬物の老舗「本長」がこの藤沢カブを通年商品のたまり漬や季節限定の甘酢漬で売り出しています。
 
 鶴岡市(旧温海町)の一霞(ひとかすみ)地区周辺の山中で栽培される在来野菜「温海カブ」と比べて、幾分辛味が強い藤沢カブは、葉をつけたまま味噌と酒粕で味付けされて煮込む「蛸汁」(形状が名前の由来だろう)や漬物に加工されて、地元で食されてきました。その甘酢漬けは、発酵食品つながりでしっかりとした赤ワインと最高のアッビナメント(マリアージュ)をしてみせます。

          vinoekabu.jpg
【PHOTO】イタリア・トスカーナ州Castellina in Chianti カステリーナ・イン・キアンティのCastello di Fonterutoli カステッロ・ディ・フォンテルートリの上質な赤ワイン「Siepi シエーピ」と見事な相性を発揮する藤沢カブの甘酢漬
 
 畑でもぎたてをかぶり付くと、すがすがしい辛味と微かな甘味が交差するこの細長いカブを現在栽培するのは、藤沢地区に暮らす後藤勝利(まさとし)さん(65歳)と清子さんご夫妻らのわずかな農家だけ。

                gotosan.jpg
【Photo】2004年(平成16)の秋、鶴岡市の南東部に位置する金峰山の麓に切り開いた畑で、仙台からバスで見学に訪れた「ikuのイタリア料理教室」一行を出迎えた後藤さんご夫妻

 かつて羽黒町(現・鶴岡市羽黒町)手向(とうげ)地区でも同様のカブが栽培されていたため、「手向カブ」と呼ばれていたこのカブは、昭和30年代後半までは同地区で盛んに栽培されていました。ところが、ヒゲ根が増える連作障害が出やすいために、栽培地を毎年変えなくては商品価値が下がる上、急斜面での危険な作業となるため、地区の高齢化も手伝って年を追うごとに生産者が減っていったのです。そして昭和60年を過ぎる頃には渡会美代子さんただ一人が手がけるだけとなっていました。

 1988年(平成元年)、60代半ばを過ぎた渡会さんが " 先祖から受け継いできたこのタネを絶やさないで " と盃一杯分ほどの自家採種した種を後藤さんの奥様に託されたのだそう。以来後藤さんご夫妻は、温海カブを栽培する山の一角でこのカブを大切に育ててきたのです。もはや手向地区では絶滅したといわれる今、ご夫妻の努力で復活を遂げつつあるこの在来種は、地区の名前をつけた「藤沢カブ」と呼ばれています。

          fujisawakabu.jpg
【Photo】収穫したての「藤沢カブ」。カブとはいえ、形状は細長い。葉を含まない根の部分の長さは15cmほど。

 水捌けの良い山の斜面での栽培に向くため、森林維持のために計画伐採される山の区画探しから毎年作業は始まります。

          daybeforeyakihata.jpg
【Photo】2006年(平成18年)に藤沢カブの栽培をした区画の火入れ前日の様子。火を放たない山との境界は、延焼を防ぐために落ち葉を取り除き、下草を刈るなど丁寧な前処理がされる

 お盆前後の酷暑の時期、まだ薄暗いうちに火が放たれます。日の出を過ぎる頃まで、周囲の樹木に放水しながら付きっきりの作業は、深山の急斜面で火を扱うゆえ、細心の注意を要します。

              lightherfire%21.jpg
【Photo】一気に炎が燃え広がらぬよう、周囲の低木や枝が刈り取られた斜面の上部からまずは火が放たれる

          jyojyonihonouga.jpg
【Photo】まだ夜が明けきらぬうちに始まる焼畑作業。7~8人が分散して火勢を見守る中、徐々に炎が下方向に広がってくる

          megahanasenai.jpg
【Photo】炎には後藤さんの目が常に注がれ、必要に応じて周辺の樹木に放水の指示がされる

 火がまだ燻っているうちに種が撒かれ、10月末から収穫が始まります。毎年区画を変えるため、急斜面ゆえの命綱張りや、年によっては収穫したカブの搬出に使うロープウェー作りなどのインフラ作りを、すべて最初からやり直さなくてはなりません。

          hannshutsuropeway.jpg
【Photo】山道脇にしつらえられた搬出用ロープウェー。深い谷を越えた向こうに見える木が伐採された小山は、アル・ケッチァーノ奥田シェフが初めて藤沢カブと出合った年の2003年(平成15)秋に、案内された焼畑だった場所。後藤さんが収穫後に植林した苗木と、自然の回復力によって緑が戻りつつある(撮影:2004年夏)

          flyingkab.jpg
【Photo】収穫したカブは空中を通って運ばれていく(撮影:2003年11月3日)

 まだ薄暗い早朝、親類縁者総出で斜面に火入れをする後藤さんに、傍目にも大変な手間をかけカブを受け継ぐ苦労話を伺おうとすると、「苦労だなんてとんでもない。楽しみでこの仕事をしております」と実に柔和な笑顔で応じられました。「このカブラがめごくての(「かわいくて」の庄内弁)」とも。そう語る後藤さんの傍らでは、孫のほのかちゃん(10歳)が「夏休みの自由研究にするんだ」と作業の様子を見守ります。

              freereserchofhonoka.jpg
【Photo】小学校4年生の夏休みの自由研究テーマはズバリ「藤沢カブ」だというお孫さんの後藤ほのかちゃん。ほのかちゃんと後藤さんは、後に絵本作家のつちだよしはる氏によって、絵本化された

 初めて後藤さんの畑を訪れたのは、私が山形を担当していた2003年(平成15年)の秋。山登りさながらの急斜面に張られたロープを伝って辿り着いた小山の頂きに開けたカブ畑で遊んでいたのが彼女でした。

              mountainclimb.jpg
【Photo】谷を越え山道を徒歩10分弱。後藤さんのもとに案内してくれたアル・ケッチァーノの奥田シェフ一家と、カブが育つ急斜面に張られたロープを伝って畑へ向かう

 収穫したての藤沢カブに噛り付くほのかちゃんの姿は、私に強い印象を残しました。じいちゃん・ばあちゃんの仕事ぶりをこうして目にしながら、次の世代へとこの稀少なカブは受け継がれてゆくのだ。抜けるような青空の下、山中に広がる藤沢カブの畑で、象徴的な光景に出合った私はそう確信したのです。

        gaburihonoka.jpg
【Photo】服で土を2、3度ぬぐっただけの藤沢カブにかじりつく後藤ほのかちゃん(当時6歳)

 アブラナ科に属するカブは、4月末から5月にかけて、菜の花のような黄色い花を一斉に咲かせます。翌年に栽培するカブの採種のため、収穫しなかったカブたちが花をつけるのです。この時期に一霞地区を訪れると、山の斜面のところどころに黄色い温海カブの花が咲いているのを目にします。

      fiorikabu.jpg
【Photo】眼下に庄内平野を望む金峰山中に突如開けた菜の花畑。深山での予期せぬ展開に息をのんだ

 2005年(平成17)の春、後藤さんに教えていただいた美味しい湧き水を汲むために金峰山中に車で分け入りました。そこで後藤さんの藤沢カブの畑が、一面の菜の花畑に化している光景と偶然に遭遇しました。うららかな春の日差しのもと、田園風景を背景に広がる菜の花畑の光景は、あたかも極楽浄土のよう。

 その感動を再び味わいたくて翌年春、栽培区画を移動した藤沢カブの畑を訪れました。記録的な豪雪だった冬と、春先の寒さの影響で開花が幾分遅れ気味のようでしたが、深山の急斜面で人知れず広がり始めた黄色い可憐な花々に心和んだのでした。

 食してよし、愛でてよし。ありがとう、後藤さん。

2006fiori.jpg
【Photo】自家採種のために残したカブが黄色い花をつけ、厳しかった冬の終わりと春の訪れを告げていた
▼藤沢カブの漬物に関する問い合わせは・・・つけもの処「本長」 ☎0235(33)2023
http://www.k-honcho.co.jp


baner_decobanner.gif

Gennaio 2017
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
Copyright © KAHOKU SHIMPO PUBLISHING CO.