あるもの探しの旅

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2012/04/30

比類なきエトナ

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【Photo】噴煙を上げるエトナ山

 錦江湾に浮かぶ鹿児島のシンボル・桜島、ハワイ島のキラウエア、あるいはカムチャッカやアイスランドなど極寒の局地で灼熱の溶岩を吹く火の山。これら轟音とともに噴煙やマグマを吹き上げる活発な火山活動が見られる世界の火山の中でも、最も頻繁に噴火を繰り返す火山のひとつとされるのが、イタリア・シチリア島のエトナ山です。

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【Photo】シチリア・タオルミーナにある古代ギリシャ円形劇場は紀元前3世紀にギリシャ人によって屋外劇場として創建され、ローマ人が闘技場に改装。その最上段からの「広大渺茫(びょうぼう)たる一幅の絵」(相良守峯訳「イタリア紀行」岩波文庫より)のような眺望。トーガ姿のギリシャ人・ローマ人を端緒にして、1787年5月6日、この地を訪れ、「これほどの景色を眼前に眺めた者は外にはあるものではない」(同)と感動を記したドイツの文豪ゲーテを筆頭に、大デュマ、オスカー・ワイルド、D.H.ローレンス、ダンヌンツィオといった欧州各国の文人のほか、ブラームス、ワーグナー、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボら多くの文化人・著名人たちを魅了した

 日本ではポンペイを一昼夜にして火山灰で埋め尽くしたヴェズーヴィオ山(1,281m)のほうが、火山としての知名度は高いかもしれません。しかしながら、今月だけでも1日・12日に続き、23日から24日にかけて活発な噴火活動を繰り広げ、絶えず変動する標高3,300m級のエトナ山は、ヨーロッパ最高峰の活火山でもあります。

Etna@notte1995.maggio.jpg【Photo】1995年8月の深夜、静寂を切り裂く轟音とともに漆黒の闇を照らす真っ赤な溶岩を激しく噴出する典型的なストロンボリ式噴火を繰り広げたエトナ山。タオルミーナやカターニアからは火山観光ツアーが定期的に出ている

 山頂から北東側へおよそ25km離れたタオルミーナの街外れにあるギリシア時代の円形劇場からは、映画グランブルーの舞台となった紺碧のイオニア海と、噴煙をたなびかせながら、なだらかなスロープを描くエトナが一望のもと。

 エトナ南麓にある人口30万を擁するCataniaカターニアは、州都パレルモに次ぐシチリア第二の都市。有史以来幾度となく繰り返されてきたエトナの火山活動でも、特筆されるのが1669年3月11日に始まった噴火でした。

Catania-Cattedrale-Eruzione1669.jpg【Photo】18世紀に創建されたカターニアのドゥオーモ(大聖堂)Cattedrale di Sant'Agataの壁面に描かれた1669年に起きたエトナ噴火のフレスコ画。山腹の火口から流出した溶岩流は、16km離れたカターニアの西側をのみ込んだ。122日間の長きに及んだこの噴火による犠牲者は、当時の人口の2/3にあたる15,000人とも20,000人ともいわれる クリックで拡大

 街の一部と周囲を溶岩で覆い尽くし、港を破壊した噴火から24年後の1693年、今度は大地震がカターニア一帯を襲います。93,000人が命を落としたこの震災で、廃墟と化した街の復興が本格化したのが18世紀。壊滅した街を不死鳥のごとく蘇らせた現在のカターニア市は、アメリカ・フェニックス市と姉妹関係にあります。街のシンボル象の噴水にも見られるカターニア特有の火山性の岩と白大理石を組み合わせたドゥオーモほか、モノトーンの華麗なバロック様式の建築群は、パレルモ出身の建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴァッカリーニやフランチェスコ・バッタリアらが設計したもの。

Catania_Basilica_Collegiata.jpg【Photo】1693年の地震で崩壊した聖堂跡に建てられたカターニアのBasilica della Collegiataコッレジャータ聖堂。1768年に完成したこの傑作を手掛けたのはステファノ・イッタール。ジュゼッペ・シューティによるフレスコ画が描かれたヴォールト天井も見逃せないクリックで拡大

 カターニアのほか、震災で廃墟と化した旧街区から移転再生したNotoノート、アラブ支配の痕跡ともいえる迷宮部分と都市計画に基づく整然とした新市街の二つの顔を持つRagusaラグーザなど、バロック様式で再建されたシチリア南東部にある8つの街「Val di Noto ヴァル・ディ・ノート」が世界遺産に登録されたのが2002年。Forza TOHOKUuuuuuuuuu !!

 時として災いを人間にもたらすエトナ山ですが、一方では大いなる恵みも。エトナ周辺一帯は果実栽培に適した火山性の土壌となります。そこは果肉が赤く染まるブラッドオレンジこと「Arancia Rossa アランチャ・ロッサ」、レモン、リンゴのほか、山の南北と東側の三日月状のD.O.C.(=統制原産地呼称)「Etna エトナ」ゾーンでは、紀元前5世紀にはブドウ栽培が行われていました。ワイン生産者組合Consorzio di Tutela dei Vini Etna D.O.C.には、新旧62の作り手が加入しています。

ETNA_FESSINA.jpg【Photo】樹齢100年を超えるであろうエトナ原産のブドウ品種「ネレッロ・マスカレーゼ」の古木の手入れ。高温で乾燥した栽培環境に向くアルベレッロ仕立ては、支柱を立てたブドウの丈を短く太く仕立てるシチリア伝統の手法。機械が使えないため、多くの手間と人手を要する

 19世紀に欧州のブドウを壊滅させたフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)禍は、ギリシャ以来の歴史あるブドウ産地シチリアにも及びましたが、海抜1,000mに迫る高地では、その被害を免れました。そうした畑には、接ぎ木されることなく自根を地中深くまで張った樹齢100年~150年という稀有なブドウすら見られます。

 標高が高くなるにつれ傾斜が増す斜面に開墾された階段状のブドウ畑の仕切りは、ゴロゴロとした真っ黒な火山岩の擁壁。日中は南イタリア特有の灼熱の太陽が照りつける反面、夜間は高地ゆえ気温が下がり、1日の中で大きな寒暖の差が生じます。

nerello_mascalese@etna.jpg【Photo】エトナ北東部Castiglione di Sicilia。この地でブドウ作りが始まってから、一体どれほどの時が流れたのだろう。幹の太さが歴史を物語るエトナ伝統のアルベレッロ仕立てのネレッロ・マスカレーゼ。ここでは独特の樹形をしたこんな古木が珍しくない
 
 今から20年前、質より量を求めていたシチリアでは、仮に国としても世界第7位にあたるイタリア国内最多となる年間90万㎘のワインを生産していました。シチリア南東部原産で、島全域で栽培される在来品種ネロ・ダヴォラから造られていた凝縮感のある色濃い赤ワインは、国内はおろかアルプス以北の有名ワイン産地のブレンド用に、大量にバルク売りされていたのだといいます。

tancredi_donnafugata.jpg【Photo】ネロ・ダヴォラに30%カベルネ・ソーヴィニヨンを加えた1983年設立のDonnafugata ドンナフガータ「Tancredi タンクレディ」。歴史の転換点リソルジメントを生きたシチリア貴族を巨匠ヴィスコンティが映画化した「il Gattopardo(邦題:山猫)」で、赤シャツ隊に参加する青年タンクレディを演じたアラン・ドロンと重なる溌剌さを熟成を待たずに味わうのも一興

 そんな状況に一石を投じたのが、祖父が所有していた荒廃したブドウ畑で古典的なブドウ栽培とワイン醸造の刷新に乗り出したジュゼッペ・ベナンティと、ドンナフガータなどでの経験を買われ全てを託されたカターニア出身の醸造家サルヴァトーレ・フォティの両氏。製薬業で成功し、醸造所「Benanti ベナンティ」を1988年に興した実業家と若き醸造家は、150種以上のブドウについて複雑に入り組んだエトナの土壌との相性を考慮しつつ、区画ごとにブドウの選定を数年かけて行います。

rovitello_benanti.jpg【Photo】淡い色調とエレガントに香り立つ高貴さは、さながら伝統的なバローロやブルゴーニュ。「Rovittello ロヴィテッロ」のエチケッタに描かれる火を吹くエトナ北麓の樹齢90年になるネレッロ・マスカレーゼ80%に色素とタンニンを加える役割を果たすネレッロ・カプッチョ20%をブレンド。D.O.C.エトナ・ロッソ伝統の黄金比率を踏襲

 国際市場をいち早く意識したトスカーナで、カベルネやメルロの導入が目覚ましい成功を収めていた'90年代。伝統を否定するかのようなそうした潮流に抗うように2人のシチリア人が進むべき基軸として選んだのは、いずれもエトナ原産とされる赤ブドウ品種「ネレッロ・マスカレーゼ」、「ネレッロ・カップッチョ」、そして白品種の「カッリカンテ」でした。

passopisciaro_motoxx.jpg 伝統への敬意は払いつつ、更に高みを目指した成果は、顧みられることのなかったEtnaの可能性を世に知らしめます。複雑に入り組んだ多様な火山性土壌ゆえのエキス豊富なミネラル感と、標高1,000mに迫る高度がもたらす温度差が生む綺麗な酸味。またとないエトナの風土のもとでのワイン造りへの新規参入が、ここ10年ほど続いています。

【Photo】エトナ北麓の海抜650m~1,000mの畑で収穫された樹齢60~80年のネレッロ・マスカレーゼだけで造るがゆえ、D.O.C.エトナ・ロッソではなく、村名が名前となったパッソピシャーロ。2008年からは、エトナ一帯で「Contrada」と呼ぶクリュの概念による4種の単一畑が加わった

 名醸地ピエモンテを30年前に覚醒させたバローロ改革の旗手「バローロ・ボーイズ」を率いたMarc de Graziaマルク・デ・グラツィアが2002年に設立した新興ながら、素晴らしい成果を上げる「Terre Nere テッレ・ネレ」。そしてトスカーナの辺境から彗星のごとく現れ、シンデレラストーリーを体現してみせたアンドレア・フランケッティが2000年に購入した「Passopisciaroパッソピシャーロ」。変わり種では'80年代にHolding Back The Yearsなどをヒットさせた英国マンチェスター出身のバンドSimply Redのリーダーだったミック・ハックネルが2001年からオーナーを務める「Il Cantanteイル・カンタンテ」など。

Cantante_bianco.jpg【Photo】「Il Cantante Bianco イル・カンタンテ・ビアンコ」のエチケッタ。標高1,200mという高地にある畑で育つEtna biancoの主力品種「Carricanteカッリカンテ」と土着の「Grecanicoグレカーニコ」、「Minnellaミネッラ」の混醸。2007年ヴィンテージは、Slowfood協会発行のワイン評価本「slow wine2011」で、質の高いワインを指すGrande Vinoの評価。これは紀元前8世紀の詩人ホロメスの叙事詩「オデュッセイア」に登場する一つ目の巨人キュクロプス族のポリュフェモスによって、洞窟に閉じ込められた英雄オデュッセウス(=ユリシーズ)が、巨人にブドウ酒を勧める場面。Piazza Armerina ピアッツァ・アルメリーナ郊外に4世紀に造営された離宮「ヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレ」で20世紀に発見されたモザイク床絵がオリジナル。3,500㎡の遺跡から発見された40以上の色鮮やかなモザイク画は過去50年における考古学上の最も価値ある発見とされ、離宮は1997年世界遺産に登録された (上写真)  背後に雪を頂くエトナが迫るパッソピシャーロ村。気鋭の醸造所Graciでのネレッロ・マスカレーゼの収穫(下写真)

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 オデュッセイアには歌声で船乗りを惑わして船を座礁させる女性の顔と鳥の足と翼を持つ魔物セイレーンが登場します。トロイア戦争から帰還する英雄オデュッセウスは、エトナからほど遠からぬシチリア・メッシーナ海峡近くのセイレーンが棲む島アンテモッサの海域を通ります。美声に興味をもった英雄は、自らをマストに縛りつけ、漕ぎ手には耳栓をさせてそこを通過します。一つ目の巨人ポリュフェモスを酔い潰したブドウ酒は、セイレーンの歌声のようにさぞ甘美だったことでしょう。エトナのブドウ酒が、ホメロスが記した神話の時代から2700年以上の時を経て、改めて多くの人を惹き付けるのは、数々の神話の舞台となった地だからなのかもしれません。

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2012/02/18

チョコレートの真意やいかに?

 2月14日はバレンタインデー。その起源はAmoreアモーレ(=愛)の国イタリアにあることをご存知でしょうか。

st.valentine@terni.jpg【Photo】中部イタリア・ウンブリア州テルニの街の守護聖人であり、恋人たちの守護聖人でもある聖ウァレンティヌス(ラテン語名。現代イタリア語ではヴァレンティーノ、英語でバレンタイン)。1630年に完成したバロック様式のサン・ヴァレンティーノ教会には、祭壇前に聖人の聖遺物が納められる

 時はクラウディウス2世治世下(西暦268~270)のローマ帝国。広大な帝国の平和維持のため、当時の若者は兵役に就くことが求められました。士気低下を避けるため、自由な婚姻を禁じられていた任地に赴く若者のため、禁制を破ってひそかに結婚式を執り行っていたのが、ローマの北方100kmにある街、Terniテルニの司祭Valentinusウァレンティヌスでした。その行いは、やがて人づてに為政者に知られることとなり、捕らえられたウァレンティヌスは、西暦269年2月14日に処刑されたといいいます。

 殉教後に列聖され、恋人たちの守護聖人San Valentino(聖バレンタイン)として今も広く信仰を集める聖ウァレンティヌス。教義の近代化が図られた第2バチカン公会議(1962~65)を経た現在のローマカトリックでは、史実の裏付けがないとして、1969年に典礼が見直され、聖人暦から聖ウァレンティヌスを除外しています。それでも愛と信仰に殉じた聖ウァレンティヌスを知ってか知らでか、2月14日は大切な人への感謝や思いを伝える日として、広く普及しています。

baci_pergina.jpg 【Photo】Baci(キス)の音で開くPergina社のWebサイトからBaciのトップページ。ナポリの有名な眺望スポット「ポジリポの丘」で絶景などおかまいなしに二人だけの世界に浸るカップルが登場。イタリアではよく見かける光景だが、その証拠はバックナンバー「アモーレ・カンターレ・マンジャーレ?」をご参照あれ

 その発祥となった国、イタリアではFesta degli Innamorati(=「恋人たちの祭典」の意)と呼ばれるバレンタインデー。この日はパートナーと食事をしたり相手が喜びそうな贈り物をするのが一般的で、別段チョコレートとの結びつきはありません。そんなイタリアでは珍しく、聖ヴァレンティーノゆかりのウンブリア州テルニでは、2月14日までの数日に渡ってチョコレート祭り「Cioccolentinoチョコレンティーノ」が9年前から行われています。

     

 ウンブリア州は、イタリア土産の定番チョコ「Baci バチ(=キスの意)」の製造元であるPergina社の本拠地。日本でバレンタインデーにチョコレートを贈る習慣の定着に貢献したモロゾフやメリー以上の影響力をもった大企業です。そうした大人の事情はさておき、人口11万人の街テルニで延べ9万人以上が訪れたという3年前のチョコレンティーノの模様をご覧いただき、参加した気分を味わって下さい。

 本命に贈るチョコレートや義理チョコだけでなく、同性にチョコを贈る「友チョコ」や、自分自身への「ご褒美チョコ」と称した有名ショコラティエが作る一箱ウン千円もする高級チョコが売れているのが昨今のバレンタイン事情。女性がチョコレートを添えて愛の告白をする習慣は、日本独自のものですが、独身の若い男女にとっては、悲喜こもごもの1日だったのではないでしょうか。

tartufo_2012saya.jpg【Photo】今年のバレンタインデーに庄イタもひとつだけお裾分けに預ったのが、中学2年生の娘(写真奥)が12日の日曜日に数時間をかけて手作りしたこのトリュフチョコ。女子しかいない学校で交換した友チョコの食べすぎで、翌日具合が悪くなり、医者に駆け込むというオチがつくあたりは、食いしん坊のDNAをしっかり受け継いでいるようだ

 さて、ここからが本題。思春期に経験したようなバレンタインデーをめぐるワクワク・ドキドキから遠ざかって久しい今年、"これはいかなる意味があるのか?? "と、贈る側の真意をはかりかねるチョコが届きました。それは、近所付き合いをしているかかりつけの歯科医夫人から頂いたものです。

 復興関連の3次補正予算が成立後、被災地ではさまざまな事業が同時並行で一気に加速しています。ただでさえ慌ただしい年末年始の繁忙期を挟んだこともあり、当「Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅」の更新ペースが鈍っているのもそのため。食WEB研究所の活性化に努めるべき立場のフードライターとしては、怠慢のそしりを受けかねない状況なのです。11月上旬に歯医者に行ったきり、治療していた歯をしばらくほったらかしにしていました。

mission_sodenoshita.jpg【Photo】かかりつけの歯医者さんの奥様から頂いたチョコスフレ

 そこに届いた歯医者さんから贈られたチョコレート。ひょっとしてこれは虫歯を悪化させて早く来院させようという歯科医の良く言えば親切心、うがった見方をすれば新たな営業手法なのでは? という邪念が一瞬よぎりました(笑)。普段から何かにつけて頂き物をすることが多い方なので、他意はないのでしょうが、なんとも意味深なチョコレートです。御礼を兼ねてすぐに歯の治療を再開したのは申すまでもありません。

 う~む、まんまと策略に乗ってしまったのだろうか...。

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2011/07/23

アクロバットもスゴイんです

プルチネッラ.jpg世界第3位・銅メダルの妙技。
飛ばして、回して、回って、回る~ 夢想花ならぬ
夢想ピッツァ@Pizzeria Padrino

 本場ナポリの味を伝える「真のナポリピッツァ協会」認定店の証しである道化プルチネッラの看板を、私の気持ちの中では既に掲げている「Pizzeria Padrino ピッツェリア・パドリーノ」〈Link to backnumber〉。イタリア・ナポリから5月にやって来るはずだった認定審査員が、震災と原発事故のため来日を取りやめたため、宮城初の認定店誕生は秋に延期となりました。Twitter で庄イタをフォローして下さっている方にだけは、一次審査をパスした時点で、店名を伏せてつぶやいていましたが。

 本登録に向けた肩慣らしを兼ねてか、プリモ・ピッツァイオーロの千葉 壮彦(たけひこ)さんが、先月ナポリ郊外の町「Nolaノラ」にある大規模な商業施設内で開催された「PizzaFesta ピッツァフェスタ」の「X Campionato mondiale del pizzaiuolo 第10回ピッツァ職人世界選手権(通称:Trofeo Caputo カプート杯)」に出場しました。

全員集合.jpg【photo】イタリア各地はもちろん、アメリカ・ブラジル・日本・スペイン・フランス・イギリスなどからピッツァ職人世界選手権に出場した各国のピッツァイオーロ

 「Associazione Pizzaiuoli Napoletani ナポリピッツァ職人組合」が主催するこの競技会には、イタリア本国はモチロン、北米・南米・ヨーロッパ各国など世界中から腕自慢のPizzaiuolo(ピッツァイオーロ=ピッツァ職人)が参加します。メイン競技となるピッツァナポレターナS.T.G.部門で、昨年イタリア人以外で初優勝したのが、名古屋市中区にある真のナポリピッツァ協会認定店「Cesari チェザリ」牧島 昭成さん。

東北魂.jpg【Photo】競技に臨む千葉 壮彦さん(左)と、昨年の世界最優秀ピッツアイオーロ牧島 昭成さん(右)

 ナポリピッツァ本来の姿を追求する牧島さんが在籍するチェザリは、ピッツェリア・パドリーノと同じくセルフサービスを導入、直径25cmのマリナーラを350円、マルゲリータ550円という、あっぱれなナポリ現地価格で提供。いつも長蛇の行列が絶えないのだといいます。

 現在のところ3人しかいない「ナポリピッツァ世界大使」としてナポリピッツァ職人組合から任命された牧島さんは、本場の味を多くの人に楽しんでもらおうと、ナポリピッツァを提供する店が無い空白地域や今回の震災被災地に赴き、移動式の薪窯で焼きたてを無償提供する「夢ピッツァ」活動も実践しています。

     

 全国から駆けつけた35人のピッツァイオーロによる宮城県山元町・亘理町などで行われた炊き出しには、地元からピッツェリア・パドリーノ千葉さんや車に窯を積んだ移動ピッツェリア「ベルテンポ」荘司 洋典さんらが参加。東北からは盛岡「Piace ピアーチェ」八柳 達彦さん、横手市十文字町「こじこじ」佐藤 直樹さん、鶴岡「緑のイスキア」庄司 祐子さん・健人さん〈Link to backnumber〉らが参加。食を通して被災地の子どもたちを支援しようというOne Life Japan プロジェクト発起人のサルヴァトーレ・クオモ氏と協力して七ヶ浜町や南相馬を訪れるなど精力的に活動。今後は石巻や陸前高田での炊き出しも予定しているとのこと。

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 第9回大会で世界最優秀ピッツアイオーロの称号を手にした牧島さんの余勢を買い、国外では最大規模となる40名のピッツァイオーロが今年エントリーしたのが日本。千葉さんは、独学でマスターしたというアクロバット部門にエントリーしました。なでしこジャパンの世界一達成という偉業に隠れてしまった格好ですが、結果は3位。

 先日、14時前にピッツァ・マリナーラを食べに行った際、オネダリをして銅メダルの妙技を披露してもらいました。忙しい時間を除けば、練習用の生地でその技を快く見せて頂けるかもしれません。純粋にエンターテインメントとして、専用のピザ生地を回転させながら観客に向かって投げ飛ばすThrow Dough なるパフォーマンスとして変化させたアメリカのような国もありますが、ピッツァは食べてなんぼ。パフォーマンスだけをお願いするのはご遠慮くださいね(笑)。まずは下記動画でその技をご覧下さい。

  

 焼いて良し、飛ばしてよし、回してよしのこの見事な腕前。ナプレの香坂師匠やナポリのDi Matteo だけでなく、海老一染之助・染太郎師匠にも弟子入りしてたんじゃ...。(「Bravo!!」と声を掛ければ、いつもより余計に回してくれるはず)

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Pizzeria Padrino ピッツェリア・パドリーノ
住:仙台市青葉区上杉2-1-50 勝山館1F
Phone:022-222-7834
営:昼11:30~15:30 夜17:30~20:30
  月曜定休(祝日の場合は翌日休)
URL:http://www.shozankan.com

2009/12/23

io sono shozzurista ショッツリスト宣言

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地域資源こそ活性化の切り札
 男鹿・イタリア魚醤フォーラム2009

 11月22日(日)、秋田県男鹿市で伝統的な魚醤「しょっつる」で男鹿地域に活力を与えようという催しが行われました。県内外はもちろんのこと、イタリアと韓国からのゲストを含めて150名以上が参加して行われたこの催しを主催した「男鹿半島まるごと博物館協議会」は、男鹿地域の活性化を目指して地元に光を当てようと圏域の観光・商工団体・NPOらで今年3月に組織された団体です。

 同協議会では、内閣府が推進する「地方の元気再生事業」に採択された「男鹿半島『神の魚ハタハタ・地魚』復活プロジェクト」で、ハタハタをはじめとするアジ・イワシ・コウナゴなど男鹿の豊かな水産資源を起爆剤とした複合的な地域活性化に取り組んでいます。ここ一ヶ月間で彼らが仕掛けたハタハタとしょっつるに関する催しが立て続けに行われています。

 「おら家(え)のしょっつる料理博覧会」が行われたのが12月13日(日)。一口にしょっつると言っても使う魚の種類やその部位など、製法や熟成期間によって、さまざまな味があることが協議会による調査で改めて浮き彫りになっています。会場となった男鹿市脇元公民館には、仕込まれて44年を経たヴィンテージものなど多種多様な自家製しょっつるが集められ、興味深げに味見する来場者の姿が見られました。ハタハタを使う代表的な秋田の郷土料理「しょっつる鍋」と、しょっつるを使った伝統的な家庭料理「しょっつるなます」koushu_shotturu.jpg「ねりけもち」などに加え、新たな感覚を盛り込んだ創作料理、新旧あわせて15点ほどの紹介と試食も行われました。

 12月12日(土)・15日(火)の両日、男鹿市船川港の産直施設「かねがわ畑」で開催された「ハタハタしょっつる講習会」には各日30名が参加。男鹿地域で最もハタハタ漁が盛んな同市北浦在住で、自家製しょっつるを作り続けて40年というベテラン鎌田 妙子さん(75)が、熟練の技でしょっつる作りの手順を指南しました。自家製のしょっつる作りは初めてという参加者たちは、3年後の出来上がりを楽しみに旬のハタハタ10kgを仕込んだ樽を自宅に持ち帰りました。

 協議会がこうした一連の取り組みを仕掛ける背景には、かつて男鹿では当たり前のように見られた自家製のしょっつるを作る家庭が、現在確認されている限りにおいて、10世帯ほどしかなく、いずれも70歳以上の高齢者が作っているという現実があります。このままでは、伝統ある男鹿のしょっつる文化の多様性は数年後に失われてしまうに違いありません。
 tsugio_yamamoto.jpg hideki_sugiyama.jpg anna_ferrazzano.jpg 【photo】挨拶に立った男鹿半島まるごと博物館協議会 山本 次夫会長(左写真)とカンパーニャ州サレルノ県アンナ・フェラッツァーノ副知事(右写真)、冒頭の講演でショッツリスト宣言を発表する秋田県水産振興センター杉山 秀樹所長(中央写真)

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 こうした状況のもとで行われた「男鹿・イタリア魚醤フォーラム2009」のテーマは「魚醤文化の交流と、その利用法を探る」というもの。今や日本食はブームの域を超えて世界中へと広がりつつあり、もはや味付けのベースに醤油が欠かせない sushi、tempura、sukiyakiは世界共通語です。穀物から作られる現代の醤油のルーツと考えられる中国の醤(ひしお)は、魚や肉の動物タンパクから作られたもので、魚醤は醤油よりも歴史的には古いものです。中国で誕生した醤油を独自に発展させた醤油文化の本家を自認するニッポン人なら、そもそも魚醤が果たしてイタリアに存在するのか、いぶかしく思われる方もおいででしょう。

【photo】アンチョビやコラトゥーラに加工される地中海産カタクチイワシ。なかでもチェターラのイワシは形が小ぶりだという(右上写真)

secondo_squizzano.jpg rucia_di_mauro.jpg yukio_watanabe.jpg【photo】渡部 幸男男鹿市長の講演「男鹿の地域づくりについて」(右写真)セコンド・スクイッツァート チェターラ町長による講演「チェターラ市と魚醤」(左写真)父が創業したIASA s.r.l.を兄と共同経営するルチア・ディ・マウロさんの講演「チェターラの魚醤・コラトゥーラ」(中央写真)

 かつてイタリアには古代ローマ時代に広く使われた魚醤「Garum ガルム」が存在しました。帝政ローマ初期、初代皇帝アウグストゥスから二代ティベリウスの治世に美食家として鳴らしたApiciusアピキウスの料理本「De Re Coquinaria デ・レ・コンクイナリア」には、ギリシャ発祥とされる万能調味料ガルムに関する記述が残されています。紀元前8世紀から南部沿岸やシチリアを足がかりにイタリアへの入植を進めたギリシャ人は、カタクチイワシなどから作る魚醤の製造法をもたらしていたのです。ローマ帝国の滅亡とともに忘れ去られたガルムは、13世紀に「Colatura コラトゥーラ」と名前を変えて復活します。

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【photo】講演を終え、男鹿・チェターラ相互に贈り物の交換。男鹿には海洋都市ならではのイルカがモチーフとなったチェターラの紋章入りプレートが、イタリア側にはナマハゲの面と写真集が贈られ、大喜びのチェターラ市長とサレルノ県副知事(左写真) 魚醤の町という共通点を生かして今後も交流を続けることを誓い、固い握手を交わす両首長

 第二次大戦後、いち早く復興を遂げたイタリア北部・中部と比べて所得水準が低かった南イタリアの小さな漁村でも、1980年代以降はコラトゥーラを貧しさの象徴と考える風潮が広まり、16世紀まで遡るチェターラの魚醤を作る人がいなくなって、20年ほど前に一度は途絶えます。風前の灯火である男鹿の自家製しょっつると同じ状況が20年前にイタリアでも起こっていたのです。歴史ある魚醤コラトゥーラが人々の記憶から薄れかけた頃、21世紀に入って南イタリア・サレルノ県のアマルフィ海岸にある小さな漁村「Cetara チェターラ」で再び蘇ります。

Cetaramare.jpg【photo】今ではコラトゥーラの町としてイタリアで広く認知されるチェターラ。古代ローマ時代の魚醤ガルムの流れを汲むコラトゥーラと並ぶ町のシンボルは、アラブやノルマンなどの外敵から町を守ってきた写真中央の「Torre di Cetara チェターラ塔」

 その推進役となったのが、現職に就任して3年目というセコンド・スクイッツァート町長や「Associazione Amici delle Alici di Cetara チェターラ・カタクチワシ協会」を2002年に立ち上げたピエトロ・ペッシェ(pesce=伊語で「魚」の意。名は体を表す!会長、地元のリストランテ「San Pietro サン・ピエトロ」のフランチェスコ・タンマーロ シェフら、チェターラ人のアイデンティティーともいうべきコラトゥーラに誇りを持つ人々でした。伝統的な食文化の復興という共通命題のもと、彼らは各人各様の役割を果たしました。

forum_gyosho.jpg【photo】谷口 吉光 秋田県立大教授がコーディネーターを務めた魚醤フォーラム「しょっつるで男鹿を元気に」。コラトゥーラを使った料理を目的にチェターラを訪れる観光客を増やすことで町に活力を与えた経験に基づき、伝統ある魚醤の復活に奔走したイタリアのメンバーから、しょっつるを地域おこしに役立てようと一歩を踏み出した男鹿の人々に向けて、力強いエールが送られた

 2003年、スローフード協会はコラトゥーラを伝統的な製法で作られる保護すべき食材「Presidio プレジディオ」に指定します。これが契機となり、それまでは過去の遺物として忘れ去られていたコラトゥーラがメディアを通して広く知られるようになります。紺碧の地中海から切り立った断崖沿いにまばゆい太陽が織りなす絶景が続く世界遺産の「Costiera Amalfitana アマルフィ海岸」にあって、静かな漁村チェターラを観光客が訪れることなど、20年前まではあり得なかったのです。

pietro_pesce.jpg【photo】チェターラ・カタクチワシ協会ピエトロ・ペッシェ会長

 ♪ Vide 'o mare quant'e bello! Spira tantu sentimento,...(美しい海!感傷を誘う...)と自分のもとを去った恋人に語りかけるカンツォーネの名曲「Torna a Surriento 帰れソレントへ」(⇒ルックス重視の男声グループ「IL DIVO」顔負けのイタリア人少年、Piero ピエロ 15歳・Gianluca ジャンルーカ 14歳・Ignazio イグナツィオ 14歳。将来の三大テノール(?)が国営放送Rai uno に登場、美声で魅了するTV番組「Ti lascio una canzone」は必見 )の舞台となったソレントとサレルノ50km間に点在するポジターノやアマルフィといった宝石のように美しい海辺の町の影に隠れていた人口2,400人の小さな漁村が、現在ではコラトゥーラを使った料理を目当てに足を運ぶ観光客で賑わっています。

amici_cetara@terra_madre.jpg【photo】2006年10月にスローフード協会が開催した食の国際イベント「サローネ・デル・グスト」。プレジディオ指定を受ける食品のコーナーにあった「チェーターラ・カタクチワシ協会」のブース。右から5人目が今回来日した現町長セコンド・スクイッツァート氏、4人目がコラトゥーラ料理を提供するリストランテ「サン・ピエトロ」のシェフ、フランチェスコ・タンマーロ氏

 今回のフォーラムには、イタリアからコラトゥーラを通して地域おこしに成功したチェターラ町長と、サレルノ県アンナ・フェラッツァーノ副知事ら行政関係者、コラトゥーラ復活の仕掛け人であるチェターラ・カタクチワシ協会ピエトロ・ペッシェ会長、イタリア初の瓶入りツナのオイル漬を商品化する一方で、木樽による伝統的なコラトゥーラの製法を守る「IASA s.r.l.(=有限会社)」の女性生産者ルチア・ディ・マウロさん、コラトゥーラを積極的に取り入れたチェターラの郷土料理を提供して人気を集めるリストランテ「サン・ピエトロ」のフランチェスコ・タンマーロ シェフらが来日。「こんだに大勢のイタリアの人がんだが男鹿さ来てけで...(=こんな大勢のイタリアの人たちが男鹿に来てくれて...)」と地元は歓迎ムード。

prodcut_colatura.jpg【photo】日本の漬物と同じく重石で蓋をした木樽で塩漬けにして仕込まれる伝統的なコラトゥーラの製法。4ヶ月を経過するとこうして宙づりにされ、樽の底に穴をあけてコラトゥーラが一滴ずつ集められる

 迎える日本側は、男鹿半島まるごと博物館協議会の山本 次夫会長、渡部 幸男男鹿市長、チェターラとの交流のきっかけを作り、ハタハタと塩だけで作る伝統的なしょっつるを復活させた「諸井醸造所」諸井 秀樹代表【Link to back number】、「地産地消を進める会」代表を務める谷口 吉光 秋田県立大教授、秋田で幅広く活躍する料理研究家・米本 かおりさん、試食会でフランチェスコとのコラボで料理を振舞った秋田市のイタリアンレストラン「Osteria Arca オステリア・アルカ」の作左部 史寿オーナーシェフら多彩な顔ぶれが揃いました。

colatura_cetara.jpg【photo】IASA社製のコラトゥーラ・ディ・アリーチ

 20世紀初頭にアンチョビの製造を始めたディ・マウロ家。漁師であった父が1969年に創業した現在の会社を兄と営むルチアさんによれば、チェターラがあるサレルノ湾近海では、3月から7月上旬にかけてカタクチイワシ漁が行われます。サレルノ湾のイワシは小型で、特有の味を醸しだします。気温の低い夜間に漁が行われ、生きたまま加工場に運ばれてくるイワシの頭と内臓を除いて塩漬けするアンチョビと基本的な製法は同じ。閉じ蓋に重石を乗せた「Terzigno テルツィーニョ」という名の木製の樽で熟成させると、次第に液体が遊離してきます。木樽を使うことで独特の香りがコラトゥーラに移り、複雑味が加わります。仕込んでおよそ5ヶ月を経過した10月末から11月にかけて、樽の底に「avrialeアヴリアーレ」と呼ばれる道具で穴をあけ、したたり落ちる濃い琥珀色の液体を一滴ずつビンに集めます。100kgのイワシから10ℓのコラトゥーラが作られます。

    【コラトゥーラ作りの模様をまとめた動画
    

 このようにして作られる薫り高い調味料「Colatura di alici コラトゥーラ・ディ・アリーチ 」は、サラダや野菜の煮込みから魚料理、パスタ料理に至るまで、幅広く用いられてきました。カトリック教国イタリアでは、救世主の誕生を待ちわびる待降節の最後の晩には、伝統的に肉食を慎み、魚を食べる習慣があります。チェターラではクリスマスイブの晩餐に用いる特別な贈り物としてもコラトゥーラが珍重されてきました。午前中のフォーラムでは、一度は失われたコラトゥーラをいかにして地域活性化に結びつけたのか、自身の体験をもとにセコンド・スクイッツァート町長は成功のカギとして4つのポイントを挙げました。

● 原料となるイワシ漁に携わる漁師の暮らしを守ること
● コラトゥーラの製造者が品質にこだわった良いものを作ること
● 料飲店の協力を得てコラトゥーラを料理に取り入れ、人々に良さを理解してもらうこと
● マスメディアと連携して多くの人々にコラトゥーラの町チェターラを知らしめること


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 チェターラは世界的に知名度の高いアマルフィ海岸という絶好のロケーションにあります。加えて近くに人口15万人のサレルノ、105万人のナポリといった大きな都市があったため、多くの観光客を引き寄せることができました。一方でスクイッツァート町長は、共通の目標に向かって歩調を揃えるのが苦手なイタリアの国民性を克服する必要性を課題として挙げました。地域ごと独立した都市国家として競い合った歴史が長く、統一国家としては150年に満たないイタリア。やることがバラバラで好き勝手な立ち振る舞いはイタリア人の専売特許です。対照的に巧みなプロモーションを繰り広げ、日本で確固とした地位を築いたボルドーワインは別格にしても、イタリアにも1934年に発足し、ハードチーズの王様として世界に冠たる名声を得たパルミジャーノ・レッジャーノの生産者組合「Consorzio del Formaggio Parmigiano-Reggiano パルミジャーノ・レッジャーノチーズ協会」の例だってあるのですから。 Forza(=頑張れ) Cetara,forza colatura!

mangiare_cucina.jpg 【photo】コラトゥーラを使った南イタリアらしい郷土料理とカンパーニャ州のヴィーノやリモンチェッロなどのリキュールが用意された試食会場

 魚醤を使ったチェターラ料理が用意された試食会では、参加者が用意された料理に舌鼓を打ちました。作佐部シェフによれば、青魚を用いるコラトゥーラのほうが、ハタハタを使うしょっつると比べてパンチが利いた味だといいます。イワシと並ぶチェターラの重要な漁業資源であるマグロのオイル漬けとアンチョビが前菜に用意され、サン・ピエトロのシェフ、フランチェスコ・タンマーロさんが作った耳のような形状をしたパスタ「オレキエッテ」は松の実と一緒にコラトゥーラとオイルでシンプルに味付けしてあります。ハタハタやイカなどの魚介をオリーブオイルで素揚げしたフリットもコラトゥーラで味付けして頂きました。由利本荘市から参加した吉尾 聖子さんは、普段はしょっつる鍋でしか用いない魚醤の幅広い使い方が面白かったと感想を述べ、JR東日本の奥村 聡子観光開発課長は、土産品としてのしょっつるの可能性にも期待を寄せたいと語りました。

orecchiette_colatura.jpg antipasti_iasa.jpg fritti_al_mare.jpg 【photo】日伊のシェフによる料理が並んだ饗宴より。コラトゥーラ風味のオレキエッテ(左写真)IASA社製のオイル漬マグロとアンチョビ(中央写真)ハタハタほか魚介のフリット(右写真)

 1969年から韓国の魚醤「ミョルチッチョ」を済州島で作る魚醤生産者でもあるジャーナリスト、キム・チン・ファ氏と同島のシーフードレストラン「真味名家」を営むカン・チャン・クン氏も会場に駆けつけ〈clicca qui〉、海と共にある三ヵ国の人々が、共通項である魚醤を通して活発な意見交換が行われたフォーラムの冒頭で、かつて県の水産技師当時にハタハタの全面禁漁の必要性を漁師たちに説いてまわった秋田県水産振興センター杉山 秀樹所長から発表されたのが「ショッツリスト宣言」でした。

 今回のフォーラムは、秋田の人々にとって主なしょっつるの用途であるハタハタを用いたしょっつる鍋だけではない、調味料としての汎用性の高さを知ってもらう狙いがありました。宣言には、先人の知恵の結晶であるしょっつるを愛し、世界各地の食文化・歴史と深いかかわりを持ちながら存在する魚醤文化の普遍性を知り、新たな発想を取り入れることで美味しさを再認識し、行政・漁業者・生産者・料理人・消費者が結束して地域固有の食遺産を継承してゆこうという、高い志と強い決意が込められていました。

moroi_compact (187x250).JPG 300名以上の申し込みがあったフォーラムの参加者150名には、催しを主催した男鹿半島まるごと博物館協議会から「Myしょっつる運動」への参加が呼びかけられました。諸井醸造所が製造する秋田県産ハタハタのみを使用し、通常の5倍にあたる10年熟成させた「十年熟仙」が入った携帯用の小瓶が希望者に配布されたのです。固定概念にとらわれず、自由な発想でさまざまな料理にしょっつるを使う事で、普及と利用拡大を目指すこの運動の趣旨に賛同して、私も一本バッグの中にしょっつるを忍ばせています。以来、さまざまな食事にシュッと吹きかけ、しょっつるとの相性を試したり、知り合いの手に吹きかけて本物の香りを体験してもらっています。

【photo】さまざまな食事に使って下さいと「Myしょっつる運動」への参加を呼びかけ、主催者から希望者に配布された携帯に便利な小型容器に入った諸井醸造所製の10年熟成しょっつる「十年熟仙」(手前中央)

 チェターラの人々が成し遂げた"コラトゥーラ・ルネッサンス"とでも呼ぶべき取り組みは、忘れられていた郷土の味に新たな角度から光を当てたものです。諸井醸造所の諸井 秀樹代表は午後のフォーラムで、もっと地元の人々がしょっつるを使い、自信を持つことの大切さを訴え、アドバイザーとして参加した渡辺 幸男男鹿市長は、地元の人々が自由な発想で付加価値をつけて外に発信することの大切さを痛感したと述べました。ひとかたならぬ郷土愛に裏打ちされたお国自慢にかけてはイタリア人の右に出る民族は稀でしょう。

 コラトゥーラを通して活力ある町作りに成功したチェターラのセコンド・スクイッツァート町長が「現在の男鹿を見ていると数年前の自分たちの姿を見ているようだ。成功を信じて頑張ってほしい」と会場に呼びかけると、会場を埋めるショッツリストたちは拍手で応え、実り多いフォーラムを締めくくりました。

2009/07/25

トロける夏の誘惑 イタリア編

Vacanze dolce @ sud Italia
  南イタリアのヴァカンスはひんやり甘いドルチェとともに

cocomeri.jpg【photo】真っ赤な果肉を連想させる赤いパラソルの露店でスタンド売りされるイタリアのスイカ、 Cocomero コッコメーロ(Anguria アングリーアとも呼ぶ)。この手の店は切り分けて売ってくれる場合もある。「Lo taglierà in pezzi? ロ タッリエーラ イン ペッツィ?=切り分けてくれますか?」と聞いてみよう。ジリジリした太陽が照りつける南イタリアは、 スイカの名産地

 オールイタリアロケを行った映画「アマルフィ 女神の報酬【Link to website】」の派手なPRのおかげで、すっかり南イタリアへの里心がついてしまった今年の夏(笑)。開局50周年記念事業作品としてCX系の放送局では主題歌となったサラ・ブライトマンの「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」に乗せて大量のスポットCMが投入されました。盲目のイタリア人テノール、アンドレア・ボッチェリが1995年のサンレモ音楽祭で初演したこの曲の原題は「Con Te Partirò コン・テ・パルティロ」。ズバリ「君と旅立とう」という意味です。あ゛ーっ、イタリアのまばゆい太陽が、輝く青い海が、美しい大地が、美味しいヴィーノや食べ物の数々が、私を呼んでいるぅーー!!!!
villa_rufollo_ravello.jpg【photo】映画の舞台として、日本でも一気に知名度が上がった"世界で一番美しい町"こと、世界遺産のAmalfi アマルフィから内陸側に7kmの急なカーブが続く坂道の先にある小さな村Ravello ラヴェッロ。「Villa Cimbrone ヴィッラ・チンブローネ」と並ぶ絶景スポット、かつてリヒャルト・ワーグナーの住居ともなった「Villa Rufolo ヴィッラ・ルフォロ」のテラスから望むアマルフィ海岸とサレルノ湾(上写真)/ アマルフィ海岸の急斜面で栽培されるレモンを絞った果汁をたっぷり使用するグラニータ・ディ・リモーネには砂糖もたっぷり(下写真)

Granita_limone.jpg 肌にまとわり付く湿気がうっとうしい日本とは違い、サラリと乾燥した地中海性気候のイタリアでも、体温を越えるような灼熱に見舞われる夏は、ともすると意識がボーッとしてきます。湿気が少ない分、抜けるように青い空からは強烈な陽射しが降り注いできます。発泡性のミネラルウオーターなしでは、体が干上がってしまいそう...。そんな時、ナポリの海岸通りなどで目にするゴロゴロと山積みされた露天売りのスイカに激しく心惹かれますが、連れが大人数でもない限りは、旅先でまるごと一個を攻略するには相手が大きすぎます(笑)。アスファルトが溶け出しそうな夏のイタリアでは、Gelato ジェラートやシチリア発祥のレモン風味が効いたGranita di Limone グラニータ・ディ・リモーネ(=レモンシャーベット)、Granita di Anguria グラニータ・ディ・アングリーア(=スイカシャーベット)など天然果汁を用いた氷菓子を乾いた体が要求します。イタリア仕様の砂糖の甘さが気になる左党の方は、グラニータ・ディ・リモーネにリモンチェッロを加えてもらうなど、ベストマッチなリキュールをプラスすればOKです。イタリア版かき氷ともいうべきグラニータは、酷暑で遠のいた意識をシャキッとさせてくれます。

【photo】ビーチに繰り出したグラニータの露店は人気の的。砂浜でかきこむGranita fragora グラニータ・フラゴーラ(イチゴのグラニータ)でリフレッシュ。一見かき氷と同じだが、「練乳がけ」は存在しないし、日本のかき氷に使われるシロップのドギツイ赤や緑に舌は染まらない granita_fragora.jpg 

 日焼けした肌へ憧れるイタリア人バカンス客で賑わう南イタリアのビーチで見かけるグラニータの移動式屋台は手押しのため、売り子は比較的若い男性の二人組みがほとんど。砂に足を取られながらビーチで屋台を引くには、相応の体力も必要です。対して砂浜ではなく路肩に立つグラニータの屋台にいるのは、50代以上の男性が多いように思います。グラニータで忘れていけないのは、以前「Bar バール」【Link to back number】で取り上げたローマのカフェ「Tazza d'Oro タッツア・ドーロ」の「Granita di caffè con panna グラニータ・ディ・カッフェ・コン・パンナ」です。ローマで一番美味しいとの呼び声が高いカッフェをシャリシャリに凍らせ、ホイップクリームをたっぷりとトッピングしたもの。ザラついた感じがしないキメ細やかな氷のカッフェをスプーンで頂くと、ひとときの涼と共に口の中で薫り高いエスプレッソとクリームの甘さが溶け出し、甘くほろ苦い「これぞイタリアンDolce vita!」という幸せな時間を過ごせます。

granita_tazza_d'oro.jpg【photo】古代ローマが残した建築史の奇跡、パンテオン近くにある「タッツア・ドーロ」。世界中から観光客が訪れるローマ有数の観光スポットにある店だが、夏の定番「グラニータ・ディ・カッフェ・コン・パンナ」(€ 2.50)(右写真)は、根強いローマっ子の支持を集める

ナヴォーナ広場に面した「トレ・スカリーニ」の絶品ジェラート「タルトゥフォ」もぜひ! (下写真)
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 暑さで消耗した体力を回復させるには、甘いものが一番。ここはGelato ジェラートの甘い誘惑にトロけてみましょう。タッツア・ドーロを左に出た角を北上すると、ほどなく恐らくはローマで最も有名なGelateria Psticceria ジェラテリア・パスティッチェリア(ジェラート店菓子店)の「Giolitti ジオリッティ」があります。店内では白い制服に身を包んだGelatiere ジェラティエーレ(ジェラート職人)が立ち回り、1900年創業の歴史を感じさせるクラシックな雰囲気が漂います。今月イタリアで行われたG8では、オバマ米大統領の二人の娘が同店を訪れ、ブラックベリーとバナナのジェラート作りを教わり、合計6kgの自作ジェラートを持ち帰っています。タッツア・ドーロを出て右折、バロック彫刻の天才、ベルニーニ作「四大河の噴水」で名高いナヴォーナ広場にあるバール「Tre Scalini トレ・スカリーニ」には、シロップ漬けのチェリーを忍ばせた濃厚なチョコレートのジェラートにホイップクリームをのせたTartufo タルトゥフォという魅力的な選択肢もあります。いずれも有名店だけに夏場は観光客に占拠されるのが玉にキズ。ならばタッツア・ドーロをロトンダ広場側に出て Via della Rotonda をしばらく南下すると、テヴェレ川に架かるガリバルディ橋の手前にローマっ子の評判が高いBar Gerateria バール兼ジェラテリア「Pica Alberto ピーカ・アルベルト」があります。Zabaione ザバイオーネやこの店オリジナルのシナモン風味のお米が入った食感が面白いRiso alla cannella リーゾ・アッラ・カネッラは、観光スポットにありがちな量産ジェラート特有のgranita_catania1994.jpg不自然な強い粘りやどぎつい着色がなく、控えめな甘さで好感が持てます。"Gelati artigianali"(=職人気質のジェラート)は、店を切り盛りする 仏頂面のオジ様が手作りしているのが妙にアンバランスかも。サマータイムの夏は21時をまわる時間帯まで明るいイタリアゆえ、石畳の照り返しが強烈な真昼を避けてジェラテリアをハシゴするのも一興です。

【photo】 シチリア東海岸、カターニアのビーチに登場したグラニータ売りの二人組み。シチリア名産の大ぶりなレモンを日よけにぶら下げ、足をとられながら屋台を引く姿は、どう見ても体力勝負。売り子の彼らも売り物が欲しくなるだろうに・・・(上写真)

【photo】Giolitti ジオリッティからテイクアウトしたジェラートを手に、近くにあるパンテオン前のロトンダ広場への道を急ぐも、夏のローマでは見る見るジェラートが溶けてくる(下写真)

melting_gelato_panteon.jpg 甘くトロけるイタリアでのヴァカンスは今年も白日夢に終わりそうなので、今年4月に日本初上陸のジェラテリアを東京新宿にオープンさせた「GROM グロム」【Link to website】への訪問をせめて果たしたいところ。北イタリアを中心に国内23店舗、N.Y・パリへも展開を進める店ながら、最高の素材を無添加で仕上げるジェラートが北イタリアを中心に人気を呼んでいます。しかしながら、人口過飽和な東京ゆえ、長蛇の列ができているとの噂も(×_×;)。と、いうわけで次回は、もはや亜熱帯性気候と化した東京の酷暑の中を並ばなくても済む、秋田発の移動式ジェラテリア・ジャッポネーゼこと「ババヘラ」のレポートです。(⇒何という落差・・・)

2009/06/14

東北初「真のナポリピッツァ」誕生

Verde Ischia ヴェルデ・イスキア
穂波街道 緑のイスキア

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 またひとつ「食の都・庄内」に国内外から真価を認められる新たな魅力が加わりました。この春、鶴岡市羽黒町にあるピッツェリア「穂波街道 緑のイスキア」が、ピッツァ発祥の地、ナポリに本部を置く「Associazione Verace Pizza Napoletana アソチアツィオーネ・ヴェラーチェ・ピッツァ・ナポレターナ(以下、真のナポリピッツァ協会)」から、本場ナポリの味を伝える店として、東北初の認定を受けたのです。

【Photo】「真のナポリピッツァ協会」認定店の目印は、このプルチネッラの看板。店ごと登録順に通し番号が発行される。古参の認定店であることを示す登録番号10を掲げるナポリ湾に面したサンタルチア地区にある庶民的な老舗リストランテ・ピッツェリア「Marinoマリーノ」

 ピッツァ専門店 Pizzeria ピッツェリア(イタリア人は「ピッツェーア」と発音)にとって、栄誉な真のナポリピッツァ協会認定店となるには、同協会が定めた厳格な基準をクリアしなければなりません。世界共通の通し番号入りの認定証が交付される認定店には、噴煙を上げるヴェスヴィオ火山とピッツァを薪窯に出し入れする際に使う柄のついたヘラ状の道具「Pala パーラ」を手にした協会のシンボル、ナポリの古典劇に登場するsalita_s.anna_brandi.jpg黒マスクに白装束姿の道化「プルチネッラ」が描かれた VERA PIZZA Napoletana と記された看板を掲げることが許されます。穂波街道 緑のイスキアは、4月20日に大阪で行われた交付式で、世界で296番目、日本では30番目の認定証が贈られました。

【Photo】ピッツァ・マルゲリータを編み出した「Brandi ブランディ」(写真左の旗が掲げられた店)は、王宮前広場にあるエレガントなカフェ「Gambrinus ガンブリヌス」脇の路地を入ってすぐの場所にある。真のナポリピッツァ協会非加盟ながら、発祥店の誇りをかけた絶品との呼び声が高いマルゲリータ(下)を求めていつも客足が絶えない

Brandi_kenji.jpg


 一口にピッツァと言っても、地域ごと独自の文化が息づくイタリアでは、厚みのある四角いピッツァを切り分けて量り売りする Pizza al Taglio ピッツァ・アル・タッリオや生地を揚げた Pizzetta ピッツェッタなど、スタイルはさまざま。バジル・チーズ・ラルドを使ったMastunicola マストゥニコーラなるピッツァの原型が17世紀に、18世紀半ばにはトマトソースを載せた生地に火を通す現在のスタイルが登場したピッツァ発祥の地ナポリでは、生地の美味しさが際立つカリッとした外側と、モチッとした内側の食感が命です。ナポリと並ぶピッツァ文化の両雄と目される首都ローマでは、パリパリしたクリスピータイプの薄い生地が特徴のPizza Romana ピッツァ・ロマーナが主流となります。ことピッツァに関してローマvsナポリの好みを申せば、私は断然ナポリ支持派。ふっくら盛り上がった生地の外周部分「Cornicione コルニチョーネ」のモチモチした食感はナポリピッツァだけのものです。

di_matteo.jpg【Photo】ナポリ中心部ドゥオーモ近くのVia Tribunali トゥリブナーリ通りにある42号認定店「Di Matteo ディ・マッテーオ」のマルゲリータ。'94年のナポリサミットでビル・クリントン米大統領がお忍びで訪れた店として知られる。当時の村山富市首相は、歓迎夕食会の席上、急性胃腸炎でダウンし入院。ローマで酩酊騒動を引き起こした中川大臣といい、日本の閣僚にはイタリアの食事が鬼門?

 1984年、ナポリの名だたるPizzaiolo ピッツァイオーロ(ピッツァ職人)らが中心となって旗揚げした真のナポリピッツァ協会は、Pizza Napoletana ピッツァ・ナポレターナの伝統技術を守り、後世にそれを伝えるための綿密なDisciplinare(=規約)【pdf】を作成しました。2006年9月には日本支部【Link to Website】が設立され、第二次大戦後にBrandi_Napoli.jpgイタリア南部からの移民が伝えたピッツァを独自に変化させたアメリカ経由でもたらされたピザパイ文化が根強い日本において、ナポリ本来のピッツァの姿を伝える啓蒙活動を行っています。

【Photo】1989年、マルゲリータ誕生100周年を記念する大理石のプレートが発祥の店 Brandi 外壁に掲げられた。120周年にあたる今年、協会による記念事業が行われる

 宅配で届くピザには、テリヤキチキンやプルコギ(!)、コーンやパイナップル(!!)などの具がさまざまにトッピングされ、もやはそれは国籍不明のピザ風ミートパイ状態。極めつけはイタリア人が聞いたら卒倒しそうなマヨネーズソース(!!!)にお決まりのタバスコを振りかけ、あらかじめ切れ目の入ったそれを手でほおばるのが日本に定着しているピザの食べ方です。便利な宅配ピザを否定はしませんが、これらはナポリピッツァとはおよそかけ離れたもの。ゆえに前世イタリア人の私は、世間一般に使われる「ピザ」という和製英語にどうしても違和感を覚えます。近年、本場で修業した日本人ピッツァイオーロが作る薪窯の薫りが香ばしい生地を味わう「ナポリピッツァ」を提供する店が増え、ようやく本来のピッツァが市民権を得てきました。

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【Photo】真のナポリピッツァ協会は、電気やガスなどの熱源を窯に使用することを一切認めていない。薪や木屑を燃やして摂氏450℃~485℃に窯の内部を保つようピッツァイオーロに求めている。窯の床面で焼かれるピッツァは1分あまりで出来上がる。この穂波街道 緑のイスキアのピッツァ窯には、審査で店を訪れたガエターノ師匠の熱い心意気を示す「心の底から幸運を祈ってるよ」という意味のハート型メッセージ〈clicca qui〉が書き加えられた

 日本的なピザはさておき、まずは良質の水と食材の宝庫・庄内に誕生した東北初の協会認定店のピッツァがいかなるものか味わってみましょう。最初にお断りしておきますが、Brandi がそうであるように、認定店でなければ本格ナポリピッツァが味わえない訳では決してありません。認定を受けようとする店が協会に申請の上、対価を支払って審査・認定を受ける認定店ではありませんが、鶴岡市役所裏手の馬場町にある「pizzeria Gozaya (ゴザヤ)」でも、本場よりは幾分小さめなジャポネーゼ仕様ながら、オーナー兼ピッツァイオーロの三浦 琢也さんが薪窯で焼き上げる真っ当なナポリピッツァが頂けます。ピッツァ・ナポレターナお約束の"外パリ中モチ"な香ばしい生地は、紛れもないナポリピッツァそのもの。ナポリピッツァの代名詞ともいえるマルゲリータで500kcal、同じくマリナーラで350kcal ほどと意外に低カロリーなので、胃袋のキャパに自信がある方は、真のナポリピッツァのハシゴにチャレンジしてみては如何? ゲプッ...scusi.

verde_ischia.jpg【Photo】店で提供するお米や野菜は、27年以上に渡って無農薬で土を作ってきた庄司さんの田んぼや畑で採れる安全なもの。その田畑に囲まれて建つ「穂波街道 緑のイスキア」

 鶴岡市中心部から赤川に架かる三川橋を越えると、R345の両側には豊かな穀倉地帯が広がってきます。波打つ穂波の中にぽつんと浮かぶイタリア国旗を掲げる孤島のような白い総二階建ての店、穂波街道 緑のイスキアの原点は、東京から羽黒の農家に嫁いだ庄司 祐子さんが、ご主人の渡さんと農業法人「J・FARM」を立ち上げ、自家製の有機野菜とアイガモ農法で栽培するコメの直売所を開店させた1994年(平成6)に遡ります。 ほどなく始めたのが、まだその頃は東北はもちろん全国でも珍しかった農場直営のレストラン「穂波街道」でした。当時は畑で採れた野菜を使ったカレーなどの親しみやすい料理を提供していた穂波街道が、最初の転機を迎えたのが、2年後に鶴岡ワシントンホテル料理長を辞したばかりの現「アル・ケッチァーノ」オーナーシェフ、奥田 政行氏を料理長として迎え入れ、イタリア料理店としてメニューを一新したことでした。庄司さんが自家栽培したハーブやオーガニック野菜を取り入れたイタリアンはやがて評判を呼び、素材にこだわる本格イタリアンとして、観光ガイドブックで紹介されるようになります。

vista_aragonese.jpg【Photo】古代ローマが礎を築き、ゴート族・アラブ・ノルマン支配の後、15世紀半ばにナポリを支配していたアラゴン家のアルフォンソ王によって、陸地と通路が渡されて要塞化されたCastello d'Ischia イスキア城(下写真)より望む緑に覆われたイスキア島。手前の町はIschia Ponte イスキア・ポンテ。庄司建人さんが修行したピッツェリアDa Gaetano はここからすぐ近く

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 2000年(平成12)春に奥田氏が独立した後も農家イタリア料理店として営業を続けていた穂波街道に、私が最初に伺ったのが山形エリアを仕事で担当していた2003年(平成15)初夏のこと。レストランに隣接する庄司さんの田んぼでは、アイガモやフランスガモたちが雑草をついばんでいました。当時の穂波街道で印象的だったのは、風に揺れる稲穂がどこまでも続く豊かな庄内の原風景に惚れ込んだ庄司さんの想いを込めた店名にふさわしい無農薬の健全な土から生まれるコメの美味しさです。数十種のハーブを栽培する畑の前には、農家レストランの体験メニューとして用意されたピッツァを焼くための小さな手製の窯も作られていました。

kenji_gaetano_ischia.jpg【Photo】旧東欧圏バルカン半島の付け根にあたるアルバニア出身の青年二コーラとイスキア島のDa Gaetano で修行中の建人さん

 その頃、東京で学生生活を送っていた祐子さんのご子息 建人(けんじ)さんが、ナポリピッツァの美味しさと出合い、ピッツァイオーロを志します。本場で腕を磨こうと決意した建人さんは、真のナポリピッツァ協会で主任技術指導員を務めるガエターノ・ファツィオ氏の店、「Da Gaetano ダ・ガエターノ」【Link to Website】があるイスキア島へと旅立ちます。ガエターノ氏は、これまでも数多くのピッツァイオーロを志す日本人を迎え入れてきた親日家でもありました。その中には、2003年にナポリで開催された「ピッツァ世界選手権」の個人部門で初めてイタリア人以外で優勝した「ピッツァ サルヴァトーレ・クオモ」(東京)のプリモ・ピッツァイオーロ 大西 誠氏も含まれます。(同店は2006年にチームテクニカル部門でも最高賞を獲得した) 15人のスタッフ中10人がイタリア人以外という国際色豊かなダ・ガエターノで、飲み込みの早い建人さんは、師匠の技術をわずか2カ月で習得して日本へ帰郷、母が営む店にプリモ・ピッツァイオーロとして迎えられました。店の中心にイタリア製の薪窯を据え、南イタリア風の白を基調とした内装のピッツァがメインとなるピッツェリア「穂波街道 緑のイスキア」として2007年11月にリニューアルします。

shinsa_honamikaido.jpg【Photo】今年3月に行われた本審査の模様。手前の赤いセーターを着た恰幅の良い後姿の男性がガエターノ・ファツィオ氏。

 真のナポリピッツァ協会日本支部によって行われる事前の書類審査と実地審査を経て、イタリア本部が派遣する協会役員によって行われる本審査に臨んだのが今年3月12日。建人さんの師であり協会の主任技術指導員を務めるガエターノ・ファツィオ氏、同協会日本支部長で1997年に日本初となる92号認定店となった兵庫県赤穂市のピッツェリア「さくらぐみ」オーナー兼ピッツァイオーロ【Link to Website】西川 明男氏、同支部副支部長で東京広尾と恵比寿の店が日本で3番目・4番目の認定店指定を受けたピッツェリア「パルテノペ」総料理長【Link to Website】渡辺 陽一氏ら3名が審査に当たりました。師匠と弟子の関係とはいえ、協会が定める厳格な規定に沿ったピッツァであるかを厳しくチェックされるため、そこに私情を挟む余地などありません。前出のDisciplinareにある通り、ナポリ周辺のカンパーニア州産と定められたモッツァレラチーズほか原材料や海塩に限るとされる調味料の産地はどうか、厳密に規定されている生地の配合具合・発酵と成型具合など素材の管理はどうか、必ず薪を使わなければならない窯の温度管理は的確か、35cm以下とされるピッツァのサイズや火の通り具合は均一か、定められた道具を使っているか、などなど。審査の厳しい視線や取材のカメラを前に緊張したと語る建人さんですが、焼きあがった完成度の高いピッツァに、ガエターノ師匠ら3人の審査員は高い評価を与え、晴れて東北初の認定店として認められました。

mare_forio.jpg【Photo】イスキア島西部の港町Forioフォリオ郊外。切り立った緑の森と水辺で戯れる人々が集う小さな砂浜

 あふれんばかりに陽光が降り注ぐナポリ湾の沖合いに浮かぶ美しい島々で最も大きな Isola d'Ischia イスキア島。海沿いの町を除く島の中央部には手つかずの自然が残っています。そのため「l'isola del verde(伊語で「緑の島」の意)」ともそこは呼ばれています。船着場がある島の表玄関 Ischia portoイスキア・ポルトからは、映画「イル・ポスティーノ」の舞台となったプロチーダ島がすぐ目の前。その彼方にはヴェスヴィオ火山の稜線を見晴るかすことができるはず。目線を南東に転ずれば、紺碧のティレニア海の水平線上に切り立った岩肌が露出する高級リゾート地カプリ島を望むことができるでしょう。外国人観光客がほぼ一年中絶えることのないカプリ島に比べれば素朴な漁村の一面も垣間見せるイスキア島を訪れるのは、温泉目当てのドイツ人を除けば、イタリア国内からのケースが多いようです。
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【Photo】多くのヴィッラが並ぶチェルノッビオの船着場前に建つヴィッラ・エルバ・ヌオヴァ。中庭を挟んで建つヴィッラ・エルバ・ヴェッキアでヴィスコンティは4時間を越える畢生の大作「ルートヴィヒ」の編集を手掛けた

 そんな一人が映画監督のルキーノ・ヴィスコンティ(1906-1976)です。若き日のアラン・ドロンを起用した「若者のすべて(1960年作品)には、尖塔が立ち並ぶミラノのドゥオモ屋上で撮影された場面が登場します。14世紀、この後期ゴシック様式の聖堂建造に着手したのは、ルキーノの祖先であるミラノ公国の領主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティでした。ダヴィンチが15世紀に要塞化したミラノのスフォルツァ城をかつて所有していたのもヴィスコンティ一族。そんなミラノきっての有力貴族の血を引く巨匠は、一族の寄進で造られた町エミリア・ロマーニャ州グラッツァーノ・ヴィスコンティにある城館や湖水地方コモ湖畔などに所有する別荘を仕事場としても使っていました。大作「Ludwig ルートヴィヒ(1972年作品)制作中に発症した脳血栓で半身不随となった体で編集作業を行ったのは、コモ湖畔の高級ホテルとして有名な「Villa d'Este ヴィッラ・デステ」がある街Cernobbio チェルノッビオに母方のエルバ家が所有していた二つの壮麗な別荘「Villa erba ヴィッラ・エルバ」でした。

IschiaLaColombaia.jpg 【photo】ヴィスコンティが愛したかつてのヴィッラ「La Colombaia」は、2006年に博物館として生まれ変わった

 オペラや舞台の演出にしろ、映画作りにしろ、決して妥協を知らぬ完全主義者だったヴィスコンティは、芸術家たちが集う場として、また仕事を離れてプライベートな時間を過ごす場として、イスキア島西部の港町Forioフォリオの町はずれに建つ別荘を購入します。地中海に面した高台にある館は「La Colonbaia ラ・コロンバイア(=伊語で「鳩小屋」の意)」と呼ばれ、ルキーノは夏だけでなく時間を見つけては足繁く緑に覆われた館に通ったのだといいます。1982年(昭和57)に初版が、そして一昨年復刻版が出版された篠山紀信の写真集「ヴィスコンティの遺香」には、撮影当時は生前そのままに保存されていた別荘の貴重な姿が収録されています。巨匠が揃えたアールデコ、アールヌーボーの内装で統一された建物は、生誕100年を迎えた2006年に政府の肝いりで設立された「Fondazione La Colombaia di Luchino Visconti ラ・コロンバイア財団」によって、撮影で使用された衣装などを展示するヴィスコンティ博物館として生まれ変わりました。その裏庭には、永遠の安息を得る地としてそこに葬られることを望んだヴィスコンティの華麗な足跡とは不釣合いなほど質素な墓がありました。

tomba_visconti.jpg【photo】イタリア屈指の名家の血を引くヴィスコンティが眠るのは、お気に入りだったイスキア島の別荘「La Colombaia」のひっそりとした裏庭だった

 イスキアといえば、全国から訪れる悩みを抱えた人々を迎え入れ、おむすびに象徴される心を込めた手料理で生きる力を取り戻す支えとなる宿泊施設を青森県弘前市で主宰する佐藤 初女さんを思い起こす方もおいででしょう。初女さんの自宅を改装して造った癒しの空間は、「森のイスキア」と名付けられました。命名の由来は、何不自由ない満ち足りた暮らしをしていながら、ある日突然何もかもが嫌になり、生きる意欲を失った一人のイタリア人青年の逸話に基づくのだといいます。生きる目的を失った無気力な日々を送るうち、青年はふと思い立ってナポリの富豪だった父親に少年の頃連れて行かれたイスキア島を訪れます。喧噪を離れた島の中心部にある廃墟となった教会に単身滞在した青年は、自身をじっくりと見つめ直します。美しい島の自然風景に癒された彼は再び生きる力を取り戻し、やがて日常生活に帰ってゆきました。初女さんは、折れそうになった人の心を癒やし、立ち直る力を得る糧として、ご自身の言葉をお借りすれば、"ごはんが息をできるように"今日も優しくおむすびを握ります。

 人の心を癒す初女さんの愛情が込もったおむすびは特別にせよ、おむすびは日本人のソウルフードともいえましょう。現世では日本人ながら、前世はイタリア人だった私にとっては、おむすび同様に郷愁をそそるソウルフードのひとつが、ピッツァ・ナポレターナです。東北初の真のナポリピッツァ協会認定店誕生!との情報を入手し、穂波街道を再び訪れたのは、かつてそこから巣立った奥田シェフプロデュースの銀座店「ヤマガタ サンダンデロ」旗揚げを祝う生産者による壮行会に参加を求められた4月11日(土)昼過ぎのことでした。年間通して温暖な気候に恵まれ、グランブルーの海に抱かれた南イタリアの理想郷、イスキア島のVillaヴィッラ(=別荘)を彷彿とさせる明るい内装のピッツェリアにそこは生まれ変わっていました。早口でまくしたてるイタリアのWebラジオ放送が流れる店内には、イスキアのゆったりとした時間が流れているかのよう。

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【photo】生地には大手製粉メーカーに籍を置くパルテノペ 渡辺 陽一氏が配合する国産小麦粉とナポリ産小麦粉を使い分け、ナポリ産トマトソース(左)とナポリ東方45kmのサレルノ近郊から毎週空輸されてくる新鮮な水牛乳モッツァレラ・チーズ(右)を使う

 私が注文したピッツァD.O.Cをカウンターの中で手際よく仕上げてゆく建人さんの手元を頼もしげに見つめるのは店長の祐子さん。その目線に温かさを感じるのは、お母様なるがゆえでしょう。こうした親子・兄弟など家族で店を営むスタイルは、イタリアでよく見かけます。建人さんはあれこれ話を聞き出そうとする私と会話しながらも、窯を何度かのぞき込んでは焼き加減を確認します。燃え盛る薪に近いほうが先に焼けるので、金属製のパーラでピッツァを半回転させ、全体がこんがりキツネ色になったところで、協会が定める鉄製のパーラで焼きあがったピッツァを窯から取り出しました。そして建人さんは私の前世がイタリア人だと言葉の端々から悟ったのか、さりげなく「切ってお出ししていいですか?」と私に問いかけたのです。お、そこまで本場流にこだわるのかっ!

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【photo】全てハンドメードで造られるナポリ窯の最高峰「Gianni Acunto ジャンニ・アクント」の窯にピッツァを入れるのは木製(左)、向きを変えて窯から取り出すのは鉄製のパーラ(右)

 前出の協会が定める規約には、La verace pizza napoletana va consumata appena sfornata(=真のピッツァ・ナポレターナは焼き立てのうちに食べるべき)と明文化されています。食べ方にまで注文を出す本場ナポリでは、窯に近いかぶりつきのテーブルに陣取った地元のナポレターノたちは、切らずに出されたアツアツのピッツァをナイフとフォークを使って食べてゆきます。ズボラな私は、厳しい審査員の目が無いことをいいことに、建人さんのご厚意に甘えて、Prego.(=どうぞ)と答えていました。いずれピッツァは熱いうちに頂くのが店に対する礼儀です。撮影も早々にナイフで食べやすい大きさにピッツァをさらに切り分けてほおばると、喧騒と活気に満ちたナポリ下町の香りが口腔いっぱいに広がるのでした。

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【photo】カウンター脇から建人さんの仕事ぶりを見つめる祐子さん(上左)ピッツァD.O.C(上右)協会から授与された296の通し番号入りサインボードを手にする建人さん(下)

numero_296.jpg ナポリから1万kmも離れた地で、ナポリ文化そのものであるピッツァの味をよくぞ再現した!と師匠を納得させたそのピッツァは、身も心も(→「mi」とは言ったものの、ここでは「i=胃」を指すニュアンスが強いです、ハイ満たしてくれる、一皿で完結する料理を意味するまさに「Piatto unico ピアット・ウニコ」でした。26歳にしてピッツァ職人としての腕を認められた建人さんは、鶴岡にある本格的なピッツェリア同士、Gozayaの三浦さんとコラボでナポリピッツァの魅力を多くの人に知ってもらえる何か面白い仕掛けをしたいと語ります。緑に囲まれたピッツェリア、穂波街道ヴェルデ・イスキアは、今後どんな展開を見せてくれるのでしょうか。まずはともかく、Complimenti (おめでとう) Kenji!

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「真のナポリピッツァ協会」認定店
ピッツェリア「穂波街道 緑のイスキア」
  住所)鶴岡市羽黒町押口字川端37
     Phone 0235-23-0303  Fax 0235-57-4185
  イートイン・デリバリー:平日11:00-14:00 L.O 17:30-20:30 L.O
       土日祝11:00-14:30 L.O 17:30-21:00 L.O 火曜定休
  URL:http://www.midorinoischiak.com/
  Menu:ピッツァ・マルゲリータ 1,785円 ピッツァD.O.C(ドック)2,310円  
       食の都・庄内ならではの食材を活かした南イタリア料理も充実!!

◆「l'Isola del Verde(=緑の島)」こと、イスキア島およびDa Gaetano‎ はこちら
               

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追記
 2009年6月11日(木)、ナポリでピッツァ・マルゲリータ生誕120周年の記念イベントが行われた。世界中で愛されるマルゲリータの名前の由来となったのは、イタリア国民から広く敬愛されたサヴォイア家のマルゲリータ王妃(1851-1926)。マルゲリータを最初に考案したBrandiには、この日120周年を記念するプレートが贈られた。王妃に扮した女性が馬車でうやうやしく登場、ピッツァにかぶりつくパフォーマンスも行われた。一歩間違えれば"共食い"に見えなくもないマルゲリータの感想を求められられた"なんちゃってマルゲリータ王妃"は「Buono(=おいしい)」「Ottimo(サイコー)」とわかりやすいコメント。仮面姿のプルチネッラが振る舞い餅ならぬ"振る舞いピッツァ"で盛り上げに一役買ったお祝いムードに沸く当日の模様はこちら

2009/01/12

丑年なVinoでスタートダッシュ

 新たな年も早や12日が過ぎ、今年も残すところ353日となりましたが(?)、皆様いかがお過ごしでしょうか。 私は2009年の幕開けを1,100名あまりの皆さんと共に、新年を迎えるカウントダウンの大合唱の中で迎えました。と申しますのも、東北大学百周年記念会館「川内萩ホール」を会場に、大晦日(独語で「Jilvester ジルベスター」)の深夜に催された「東北大学ジルベスターコンサート2008-2009」の運営に携わったからです。仙台では今回が初開催となった東北大学・河北新報社・TBC東北放送の共催によるこのニューイヤーコンサートは、新装なった東北大学百周年記念会館「川内萩ホール」の世界水準とされる音響のもとで新年を飾るにふさわしいクラシックの名曲を楽しみながら、午前零時のカウントダウンを挟んで新年を迎えようというものです。聴衆としてではなく、仕事だったのはやむを得ませんが、会場を埋める聴衆の皆さんと夢のような時間を共有することができました。
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【photo】2008年秋に新装なった東北大学「川内萩ホール」。世界レベルの音響設計がなされたホール初の有料コンサートとなった「東北大学ジルベスターコンサート」のリハーサルの模様。本番前から熱の入った演奏を聞かせた山下洋輔さんと仙台フィル。本番では更に鬼気迫る熱演を繰り広げ、会場を熱狂の渦に巻き込んだ

 山下一史氏の指揮のもと、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」序曲でオープニングを飾った仙台フィルハーモニー管弦楽団とのコラボで、海外で輝かしい成功を収めている圧倒的なパフォーマンスを聴かせてくれたのはソプラノの田村麻子さん。2008年が生誕150周年に当たったイタリア中部トスカーナ州Lucca ルッカで1858年に生まれたジャコモ・プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」のアリア『私のお父さん』を情感豊かに歌い上げました。恋する乙女心を切々と表現する田村さんの美声に聞き惚れるうち、歌詞にも登場するフィレンツェ・アルノ川に架かる「ポンテ・ヴェッキオ」の上へといつしか誘(いざな)われていました。歌劇「トスカ」より『星は光りぬ(←昨年亡くなったディ・ステーファノの冥福を祈って...) 、「トゥーランドット」より『誰も寝てはならぬ』という豪華カップリングで聴衆を魅了したのは、10月に開催された仙台クラシックフェスティバルでもお馴染みのテノール中鉢 聡さん。極めつけは、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」を熱のこもったエネルギッシュな演奏で会場の大喝采を浴びたピアノの山下洋輔さん。とまぁ、ソリストといい、演目といい、なんとも贅沢なラインナップなこと!
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【photo】トスカーナ州北西部の城壁に囲まれた古都、Lucca ルッカのプッチーニ生家(背景奥の建物)の前に建つ凛々しい作曲家の銅像

 実はコンサートの進行役を務めたTBCの藤沢智子アナウンサーと舞台裏のスタッフは、時計と睨めっこで時間管理に当たる極度の緊張を強いられていました。演奏中に年をまたぐジルベスターコンサートという特別な日の演出上、予定のプログラム7曲をカウントダウンを始める23時59分頃までには終えなくてはならなかったからです。指揮者の山下さんと仙台フィルのメンバー、3人のソリストが揃ったステージと客席が一体になって新年のカウントダウンが始まると、会場の興奮は最高潮に。ステージの背景に映し出されたカウントダウンの数字がゼロになり、A Happy New Year! の文字が映し出されると、会場は一気に華やいだ雰囲気に染まりました。新年を飾る曲として演奏されたのが、19世紀半ばのイタリア統一運動(Risorgimento リソルジメント)を精神的に支え、今も「イタリアの父」と称えられるジュゼッペ・ヴェルディの歌劇「椿姫」より『乾杯の歌』です。

 ワイングラスを高らかに掲げながらステージに登場した田村さん・中鉢さんのお二人。目にも鮮やかな赤いドレスをまとった田村さんが手にする赤ワインがステージによく映えます。時間を気にする必要が無くなったせいか、こちらもリラックスして二重唱の名曲を楽しむことができました。中鉢さんが「ルネッサーンス!」という髭男爵のギャグを飛ばしてくれなかったのが残念でしたが(笑)、所属する藤原歌劇団でも当たり役の青年貴族アルフレードが「Libiamo ne'lieti calici che la bellezza infiora,(友よいざ飲み明かそう、心ゆくまで)」と歌い出す「乾杯の歌」は、新たな年の幕開けにはぴったりの選曲ですよね。

Vernet-Barricade_Novara.jpg【photo】 街の守護聖人、聖ガウデンツィオを祀るサン・ガウデンツィオ聖堂が描かれたノヴァーラの対オーストリア市街戦を描いた19世紀の絵画

 ラヴェル作曲「ボレロ」の演奏が終わっても鳴り止まぬ拍手の中、アンコールはウィーンフィル恒例のニューイヤーコンサートでもお馴染みの「ラデツキー行進曲」。前世イタリア人にとって、ウィーンの楽友協会大ホールかと錯覚させるかのような客席の手拍子と共に演奏されたこの楽曲には、いささか複雑な思いがよぎります。というのも北イタリアがオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった1848年3月、独立を勝ち取ろうと現在のピエモンテ州Novara ノヴァーラで決起したサルデーニャ連合軍を主体とする我が同胞は、オーストリア帝国のヨーゼフ・ラデツキー将軍によって殲滅されました。その勝利を称えるためにヨハン・シュトラウスが作曲したのがこの威勢の良い行進曲だからです。こうして私が前世を過ごしたイタリア統一運動(リソルジメント)真っ盛りの時代に活躍した作曲家の作品を中心としたプログラムで、気持ちが高揚したまま深夜1時30分過ぎに家路に着きました。

avignoneseidesiserio1995.jpg【photo】 深みとしなやかさを兼ね備えたアヴィニョネジのVino rosso、「Toro Desiderio トーロ・デジデーリオ」。エチケッタに描かれたキアーナ牛もまた、中身のヴィーノ同様に堂々たる体躯を備えている

 丑年の幕開けを祝うにふさわしいワインは無いかと、静まり返った深夜のリビングルームで一人思案しました。黒い闘牛がボトルに掛かるスペイン・カタルーニャ地方の大手ワイナリー「ミゲル・トーレス」は日本でも有名ですが、イタリアワインにほぼ占拠され、お目当てのヴィーノを探し出すのにひと苦労する(^^;我が家のセラーには、「牛の血」を意味する同社の看板ワイン「Sangre de Toro サングレ・デ・トロ」すらありません。

 イタリアでエチケッタ(=ラベル)に牛が登場するヴィーノといえば、「Avignonesi アヴィニョネジ」の「Toro Desiderio トーロ・デジデーリオ」というヴィーノを真っ先に思い浮かべました。世界最高峰のデザートワインに数えられる「Vin Santo Occhio di Pernice ヴィン・サント・オッキオ・ディ・ペルニーチェ」で名高いこの造り手が、トスカーナ州南部「Val di Chiana ヴァル・ディ・キアーナ(=キアーナ渓谷)」地帯に位置する「Cortonaコルトーナ」近くで栽培するメルローとカベルネ・ソーヴィニヨンを混醸したワインです。幸福無事な一年の願いをかけるにはぴったりな「願望」を意味するイタリア語Desiderio の名が付いたこのヴィーノのエチケッタに描かれた白い雄牛(伊語でToro)はイタリアきってのブランド牛であろう「Chianina キアーナ牛」です。

mucca_chianina.jpg【photo】 オスは体重900kgから1,000kgもの巨漢になる世界最大級の牛、キアーナ牛

 ほとんどの観光ガイドブックに郷土料理として紹介されるほど有名な「Bistecca alla Fiorentina ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(=フィレンツェ風Tボーンステーキ)」に使われるのがこの牛です。一大観光都市でもあるフィレンツェでは、肉料理の目玉としてレストランのメニューによく登場しますが、月齢24ヶ月以下の雄牛の肉を厚切りにして炭火で「al sangue アル・サングエ」(=レア)に焼く本物のビステッカは稀だといいます。トスカーナ州南東部のキアーナ渓谷周辺で飼育される希少なこの牛は、5月上旬から11月中旬にかけて放牧肥育され、オスの体重は1トンにも及ぶ世界最大級の巨漢牛となりますが、優れた肉質と希少性からスローフード協会によって次代に残すべき食材を守る「味の箱舟」事業の保護(=プレジディオ)指定を受けています。bistecca_fiorentina.jpg以前取り上げた日本短角種のように噛み締めると肉の旨味が口の中一杯に広がる本物のキアーナ牛にありつきたい方は、モンテプルチアーノやコルトーナ周辺まで足を伸ばすことをオススメします。ただし、ほとんどの場合、ビステッカは二人分以上のボリュームがあるので、お一人で完食するのはまず無理でしょう。

【photo】 MontepulcianoにあるリストランテBorgobuioで正真正銘のキアーナ牛を使ったビステッカをオーダー。マダムのエルダさんに「少なめに」と伝えたものの・・・(上写真) ランボルギーニの名に恥じないスーパー・ウンブリアのセカンドヴィンテージとなった「カンポレオーネ'98」(下写真)

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 私が所有するDeseiderioは、トスカーナが理想的な気候のもと作柄に恵まれた'04年ヴィンテージで、まだ飲み頃に達していません。そこで"牛つながり"でセラーから選んだのが、今回ご紹介するイタリア中部ウンブリア州で造られた赤ワイン、「Lamborghini-La Fiorita ランボルギーニ - ラ・フィオリータ」なる造り手の「Campoleone カンポレオーネ」の'98年ヴィンテージ。そう、'70年代のスーパーカーブームで有名になったあのランボルギーニ家が所有するカンティーナです。エミリア・ロマーニャ州Sant'Agata Bolognese サン・アガタ・ボロネーゼに本拠地を置く自動車メーカーのランボルギーニ「Automobili Lamborghini Holdings S.p.A」 (秀逸な「Pronti a correre?(=Ready to ride?)」の問いかけから始まるWebサイト(伊語・英語)こちらは、数度に及ぶオーナーの変遷を経て'99年以降はドイツのAUDI 傘下に入りました。しかしワイナリーは創業者であるランボルギーニ一族によって現在も運営されています。

 ちなみに北イタリアのトレンティーノ・アルト・アディジェ州には「Ferrari フェラーリ」というスプマンテの著名な作り手も存在しますが、車のフェラーリとは全く関係ありません。イタリア伝統のベルカントなハイトーンを奏でながら8,000回転以上まで一気に吹き上がる官能的なエンジンを積んだランボルギーニやフェラーリの名が付いたヴィーノやスプマンテでも、酔いが回るのまで速いわけではありませんのでご安心を(笑)。跳ね馬をシンボルとするフェラーリに対して、ランボルギーニは牡牛座だった創業者にちなんだかどうかは判りませんが、猛々しく突き進むファイティング・ブル(闘牛)をシンボルマークにしています。

lamborghini_logo.jpg【photo】 猪突猛進(→ここでは「牛突猛進」?)するファインティング・ブル(闘牛)はランボルギーニのシンボル

 ランボルギーニ社の創業者であるフェルッチョ・ランボルギーニ(1916-1993)がイタリア最大の湖である「Lago Trasimeno トラジメーノ湖」を訪れた際、湖水を背景になだらかな丘陵が広がるPanicale パニカーレの風景に魅せられます。第一線を退いた'71年に32haの畑を購入し、「Sangiove サンジョヴェーゼ」や「Ciliegiolo チリエジョーロ」といったイタリア固有品種に加え「Merlot メルロー」と「Cabernet Sauvignon カベルネ・ソーヴィニヨン」といったボルドー原産のブドウの栽培を始めます。優秀なメカニックとして、エンツォ・フェラーリも一目置く存在だったフェルッチオは、もともとエミリオ・ロマーニャ州Ferrara フェラーラ近郊にある農家の出身でした。当初は自家消費を目的に楽しみで始めたワイン造りが転機を迎えたのは、'93年に亡くなったフェルッチオの後を'96年から継いだ娘のパトリツィアが「ミスター・メルロー」の異名を持つ有能なオルヴィエート出身の醸造家、リッカルド・コタレッラを醸造コンサルタントに迎えた'97年ヴィンテージから。パトリッツィアがベーシックラインのヴィーノ「Trescone トレスコーネ」について語るVideoはこちら。

 同年より赤をイメージカラーとするキャップシールとエチケッタ(ラベル)のコストパフォーマンスが高い「Trescone」と、黄色を基調としたフラッグシップに位置付けられる「Campoleone カンポレオーネ」というイタリアン・スポーツカーのメーカーらしい2種類のヴィーノにラインナップを一新。'03年にはミッドレンジとして「Trami トラミ」も第3のワインとして年産4,000本という少量だけながらリリースされています。それらのヴィーノのエチケッタには、誇らしげにLamborghini のロゴと小さく控えめに猛牛をあしらったシンボルマークが記されています。etichetta_campoleone.jpg著名な米国のワイン評論家ロバート・パーカーJr.が97点(/100点満点)を付けて世のワインラヴァーの注目を集め、ファーストヴィンテージとなった'97年産からカンポレオーネはシンデレラ・ワインとして鮮烈なデビューを飾りました。それはグラスに注いでも全く光を通さないほど真っ黒な色合いを呈する凝縮度の高いサンジョヴェーゼとメルローが50%ずつブレンドされたヴィーノでした。

【photo】 ランボルギーニの紋章、ファイティング・ブルをあしらったCampoleone のエチケッタ。およそ猛牛のイメージとはかけ離れた小柄でチャーミングな女性オーナー、パトリッツィアさんには不似合いかも?

 新年の一杯目として選んだCampoleoneセカンドヴィンテージの'98年は、10年を経てタンニンがこなれてきたものの、抜栓直後はいまだに硬さが残る印象を残します。徐々に妖艶な香りを漂わせるヴィーノをグラスで2杯ほど空けましたが、これはもう少し時間を置いたほうが良さそうだと思う間も無く、猛烈な睡魔が襲って来ました。そういえば紅白歌合戦の小林 幸子と美川憲一のド派手な衣装はどんなだったか? そして紅組・白組の勝敗はどうなったんだろう? という考えが中鉢さんの「Nessun dorma!=誰も寝てはならぬ!」というリフレインと共に脳裏をよぎりましたが、いつしかソファーで深い眠りについていました。Zzz・・・ 飲み残したCampoleone がスーパーカー並みの優れたポテンシャルを見せてくれたのは、優れたワインにはよくあるように翌日元旦と翌々日の2日のことでした。(ちなみにいずれの疑問についても未だにその解答を得ていません)

agri_lamborghini.jpg【photo】 トラジメーノ湖を望む美しい丘陵に建つランボルギーニのカンティーナ(手前) 

 イタリア国家警察が創設152周年を迎えた昨年、ランボルギーニ社から最新型フラッグシップモデル「Gallardo(ガヤルド)LP560-4」が記念に贈呈され、主にスピード違反を取り締まるためのパトカーとして稼動しています。(そりゃそうです、時にF1レーサーまがいのフェラーリやポルシェを追尾するのですから...←(・_・┐)))。メーカーによる特別な講習を受けた30名の警官だけがステアリングを握ることが許されるというのは、時速100kmに達するまでわずか3.7秒、最高巡航速度325kmに達するモンスターばりの性能ゆえ、運転にもそれなりの腕を要するということ。(圧倒的な加速性能を披露する動画はコチラをclick!

 不景気風を吹き飛ばすファイティング・ブルにあやかって上のGallardo LP560-4の動画ばりにホイルスピンをかけて猛烈なスタートダッシュを切るには最適なアイテムとして、皆様にもランボルギーニをオススメします。ちなみに日本ではGallardo LP560-4は一台2,500万円の高嶺の花、Campoleoneは5,000円台のまだしも手の届く価格で入手可能です。...いくら丑年の幕開けだからといって、新年最初の一本が牛ラベルのワインとは、いささか安直な選択だなぁ、と自省しつつ、今年もよろしくお願いします。m(_ _)m


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2008/09/20

ピニンファリーナなミネラルウオーター

ガンベロ・ロッソがNo.1に選んだ水を名門カロッツェリアがプロデュース
イタリア史上最強の(?)ミネラルウオーター

 日本からイタリアへと向かうフライトが終盤に差し掛かる時、上空を越えるのがヨーロッパ・アルプスです。標高2,300m前後とされる森林限界を遥かに超える万年雪と氷河に覆われたそこには、4,000m級の山々が連なっています。欧州最高峰のMonte Bianco モンテビアンコ(=モンブラン・4810.9m)、Cervino チェルヴィーノ=マッターホルン・4478m)、Monte Rosa モンテローサ(4634m)...。世界のアルピニストを魅了するこれら名峰の威容は、決して見飽きることはありません。それは機上からの眺めに限ったことではなく、Lago di Misurina ミズリーナ湖や、10km 弱車で進むとたどり着く3つの巨大な切り立った岩山が奇観を呈するTre Cime di Lavaredo トレ・チーメ・ディ・ラヴァレードなど、ドロミテきっての景勝地であるオーストリア国境周辺やピエモンテ州とロンバルディア州に挟まれた小州、ヴァッレ・ダオスタからロンバルディアにかけてのイタリア北西部のスイス国境周辺には、峨々とした山並みと点在する湖が美しい景観を描き出すRegione dei Laghi (=湖水地方)と呼ばれる風光明媚な一帯が広がっています。

monterosa_lago_maggiore.jpg【photo】 マッジョーレ湖を取り囲む針葉樹と岩肌からなる山々の先に白い頂きをのぞかせるモンテローサ。奇想天外なバロック庭園があるIsola Bella ベッラ島を望む湖畔の町Stresaストレーザにはスノッブな高級ホテルが建つ

 アルプスの峰々に降った雪は、夏でも融けることのない万年雪が、やがて氷河となり、気の遠くなるような時間をかけて麓へとゆっくり移動します。その過程で、永久凍土と岩の隙間に水分が徐々にしみ込んでゆき、毛細管現象によって地下水脈となります。人類のCO2 排出量が飛躍的に増えた産業革命以降の100年で、アルプスの氷河は体積が半分に、表面積は2/3に減少したといわれています。近年、北極の氷やシベリアの永久凍土と同様に、アルプスでも氷河の消滅速度が加速しています。同時に地中の氷が溶け出すことによって、支えを失った岩肌が大規模な崩落現象を引き起こす事例がチェルヴィーノやスイスのアイガーで報告されています。その原因は地球温暖化の影響にほかなりません。温暖化防止の対策を怠れば、今世紀中にアルプスの氷河は消滅するだろうと研究者は警告を発しています。表向きは美しい山岳風景ですが、その実、こんな危機が迫っているのですね。うーむ・・・。

Monterosa_Novara-1.jpg【photo】 高速E64をミラノに向けて東に進むと、ピエモンテ州の東端にあたる Novaraのシンボル、サン・ガウデンツィオ聖堂の尖塔が見えてくる。 その周辺は緑の水田が広がるイタリアきっての穀倉地帯。彼方にはモンテローサの姿がくっきりと浮かび上がる

 話が4,000mの山頂並みにお寒く息苦しい展開になりました。気分を変えて今回はスタイリッシュなイタリアン・アルプスの水についてご紹介しましょう。大都市ミラノとトリノを結ぶ高速E64は、両市街地を離れると青々とした森林が広がる平原の北側にはアルプスの山並みが迫る快適なドライブルートとなります。その先には高級リゾート地として知られるLago Maggiore マッジョーレ湖やLago d'Orta オルタ湖が満々とした水面に周囲の山々を映し出して横たわります。特別自治州のヴァッレ・ダオスタ州は、手厚い国の補助金や税制面での優遇を受けており、豊かさではイタリア国内屈指とされる地域です。そんな背景があってか、ミラノ近郊のE64を走っていると、フェラーリ575M Maranello とマセラティGranSport が連なって疾走するイタリア国内でも稀な光景に出合ったりします。(⇒まるでバブル期の銀座みたいだっ!

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 スローフード協会が発行する月刊誌「Gambero Rosso ガンベロ・ロッソ」2002年10月号で200種類ものイタリア産ミネラルウオーターの品質ランキングが発表されました。その指針とされたのが蒸発残留物【注1】の数値。日本でも良く知られたブランドの水が1,074mg/l で183位に甘んじた一方で、最も低い13.9mg/lという数値で品質No.1に輝いたのが、ピエモンテ州北部 Biella ビエッラ県Graglia グラリアでボトリングされる「Lauretana ラウレターナ」(日本での商品名は「ローレターナ」)です。この水の特徴は、硬度が高くなりがちなヨーロッパ産の自然水にしては、メーカーの公表値で5.5と異例なほど硬度が低い万人向けの超軟水であること。さらにメーカー公表のph値が5.82(ガンベロ・ロッソの計測値では5.75)と弱酸性を示すため、人体への吸収効率に秀でているのだといいます。

 Ermenegildo Zegna エルメネジルド・ゼニアや Loro Piana ロロ・ピアーナなどの高級毛織物産業で知られるビエッラから5kmほど西の山沿いに向かったグラリアには、19世紀に整備されたTerme del Santuario di Graglia サントゥアリオ・ディ・グラリアというテルメ(温泉)施設が6月から9月のヴァカンスシーズンのみ稼動します。かつては、サヴォイア家のマルゲリータ王妃も保養のためにトリノの王宮からこの地を訪れたのだそう。テルメといっても、もっぱら泌尿器系の結石疾患や新陳代謝の促進を目的とする飲泉治療のための施設ゆえ、ひと風呂浴びて旅の疲れを癒そうと水着持参でそこを訪れても無駄足となりますので、念のため(笑)。集落の外れにはSerbatoio Acqua Potabile Graglia(=グラリア飲用水配水所)なる施設があり、水汲みに訪れる人の姿が見られました。

graglia.jpg【photo】モンバローネ山の中腹に建つSantuario di Graglia グラリア聖堂。イタリア中部 Marcheマルケ州Anconaアンコーナ県Loretoロレートには、13世紀に天使がナザレから移したとされるマリアの生家の壁を祀ったSanta Casa(聖なる家)があり、イタリア国内で重要な巡礼地となっている、そこに安置された黒マリア像から名前をとったMadonna di Loreto がビエッラ周辺の人々の信仰を集めている

 炭酸ガスを含まないNaturare(ナトゥラーレ)、ガス入りのFrizzante(フリッツァンテ)共に、ヨーロッパ・アルプス第二の高峰モンテローサの氷河水が、造山運動で生じた古生代の地層の中をおよそ40キロ南下し、標高2371mのColma di Mombarone モンバローネ山の中腹、海抜1,050m付近で地上に湧出した水(※画像はメーカーWebサイトより引用)をボトリングしたものです。その周辺には工場や人家などの施設が皆無なため、採水地としては非常に恵まれた環境なのだといいます。グラリアの集落の先には、17世紀に造られた聖堂がひっそりと佇んでいます。そこにはLauretana の名前の由来となった幼子イエスを抱く黒マリア「Madonna di Loreto ロレートの聖母」が安置されていました。これは6km北方にある世界遺産の「Sacri Monti サクリ・モンティ(複数形)」のひとつ、Oropa オローパのサクロ・モンテ(単数形)に祀られた黒マリア像と相通じるもの。この一帯はイタリアン・アルプス地方におけるマリア信仰の一大中心地でもあるのです。ゆえに Lauretana の優しい口当たりは、聖母がもたらした奇跡なのかもしれません。
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【photo】 Lauretana の名前の由来となった黒マリア「Madonna di Loreto ロレートの聖母」

 スローフード協会から品質上のお墨付きを得た格好のLauretanaが、注目を浴びる契機となったのは、その2年前の2000年にイタリアきっての名門カロッツェリア【注2】として名高い「Pininfarina ピニンファリーナ」の子会社「Pininfarina Extra ピニンファリーナ・エキストラ」がデザインしたボトルの製品を発表したことが大きく貢献しています。ヨーロッパで最も軽くクリアな味わいとされる Lauretana のイメージを具現化したという透明なガラス製のボトルには、ピニンファリーナのロゴが控えめに浮き彫りにされ、絶妙な曲線と直線からフォルムが構成されています。シンプルなラベルはLauretana のロゴがプリントされた素っ気ないもの。ボトルの背中側から局面ガラスを通して見えるラベルの裏側には、ラウレターナのロゴと共に pininfarina のロゴも記される心憎い演出が効いています。斬新でありながらどこかしらクラシカルな印象を与えるそのフォルムは、かつてピニンファリーナがデザインワークに関わった優美な曲線を身に纏った車たちと相通じるものを感じさせます。

lauretana_pininfarina.jpg【photo】ピニンファリーナがボトルのデザインをしたLauretana。王冠の色とラベル下部の白抜き文字のベースカラーが青=NATURALE(senza gas ガスなし)、赤=FRIZZANTE(con gas ガス入り)。容量は750mlのみ

 フェラーリやマセラティといった華がある高級スポーツカーのデザイナーとして名高いピニンファリーナ。この名前は車好きでなくとも耳にしたことがおありでしょう。トリノで1930年に創業して以降、ランチア、アルファロメオ、フィアットといったメーカーと実績を積み上げ、1952年にフェラーリと協働関係を結びます。西武ライオンズ在籍当時の清原 和博選手の愛車として勇名を馳せた(?)1984年発表のTestarossa、その3年後に登場したF40と後継のF50、そして山形県東根市出身の日本人、奥山 清行氏がチーフデザイナーとして在籍当時に手掛けたEnzoやP4/5 といったフェラーリのフラッグシップモデルにおいて、ピニンファリーナは最も光り輝くように思います。1947年から協力関係にあるマセラティでは、現行の Quattroporte や Grantourismo などにピニンファリーナならではのエレガントな造形感覚が遺憾なく発揮されています。アルファロメオ歴代のオープントップモデル Spider も忘れてはなりません。既存の車をベースにルーフを取り払った美しいコンパーチブルカーを作らせては、ピニンファリーナの右に出る者は見当たりません。

 確固とした実績と揺るがなき名声を得た今日では、プジョー(仏)、ジャガー(英)、フォード・GM(米)、ボルボ(スウェーデン)など、自動車における協力関係はイタリア国内のみならず、世界中のメーカーに及びます。日本においては、カロッツェリアとしてライバル関係にあるジョルジェット・ジウジアーロが、かつて乗用車を製造していた頃のいずヾと117クーペやピアッツァといった美しいクーペモデルを生んだ例があります。しかしながら、数少ないショーモデルを除いて、ピニンファリーナとのコラボによる国内向けの市販車を手掛けた日本のメーカーは存在しません。車が単なる移動手段の道具ではなく、ライフスタイルを反映する自己表現の手段のひとつと考える欧州のクルマ造りと、マッチ箱のようなミニバンの開発ばかりに力を注ぐ日本のメーカーの姿勢はいかにも対照的に映ります。
Lauretana_ back_pinin.jpg【photo】ガラス越しに見えるLauretana のラベルの裏側にはこの水の14mg/lという蒸発残留物の数値と「THE LIGHTEST WATER OF EUROPE」の表記と共にpininfarina の名が記される
 
 現在、企業体としてのピニンファリーナは、イタリア国内のほかに、仏・独・スウェーデンなど世界5カ国に現地法人を置き、グループ全体の従業員数は3,000人。2007年における6億7千40万ユーロに及ぶ売上のうち、8割が自動車関連業務によるもので、創業者のバッティスタ・ピニンファリーナ以来の伝統は、今日もしっかりと受け継がれています。中核となる自動車のデザインワークを行うのは、Pininfarina S.p.A.。かたや広く生活用品一般のプロダクトデザインまで手掛けるのが1987年に発足したPininfarina Extra S.r.l.です。誕生から20年で総売上の2割を占めるまでに成長したピニンファリーナ・エクストラが関わったのは、当然 Lauretana のミネラルウオーターに限りません。歯ブラシやフレグランスの瓶、家電製品、家具、システムキッチン、自家用ジェット航空機、クルーザー、ホテルやマンションの内外装、そして2年前に地元トリノで開催された冬季五輪の聖火台と聖火のトーチのデザインに至るまで、いままで関わった仕事は多岐に渡ります。

lauretana_pinin_ecching.jpg【photo】 ボトル底部の両側には pininfarina のロゴタイプが浮き彫りにされている

 両社のCEO(最高経営責任者)として、ここ数年指揮を執ってきたのは創業者の孫であるアンドレアとパオロのピニンファリーナ兄弟です。デザイナーとしてではなく、もっぱら経営面で手腕を発揮した兄のアンドレアが、先月7日に51歳で不慮の死を遂げました。Vespaブランドで知られる Piaggio 社創業60周年の記念限定モデル、グレーのVespa GT60に乗って自宅から出勤する途中に、78歳の男性が運転する Ford Fiesta にはねられたのです。昨年の売上高が1.000億円を越える自動車と縁が深い企業の会長兼最高経営責任者は、運転手付きの車ではなく、自らスクーターを運転して出勤していました。そうして不幸な事故に遭ったのも、皮肉な巡り合わせですが、これもおおらかなイタリアのお国柄ゆえの悲劇と言えなくもありません。ピニンファリーナ社は8月12日の取締役会において、エクストラ社の代表だった弟のパオロ氏のPininfarina S.p.A.会長兼最高経営責任者就任を決定しました。故アンドレア氏による経営下にあって、トリノ郊外のサン・ジョルジョ・カナヴェーゼにあるピニンファリーナの工場で生産を請け負ったalfa Breraのオーナーの一人として、故人のご冥福を心よりお祈りします。


 【注1】 水の中に浮遊・溶解しているカルシウム・マグネシウム・ナトリウムなど、土壌に由来する有機物(ミネラル)成分のこと。1 リットルの水を蒸発させて残る重量の数値で表される。純水に近い無機質な水が美味しく感じる訳ではなく、適度にミネラル成分を含んだほうが、コクとまろやかさが加わって飲用水としては美味しく感じる。この数値が多すぎると苦味を強く感じるため、飲用には適さない。一般に30~200mg/l程度が美味しい水の目安とされる

【注2】 Carozzeria カロッツェリアは、イタリアで特に自動車のボディワークを行う会社を指す。工房と呼ぶべき小規模なものから、ピニンファリーナのように国外にもグループ企業を抱える比較的大きな事業規模の場合もある。業務内容においても、原料や素材の調達から、設計・組み立てまでを一貫して手掛けるケースから、工程ごとに専業の場合もある。日本車では大手メーカーが開発から一環して生産までを行うのと対照的。ピニンファリーナの他にはイタルデザイン、ベルトーネ、ザガート、ミケロッティなどが有名どころ

2008/08/13

作り手死すとも、ワインは死せず

急逝したアブルッツォの巨星、ジャンニ・マシャレッリが遺したもの

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 来る10月23日から27日にかけての5日間、イタリア・トリノでスローフード協会主催の「Salone del Gusto サローネ・デル・グスト」が行われます。世界中から特色ある優れた食品の生産者と料理人、ジャーナリストが集った前回の開催は今から2年前の2006年。そこでアブルッツォ州の手打ちパスタとワインを紹介するセミナーでお会いしたのが、イタリアワイン界の重鎮、Gianni Masciarelli ジャンニ・マシャレッリ氏でした。《Link to back number
セミナーの席上、自身のワイン造りについて熱弁をふるったマシャレリ氏が、7月31日に滞在先のミュンヘンで脳梗塞のため亡くなりました。スローフード協会が運営するWEBサイト「Sloweb」には、「Addio Gianni(=さようなら、ジャンニ)」と題する8月1日付の記事が掲載されています。

【Photo】2006年10月、サローネ・デル・グストのセミナー会場で。愛妻Marina Cveticの名を付けたワインを手にするジャンニ・マシャレッリ

 もはや神格化されたエドアルド・ヴァレンティーニの例を除いて、かつては、さほど注目されていなかった「Montepulciano モンテプルチアーノ」種という中部イタリア・アドリア海沿い原産の赤ワイン用の固有ブドウ品種を世界レベルのワインに仕立て上げた立役者の一人がマシャレッリ氏でした。1956年生まれで50代に差しかかったばかり。まだまだ醸造家として前途を嘱望されていた彼の突然の死は、地元アブルッツォ州だけでなく、イタリアワイン界全体にとっても大きな損失として捉えられています。今年5月1日に世界中のファンから惜しまれつつ亡くなってしまったグラッパ職人、ロマーノ・レヴィさんに続いて、イタリアでお会いした私の憧れの人が相次いでこの世を去ってしまいました。 あぁ、寂しいなぁ...(TT)


衛星写真を拡大

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【photo】比較的穏やかな山並みが続くアペニン山脈でも、海抜2,912mと標高が高いアマーロ山

 Abruzzo アブルッツォ州は、全体の2/3をアペニン山脈の最高峰Gran Sasso グラン・サッソ山(2,912m)をはじめとする山岳地帯が占め、129kmの海岸線が続くアドリア海沿岸域との狭間に人々が暮らす地方です。ジャンニ・マシャレッリが生まれたChietiキエーティ県San Martino sulla Marrucina サン・マルティーノ・スッラ・マッルチーナは、グラン・サッソ・ディ・イタリア(「イタリアの大きな石」の意)山塊の南側に位置する「Maiella マイエッラ国立公園」の主峰、Monte Amaro アマーロ山(2,793m)の裾野で標高400m、アドリア海から20kmほど内陸にあります。1,000人あまりの住民が暮らすこの地域は、昼夜の寒暖の差が大きく、温度差によって生じる風によってもたらされる乾燥した気候は、ブドウ栽培に適した風土を生んでいます。ジャンニ・マシャレッリは、この土地を世界のワイン生産地でもベスト50に入る理想的な環境だと語り、地元を深く愛していました。
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【photo】丘陵地にあるサン・マルティーノ・スッラ・マッルチーナの町を遠望。アマーロ山などアペニンの山並みが迫る


 日本では生食を主目的としたブドウの枝を棚に這わせ、房を下に垂らす棚式ブドウ栽培が盛んです。シチリア、プーリア、ヴェネト、エミリア・ロマーニャ各州に次ぐイタリア全土で第5位のワイン生産量を生み出すアブルッツォ州では、日本の棚式栽培と基本的な構造は同じ「Tendone テンドーネ式」と呼ばれるブドウの栽培法が伝統的に行われてきました。収量効率が高いアブルッツォのワインは、ワイン生産地の全域がDOC指定を受けています。しかしながら、その大方は廉価ながら、まずまず優れた品質ゆえ、ブレンド用にフランスやドイツにバレル(樽)売りされてきました。

 1978年、ワイン醸造を大学で学んだ23歳のジャンニ青年は、両親からブドウ畑を受け継ぎます。そこにはラッツィオ州南部やシチリア州の一部などを除けば、イタリア国内では珍しいテンドーネ式で育つ白ワイン用のブドウ品種Trebbiano トレッビアーノ種とモンテプルチアーノ種が植えられていました。中でも、樹齢50年を越えるトレッビアーノは、祖父のジョヴァンニが植えたブドウ。後にジャンニが地元キエーティだけでなく、州内のテーラモ県とぺスカーラ県に畑を合計150haにまで拡げ、生産本数が9,000本まで増えた後も、「自分の原点はここにある」とジャンニが語っていた畑です。その畑から1981年に生まれたのが、700本のMontepulciano d'Abruzzoと1,300本のTrebbiano d'Abruzzoでした。
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【photo】マシャレリのブドウ畑

 近年では、ワイン醸造に関するコンサルタントを雇うカンティーナが少なくありません。国内のみならず、国際市場を意識したヴィーノ造りをしている場合はなおさらそうでしょう。イタリアワインがお好きな方ならご存知のカルロ・フェリーニやフランコ・ベルナベーイ、ジャコモ・タキス、ルカ・ダットーマといった優秀なコンサルタントは、各カンティーナから引く手あまたで、いくつもの著名なカンティーナと契約しています。

 かたやマシャレッリでは、醸造責任者にロメーオ・タラボレッリ氏を迎えた後も、ジャンニが畑に立ち、ブドウの栽培から醸造に至るまで、彼が全ての指示を出してきました。自社畑のブドウ以外は使用しないベーシックラインのMasciarelli Classicoの納得がゆく品質もさることながら、マシャレッリの名を一躍有名にした「Montepulciano d'Abruzzo Villa Gemma (ヴィッラ・ジェンマ)」を忘れるわけにはいきません。1984年ヴィンテージから所有する畑から採れる中で最高のモンテプルチアーノを選抜して造った稀代の醸造家渾身の一本は、スローフード協会が運営するワイン評価本「Gambero rossoガンベロ・ロッソ」で最高評価となるTre bicchierri トレ・ヴィッキェーリの常連となります。2001年、ガンベロ・ロッソが最も優れたイタリアワインとして選んだのが、1997年のヴィッラ・ジェンマでした。イタリアの高級ワインを生み出すブドウとして知られるネッビオーロやサンジョヴェーゼ、ましてや国際品種のカベルネ・ソーヴィニョンやメルローでもなく、故郷の風土と伝統が生んだモンテプルチアーノが、イタリアワインの頂点を極めたのです。その特別な一本は、私のセラーで今も眠りについています。
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【photo】イタリアワインの最高峰に輝いたMontepulciano d'Abruzzo Villa Gemma '97

 1991年ヴィンテージから登場したのが、彼の妻であるMarina Cuvetic マリーナ・チベティックの名を付けたヴィーノ。1987年に訪問先のクロアチアの醸造所で化学の研究生だったマリーナと出会ったジャンニは、2年後に結婚し、ミリアム、キアラ、リッカルドの3児に恵まれました。当初から手掛けたトレッビアーノに続き、現在はシャルドネ、モンテプルチアーノ、カベルネ・ソーヴィニョンの4種のラインナップが揃います。ヴィーノ・ビアンコ(白ワイン)では国際品種としての地位を確立しているシャルドネよりも、イタリアでは最もポピュラーな白ワイン用のブドウであるトレッビアーノの完成度に私は強く惹かれます。トロトロの高い粘性を備えた濃い黄金色の液体は、トロピカルフルーツと花や蜂蜜、焦がしバターなどの複雑な香りを立ち上らせながら、高い次元で見事な調和をみせてくれます。口に含むと柔らかな口当たりながら、すぐに只者ではないことを伺わせるこのヴィーノ。イタリア各地でさまざまなクローン(亜種)が存在するとされるトレッビアーノですが、アブルッツォの固有品種Trebbiano d'Abruzzoをかかる高みにまで引き上げたジャンニの情熱の結晶には脱帽せざるを得ません。

 ミュンヘンで急逝したジャンニの葬儀は8月3日に地元サン・マルティーノ・スッラ・マッルチーナの教会で執り行われました。残された家族は、次代の醸造家育成のための基金「Fondazione Gianni Masciarelli」を創設することを発表しました。いつもジャンニがそうだったように、情熱に溢れた未来の醸造家に道半ばにして神のもとに召された彼がワインにかけた夢を託したのです。昨年誕生したばかりの長男リッカルドはまだ8ヶ月。成長した彼がいつの日か父の跡を継ぐ日が来てくれたら・・・。そんな淡い夢をつい抱いてしまうのでした。


2008/07/20

典雅なイタリアの遺香 ~ i profumi di antica Italia

現存する世界最古の薬局、サンタ・マリア・ノヴェッラ @仙台

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 かつて伊達藩の御譜代町だった仙台市青葉区大町。その一角に前を通るたびに気になっていた小さなショップがあります。マンションの一階にあるその店のエントランス脇には、白地に黒で描かれた見覚えのあるクラシックな書体と紋章の看板が。現存するなかでは世界最古の薬局としてガイドブックに登場するほどフィレンツェの観光スポットとしても有名な「あの『Officina Profumo-farmaceutica di Santa Maria Novella (サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局)』の製品を扱う店が仙台にもあるのかしらん? 」と思いつつも、立ち寄る機会がないまま半年以上が過ぎました。

【Photo】 antelope 外観

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 先日ようやくその店「antelope アンテロープ」を訪れると、アロマキャンドルやリネン類などと共に、一目見てそれと分かる優雅なオーラを放つクラシックなパッケージをまとったポプリやローションが置いてありました。かつてフィレンツェを支配したメディチ家や欧州各国の王侯貴族のみならず、近代に至るまで世界のセレブリティを魅了してきたFarmacia(=薬局)、サンタ・マリア・ノヴェッラ。薬局といっても、ニッポン各地に増殖中のド派手でギンギンなドラッグストアとは月とスッポン。あくまで格調高く慇懃な雰囲気は、某ツキヨや某イコクとは全くの別物です。イタリア貴族が暮らすパラッツオさながらのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局は、イタリア国内においても特別な存在となります。

 米国の作家トマス・ハリスの小説を映画化した「羊たちの沈黙」の続編「ハンニバル」には、殺人罪で投獄されるものの逃亡した精神科医レクター博士(アンソニー・ホプキンス)が、FBI 特別捜査官クラリス(ジュリアン・ムーア)に手紙を送る場面が登場します。バルト三国のひとつ、リトアニア生まれながら、ミラノの名家ヴィスコンティ家の末裔で、貴族趣味のレクターは、驚異的なまでに鋭敏な嗅覚の持ち主とされ、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の常連でもあるという設定が原作ではなされています。facciataSMNovella.jpg手紙に残されたほのかな香りを鑑識で分析させたクラリスは、それがサンタ・マリア・ノヴェッラの製品のものだと割り出します。

【Photo】 薬局の母体となったドメニコ会のサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂

 フィレンツェ中央駅に降り立つと、駅と薬局の名前の由来になっている「Basilica di Santa Maria Novella サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂」の後陣部分が駅前広場の先に見えています。 novellaは英語にするとnovel。従ってこの美しい響きを持った聖堂の名前を直訳すると「聖母マリア物語」の意味となります。フィレンツェゴシック様式の典型とされるこの聖堂は、1216年創設のドメニコ修道士会のフィレンツェにおける拠点として、ドメニコ会の威信をかけて1246年に建設が始まりました。同じ時代に興ったフランチェスコ会同様、ドメニコ会は清貧を重んじ、学究と救済に活動の重きをおきます。ドメニコ会修道士が聖堂の前身となった「Santa Maria fra le Vigne サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィーネ修道院」で病人救済の一環で薬作りを始めたのが1221年。教義の実践として使われた薬は、彼らが修道院の敷地で栽培した薬草やハーブ・花などの天然成分を用いて調合されたものでした。

【Photo】このガラス扉を開いた先に外の喧騒と別世界の香りの空間が広がる

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 市街のCentro チェントロ(中心)に位置する巨大なドゥオーモと同じ配色の白・緑・薄紅色からなる大理石がシンメトリーな幾何学模様を描き出すサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂。なで肩の聖母マリアのような優しげな印象を与えるファサードを背にして、2本のオベリスクが建つ「Piazza Santa Maria Novella サンタ・マリア・ノヴェッラ広場」を抜けて「Via della Scala スカラ通り」方向に右折します。通りの右側を100mほど進むと、通りに面したさして間口が広くない石造りのアーチの奥にドメニコ修道士会の紋章とOfficina Profumo-farmaceutica di S.Maria Novella の名がエッチングされたガラスの扉が目に入ることでしょう。スカラ通り16番地のそこが、目指すオフィチーナ・プロフーモ・ファルマチュウティカ・ディ・サンタ・マリア・ノヴェッラ(=サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局)です。
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 両開きの重い扉を開けてエントランスホールに足を踏み入れると、うっとりするような香りが鼻腔を満たします。トマス・ハリスが「この世でもっとも香(かぐわ)しい場所のひとつ」と著作ハンニバルの中で描写しているそこに漂う高貴な香りは、フィレンツェ近郊の野に咲く花やハーブ類などの自然素材のポプリが発するもの。金糸の刺繍が施されたシルクの飾り袋に詰められたアンテロープでも人気が高いというこのポプリで特筆すべきは、えもいわれる香りが少なくとも1年は続く高い持続性にあります。

【Photo】簡素なエントランススペースを進んだ先が、もともと修道士たちの礼拝堂だったボールト天井にフレスコ画が描かれた販売ルーム

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 材料に秘伝のエッセンシャルオイルを加え、大きなテラコッタの壷で6ヶ月以上に渡って発酵・熟成させる製法が、比類なき香り立ちに寄与しているのだといいます。永年に渡って使い込まれた素焼きの壷は、フィレンツェを南へ10キロほど下った良質の粘土が産出する陶器の町 Impruneta インプルネータ産。ヴィッラの庭園に配置された優美なフォルムのプランターが有名ですが、ブルネッレスキが設計したフィレンツェのドゥオーモの円蓋の屋根を覆う茶褐色な瓦も耐久性が高いインプルネータ窯によるものです。

 中世の面影を色濃く残すこの薬局を訪れた人の印象に残るのは、一体何でしょう? 精緻な装飾が施された重厚なウォールナット(クルミ材)のショーケースに並ぶいずれも優雅なフォルムをまとった香水やリキュール、石鹸などの商品でしょうか。あるいはボールトのアーチが交差する高い天井に描かれたミラノの「Galleria Vittorio Emanuele II(=ヴィットリオ・エマヌエーレ2世アーケード)」を彷彿とさせる四大陸に馳せる薬局の名声を寓意化したパオリノ・サルティの手にかかるフレスコ画かもしれません。レオナルド・ダ・ヴィンチが設計した器具やアルコール精製に用いたアランビッコ式蒸留器などの製薬道具類も長い歴史の証しとして見逃せません。さらにはウフィッツィ美術館の天井にも登場するグロテスク文様【注】が施された工芸品としても価値が高いAlbarello アルバレッロ(=薬壷)、加えて展示されているかつて売られていた商品パッケージも興味深いもの。

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 それらはいずれも強い印象を残しますが、記憶中枢のもっとも深いところに留まるのは、店内に漂う世にも麗しい香りに違いありません。それは、信仰に生きた修道士が残してくれた中世の典雅な遺香ともいうべきものです。

【Photo】 気高く香り立つサンタ・マリア・ノヴェッラのポプリ(左)。紺・緑・赤・茶などこの美しいシルクの飾り袋に入ったものだけでなく、小分けにできるタイプも人気。ジャケ買いしてしまいそうなイタリアの伝統的な美意識が反映されたラベルのアックア・ディ・ローゼ(下)。ナチュラルで優しいバラの香りは時を超えて愛されてきた

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 修道士たちが薬作りを始めてから800年近くを経た今日に伝わる最古の処方は1381年のものです。アンテロープで扱う「Aqua di Rose アックア・ディ・ローゼ(=薔薇水)」も当時の製法をもとに作られています。これはフィレンツェ周辺に咲くオーガニックな環境で栽培されたバラの花弁を精製した天然水で蒸留し、抽出されるオイル成分を除いたハーブウォーターです。現代のアロマテラピーではバラの花には沈静効果があることが知られていますが、ペスト(黒死病)がヨーロッパ全域で猛威をふるった14世紀半ば当時は、バラには殺菌作用があると信じられていました。そのため、このアックア・ディ・ローゼは住居の消毒用として、また薬を飲む際の水代わりに、さらには点眼薬としても用いられたそうです。 (⇒現在ではローションとしての用途のみ)

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【Photo】一人ひとりの症状に応じて薬を処方してくれる「Erboristeria エルボリステリア」のカウンター。「Farmaciaファルマチア」が一般薬を扱うのに対し、薬草・ハーブ・自然食品などを扱うのがエルボリステア。このイタリア式漢方薬局(?)がサンタ・マリア・ノヴェッラの奥まった一角にある

 1612年、トスカーナ大公フェルディナント2世から「Fonderia di Sua Altezza Reale フォンデリア・ディ・スッア・アルテッツァ・レアーレ(≒王家御用達高等製錬所)」の称号を授けられたファルマチュウティカは、一般向けの薬局として新たなスタートを切ります。Fonderia とは、本来「鋳造所」を意味するイタリア語ですから、当時の最先端化学であった薬作りが、L'alchimia(錬金術)と結びついていたことが伺えます。現代では胡散臭いイメージが伴う錬金術ですが、科学の発展に錬金術が大きな役割を果たしたことは、紛れもない事実。ナポレオン支配下における一時閉鎖や、1871年に経営権や商標をドメニコ会から譲渡された Stefani ステファニー一族の手で法人化されて以降も、心地よい香りを放つサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の石鹸やクリーム、ローションの多くは、21世紀を迎えた今も当時の製法をベースに作られています。
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【Photo】オリエンタルな雰囲気の香りのアルメニア・ペーパー(写真手前)は、そのまま香り付けとして使えるほか、燃やすと部屋のにおい消しにもなる。antelopeにて

 今日では、本店のほかミラノ・ローマ・ヴィネツィア・ボローニャ・ルッカ・パレルモといったイタリア国内の都市のみならず、ロンドン・パリ・バルセロナ・ニューヨークといった世界の主要都市に支店を展開するサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局。代理店契約を結んだ日本の業者が2001年にアジア初となるショップを東京青山に開店させるや否や、仙台から喜び勇んで偵察に向かったものです。現在は東京都内数ヶ所と大阪・名古屋に複数のショップが存在しています。確かにそこには心地よい香りが立ち込め、紛れもないサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の製品が並んでいます。しかしフィレンツェ本店には確かに存在する "何か" がそこには決定的に欠落している気がしてなりません。それは伝統を重んずるイタリアならではの決して色褪せない濃密な時間が醸し出すイタリアという国の魅力の本質なのかも。フィレンツェと姉妹都市になっている京都には、未訪ながら初のリストランテ併設ショップ「サンタ・マリア・ノヴェッラ・ティサネーリア京都」が2004年に出来ました。京都らしい町屋造りの空間にイタリアの美意識が凝縮した製品が違和感なく融和した伊和のコラボショップと、京野菜とハーブを使ったイタリアンとのこと。その土地らしさ、ローカリティに魅力を感じるイタリア人的思考回路を持つ庄内系イタリア人としては、この上方系イタリアンも気になるところ。
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【Photo】門外不出とされるサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局伝統の製法で作られるリキュール各種。500mlと土産用にぴったりな100mlの2種類のボトルは、使い切って捨ててしまうにはあまりにもったいない美しさ

 Citta del Fiori (花の都)フィレンツェの街を歩いていると、建物の壁面などの至るところで六つの丸薬を配したメディチ家の紋章を目にします。金融業で巨万の財を成したメディチ家の Medici とは、もともと "薬" や "医者" (複数形)を指すことから、確証はないものの祖先は薬商か医師だったといわれています。ルネッサンス芸術のパトロンとして歴史に誉れ高き名を残したメディチ家は、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局が長い歴史のなかで作り出した4種類の薬用リキュールのひとつ、消化促進効果があるとされるカモミール・フェンネルといったハーブ10種類あまりを配合した「Liquore Mediceo リクォーレ・メディーチェオ(写真右)」にも名を残すことになりました。

 飲用にも用いられたベルガモットやシトラスなどのハーブや花から抽出したエッセンシャルオイルは香水へと発展し、華やかな香水文化がサンタ・マリア・ノヴェッラから花開いてゆきます。なかでも「Acqua colonia Santa Maria Novella アックア・コロニア・サンタ・マリア・ノヴェッラ」は、「王妃の水」として500年にわたって女性たちに愛されてきた名品。ヴァロワ王朝下の10代フランス国王アンリ2世との婚姻(1533年)によって、王侯貴族といえども手づかみで食事をしていた当時のフランスにナイフとフォークを用いて食事をする習慣を持ち込んだことで名高いメディチ家出身のカテリーナ・ディ・メディチは、とりわけこの香りを愛用していました。smnovella 009.jpgカテリーナは、お抱えの調香士をパリに伴ってゆきます。入浴の習慣がなかったため、体臭を覆い隠すための強い香りを用いていたフランス王朝の女性たちの間で、それまにで無かった上品で軽やかななこの香りはセンセーションを巻き起こしました。この香水の調合法をドイツ・ライン河のほとりの町ケルンに伝えた イタリア人旅商人によって、Acqua di colonia(ケルンの水)=仏語名「Eau de Cologneオー・デ・コロン」が一般化したのだといいます。

【Photo】 くちなしとローズフレーバーのボディーミルク「Latte per il Corpo ラッテ・ペル・イル・コルポ」。アボカドオイルやカカオバターなどの配合植物成分が、肌にうるおいを与えるという。antelopeにて

 かくも雅びやかな香りにまつわるnovella(物語)を刻んだサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局。レクター博士ではありませんが、私にとっても何度でも訪れたい場所のひとつです。ところが悲しいかなそうはいかないのが我が現実。ここでご紹介した香水やリキュールは現状 antelope で取り扱いはありませんが、その代わりに紺碧のナポリ湾に浮かぶ美しい島、カプリ島にある小さなフレグランスショップ「Carthusia カルトゥージア」の優雅な香りに浸れるこの店で、ひと時の現実逃避ヴァカンツァに走るしかなさそうです。Mamma mia !!

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antelope アンテロープ
仙台市青葉区大町1-2-17-103
営:12:00-19:30 不定休
phone:022-724-1023


Officina Profumo-farmaceutica di Santa Maria Novella
Via della Scala 16 - Firenze
phone: +39 055 216276 / +39 055 4368315

【注】 悪名高き帝政ローマ五代皇帝ネロがローマ大火(西暦64)の後に築いた想像を絶する規模の離宮「Domus Aurea ドムス・アウレア」。その一部がパンテオンに隣接する廃墟から発見されたのが15世紀末。そこの壁を飾っていたのが、グリフィンなどの空想上の動物や異形の人間の顔、曲線的な植物などが連続して描かれた壁画だった。バチカン宮殿の天井装飾を任されたラファエロがこの文様を取り入れ、16世紀にかけて広く欧州で流行した装飾様式。ドムス・アウレアの崩れ果てた廃墟は当時「Grotta グロッタ(=洞窟)」と呼ばれていたため、その文様が発見された場所の呼称が転じて「Grotesque グロテスク」⇒奇怪なもの、さらには醜悪なものを意味するグロテスクの語源となった

 

2008/07/03

こっちの塩は甘いぞ

太陽と職人の手仕事の結晶、チェルヴィアの海塩

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【Photo】伝統的な塩作りを今に伝えるチェルヴィアの塩田(チェルヴィア塩田組合Webサイトより)

 税収確保のため20世紀初頭に導入された塩の専売制が撤廃されて10年あまり。輸入が自由化された2005年(平成17)以降は、スーパーの塩売り場で世界中のさまざまな塩を目にするようになりました。石巻・万石浦の海水を煮詰めて作る「伊達の旨塩」、沖縄の海塩、ボリビア・アンデスの岩塩、フランス・ゲランドの海塩、テキサスの岩塩、パキスタンの岩塩・・・。これだけ揃えば塩だけで世界一周ができそうですね。一口に塩といっても、産地と製法など種類はさまざま。選択の幅が広がることは歓迎する反面、用途に適した塩を選ぶのは容易なことではありません。

 1962年(昭和37)に旭化成が開発したイオン交換膜と蒸発結晶缶を組み合わせた製塩プラントによって海水から塩を精製する世界初の技術を実用化したのは、福島県小名浜にあった新日本化学工業(現・日本海水)でした。日本の塩作りで主流となったこの電気透析による東北発祥の製塩法は、海水に含まれるナトリウムやマグネシウムなどを電気的に分離し、加熱・蒸発させて純度の高い塩化ナトリウムを精製するものです。(詳しくは財団法人「塩事業センター」のWebサイトを参照願います) 地殻変動によって太古の海が隆起して生成される岩塩が存在しない日本。四方を海に囲まれた我が国では、製塩が盛んだった瀬戸内地域のみならず、かつては各地に塩田が存在Cervia_Magazzini_del_Sale.jpgしていました。1971年(昭和46)に施行された「塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法」という国策によって、イオン交換膜法による製塩への移行を進める「近代化」の名のもとに国内の塩田はすべて閉鎖されます。藩制時代に宮城県石巻市渡波(わたのは)地域に整備された入浜式塩田が1960年(昭和35)まで稼動していたのだといいます。

【Photo】現在は塩博物館として使われているチェルヴィアの巨大な塩蔵倉庫Darsenaは1712年の建造。塔は1691年に完成

 「おっ、珍しや!」という塩と私が出合ったのは、仙台市青葉区役所裏手にあるチーズ専門店「Fromagerie&Cafe Au Bons Ferments フロマージュリー&カフェ オー・ボン・フェルマン」でのこと。当「食WEB研究所」では、早坂久美さんのブログ「おっかぁの食ネタ一直線」で既に登場済みなので、お店についてはそちらを prego (=どうぞ)。専門店ならではの豊富なラインナップのチーズとデイリーユース向けがメインのワイン類に加え、アンチョヴィや塩蔵ケイパー、アチェート・バルサミコ、martelli マルテッリのパスタなどお馴染みのイタリア産食材もちらほら。そこにさりげなく置いてあったのが、アドリア海に面した北部イタリア、エミリア・ロマーニャ州ラヴェンナ県Cervia チェルヴィア産の塩、「Sale di Cervia サーレ・ディ・チェルヴィア」でした。何が珍しいのかといえば、イタリアでも天日製塩が盛んなシチリアの海塩は日本でもよく見かけますが、この塩はVenezia ヴェネツィアまで直線距離にして130キロしか離れていない北部イタリアの塩田で造られた塩なのです。加えてスローフード協会の「味の箱舟」プロジェクトで絶滅の危機に瀕している文化的価値の高い食品を意味する「プレジディオ」指定まで受けているというではありませんか。たかが塩、Sale do Sio (=されど塩)。この塩はいかなる塩なのか ・・・?
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【Photo】 古来の塩作りを再現した製法で作られる「Riserva Camillone リセルヴァ・カミローネ」

 人口2万ほどのチェルヴィアへは、息を呑むほど美しいビザンティン様式のモザイクに彩られた世界遺産の街 Ravenna ラヴェンナから 賑やかなビーチリゾートの町 Rimini リミニへ伸びるSS16号線を南東に向かいます。すると平坦な地平の前方にレンガ造りの「Basilica di Sant'Apollinare in Classe サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂」が見えてきます。質素な外観とは対照的に、かつて総督府として栄華を誇った6世紀の創建当時そのままの輝きを放つ半円形の後陣部に散りばめられたモザイクは、眺めていて全く見飽きることがありません。聖堂を通り過ぎて10キロほど下ると、もうそこは小さなコムーネCerviaです。ラヴェンナで没した詩人ダンテ・アリギエーリ(1265-1321)の代表作「神曲」の地獄篇にも町の名前が登場しています。北側ポー川河口のデルタ地帯からチェルヴィアにかけての低湿地帯は、ラムサール条約に登録された水鳥の楽園でもあります。アドリア海に面したビーチ「Riviera del Sole リヴィエラ・デル・ソーレ(=「太陽の海岸」の意)」には、毎年夏になると Bologna ボローニャや Modena モデナ、Ferrara フェラーラといった近場の都市だけでなく、ブレンナー峠を越えてやって来るドイツ・オーストリアからの多くの海水浴客で賑わいます。海からは水路が引かれ、1.6キロほど内陸側に入った市街地の先に827ヘクタールの塩田(衛星写真右下の黒っぽい箇所)が広がっています。

衛星写真を拡大
 
 この地における天日製塩の歴史は古く、歴史書に Cervia の塩に関する記述が登場するのは5世紀にまで遡ります。町の Centro チェントロ(=中心)には古代ローマ治世下の塩田跡や貯蔵庫が残されています。その起源はギリシャ人による入植の頃とも、先住民族エトルリア人以来ともいわれています。中世期、ローマ法王領であったチェルヴィアからは、ヴァチカンに塩が献上されていました。「Sale dolce サーレ・ドルチェ(=甘い塩)」と形容される刺激的な苦味や塩辛さを感じさせないチェルヴィア産ならではの優しい塩味は、日射しが強く降雨量が少ない南イタリアでは結晶化の進行が早いために決して生み出せないのだといいます。ポー川流域で作られる名高いプロシュット・ディ・パルマや「幻」といわれるジベッロ村のクラテッロ、ハードチーズの最高峰とされるパルミジャーノ・レッジャーノといったエミリア・ロマーニャ州が誇る塩蔵食品の加工には、イタリア国内で産出する岩塩ではなく、強烈な日差しが降り注ぐシチリアやプーリアなど南イタリア産の海塩でもなく、「Oro bianco オロ・ビアンコ(=白い黄金)」とも称えられるチェルヴィアの塩が欠かせないとする頑固な職人が多いのだそう。
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【Photo】Salina Camillone カミローネ塩田では、epoca etrusca=エトルリア時代以来の長い歴史を持つ塩作りのガイドツアーを毎年6月1日から9月15日まで実施している。これは塩田近郊に立っている告知看板

 第二次大戦による中断を経て、塩の専売制のもとで1959年に国有化されたチェルヴィア塩田。機械化の導入によって生産効率を上げますが、1976年に塩の販売が自由化されて以降、世界最大の塩産出国アメリカや欧州で最も製塩が盛んなドイツなどからの輸入品や、国内最大の1,600ヘクタールもの塩田を擁するシチリア西端に位置する塩の町Trapani トラパニ産の塩などに押されてゆきます。1981年と1995年に大雨で壊滅的な被害を受けたのち、1998年に国営のチェルヴィア塩田は閉鎖されました。すると一部のチェルヴィア市民が、伝統ある塩作りの再開に向けて準備を開始します。1999年に「 Parco della Salina di Cervia(チェルヴィア塩田組合)」を発足、5年の休止期間を経て2003年5月に塩の生産が復活しました。
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【Photo】Camillone カミローネでは、すべて人力で塩作りを行なう。炎天下では照り返しも強烈

 その希少性ゆえにチーズ専門店オー・ボン・フェルマンで扱うさまざまなチーズには脇目も振らずに買い求めた「Riserva Camillone リセルヴァ・カミローネ」は、チェルヴィアのSalinaio サリナイオ (=塩職人)によって受け継がれた手作業による伝統的な製塩法で少量のみ作られる海塩です。標準品にあたるサーレ・ディ・チェルヴィアが現地価格でキロ当たり1エウロ10チェントのところ、サリナイオが文字通り "手塩にかけて" 作るリセルヴァ・カミローネはキロ当たり3エウロと3倍近くの価格差がつきます。風土の賜物ともいうべきデリケートな味覚を備え、一度は閉鎖の憂き目を見たチェルヴィアのカミローネ塩田区画で古来からの手法によって作られる「Sale marino artigianale di Cervia (=チェルヴィアの職人が作る海塩)」は、2004年にスローフード協会から次代に伝えるべき「プレジディオ」指定を受けました。

 冬季は海水を抜いていた塩田に4月初旬に水を張り、区画ごとに仕切られた塩田外周部から、中心部へと移動させながら天日にさらして水分を蒸発させてゆきます。気温が上昇する6月には塩分濃度が30%前後まで高まり、結晶化した塩が 2cm 近くまで堆積してゆきます。塩の収穫は最も気温が高い夏から9月にかけて。日差しを遮るものがない炎天下での収穫は、肉体的負担が大きい作業となります。その過程で、水面に浮いてくる結晶をサリナイオが手で掬い取った一番塩は、今も「法王の塩」と彼らがmonte_camillone.jpg呼ぶ「Salfiore di Romagna - Il Sale dei Papi サルフィオーレ・ディ・ロマーニャ - イル・サーレ・デイ・パピ(=「ロマーニャ地方の塩の花 - 法王の塩」の意)。特に優しい味が特徴となります。

【Photo】9月末頃に収穫を終えた塩は秋から冬にかけておよそ6 ヶ月間天日干しされる

 甲子園のグラウンド整備で使う木製のトンボに似た道具を使って縁(へり)に集められた塩は5日後に人力で蒸発槽から地上に移され、大きな塩盛りの状態でおよそ6 ヶ月間にわたり、秋から冬にかけての柔らかな陽光と風にさらされます。表面に付着した汚れを高濃度の海水で洗い落として遠心分離機を使用して脱湿後、(リセルヴァはさらに貯蔵庫で一定期間熟成される)組合の手で袋詰めされて出荷されます。可能な限り古来から伝わる製法を踏襲したリセルヴァには、塩化ナトリウム(NaCl)のほか、海水に含まれる硫化マグネシウム・硫化カリウム・硫化カルシウム・塩化マグネシウムといった天然の微量成分が豊富に含まれます。そのため、結晶は薄く茶色を帯びたものとなります。近年の研究によって、これらの微量成分が、官能上かすかな苦味を生みだし、塩自体の甘味と食材の甘味をも際立たせる働きをすることが判ってきました。塩が素材の旨味を引き出す隠し味となるのです。現代の科学がSale dolce のメカニズムを解き明かした今も、チェルヴィアでは遥か昔と変わらぬ職人の目と経験則による塩作りが行われています。精製に際しては、廃棄物を一切出さないという方針のもと、塩分を含んだ泥は入浴用や美容用に製品化されています。
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【Photo】 赤いパッケージは法王の塩「Salfiore di Romagna - Il Sale dei Papi サルフィオーレ・ディ・ロマーニャ - イル・サーレ・デイ・パピ」(左写真)。青のパッケージが「Sale di Cervia サーレ・ディ・チェルヴィア」(右写真)

 無機的で鋭角な塩味ではなく、後味に甘味を残す有機的な丸みを帯びたチェルヴィアの塩は、パスタを茹でる下味用に使うにはもったいないかもしれません。Sale dolce の本領発揮には、食肉の加工技術にかけてはイタリア随一のエミリア・ロマーニャと同じく、肉の旨味を引き出す下処理にはもってこいでしょう。旨みを増した肉はソテーして良し、じっくりと煮込んで良し。 淡白な白身魚をグリルする際に軽くふったり、オリーブオイルと共にサラダの味付けに使っても良さそうです。

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【Photo】 古来より伝わる製法を受け継ぐ職人が手塩にかけて作る Camillone 塩田の塩は、エミリア・ロマーニャの適度な陽射しとアドリア海から吹く風が生み出す甘さが特徴の「風味」が際立つ
 
 遥か昔、ローマ・ギリシャ時代はおろか、先住民族のエトルリア時代までさかのぼるともいわれるアドリア海の恵み、チェルヴィアの塩。その結晶は後世に残る数々のモザイク芸術を生み出した東ローマ帝国の栄華を物語るラヴェンナ最古(424-450 建造)のモザイク画のひとつ「Mausoleo Galla Placidia ガッラ・プラチディア廟堂」の天井を飾るモザイク片を思わせます。輝かしい神の国を再現しようとした初期キリスト教芸術の黎明期を担った職人の手業によるモザイク画は、1,600年の時を経ても全く色褪せることなく瑞々しい輝きを放って今も多くの人を惹きつけてやみません。チェルヴィアの塩は人の手によって小さな断片が組み合わされ、変幻自在な万華鏡のような輝きが編み出されるモザイク画のような奇跡の味なのかもしれません。
Photoのモザイク画は、ラヴェンナ「Chiesa dello Spirito Santo スピリト・サント教会」南側にある小さいながら世界遺産のBattistero degli Ariani アリアーニ洗礼堂(5世紀末)の天蓋を覆う「キリストの洗礼」)

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◆チェルヴィアの海塩に関する問い合わせは―
輸入元 : 株式会社 アーク
東京都新宿区早稲田鶴巻町518 第一石川ビル301
Phone : 03-5287-3870    FAX : 03-5287-3871
E-mail : info1@ark-co.jp

取り扱い店
フロマージュリー&カフェ 「オー・ボン・フェルマン」
仙台市青葉区上杉1丁目4-10 庄建上杉ビル1F
Phone : 022-217-2202
営) PM0:00~PM10:00 月曜定休
 ◎Riserva Camillone リセルヴァ・カミローネ 750グラム 735円(税込)

※足立オーナー様へ「チーズ専門店なのに塩の話ばかりでゴメンナサイ・・・」m(_ _)m


2008/05/09

さようなら、レヴィさん

天に召された天使のようなグラッパ職人

イタリアから悲しい知らせが届きました。

 Addio a Romano Levi, il grappaiol' angelico (=さようなら、天使のようなグラッパ職人 ロマーノ・レヴィ)の見出しで始まる記事でその人の死を伝えたのは、トリノの日刊紙「La Stampa ラ・スタンパ」。同紙が伝えるところによると、2008年5月1日(木)、ユーモラスで温かみのある手書きラベルのグラッパ造りで世界中に多くのファンが存在するRomano Levi ロマーノ・レヴィさんがイタリア・ピエモンテ州ネイヴェの自宅で急逝しました。享年80歳。レヴィさんはイタリアで唯一残るとされる直火式蒸留装置でワイン醸造に使用したブドウの絞りかす「ヴィナッチャ」から蒸留する酒、Grappa グラッパを60年以上に渡って作り続けてきました。時流に流されること無く、唯一無二なグラッパ造りに生涯を捧げ、詩人とも芸術家とも称えられたレヴィさんを慕う人は数多く、ファンクラブすら存在します。

 高齢のため、ここ2-3年は体調が優れず、トレードマークでもある詩的な手書きラベルを描くことがままならなかったレヴィさん。敬愛するレヴィさんのもとを2年前の10月に訪れ、ご本人とお会いする機会に恵まれました。ご挨拶をさせて頂いた際に触れたその人の手のぬくもりと柔らかな感触は、今も手に残っています【Link to Backnumber】。 その折に頂いた私の名前入りドンナ・セルバティカのラベルをまとった文字通りハンドメイドなグラッパに至っては、開けるのが余りに勿体なく、ただ眺めるだけでした。

addio_romano.jpg【PHOTO】 虫や花、ブドウ、星、太陽などさまざまなものが登場するレヴィさんの手書きラベル。過去に数冊の画集が出版され、昨年はラベルの展覧会も催された。 ラベルに私の名 Kimura とコレクターの間では最も人気が高い「Donna Selvatica ドンナ・セルヴァティカ」が描かれたレヴィさんから頂いた世界で一本だけのグラッパ(右)と、自身の投影だという「Uomo Selvatico ウォモ・セルヴァティコ」が描かれたグラッパ(左)

 楽しげなラベルを描き続けたレヴィさんがいなくなってしまった今。天に召された故人のご冥福を祈りつつ、手持ちの一本を開けて、しみじみと味わうとしましょう。 献杯。 

2008/01/07

すったもんだのお年越し

決死の潜入レポートinナポリ

 【PHOTO】放送作家の鶴田 純也氏(写真右奥)が持参した北イタリアのProdotto tipico(=典型的な産品)のひとつ蕎麦パスタ「ピッツォッケリ・デッラ・ヴァルテリーナ」
 
 多分にイタリアナイズされた我が食生活ですが、大晦日には今年も縁起ものの年越し蕎麦を頂きました。喉越しも味わいのうちのこのパスタ・ジャッポネーゼ(⇒一応、蕎麦を意味しているつもり)を頂く場合は、威勢良くズズズ~と大きな音を立てるのが流儀。堅苦しいテーブルマナーには寛容なイタリアですが、ロングパスタを頂く場合だけは、そこがイタリアだろうと日本だろうと音を立ててすするのはやめましょう。
顰蹙を買うこと請け合いですので
(・||| ・) ヾ(- _ -;)

 北イタリアの山岳地帯では、寒冷な気候と痩せた土地でも育つ Grano saraceno グラーノ・サラチェーノ(=ソバ)がニョッキなどのパスタ料理やポレンタで食べられています。ソバを使ったポレンタと聞くと、日本人はちょっと緩めの「蕎麦掻き」を連想してしまいますね(笑)。朝日放送制作の「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」や季刊「四季の味」でエッセイ「おやつの時間」を手掛ける放送作家の鶴田 純也 氏とピエモンテで合流した際に、鶴田氏がスイス国境に程近いロンバルディア州最北部ソンドリーノ県 Prata Camportaccio プラータ・カンポルタッチョで買ったという乾燥パスタ「Pizzoccheri della Valtellina ピッツォッケリ・デッラ・ヴァルテリーナ」を持参されました。スイス国境に程近い4,000m級の山々が連なるヴァルテリーナ渓谷では、山の南斜面で栽培されるブドウの間や、小麦が育たない狭小な平地の耕作地でソバが栽培されているのです。幅1cm 長さ5cmほどの平面状のパスタ、ピッツォッケリは、山あいで採れるジャガイモやサヴォイアキャベツなどの野菜と共に食べられます。ピエモンテ州の北、スイス・フランスに国境を接するイタリア最小の州ヴァッレ・ダオスタや、ドロミテ渓谷の山あいにある前回登場したBolzano ボルツァーノ、Trento トレントなどアルト・アディジェ地域では、Gocchi di grano saraceno (=ソバのニョッキ)が家庭料理としてはポピュラー。グラーノ・サラチェーノが育つ風景は、どこかしら信州や山形などの蕎麦どころと相通じるとは思いませんか? 適地適作は世の東西を問わないのです。
Valtellina-Panorama.jpg 【PHOTO】ソンドリーノ県 Castello dell'Acqua カステッロ・デッラ・アックアの風景。ともにソバが栽培される松本市や山形市周辺とこのヴァルテリーナ渓谷は、さして景色が変わらない

 「細く長く達者に暮らせるように」と、縁起を担ぐ年越し蕎麦は日本の年越しに欠かせません。蕎麦切りを大晦日に食べる理由には、その年の災厄を断ち切るという意味や、鶴鶴亀亀(つるつるかめかめ)で縁起が良いなど、後付けでこじつけたと思われるものもありますよね。年越し蕎麦で災厄を断ち切り、人間が抱える108の煩悩を消し去る除夜の鐘で新年を迎える厳(おごそ)かな日本の年越しは至って静かなもの。なぜか大晦日の定番となりつつある格闘技中継でエキサイティングな憂さ晴らしをするか、"歌手の衣装"と呼ぶよりも、むしろ数億を費やした"歌手が組み込まれた舞台セット"に呆れるかは皆さんのお好みで。

s-capodannoauguri.jpg 【PHOTO】カポダンノのコンサートで盛り上がる「Piazza del Plebiscito プレビシート広場」。ド派手に花火を打ち上げて新年を祝うのがナポリ式

 la notte di San Silvestro (=大晦日)にその年の厄を落とすやり方が過激なのは、南イタリア随一105万人の人口を擁するナポリにとどめを刺します。イタリアに限らず、ヨーロッパでは大晦日に花火を上げて新年のお祝いをします。なかでもイタリアの花火は、熱いラテンな国民性を反映してか、他の国よりもかなり派手。特にナポリのそれは美しさを愛でる花火というよりも、Petardo(=爆竹)や、Cipolla(=丸い形状から、「玉ネギ」を指すこの名で呼ばれる小型爆弾と呼ぶべき派手な爆音を発する花火)が主役です。街角に立つ屋台で売られる花火・爆竹の中には粗悪品が混じっており、暴発で指が吹き飛んだとか、興奮した不心得者が発砲した銃の流れ弾で死者が出るなどの騒ぎが夜を徹して繰り広げられます。 

s-hanabistand.jpg 【PHOTO】露地の屋台で売られる花火。ロケット花火や爆竹はナポレターノたちの熱いラテンのハートにも火をつける

 ナポリのPalazzo Reale(=王宮)に隣接するPiazza del Plebiscito プレビシート広場では、毎年ナポリ市主催の年越しイベントが行われ、5万もの人々が屋外コンサートでCapodanno カポダンノ(=新年)の到来を待ちます。「Capodannoまであと何分」とカウントダウンが始まる頃には、夜空を焦がす花火も一段と増え、会場ではチンクエ(5)・クアットロ(4)・トレ(3)・ドゥエ(2)・ウーノ(1)、Auguri!(おめでとう!)と皆が唱和、新年の幕開けと共にスプマンテで乾杯します。広場を半円状に囲む柱廊をもつ Chiesa di San Francesco di Paola サン・フランチェスコ・ディ・パオラ教会の鐘が鳴り出します。すると興奮は最高潮に達し、スプマンテの瓶を叩き割ったり、爆竹を入れた小瓶を炸裂させたりと、やりたい放題。これぞナポリの真骨頂!! と、その場の殺気立った雰囲気を楽しめるあなたは私のお仲間です。FIREWORKS.jpg
【PHOTO】ナポリの夜空を明るく染める花火は新年の到来を賑やかに告げる。遠目には美しい光景だが、町に繰り出すにはそれなりの覚悟が必要。「ナポリを見て死ね」にならぬよう・・・

s-ilmattinonapoli.jpg【PHOTO】毎年恒例となったCapodanno におけるナポリの騒乱ぶりを一面トップで伝えるIL MATTINO紙

 今年はどうなることかと思っていましたが、ナポリの地元紙「IL MATTINO」が伝えるところでは、案の定この大晦日もナポリ市内で45名、ソフィア・ローレンの故郷ポッツオーリからソレント半島、イスキア島・カプリ島を含む一帯のナポリ県で40名の死傷者が出ています。それもそのはず、建物の窓やバルコニーからロケット花火が発射され、火がついた爆竹が下の通りに投げ捨てられるのですから。誰かが下を歩いていようと知ったこっちゃありません。ナポリ市民は、決して大晦日の夕方以降は不要不急の外出はしないのですが、家の中にいても必ずしも安全とはいえません。bomba.jpg火薬の匂いが立ち込め、小型爆弾Cipollaの炸裂音が窓を揺るがすカポダンノのナポリは、戦場さながら。興奮した誰かが放った銃の流れ弾で今年は家族とのカード遊びに興じていた30代の男性が死亡。更に頭に流れ弾を受けた10歳の子どもが命を落としました。カモッラ(ナポリのマフィア)が介在するといわれる銃の密売や、安全基準を満たさない花火による事故が絶えないため、警察もそれらの押収に躍起になっていますが、いたちごっこで根絶は難しいようです。

【PHOTO】押収された違法花火

s-CAPODANNONAPOLIFIRE!.jpg【PHOTO】火薬の匂いと燃え上がるゴミ。煙に顔をしかめるナポリのスィニョーラ

 普段は路上駐車の車で溢れ返るナポリの市街地が、大晦日の午後になると路上に停まっていた車がいなくなります。何故か? 花火で車が燃えないよう避難させるから、という理由に加えて、ナポリには大晦日の夜に窓から不要なゴミを捨てる悪しき習慣があるのです。ゴミと言ってもいろいろで、ポリ袋に入った家庭ごみはもちろんのこと、粗大ゴミも含まれるというから穏やかではありません。何も知らずに夜に外出でもしようものなら、さあ大変。上から壊れた冷蔵庫や家具が落ちてくるのです。過去には不幸にも粗大ゴミにぶつかって死者が出たこともあるのだとか。現在は危険だというので法律で禁止された行為ですが、なにせそこはナポリ。日本では一般化したコンプライアンスという言葉と法令遵守の精神は彼らには理解できなのかもしれません。ゴミの山に投げ込まれる爆竹で、市内各所のゴミ集積場からは火の手が上がります。

rifiuti.jpg 【PHOTO】Rifiuti,la guerra di pianura(=ゴミ、地上戦だ)の見出しが躍るIL MATTINO紙。燃え盛るゴミを尻目に夜を徹して回収作業に当たるナポリ市のゴミ処理業者

 そうしてすったもんだの一夜が明けた後に残されるのが大量のゴミ。残り火がくすぶる一部のゴミ置き場からは、まだ煙が上がっています。路上には爆竹や花火の残骸が落ちています。観光客が訪れる市内中心部は清掃車が夜半にゴミを回収しますが、周辺部まではとても手が及びません。自前の処理施設を持たないナポリ市では、通常ゴミを地中に埋め立て処理をします。しかし一晩で大量廃棄されるカポダンノのゴミは、そうはいきません。しばらく放置された後、一部はわざわざ列車で環境先進国ドイツに運ばれて分別の上、焼却処分されるといいます。

NEWYEAR.jpg 【PHOTO】正月の朝のナポリ。夜通し騒いだナポレターノたちはベッドの中にいるため、人通りはまばら。かわりに目に付くのは宴のあとのゴミの山ばかり

 血の気が多いナポリは極端な例ですが、厳かなクリスマスの後で賑やかに新年を迎えるイタリア。クリスマスの喧騒に浮かれた後で、しっとりとした年越しを迎える日本の正月。
あなたならどちらがいいですか?


2007/12/24

プレセピオで迎えるNatale

s-christkindlmarkt-mercatino_di_natale.jpg 【Photo】南ティロル、アルト・アディジェ地方の都市 Bolzano ボルツァーノのクリスマス市。11月末からナターレ直前まで毎日、町のCentroチェントロ(=中心)にある Piazza Walther ヴァルター広場に80もの屋台が並ぶ

 今回は、ほんの僅かしか食べ物は登場しませんので、食いしん坊の皆さんはあしからず。Presepio(Presepeとも表記)プレセピオは、イタリアだけのものではありません。日本でもカトリック教会によってはプレセピオを飾ることがあります。北ヨーロッパや北米など、プロテスタントが多い国では、クリスマスツリーが主流。 Trentinonatale.jpgシュバルツバルト(黒い森)の針葉樹林が広がるゲルマン文化の影響が強い北イタリア、トレテンティーノ・アルト・アディジェ州では、「Mercatini di Natale メルカティーニ・ディ・ナターレ(クリスマス市)」の雰囲気も白木のマリア像やピューター(錫)製のオーナメント類が多くなり、ぐっと北方の様相が濃くなります。ことに1918年のイタリア編入以前はオーストリア領だったため、ドイツ系住民が多い北部アルト・アディジェには、ほとんどイタリアらしさがありません。クリスマスの時期に焼かれるこの地方の伝統的なタルト菓子「Zelten ツェルテン」clicca quiの甘い香りが漂う周りから聞こえてくる会話は、多数派のドイツ語と少数派のイタリア語が入り混じったもの。"北に来た~"という実感が湧くことでしょう。この時期欧州各地で行われるクリスマス市は、「Weihnachtsmarkt ヴァイナハツマルクト」と称されるドイツが発祥とされます。

 【Photo】ボルツァーノのメルカティーニの屋台で。白木のマリア像・キリスト像やオーナメント類が多く、プレセピオは少数派。そこがドロミテの山懐にある南ティロル地方であることを改めて感じさせる。オーストリアはもう目と鼻の先

 そのほか規模の大小はありますが、トリノやミラノ・ヴェネツィアなど各地でナターレのメルカティーニが立ちます。そこにはクリスマス用品のみならず、アンティークや食料品なども並び、市民の活気で溢れます。クリスマス用品をメインで扱う有名どころのメルカティーニは、ヴェローナやフィレンツェ・ローマといったところでしょうか。ヴェローナではPiazza Brà ブラ広場とVia Roma ローマ通りで。フィレンツェではPiazza Santa Croce サンタ・クローチェ広場で。ローマではPiazza Navona ナヴォーナ広場で大規模なメルカティーニが開かれます。
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【Photo】1世紀に造られたヴェローナのArena アリーナから、メルカティーニが立つブラ広場へと流れるベツレヘムの星を形どった巨大な輝くオブジェ

 11月末の「Avvento 待降節」からナターレを経て、1月6日の「Epifania 公現節」にかけてイタリアの街を歩いていると、教会や広場・駅などにキリスト降誕の場面をジオラマで再現したプレセピオが飾られているのを目にします。敬虔なカトリック教徒が多い南イタリアでは、今も各家庭でプレセピオが手作りされることもあるようです。街中のTabacchi タバッキ(=キオスク)で売られる卓上用の小さなものから、s-bambinello.jpg実物大の人形が当時のベツレヘムを再現した洞窟や馬小屋に配置される大掛かりなものまでさまざま。前回写真でご紹介したバチカン・サンピエトロ広場に作られるプレセピオが規模や精巧さにおいては一番かもしれません。 そのプレセピオ、今日12月24日の夜中に少しだけ様相が変わります。そう、マリアとヨゼフの間にある飼い馬桶は、24日までは空っぽなのですが、25日に日付が変わる夜中に幼子イエスの人形が加わるのです。こうして主イエスの誕生を皆で祝福するのですね。

【Photo】24日Viglia ヴィジリアの深夜、プレセピオに加えられるBambinello 幼子イエスの人形

s-giotto_percorsi.jpg このプレセピオ、アッシジの聖フランチェスコ(1181?~1226)が13世紀に始めたものと伝えられています。アッシジの裕福な織物商人の家庭に生まれながら、出家して清貧の生涯を貫いたフランチェスコは、今も人々から最も慕われる聖人と言ってよいでしょう。12世紀末ごろはラテン語による説教が一般的で、意味を解せない信者が大方でした。フランチェスコは当時の封建的な聖職者の位階制度と距離を置き、一部の特権階級にではなく、各地を回って貧しい人々と向き合って教えを説きました。s-francescogreccio.jpg

【Photo】フランチェスコが世を去って800年近くを経た今も、グレッチオでは村民によるフランチェスコのプレセピオ劇が毎年クリスマス休暇が始まる12月24日の22時45分と、12月26日(聖ステファノの祝日)・1月1日(カポダンノの祝日)・1月6日(公現節の祝日)の17:45に演じられる


 1223年12月25日にフランチェスコはウンブリアとの境に近いラッツイオ州の小村Greccio グレッチオを訪れます。その際、崖の中腹にある洞窟にキリスト降誕を再現した人形を飾って主イエスの誕生を人々と共に祝ったといいます。文字が読めない人々にとって、キリスト教の教えを理解する近道は、モザイクやフレスコによる宗教画や磔刑像などの彫像でした。その模様は後に画家Giotto ジョットによって、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の壁に描かれた28の連作フレスコ画「聖フランチェスコの生涯」で広く知られるようになります。聖堂の建設が始まったのはフランチェスコの死から2年を経た1228年のこと。フレスコ画がある聖堂上部の着工は1230年。フランチェスコと同時代の人々が生きている中でフレスコ画が描かれただけに、その信憑性は高いと考えられます。

s-spaccanapoli.jpg 【Photo】12月の Via San Gregorio Armeno サン・グレゴリオ・アルメーノ通り。所狭しとプレセピオをはじめとする人形が並ぶそこでは、一年中ナターレ気分に浸れる


 メルカティーニ・ディ・ナターレは、通常11月末頃からイタリア各地で立ち始めますが、例外もあります。それはナポリの下町「Spaccanapoli スパッカナポリ」のほぼ中心にある「Via San Gregorio Armeno サン・グレゴリオ・アルメーノ通り」のこと。ここは芸術性の高さで名高いプレセピオ・ナポレターノの職人街になっており、路地の両側には、プレセピオを扱う店が一年中開いているのです。夏場は開いている店が若干少なくなるものの、11月末ともなれば、プレセピオを求める人や観光客で細い路地はごった返します。ナポリの治安の悪さがとやかく言われたのは過去の話。1994年のナポリサミット以降、ナポリ市が本腰を入れて治安の回復に取り組んだ成果は着実に現れています。
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【Photo】人でごった返す12月のサン・グレゴリオ・アルメーノ通り

 スパッカナポリ地区では徒歩での移動となります。見事な体躯の肝っ玉母さん同士の会話や、頭上にはためく洗濯物に目を奪われるよりは、爆音を上げてすり抜けるスクーターにひるまず、"身の回りの物に注意を払っているぞ"というオーラを放ちながら歩みを進めましょう。そこはかつてスリの本場(?)といわれたナポリの下町。用心に越したことはありません。「Via Benedetto Croce ベネデット・クローチェ通り」を「Piazza San Domenico Maggiore サン・ドメニコ・マッジョーレ広場」まで来ると、真っすぐな通りの名が「Via San Biagio dei Librai サン・ビアジオ・デイ・リブライ通り」へと変わります。そこから300mほど進むと1800年に創業した「Ospedale delle Bambole オスペダーレ・デッレ・バンボーレ(=人形の病院)」という店があります。世界中から送られてくる傷んだ古い人形の修理をするのは、今年71歳になるルイジ・グラッシさん。人形修理専門店はナポリでもここだけです。
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【Photo】シルクハットを頭におどけてみせるルイジ・グラッシさん。71歳にしてこのやんちゃぶり(左)すわ! 猟奇事件発生か? いえいえ、修理を待つ人形の頭部です(右)
 
 ナターレが近くなると、サン・グレゴリオ・アルメーノ通りの店先には、ありとあらゆる人形が並びます。Natività 聖家族、Bambinello 幼子イエス、乳香を献ずるBalthasar バルタサール・黄金を献ずるMelchior メルキオール・没薬を献ずるCaspaer カスパールの三人からなる東方三博士、大天使ガブリエル。こうしたプレセピオの中核をなす人形はもちろんのこと、天使・羊飼い・生き生きとした表情の民衆の人形、周辺の風景や羊や馬・牛などの動物の人形など、あるわあるわ。そこではさまざまなジオラマのパーツが売られています。星が輝くもの・建物の窓に明かりが灯るもの・川が流れるものなどの細工をされたプレセピオがある上、店のディスプレーにも工夫を凝らしており、店頭で絵付けをする職人の姿を目にすることも。店めぐりをしているだけで、結構楽しむことができるはず。イタリア人の家庭では、毎年少しずつ買い足して、見事なジオラマを完成させるのです。

s-sacrafamiglia.jpg【Photo】丹念に手縫いされた衣装をまとった聖家族のプレセピオ・ナポレターノ。バロック絵画のようなドラマチックな構図と精緻な人形の表情は見るものの心を捉えて離さない
 
ほかにも、ナポリの伝統的な即興仮面劇に出てくる道化役「Pulcinella プルチネラ」【click!】はよく見かけます。プラスチックでできた土産用のもの(⇒ここでもMade in China は大活躍)は別にして、豪奢な生地を丹念に縫い合わせた表情豊かなガラスの目を持つ陶製の頭部にハンドペイントを施されたナポリの職人の手になる人形はお値段もそれなり。一体1,000エウロ以上もする芸術品のようなプレセピオ・ナポレターノもあります。近年では、イタリアでもクリスマスツリーを飾る家庭が増えてきたといいますが、敬虔なカトリック教徒が多い南イタリアでは、プレセピオがまだまだ健在のよう。
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【Photo】東方三博士。別売りの馬に跨れるよう、関節が動くように造られている(左)キリストが生まれた馬小屋にいたという牛と羊飼い(右)

 あまねく人々と神の子イエスが生まれた喜びを分かち合いたいと、山中の洞窟に聖家族の人形を供えた聖フランチェスコ。その無垢な心が生み出したといえるイタリアの素晴らしい習慣を絶やしてほしくない。そう願わずにはいられません。
 最後になりましたが、Buon Natale! Merry Christmas!

2007/12/22

クリスマス ところ変われば

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 【Photo】高級ブランドが並ぶMilano のMonte Napoleone 通りへと抜ける Vittorio Emanuelle Ⅱ通りの12月。ライトアップされたDuomo ドゥオーモを背景に、いくつものStelle(=星々)のイルミネーションが北風に吹かれて舞い飛ぶかのように輝く


 ホームセンターで手に入れた色とりどりの電飾で飾り立てた一軒家。ラスベガスのカジノと見まごうきらびやかなその家の主は、救世主イエス・キリストの降誕によって、地上に光がもたらされ、神の造形物の姿が蘇ったことへの真摯な喜びを表すイルミネーション本来の意味を知っているのでしょうか。西部開拓時代のアメリカで始まった七面鳥をクリスマスにローストにして食べる習慣は、米国資本の大手チェーン店によって、日本ではフライドチキンを食べる日へと化けてしまいました。竹内まりやの「♪ 今年もクリスマスがやってくる~」というその企業のCMソングはお馴染みなのでは? そういえば、ご主人の山下達郎も「♪ 雨は夜更け過ぎに~」というクリスマス・イブの名曲を歌っていましたね。20年ほど前は、東海地方の鉄道会社のCMで、今年は英語バージョンが自動車メーカーのCMで使われています。 つくづくクリスマスで稼ぐ夫婦だなぁ。 閑話休題
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 北米大陸の南部には野生の七面鳥が数多く棲息しており、開拓者たちのタンパク源として重宝されたといいます。日本ではあまり見かけない淡白な食味を持つこの鳥が、実は私はビジュアル的に苦手なのです。有名なバーボンウイスキーの「WILD TURKEY」は文字通り "野生の七面鳥"。そのラベルにも姿が描かれています。これでも姿が思い浮かばない方は、こちらを 【click!】 どうです、インパクト充分ですよね。エヘヘ・・・

 華やいだ町がクライマックスを迎える24日、お約束のシャンパンでクリスマスディナーを楽しむ若いカップル。クリスマスホームパーティには、今や寿司や宅配ピザまで登場。家でプレゼントを待ちわびる子どもたちのためにサンタクロースへと変身する前に、デコレーションケーキを買って家路を急ぐお父さん。
 八百万(やおよろず)の神がいる日本では、キリスト教の宗教的祭日であるクリスマスが、商業色の強いイベントとして定着しています。さぞ預言者キリストも目を白黒させていることでしょう。

castellosforzanatale.jpg【Photo】ミラノ領主ヴィスコンティ家の居城「Castello Sforzesco スフォルツェスコ城」。ミケランジェロ未完の遺作「Pietà Rondanini ロンダニーニのピエタclicca qui」は、ここのMuseo d'Arte Antica にある。15世紀にフランチェスコ・スフォルツァが、レオナルド・ダ・ヴィンチに設計を依頼した威容を誇る要塞にもナターレのイルミネーションが輝く

 カトリック教徒が全国民の97%を占めるイタリアの「Natale ナターレ」(=クリスマス)は、家族や親戚と過ごす静かなものです。普段は離れて暮らす家族も、日本の正月同様、ナターレには顔をあわせます。聖書にはなんら記述のないキリストの生まれた日が、12月25日とされたのは、4世紀のコンスタンティヌス帝政下のローマでのこと。当時、ローマで兵士を中心に広く信仰を集めたミトラ教の教義では、ユリウス暦で冬至の3日後にあたる12月25日は、ひとたび太陽神ミトラが滅びた後で、また新たに生まれ変わる日とされていました。ゴルゴダの丘で磔刑により落命したイエス・キリストが復活したのは3日後のこと。313年に皇帝コンスタンティヌスがミラノ勅令でそれまで迫害していたキリスト教を公認したばかりの初期キリスト教においては、異教の教えやゲルマンの土着信仰までも取り込んで、教義が作られていったのでしょう。いずれにせよ、救世主イエス・キリストの降誕は、その受難と復活(4月8日のPasqua パスクア)と並ぶ意味深いものと捉えられます。

s-gubbioalbero.jpg 【Photo】中部イタリア ウンブリア州 Gubbio グッビオでは、インジーノ山の斜面に200個の電球で形つくられた高さ650mの巨大なAlbero di Natale (=クリスマスツリー)」が出現。1991年には世界一大きなツリーとしてギネスブックにも載った。今年は12月7日から年明け1月10日まで点灯。 ©città di Gubbio

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【Photo】中部イタリアの古都 Bologna ボローニャの「Le Due Torri ドゥエ・トッリ」と呼ばれるシンボル、アシネッリ(右)とガリゼンダ(左)のふたつの傾いた塔。天上から降り注ぐかのような光の粒子が神の国へと導く階(きざはし)のように見えた。ナターレの時期には、東方三博士を導いたベツレヘムの星をかたどった星型の電飾が用いられる。けばけばしいネオンがないイタリアの都市では、シンプルな装飾が美しさを際立たせる

 全世界で10億人以上の信者がいるカトリックの総本山バチカンがあるイタリアでは、12月25日から数えて四週前の日曜日から、救世主の誕生を待ち望む「Avvento アッヴェント・待降節」に入ります。近世になるまでは待降節に入ると、肉食は禁じられていたといいます。今日ではそのようなことはありませんが、Viglia ヴィジリア(=クリスマスイヴ)の12月24日は、現在でも肉を控え、魚を食べる習慣が守られています。日本食ブームのヨーロッパですが、食に関しては保守的な面の強いイタリアゆえ、日本のホームパーティーのように Sushi で Buon Natale! (=メリー・クリスマス)とはいきません。ナターレから Capodanno カポダンノ(=正月)にかけてよく食べられるのが Anguille (=ウナギ)。ブツ切りにしてフリット(=フライ)やトマトソース煮で食されます。ローストビーフやラビオリ・トルテリーニなどのパスタにして食卓に肉が登場するのは、翌日の25日。この規律は今もほぼ厳格に守られています。

s-pandoro.jpgs-panettonemilanesecut.jpg【Photo】背が高く、横断面が★型になるパンドーロ(左)と上面や中身にさまざまなドライフルーツやアーモンドなどが入るパネットーネ(右)は、ともにナターレに欠かせない  

 イタリアのクリスマス菓子といえば、最近は日本にも輸入されている「Panettone パネットーネ」を思い浮かべます。これは ロンバルディア州ミラノが発祥。東隣のヴェネト州ヴェローナ生まれの「Pandoroパンドーロ」も捨てがたいところ。安価な材料を用いた粗悪品に業を煮やしたイタリア政府は、2005年に天然酵母と良質なバター・鶏卵などを使用することを求めた製法と材料及びその使用割合に関する法令を定めました。オレンジピールやレーズンなどのドライフルーツやチョコレートを生地に加えて味のバリエーションを演出したのがパネットーネ。かたやプレーンな生地にバニラフレーバーの粉砂糖をかけていただくパンドーロ。イタリア人でも両方食べる派とどちらか一方だけ派のふた手にに分かれます。日本の店頭では保存がきくドイツのクリスマス菓子「シュトレーン」と並んで、パネットーネを目にする機会のほうが多いかもしれませんね。

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 11月になる頃から、店先にはこれらナターレの菓子がディスプレーされるようになります。Bauli などのマシンメイドの大手のメーカー品から、Pasticceria パスティッチェリア(=菓子店)でハンドメイドされるものまで、大きさにもよりますが、ものによって価格差は三倍程度。伝統的な味を求めるのなら、多少お高くても、シットリとした生地が美味しいパスティチェリアのものをオススメします。スーパーに山積みされていたパネットーネ・パンドーロも、25日を過ぎると日本と同じくバーゲンプライスになるのは、ところ変われど同じです。

         san_pietro_presepio.jpg©APT Roma
【Photo】クリスマスを控え、世界中から信者が訪れるバチカン サンピエトロ広場に設けられた等身大の巨大な「Presepio プレセピオ」。キリスト誕生の場面を再現したプレセピオは、待降節の頃からイタリアでは街角や家庭で飾られる。プレセピオについては次回詳しく。

 アッヴェントから、東方三博士が神の子の誕生を祝いに訪問した1月6日の「Epifania エピファーニア・公現祭」までが、ナターレの期間。プレセピオやツリーなどクリスマス飾りが片付けられるのもこの時です。イタリアの子どもたちはこのエピファーニアを心待ちにします。なぜなら、この前夜に魔女さながらの風貌をした「Befana ベファーナ」がやってきて、窓辺に下げた靴下の中にお菓子などのプレゼントをくれるから。この箒に乗った老婆は、心掛けの良くない子には木炭を入れてゆくのだとか。ベツレヘムでs-benana.jpgキリストが生まれた厩への道を尋ねた三博士を門前で一度は追い払った一人の老婆がいました。神の子が生まれたという噂を伝え聞いていた老婆は、すぐに改心して三人の後を追うのです。その道すがら、子どもたちに施しをしたという伝説がもとになったとされるベファーナ。アメリカから"輸入"された「Babbo Natale バッボ・ナターレ(⇒直訳すれば "クリスマス父ちゃん"。サンタクロースのこと)」がイタリアで浸透してきたのは最近のこと。「バッボ・ナターレとベファーナ両方からプレゼントがもらえるイタリアの子どもになりたーい!」 なんて言っている子はいませんか? そんな子は炭しかもらえませんよ~ (笑)

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【Photo】ローマ・ナヴォーナ広場のクリスマス市で売られていたBefana ベファーナの人形    【左】「Quest'anno... solo carbone (=今年は... 炭だけだよ)」魔女のような姿でも、どこかユーモラスなベファーナ

★次回「プレセピオで迎える Natale」に続く

2007/11/01

一匹狼のイタリアワイン商

「イタリアワイン最強ガイド」の著者でワイン商の川頭 義之氏とワイン談義に花を咲かせた Enoteca il Circoloでの一夜。いわゆるラテン系の「はじけた」お人柄ではないものの、ワインへの愛情と情熱の持ち主であることが氏の言葉の端々から伺えました。頂いた名刺に記された社名は「LupoSolitario」。伊語で「一匹狼」を意味するその気概や善し。なんとCOOLで素敵な社名でしょう。

 著書に記載されていた著者プロフィールで、大学の同窓であることは事前に知っていました。そこで大学時代の学籍番号を告げたところ、学部違いで同じ年に入学していた事が判明。あ~ら偶然。Il mondo è piccolo(=世界は狭い)。おまけに氏が名刺を取り出した名刺入れは、私が愛用するショルダーバッグと同じ Piero Guidi でした。日本ではあまり見かけないものの、イタリアでは人気のある品のユーザー同士とは、これまた偶然。"Il mondo è molt piccolo(=世界はとっても狭い)"。川頭氏は'92年にイギリスで現在の奥様であるジョヴァンナさんと出会い、イタリアワインに本格的に目覚めたといいます。やがて「自分が口にするワインは、どんな場所でどうやって造られているのか」という興味が湧いてきたのだそう。そのため、生産者のもとを訪ね、根掘り葉掘り質問をぶつけたのだそうです。こういった行動に出る思考回路を私も持ち合わせていることを、当ブログの読者の皆様は既にご存知かと。口にするワインのほとんどがイタリアワインであること以外にも、いろいろとシロガネーゼな(?)両者には共通点があるのでした。

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【Photo】シロガネーゼな大学時代はラグビー部に所属、FWとして活躍した川頭 義之氏と奥様のジョヴァンナさん、同校の広告研究会に所属、ただのチャランポランだった筆者。数年を経た今の差は歴然...il||li _| ̄|○ il||li(写真左より)

 陰干ししたブドウで仕込むイタリアの偉大な赤ワインのひとつに Amarone della Valpolicella アマローネ・デッラ・ヴェルポリッチェラが挙げられます。川頭氏の奥様ジョヴァンナさんは、その産地に程近いイタリア北東部ヴェネト州の Vicenza ヴィチェンツァの出身。ヴェネト州はイタリアで3番目の生産量とDOC【注】ワイン生産量全体のおよそ25%を生産する一大ワイン産地です。願ってもない伴侶を得た川頭氏は、さまざまな地方の印象に残ったワインの Cantina カンティーナ(=ワイナリー)を訪ね、ブドウ畑や醸造の過程を目にしてきたといいます。そこで実際のワイン造りに関与する Enologo エノロゴ(=醸造家・醸造コンサルタント)や Agronomo アグロノモ(=ブドウ栽培に関する責任者・栽培コンサルタント)の話を聞くうち、ワインは自然風土と密接に結びついた農産物であり、ブドウの世話をする生産者やカンティーナでワイン造りに関わる人々の努力の結晶以外の何物でもないという事実に思い至ったのです。

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【Photo】Enoteca il Circolo でこの夜飲んだヴィーノ。川頭氏が自宅で最も飲む機会が多いと語るシチリアのGulfiという造り手によるRossoibleo、 ピエモンテで最も親しまれているブドウBarbera バルベーラの特徴である酸がキレイな Monchiero Carbone Pelisa、白ワイン産地として高い評価を得るフリウリでは、国際品種 Merlot も高い品質を備えたものがある。Vie di Romans Maurus もそんなひとつ。Redigaffi で一躍ワイン産地として世界に名を轟かせたトスカーナの南端、スヴェレートの Tua Ritaを立ち上げた伝説は余りに有名。天才と呼ばれる醸造コンサルタント、ルカ・ダットマが立ち上げた自身のカンティーナからビオディナミコ農法で栽培したブドウから造られる Altrovino(写真左より)

 出逢った翌年の'93年に結婚したお二人は、川頭氏の実家がある神奈川県藤沢市に居を構えます。イタリア育ちのジョヴァンナさんは、飲みなれたイタリアのヴィーノを地元で探したものの、当時日本に輸入されていたイタリアワインは種類が限られ、あったとしても品質が伴わないものが大方でした。そのため、わざわざ電車で青山や広尾まで出向いてヴィーノを買い求めていたといいます。"日本になければ自分たちで道筋を切り開けば良いではないか"。そうした思いから、それまで勤務していた商社を退職し、生産者とインポーターとの仲介をするフランス語で「Coutier クルティエ」と呼ばれる輸出斡旋を業務とするワイン商として'96年に独立した川頭氏。宮城県には駆け出し時代の苦い思い出があるそうです。とある知人の紹介で、宮城に本社があるワイン輸入会社を単身訪問した時のこと。東京を早朝に出発、仙台近郊にあったその会社の事務所で待たされること 1時間。肝心の商談はわずか15分で打ち切られ、何の成果を得ることなく神奈川の自宅へ戻ったとか。これまでも川頭氏が日本に紹介したワインを数種類愛飲してきた私ゆえ、その時の商談相手が私だったら、即・商談成立だったはず。運が悪かったのですよ、川頭さん(笑)。

 川頭ご夫妻は、トスカーナ州のワイン生産地として急速に名声を上げている Maremma マレンマ地区にある町 Montescudàio モンテスクダイオにも家を持っています。そのため日本での事務所兼住居がある東京とイタリアを行き来する生活を送っています。リグーリア海沿いの Cècina チェチナから Volterra ヴォルテッラに向かって10キロほど内陸にあるこの町の南、Bolgheri ボルゲリには優れたワインを生産するカンティーナがいくつも点在します。イタリアワイン界の巨人アンジェロ・ガヤ氏が地元ピエモンテ州以外で新たなワイン造りの可能性を追い求めて畑をボルゲリに購入したのは、1996年のこと。現在のイタリアワイン界で最も注目を集めるエリアと言って差し支えないでしょう。

scriomessorio.jpg【Photo】Enoteca il Circolo吉田シェフ秘蔵の Messorio(右)と Scrio(左)イタリアワインファン垂涎のこの二本。セラーの肥やしにせずに、そのうち開ける時は忘れずに声を掛けて下さい。お願いしまーす(^0 ^)

 カベルネ・フランから造られる Paleo,メルロ100%の Messorio,シラーの Scrio といったイタリアワインラヴァーなら知らぬ者はいないカルトワインを生産するカンティーナ Le Macchiole レ・マッキオレ。その3代目当主エウジェニオ・カンポルミとの出会いが、川頭氏をして「イタリアワイン最強ガイド」を世に問うきっかけになったといいます。2002年に癌のため40歳の若さで夭逝したエウジェニオは、川頭氏の表現を借りれば「勤勉で寡黙」な職人気質の人物だったのだそう。その人柄に惚れ込んだ氏は、私生活でもカンポルミ夫妻と交友を深めていったといいます。販売の手伝いのため藤崎でワイン売り場に立たれた川頭氏の脇には、エウジェニオの遺志を継いで現在ワイン造りに取り組む妻のチンツィアさんの写真が飾られていました。

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【Photo】Vie di Romans ジャンフランコ・ガッロ渾身の一本、Vie di Romans Chardonnay。バリックを使用しながらも厚化粧な嫌味がなく、「これがシャルドネ100%のワイン?」と良い意味で先入観を覆してくれる。果実由来の甘味に続いて上品な香りが鼻腔を心地よくくすぐる。大き目のグラスで冷やしすぎずに香りを楽しみたい

 「ワイン造りの鍵は畑におけるブドウの手入れが全て」と断言するエウジェニオのほか、川頭氏が出会ったエノロゴやアグロノモが本書には登場します。たとえばLe Macchiole のエノロゴを現在も務め、自身のカンティーナ Duemani ドゥエマーニをモンテスクダイオの北隣にある Riparbella リパルベッラで2000年に興したルカ・ダットマ氏。そしてブルゴーニュの名だたる白ワイン産地にも比肩しうると川頭氏が語る北イタリアのアルトアディジェと並ぶフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州からは Vie di Romans ヴィエ・ディ・ロマンスのオーナー、ジャンフランコ・ガッロ氏。そして川頭氏が非常に個性的で印象に残る人物と語るピエモンテ州 Roero ロエロ地区 Canale カナーレにある Monchiero Carbone のオーナー、マルコ・モンキエロ氏、Poliziano・Lupicaia・Fonterutoli・Brancaia・Brolio などイタリアワインファンならばお馴染みのカンティーナの醸造コンサルタントとして輝かしい実績をもつカルロ・フェッリーニ氏など。

 品質と価格のバランスが取れたイタリアワイン選びに実践的に役立つガイドとしての役割もさることながら、足掛け5年をかけてまとめ上げたこの本の狙いは、ワインを造る人たちにスポットライトを当てることにあったといいます。彼らが本の中で語ったワイン造りにかける情熱の発露ともいえる言葉は説得力に溢れています。そんな作り手が丹精込めて造ったワインは、雄弁に作り手の思いを伝え、造られた地の風土すら窺えると川頭氏は本の中で語っています。

 私が体験したそんな事例をご紹介しましょう。私が好きなヴィーノのひとつに San Giusto a Rentennanoサン・ジュスト・ア・レンテンナーノclicca quiPercarlo ペルカルロがあります。イタリアを代表する赤ワイン用ブドウ品種 Sangiovese サンンジョヴェーゼから造られるトスカーナ産の中では最も優れていると川頭氏も太鼓判を押すこのヴィーノ。2003年にトスカーナ州 Siena シエナを訪れた際、近郊にあるガイオーレ・イン・キアンティ地区にあるカンティーナを訪問し、オーナーであるマルティーニ・ディ・チガラ兄弟の弟、ルカ・マルティーニ・ディ・チガラ氏に畑と醸造施設を案内して頂きました。突然の訪問だったにも係わらず、彼は快く私を受け入れ、熟成中の樽からサンプルを取り出して試飲させては、感想を求めるのでした。最後にセラーで購入した Percarlo とメルロから造られる La Ricorma、そして私がこの日最も感動したデザートワイン Vin San Giusto に私の名入れでサインをしてくれました。

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【Photo】作柄に恵まれた2001年産 Percarlo のバレルサンプルをテイスティング用グラスに注ぐルカ・マルティーニ・ディ・チガラ氏。翌2002年産のバレルサンプルは、厳しかった天候を反映してエレガントな印象。私の反応を見てルカ氏も苦笑い。結局この年は Percarlo ではなく Chianti Classico Riserva Le Balòncole として、いわば格下げしてリリースされた

 昨年、イタリアを訪れた際、事前にルカ氏にアポを取って再訪を申し出ていました。その日は Lucca ルッカ郊外のエレガントなリストランテ「La Morra ラ・モッラ」での豪奢な昼食に思いのほか時間を割いてしまいました。11月ともなると緯度が高いイタリアは陽が落ちるのが早くなります。「ルッカからルカのもとへ~♪」などと同行した二人の友人とお気楽なギャグを飛ばしていたのも束の間、約束の時間に遅れそうな旨をルカ氏の携帯に入れて道を急ぎました。しかし、夜に別な用事があるため、もはや待てない旨を4回目の電話でルカ氏から告げられたのです。

boccadama.jpg【PHOTO】カンティーナ訪問を果たせなかった日の夜、フィレンツェのワインバーで選んだのは4年前に訪問した際にステンレスタンクで発酵中のモスト(果汁)clicca quiを口にしていたサンジョヴェーセで醸されたPercarlo'03。再会を果たせずに失意に沈む心を穏やかに解きほぐしてくれた。遅れを取り戻そうとブンブン車を飛ばす私の運転も災いしたのか、疲れた表情を浮かべていた友人二人も初めて口にするこのワインによって力が漲ってくるのを感じたという。「凄いワイン。逃した魚は大きかったんだね」の問いに「その通り」と笑うしかなかった

 ステアリングを操る私に代わって電話でルカ氏と連絡を取ってくれたのは、中部イタリアPerugia ペルージャに暮らす私の友人Kissyでした。彼女によれば、電話の向こうでルカ氏は幾度も「Mi dispiace(=残念だけど)」と言っていたのだそう。この表現は、相手の気持ちに同調して自分も残念に思う場合に使うのです。楽しみにしていた訪問が叶わず、失意のうちに急遽予定を変更、フィレンツェに宿泊する事に。「昼をたっぷりと堪能したし、夕食は軽く」とホテルのフロントにいた男性に勧められたサンタ・クローチェ広場に面した「Boccadama ボッカダーマ(=「貴婦人の口」の意)」というワインバーに入りました。

 訪れた年のその産地のワインを入手するのを慣わしにしている私は、ワインリストから前回カンティーナを訪れた年、2003年ヴィンテージの Percarlo を迷わずチョイスしました。お店でポテンシャルが高いワインを若いうちに開ける場合は、時間をかけて飲むと時の経過と共にさまざまな表情を見せてくれます。大ぶりなグラスをゆっくりとスワリングしながら、30分ほど経過すると次第に香りが開き、Percarlo が秘める高貴さの片鱗を見せ始めてきました。口に含んで瞑目すると、3年前に目に焼き付けたブドウ畑の風景や、思慮深い口調の太い声でヴィーノの説明をしてくれたルカ氏の顔が浮かぶのでした。

 目的を果たせなかった"残念会"の趣で始まったその夜。カメリエーレのお兄さんのサービスで出てきた生ハムやチーズと共に Percarlo をボトル半分ほど飲み進めると、先ほどまでドロドロに疲れていた心と体が嘘のようにほぐれてゆくのでした。それは、私に限った事ではなく、初めてこのワインを口にした友人二人も同じだったのです。まるで「今回会えなかったのは Mi dispiace だったけど、またチャンスはあるさ。あなたに会った年に収穫したブドウで仕込んだボクのヴィーノで、せめて今夜は楽しんでほしい」とルカが語りかけてくるかのような不思議な体験でした。

autograph.jpg【PHOTO】若くして逝ったエウジェニオ・カンポルミのことを想起させる" La vita è breve,beviamo solo buon vino"(=人生は短い。ただ美味しいワインを飲もう)という警句とともに、著書の表紙裏に川頭夫妻から頂いたサイン

 Enoteca il Circolo での楽しい語らいの時間を共に過ごした翌日。藤崎のワインセミナー会場で再会した川頭氏の奥様ジョヴァンナさんから思わぬ素敵なプレゼントを頂きました。私のいでたちを見て「まるでイタリア人みたいですねぇ」とジョヴァンナさん。「いいえ、庄内系イタリア人です」と笑って切り返す私。ヴィーノを中心にイタリアの話で盛り上がった私には、ふさわしいイタリア名があるということになったのです。

 そこでジョヴァンナさんに頂いた名前が「Carlo カルロ」でした。大好きなワイン Percarlo (「Per」= For の意の伊語+Carlo)とも繋がる素敵な名前です。Grazie mille signora Kawazu !
これからは私を「庄内系イタリア人・カルロ」と呼んで下さいね。

【注】1963年に施行された現行のイタリアワイン法では、格付け順にDOCG(統制保証原産地呼称)、DOC(統制原産地呼称)、IGT(典型的生産地表示付・'92から導入)、VDT(テーブルワイン)の四種に大別される。生産エリア・ブドウ品種(混醸の場合は比率も)・栽培法・収穫量・醸造方法・熟成期間・アルコール度数・残糖分・酸度・エキス分などを事細かに規定。加えて国が委嘱する専門試飲委員会による官能検査も義務付けられる。格付け上の頂点にあたるDOCGに最初に指定されたのは、Barolo バローロ,Barbaresco バルバレスコ,Brunello di Montalcino ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ,Vino Nobile di Montepulciano ヴィーノ・ノヴィーレ・ディ・モンテプルチアーノの4種であった。
 品質を追求する生産者は、規定に縛られないブドウ品種を使用したり醸造法を取り入れて、独自の名前を付けたワインを生産し、国際市場から高い評価を受けるようになる。Sassicaia サッシカイアがその端緒とされる('94に Bolgheri ボルゲリDOCに昇格)。Tignanello ティニャネッロ,Ornellaia オルネッライアなど、後に「スーパートスカーナ」ともてはやされる銘柄が後に続いた。こうして実際には、IGT・VDTクラスに傑出したワインが数多く存在する。これが大方のワイン愛好家にとってイタリアワインを判りにくくしている要因といえる

 

2007/10/05

アウトグリルの朝ごはん

 当「食WEB研究所みやぎ」で好評展開中の「朝ごはんを撮ろうキャンペーン」。
朝ごはんは一日の活力を生み出す大事なもの。なにかと忙しい朝ですが、自分のカラダとアタマの調子を整える大切な栄養はキチンと摂りましょう&撮りましょう!!(笑) 事務局では雫石プリンスホテルの宿泊券ほか賞品も"それなりに"用意しているようなので皆さんもドシドシご応募くださいね! ※キャンペーン内容はこちらをクリック  《このキャンペーンは終了しました
      
 ということで、私もキャンペーン趣旨に賛同して、ピエモンテのアグリツーリズモ Rupestr の甘~い朝ごはんLink to backnumber を先にご紹介しました。イタリアの朝ごはん第二弾として、今回は少し趣を変えた朝ごはんをご紹介します。

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【Photo】車でイタリアを旅するのならば、ぜひ活用したいアウトグリル。セルフとはいえ食事はバリエーション豊かでそれなりに美味しい。エミリア・ロマーニャ州のビーチリゾート Rimini リミニ近くのアウトグリル内のレストラン「Ciao チャオ」での遅い朝食。既製品のドレッシングが存在しないイタリアでは、Insalata インサラータ(=サラダ)には、エキストラ・ヴァージン・オイルとアチェート・バルサミコをかけて食べる

アドリア海に面した中部イタリア Marche マルケ州を10月初旬に訪れた際のこと。前日まで滞在した教会の宿泊施設を引き払い、州都 Ancona アンコーナの西方10キロにあるアンコーナ・ファルコナーラ空港へ移動。にわか雨が降り出す中、予約していたレンタカーをピックアップしました。自動車の旅の魅力は、意の趣くままに行動範囲が広がること。世界一高いといわれる日本よりもよほど手頃な通行料で利用できる高速道路網が整備されたイタリアでは、車での移動が何かと便利です。当然ですがイタリアのレンタカーは、左ハンドルで大多数がマニュアルシフト。私が普段乗っているイタ車は同じ仕様ゆえ、日本に居ながらイメージトレーニングはバッチリ !

 起伏に富んだ丘陵地が続くマルケから、初期キリスト教時代やビザンティン様式のモザイクで有名な世界遺産の町 Ravenna ラヴェンナを目指して一路アウトストラーダ A14号線を FIAT Punto で北上。稀代の美食家でも知られた作曲家 Rossini ロッシーニの故郷 Pesaro ペーザロを過ぎると、美味しい物の宝庫エミリア・ロマーニャ州の肥沃な平原が広がってきます。走り始めて90キロほどすると左手彼方の岩山に要塞のような山上都市サン・マリノ共和国が見えてきます。そこは気ままな一人旅。その威容に惹かれ、ふらっと寄り道しようかと時計を見ると、すでに11時。「おっと、朝食がまだだっけ」。すぐにお腹の虫が鳴き始めました。

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【Photo】Autostrada del Sole アウトストラーダ・デル・ソーレ(=太陽の道)の愛称で呼ばれるイタリアの大動脈・高速 A1。トスカーナ州 Arezzo アレッツォに向かう途中で立ち寄ったアウトグリル。上下線どちらからも利用できるよう、片側 2車線のアウトストラーダを跨いで建っている。車上荒し対策のため駐車する際には、外から見える場所に荷物を置かないのが鉄則。取り合わない方がよろしい怪しげな物売りが寄って来たりもするので、ご用心、ご用心

 そんな時に重宝するのが、Autostrada アウトストラーダ(=高速道路)に併設された 「Autogrill アウトグリル」です。"アウトグリルとは何ぞや?"という方もおいででしょう。日本の高速道路にあるサービスエリアに近い存在ですが、内容の充実ぶりは日本のそれの比ではありません。1993年に民営化され、'95年からは大手服飾企業 Benetton ベネトン系列の持ち株会社 Edizione Holding エディツィオーネ・ホールディングが運営しています。高速道路網が発達したイタリア全土 900箇所に展開、年間延べ 4億1,500万人が利用。フランス・スペインなど欧州各国のみならず、北米や南米諸国・豪州・インドなどの空港・高速道路を中心に飲食サービスを提供する世界最大規模のグループ企業なのです。イタリア国内では、傘下にセルフサービスのレストラン「Ciao」、ピッツェリアの「Spizzico」、バール形式のカフェ「A cafè」など多様なスタイルの店舗を展開しています。

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【Photo】ジョルジョに案内され、トリノ郊外にあるサヴォイア家が狩猟用に建てた離宮「 Parco Regionale La Mandria」を訪れた夜。初代イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が愛用した館の中を見学後、ナイトサファリツアーが幕を開けた。離宮の広大な敷地は自然公園になっている。闇を照らすサーチライトを備えた観察用ワゴン車に乗り込み、生息するイノシシやシカなどの野生動物を観察した。暗闇から現れる動物に大はしゃぎのジョルジョをよそに、猛烈な睡魔に襲われた一行はほぼ皆が爆睡。夜11時すぎにツアーを終えて Canelli に向かったが、皆を乗せたクルマの常任ドライバー(⇒当然、私)は、濃霧による視界不良の中、頭にも霞がかかり始めた。もはや居眠り運転寸前でアウトグリルのサインを認めて先行するジョルジョのプジョーにパッシング数回。立ち寄ったそこでオーダーしたのが眠気覚ましの Espresso doppio エスプレッソ・ドッピオ(=ダブル)と、店員のお兄ちゃんが温めてくれたこのパニーニ。どちらもおいしかったぁ~

 イタリア国内のアウトグリルで特筆すべきは、セルフサービスながら、店員と対面で温かい食事を 24時間頂くことができること。Barバールよりもフードメニューが充実しており、それなりに美味。深夜のドライブで小腹が空いた時などにつまめるパニーニ類も、温めて提供してくれます。地域性豊かな国イタリアらしく、地方ごとに特色あるフードメニューを取り揃えているのも魅力。併設されるショップには、チーズやパスタ・生ハムなど地域の特産品や菓子類・ドリンク・地図・CDなどが、わんさと並びます。なかには土産用にフルボトルワインを置いているアウトグリルも少なからず存在します。高速道路でアルコールを売っている事に驚かれるかもしれませんが、さすがにその場で飲んでいるイタリア人は見かけません。

 デミサイズのワインがセルフで選ぶ食べ物と共に用意されていることもあります。白ワインの産地 Orvietoオルビエートのアウトグリルに立ち寄った際のこと。私はその時バスで移動中でしたので、心おきなく芳醇な白ワイン Orvieto Classico と軽い食事を楽しめました。
 当然ですが、イタリアでも飲酒運転はご法度であることを最後に申し添えておきましょう。

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【Photo】Rimini 近くのアウトグリルで頂いたブランチのレシート。パン 35チェント、サラダ 2.40エウロ、牛肉のワイン煮込み 9.1エウロ、カップチーノ 80チェント、しめて 12エウロ 65チェント。味にうるさいイタリア人たちを相手にしている施設なので、まずハズレはない

2007/09/10

アモーレ・カンターレ・マンジャーレ?

異議あり!! ニッポン人のイタリア人観

アモーレ・カンターレ・マンジャーレの国」。イタリアという国を形容するお馴染みのこの言い回し。ひょっとして鵜呑みにしていませんか?

 日本で発行されるイタリア観光のガイドブックには必ず「イタリアはアモーレ・カンターレ・マンジャーレの国」と記載されている。よって大方の日本人は、イタリア人が常に恋愛にうつつを抜かし、陽気に「オオ・ソレ・ミオ」を歌い、食べることが生き甲斐だと思い込んでいる ― と当事者であるイタリアでは半ば呆れたニュアンスで紹介されていることは、日本では全く知られていません。

napoliamore.jpg【PHOTO】ヴェズービオ火山とナポリ湾、そしてNapoli ナポリ市街を一望する「 Posillipo ポジリポの丘」で。"ナポリを見て死ね"といわれる絶景に見とれていると、目の前の広場では美しい風景そっちのけで延々とカップルが熱く抱擁中

 確かに南イタリアの有名な観光地カプリ島にある「青の洞窟」を訪れた際、乗り込んだ手漕ぎボートの60歳はとうに越えていると思われる船頭は、私の目の前で「Beautiful, I love you」と私の妻をずっと口説いていたし(苦笑)、歴史上名高いプレイボーイの代名詞 G・カサノバはヴェネツィア出身、チョイ悪オヤジの代名詞 P・ジローラモはナポリ出身です。菰(こも)被りのワインを飲みながらワイワイ鼻歌交じりで楽しく食事に興じるイタリア人という日本人が思い描くイメージは間違っているのでしょうか。 
 
 今年2007年が没後30年にあたる名ソプラノ、マリア・カラスが幾度も演じたプッチーニのオペラ「Tosca トスカ」第二幕でトスカが歌うアリア「Vissi d'arte,vissi d'amore 」の邦題「歌に生き、恋に生き」を連想させる「Amore 愛して、Cantare 歌って、Mangiare 食べて」というステレオタイプな日本特有のイタリアへの先入観。私見ですが、この背景には、働き者で生真面目な日本人のイタリアへの憧憬とその裏返しの感情が入り混じっているように思われます。

 この言葉が本国を含めて万国共通の言い回しなのか。いつどういう形で日本で使われるようになったのかを、前世イタリア人の名誉にかけて?在東京イタリア大使館の文化部が主宰する「イタリア文化会館」に問い合わせました。数日後に戻ってきた回答によると、本国イタリアやその他の国では全く使用されず日本に特有の表現であること。このフレーズに関する資料が存在せず(⇒当然だろう)、語源は不明であるが、推測では日本の観光業界が発信元ではないか?とのことでした。「え~? ウッソー!」と思われた方は、検索エンジンで "Amore Cantare Mangiare" とイタリア語表記で入力した上で、このフレーズを並列で扱っているWebサイトを探してみて下さい。この言い回しが、日本語のサイトに限定されることがお判り頂けるはずです。

 新興国アメリカの黒船来訪により鎖国を解き、急速な近代国家建設を推進した明治初頭。日本は憲法や軍隊・教育制度など国家の基盤造りの規範をプロイセンやイギリス・フランスに求めました。その準備のため1871年からおよそ2年をかけて西欧諸国を視察した岩倉使節団は、25日間イタリア各地にも滞在しています。東洋から訪れた一行に対し、権威ぶらないイタリア人と美術工芸品の素晴らしさと出会いつつ、ローマを訪れた一行は、西欧文化の源泉がそこにあることを見抜いています。しかし1861年に統一国家となったばかりのイタリアは、社会体制の未整備ゆえに近代国家を目指した当時の日本の指導層にとって、規範とすべき国から外れたのです。その後1990年代になって、ようやくイタリアの魅力が広く日本で注目されるまでには、長い時間を要すことになります。

 ここで興味深いデータをご紹介しましょう。社会経済生産性本部が'06年12月に発表した「労働生産性の国際比較2006年版」によれば、イタリアの2004年の名目国内総生産(GDP)と労働生産性(単位時間あたりの労働がどれだけの価値を生んだかの指数)は、どちらも世界第7位。ちなみに日本はそれぞれ2位と19位。関連データで、年間労働時間を比較すると、日本が1812時間、イタリアは1482時間。数値上では労働時間が短いイタリアのほうが、日本より生産性が高いということです。実際、イタリア人の朝は早く、特に午前中の彼らの仕事への集中ぶりには目を見張るものがあります。デザイン性、希少性など付加価値が高い MADE IN ITALY 製品を生み出すイタリアの面目躍如といったところでしょう。

 かたや有給休暇など眼中になく、責任感が強い企業戦士が残業に精を出す脇で、同僚に気兼ねしてかズルズルと会社に居残るオンとオフが曖昧な国。かたや年間最大のイベントというべき夏の Vacanza バカンスで、一カ月近く(⇒最近都市部ではヴァカンツァが短縮傾向にあり、せいぜい2~3週間だというが、それでも長い!)海辺に滞在し日焼けに精を出すため【注1】、一生懸命仕事をするオンとオフの切り替えがはっきりした国。

bologna-spacca.jpg 【PHOTO】美食の都として名高い Bologna ボローニャ。町の中心 Piazza Maggiore マッジョーレ広場の東側の露地には、生鮮品から食肉加工品・チーズ・トルテリーニなどのパスタ類に至るまで、この町の胃袋とも言うべき食料品店やトラットリアなどが立ち並ぶ

 たとえば...仕事の後も会社の同僚と居酒屋や焼き鳥屋になだれ込み、ネクタイを鉢巻にしてしたたか酔いつぶれるまで焼酎を傾けつつ、酒席は無礼講とばかり会社や上司の悪口を並び立てるのがストレス発散。お互いに次の日には何を言ったか記憶を定かにせぬよう、いわば「酔った者勝ち」が人間関係円満のコツ?という日本。そして一方は、仕事の後は気のおけぬ友人や家族と一緒の時間をトラットリアやオステリアでVinoヴィーノを傾けつつ、悲喜こもごもの日常の出来事や、いい加減なお役所仕事の悪口など、てんでに並び立てるのがストレス発散。お互いに自分の話に夢中になるので酒に飲まれることはないが、相手の話はロクに聞いていないので、話にも飲まれない。いわば「言った者勝ち」が人間関係円満のコツ?というイタリア。
 
 いささかシニカルな表現になってしまいましたが、社会制度や文化の違いといえばそれまででしょうか。いずれにしても今日から短絡的にイタリア人をアモーレ・カンターレ・マンジャーレの色眼鏡でひと括りにするのはやめましょうね。


【注1】紫外線が肌に与えるダメージが知られるようになり、イタリア国営放送 RAI で UV ケアの必要性を紹介するようになった近年でも、小麦色の肌はイタリア人のステータスであることに変わりは無い。強い日差しが降り注ぐビーチで真っ黒に日焼けすることが、余裕のある暮らしぶりを物語る証なのだ。それが女性の場合でもヴァカンツァ明けのイタリア人同士の話題は、いかに相手の日焼けした肌を褒めるかから始まる。その次は留守中に空き巣に入られた話かもしれないのがイタリアらしいところ

2007/09/02

Bar バール

「Bar バー」じゃないのよ「Bar バール」は

 わが国のコーヒー消費量は'80年代に緑茶を追い抜き、現在も増加を続けています。一方でオーナーの個性を反映した個人経営の喫茶店は、'81年をピークに徐々に姿を消してゆきました。これは低価格のコーヒーを提供する全国チェーンが増えていった時期と符合します。

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【Photo】イタリアの街角に溶け込むBARの看板

 米国シアトルで'71年に創業以来、北米以外では初の海外進出を果たしたスターバックスが、東京銀座に日本一号店を開店したのが'96年。以降、通称「スタバ」は瞬く間に日本中に広まり、昨年日本国内の店舗数が600軒を突破しました。スターバックスの急成長は、現会長兼最高国際戦略責任者のハワード・シュルツ氏が、出張先のミラノで立ち寄った Bar バールがヒントになっています。そこで出されたエスプレッソに代表されるイタリアのコーヒー文化に感銘を受けたシュルツ氏は、'84年にバールスタイルを取り入れた店舗をシアトルに開業させています。

ipa_tazza.jpg【Photo】Milano の陶器メーカー「ipa」がスタバとコラボしたイタリアの都市シリーズのデミタスカップ ROMA AMOR(=イタリア語の回文でローマ・愛 の意。ローマは愛の街だった?)とVENEZIA。【clicca qui】。肉厚で重みがあり、家庭用のエスプレッソ・マシーンでカッフェを抽出する際に重宝する

 スターバックスが米国で産声を上げた年、同じく北米大陸以外への初展開となった一号店を東京銀座にオープンさせたのが、マクドナルドです。世界を席巻するマクドナルドとスターバックスが最初に海外への足がかりとしたのが日本だったことは象徴的です。農業大国でもあるアメリカ食産業のグローバル戦略を、日本は積極的に受け入れてきたのです。増殖著しいスターバックスですが、手本とした本家本元のイタリアには、いまだ上陸を果たしていません。日本同様にアメリカ文化に対しては比較的寛容なイタリア人ですが、自国の食文化については非常に保守的。節操のない日本とは好対照に映ります。

 いまなおスターバックスが進出していないイタリアのコーヒー文化は、Barバールを抜きには語れません。イタリア全土のバールはおよそ16万軒といわれます。そこかしこにある"Bar"の看板を見て「なーんだ、飲み屋ばっかりじゃないか」なんて思っちゃいけません。スペルは同じでも、イタリアのそれは日本で言うところのBar=バーとは全く趣を異にします。そこは甘いパンとカップチーノのイタリア式朝食の場として、仕事の息抜きの場として、イタリア人が大好きなおしゃべりに興じる情報交換の場として、馴染みのバールはイタリア人の一日に欠かせない存在です。

signromabar.jpg【Photo】イタリア人の生活にBARは欠かせない存在

 旅行者にとっては、トイレを借りたり、ミネラルウォーターをテイクアウトする際にもバールは重宝します。レストランの形態同様、一口にバールといってもさまざま。パニーニなどの軽食を出す店もあれば、しっかりとした食事(⇒作り置き惣菜の場合が多い)を取れる店、Gelateria ジェラテリア(=ジェラート店)や Pasticceria パスティチェリア(=ケーキ店)を兼ねるバールもあります。日中に出される飲み物がコーヒー類だけでも、夕方以降はアルコールも扱うケースが多いようです。皮肉なことに日本ではスターバックスの出店によってその名が認知されつつある「バリスタ」とは、バールでエスプレッソマシンを操作する店員 「Barista 」から名付けられたものです。本家筋のイタリアでは、カクテルなどのアルコールを扱える職能も上記の理由でバリスタに求められます。

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 イタリア人に言わせると、カラメルを加えたりするアレンジカフェを得意とするシアトル系カフェのエスプレッソは、まがい物となります。日本にいながらイタリアに近い雰囲気やメニューをお望みなら、美食の街ボローニャで誕生した「Segafredo Zanetti セガフレード・ザネッティ【clicca qui】」はいかがでしょう。同社は本国イタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国・北米・南米各国のほか東京周辺でコーヒーショップを展開中です。トリノに本社を構えるイタリア最大のシェアを持つコーヒーブランド「LAVAZZA ラヴァッツァ」や「illy イリー」も東京には進出しているので、シアトル系カフェとの違いを確かめるのも一興。しかし、それらもBanco バンコ(=カウンター)で立ち飲みするのが主流のイタリアのバールとは雰囲気が違うことも確かです。

 エスプレッソとは似て非なるコーヒーの氾濫に危機感を募らせたイタリア国内のコーヒー豆や関連機材の製造業者・組合らが、イタリアで飲まれているスタイルのエスプレッソの保護と啓蒙を目的として「Istituto Nazionale Espresso Italiano イタリア・エスプレッソ協会」を1998年に設立しました。協会では一定の技能を備えたバリスタの認証制度や国内外での講習会などを実施しています。こうした自国の伝統を墨守しようというイタリア人の気概が世界に冠たるイタリアの食文化を支えているのです。エスプレッソ同様に世界中に広まったピッツァ発祥の地ナポリで1984年に発足した「Associazione Verace Pizza Napoletana 真のナポリピッツァ協会」しかり。ローマのスぺイン広場にマクドナルドのイタリア第一号店がオープンしようとした1986年、イタリア上陸を阻止しようとピエモンテ州 Bra ブラで発足したスローフード協会誕生の経緯もまたしかり。どうやらスターバックスのイタリア上陸作戦は容易ではなさそうです。

barista-doro.jpg【Photo】Cassaで支払いを済ませた客が持ってくるレシートをさっと一瞥、湯煎したカップに鮮やかなマシン操作でカッフェを淹れる Tazza d'Oro のクールなバリスタ

 オーナーのオヤジさんやお姉さんが一切を切り盛りしているバールもありますが、大きな町のバールでは、まず Cassa (=レジ)で注文・先払いするのがイタリア式。レシートをBanco に持って行くと、バリスタが手際よくコーヒーを淹れてくれます。イタリアでは単に「カッフェ」とバリスタにオーダーすれば、エスプレッソが出てきます。」 【注1】都市部のバールでは、立ち飲みが普通。テーブル席があるバールもありますが、大方の場合、値段は立ち飲みよりも高く設定されています。ただし地方のバールでは必ずしもそうとは限りません。

 多様性の国イタリアでは、バールで飲むエスプレッソの味にも地域性が表れます。北部では豆の焙煎が南部に比べると浅く、4~5口で飲み干せる量。それが南へ向かうにつれて量が少なくなり、ナポリ以南では厚めのカップの底に申し訳程度に入っているかのよう。焙煎がぐっと深くなる上、凝縮度も増してゆくのがわかります。少なくともスプーン2杯は砂糖を加えてカッフェを攪拌し、ちびちびとではなくクイッと飲み干すのがイタリア式の粋な飲み方。私も本格的なエスプレッソには必ず砂糖を入れるようにしています。そのほうが苦味に柔らかさが加わり、美味しくカッフェを飲むことができます。

【Photo】Pantheon パンテオン(写真奥)がある Piazza della Rotonda ロトンダ広場から少し陰に入ったところにあるTazza d'Oroタッツァ・ドーロ

pantheonecaffe.jpg  私がイタリアで飲んだ数あるカッフェの中で最も感動したのは、ローマのパンテオン近くにあるバール「Tazza d'Oro タッツァ・ドーロ」のエスプレッソとカプチーノでした。 【注2】天才画家ラファエロや初代イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ二世の墓所でもあるパンテオン。建築史の奇蹟といわれるローマ時代の遺構そのままのクーポラに穿たれた天窓から光射す静謐な空間を味わうため、観光客でごった返す前を狙って早朝に訪れたパンテオンの扉は未だ閉ざされたまま。係員に確認した入場開始時刻の8 時半まで時間を過ごすために立ち寄ったのが Tazza d'Oro でした。8 時前というのに、すでにBanco では常連と思しき数名が、カッフェを飲みながら思い思いの時間を過ごしています。

caffetazzadoro.jpg  湯煎したデミタスカップで出されたエスプレッソは、表面を厚い褐色のクレマ(泡)で覆われ、キメの細かなクレマの上にグラニュー糖を加えても一向に沈む気配を見せません。おぉ、さすがはローマ一との呼び声高い店のカッフェ。芳醇なエスプレッソの香りを閉じ込める見事なバリスタの技です。深煎り豆特有の甘味と雑味のない苦さの絶妙なマッチングが華やかなアロマとあいまって、口腔から鼻を豊かに満たしてゆきます。そのあまりの美味しさに、パンテオンを訪れた後、再びカプチーノを飲みに立ち寄った次第。

cappucino-doro.jpg 「また来たのか」と顔に書いてあるバリスタが鮮やかな手つきでいれたふんわりとしたフォームドミルクと絶品エスプレッソが織り成すカプチーノには再びやられました。ここはオススメです。パンテオンの目の前という場所柄、私のような観光客も見かけますが、地元ローマっ子がふらっと立ち寄り、新聞を読みながらさっと一杯引っかけて店を後にしてゆきます。自家焙煎のコーヒー豆にも定評があり、自宅で楽しむために豆を買い求める客も多い名店です。私も土産用に豆を買い求めたのは申すまでもありません。

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Tazza d'Oro タッツァ・ドーロ
  Via degli Orfani, 84 (Pantheon) - 00186 Roma
  http://www.tazzadorocoffeeshop.com/

【注1】カプチーノは朝しか飲まない。食後の一杯はエスプレッソに限る。これがイタリア人の常識。観光客が多い大都市ではそうでもないが、小さな町のトラットリアやバールで食後や昼時間帯以降にカップチーノを頼むとカメリエーレやバリスタに変な顔をされるかも?

【注2】Tazza d'Oro のカッフェに感銘を受け、バリスタを志したというのが仙台市泉区桂にあるカフェ兼自家焙煎コーヒー豆店「Bal Musette バル ミュゼット」のオーナー川口千秋氏。Tazza d'Oro と 同じ "La Casa del Caffé"(=カッフェの館)を名乗る川口氏の店。エスプレッソとカップチーノ用スチームに専用の加熱機能を備えた"ダブルボイラー方式"を採用するフィレンツェ製の至高のエスプレッソ・マシン「La Marzocco ラ・マルゾッコ」を操作して、とろけるようなフォームドミルクで覆われたコクのあるカップチーノ(テーブル着席料金¥500 /Banco立ち飲み料金¥320)を飲ませてくれる
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Bal Musette バル ミュゼット
  仙台市泉区桂 4-5-2 TEL&FAX 022(371)7888
  11:00~22:00(日祝~19:00)木曜定休
  http://www.bal-musette.com/index.html

2007/08/21

ヴェネツィアン・グラス

涼やかなワイングラスで乾杯 

 この夏、仙台では観測史上最高の37.2℃を、そして日本の最高気温記録を74年ぶりに塗り替える40.9℃を埼玉と岐阜で記録しました。ふぅ~、毎日暑い日が続きますが、皆さん夏バテしていませんか? こんな酷暑の季節、ワインラヴァーの方は15℃~18℃が適温とされるタンニンが多いブルボディの赤ワインよりも、白ワインや泡もの(=スパークリングワインの別称)を楽しまれることでしょう。白ワインの場合は8℃~9℃、スパークリングワインなら4℃~8℃の適温まで氷水を入れたワインクーラーで冷すと、より美味しく感じられます。その際、発汗による涸渇感を癒そうと冷凍庫でキンキンに冷しすぎるのはブドウ由来のアロマ(=香り)を封じてしまうので禁物です。

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【Photo】イタリア・ヴェネト州ヴェローナからヴェネツィアに向かう途中にある Illasi イラージ地区clicca qui 産のシャルドネ100%で仕込まれたFrizzanteフリッツァンテ(弱発泡)「Le Vacanzeレ・ヴァカンツェ」(=ヴァカンス)。日本での売価は1,000円前後と非常に手頃なので、その名の通りリラックスしたシーンでよく冷して気軽に楽しみたい

 泡もの=シャンパンと日本では捉えられますが、この「シャンパン」の語源は明らかにフランス・Champagne シャンパーニュ地方産の同名のスパークリングワインの名前からきています。シャンパーニュ産以外の泡ものは Vin Mousseux ヴァン・ムスー(≒泡のワイン)とひと括りで語る誇り高きフランス人の前で混同は慎みましょうね(^ ^;。シャンパーニュがシャンパーニュたる所以(ゆえん)は、
1 : ピノ・ノワール、ピノ・ムニエ、シャルドネの三種のブドウを混醸または単独で使うこと
2 : タンク内で一次発酵を終えたワインを瓶詰めする際、酵母と糖分を加え、「瓶内ニ次発酵」により炭酸ガスとアルコールを発生させ最低15ヶ月熟成させること
3:フランス・シャンパーニュ地方産であること の三点です。

2:の工程で発生する澱を除くために、斜めにして寝かせている瓶を何度かに分けて回し、-20℃ほどの塩化ナトリウム水にボトルの先を浸して凍らせた澱を炭酸ガスの力で飛び出させる作業が伴います。もとよりフランスのブドウ産地としては条件が厳しい最北に位置するシャンパーニュは、こうした手間を要するという理由から、概して価格が高めに設定されるようです。(注1)
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【Photo】イタリア・ロンバルディア州のフランチャコルタでは、「Metodo Classico メトード・クラシコ」ないしは「Metodo Tradizionaleメトード・トラディツィオナーレ」という、シャンパーニュ地方の修道僧ドン・ペリニョンが編み出した瓶内二次発酵を経て、澱抜きをする生産方式と同じ造りをしている

 かたや北イタリア・ロンバルディア州産の「Franciacorta フランチャコルタ」は、ここ20年でイタリア最高の発泡性ワインとして急速に名声を上げています。この辛口の Spumante スプマンテ(=伊産スパークリングワインの総称)は、ピノ・ネロ(ピノ・ノワールの伊名)、ピノ・ビアンコ(仏名ピノ・ブラン)、シャルドネの3種を使い、シャンパーニュよりも長い最低25ヶ月(うち 2:の瓶内二次発酵期間が最低18ヶ月)に及ぶ醸造所での熟成を義務付けられています。にもかかわらず、シャンパーニュと比べて値段が手ごろなのは嬉しいところ。産地は州都ミラノの東方80キロにある Brescia ブレッシャから Lago d'Iseo イゼーオ湖にかけてのエリア。(注2) シャンパーニュと同様の製法(ただし最低熟成期間は9ヶ月以上)で作られる割には高いコストパフォーマンスが魅力のスペイン産 Cava カヴァともども、泡ものの選択肢に加えてみてはいかがでしょう。

brachetto.jpg【Photo】チンクエテッレを経由してたどり着いたポルトヴェーネレのバールでひと休み。そこで飲んだのがこのグスタフ・クリムトが描いたニンフたちが舞うエチケッタが秀逸な「Brachetto d'Acqqci ブラケット・ダックイ」。奥のグラスを見ての通り、濃い目のロゼといった方が正確な色調をしたこのフリッァンテの生産者は、Nizza Monferratoニッツァ・モンフェラートにある Scrimaglio スクリマリオ。同社は FIAT や Alfa Romeo ブランドとのタイアップワインcliccca qui も手掛ける

 瓶内二次発酵を行わなわず、タンク内で二次発酵を行う醸造法が「シャルマ方式」。量産が可能なこの方法で作られる Piemonte ピエモンテ州産の甘口の白 Asti アスティ、同赤 Brachetto d'Acqqci ブラケット・ダックイ、イタリア北東部 Veneto ヴェネト州産の辛口白 Prosecco プロセッコは、おおよそ1,000円台のリーズナブルな価格で売られ普段飲みにピッタリ。瓶内二次発酵をさせる良質なスパークリングワインが持つキメ細やかな持続性の強い泡立ちには及びませんが、適度なボディと細やかな泡立ちを兼ね備えたプロセッコは、食卓のオールラウンドプレーヤーといえましょう。スパークリングワインの炭酸ガスは、ブドウ由来の酸味をより鮮明に浮き出させる働きをすると同時に、キリリとした辛口感を強調してくれます。

 スプマンテはガス圧が3気圧以上と規定されていますが、実際の製品は6気圧前後。「食事中に泡の強いスパークリングはちょっと・・・」という方もおいででしょう。そんな方にはガス圧が1~2.5気圧の弱発泡性ワインを意味する"Frizzante"とエチケッタ(=ラベル)に表記された白ワインはいかがでしょう。きっと涼やかなアペリティーヴォ(=食前酒)代わりにもなってくれます。モスカート(=マスカット)種の繊細な香りを残すためにアルコール度数を低く抑え(約5%)た Moscato d'Asti モスカート・ダスティは、食後のフルーツやドルチェと楽しむのにピッタリ。最良のモスカート・ダスティは特別な食事の最後を締めくくるのにふさわしいものです。

caudorina.jpg【Photo】3代目の現オーナー Romano Dogliotti ロマーノ・ドリオッティ氏が家族で営む Caudrina カウドリーナというCantinaカンティーナ(=造り手)のモスカート・ダスティ「La Galeisa」。完熟したマスカットのピュアで繊細な甘さ、クリーミーな泡立ちを備えた秀逸なモスカート。極甘口のデザートワインが苦手な方でも爽快なモスカート・ダスティは美味しく飲めるはず。ピエモンテ州アスティ県 Isola d'Asti イゾーラ・ダスティのエレガントな☆付きリストランテ兼ホテルの Il Cascinalenuovo イル・カッシナーレヌオヴォで

 スパークリングワインの細やかな泡を目でも楽しむのならば、細長いフルートグラスが一番。指先でグラスの脚を回すと、グラスの底から立ち上る幾筋もの細かな泡が螺旋(らせん)状に立ち上ってきます。ワインの特徴を味わうための機能を追及したワイングラスとしては、オーストリア製の「RIEDEL リーデル」が有名です。ブドウの品種ごとに細分化された幅広いラインナップを揃える同社のグラスは、どれも機能性優先の無機的なフォルムをしています。ひとつのワインをフォルムの異なるグラスで飲んでみると、微妙に味わいが変わって感じられます。赤・白各2種類ずつベーシックな形(クリスタルガラスを使用した主力の「vinumヴィノム」シリーズ 赤ワイン用⇒ボルドー&ブルゴーニュ、白ワイン用⇒シャルドネまたはソービニョン・ブラン&モンラッシェ。泡もの好きの方は前者いずれかとシャンパーニュまたはキュヴェ・プレスティージュ)を揃えれば充分でしょう。ガラスに占める酸化鉛の割合が25%以上のクリスタルガラスは、高い透明度と光の屈折率によって、まばゆい輝きを放ちます。乾杯の際には澄んだ音色と長い余韻をもたらしてくれるでしょう。

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【Photo】ヴェネツィアの中央を逆S字に貫く大運河 Canal Grande カナルグランデに架かる Ponte dell'Accademia アカデミア橋の上からサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂方向を望むと、カンツォーネを熱唱する歌い手を乗せたゴンドラが数艇横並びで進む映画のワンシーンような光景と出合った。光と水が織り成す多彩な表情を見せる水の都は、このような非日常のドラマチックな場面がよく似合う

 前置きが長くなりましたが、まずはこうした基本を踏まえた上で、今回の主役は機能性を追及するグラスと対極にある装飾性の高いワイングラスです。爽やかな白ワインにぴったりの軽やかで涼しげなこのグラスにまつわる物語の舞台は水の都 Venezia ヴェネツィア。そこはアドリア海の上に築かれた唯一無二の街です。"●●のベニス"という表現をされる都市がほかにいくつかありますが、"アドリア海の真珠"とも称えられる水の都の本家はさすがに格が違います。"北のベニス"ことブルージュやサンクトペテルブルグ、あるいは"東洋のベニス"こと蘇州やバンコクなどのように、数多くの運河や水路が縦横に刻まれているのではなく、街自体が Laguna ラグーナと呼ばれる浅瀬の海の中に木杭を打ち込んだ基礎の上に造られています。つまり海の上に人間が築いた、いわば海から生まれた街なのです。今もヴェネツィア市長には海に指輪を投げ入れて海との結婚を宣言するという、かつては共和国のドージェと呼ばれる元首が行っていた重要な儀式を執り行う役割が課せられます。世界広しといえどもこのような街が他にあるでしょうか。

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【Photo】ガラスの島ムラーノ島で。熱したガラス種を自在に操り、さまざまな表情を持つ製品に仕上げるマエストロの技は見事の一言に尽きる

 外敵の侵入を拒む天然の要害ラグーナの中に築かれたこの街が手に入れたのは、828年にエジプトのアレキサンドリアから二人の商人が持ち帰ったとされる聖マルコの遺骸だけではありません。1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を発見するまでは、欧州で珍重されたシルクや香辛料などの東方交易を通じて莫大な富を手に入れます。東方商人が去来したヴェネツィアの街は、サン・マルコ寺院のファサードを見ても明らかな通り、ビザンチンと東洋の香りを色濃く漂わせています。

impossibile.jpg【PHOTO】ムラーノ島のガラス工房直営のショップ。レース模様が鮮やかな緑色と交差する脚付きボウル(上段中央)や最もヴェネツィアングラスらしい色といわれる真紅の作品(中段)が目を引いた。ガラス職人が得意な作風によってクラシックなデザインからモダンなものまで店の品揃えの傾向が分かれる。世界的な観光地でもあるヴェネツィアゆえに、ムラーノ島のガラス工房直営店といえども「ベニスの商人」たちの値付けは強気。ヴェネツィア本島の方が概して安かったりするが、ムラーノ製以外(→Made in China )のものもあるので要注意

 15世紀から17世紀にかけてヴェネツィア共和国が欧州で独占したのが、つながりが深かったビザンチンから10世紀頃に伝わったとされるガラス製造の技術。紀元前1世紀のローマ帝国時代に現在のシリアで編み出されたとされる宙吹きガラス製法は、水の都で独自の発展を遂げ、ヴェネツィア共和国の重要な交易品となってゆきます。ガラス職人の組合ができた13世紀にヴェネツィアのガラス工房は本島の北1.5キロにある Isola di Murano ムラーノ島へと集約されます。これによって、火災の危険が伴う火を使う工房を本島から隔離し、高度な技術の流出を免れようとしたのです。以来、ヴェネツィアのみならず、イタリア国内では「ムラーノグラス」と呼ばれるようになりました。15世紀に生まれたエナメルの絵付け装飾を施した彩色ムラーノグラスは、当時の王侯貴族たちから大いにもてはやされます。鉛を用いる技法が生み出されるまでは困難とされた透明のガラス Cristallo クリスタッロの製造にこぎつけたのもこの時代でした。

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【Photo】腕の良いマエストロの手にかかったガラスほど薄くて軽い。ソーダガラスは彩色ガラスに加工しやすい特性がある。最も難しいとされる真紅のグラスは金の溶液を混ぜて、銅とコバルトの化合物を混ぜると青いガラスになる。ワイングラスのステム(=脚)にアップリケ装飾や白鳥・イルカなどの繊細極まりない装飾が施されたワイングラスの数々。便乗値上げが相次ぐ結果を生んだユーロ導入前の今から13年前に一脚2万円以上したこれらのグラス。ワイングラスという実用品よりも、むしろ芸術品の域に達している。日本に持ち帰るには破損のリスクが大きいので、喉から手が出るほど欲しかったが泣く泣く断念した
 
 ムラーノグラスは16世紀に最盛期を迎えます。花や星形の模様が幾つも並ぶ Millefiori ミッレフィオーリcliccca qui という技法や、大理石状に色とりどりのガラスが流紋を描く Marmo マルモ(=マーブル)ガラスclicca qui 、細長い色ガラス(白であることが多い)棒をガラス玉に巻きつけて交差したレース状の文様を付ける Retticello レティチェッロclicca qui、氷の裂け目のような細かいヒビをつけるアイスクラックという技法や、表面にさざなみのような筋をつける技術、金箔をガラス種に付けたまま吹き竿で膨張させて細かな金模様を付ける従来からの技法に加え、金粉を使用する方法など、今日も受け継がれるヴェネツィアン・グラスの伝統技術があらかた出揃いました。
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【Photo】無機的なクリスタルガラスではなく、ソーダガラスを使用したムラーノグラスは口当たりが柔らかい。ワインの色調を目で確認するためには、透明のグラスが好都合。ということで、筆者がムラーノで選択したのはこのワイングラス

 富の独占を目論んだ共和国の為政者は、ガラス職人に高い地位を与えました。ガラス職人の娘が共和国の有力者の子息と結婚するケースもあったとか。しかし職人たちがムラーノ島から外に出ることを決して認めませんでした。そのため親から子へと技は受け継がれてゆきました。華麗なムラーノグラスに対する需要は多く、16世紀以降は密かに島を抜け出して共和国の手が届きにくい英国やオランダなどに渡る職人も増え始めました。そうした職人の手になる製品はフランス語で"ヴェネツィア風の"を意味する「Façon de Venise ファソン・ド・ヴニーズ」と呼ばれたとか。

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【Photo】ゴンドラが往く水面に刻まれる渦巻きを彷彿とさせるムラーノグラス

 刻々と変わる光の具合でさまざまな表情をみせる水に囲まれたヴェネツィアに暮らす人々だからこそ、かくも繊細極まりない芸術品のようなガラス工芸を生み出したのではないでしょうか。光と影が交差する運河の水の面は、ゆらめく万華鏡のよう。海水に浸食され朽ちつつある建物の外壁には、光を写してゆらゆらとうごめく水紋が反射しています。この町に暮らす人たちは、水に囲まれた暮らしの中で、さまざまな表情を持つ水を映し取ったかのようなガラスを作り出したのです。

 さて、今夜のワインはCampania カンパーニャ州の傑出した白ワイン用土着品種 Fiano フィアーノ種を造らせたなら三本の指に入るとの呼び声高い「Guido Marsella グイド・マルセッラ」の手になる「Fiano di Avellino フィアーノ・ディ・アヴェリーノ'04」。カンパーニャ州でも内陸部に位置する街Avellino周辺は、南のバローロともいわれる偉大なワイン「Taurasi タウラージ」の産地でもあります。街の北西、山裾のSummonteスモンテ地区にカンティーナ兼アグリツーリズモ「Marsella」はあります。オーナーのグイド・マルセッラ氏が10ヘクタールの畑でワイン造りを始めたのが1997年から。海抜700mを越える畑で育てられるブドウは、昼夜の寒暖の差が大きな厳しい気候条件のもとで、通常の顆粒より小さく、凝縮した高い品質のブドウとなります。マルセッラ氏が造るのは、フィアーノ・ディ・アヴェリーノのみ。生産1,500ケースだけの希少なこのヴィーノは、ソレント湾を望む南イタリアきっての名リストランテ「Don Alfonso 1890」のワインリストにオンリストを果たしています。


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 このヴィーノのために私が選んだのは、金粉装飾が輝く愛用の白ワイン用のヴェネツィアングラスです。ドラマチックに表情を変える劇場都市ヴェネツィアならではの華やかな雰囲気を漂わせる軽やかなムラーノのワイングラス。一方でワインを味わうための機能を極限まで理詰めで追求し、究極の「器具」を目指すゲルマン系のRIEDEL。方向性が全く異なるふたつのグラスを眺めるうち、「こんなところにも国民性が表れるのだなぁ」と、愉快になるのでした。
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【注1】シャンパーニュは、ブドウの自家栽培・自家醸造を行う小規模な Maison メゾン(=生産者)の手になる「レコルタン・マニピュラン」(RMとエチケット〈=ラベル〉に記載)と、買い付けたブドウや原酒も使い生産量も多い大手の「ネゴシアン・マニピュラン」(NMと記載)、日本にはほとんど輸入されない生産者組合の製品「コーペラティブ・マニピュラン」(CMと記載)などに大別される。作り手の個性が直接表れるRMは約4,800軒。かたやNMは280軒ほどだが、ごく最近まではNMが圧倒的に市場を支配していた。生産量全体の8割を占めるノンヴィンテージ(NV)シャンパーニュは、自家栽培以外の複数の原料を混醸し、一定の味を作り上げる場合が多い。作柄の良い年に生産されるヴィンテージ・シャンパーニュで最低3年、大手のNMが造る高級シャンパーニュ(プレステージ・シャンパーニュ)は最低5年の瓶熟を行うが、その分価格も釣り上がる。私見では酒質が値段に見合ったものかどうか、ブランドだけで選ばない方が得策

【注2】ブレッシャはイタリアサッカーファンにとって、史上5人目のセリエA 200ゴールの記録を持ち「イタリアの至宝」といわれたファンタジスタ、ロベルト・バッジョ【click!】が現役最後に所属したクラブの本拠地として記憶されている。バッジョ自身は生まれ故郷のヴェネト産スプマンテProseccoがお気に入りだと言っている。やはりイタリア人の郷土愛は強いようだ

2007/08/10

チョコレートの街 トリノ

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【Photo】テッラ・マードレに集った世界の料理人たちをピエモンテの料理人がもてなす目的で開催されたレセプション会場で。トリノのシンボル「モーレ・アントネッリアーナ」をかたどった精巧な飴細工

 Cioccolato チョッコラート(=チョコレート)を抜きにしては語れない街、それがトリノです。トリノでは年間8万5千トンのチョコレートが生産され、8億5千万ユーロ(=約1,360億円)の歳入をこの街にもたらしています(2002年データ)。トリノがヨーロッパのチョコレート文化発展に果たしてきた役割は、とても大きなものでした。

 チョコレートの原料となるカカオ豆は南米大陸が原産地。インカやアステカでは、焙煎したカカオ豆をペースト状にして、バニラビーンズや唐辛子・香辛料を加えて飲料として飲んでいました。1528年、圧倒的な武力をもってアステカを征服したスペインのエルナン・コルテスは、さまざまな略奪品とともにカカオ豆を時のスペイン王カルロス一世に献上します。こうしてヨーロッパに初めてカカオ豆がもたらされました。しかし、アステカで飲まれていた「ショコラトル(xocolatl )」というカカオ飲料は、インディオの言語ナワトル語で苦いを意味する「ショコク(xococ)」と、水を指す「アトル(atl )」が組み合わされた呼び名通り、カカオ豆由来の苦味が強いものでした。そのためスペイン人の口には合わなかったようです。間もなくカカオに砂糖を加えて口当たりをよくする工夫がなされ、一気にスペインの王族たちにホットチョコレートは広まってゆきました。

cioccolatacalda.jpg【Photo】「チョコラータ・カルダ」=温かいチョコレートの名前通り、この濃厚なホットチョコレートドリンクは冬場のトリノに欠かせない

 近世から19世紀初頭のヨーロッパでは、甘いものは贅沢品でした。よって、新大陸から伝わったこの飲み物は、王族や貴族などの特権階級だけが楽しんでいました。スペイン王室と婚姻関係を持ったハプスブルグ家やブルボン家にもホットチョコレートは伝わりましたが、製法は対外的には秘匿されていたのです。(注1)

 ここに仙台藩祖・伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団が、スペインで日本人として初めてチョコレートを口にしたのではないか?という仮説が生まれます。石巻郊外「月の浦」を出港後、メキシコ経由で一年近くを要して1614年にスペインに上陸した使節団。一行に同行したスペイン人宣教師ルイス・ソテロの故郷セビリアで大歓迎を受けた彼らは、意気揚々と首都マドリッドに入ります。翌年早々に国王フェリペ3世との謁見も実現、一行を率いた支倉常長は、国王列席のもとそこで洗礼を受けています。残念ながら、常長が記した滞欧日記が今日では散逸してしまったため、あくまで推測の域を出ませんが、国王は表向き使節団を歓迎していたので、延々8カ月に及んだ使節のマドリッド滞在中、彼らがチョコレートドリンクを口にしたとしても不思議ではありません。進取の気性に富んだ政宗が遣わした伊達者にふさわしい逸話ですね。

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【Photo】トリノ サン・カルロ広場の中央に建つエマヌエーレ・フィリベルトのブロンズ像
 

 話をトリノに戻しましょう。サヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトclicca quiは、1550年前後に繰り広げられた対フランス領土戦争でスペイン軍を指揮します。その折にスペイン王カール5世からホットチョコレートを勧められて口にしたようです。美食家であったフィリベルト公は、そのエキゾチックな飲み物を気に入り、1563年、サヴォイア王国のトリノ遷都を祝って「cioccolata チョッコラータ」と今でも呼ばれ親しまれているホットチョコレートを市民たちに振舞いました。1587年、フィリベルト公の息子カルロ・エマヌエーレ一世と、スペイン王フェリペ二世の娘カテリーナ・ミカエーラの婚礼の席でも参列者たちにホット・チョコレートが出されたといいます。

 チョコレートの歴史において転換点となったのは1678年。夫カルロ・エマヌエーレ二世が亡くなった後、サヴォイア公国を摂政として統治していたマリーア・ジョヴァンナ・バッティスタclicca quiが、ジオ・アントニオ・アッリという菓子職人にチョコレートの製造と一般向けに販売する権利を6年に限って認めたのです。(注2)これをきっかけに、多くのチョコレート職人がトリノへと集まりました。それまで特権階級が独占していたチョコレートは、トリノからサヴォイア公国の領土だったスイス・フランス東部へと広まってゆきます。こうして大衆向けにチョコレートが作られるようになり、トリノで修行した職人たちによって、現在チョコレート産業が盛んなスイス・ベルギー・パリなどでチョコレート文化が花開いてゆくのです。18世紀、チョコレート文化の中心都市となったトリノからは、ヨーロッパ一円に毎日340キログラムものチョコレートが輸出されていました。

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【Photo】ノッチオーレ(写真右)とジャンドゥイオッティ

 トリノ発祥のチョコレートとして、一個ずつ金銀の包装紙で被われた「Giandujotto ジャンドゥイオット」(複数形で Giandujotti ジャンドゥイオッティとも呼ばれる)を忘れてはなりません。ピエモンテ州ランゲ地方では「丸々と太った紳士」を意味するTonda Gentile とも呼ばれる特産の Nocciole ノッチオーレ(=へーゼルナッツ)のペーストとチョコレートを混ぜたこのチョコレート菓子の誕生の経緯には、かのナポレオン・ボナパルトが絡んでいます。

 産業革命による経済成長が著しかった大英帝国の囲い込みのため、ナポレオン一世は1806年にヨーロッパ諸国に対し、英国とその植民地との交易を禁じる「大陸閉鎖令」を発令しました。イギリス側も対抗措置としてフランスに対する海上封鎖を実施。そのため大西洋を越えて新大陸から輸入される原料のカカオ豆が激減、わずかに確保された豆の価格も暴騰しました。それによって、当時フランスの支配下にあったサヴォイア王国の首都トリノでは、チョコレート産業が大きな打撃を受けたのです。とはいえ、甘美なチョコレートを渇望する声は衰えませんでした。やがてミケーレ・プロシェという菓子職人が、地元ピエモンテ・ランゲ地方の特産だったヘーゼルナッツを粉末にして、チョコレートに混ぜた代用品を生み出します。「必要は発明の母」を地でゆく滑らかな口どけを持つこの菓子は、1865年のカーニバルの際、Caffarel 社Link to Websiteによってカーニバルのキャラクターの名前に由来する Gianduiotti ジャンドゥィオッティという名で売り出されました。現在では DOC (=原産地統制呼称)で規定された25%以上のピエモンテ産ヘーゼルナッツやイタリア産アーモンドを材料に使用した製品だけにジャンドゥイオットの呼称が許されています。

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【Photo】Caffarel の「ジャンドゥィオ1865」のパッケージ(写真右)にはカーニバルのキャラクター Gianduiotti が描かれている。写真左はNocciolatoノッチョラートと呼ばれるヘーゼルナッツ入りのチョッコラート。リバティ様式のエレガントなパッケージが目を引く

 その組み合わせをペーストにした「Nutella ヌテッラclicca quiはトリノの南、Alba アルバに本社がある菓子の多国籍企業「Ferrero フェッレロ」 Link to Website(伊語のみ)〉が1964年に売り出し、世界ブランドに成長しました。Dolce Vita ドルチェ・ヴィータ(=甘い生活)な朝に欠かせないヌテッラは、パンに塗って、あるいはビスコッティにつけて食べられ、男女問わず熱烈なファンが多いといいます。日本にはオーストラリア製の製品が輸入されているので、豪州のものだと思っていた方もおいでなのでは?同社は世界で最も売れているチョコレート菓子だというヘーゼルナッツを使用した丸い形の Rocher ロッシェclicca quiをはじめとする多彩なチョコレート製品のラインナップを揃えます。老舗のPeyranoペイラーノLink to Websiteや、日本ではヴェンチと名乗っている Venchi ヴェンキLink to Websiteなどの大手から、イタリアにおけるアール・ヌーボー様式を指す Stile Liberty (=リバティ様式)の内装が見事な Baratti&Milano バラッティ&ミラノなどのカフェ、そして小規模な菓子工房に至るまで、数多くのチョコレートが今もトリノで作られています。
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【Photo】チョコレートの街トリノでは、さまざまなCioccolatoが作られている

 そんなチョコレートの街トリノが一層チョコレートの甘い香りに包まれるのが、毎年春先に開催されるチョコレートの祭典「CioccolaTÒチョコラート」です。ネーミングの由来は Chiccolato チョッコラートと Torino の語呂合わせですね。年々規模を拡大し2007年で5回目の開催を迎えたこのイベント。トリノにチョコレートをもたらした恩人エマヌエーレ・フィリベルト公の騎馬像が建つサンカルロ広場や、ヨーロッパ最長の1km に及ぶポルティーコ(前回「そしてトリノ」参照のこと)で囲まれたヴィットリオ広場や市内各所のPasticceria パスティチェリア(=菓子店)、カフェなどが参加して行われました。地元ピエモンテを始め、世界中のチョコレート職人が優れた菓子作りの技を披露したのはもちろん、プロの料理人が料理の素材としての可能性を提案したり、子ども向けのワークショップや工場見学など、多彩なプログラムが組まれました。10日間の会期中、およそ90万人がこの催しに参加して、5.2トンに及ぶチョコレートが売買され、1万杯のチョコレートドリンクが飲まれました。 食に関するイタリア人の関心の高さには、いつも感心させられます。

 当初は"飲むもの"だったチョコレートの原型を窺わせる飲み物が「Cioccolata calda チョッコラータ カルダ」(=温かいチョコレートの意味)。1828年にオランダのバンホーテン社がカカオ豆の脂肪成分(カカオバター)を取り除いて製品化した現在のココアよりも、濃厚なトロトロのホットチョコレートと表現すればよいでしょうか。寒い季節のイタリアのBarバールの定番メニューとして登場する通称「チョッコラータ」には、使用するチョコレートの種類別(ビター・ミルク・ホワイトなど)はもちろん、グラッパ・ウイスキー入りのほか、ココナッツ、マロングラッセ・ミックスベリー・ザバイオーネ入りなどの豊富なメニューが目白押し。冬にイタリアを訪れたならば、ぜひお試しを。

pasticceria.jpg【Photo】Torineseトリネーゼ(=トリノっ子)は老若男女問わずドルチェには目がない。パスティチェリアでは誰もが目を輝かせる

 チョコレート好きな方にオススメしたいのがトリノ市内の観光案内所(9:30AM~9:30PM)で扱っている「Chocopassチョコパス」。このカードを提示すると、協賛しているパスティチェリアやクラシックなカフェでチョコレートやジャンドゥィオッティの試食ができます。一定額以上の買物をすると5%~10%の割引サービスが受けられる場合も。24時間有効の10回券(10エウロ)と48時間有効の15回券(15エウロ)の2種類があります。対象店舗が多い48時間券のほうがバリエーション豊かなトリノのチョコレート文化に触れることができますが、日曜日や午後の早い時間帯と6月末から9月にかけてのヴァカンスシーズンは、店に行っても閉まっていたなんてこともあるので要注意です。美しくディスプレーされたチョコレートの買いすぎと食べすぎにはくれぐれもご用心を。なぜなら燃料代が高騰する昨今、エアライン各社は重量制限にシビアになってきています。航空荷物が重量オーバーの場合、数万単位のけっこうな追加料金を支払わなければなりません。スーツケースの重量超過にはお気をつけ下さい。その点、食べ物が美味しい上に甘いもの天国のトリノは危険な街かもしれません。体重の超過で後々泣かないためにも、ご用心ご用心 (^_ ^)


【注1】おそらく最も名が通ったチョコレートケーキは「ザッハトルテ」だろう。ハプスブルグ家のお膝元・ウィーンで1832年に誕生したこのケーキ、現代の私たちの感覚ではかなり甘いと感じるはず。ウィーンに本店がある「DEMELデメル」が仙台の藤崎に出店している。地元ではサッハトルテと濁らずに発音されるこの濃厚なチョコトルテ。産みの親フランツ・ザッハーの味を受け継ぐのは「Hotel Sacherホテル・ザッハ 」。15年以上前にホテル・ザッハで味わったザッハトルテの甘さの記憶は今も強烈に残っている

【注2】カルロ・エマヌエーレ二世とマリーア・ジョヴァンナ・バッティスタの間に誕生したのがヴィットリーオ・アメデオ2世。世界遺産に登録されているトリノの王宮群を建て、サルデーニャ王国の国王となるなど、サヴォイア公国の基盤整備に尽力した人物だ。幼少のころ胃腸が弱かった息子のために、母は宮廷医と相談の上、パン職人に消化の良い食べ物を考案するよう命じる。職人 Antonio Brunero アントニオ・ブルネロは上質の小麦を極細挽きにして焼き上げるカリカリとした歯ごたえの細長いパンを生み出した。それが Grissini グリッシーニである。自らを"Madama Reale マーダマ・レアーレ(≒本当の夫人)"と称し、野心家でもあったこの王女は、チョコレート産業とグリッシーニの誕生にかかわり歴史に名を残したのである

2007/07/27

そしてトリノ

◆FilE7:イタリアらしからぬ街・トリノ

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【Photo】トリノのシンボルMole Antonelliana モーレ・アントネッリアーナ

 Slow な国際イベント「テッラ・マードレ」と「サローネ・デル・グスト」に参加するため降り立った街トリノ。このイタリア第4の都市は95万の人口を擁します。人口が分散するヨーロッパの基準では、"大都市"の部類に入るでしょう。トリノ旧市街の中心にあるPiazza Castello カステッロ広場に面して建つ Duomo di San Giovanni Battista サン・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂に磔死したキリストの遺骸を包んだと伝えられる聖骸布 Sindone が納められていることでも知られています。

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【Photo】屋上に周回テストコースがある巨大な FIAT の旧本社工場リンゴット。写真右の大きな建物がサローネ・デル・グストの会場となる「リンゴット・フィエーレ」。手前はリンゴット鉄道駅。巨大な赤いアーチの手前には、トリノ五輪で選手村となった施設 Villagio Olimpico ヴィラッジョ・オリンピコがある( Photo:Torino市webサイトより)

 自動車メーカー FIAT Autoフィアット・オートのほか、フェラーリ・アルファロメオ・マセラッティ・ランチアといった名門メーカーを傘下に納める FIAT フィアットLink to Websiteは、トリノに本部を構える自動車を中核とするイタリア最大の企業グループ。国内自動車生産台数の7割以上を占めるトリノは、イタリア自動車産業の中心都市というのが一般的なイメージかもしれません。FIAT の社名は Fabbrica Italiana Automobili Torino (トリノのイタリア自動車工場)の頭文字を並べたもの。Bayerische Motoren Werke (=バイエルンのエンジン工場)の頭文字を社名としたドイツ南部バイエルン州ミュンヘンが本社の BMW と同じですね。

 長らく業績低迷が伝えられたFIATですが、ここにきて復活の兆しが。2005年に発売した Grane Punto グランデ・プントは、2006年の欧州27ヶ国での販売台数が対前年150%を記録して好調。創業100周年の'99年に導入した青地ベースの旧ロゴマークclicca quiを赤地ベースに一新clicca quiした2007年。7月に往年の名車 500(チンクエチェント)を50年ぶりにリニューアルしました。最近ではBRICs諸国の自動車メーカーと積極的に業務提携するなど、攻勢に転じています。
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【Photo】2007年7月、トリノで発表された新型チンクエチェント。50年前に発売されて以降、これほど広くイタリアの人々に愛された車はないだろう。ノスタルジックな雰囲気をうまく融合させた新型は、グランデプントと並ぶ新生FIATの自信作(Photo:FIAT webサイトより)
▼FIAT・Alfa Romeo正規ディーラー「ideal 」サイトはこちら⇒ideal_hp.jpg 

 フェラーリやアルファロメオなどの車のデザイン・設計・生産を手掛ける「Pininfarina ピニンファリーナLink to WebSite、プロダクトデザインの巨匠ジウジアーロ率いる「Italdesign イタルデザインLink to Websiteなど自動車関連企業もトリノに本拠地を置きます。私たちが参加したサローネ・デル・グストの会場となった「Lingotto Fiere リンゴット・フィエーレ」は、FIAT の旧工場「Lingotto リンゴット」跡地を再開発した一角に作られた国際コンベンション施設です。1923年より稼動した FIAT の生産工場は、1階の部品加工から始まる流れ作業を各フロアで進め、螺旋状のスロープで完成ラインの5階まで上がってゆく画期的な構造で、屋上には全長1,100メートルに及ぶテスト走行コースを備えていました。1982年に閉鎖された旧工場跡は、現在1・2階が「8 Gallery オット・ギャラリー」という名の広大なショッピング・飲食(内容は...)・映画館などの複合施設に、3・4階はホテルに生まれ変わっています。

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【Photo】かつてはFIATの生産ラインだったリンゴットのスロープ。複合商業施設「8 Gallely 」に生まれ変わった今は、ショッピングを楽しむ人々が行き交う。頭上を見上げると、ベルトコンベアを車の生産ラインに導入し、欧州で初めて流れ作業を実現させたスロープがらせん状に伸びていた

 2007年1月27日、オット・ギャラリー北側隣接地に欧州最大規模の食のテーマゾーンが誕生しました。その名も「Eataly Torino イータリ トリノ」。Eataly は、"Eat" と"Italy"の英語を掛け合わせた造語です。ここは質の高いイタリア食材を扱うオンラインショップ「Eataly」clicca quiが経営するイタリアを中心にEU各国の食品・飲料を取り揃えた食のテーマパークというべき施設です。スローフード協会もプランニングに参画したこの施設は、4年の準備期間を経て建設されました。ワイン醸造家によるセミナーや有名シェフによる調理講習会が定期的に行われて人気を博しているようです。その中には2007年3月に宮城・ローマ交流倶楽部が招聘して仙台でピエモンテ料理を紹介したステファーノ・パガニーニ氏も含まれています。

stefanopaganini.jpg 【Photo】2007年3月、仙台国際ホテルでピエモンテ料理を紹介した際のステファーノ・パガニーニ シェフ

 イタリア旅行情報で、信頼が高い「ツーリング・クラブ・イタリアーノ」2007年版が選ぶ「明日のトップシェフ四人」の一人に選ばれた26歳のパガニーニ氏は、ピエモンテ州クーネオ県Canaleカナーレにあるプチホテル兼リストランテ「Villa Tiboldi」で活躍中。Eataly の一階には物販と飲食ゾーンに加え、ワイン製造について学んだり、食に関する数千冊の書籍を閲覧できるスペースなどもあります。物販ゾーンには野菜・果物・鮮魚・精肉などの生鮮品から、スローフード協会がプレジディオ指定しているものを含め、150種以上のイタリア各地の食肉加工品、200種のチーズなどの食材がずらり。二階はカクテル「マティーニ」のベースとなり、食前酒としても親しまれるリキュール Vermouth ヴェルモットの製造会社「CARPANO カルパーノ」の博物館になっています。Eataly の建つ場所は、もともとカルパーノ社の製造工場だったそうです。

 トリノの基幹産業である自動車の歴史を知りたければ、ポー川沿いの大通り Corso unità d'italia (=イタリア統一通り)に面して建つ Museo dell'Automobile Carlo Biscaretti di Ruffia トリノ自動車博物館へ。無機的な外観を持つ建物内部には約170台のイタリア国内外のレーシングカーや市販された美しいスタイリングを持つ新旧の名車が展示されています。イタリア自動車産業の歩みに触れられるそこには、巨匠ジウジアーロが、自身も傑作だと自負する Alfa Brera のコンセプトプロトタイプモデルが展示されていました。
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【Photo】市販モデルとは異なり、上に跳ね上がるガルウイングドアを装備した Alfa Brera のプロトタイプ

 私が一目惚れし、衝動買いしたこのアルファロメオのクーペBrera は、トリノ近郊4ヵ所に分散したピニンファリーナの施設のひとつトリノ北部のコムーネ San Giorgio Canavese サン・ジョルジョ・カナヴェーゼで生産されます。1960年に開館したトリノ自動車博物館は、展示内容をより充実させるため、私が訪れた翌'07年4月から改装のため約一年の休館に入るとのことでした。

 そのほか、トリノに拠点を持つ企業は、ベルモットの製造元「MARTINI e ROSSI マルティーニ・エ・ロッシLink to website〉(年齢確認の上閲覧可能)、スポーツウエアの「Kappa カッパLink to Website、詳しくは次回に譲りますが、チョコレートの老舗「Caffarel カファレルLink to Website〉など。

 Calcio (=サッカー)好きにとってトリノは、イタリア一部リーグセリエAで最多の27回、ヨーロッパ・チャンピオンズリーグ2回の優勝を果たした名門クラブ「Juventus ユベントス」の本拠地として知られます。日本でも大きく報道された審判買収スキャンダルのため、2006年シーズンは二部のセリエB に降格となり、同年 FIFA ワールドカップ・ドイツ大会でのアズーリ優勝の立役者、DFカンナバーロやDFザンブロッタが移籍してしまいました。一方でチームに残留した主力のFWデル・ピエーロやGKブッフォンらが格の違いを見せつけてシーズン優勝。来季セリエA への復帰を決めました。

 トリノにはもうひとつのクラブ「Torino F.C.」が存在します。前シーズン('06-'07)、4年ぶりにセリエAに復帰したこのチームには Tragedia di Superga (=スペルガの悲劇)として語り継がれる出来事がありました。5期連続の一部リーグ優勝という偉業達成を目前にした1949年5月4日、ポルトガル・リスボンで行われた親善試合からの帰途にあったトリノF.C.の選手を乗せた航空機が激しい雷雨に見舞われました。雨と霧で視界を遮られた飛行機は、17時05分、操縦を誤り、トリノ郊外の高台にあるスペルガ聖堂の外壁に墜落。選手18名と監督らスタッフ5名を含む乗員乗客31名全てが命を落としたのです。Grande Torino (=偉大なるトリノ)と呼ばれたチームは、控えとユース選手で何とかシーズン優勝を果たします。しかしイタリア代表アッズーリにも名を連ねる主力選手たちを失った痛手はあまりに大きく、その後はセリエB に転落、長い低迷の時代を経たのです。機上から雲間に浮かぶ姿を見せたスペルガ聖堂には、今も事故の犠牲者を悼む慰霊のモニュメントclicca quiが残ります。

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【Photo】トリノ中心部から北東の郊外、海抜670mの高台の頂きに建つスペルガ聖堂

 興行用映画の撮影スタジオと「Itala Film イタラフィルム」などの映画制作会社が初めて作られたのもこの町。1930 年代、ムッソリーニが首都ローマに大規模な撮影施設 Cinecittà チネチッタを設立するまでは、トリノはイタリア映画産業の土台を支えていたそうです。現在はMuseo Nazionale del Cinema 国立映画博物館として使用されている「Mole Antonelliana モーレ・アントネッリアーナ」は、当初ユダヤ教の聖堂シナゴーグとして設計されました。尖塔は地上167mの高さに達し、1863年の建築開始当時は世界で最も高い建築物でした。高層建築物がないトリノでは、その特徴的な姿はひときわ目を引く町のシンボルとなっています。映画から派生した20世紀が生んだ映像メディア、テレビのイタリア国営放送RAIもトリノに本部を置きます。
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【Photo】老舗のカフェが軒を連ねるサンカルロ広場。取り囲む建物は一階がポルティーコ造りになっている

 もうひとつトリノの町並みで特徴的なのは Portico ポルティーコと呼ばれるアーケード。乾燥した晴天の日が多い地中海性気候のイタリアですが、アルプスが近いトリノ周辺は雲が発生しやすく、比較的雨が多いエリア。そのため、天候を気にせず街歩きができるよう、道路や広場に面した建物の一階部分が歩行者用のスペースとして確保されています。張り出し部分を支える柱状構造をもつ建物がトリノの旧市街に見かけられます。トリノ中央駅ポルタヌオーヴァ駅から北に伸びるローマ通りや、その先のサンカルロ広場一帯は、ポルティーコで覆われたエリアです。

 2006年2月には、第20回冬季五輪がトリノを主会場にピエモンテ各地で開催されたのは記憶に新しいところ。私たちが訪れた同年10月末でも、五輪のディスプレーが街角の随所に残されていました。心残りはテッラ・マードレの会場となったリンゴットから通りひとつを挟んだ至近距離にある Palavela パラヴェーラを時間がなくて訪れることができなかったこと。何故ならそこは、我が仙台で育った荒川静香選手が金メダルを獲得したフィギュアスケート競技の記念すべき舞台だったのですから。

"自動車の街トリノ"をメインにご紹介してきましたが、ここで一息。トリノのカフェに立ち寄りましょう。
と、いうことで次回はようやく食べ物の話題に戻ります。

「チョコレートの街 トリノ」へ続く

2007/07/23

モノづくり大国

 小さな子どもがボロボロになっても肌身離さず持っているぬいぐるみのように、どんな人にもお気に入りのモノがあるはず。使いやすさを追求した便利なモノ、コンパクトで多機能なモノ、デザインが秀逸なモノ etc...。技術革新が進んだ現代では、インターネットや燃料電池車のように、ちょっと前には考えられなかったようなモノすら私たちは生み出しました。
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【Photo】イタリア・トスカーナ州Monteplcianoモンテプルチアーノで立ち寄ったBottega del Rame(=銅製品工房)「Mazzetti」三代目の Cesare Mazzetti チェーザレ・マツェッティさん(66歳)。父から受け継がれた銅の加工技術と職人の誇りは、製品ひとつずつに注ぎ込まれる

 ものづくりが大きく転換したのは、18世紀後半にイギリスで始まった産業革命から。省力化・効率化による利潤の拡大を至上命題として、19世紀から20世紀かけて人類の生産効率は飛躍的に向上しました。市場の拡大によって資本が巨大化し、やがて大企業の論理が国家戦略と同義語となってゆきます。新たな富を生み出す市場と資源・労働力の確保のために、アジア・アフリカ諸国は英・仏・露・独・蘭ら西欧諸国によって次々と植民地化されてゆきました。19世紀末、大英帝国は地球上の陸地面積の5分の2を植民地化するまでになり、空前の繁栄を謳歌しました。やがて訪れた20世紀は、モノの豊かさへのあくなき希求が、戦争や格差・環境悪化といった負の現象も生み出してきたことを私たちは知っています。

 広大な国土が世界一の生産高をもたらす小麦や大豆・トウモロコシなどの農産物と、木材・鉄鉱石・石炭・石油の豊富な国内資源をもとに"モノが豊かな社会"を出現させたのは、アメリカ合衆国でした。鉄鋼・自動車・航空機などの産業が牽引したその国の豊かさは、大量生産・大量消費に支えられていました。新大陸へと渡った欧州からの移民たちは、開拓者精神を尊び、新しいものに価値を見出してきたのです。そこには、長い伝統を持つ彼らのルーツ、旧大陸こと欧州に対するアンビバレント(二律背反)な心理が働いていたのかもしれません。

 今日、GDP国内総生産でみるとアメリカがダントツで世界第一位。以下、その半分以下の数値で日本・ドイツと続きます。ひとたびは焦土と化した国土から復興を遂げた日本の躍進の原動力は、優秀な人的資源でした。高い品質の Made in Japan 製品は、電器・精密機器・自動車の分野で、世界市場を席巻しました。 Made in Germany 製品も高級自動車や化学・薬品・機械・精密機器などの分野で確固たる地位を確立しています。

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【Photo】豚肉を蒸し焼きにする銅鍋。すべてチェーザレさんが打ち出して形成する。鍋には四本の脚が付いており、姿がユーモラス。後述のワインクーラーともども欲しかったが、がさばるしスーツケースが重くなりそうだったので断念。小ぶりな型抜きをふたつ買い求めた

 20世紀末、自由競争経済がグローバルな広がりを加速させると、企業は生産コストを抑えて収益を上げる必要に迫られます。製造業の多くはアジア各地へと生産拠点を移してゆきました。それによって高い品質を売りにしていた日本やドイツは、製造コストを抑えつつ品質を維持するという命題と国内産業の空洞化という難題にも直面したのです。その中で、中国は安価で豊富な労働力を提供してきました。13億を上回る人口を抱える中国は、市場としても将来性が高いため、欧米の企業を中心に進出が進んでいます。この改革解放のうねりの中で、中国は世界市場に台頭し始めました。最近では、一部の粗悪な製品の事例が Made in China 全体のブランドイメージを失墜させています。それでも21世紀半ばには、現在のアメリカによる一極支配が崩れ、成長著しいBRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)が世界経済の命運を左右するだろうと指摘する見方も存在します。

 産業革命以降のマシンとコンピュータを駆使したモノづくりは、劇的に私たちの生活の質を向上させました。インターネットの登場によるIT革命は、更なる生活変革をもたらそうとしています。こうしてモノづくりの歩みを概観した上で改めて思うのは、実は私たちが追い求めてきたのは、暮らしの質的充実ではなく、量的な拡大だったのではないかということ。豊かなモノへの希求が推し進めた自由競争は、明と暗の側面を生み出しました。

 スピードと効率を尊ぶ経済的な成長に対する信仰は、今もなお私たちに根深く巣食っています。ほどよい人間的な尺度(Human Scale)を越えた先には真っ暗な闇が待ち受けている気がしてなりません。私たちは、高度な科学技術が破綻する場面を幾度も目にしてきました。ふと気が付くと、物質的な繁栄を謳歌してきた人類は、温暖化や人口爆発による食料と水の不足など、存亡にかかわる地球規模の環境変化にさらされています。

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【Photo】チェーザレさんは4歳の時から、お父さんや兄と工房で銅細工を作り始めたという。62年の職人としての歴史を刻んだ分厚い手に触らせてもらったが、がっちりと固く力強かった

 「ヒューマン・スケール」は、建築やまちづくりで使われる用語です。人間の体の大きさに適合して過大でも過小でもないこと、人間にとっての心地よさを大切にすることを指します。IT万能のようにいわれますが、私たちが生きているのは、バーチャルな仮想世界ではありません。モノは人間が使うもの。ボタンひとつで地球を滅ぼすことが可能な時代だからこそ、モノ造りにもヒューマン・スケールな発想が必要だと思うのです。その人間には、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の五感が備わっています。人が使って心地良いモノは、人間が五感を駆使して生み出したものではないでしょうか。マスプロダクツではない人の手がかかったモノには、時としてファンタジーやインスピレーションという第六感も加わって、えもいわれぬ味わいが生まれます。

 ・視覚に訴える "フォルムが美しいこと"
 ・聴覚に訴える "妙なる響きを奏でること"
 ・触覚に訴える "肌触りが良いこと"
 ・味覚に訴える "美味しいこと"
 ・嗅覚に訴える "かぐわしさを放つこと"

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【Photo】歴史ある銘醸「Vino Nobile di Montepulciano ヴィーノ・ノビレ・ディ・モンテプルチアーノ」の産地で育った人ならではの自ら考案したという銅製ワインクーラーを手にするチェーザレさん。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世にも銅細工を献上したことがあるという確かな技術は、ともに工房で働く息子さんに引き継がれている

 私は、この人類不変の価値観に沿ったモノつくりでは、イタリアこそが世界に冠たるモノ造り大国だと思っています。どこかしら人間臭さが感じられる Made in Italy 製品は、スペックだけでは語れない特別な魅力を醸し出します。それを支えるのは数多くのArtigiano アルティジャーノ(=職人)と、その域を超えMaestro マエストロ(=巨匠)と呼ぶにふさわしい誇り高き人たち。  いざ、麗しのモノ造りの国へ。

「水の都が生み出すヴェネツィアン・グラス」に続く 

2007/07/15

ローマ2760年の歴史を10分でおさらい

永遠の都2760年の歴史を10分で知る/後編 

 西ローマ帝国滅亡(476年)後のイタリア半島は、シチリアを含む南部をアラブやノルマンの支配下におかれ、ローマ以北はローマ法王庁直轄の教皇領や自治都市国家が群雄割拠する混沌とした状況となります。10世紀以降中世期にかけて、さまざまな民族と封建領主・諸侯による争いが繰り広げられたイタリア半島では、争いで荒廃した地方からの難民が、略奪を避けるために城壁に守られた集落に集まりました。マラリアの原因となる蚊を避けるため、丘の上や外敵の侵入を拒む難攻不落の崖の上に築かれた集落は、やがて都市へ、さらには自治権を持つ都市国家へと発展してゆきます。今もイタリア各地にそうした丘上都市が数多く見られます。
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【Photo】果実味豊かな白ワイン「Orvieto classico オルヴィエート・クラシコ」のブドウ畑の彼方、天然の要害となる崖の上に築かれた Orvieto オルヴィエート。ひときわ大きなイタリアンゴシックの Duomo ドゥオーモ(写真右)は1290年に着工、完成に300年を費やした

 イタリアンゴシックの傑作とされるドゥオーモで知られる"世界一美しい丘上都市"ことウンブリア州 Orvieto オルヴィエートや、エミリア・ロマーニャ州の中にある独立国家、切り立った岩山の上に築かれた San Marino サンマリノ共和国は、そうした丘上都市の典型です。

 そのような成立過程を持つ都市の中で、中世からルネッサンス期にかけての転換点となった15世紀、ヨーロッパでも有数の繁栄を謳歌したのがフィレンツェ共和国でした。金融業で財を成したメディチ家は、コジモ・デ・メディチからロレンツォ・デ・メディチの時代、実質的な町の支配者となります。新・プラトン主義【注1】の理想を掲げたメディチ家の庇護のもと、美術史上でも稀有な才能が集い、ルネサンスが花開いた Firenze フィレンツェ。
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【Photo】「ジョットの鐘楼」の階段414段を攻略する苦行の果てに拝めるフィレンツェのパノラマ。目の前にはブルネレスキが設計した Santa Maria del Fiore サンタ・マリア・デル・フィオーレの別名をもつドゥォーモの天蓋が迫る。鐘楼の登り口のチケット売り場には心臓に問題がある人は登らないように指示がされている

 美術愛好家のみならず世界中から多くの観光客を集める Galleria degli Uffizi ウフィッツィ美術館は、メディチ家が蒐集した膨大な数に及ぶ至高の美術品を収蔵します。Museo di San Marco サンマルコ美術館の階段の先には、大天使ガブリエルがマリアに神の子を宿したことを告げた瞬間の言葉が聞こえてくるかのような静謐な美しさをたたえたフラ・アンジェリコの「受胎告知」が。そしてティッツィアーノの肖像画の傑作「灰色の眼の男」は Galleria Palatina パラティーナ美術館の Sala di Marthe マルスの間であなたを待っています。
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【Photo】身廊にガリレオ【click!】・ミケランジェロ・マッキャベリ・ロッシーニらの墓があることでも知られるサンタ・クローチェ聖堂。内陣右側のバルデイ家礼拝堂にはジョットのフレスコ画「聖フランチェスコの生涯」が描かれている。回廊をめぐるとパッツィ家礼拝堂や付属美術館でロッビア一派による彩色テラコッタ、1966年にアルノ川が氾濫してひどく損傷した「チマブーエの十字架像」などの珠玉の至宝と出合える

 フランスの作家スタンダールが圧倒されたという Basillica di Santa Croce サンタ・クローチェ聖堂をはじめ、透視画法を駆使したマサッチョのフレスコ画「三位一体」が描かれた Basillica di Santa Maria Novella サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂などが立ち並ぶフィレンツェは、いまもなお宝石箱のように美しい街です。しかし、メディチ家が絶頂を迎えていた15世紀は、ヨーロッパ各地で陰惨な魔女狩りが盛んに行われていました。"花の都"フィレンツェも例外ではなく、権謀術数が渦巻く不安定な状況にありました。史上名高い「パッツィ家の陰謀」では、ロレンツォは難を逃れますが、ドゥオーモでのミサ中に弟ジュリアーノ・デ・メディチが暗殺されます(1478年)。修道士サヴォナローラは、メディチ独裁を糾弾して民衆の支持を獲得し、一度はメディチ家追放に成功します(1494年)。しかし厳格な教条主義による神政は次第に支持を失い、異端としてシニョーリア広場で火刑に処されました(1498年)。その時代、チェーザレ・ボルジアは、父であるローマ法王アレッサンドロ6世の権勢を背景に急速に領土を拡大。軍勢を率いてフィレンツェに迫りつつありました(1502-03年)。
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【Photo】夏にはパリオ(地区対抗の競馬)で町中が熱狂する Siena シエナの Piazza del Campo カンポ広場と市庁舎である Palazzo Pubblico プップブリコ宮。100m以上の高さを持つマンジャの塔からは、大パノラマが一望のもと

 フィレンツェ共和国と隣接するSienaシエナとの都市国家同士の領土争いは、ゲルマンによる神聖ローマ帝国成立(962年)後に起こったグエルフィ党(教皇派)とギベリン党(皇帝派)の争いの縮図でもありました。争いの舞台となった両都市の間に位置するChianti地区の銘酒キアンティ・クラシコのシンボル「Gallo Neroガッロ・ネロ」(=黒雄鶏)伝説【注2】や、シェークスピアが古都 Veronaヴェローナを舞台に創作した物語「ロメオとジュリエット」は、両派の対立を背景としており、その副産物といえましょう。

 一方で、地中海交易で栄えた港湾都市国家、VeneziaヴェネツィアやGenovaジェノヴァ、Pisaピサ、Amalfiアマルフィは互いに覇権を競うライバルであり続けたのです。都市国家の集合体であったイタリア半島には、こうしてルネッサンスを経て地方色豊かな文化が各地で醸成されました。質の高い文化遺産が国土にあまねく分散して残るイタリアの比類なき魅力は、こうした万華鏡のような多様性にあるのです。

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【Photo】ナポリ湾に浮かぶカプリ島が間近かに迫るソレントを過ぎ、紺碧のサレルノ湾に面した目のくらむような道を断崖沿いにしばらく進むと9世紀に築かれたアマルフィにたどり着く。現在は人口約1万人の街だが、海上交易で栄えた11世紀には7万もの人々が暮らした。東方からコーヒーやペルシャ絨毯をイタリアに伝えたのはアマルフィだったという。アラブの影響が強い建築様式のDuomoドゥオーモは、南イタリアの強烈な太陽のもとで、かつての栄華を物語る

 スペインやオーストリアによる支配を経て、ナポレオンがポエニ戦争におけるハンニバルに倣ってアルプスを越えてイタリア半島北部へ侵攻(1796年)すると、外国勢力を一掃しようという民族自立の機運が沸き起こりました。祖国の英雄として今も語り継がれるガリバルディが率いたリソルジメント(=イタリア統一運動)によって、サヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエレ二世を初代国王に戴く君主制のイタリア王国がトリノを首都に成立(1861年)。これが第二次世界大戦後に成立した現体制のイタリア共和国の原型です。つまり、西ローマ帝国崩壊後1400年に及ぶ混沌とした時代を経てようやく国家として統一されたイタリア、言い換えればイタリアという概念そのものは、145年の歴史しか刻んでいない事を意味します。国家としての体制づくりはまだ途上にあるといってもよいでしょう。こうした歴史的背景が、郷土への強い帰属意識と結束を生み出し、生まれ育った地元を愛する精神風土と、処世術として「コネ」を優先する社会の仕組みを生む大きな要因となりました。

 古代ローマがいち早く属州としたアルプス以南、アペニン以北の地域はGallia Cisalpinaガリア・キサルピーナと呼ばれました【注3】。ポー川が貫流する肥沃な大地の最北西部にトリノは位置します。町の起源は、共和制ローマ時代に属州となったガリア全域のうち、帝政ローマ初代皇帝アウグスグストゥスが、ガリア・キサルピーナをローマ本国に編入して入植を進めたキリスト生誕の時代まで遡ります。11世紀以降、現在のフランス東部ローヌ・アルプ地域のサヴォワ地方から、スイス西部のフランス語圏、そしてピエモンテにかけてサヴォイア公国が成立。サヴォワ出身のサヴォイア家が統治した公国の首都がトリノとされたのが1563年。ローマ時代に築かれた碁盤の目状の町をベースにして、17世紀に整備されたトリノ旧市街は、地理的に近いフランスの雰囲気を漂わせているといわれます。サヴォイア公国・サルディーニャ王国・イタリア王国の首都としての誇り高き歴史を刻んだその町並みは、他のイタリアの都市とは異なる落ち着いた佇まいをみせていました。
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【Photo】ピエモンテロココ様式の傑作「ストゥピニージ宮殿」

 サヴォイア家が17~18世紀にかけて当代の著名な建築家に命じて各所に建てたバロック様式の王宮群は、宮廷文化華やかりし時代の息吹を今に伝えています。その中で最も華麗といわれるストゥピニージ宮殿は町の南端に、そしてサヴォイア家の霊廟があるスペルガ聖堂は、市街中心部から北東約10キロの丘陵の頂に建っています【注4】。イタリア到着の朝、トリノ上空で着陸態勢に入った機上から目にした光輝く雲海に浮かぶスペルガ聖堂は、「Belpaeseベルパエーゼ(=美しき国)」とイタリア人自身が故国を形容することに合点がゆく、神々しく美しい光景でした。取り出したカメラのファインダー越しに望むスペルガ聖堂のシルエットに "che Bella"(=なんてキレイなんだ)と、思わずつぶやく庄内系イタリア人なのでありました。
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【Photo】逆光の中、雲海に浮かんで見えた神々しいスペルガ聖堂

FilE9:「そしてトリノ」へつづく

【注1】芸術にも深い理解があったコジモ・デ・メディチは、「アッカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)」と呼ばれる文化サークルをフィレンツェ郊外のカレッジにあるメディチ家の別荘で主宰した。当代の詩人・画家・哲学者など当代の知識人が出入りしたそこでは、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作研究を通して、美や神の愛などについて自由闊達な議論がなされたという。彼ら新・プラトン主義者によれば、現世は神の愛によって、神が理想とした範例を具現化したものであった。人間は神への愛、美への一途な愛(=「プラトニック・ラブ」の語源となった)を通して、神に近づくことができ、至福が訪れるとした。この「現実を謳歌せよ」という新・プラトン主義的な思想から、アッカデミアにも出入りしたボッティチェルリの「春」や「ヴィーナスの誕生」といった寓意的な作品が生まれた
    
【注2】フィレンツェとシエナは、50キロほど離れた両都市の間に広がるキアンティ地区の所有をめぐり、争っていた。1208年、その長年に渡る争いに決着をつけようと、勢力圏の境界線を、互いの町のニワトリが時の声を上げたら、おのおの騎士が馬で町を出発し、両者が出合った場所を境界に定めることにした。シエナ側が選んだのは良く肥えた白い雄鶏。フィレンツェは黒い雄鶏を選んだ。一計を案じたフィレンツェ側は雄鶏に餌を与えずにおいた。腹を空かせた雄鶏は、用意が整った騎士の持つ明かりを見るや一声「コケコッコー」。かたやシエナの雄鶏は日の出と共に鳴き声を上げた。そのため、馬上の両騎士が出会ったのは、シエナから10キロしか離れていないCastello di Fonterutoliフォンテルートリ要塞付近【click!】だった。以降、境界はそこと定められ、名醸地キアンティはフィレンツェの所有となった。
        
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【Photo】Chianti classico のブドウ畑と、かつてキアンティクラシコのボトルネックに貼られていたGallo Neroのマーク

1924年に33の生産者たちによって発足した「Consorzio del Marchio Storico-Chianti Classicoキアンティ・クラシコ原産地表示保護協会」はGallo Nero(黒雄鶏)をキアンティ・クラシコのシンボルと定めた。ところが1987年、協会が品質管理を目的とするキアンティ・クラシコ協会と、プロモーションが主目的の黒雄鶏協会に分かれた。後者に加盟しない優れた生産者も多かったため、イタリアワインの呼称と品質規定をD.O.C.G法に定められたキアンティ・クラシコの規定を満たすワインの中で黒雄鶏マークが貼られたものと、そうでないものが混在する状況が生まれた。こうした消費者に混乱を招く状況を打破するため、2005年5月に並立していた協会を「Consorzio del vino Chianti Classicoキアンティ・クラシコ協会」として統一し、デザインを変更した黒雄鶏【click!】が商標ラベルとして採用された。現在の加盟生産者数は600以上で、うち250軒は自社ラベルのワインをリリースしている

【注3】ラテン語で「アルプス山脈の手前側(cis-alpina)のガリア」という意味

【注4】 ストゥピニージ宮殿は、ヴィットリオ・アメデオ2世が建築家フィリポ・ユヴァーラに設計を依頼し1729年に完成した。広大な庭園に囲まれ、サン・タンドレラ(セント・アンドリュース)の十字架をかたどった構造【click!】を持つ。狩猟用の離宮にふさわしく屋根の中央にフランチェスコ・ラダッテ作の雄鹿のモニュメントを戴く。サヴォイア家の城の中では、最も華麗であり、ユヴァーラのロココ建築の傑作とされる。ユヴァーラは、1706年にスペイン継承戦争の際にフランス軍に包囲されながら、トリノ防衛に成功したサヴォイア家のヴィットリオ・アメデオ2世から、聖母マリアに献げる聖堂の設計も任された。着工から14年後の1731年、パンテオンのファサードとバロック様式の聖堂を融合させたとされるスペルガ聖堂の献堂式が執り行われた。ちなみに、幼少時代、胃腸が弱かったヴィットリオ・アメデオ2世のために考案されたのが、スティック状のパン「グリッシーニ」だったという

2007/07/12

ローマ2760年の歴史を10分でおさらい

「永遠の都2760年の歴史を10分で知る/前編」

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PHOTO】中部イタリア・ウンブリア州、聖フランチェスコの故郷 Assisi アッシジで。ウンブリア平原を見渡す聖キアラ聖堂前の広場からは、敬虔な祈りの街に点在する教会のカンパニーレが望める。中央はS.Maria Maggioreサンタマリアマッジョーレ教会

 イタリア人が郷土に抱く愛着は、日本人の感覚では考えられないほど強いものがあります。私たちがピエモンテで滞在したアグリツーリズモ Rupestr のオーナー・Giorgio もそうでした。イタリア人に顕著な「地元が一番!」というこの性向は、Campanilismo カンパニリズモという言葉で表現されます。郷土愛を意味するこの言葉の語源は Campanile カンパニーレ(=鐘楼)であるといわれています。コンスタンティヌスのミラノ勅令(313年)によってキリスト教が公認されて以来、いかなる時代にあってもキリスト教はイタリアの人々を束ねる精神的支柱であり続けました。国民の97%がカトリック教徒であるイタリアには、集落・地区ごとに教会が存在します。生まれて間もなくそこで洗礼を受け、一日の始まりや休日の礼拝のため教会に足を運ぶ彼らにとって、教会は自分の帰属元の象徴です。遠方から望む鐘楼は故郷のランドマークでもあります。その強烈なカンパニリズモをもたらした背景をひも解くと・・・
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【PHOTO】地元のピエモンテーゼが世界一美しいと自慢するブドウ畑の風景が広がるピエモンテ州の名醸地Barbarescoバルバレスコで。丘の高みにあるバルバレスコ村のカンパニーレが見渡す限りブドウ畑が広がる丘陵地のアクセントになっていた

 ユリウス・カエサルとアウグストゥスが樹立したパクス・ロマーナのもと、綿々と続くヨーロッパ文明の礎を築いた古代ローマ帝国。紀元100年以降の五賢帝時代には、地中海沿岸のアフリカ大陸とエルベ川・ライン川以西のヨーロッパ全土、更に黒海沿岸からティグリス川を越え、カスピ海・ペルシア湾に及ぶ人類史上類を見ない広大な地域を、ローマ帝国は勢力圏としました。古代ローマ人が築いた高度な土木建築技術と天賦の造形感覚の賜物であるさまざまな建造物は、今もヨーロッパ各地と地中海世界に残ります。私たちは二千年以上の時を経た今日、見事な様式美を持つ人類の遺産として、それらと対峙します。
 
 たとえばサイフォンの原理を使った緻密な計算に基づく三層構造を持つ Pont du Gard ポン・デュ・ガール【click!】(フランス)や Segovia セゴビア【click!】(スペイン)水道橋の威容しかり。【注1】 水源のアペニン山脈付近からローマまで、衛生を考慮して可能な限り地下を通して造られた11もの水路は、最も長いマルキア水道で90km以上に及びます。ローマ市の上水道は、今も建設当時の設備をそのまま使用しているのは有名な話。ローマ市内各所にある噴水の水源もそう。スペイン広場の中央にある Fontana della Barcaccia 船の噴水【click !】は、バロック彫刻の巨匠ベルニーニが1627年に手がけました。この水は白ワインの産地として知られるローマ南部郊外の Frascati フラスカーティから引かれている「ヴィルゴ水道(Aqua Virgo)」のものです。その美味しさはローマっ子も太鼓判を押す美味しさ。海外ではミネラルウォーターを買う場合が多いかと思いますが、ローマを訪れた方はぜひお試しあれ。
 ちなみに、このヴィルゴ水道の終点が、かのFontana di Trevi トレヴィの泉だというのが、ローマの泉に関するトリビアの泉・・・お粗末。
 
 広大な領地の統治には、強力な軍団と兵糧の迅速な移動が不可欠でした。それを可能にした街道網は、"世界の首都"ローマを基点に領地一円で整備されました。軍事目的以外に入植都市を含む域内交流の動脈として活用され、アッピア、アウレリア、エミリアなどの幹線だけで8万キロ、延べ30万キロ・地球8周分にも及ぶ諸街道の石畳には、往来した馬車が残した轍の跡が残り、二千年の時の流れを感じさせます。
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【PHOTO】石畳に轍が刻まれたアッピア街道。どれほどの人がここを行き来したのだろう

 まずはミケランジェロが設計した幾何学模様が施されたカンピドリオ広場に面して現在のローマ市庁舎が建つカンピドリオの丘から、"永遠の都"ローマの歴史をたどる旅を始めましょう。伝承では、狼に育てられた双子【click !】のロムルスとレムスの兄ロムルスが諍(いさか)いによって弟レムスを殺害後、紀元前753年に王位に就いたことが都市ローマの起源とされています。市庁舎を裏手に回ってカンピドリオの高台に立ち、古代ローマ時代に政治の中枢であったフォロ・ロマーノを目にする時、人類の歴史上、他に例を見ない空前の大帝国を築いたイタリア人の祖先が成し遂げた偉業に思いを馳せずにはいられません。
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【PHOTO】カンピドリオの丘、ローマ市庁舎裏手からのフォロ・ロマーノ

 17世紀のフランスの詩人ラ・フォンテーヌの「すべての道はローマに通ず」という有名な言葉は、張り巡らされたローマの街道網を単に意味するのではありません。手段は違っても目的は同じことの例えでも使われます。ローマは異民族の被征服者を蹂躙し駆逐するのではなく、ローマ退役兵の入植による民族同化を進めました。帝政ローマ第二代皇帝ティベリウスは、財政再建のために属州のガリア(現在のフランス)など異民族に対する増税を主張する元老院議員たちに向かって、属州民を羊にたとえて「殺して肉を食べる対象ではなく、毛を刈り取る対象」と考えるべきだ、と喝破したそうです。自国と圏域の安定という最終目的のためには英知をもって常に柔軟であったローマ人の統治手法がその繁栄を支えたのです。

 それでも盛者必衰は歴史の常。第二次ポエニ戦争(BC219~201)のカンネの会戦(BC216)で7万に及ぶ全軍の兵を失う惨敗を喫するなど、ローマが幾度も煮え湯を飲まされた仇敵カルタゴ。ローマ救国の英雄「小スキピオ」ことプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス・アフリカヌス(⇒何と長い名前!)は、第三次ポエニ戦争(BC149~146)で名将ハンニバルが率いた仇敵を滅亡に追い込みました。積年の恨みを晴らす徹底的な殺戮と破壊によって灰燼に帰そうとするフェニキア人の都を前にして、小スキピオは感慨を込めてこう語ったと伝えられています―「今われわれは、かつては栄華を誇った帝国の滅亡という、大いなる瞬間に立ち会っている。だが、今私の胸を占めているのは、勝者の喜びではない。いつかは我がローマも、これと同じ時を迎えるであろうという哀切なのだ。」 (塩野七生著「ローマ人の物語」〈新潮社刊〉より引用)

 壮麗な神殿や建築が建ち並んでいた往時の面影を留めずに廃墟となったフォロ・ロマーノや野良猫の棲み家となったコロッセオ。こうしたローマ人が築いた遺跡は世界中から訪れる観光客で溢れかえります。かつては世界の首都といわれた廃墟を、Tシャツ姿で闊歩する現代の観光客の姿に、キケロや小カトーなどの元老院議員がトーガ姿で歩く姿を重ねてみる対比も一興。それには"永遠の都"が暮れなずむ黄昏(たそがれ)時が一番似合うと感じるのは感傷に過ぎるでしょうか。

「永遠の都2000年の歴史を10分で知る/後編」に続く

【注1】古代ローマは租税や兵役を課す代償として、領土一円にさまざまなインフラ整備を行った。ローマの繁栄は卓越した土木技術が支えていた側面もある。当時は日よけの天蓋で覆われていたというドーム球場さながらの巨大な闘技場「コロッセオ」は、地下から猛獣や剣闘士が登場する昇降機すら備えていた。ゲルマニア平定のため、川幅が広く水量も多いライン河に木製の橋を短期間に架けてしまう技術しかり、雨天でも移動ができるよう排水性を確保して石畳で舗装されたローマ街道しかり。わけても1キロ区間で34センチの傾斜を保つよう設計されたローマ水道は、その最たるもの


 

2007/07/11

La Strada per Torino~トリノへの道

類いまれなイタリアの魅力

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【PHOTO】トスカーナ州南部 Pienza ピエンツァ郊外 Val d'Orcia オルチア渓谷【click !】で。粘土質の不毛の大地を耕作地に変えるため、この地の人々は何世紀にも渡って土壌改良を続けてきた。雲間から降り注ぐ柔らかな朝の光の粒子に影絵のように浮かび上がる礼拝堂。自然と人の営為がほんのひととき魅せてくれた忘れ得ぬ光景


 まずは思いつくままイタリアの魅力を挙げてみましょう。

 陽光溢れる美しい自然と神々の仕業としか思えぬ息をのむ風景。
 国内はもちろん欧州と地中海世界一円に広がる数々のローマ遺跡。
 先住民族エトルリア人以来、あまたの天才を輩出してきた至高の芸術。
 ギリシャの様式美を規範としながらも独自の発展を遂げた建造物。
 マエストロの誇りと天賦の造形感覚の賜物である珠玉の工芸品類。
 モードに敏感な人々を魅了し、激しく物欲を刺激する Made in Italy 製品。
 伝統と革新の技が融合し無類の美しさと心地よさをもたらす工業デザイン製品。
 恵まれた気候風土と伝統を重んじる気質が生み出す美味しい食事やヴィーノ・・・。

 あなたが魂を揺り動かす情熱的なイタリアオペラを聴きたければ、世界屈指の歌劇場ミラノのスカラ座やボローニャ歌劇場へ。それが7~9月ならば古代ローマの闘技場 Arena di Verona で屋外オペラが上演されるヴェローナが最高の舞台となるでしょう。官能的なイタリア車の真髄に触れたければ、Ferrari フェラーリの聖地 Modena モデナ近郊の Maranello マラネロへ。お好きなイタリア映画の舞台を訪れたければ、シチリアやヴェネツィアなどを訪れるもよし。アルペンスキーの本場アルプスやドロミテには、素晴らしい絶景も待っています。2006FIFAサッカーW杯で頂点に立ったイタリア代表メンバーの試合を観戦したければ、スタンドで贔屓チームを応援する Tifoso (ティフォーゾ=イタリアの熱狂的なサッカーファンの通称) に混じって CALCIO (=サッカー)に熱狂するもよし。本場のピッツァを食べたいのなら、プルチネラと呼ばれる白い道化の看板を掲げるナポリのピッツェリアで、釜に一番近い席に陣取ればOK。イタリア語が少し話せるのなら、"人生の達人"イタリアの人々の味わい深い生きざまに触れるのもいいでしょう。

 初めて訪れた人から私のようなマニアに至るまで、オールマイティに満足させてくれる懐の深さがイタリアにはあるのです。それは西洋文明の源泉として長い歴史のなかで積みあげられてきた遺産の重層があってこそ。ユネスコの世界遺産登録数が最も多い国は42件のイタリア。そのうち41件は文化遺産です。(2007年6月末現在。2位はスペインの40件) 人類が欧州で積み上げてきた英知は、イタリアの大地のみならず、ローマ人が統治した地中海世界一円にその記憶の痕跡を残しています。(注1)

これほど多岐に渡るジャンルにおいて類い稀な魅力を放つ国がほかにあるでしょうか?

 古来、イタリアはその地を訪れた多くの旅行者を虜にしてきました。冬は暗い雲が立ち込める日が続くアルプス以北のヨーロッパ諸国の人々にとって、年間を通して陽光に包まれるイタリアは、憧れの国だったのです。ドイツの詩人ゲーテが「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」で"ミニョンの歌"としてイタリア出身の少女に語らせた一節は、端的にゲーテのイタリアへの憧憬を吐露したものです。

  君よ知るや南の国  レモンの花咲き
  緑濃き葉陰には黄金のオレンジたわわに実り
  青き空より、やわらかき南の風

 ゲーテやスタンダールらを引き合いに出すまでもなく、イタリアは今も数多くの世界中の人々を魅了してやみません。"永遠の都" Roma ローマや"水の都" Venezia ヴェネツィア、"花の都" Firenze フィレンツェのみならず、「ナポリを見て死ね」と称えられる美港 Napoli ナポリや、糸杉の並木が美しいトスカーナの牧歌的な丘陵など、地域ごとに特色あるその魅力は、北から南まで国内各地に満遍なく存在します。この点もイタリアならではの強みでしょう。

 2006年冬季五輪の開催地として一躍世界の注目を浴びた都市 Torino トリノは、国内で4番目の人口を抱える大都市。それでいて、これまでトリノはどちらかと言えば比較的地味な存在だったといわざるを得ないでしょう。その理由は、私が車で街の中を走って感じたトリノの第一印象と符号する理由によるものだと考えます。

・・・「この街、なんかイタリアらしくないなぁ」。

 トリノ中心部の佇まいは、あくまでもシックでエレガント。その落ち着いた街並みは、むしろ隣接するフランスに雰囲気が似ているとさえいわれます。バロックやロココ様式で建てられた王宮群もそう。クラシックでスノッブな雰囲気が漂うカフェもそう。晩秋から冬にかけては霧のヴェールに閉ざされることもしばしばで、そんな時期にトリノを訪れると陰鬱な街という印象すら抱きかねないのでは? どうやらイタリア好きの琴線に触れる"イタリアらしさ"とは異なる個性が"トリノらしさ"であるのかもしれません。ゆえに根っからのイタリア好きの私には、トリノの街は正直に言って異郷にすら映りました。その理由は、トリノがサヴォイア家の遺香を色濃く漂わせる街だったからなのです。


(注1)ブリタニア(現イギリス)ハドリアヌスの長城、ゲルマニア(同ドイツ)トリアーのポルタ・ニグラなどのローマ遺跡、ガリア(同フランス)の水道橋ポン・デュ・ガールとアルルやオランジュのローマ遺跡、パルミラ(同シリア)、ドゥガ(同チュニジア)、ティムガッド(同アルジェリア)タラゴナ、ルーゴの城壁(同スペイン)などは、当時の属領にローマ人が遺したユネスコの世界遺産である。さらに入殖した退役兵によって広く属領へと伝播したのが、ブドウ栽培であったことを考え合わせると、ローマが果たした功績は計り知れない

「ローマ2760年の歴史を10分でおさらい」 (→ちょっと無謀なんじゃ・・・) に続く

2007/06/22

チンクエ・テッレは地の果てだった

絶景のヴェルナッツァからポルトヴェーネレへ

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【Photo】アップダウンと急カーブが連続する道を延々走り続けた挙句に、眼下に見えた絶海に浮かぶ孤島のような村ヴェルナッツァ。外敵に備えるため、海を睥睨する高台に物見の塔が築かれたのは11世紀のこと

 Monterosso al Mare モンテロッソ・アル・マーレ、Vernazza ヴェルナッツァ、Corniglia コルニーリア、Manarola マナローラ、Riomaggiore リオマッジョーレという世界遺産の5つの村の総称「Cinque Terre チンクエ・テッレ」。切り立った断崖にへばりつくかのように点在する五つの集落へのアクセスはもとより悪く、しかもそれらを直接結ぶ道路はありません。運行本数の少ない連絡船のほか、La Spezia ラ・スペツィアと Genova ジェノヴァ間を走る鉄道が5つの村を結ぶ最も便利な交通手段となります。(注)その地の人たちは、限られた空間を立体的に活用した4~5 階建ての密集した家に暮らしています。漁業で生計を立てるほかに、切り立った原生林を開墾し、最大斜度70度もの目のくらむような斜面と呼ぶよりも断崖の岩を砕いて石垣を積み上げ、さらに細かく砕いた岩を土に変えて段々畑に仕立ててブドウやオリーブなどを栽培してきました。

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【Photo】岩礁の上にあるコルニーリアには、集落の遥か高みにまでブドウ畑が広がる。平地や丘陵地において一般的なブドウ栽培に投下される労働時間は、年間で350時間前後。しかしこの地においては4倍以上の1,500時間を要するという。厳しい環境下でのブドウ栽培の苦労がしのばれる

 ひとたび嵐が襲えば、斜面を滝のように流れ落ちる雨水で、砂岩を積み上げただけの畑の土は容易に流されてしまいます。この地に暮らす人々が1,000年以上の時間をかけて自然を相手に繰り返してきたのは、気の遠くなるような忍耐と英知の歴史だったのです。苛酷な環境のもとで育まれた特異な文化と暮らしぶりは、そこが地理的に隔絶されていたがゆえ、今なお残されています。そのため、ユネスコはこの地域一帯を1997年に世界文化遺産に登録しました。それ以降、世界中から観光客が風光明媚なこの地を訪れるようになったのです。

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【photo】ヴェルナッツァ近くの海沿いに迫ると、対向車との擦れ違いなど到底不可能な細いつづら折りの道が延々と続く。標高が高い斜面に植えられたオリーブの木の下には、オレンジ色のネットが敷かれて収穫を待つばかり。標高の低い斜面にはブドウが育つ。造営と維持に想像を絶する労苦を伴うであろう耕作地が青い海に向かって段々畑になって広がってゆく光景には感動すら覚える。過酷な生活環境を嫌って離村する農家が増えたことにより、手入れをする人手がなくなったために、打ち捨てられた畑も散見され、この地の厳しい現実が窺えた

 期待以上の素晴らしいランチとなったリストランテ「サン・ジョヴァンニ」で飲んだシャッケトラが、いかなる場所で作られているのかを実際に目にした時、何故にそれがスローフード協会によって、保護すべき食材「プレジーディオ」に指定されているのかを、ようやく理解できました。そしてデザートワインとしては期待通りでなかったという軽い失望を覚えた自分を恥じ入ったのです。何故なら、飲み手でしかない私が、味の優劣だけでシャッケトラの価値を断ずるのは、あまりに傲慢なのだと気付かされたからです。この地のブドウ生産者は、転落すれば命を落としかねない急峻で狭小な畑から限られた収量のブドウしか得ることができません。彼らは食後のひと時を少しでも豊かに演出するため、陰干しという自然の摂理に沿った手法によって、ブドウ果汁の水分を除き、自然が生み出す甘味のエッセンスだけを得ようとしたのです。その試みは、幾度となく繰り返された先人たちの試行錯誤の上に成り立っているはずなのでした。

 居住者以外の一般車両は、集落の手前で駐車予定時間を申告の上、代金を支払って駐車場に車を停め、海岸近くの狭い谷間にあるヴェルナッツァの集落まで1キロほどの緩やかな下りを徒歩での移動となります。断崖のわずかな狭隘な空間に築かれた集落内には、車を置くスペースすらありません。ヴェルナッツァ居住者の車が延々と片側に縦列駐車している道を私達が歩き始めた時、西の空に陽は傾き始めていました。キッチュな土産物屋やエノテカ、飲食店などが立ち並ぶメインストリート Via Roma (ローマ通り)を抜けると、海に面して開けたグリエルモ・マルコーニ広場に出ました。その時まさに落日が空を茜色に染めて水平線に没しようとしていました。波打ち際の思い思いの場所に陣取るさまざまな国籍を持つ人々に混じって眼前の絶景に見とれました。

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【Photo】しばし時を忘れたヴェルナッツァの夕暮れ

 ほどなく陽がすっかり沈んで家々の窓に明かりが灯り始めました。立体的に入り組んだ構造の迷路のような町をそぞろ歩きした後、絶景をしっかりと目に焼き付けた一同は、その場を去りがたい気持ちを抑え、暗くなった道を再び駐車場まで徒歩で移動。ガードレールすらない細い急坂を大きなワゴン車で登り始めた時、時刻は18時半を過ぎていました。途中の高台に車を停めてヘッドライトを消すと、私達の頭上には漆黒の空から降るかのように輝く満天の星々が現れました。数知れぬ星たちと連なるかのように遥か眼下できらめくヴェルナッツァの灯(ともしび)。西暦1000年頃に近郊の内陸地から入植が始まったこの世の果てのような隔絶された地でも、そこに暮らす人たちの日々の営みは繰り返されていました。潮騒すら届かない高みから見えた眼下の小さな灯りのひとつひとつが、かけがえの無い、いとおしいものに思えました。

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【Photo】緯度が高いイタリアでも10月末ともなると暗くなるのが早い。18時を過ぎて昼の賑わいが嘘のようにすっかり人気がなくなったヴェルナッツァのメインストリート「Via Roma」

 「戻るのが遅くなるから夕食は要らないとジョルジョに伝えて」と、Rupestr に先に戻っていた西川さんに携帯電話で連絡したものの、そこからがまた一仕事。口々に「遠かったけど、来た甲斐があったねー」と感動を語り合っていた後部座席の同乗メンバーたちは、急斜面ときついカーブのワインディングが連続する真っ暗な道を "GENOVA" と記された方向標識を頼りにひたすら先を急ぐ私のクイックなハンドル操作のもとで、ほどなく全員寡黙に。(要するに、車酔いさせちゃったのです。みんなゴメンナサイ)

 ナビゲーターとして孤軍奮闘の佐藤君の指示のもと、往路は正味4時間半を要したヴェルナッツァ-カネッリ間を、高速に乗ってからは時速160キロを維持してひたすら爆走。後に八巻編集長が雑誌「四季の味」で述べていたように、私たちはその時、住み慣れた我が家への家路を急ぐ心境になっていました。高速A26を降りて、一般道を地図上の町の名前を順にたどりながらしばらく進んだ先に"CANELLI "の街区表示を見たとき、「帰ってきたぜぃ!」とジョルジョに心の中で呼びかけました。やっとの思いで Rupestr に戻ったのが21時45分頃。3時間15分のノンストップの激走を終えた私は、戸口から迎えに出て来たジョルジョの前で、安堵のあまりへたり込んでしまいました。

 到着後、一息ついて間もなく始まったその夜の遅い夕食。ジョルジョはいつ戻るか判らない私達のために、イノシシの煮込みの入ったタヤリンやイノシシの煮込みと焼きポレンタなどの夕食を準備してくれていたのです。強行軍の日程をどうにかこなし、無事帰還したことをスプマンテで乾杯しました。ジョルジョが選んだのは、地元カネッリで1865年にイタリア初の本格製法による発泡酒メーカーとして創業した「GANCIAガンチア社」の創業者の名を冠した CARLO GANCIA 。昼食からしばらく時間が経過していたこと、そしてイタリアで再び爆走伝説? を打ち立てた心地よい疲労感も手続って、その夜の料理は、バルベーラ・ダスティと共にすんなり美味しく頂けました。

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【Photo】ジョルジョが用意してくれた心尽くしの夕食。ドロドロに疲れていたけど、ホントに美味しかった

【注】
先に日本へ戻るアル・ケッチァーノ一行と別れた10月31日、トリノから合流した友人とペルージャ在住の友人の3人で再びチンクエ・テッレを訪れた。車での移動に手間取った前回の教訓から、手前の町 Levanto レヴァントに車を置いて電車で向かった先は Manarola マナローラ。

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【Photo】Manarola マナローラ全景。ノーベル文学賞を受けたイタリアの詩人エウジェニオ・モンターレは、この集落を"鷹とカモメの巣"と表現した

そこから岩場に穿たれた遊歩道" Via dell'Amore ヴィア・デッラモ-レ"(=愛の小径)を徒歩で隣のチンクエ・テッレ東端の村 Riomaggiore リオマッジョーレに行こうというのだ。ペルージャ在住の友人は、以前ここを訪れた直後にダーリンTommy氏と出会ったそうな。既婚者の私や売約済?の友人はともかく、独身の友人は真剣そのもの。道すがら 「Bar dell'Amore バール・デッラモーレ(=愛のバール)」や、愛をテーマにした絵が一面に描かれたトンネルも登場する。善き伴侶を得るための通行料は3エウロ。関心のある方はどうぞ。

 トンネル区間が多いものの、途中 Monterosso al Mare モンテロッソ・アル・マーレ、Vernazza ヴェルナッツァ、Corniglia コルニーリアと、西から順に5つの村をたどる車窓から時折のぞく海はあくまでも美しい。車で訪れた前回の苦労が嘘のようにあっけなく目的地 Manarola マナローラに降り立った。さすがは5つの村の中で一番ブドウの生産量が多い村だけあって、駅の上に広がる急斜面には、ブドウの段々畑が広がっている。海を眺めながら遊歩道 Via dell'Amore を進むと所要時間30分ほどで、Riomaggioreリオマッジョーレに着く。

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【Photo】ドロボーが横行するイタリアでは珍しい自動販売機をポルトヴェーネレで発見。近寄ってみると、それはなんとペスト・ジェノヴェーゼの自販機だった。さすがはペストの本場!

その日、La Spezia ラ・スペツィア経由で、同じく世界遺産に登録されている Portovenere ポルトヴェーネレも車で訪れた。ジェノヴァ共和国がライバルのピサに備えるため、12世紀初頭、家々を海に向かって立ち並ぶ要塞のような構造に改造した。ハロウインの可愛らしい仮装をした子どもたちが駆け回るメインストリート via Giovanni Capellini ジョヴァンニ・カッペリーニ通りを進み、街の突端にある聖ピエトロ教会へ向かう途中、オリーブ製品の専門店 Olioteca Bansigo オッリオテカ・バンジーゴに立ち寄った。シーズンオフで翌週には休業に入るという店長は以前NHKの番組でも紹介された若い女性。大きなステンレスタンクに入った味が異なるオイルを3種類テイスティングさせてもらった。取材で来たと告げると、来訪者が足跡を記す壁面に油性ペンでサイン【click!】させてくれた。それは今も壁面の最上部右上に残っているはず

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【PHOTO】「貴方たちに出会えて良かった」という素敵な言葉をくれたオッリオテカ・バンジーゴでオーナーと

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オリーブ専門店「オッリオテカ・バンジーゴ」
住所 via Capellini, 95 19025 PORTOVENERE (SP)
http://www.sinport.it/bansigo/ibansig1.htm

2007/06/21

チンクエ・テッレの絶品シーフード

リストランテ サン・ジョヴァンニ@カサルッツァ・リグーレ

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【Photo】海岸線から少しアペニン山脈沿いに入った小さな街カサルッツァ・リグーレ。小高い山の先にはリグーリア湾が広がる

 高速A12を Chiavali キアヴァリで降り、陽光あふれる海岸線から若干内陸に入った Casarza Ligure カサルッツァ・リグーレという小さな町にあるリストランテ「San Giovanni サン・ジョヴァンニ」に着いたのは、11時すぎ。ここで、リグーリアの東端の都市 La Spezia ラ・スペツィアの先にある別のリストランテを予約していたジョルジョと西川さんとは、しばしのお別れです。そこからはガイド役不在のまま、半日を過ごすことになりました。実はこの日の昼食は、各 Guida(=レストラン評価本)において、東リビエラで随一の評価を受けるリストランテ「Ca'Peo」でとりたかったのですが、当時はシェフを務めるお母さんの体調が優れずに休業中。

 そこで、イタリアの料理評価本「l'Espresso」や「Accademia Italiana della Cucina」などで、魚料理が美味しいとの理由で評価が高い「San Giovanni サン・ジョヴァンニ」を、数軒の候補の中から、いわば"勘"で代役に立てました。ことの経緯はともかく、結果的にこの選択は大正解だったのです。帰国後、「サン・ジョヴァンニの料理が一番だった」と言うメンバーすらいたのですから。到着早々に見舞われた強烈な先制パンチさながらのピエモンテ料理に、すっかり根を上げた面々にとって、それは正に体が欲した料理だったのです。四方を海に囲まれた私たち日本人のDNAが、新鮮な魚介を切実に求めていました。
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【Photo】リストランテ「サン・ジョヴァンニ」の名前の由来となったサン・ジョヴァンニ・バティスタ教会は7世紀~8世紀に創建されたロマネスク様式。リストランテの裏庭から鐘楼が見える

 リストランテ「サン・ジョヴァンニ」は、小柄で気さくなお母さんのピヌッチャ・ノヴァロさんがシェフで、娘さんがフロア係という家族経営の店です。白い外壁が青い空に映えるその店の敷地には、オリーブやミモザが植えられています。ピヌッチャさんのお母さんだという、肝っ玉母さんといった風情で魚を抱えるジュゼッピーナさんの絵が掛けられた明るい店内は、いかにもリビエラの開放的な雰囲気を漂わせていました。
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【Photo】店のエントランスにて日伊のグランシェフ揃い踏み。奥田シェフとピヌッチャ・ノヴァロさん

 テーブルについた私たちは、「今日はアンティパストとプリモピアットを魚介系中心でいきましょう」と示し合わせた上で、胃腸を癒す料理のチョイスを奥田シェフにお任せしました。メニューと睨めっこのシェフの脇では、私がワインリストと睨めっこ。"料理とワインは一心同体"が信条の私が選んだのは、これから訪れるチンクエ・テッレの急斜面を段々畑に切り開いて栽培される地ブドウ、Boscoボスコ種を主体にVermentinoヴェルメンティーノ種、Albarolaアルバローラ種を混醸した辛口のDOC白ワイン、その名もずばり「Cinque Terreチンクエ・テッレ」。ものは試しと異なる生産者の2本をオーダーしました。そこから前日とはガラリと変わった地中海の幸あふれる饗宴が幕を開けたのです。

【以下、空腹時は閲覧をお勧めしないPhoto が続きます】
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 さっぱりした軽い酸味が心地よい「カタクチイワシのエスカベーチェ」と、ピンクペッパーがアクセントになった「茹でサーモンのサラダの盛り合わせ」(上写真)、優しい歯ごたえと上品な薄味で一同狂喜した「茹でイカのシンプルサラダ」(下写真)は軽くレモンを絞って。

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 「トマトのスライスに刻みルッコラ・マグロの燻製包み」(上写真)はサンダニエレの生ハムのように、まったりとした食感とスモークの香りが香ばしいマグロと、ルッコラやフレッシュトマトが口の中で渾然一体。これまた一同悶絶。からっと揚がったキツネ色の衣をまとって登場したのは、「小麦粉の詰め物をしたムール貝のフリット」(下写真)。小ぶりなムール貝の旨みが詰め物の小麦粉に滲み出て、素材のおいしさを増幅します。

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 揚げ物の次は口をさっぱりさせる「カタクチイワシと玉ネギ、レーズンのマリネ」(上写真)が登場。「殻付きムール貝のムース仕込みトマトソース煮込み」(下写真)と、7品いずれもが新鮮な素材の良さを引き出す伝統と革新の技が冴えるアンティパストばかり。

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 オーダーしたチンクエ・テッレDOC2種。最もブドウの生産量が多い集落とはいえ、Riomaggiore リオマッジョーレのブドウ生産組合のワインCosta de sèra di Riomaggiore'05は年産わずか4,000本。ふんわりと柔らかに香りが広がってイイ感じ。 対照的にキリリとしたTerre di Levanteは、チンクエ・テッレで集落が唯一海に面していないCorniglia コルニーリア産。典型的なリグーリア料理と地元の辛口ワイン「チンクエ・テッレ」が見事にピタピタと好相性を見せてくれました。隣りあう州同士でも、内陸のピエモンテと海に開かれたリグーリアでは、かくも劇的に料理の質が違うものかと実感させられます。

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 多彩なバリエーションでオーダーされたプリモピアットは、タジャスカ種のオイル特有の繊細なナッツ系の香りが活きた「バジルペーストとフレッシュトマト和え半生イカのポレンタ」(上写真)から、続々と運ばれてきました。素材の旨みが凝縮したコッテリとしたブロードの「イカのリゾット」(下写真)には、モチモチした歯応えのスペルト小麦Farroファッロ(注)が使われていました。

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 コクのある海の幸たっぷりのソース「スコーリオのリングイーネ」(上写真)、「イカスミ入りタリオリーニの魚介の軽いトマトソース」(下写真)

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 「ジェノヴェーゼ・ソースを軽くまとったイカのスパゲティ」(上写真)、「トロフィエのペスト・ジェノヴェーゼ風味」(下写真)と、平らげたプリモは全6品。いずれの皿も適度にメリハリが効きながらも、調和がとれたしつこくない味付け。疲れ気味の胃とカラダが一気に生き返りました。

幸福な余韻に浸るメンバーの心境を詠んで一句。「おいしさや、腹に染み入る 海の幸」

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 皿に山盛りで運ばれてきたのは摘みたての黒ブドウ(上写真)。ドルチェのティラミス(下写真)とレモンソルベには、スローフード協会からプレシディオ指定されているチンクエ・テッレ産の有名なデザートワイン、「Sciacchetrà シャッケトラ」を合わせたくなり、一杯だけグラスでオーダーしました。30年に及ぶ熟成も可能というシャッケトラは、DOCチンクエ・テッレに使用するブドウを陰干しして作られます。目のくらむような切り立った斜面で栽培される収量の少ないブドウ100キロから、わずか25リットルも作れないために、高価なデザートワインとなります。小さなワイングラスに注がれたシャッケトラを皆でちびちび回し飲みしましたが、似たような製法で作られる同価格帯の良質なヴィンサント・トスカーナと比較して、若干複雑味が足りず、線が細い印象でした。しかし、料理はどれも素晴らしく、充分に満足のゆくものでした。

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 「フルーツを食べたい」という女性陣のリクエストで、キウイ・バナナ・ラズベリーのマチェドニアと爽快な酸味のレモンソルベも追加。タイプは違えど二日続きの充実した昼食をカッフェと共に終えました。

 面倒見が良く気のおけないピヌッチャさんは、「ペスト・ジェノヴェーゼを本場リグーリアで手に入れよう」という私たちの買い物にまで付き合ってくれました。超ベテランのバリスタが渋~く切り盛りしている近所のバールでお礼のカッフェをピヌッチャさんに一杯ご馳走した後、チンクエ・テッレで最も風光明媚といわれるVernazzaヴェルナッツァに向かったのが15時頃。直線距離にして26キロほどの距離ですが、そこから先の長かったことといったら!地図を頼りに行程のほとんどを山中の曲がりくねった道を駆け抜けたため、つづら折りの道が続く尾根の高みから絶海に浮かぶ孤島さながらの佇まいのヴェルナッツァを目にするまで、およそ一時間半を要したのです。

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Ristorante San Giovanni
リストランテ サン・ジョヴァンニ
住所 Via Monsignor Podestà 1.CASARZA LIGURE (GE)
    HP なし/ TEL 0185-467244
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【注】
イタリアでは Farro と呼ばれる古代より人類が栽培してきた穀物がスペルト小麦。肥料や農薬の力を借りずとも、過酷な環境下での栽培にも耐える。反面、品種改良をされていない分、収量は少なく、殻が固く製粉に手間取るために栽培量を減らしてきた。小麦の栄養分の多くは、脱穀の際に取り除かれる殻や胚芽に存在する。しかしスペルト小麦は粒自体に栄養分が含まれるため、製粉後も栄養素が失われない。こうした長所が見直され、無農薬栽培に取り組む生産者たちによって再評価の機運が高まっている。そのまま Zuppa スープや Risotto リゾットにすると、プリプリした食感が楽しめる。栄養価が高いため、ファッロ100%で製麺したパスタの需要がイタリアで高まっている


2007/06/20

海へ。リビエラを目指して

霧のベールを抜けるとリグーリアの輝く海だった

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【Photo】断崖沿いに五つの村が点在するチンクエ・テッレ。目のくらむような急斜面にブドウやオリーブの畑が開墾されている。そこに暮らす人たちのたゆまぬ努力と英知が、他所と隔絶されたこの地に特異な文化と景観をもたらしている

 イタリア到着初日から、15時30分過ぎまでたっぷりと楽しんだトリュフ尽くしの昼食が、一行のその夜の食欲を極度に減退させていました。そのため、宿泊先のRupestrルペストゥルでジョルジョが腕を振るったBollito mistoボッリート・ミストや Agnolotti in broodアニョロッティ・イン・ブロードといった、肉三昧のピエモンテ料理の夕食には、ほとんど口をつけずじまい。どれも優しい味付けの煮込み料理でしたが、ジョルジョには本当に申し訳ないことをしました。

 Rupestr常連の西川さんからは、肉を多用するピエモンテ料理は日本人には重いですよ、と事前に聞いていました。そのため、一週間のピエモンテ滞在中に新鮮な魚介料理が恋しくなるだろうと想定していたのです。ならば、滞在期間なかばにピエモンテの南隣に位置し、海に面したリグーリア州を訪れて海の幸で胃を休めるのが得策。ところが、テッラ・マードレの公式行事日程の都合で、リグーリア行きは到着翌日に設定せざるを得なかったのです。想定外だったのは、初日のトリュフ三昧ランチで、全員の胃がピエモンテ料理に根を上げたたこと。よって、結果的にはこのスケジュールが幸いしました。
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【Photo】周囲をブドウ畑に囲まれたアグリツーリズモ「ルペストゥル」の部屋から。北イタリア特有の濃霧の中にバルベーラ(写真手前・紅葉したブドウ)やモスカート(写真奥・葉が黄色がかった緑)など、ピエモンテ特産のブドウ畑が広がる

 長旅の疲れもあって、ぐっすりと熟睡した翌10月25日朝。ベッドから起き出して部屋の窓から外を眺めると、濃霧が立ち込めたブドウ畑が目の前に霞んで広がっていました。前夜はすっかり陽が落ちてから、カネッリの市街地をはずれ5キロあまり山道を登ってゆくRupestrまで、ジョルジョの先導のもと、真っ暗な細いくねくね道をビュンビュン飛ばしながら辿り着いたため、そこが周囲をブドウ畑に囲まれた場所である事が判らなかったのです。(注1)

 トリノとの間に広がるモンフェラート丘陵と、フランス国境のアルプスの山並みから伸びる尾根(=Langheランゲ)に挟まれたランゲ地区一帯は、北方のアルプスから吹き降ろす冷たい空気と、リグーリア湾からの暖かい湿気を帯びた風がぶつかって、秋から冬にかけてNebbiaネッビア(=濃霧)が頻繁に発生します。この地の代表的なブドウ品種Nebbioloネッビオーロは、ネッビアが発生する11月に熟することと、果皮にネッビアのような白い粉がふくことから名付けられたのだそう。

 甘いパンとカフェラッテのイタリア式朝食を済ませたメンバーが、この日向かう先は東リビエラ海岸沿いに位置するチンクエ・テッレ。リゾート地として有名なリビエラは、ジェノヴァを境にビーチリゾートとしての性格が強い西リビエラと、紺碧の地中海に切り立った断崖が続く風光明媚な東リビエラに分かれます。世界のセレブが集う高級リゾート地として知られるポルトフィーノの東側から、ポルトヴェーネレにかけての隔絶された一角に家屋が密集して張り付くMonterosso al Mare モンテロッソ・アル・マーレ, Vernazza ヴェルナッツァ, Corniglia コルニーリア, Manarola マナローラ, Riomaggiore リオマッジョーレの五つの集落が点在する特異な景観を持つエリアを総称して、Cinque Terre チンクエ・テッレ(=五つの土地)と呼ぶのです。カネッリからの移動時間は高速道路を利用して3時ほどとジョルジョから聞いていました。
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【Photo】ミラノやトリノといった工業都市を背後にもつジェノヴァは今も活気あふれる港町。歴史的建造物が建ち並ぶ旧市街は2006年に世界遺産に登録された

 朝霧が立ち込める牧草地が広がるニッツァ・モンフェラートから交通の要衝アレッサンドリアに向かい、そこから高速A26・通称Autostrada dei Trafoliアウトストラーダ・デイ・トラフォーリ(=トンネル〈Traforoの複数形〉の道)を通って、ランゲからアペニンの山並みに分け入りました。すると次第に霧のベールが取れ始め、リグーリア州に入ると、いかにもイタリアらしい太陽が顔を覗かせ始めました。その名の通り、いくつものトンネルを抜けた後に、抜けるような青空と輝く海が見えた瞬間、車内では歓声が上がりました。A10・通称Autostrada dei Fioriアウトストラーダ・デイ・フィオーリ(=花道!)経由で東リビエラ海岸に迫る山並みを縫うように走る高速A12・通称Autostrada Azzurraアウトストラーダ・アッズーラ(=青の道/ここでは「紺碧の道」と訳したいところ)に合流するそこは、コロンブス(イタリア語表記ではColomboコロンボ)やバイオリンの名手でもあった作曲家パガニーニの出身地として知られるジェノヴァ。かつてヴェネツィア・アマルフィ・ピサと並ぶ海洋国家として栄えた港町は、現在もイタリア最大の取扱高を持つ貿易港です。

 ジェノヴァ市街は、リグーリア湾に沿って延々34キロにも及びます。トンネルの多いA12を運転しながら、背後に迫る山の標高差を飲み込むように建てられた郊外の高低差のある特徴的な集合住宅や、荒涼とした山並みの岩肌に潅木が混じり、その緑がだんだんと濃くなってゆくさまを眺めているうち、山の色が変わってきたことに気付きました。

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【Photo】背後にすぐ山が迫るジェノヴァ郊外の斜面には、潅木に混じってオリーブの木が植えられ、バジリコ栽培用のビニールハウスも散見される

 銀色が混じったような淡い青緑の葉はオリーブ特有のものです。リグーリア州は、北海道最北の稚内と同じ北緯45度付近に位置する北イタリアの州ながら、一月の平均気温が摂氏10度前後と温暖な地域です。250kmに及ぶリグーリア湾の海岸線には暖流の北大西洋海流が流れており、さらにピエモンテ州との境界となるランゲ丘陵とエミリア・ロマーニャ州との境界となるアペニン山脈が北方からの冷気の侵入を阻みます。加えて年間を通して吹き付ける偏西風とシロッコが三日月形をしたこのエリアに温暖な地中海性気候の恩恵をもたらしているのです。

 とはいえ、内陸部を中心に山岳地が全体の7割近くを占める地勢のため、平地・丘陵地は川沿いや一部の海岸部に散見される程度。そのため、この地の人たちは山間地や丘陵の斜面を切り開いてオリーブの生産を続けてきました。その歴史は入植したギリシャ人やフェニキア人によるものを含めると、紀元前10世紀頃まで遡れるといわれています。日当たりの良い南側全体にオリーブの木が植えられた小高い山もあり、収穫に大型機械が使えないリグーリアの生産者の苦労が伺えました。(注2)私たちは、その最たる光景を、その日チンクエ・テッレで目にすることになります。イタリア全体のオリーブオイル産出量のほぼ半数を生産する最大のオリーブ生産地、南イタリアのプーリア州では、平坦な土地一面がオリーブ畑となっており、それがアドリア海の海岸線まで続いています。一方、リグーリア州のオリーブ生産地の様相は、オリーブ畑というよりもオリーブ山と形容したほうがふさわしいかもしれません。

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【Photo】山に穿たれたトンネルが続く高速A12沿いには、銀色がかった特有の青緑色の葉を持つオリーブの木が一面に植えられた山が続く

 リグーリアの山がちな地形は、イタリア最北西のアルプス山中に位置する小州、ヴァッレ・ダオスタ州に次いで少ないワイン生産量しかこの地にもたらしていません。それでも100種を超えるブドウ品種が丘陵地や断崖の狭小な斜面で育てられています。古来より海洋民族であったリグーリア人の食生活は魚介中心でした。よって、リグーリアでは白ワイン用品種が主力です。この地では数少ない肉を使った名物郷土料理、西リビエラのウサギの煮込みにも、白ワインがよく合います。やはり地方色豊かな料理とその地のワインは一心同体なのです。

 記録上では1,000種以上のブドウが作られてきたイタリアですが、19世紀末に全ヨーロッパのブドウが壊滅的被害を受けたフィロキセラ(ブドウ根アブラムシ)禍やオイディウム(ウドンコ病)などによって、劇的に品種数を減らしました。現在およそ400の品種が固有品種として確認されているブドウと同様に、オリーブも一説には500種ともいわれる品種がイタリア国内で栽培されています。ともに一国で栽培される品種数としては、イタリアは世界でも冠たる多様性を持つ国といってよいでしょう。こうした国から、生物多様性の重要性を訴えるスローフード運動が生まれたのも頷けます。

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【Photo】リグーリア特有の傾斜地に開墾した段々畑で栽培されるタジャスカ種のオリーブ

 リグーリア州特産のオリーブ品種といえば、Taggiascaタジャスカ種を挙げねばなりません。西リビエラの歌謡祭で有名な町サンレモの東7キロほどにTaggiaタッジャという町があります。10世紀ごろ、その町のベネディクト派修道師たちが植樹したのが名前の由来といわれるタジャスカ種は、現在もリグーリア州内だけで育てられます。小さな果粒に占める種の割合が大きいものの、その果肉をオイルに加工すると、スパイシーな苦味や青っぽさがない、やさしいフローラルな甘味とアフターにほのかなアーモンドの香りが特徴の繊細なオイルとなります。このオイルはリグーリア湾で揚がる新鮮な魚介の料理と絶妙な好相性を発揮します。

 そのオイルを使用する州都ジェノヴァの名がついたリグーリアの代表的なソース、Pesto Genovese ペスト・ジェノヴェーゼ(注3)は、手を合わせてねじった形のショートパスタ"Trofie トロフィエ"との組み合わせが定番。そのほか、加熱した魚介料理や、ボイルしたジャガイモ、そしてシンプルにリグーリア発祥のフォカッチャやパンにつけても美味しいサルサソースとなります。日本にも瓶入りの製品が輸入され、お馴染みのペスト・ジェノヴェーゼの主役バジリコは、かつてイタリア国内ではリグーリア州だけで栽培されていたハーブです。インド原産のこのハーブは、中世に小アジア経由でヨーロッパにもたらされ、温暖な地中海に面したリグーリアと南フランスのプロヴァンスで盛んに栽培されるようになりました。現在でもイタリア国内で最も栽培が盛んなリグーリア州におけるバジリコの作付面積は第二位のラッツィオ州の1.5倍にあたる400ha、年産170トンあまりに及びます。このうち120トンは、意外な事に温室で栽培されています。日本では寒さのため越冬できずに一年草扱いのバジルですが、元来はアルカリ性の土壌を好む多年草です。南イタリアのカンパーニャ州(州都・ナポリ)では路地栽培も可能ですが、日照量が多いリグーリア州でも、温暖な気候を好むバジリコを年間通して栽培するには、温室栽培が向くようです。車で移動中にも丘陵地の斜面にガラス張りやビニール張りの温室が点在するのを目にしました。
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【Photo】陽光あふれるハウスで栽培されるバジリコ・ジェノヴェーゼ


「絶品シーフードと絶景チンクエ・テッレ」に続く
 

【注1】
Rupestr到着後、ジョルジョは開口一番「Bravo! Alfista! (=ブラヴォー!アルファロメオ乗り)」と私に握手を求めてきた。日本で Alfa Breraに乗っていることをトリノ空港での待ち時間にジョルジョに話していたからだ。彼が運転しながらも同乗者との話に夢中になっている時(→イタリア人の習性である)以外は、容赦なくブンブン飛ばす彼のプジョーにぴたりとついて走る私を、こう褒め称えてくれたのだった。
しかし、ピエモンテ滞在中、ハンドルを握る私はこの霧に幾度も悩まされる事になった。イタリアの道路は、ロータリーや分岐点などの要所に必ずその先にある町の名前が記された標識が設置されているので、標識を頼って走れば道に迷う心配はほとんどない。しかし、視界が5メートルほどしか利かない濃霧の中を、夜間に標識を頼りに走るのは至難の業。そんな私には、地図と首っ引きでナビゲーターを務めてくれたアル・ケッチァーノの若手料理人・佐藤渓司君が心強い片腕となってくれた。全く利かない視界のために、緊張を強いられガチガチに凝り固まった肩や腰をプロはだしの達者なマッサージで揉みほぐしてくれたのは、同じく原田健二君。あまりの気持ちよさに、マッサージをされながらそのまま寝込むこともあったほど。改めてお二人には感謝の気持ちをお伝えしたい。「もっけだの。」

【注2】
1000年もの樹齢を持つオリーブの木をイタリア語では olivo または ulivo、オリーブの実は oliva または uliva と表記する。オリーブの食用における用途としては、果肉をプレスしてオイルをとる搾油用と、塩水やオイルに漬けて食用とする果肉加工用、そしてその兼用の品種に分かれる。南北に長いイタリア各地で、気候風土や地方ごとの料理に合うオリーブの品種が有史以来、営々と栽培されてきた。主な用途である Olio di Oliva オーリオ・ディ・オリーヴァ(略して Olio d'oliva オーリオ・ドリーヴァ。レストランでは単に Olio オーリオでも通じる)=オリーブオイルは、品種によって、色合いや風味が異なる。日本への輸入量が近年飛躍的に伸びている。オリーブオイルには、単一品種のものもあれば、数種の品種をブレンドした製品もあり、多種多様。植物性の油でも唯一果肉からもたらされるオリーブオイルは、農産物である以上、天候によって作柄が左右される上、搾油の仕方が味を左右する。

オリーブオイルはオイル100g中に含まれる多価不飽和脂肪酸成分であるオイレン酸の割合(遊離酸度)によってランクが国際的に規定されている。最高級のエキストラ・ヴァージン・オイルを名乗るには、酸度が0.8g以下と規定されている。オリーブの実は、枝から離れると、すぐに酸化が始まるので、あらかじめ落実したものは使わない。地面にネットを張った上で収穫を行うのは、落とした際にできる傷口から酸化するリスクや雑菌が入るのを防ぐため。機械による収穫では、枝ごと揺らして実を落とす。品質にこだわる生産者は、実に傷をつけぬよう枝から手摘みをする。収穫後いかに短時間で搾油工程に入るかが高品質のオイルを作る第一関門だ。エキストラ・ヴァージンの場合、長くとも48時間以内には搾油される。

次なる関門は搾油工程。最近の主流は、回転式の破砕機で収穫した実を短時間で砕いてペースト状にする方法。一方、花崗岩や御影石製の石臼で破砕してペースト状にする伝統的な方法では、作業中の温度上昇は抑えられるものの、破砕機に比べ時間を要するため、ペーストが空気に触れる時間が長くなりがち。さらに前者よりも作業効率が落ちるため、現在では少数派となりつつあるよう。破砕されたペーストは、かつてはドーナツ状の繊維に挟み、圧縮して搾油されたが、現在は衛生的な遠心分離機で水分とオイル、そして絞り滓に分ける方法が主流。収穫した実をペースト状に破砕した上で搾油する際、効率を上げるためにペーストを加熱するケースがある。その温度が高すぎると、酸度が上がると共にオイルの香りが失われてしまう。そのため、上質なエキストラ・ヴァージン・オイルでは、搾油温度を30℃以下に保つ「コールドプレス」と呼ばれる方法がとられる。

加熱により酸化しにくい上、善玉コレステロール値(HDL)を維持しつつ、悪玉コレステロール値(LHL)だけを下げるため、動脈硬化の予防に効果が高いオレイン酸(一価不飽和脂肪酸)の含有量が食用油の中でオリーブオイルが群を抜いて多い、という成分解析がされた近年では、健康的側面からもオリーブオイルは注目を集めている。

温暖な気候に適したオリーブのヨーロッパにおける栽培地の北限は、【File 4】グラッパの項目でご紹介したヴェネト州バッサーノ・デル・グラッパ(北緯45度36分)である。この町の北部を遮るアルプスとブレンダ川が、温暖なミクロクリマ(局地的気候)をもたらしている

【注3】
バジリコの葉・松の実・ニンニクを専用の大理石製すり鉢と木製のすりこぎ棒ですりつぶし、グラナ・パダーノとペコリーノ・サルドの2種のチーズを加えて、オイルでペースト状にして塩で味を調えるのがオリジナルレシピ。チーズはパルミジャーノ・レッジャーノで代用することもある。ただし、使用するオイルは刺激のある個性の強いものではなく、バジリコの香りを消さない繊細なタジャスカ種のオイルを使用したい。バジリコ(英名バジル)には、バジルブッシュやバジルシナモン、バジルグリークなど数種類ある。ペスト・ジェノヴェーゼ発祥の地ジェノヴァでは、同市西部の"Pra プラ地区"産の葉が幾分小ぶりなバジリコ・ジェノヴェーゼ種、それも葉をつけて2ヶ月以内の若葉が最良とされる。イタリア国内でも入手が難しいジェノヴェーゼ種ではなく、甘い香りが特徴のスイートバジルが使われることが多い。リグーリアでPestoといえば、ジェノヴェーゼを意味する

2007/06/15

伝説のグラッパ職人、ロマーノ・レヴィ

天使のグラッパ職人は生き仏だった

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【Photo】アルプスを遠望するNeive ネイヴェの町

 タルトゥフォ・ビアンコの残り香を全身から発するお大名様一行が次に目指したのは、カネッリからアルバへと西に向かう道を20キロほど進んだクーネオ県ネイヴェ。そこには知る人ぞ知るグラッパ職人であり、イタリアらしいファンタジックでハンドメイドなモノ作りの極みともいえるRomano Levi ロマーノ・レヴィさんのグラッパ蒸留所兼自宅があるのです。カネッリと至近距離にある蒸留所への訪問は、私のたっての希望で組み込んだもの。車に乗り込む同行メンバーは一様に「誰それ? 」「何しに行くの? 」といった雰囲気でしたが、行く先を操るドライバーは私。先導するジョルジョについて「ムフフ・・伝説の人に逢わせてやるぜぃ」と、約束の4時に間に合うよう、はやる気持ちをおさえつつ道を急ぎました。ただ、1928年生まれと高齢のレヴィさんは最近体調が思わしくなく、ご本人にお会いできるかどうか、行ってみないと判らないよ、と事前にジョルジョからはクギを刺されていました。

 ピエモンテ州はワインの銘醸地として有名ですが、とりわけクーネオ県は世界的に名高いバローロ、バルバレスコといったワインの有名産地を抱えます。ワインの醸造のため除梗され果粒となったブドウは、仕込みの途中で果皮や種を除かれます。このワイン醸造過程で不要になる残り滓を発酵・蒸留して作られるのが、いわゆる「滓取りブランデー」で、ワインの副産物の酒として世界各国で作られてきました。これらの蒸留酒は、イタリアではGrappaグラッパ、フランスではEau de Vie de Marc オー・ド・ヴィー・ド・マール(Marcマールと略して呼ばれる方が多い)、スペインではAguardiente アグアルディエンテ、あるいはOrujoオルッホと呼ばれます。原料が安価に入手できるので、どちらかと言えば庶民の酒として親しまれてきたものです。

 温暖な地中海性気候のイタリアでも、北部の冬の冷え込みは相当のもの。かつて貧しい労働者たちは寒さをしのぐ手段として、また強壮剤がわりに、40度前後ものアルコール度数のグラッパをあおっていたようです。北イタリアの一般家庭では、コレット(エスプレッソにグラッパを加えたアレンジカッフェ)や、グラッパをストレートで飲みながら家族や友人同士の語らいを楽しむのが食後の習慣でした。さらに気管支炎や便秘、消毒薬や歯痛などの薬としてもグラッパは使われていたようです。

coretto.jpg【Photo】希少なキアーナ牛の産地、トスカーナ州キアーナ渓谷の近くの街モンテプルチアーノで。巨大なキアーナ牛のビステッカ(=ステーキ)を平らげた後のカッフェは、グラッパと共に登場。消化を助けるグラッパを入れた Espresso Coretto は、ビステッカの後の定番だ

 古代ギリシャ人がエノトリア・テルス(=ワインの大地)と呼んだほど、ワインの栽培に適したイタリア。現在イタリアの全20州でワインは作られていますが、グラッパは北部イタリア各州、特にヴェネト州やピエモンテ州、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州などの主要なワイン生産地でワイン醸造の副産物として、10世紀前後から製造・消費されてきました。ルネッサンス期に蒸留技術が発展し、アルプスの麓に位置するヴェネト州北西部のバッサーノ・デル・グラッパ(=グラッパのバッサーノ)という町では、1601年に蒸留酒組合が設立されています。町を流れるブレンダ川にかかる屋根付きの木造橋ポンテ・ヴェッキオ周辺には、グラッパを取り扱う店が現在も多数立ち並びます。バッサーノ・デル・グラッパ近くにある山、モンテ・グラッパ(=グラッパ山)は、グラッパという酒名の由来ではないかという説もあります (注5)

bassanograppa.jpg【Photo】バッサーノ・デル・グラッパの町を流れるブレンダ川と、屋根のかかった木製の橋「ポンテ・ヴェッキオ」

近年、イタリア料理人気も手伝って、日本でもグラッパの名前は食後酒として広く知られるようになりました。ヴェネト州の州都ヴェネツィア特産の凝った意匠のボトルに入ったグラッパは仙台の酒販店でも見かけます。Sassicaia サッシカイアや Luce ルーチェといったトスカーナ州産の有名ワイナリー銘柄のグラッパが、北イタリアの蒸留所に原料が運ばれて製造されていることはあまり知られていません。

grappadiLuce.jpg【Photo】トスカーナの名門 Frescobaldi フレスコバルディとカリフォルニアの雄 Robert Mondavi ロバート・モンダビのジョイントで生まれたスーパートスカーナ「ルーチェ」。日本に初めて正規で輸入されたファーストヴィンテージの'95とバッサーノ・デル・グラッパ近郊のJacopo Poliヤーコポ・ポリ蒸留所で造られるルーチェブランドのグラッパ

 イタリアにおいてグラッパの名が全土に浸透したのは20世紀に入ってから。それ以前はフランスと地理的に近いピエモンテ州では、ブランダBranda (=ブランデー)という呼び名が一般的だったようですし、ヴェネト州においても Graspa グラスパと呼ばれたりしていました。現在の欧州連合(EU)発足以前の1989年、欧州共同体(EC)体制化において、グラッパという名称がイタリア産の滓取りブランデーにのみに認められると法制化されて以降、呼称の統一が図られました。

 グラッパの原料となるワイン醸造の残り滓をイタリアでは「ヴィナッチャ」といいます。一定のクオリティを持つ製品化されたワインを蒸留して造るコニャックやアルマニャックなどのいわゆるブランデーとは異なり、素材そのものであるヴィナッチャ、特に果皮にはブドウ本来の香りが凝縮しているため、それを蒸留するグラッパは、素材となるブドウの持ち味や品質がダイレクトに蒸留後の味わいに反映されます。ブドウ生産農家の自家蒸留も含めて、イタリアにおけるヴィナッチャの蒸留元は、20世紀初頭には二千軒ほどあったといいます。そのため、圧搾後の保管の良し悪しによって酒質にバラつきが出がちで、'80年代半ばまでグラッパは安酒というイメージが浸透していました。現在のように人気ワイナリーの名を冠したグラッパが作られることも、まして一流のリストランテの食後酒としてオンリストすることは無かったのです。

grappaberta.jpg【Photo】ニッツァ・モンフェラートにある Berta (ベルタ)社は、樽で熟成させた至高のグラッパを生み出している。これはモスカート(マスカット)種のヴィナッチャから抽出したアルコール成分を、8年間樽で熟成させてからリリースする限定品。琥珀色を呈するそれは至福の時間をくれるはず

 風光明媚なリゾート地コモ湖の北方、スイス国境に程近い山中の町、ロンバルディア州最北部に位置するソンドリオ県カンポドルチーノから、西隣のピエモンテ州でもブドウ栽培が盛んなランゲ地方のネイヴェに移り住んだセラフィーノ・レヴィは、駅近くの Via 20 Settembre (=9月20日通り)に面した一角で1925年にレヴィ・セラフィーノ蒸留所を興しました。しかし、彼は8年後の1933年に若くして他界。その当時7歳だった娘リディアと5歳の息子ロマーノを抱えた母テレジーナは、女手ひとつで夫が興した蒸留所を引き継ぐ決意をしたのです。

casalevi.jpg【Photo】ロマーノ・レヴィさんの自宅兼蒸留所で。2階にレヴィさんと姉のリディアさんが暮らす。写真右手建物の奥に蒸留施設がある

 第二次世界大戦下の1945年。遡ること2年前の1943年にイタリアは降伏文書に調印していましたが、ナチスドイツの支援を受けたムッソリーニは、ドイツの傀儡(かいらい)政権というべきイタリア社会共和国をロンバルディア州ガルダ湖畔で樹立。ローマ以北を支配下に治め、連合国側が支配する南イタリア諸州との間でイタリアは内戦状態にありました。そんな混迷した状況下の3月30日の朝、ニッツァ・モンフェラートとアルバを結ぶ鉄道施設を数機の爆撃機が襲撃しました。その際、ネイヴェにある小さな駅も爆撃を受けたのです。このとき姉リディアは教会に、ロマーノは地下のセラーに逃れて難を逃れました。この爆撃で8名のネイヴェ市民の命が失われました。その中にロマーノの母テレジーナが含まれていたのです。それはムッソリーニがパルチザンに捕らえられて処刑され、その二日後にヒトラーがベルリンで自殺し、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が収拾するちょうどひと月前のことでした。
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【Photo】壁にはレヴィさんが好きだというフクロウのオブジェや、来訪した著名人の写真が飾られている

 こうして19歳で高校を卒業したばかりのリディアと、17歳の高校生だったロマーノの兄弟二人だけが残されました。まだ若い彼らが生きてゆくための必然の成り行きとして、その年のブドウの収穫が終わった秋、父が創業した蒸留所の釜にロマーノ少年が初めて火入れをしたのです。創業当初から周辺のカンティーナ(=ワイン醸造所)から持ち込まれていたヴィナッチャは、いったん庭に掘られた穴に埋められ、いわば天然の冷蔵庫で一冬を越します。
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【Photo】建物奥のヴィナッチャ保管場所で。アンジェロ・ガヤなど近郊のカンティーナから持ち込まれる材料用のヴィナッチャは、黒いビニール袋に入っている。手前がアルコール抽出を終えたヴィナッチャで、抽出の際の燃料にまわされる。燃料の灰は、畑に撒かれ土壌改良に使われる

 最初にロマーノが仕込んだヴィナッチャは、母が不慮の死を遂げる前年に遺したものだったはず。それまでは誰もグラッパの蒸留法をロマーノに教えたことはなかったといいます。その日から今日に至るまで60年以上にわたって、レヴィさんはひたすらグラッパを作り続けているのです。姉のリディアさんが庭で摘んだミントやセージなどのハーブが入ったグラッパも作られてきましたが、80歳を迎えたリディアさんは最近病気がちのため、ハーブ入りのグラッパclicca quiを見かけることは少なくなりました。
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【Photo】フクロウの小物がたくさん置かれていた作業場内部。奥のアランビッコから手前の樽にアルコールが移される

 現在、グラッパ作りで主流なのは、スチームによる加熱方式。そのほか二重構造になった釜の間に熱湯を通して加熱する方法を取り入れている蒸留所もあります。沸点が100℃の水を使用したほうが、加熱温度が高すぎるとアルデヒドなどの悪臭成分が発生するヴィナッチャから、79℃以下で沸点に達するエチルアルコールを気化させて抽出する蒸留作業の温度管理がしやすいからです。加水したヴィナッチャを加熱してアルコール成分を抽出するのは、創業当初から80年以上を経過した直火式のカルダイアと呼ばれる銅釜を含む蒸留装置。この蒸留装置を総称してアランビッコといいます。近所に暮らすジョルジョ・トーソさんが親子二代に渡ってアランビッコのメンテナンスを担当しています。ブドウの搾り滓を直火で加熱して蒸留酒を造っているのは、今日のイタリアでは唯一レヴィさんだけとなりました。自家消費用を除けば、世界でも例を見ないかもしれません。釜の熱源を両親から受け継いだ炎に頼ってきたレヴィさん。元気だった頃は朝4時に釜に火を入れ、永年の勘で温度管理を自らしていたそうです。

 ワインラヴァーの私が初めてロマーノ・レヴィさんを知ったのは、'90年代半ばに目に触れた雑誌の記事を通して。そこには風変わりなヘタウマ風の絵が手書きされたラベルのグラッパと、いかにもクセ者というオーラを放つレヴィさんの写真が載っていました。いわく作り手のもとを訪れないとグラッパを入手できないこと。ラベルが一枚ずつ手書きされること。機嫌が悪い時は会ってもくれず、会えたとしても譲ってくれるとは限らないこと、そこには電話すらないこと・・・・などが記されており、強烈な印象を残したことを記憶しています。(注6)レヴィさんの代名詞といえる手書きのラベルはグラッパ造りを始めて18年後の1963年から登場しています。著名なイタリアのワイン評論家、故ルイジ・ヴェロネリがその頃レヴィさんを「Grappaio Angelico (=天使のようなグラッパ職人)」と形容し、さらに1971年12月にイタリアの週刊誌 Epoca で紹介して以来、レヴィさんは生ける伝説となったのです。

UomoSelvatico.jpg【Photo】筆者所有のレヴィさんのグラッパ。右が donna Selvatica ドンナ・セルヴァティカ。左はレヴィさん自身の投影だという Uomo Selvatico ウォモ・セルヴァティコ(「野生の男」の意)

 日々の出来事や印象的な出逢いを絵や詩で紡ぎあげるため、ひとつとして同じものが存在しないレヴィさんの手書きラベルをまとったグラッパには、世界中にファンがおり、プレミア価格で取引されます。日本における実勢価格は、700ml入り一本およそ2万円前後。熟成期間の長いリゼルバや、とりわけマニアに人気の高いキャラクター「Donna Selvatica ドンナ・セルバティカ(直訳では「野生の女性」→お転婆娘・じゃじゃ馬といったニュアンス)」がラベルに登場するものとなると、一ケタ跳ね上がることも。後に私たちが立ち寄ったネイヴェ中心部のエノテカ(注7)では、店内の目立つ場所に鎮座したレヴィさん手書きラベルのグラッパが100エウロだったのに対し、同程度の熟成期間を経た同じような中身のグラッパでも、印刷ラベルのものは、30エウロと3倍以上の価格差がありました。

printedaquqavite.jpg【Photo】レヴィ・セラフィーノ蒸留所製の印刷ラベルのグラッパ「Acquavite di Vinaccia」。中身は同じでもプレミア価格となる手書きラベルのグラッパよりかなり割安。蒸留所で試飲用に置いてあったグラッパはこれだった

 かくするうちに、ネイヴェの町に辿り着いた一行。街の中心部の道端でジョルジョが運転するプジョーが停車しました。通りの斜め向かいには、イタリアワイン界のリーダー的存在として著名なアンジェロ・ガヤ氏と並んでバルバレスコの巨人と称されるブルーノ・ジャコーザ氏のカンティーナ(=ワイン醸造所)が何気にあるではありませんか。「おお、スゲぇ~」。ネイヴェはバルバレスコ村とすぐ目と鼻の先のランゲ地区の中心部に位置します。そのためブドウ畑が広がるランゲ地区を車で走っていると、こうして有名カンティーナと突然出くわすことがあるのです。車を降りたジョルジョは、広い庭のある一軒の家の中に入ってゆきます。さまざまな草木が生い茂った庭には猫が2匹。紛れもなくこの古びた建物がロマーノさんの自宅兼蒸留所なのでした。

yaneselva.jpg【Photo】屋根の上にはレヴィさんファンにとってのアイドル? ドンナ・セルヴァティカちゃんの金細工が

 建物の奥にはアルコール抽出が終わった固形のヴィナッチャがうず高く積まれた一角が。そこからは再発酵作用のため、湯気が上がっていました。蒸留釜の燃料はすべてこの使用済みのヴィナッチャを活用しています。燃やしたヴィナッチャの灰は、ブドウ農家に引き取られ肥料として活用されるといいます。

Fornenryou.jpg【Photo】使用済みのヴィナッチャ。水分を除くために木製の圧搾機(下写真左の木製の器具)にかけられた際につく縦縞模様がついているのがわかる

 私たちが訪れた10月末は、赤ワイン用ブドウ品種としては収穫時期が早いバルベーラ種やドルチェット種が仕込みを終え、そのヴィナッチャが周辺のカンティーナから持ち込まれる時期でした。11月に入ると、収穫が最晩秋となるネッビオーロ種が持ち込まれてきます。それらは黒いビニール袋に詰められた上、ひと冬を庭の穴に埋められてから上から砂で覆われ、天然の冷蔵庫でじっくりと寝かせてから蒸留するのだそうです。かつては、アルネイス種やモスカート種などの白ワイン用のブドウのヴィナッチャも使用したそうですが、蒸留前に一次発酵させる必要があるため、現在では赤ワイン用ブドウを使用しているそうです(注8)
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【Photo】(左写真)作業中のファブリッツィオさん(上)とブルーノさん(下)/(右写真)カルダイアで煮沸されるヴィナッチャ。アルコールを帯びた蒸気が銅製の管を伝って抽出される

 私達が訪れた時、作業場ではレヴィさんのアシスタントを勤めるブルーノさんとファブリッツィオさんが働いていました。蒸留作業が終盤にさしかかり、蒸留釜の蓋が外されています。ハシゴに登って中を覗くと釜の中でヴィナッチャがグツグツ沸騰しています。ヴィナッチャに含まれる水分とアルコールの二つの揮発成分は加熱によって水蒸気となりますが、エチルアルコールの沸点のほうが水のそれよりも低いため、ヴィナッチャに含まれるアルコール成分の抽出という蒸留の目的は、煮沸工程の前半で果たされます。アルコールが気化した蒸気を再び純度の高いアルコールとして液化させるために、冷却装置である銅製のパイプと蒸留塔で液化し、そこから直接パイプで樽に移された後、2年間以上に渡って熟成されます。樽の素材がトネリコとクリ材の場合は透明に、アカシアとオーク材の場合はコハク色に、材質の成分が滲み出て仕上がるそうです。最終的にそれらは混ぜあわされてアルコール度数が50~60度になるよう加水の上、瓶詰めされます。

 「わしゃ、一種類のグラッパしか作っとらんよ」と煙に巻くレヴィさんですが、調合の度合いによって、味わいはさまざま。気の良さそうなブルーノさんに勧められて、ほのかに琥珀色を帯びたグラッパを試飲していると、ジョルジョが駆け足でやってきました。数名に分かれてレヴィさんと挨拶ができるそうです。やって来てよかった!その日は天気も良く、10月下旬の北イタリアとしては、暖かだったので、レヴィさんの体調が良かったのでしょう。

spider.jpg【Photo】首を持ち上げるポーズで記念撮影。窓際に幾重にも張られたクモの巣は埃だらけ

 敷地に入ってすぐ左手にある木の扉を開けて、裸電球の照明がぶら下がった雑然とした部屋に通されました。そこはレヴィさんが天使と交信しながらラベルを描くアトリエなのでした。壁一面に世界中から訪れる訪問者と撮られた写真や、いろいろな絵が掛けられています。西洋では知恵のシンボルといわれ、レヴィさんも好きだというさまざまなフクロウの小物が部屋中に置かれています。ファンの間では有名な? 蚊が捕れるからとそのままにしている幾重にも張られたクモの巣は埃だらけ。そこには何やら虫が引っかかったまま。窓際の机の前にチョコンと座って前ローマ法王・故ヨハネ・パウロ二世のように(私にはそのように思えました。)手を広げて歓迎の意を表す穏やかな笑みを浮かべた人がロマーノ・レヴィその人でした。友人を通して訪問の仲介をしてくれたジョルジョが私達を順番に紹介すると、レヴィさんは両手で頭を持ち上げる仕草をしながら、こんな格好で申し訳ないと開口一番。頚椎を傷めて首を固定するバンドを頭に巻いていないと、頭が上がらないそうで、そのような状態にもかかわらず面会の時間を割いてくれたレヴィさんの優しさに打たれました。

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【Photo】具合が悪いレヴィさんの首に気を送る奥田シェフ

 ささやかな御礼代わりになればと、「レヴィさんの首が楽になるよう『気』を送ってあげて」と奥田シェフに耳打ちしました。シェフが左手をレヴィさんの首に当てると、「Bene, Bene(≒あ゙~、気持ちいい)」とつぶやき、気持ちよさげ。私も彼に倣ってレヴィさんの首に気を送っていると、ジョルジョがグラッパのボトルを私に一本差し出しました。それには Kimura と私の苗字が書かれたドンナ・セルバティカのびっくり顔のラベルclicca qui が貼られていたのです。予期せぬ展開にその瞬間、ワーオ!と思わず声を上げてしまいました。さぞかしラベルに描かれたセルバティカちゃんと同じような顔だったことでしょう。
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【Photo】それぞれ頂いたオリジナルラベルのグラッパを手に。手前より筆者、奥田シェフ、西川さん、ジョルジョ。シェフからのお土産・アル・ケッチァーノの純米吟醸酒「水酒蘭(ミシュラン)」を手にするレヴィさん

 奥田シェフと西川さんにも名前入りでドンナ・セルバティカの別バリエーションで用意されていました。最近は体調が悪くて、ほとんどラベルの絵が描けないと聞いていたのですが、事前にジョルジョが手を回してくれていたのです。ありがとうレヴィさん。ありがとうジョルジョ。アトリエを出がけにお土産にと、レヴィさんの絵の焼印が押されたコルクも頂きました。

 限られた時間での出会いでしたが、えもいわれぬ包容力をたたえたレヴィさんとのまさに「一期一会」の時間は、メンバー全員の胸に深く刻まれた様子でした。前述の理由で手書きのグラッパは非常に量が限られてきているため、ジョルジョが手配できたグラッパは、この日訪れたメンバーのうちでも3人分だけ。しかもその3本はプレミアなしの値段でした。

 後日談で八巻編集長が帰路のパリ空港でたまたま荷物整理のために奥田シェフがスーツケースから取り出したラベルに OKUDA と書かれたグラッパを見咎め、「何それ! OKUDA って書いてあるじゃない」と詰問し、シェフは答えに窮してその場を逃げ出したとか。それを知ったジョルジョが改めて八巻マンマ用のグラッパを頼もうとしたものの、それから間もなくレヴィさんが体調を崩して入院してしまったことを西川さんから聞きました。一日も早い回復を祈っていたこちらの願いが通じたのか、年明けの2007年1月には退院し、八巻さんとジョルジョのグラッパのラベルも描いてもらえました。同年3月に日本を訪れたジョルジョによって、そのグラッパは八巻さんに手渡されたようです。家宝にせねば。ね、八巻さん。
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 生産手段の工業化は一定の品質を、そして技術革新はめまぐるしいモデルチェンジをもたらします。目先の新しさを追い求めるモノは、えてしてすぐに忘れ去られてしまいがち。私たちの身の回りは、そんなモノで溢れかえっています。しかし、そこには作り手の思いや顔はなかなか見えてきません。かつて優れた品質で世界を席巻した MADE IN JAPAN 製品も、グローバル化の波を受け、海外に生産拠点を移さざるを得なくなり、もともとの「売り」だった品質の低下を招いているケースも見受けられます。

 そんなマスプロダクツの論理や目先の流行とは縁のないところで、レヴィさんは昔ながらのやり方で世界にひとつだけのグラッパを造り続けてきました。伝説の人と会うために今日もネイヴェの古びた屋敷を訪れる人たちは後を絶ちません。レヴィさんから頂いたグラッパの世界にひとつだけの味わい深いラベルを眺めながら、その作り手が歩んだ80年の人生と重ね合わせ、時流に流されないレヴィさんの飄々とした生き方が世界中のファンを惹きつけてやまないのだ。と納得したのでした。

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【Photo】「天使のようなグラッパ職人」と言われる伝説の人から頂いたコルクには、レヴィさんの楽しげな絵が刻印されていた

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【注5】ほかに Grappa グラッパの語源の説として、ブドウの房を意味する Grappolo グラッポロ、果梗を意味する Graspo グラスポなどがあるが、いずれも決め手に欠ける。

【注6】そうして近郊の酒販店や酒商もレヴィさんのグラッパを入手している。彼らが上乗せする転売差益を支払いさえすれば、家を訪問せずとも入手は可能。レヴィさんイコール手書きラベルと日本では短絡的に紹介されているが、実は Acquavite di vinaccia (アックアヴィテ・ディ・ヴィナッチャ)と印刷されたラベルの「レヴィ・セラフィーノ」ブランドのグラッパも一部市場に出回っている。高齢のレヴィさんがこなせる量は限られるので、手書きラベルのグラッパの希少性は増すばかりだ。そのため、2004年の12月からは、ラベル作成を年下の友人であるマウリッツィオさんが時々手伝っているという。二人が共同作業をしたボトルには、ROMANO E MAURIZIO と記されている

【注7】酒販店のこと。私たちが訪れた「エノテカ・デル・ボルゴ・ディ・ネイヴェ」は、ワインの聖地ランゲだけあり、ざっと見たところ商品構成は地元産の赤ワイン85%、同白ワイン10%、グラッパ3%、その他2%と著しく偏っていた。こうした「地元が一番!」という、いかにもイタリアらしいスタンスに好感が持てた。
 それにしてもオーナーが店の奥から切り出してきた生ソーセージ「サルシッチャ」と共にワイン数本を早朝から試飲したが、バランスの取れた気高さを感じさせる自家製バルバレスコの美味しかったこと!日本には入ってきていない銘柄だったが、ピエモンテにはこうした規模の小さなつくり手が多い。ジョルジョに言わせると規模の大きなカンティーナよりも小さなところのほうがワインの品質がいいぞ!とのこと。確かに自分の目が届く範囲でブドウを手塩にかけて育て、自家醸造する作り手のほうが信頼は置けるので、真実の一面を突いている

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【Photo】NEIVEの町 Via 20 Settembre に面した Enoteca del Borgo di Neive。外壁のドンナ・セルヴァティカの絵clicca quiに惹かれて店に寄った。この通りの先にレヴィさんの蒸留所がある

【注8】白ワインは、醸造過程で果粒を破砕して圧力を加えて流れ出たモスト(果汁)がアルコール発酵する前に果皮や種が取り除かれるため、色素がモストに移らない。よって、取り除かれたばかりの白ワイン用ブドウの果皮や種はアルコール発酵していない状態にある。よって、白ワイン用ブドウ品種のヴィナッチャからアルコール抽出するためには、事前に発酵させる必要がある。一方、赤ワインは果皮や種を含んだ状態でモストをアルコール発酵させるため、果皮の色素がモストに移って赤ワイン特有の色合いを呈する。グラッパの蒸留所に持ち込まれたヴィナッチャは、カンティーナの管理下ですでに発酵過程を終えているのである。素材の状態が品質の鍵を握るグラッパゆえ、傷みやすい白ワイン用ブドウのヴィナッチャを使用する場合は、その発酵にも神経を払う必要がある。

2007/06/11

白トリュフの魔力

 2006年秋のイタリア訪問のきっかけは、Slow Food協会が主催した「テッラ・マードレ2006」に料理人として招聘された山形県鶴岡市にある庄内ベジ・イタリアン「アル・ケッチァーノ」の奥田 政行シェフに「取材を兼ねてどうです、今回も一緒に? 」と誘われたから。というのは表向きで、アッシー君としての実績をシェフに見込まれたからに他なりません。
 詳細は機会を改めてご紹介しますが、2003年に奥田シェフがイタリア・マルケ州のオーガニックフェスティバルに招かれて料理を提供した際もイタリアに同行した私。宿泊先だった教会の神父が所有するワゴン車のキーを突然預けられ、食材の仕入れはもちろん、伝統食材の生産現場見学のために遥かモデナやパルマまで車で延べ数千キロを駆け回ったのですから。
 時として上がる同乗者の悲鳴をよそに、一向にスローにならない私の運転を評して「ジェットコースターみたいだ」と、つぶやいたのは同店の青柳マネージャー。(^0^;)お得意のスローとはいえない速さ(注1)で、スローフード協会の公式行事以外にも、ピエモンテ州ほかイタリア各地を今回も駆け巡りました。

◆「禁断の白トリュフ」

 2006年10月24日早朝4時過ぎのパリ・シャルル・ド・ゴール空港ターミナル。搭乗したエールフランスの空港職員の勘違いでトランジットの待ち時間に通されたのは、ビジネスクラス専用のサロンでした。そこに用意された飲み物やお菓子にあらかた手を付け、(「お土産~♪」と言ってマドレーヌを鷲づかみにしたのは、どこのシェフでしたっけ?)予期せず優雅なひとときを過ごしました。広大な空港をトリノまでの乗り継ぎ便の搭乗ゲートまで移動した後、朝7時30分とはいえ、まだ真っ暗なパリを離陸。朝焼けに染まるアルプス上空を越え、ほどなく霧の間に滑走路が垣間見えてきたトリノ空港に着陸したのが、定刻の8時45分でした。
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【PHOTO】秋のトリノ周辺は霧が立ち込める事が多い。機上から垣間見たトリノ市街。万年雪を頂くアルプスがすぐ間近かに迫る

 そこで私たちを飛び切りの笑顔で出迎えてくれたのは、ピエモンテでの宿泊先となったアグリツーリズモ「Rupestr(ルペストゥル)」のオーナー、Giorgio Cirio ジョルジョ・チリオ氏。その年の3月に奥田シェフの店で会って以来の再会です。いざ、予約していたレンタカーをピックアップして出発進行!と思ったものの、空港でローマから合流する予定だった私の友人が、機材故障のため到着が大幅に遅れるトラブルが発生。"ハプニングも旅の醍醐味"というプラス思考で空港を2時間あまり散策した後、巨大なFIATのワゴン車にスーツケースをぎゅうぎゅう詰めにして、ジョルジョが運転するプジョーの先導のもと、トリノ市内を経由してからモンフェラート丘陵の間を走る高速A21をスプマンテの産地として有名なアスティの手前まで疾走。アスティ県にある90キロほど南東にある町、カネッリに向かいました。
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【PHOTO】トリノからアスティへと向かう高速A21を激走するジョルジョの年季の入ったプジョー306。イタリアの高速道路における一番左側の車線は追越し車線である。定員一杯でスーツケースまで満載したジャッポネーゼが運転する車を先導しながらも、ジョルジョはこのようにビュンビュン飛ばし続けた。(後部座席から青柳店長が激写)

 今回のツアーの同行メンバーは、奥田シェフほか青柳 孝フロアマネージャーと佳子夫人、同店の若手料理人・佐藤 渓治君と原田 健治君のアル・ケッチァーノ関係者5人。そしてRupestrの常連で仲介の労と通訳をお願いした盛岡在住の税理士・西川 温子さん、私と同じく奥田シェフに誘われて参加した料理雑誌「四季の味」の八巻 元子編集長と、私の友人を含めて車の定員いっぱいの総勢9名での移動となりました。

 スタートが遅れたため、途中で立ち寄る予定だったサレジオ会の創設者でカトリックの聖人ドン・ボスコゆかりの地、Castelnuovo Don Bosco カステルヌオーヴォ・ドン・ボスコへは後日立ち寄ることに変更。"まずは腹ごしらえ"と、メンバーが向かったのは、イタリアの各Guida(=レストラン評価本)での高評価はもちろん、イタリアのレストランには点が辛いといわれるミシュランのレッドガイドでも一つ星を獲得しているカネッリのリストランテ「SAN MARCO サン・マルコ」。奥様のマリウッチャさんがシェフ、ご主人のピエール・カルロさんがソムリエ兼フロアマネージャーというフェレッロ家による経営スタイルは、家族の結びつきが強いイタリアのリストランテではよくある形態です。人口一万人ほどのカネッリの町にあるこのリストランテでも、二人の日本人がその日は厨房で働いていました。ワインに目がない私が事前にWebサイトでチェックして「ココで食べたい!」と一目ぼれしたのは、地元ピエモンテ産ワインがズラリと並んだ地階のセラールーム「La Tavernetta」。その部屋を予約してもらうようジョルジョにお願いしてあったので、私たちが通されたのは、まさにその部屋の大きなテーブルでした。
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【PHOTO】この日SAN MARCO の厨房には、外国人のための教育研修機関「ICIF」でイタリア料理を学ぶ二人の日本人スタッフがいた
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【PHOTO】ピエモンテ州ランゲ地区の名醸ワインがズラリ。SAN MARCO のセラールーム「La Tavernetta」でゴキゲンなジョルジョと奥田シェフ

 テーブルには、一般的なスティック状のものと、薄く延ばした細長い形状の自家製だというグリシーニや大きなポルチーニ茸や野菜類が美しくセッティングされ食欲をそそります。
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【PHOTO】テーブル上のディスプレー。白い野菜がカルド・ゴッボ・ディ・ニッツァ・モンフェラート(上写真)自家製グリッシーニ2種類。グリッシーニ発祥の地はトリノだそうな(下写真)

 まずは、ジョルジョがチョイスしたカネッリにあるカンティーナ(=ワインの醸造元)CONTRATTOの辛口スプマンテで、彼の「カンパーイ」の流暢な日本語の発声のもと旅の無事を祈って乾杯。
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【PHOTO】CONTRATTOのSPUMANTE'02は、長雨による厳しいヴィンテージを反映してか、残念ながら泡立ちや複雑味、奥行きがいまひとつ。かつてこのカンティーナの醸造責任者を務めた経歴のあるジョルジョも物足りなさ気だった

 予約したお任せコースは、フェンネル(=ういきょう)のクリームとフォアグラ、ジャガイモと自家製ソーセージ、豚の頬皮のサラミ・ポレンタ(注2)挟みフリットなどの5品のアンティパスト(前菜)で始まりました。
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【PHOTO】アンティパストは大皿で登場

 そこに先ほどまで厨房にいた日本人スタッフの中村さんが、小学生の握りこぶし大ほどの大ぶりなタルトゥフォ・ビアンコ(=白トリュフ)を皿に6個ほど載せて登場。すると、えもいわれぬトリュフの芳香が部屋中に漂い始めました。いわく「グラム単位の計り売りになります。いかがされますか?」。野暮な質問はやめてくれ~。据え膳食わぬは何とやら。魅惑的な匂いをかがされたワンコ同然の私たちは、イタリアが誇る超・高級食材、白トリュフの産地に、しかも旬の真っ盛りに日本からわざわざ来ているのですから、頼まないはずがありません。きちんとグラム単価の説明を受けたかどうかは、視線がトリュフに集中するあまり記憶が定かではありません。それでも極めて高価な食材である事は充分知っているつもりで、メンバー相談の上オーダーしました。
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【PHOTO】トリュフを手に登場した日本人スタッフ中村君。私たちの視線は皿の上に釘付け

 テーブルにもディスプレーされている野菜「Cardo Gobbo di Nizza カルド・ゴッボ・ディ・ニッツァ」は、カネッリの北東8キロほどにあるNizza Monferratoニッツァ・モンフェラート周辺の砂の多い土壌で作られるアザミの一種。生育途中で一ヶ月ほど茎の部分を土中に埋めて白化させる伝統的な栽培法でスローフード協会からプレジディオ指定を受けています。
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【PHOTO】ポルチーニのトルティーナ・フォンドュータソースと温製カルド・ゴッボ・ディ・ニッツァ

 そのカルド・ゴッボ・ディ・ニッツァを温製の付け合せにした「ポルチーニのトルティーナ・フォンデュータソース」には、シェフのマリウッチャさんが登場し、専用のおろし具で白トリュフをおろし始めました。その途端、先ほどまで部屋の中に漂っていた芳香が一段と強く立ちこめはじめたのです。
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【PHOTO】白トリュフをたっぷりとスライスするシェフのマウリッチャ・フェレッロさん

 白トリュフの最大の魅力である馥郁たる香りは、黒トリュフとは比べ物にならないほど強く、取引価格もイタリア産黒トリュフの3倍以上はします。その芳香は収穫された後、時間の経過と共に水分ともども失われてゆきます。日本に空輸された白トリュフをリゾットで食べたことがありますが、その時に感激した香りすら、比較にならないほど嗅覚を強く刺激する心地よい香りです。あわせるワインはジョルジョにお任せで、バローロやバルバレスコにも使われるピエモンテの代表的なブドウ品種、ネッビオーロをABBONAという作り手が仕込んだミディアムボディのNEBBIORO D'ALBA BRICCO BARONE'03。
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PHOTO】NEBBIORO D'ALBA BRICCO BARONE '03

 そこから、豪奢な白トリュフの饗宴が始まりました。まずは、持ち味の繊細極まりない肉質は地元で味わう生食でこそわかるという、これまたプレジディオ指定を受けたピエモンテ牛のタタキ料理「カルネ・クルーダ」。
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【PHOTO】PIEMONTE牛のタタキ「カルネ・クルーダ」

 次にピエモンテ州の伝統的パスタ、ピエモンテ訛りで「タヤリン」と呼ばれる小麦と卵黄で作る手打ち細麺パスタ「タリオリーニ」、肉やチーズ・野菜を詰め物にするキョウザのような形のラザニア「アニョロッティ・ダル・プリン」。
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【PHOTO】タヤリンとアニョロッティ・ダル・プリン

 そしてピエモンテでもフランス国境に近い標高1,800メートルに位置するアルプス山中の村、クーネオ県カステルマーニョの澄んだ空気のもとで2年の熟成を経て作られる希少価値の高いチーズ「カステルマーニョ」をからめたニョッキ。
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【PHOTO】 カステルマーニョチーズ風味のニョッキ

 これらの皿には、料理を覆いつくさんばかりのトリュフが贅沢にすりおろされました。料理自体の香りと味わいが、トリュフの放つフェロモンたっぷりの芳香によって増幅され、妙なる響きを口から鼻腔にかけて奏でるさまは、今でも鮮烈に記憶しています。かつては媚薬としても珍重され、今日でも世界の食通が鵜の目鷹の目で追い求めるアルバ産白トリュフ。料理の画像だけで、あの香りを皆さんにご紹介できないのが、つくづく残念!

 私たちが訪れた直後の2006年11月、アルバで行われたオークションで、香港の実業家が慈善団体へ寄付をするため自身が主催したチャリティディナー用に3個あわせて1.5キログラムになる大きな白トリュフを12万5千ユーロ(=約1,900万円)で落札したといいます。そんな白トリュフの魔力に魅入られた一行は、トリュフをすりおろすスライサーの手をせわしなく動かすカメリエーレ(=給仕)に「STOP」をかける理性を、その時すでに失っていました。

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【PHOTO】仔ヒツジのリブロース・バローロソース

 メインディッシュ「仔ヒツジのリブロース・バローロソース」には、ピエモンテらしいしっかりとした味付けに負けないフルボディのワインが、ソムリエによってデキャンタージュされてサーブされました。バローロ・ボーイズ(注3)と呼ばれる優れた新世代の作り手PAOLO SCAVINOのBAROLO'01は、'96年から6年間も連続したピエモンテのグレートヴィンテージ最後の年。さすがは秀逸な造り手の優良年だけあって、味わいの構成バランスが取れた良くできた印象のワインでした。
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【PHOTO】PAOLO SCAVINOのBAROLO'01。評価の高い畑指定のクリュものではないバローロでもさすがの味わい

 幸福な充足感に浸る私たちに、アスティ県の南端ランゲ地区ロッカヴェラーノで作られるプレシディオの山羊乳チーズ、「ロビオーラ・ディ・ロッカヴェラーノ」とアルバ産の「ロビオーラ・ディ・アルバ」が運ばれてきました。前者は熟成が進み山羊乳特有の酸味が薄れた香りが強いもの。後者は牛乳も混ぜたフレッシュなタイプで、熟成の度合いによって同じシェーブルチーズでも印象が全く異なりました。
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【PHOTO】(上写真/右側から)ロビオーラ・ディ・ ロッカベラーノとロビオーラ・ディ・アルバ(下写真)メレンゲほかピエモンテの焼き菓子数種

 この後に続いたドルチェは、ドライフルーツやナッツ類が入ったヌガー菓子「トローネ」とチョコレート、シチリアのマルサラ酒を使ったピエモンテ発祥のカスタード「ザバイオーネ」が添えられたクレームブリュレ、メレンゲと素朴な焼き菓子が美しく盛られた3皿。
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【PHOTO】(上写真)トローネとトリュフチョコ(下写真)クレームブリュレ・ザバイオーネソース

 強烈な芳香を放つ白トリュフを使ったフルコースをたっぷりと頂いたため、胃の物理的要因もさることながら、心因的な充足感から、ドルチェを口に運ぶのを躊躇するメンバーがほとんど。バローロの生産者として名高いMICHELE CHIARLOの食後酒「バローロ・キナート」(注4)で胃をすっきりさせ、何とかドルチェもほぼ完食しました。トリノまでの空路、2度提供された機内食の内容に閉口していた私たちは、イタリア到着早々、何とも贅沢極まりない食事よって、長いフライトの疲れを一気に回復したのでした。
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【PHOTO】MICHELE CHIARLOのBAROLO CHINATOは食後に楽しむDigestivo(食後酒)

 締めくくりのエスプレッソで豪奢なフルコースの余韻に浸っていると、食事の途中で用事のため中座していたジョルジョが戻ってきました。最初の見学先となる伝説のグラッパ職人ロマーノ・レヴィさんのもとを訪れる約束の時間が迫っていたのです。精算をお願いした伝票を見ると、料理代金が500エウロ(イタリアでは「ユーロ」を「エウロ」と発音します)、ワイン3種類5本で184エウロ、カフェ20エウロ、ミネラルウォーター18エウロ、タルトゥフォ218グラム×単価3.6エウロ=784.80エウロで、しめて1,506エウロ。出発時の為替レートは1エウロ=約153円だったので、23万円余りということになります。電卓をたたきながらも、にわかに一人当たり2万3千円という数字を信じられません。イタリア人が手書きした数字は独特のクセがあり、日本人には読みにくいため、ジョルジョに念のため確認しましたが、残念ながら間違いありません。ガ・ガ・ガーン ( ̄ロ ̄lll)・・・

 おいしい料理の後の幸福なマッタリモードに浸っていた私たちは、その時初めてトリュフの魔力に気付いたのです。西川さんには「到着早々のランチだから軽めに」とお願いし、ジョルジョもPiccolo Pranzo(=軽い昼食)と予約したのに、友人であるジョルジョの予約だったため、どうやら店側が品数をサービスしてくれたようです。☆付きリストランテの質の高い料理内容からして、料理の代金は安いくらいだったと、後にジョルジョは言っていたそう。想定外だったのは、事情通のジョルジョが不在にしている間、スライサーでトリュフを惜しげもなく振舞うカメリエーレに誰もストップをかけることなく、トリュフだけで12万円あまりが私たちのお腹にいつしか吸い込まれていったこと。(TT)/~~ 代金をクレジットカードでまとめて支払った私の友人は、到着初日の昼食で、早くも利用限度額を意識せざるを得なくなってしまい、なんとも気の毒でした。

 日本人が思い描くイタリア料理は、オリーブオイルやトマトソースで味付けされた魚介中心の南イタリアの食事かもしれません。しかし、フランスと地理的に近く、内陸に位置するピエモンテの料理は、肉食が中心で味付けに動物性の脂やバターを使用するため、ともすると重く感じられると聞いていました。SAN MARCOで出されたのは、まごう事なきピエモンテ料理。それでも女性シェフらしい細やかさと、サヴォイア王朝の都だった歴史を持つトリノの洗練された文化の影響からか、洗練された味付けが印象的でした。

リストランテ サン・マルコ
 住所:Via Alba 136 14053 CANELLI(AT)
www.sanmarcoristorante.it

【注1】 イタリアの一般道における制限速度は、市街地が時速50キロ、郊外で90キロ、高速は130キロと法律で決められている。しかしその実態は・・・高齢ドライバーを除く大方のイタリア人は、市街地を出れば、そこはサーキット場と考えている。郊外の一般道における巡航速度は130キロを下回ることは稀。日本のように60キロほどで走ろうものならビュンビュン追い越されるはずだ。郊外の交差点は、ほとんどが合理的なロータリーになっており、信号機だらけの日本のように、ストップ&ゴーで燃費を悪化させる弊害はない。もっとも信号があってもローマ以南では、信号を守るドライバーのほうが珍しいかもしれない。それでいて暗黙のルールは存在し、運転の上手なドライバーも多いため、とてもスムーズに走れる(と、思う)。「WHEN IN ROME , DO AS THE ROMANS DO = 郷に入っては、郷に従え」が身上の私は、イタリア式の流儀にのっとって走っただけである。(・・・って開き直りだろうか?)

【注2】トウモロコシの粉を水で溶いて弱火にかけ、40分から1時間以上(事情通によれば、本人が納得するまでらしい)、ひたすらかき混ぜてトロトロになるまで煮込む北イタリアの伝統的な家庭料理。パイオーロと呼ばれるポレンタ専用の銅製の鍋もある。北イタリア各地で、さまざまに味付けがされ、特に小麦の栽培が困難な土地のやせた山間地でよく食べられる。最近は時間がかかる本来のものではなく、3分ほどで出来上がるインスタント製品も出回っている。 
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2005年3月に庄内を訪れたイタリア・マルケ州アルチェヴィアのSindaco(=町長)シルヴィオ・プルガトーリ氏ら訪問団のメンバーの一人アルフィエーロ・ヴェルディーニ氏から贈られた年季もののパイオーロ

【注3】名醸地ピエモンテでは、1980年代初頭までは、大手の酒商がワインの販売権を独占しており、「ワインの王」バローロや「ワインの女王」バルバレスコにおいても、ブドウ生産者が栽培から醸造まで一貫して行う「生産者元詰め」は、ジャコモ・コンテルノやバルトロ・マスカレッロなどの20軒ほどの事例を除いて行われていなかった。酒商によって買い叩かれたブドウ生産者は、いきおい多産に走り、ブドウとワインの品質低下を招いた。そのような状況を打破するべく、'80年代中頃にブルゴーニュのような畑の区画指定「クリュ」の概念や、ブドウの少量生産、バリックによる熟成といった手法を導入した次世代が登場した。彼らが生み出したバローロやバルバレスコは、ブドウ生産地として本来恵まれた土地であったピエモンテの世界的名声を一気に回復させた。それら新たな手法でワイン元詰め生産を行ったピエモンテの生産者第二世代を「バローロ・ボーイズ」と総称する

【注4】ほぼピエモンテ州内のみで食後酒として飲まれるほろ苦く甘い酒。南米アンデス原産のキナの木の樹皮に含まれるキニーネというマラリアの特効薬となる成分や数種類のハーブやスパイスをブドウ果汁由来のアルコールに溶かし込み、バローロを加え補糖したデザートワイン。作り手によって味はさまざま。

2007/06/08

「Terra Madre テッラ・マードレ」に参加して

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スローフードの祭典「テッラ・マードレ」

 スローフード運動発祥の地、イタリア北部ピエモンテ州の州都Torinoトリノを主会場に2006年10月末に開催された食の国際イベント「Terra Madreテッラ・マードレ(=「母なる大地」の意)」。

 グローバル化と均一化が進む世界の潮流に抗うかのように、個々の伝統に根ざした質の高い食を通じた人々の新たなネットワーク作りを模索したこのイベントには、協会が指定する「アルカ(=味の箱舟)」 (注1)登録生産者に加え、今回初めて料理人と学術研究者らが招聘され、東北からも関係者が多数参加しました。

 テッラ・マードレと同時開催されたのは、スローフード運動が目指す食の世界を体感できる「Salone del Gustoサローネ・デル・グスト(=「味のサロン」の意)」。主催は2006年が創立20周年に当たったスローフード協会です。五日間の会期中に両イベントを延べ19万人以上が訪れたといいます。幕張メッセで行われる日本最大の食の見本市「FOODEX JAPAN」の2006年における来場者は、四日間で9万5千人あまり。スローフード運動が、いまや地球規模で広がりをみせていることを物語る数字といえるでしょう。

 美食の国イタリアが誇る味の数々を求めて、実りの季節を迎えたピエモンテ州とその周辺各地を、イタリア人顔負けの"爆走系"に変身した庄内系イタリア人が訪れました。思い出すだにヨダレがじ~んわりな突撃レポートをタント・マンジャーレ(=たんと召し上がれ)。
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【photo】テッラ・マードレの会場となったリンゴット・オーバルを埋めるさまざまな国籍の人・人・人... <clicca qui> ここはトリノ冬季五輪のスピードスケート競技会場となった


◆食の新たなネットワーク作りを模索した「テッラ・マードレ」

 テッラ・マードレ2006に参加したのは、世界150カ国から1,600の生産団体・5,000人の生産者、1,000人の料理人、400人の大学研究者ら。(初の開催だった2004年の前回は、130カ国1,200の生産団体・5,000人の生産者が参加。)開会式は、トリノ冬季五輪のスピードスケート競技会場となった同市内リンゴット内の見本市会場「オーバル」で、イタリア共和国ナポリターノ大統領列席のもと、2006年10月26日に行われました。
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【photo】開会式に駆けつけたナポリターノ伊大統領 "slowfood archives"

 広大な会場内に国名のアナウンスが続くなか、国旗を掲げ民族色豊かな衣装で続々と登場する五つの大陸から集った生産者たち。その様子はテレビで観た冬季五輪の開会式さながら。各国の風土・伝統が育んだ多様な食文化を駆逐する食のグローバル化を阻止しようというスローフード運動が、世界規模で広範な支持を受けていることを実感させられます。恐らくは自分が生まれ育った土地から離れたことすらないであろう第三世界からの参加者も数多く見受けられました。
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【photo】世界中から生産者が集った開会式のオープニング "slowfood archives"

 急速な工業化・効率優先主義が招いた食のグローバル化・味の均一化に対して、スローフード運動が掲げる「地域の伝統に根ざした個性豊かな生物多様性を守る」という理想を雄弁に語る幕開けといえましょう。
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【photo】国際色豊かなテッラ・マードレの会場「オーバル」前で

 冒頭挨拶に立ったスローフード協会カルロ・ペトリーニ会長は、生産者・知識人・料理人が立場を超えてお互いを認め合い、同じ目線で消費者との新たな関係を築くように会場を埋めた参加者に訴えました。そして質の高い食に携わる人たちが異業種とつながりを持つことによって、より良い食に関する情報が発信され、やがて地球の生態系に好影響を及ぼすよう期待を表明しました。
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【photo】新たな食のコミュニティ作りを訴えるスローフード協会カルロ・ペトリーニ会長 "slowfood archives"

 テッラ・マードレ会期中、大学の研究者による集会や国・地域ごとの集会が催されました。日本をテーマにした地域集会では、日本茶の紹介がされていました。また、農業・水産業におけるアグロエコロジーやGM(遺伝子組み換え)食品に関する各種テーマごとの分科会、さらに「アルカ」指定産物の生産者による各種分科会などのさまざまな公式行事が行われました。地域に順応した環境負荷が少ない牧畜に関する分科会に東北から参加し、日本短角種の飼育事例発表を行った合砂 哲士(あいしゃ さとし)さん(19)=岩手県岩泉町=は、「短角種同様、絶滅の危機にある希少な牛を飼育するカメルーンやスコットランドなどの生産者と意見交換し、良い励みになった」といいます。 

 余目ネギを生産する関内 清一さん(59)=仙台市宮城野区=も「希少種の保存に意欲的な生産者同士が国境を越えて出会えたことが収穫だった」と参加の意義を振り返ります。生産者らの滞在先となったのは、冬季五輪の選手村となった施設。関内さんらは、トリノ滞在中にピエモンテのネギ生産農家を訪問し、Porro(ポッロ=ポロネギ)生産の様子を見学したそうです。訪問先の農家では、ネギ畑の中に即席のテーブルをしつらえて、地元のワインと心づくしの料理で歓待してくれたのだとか。
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【photo】ファストフード大国アメリカの食意識を変えたといわれるカリフォルニア・キュイジーヌの祖「シェ・パニース」のアリス・ウオーターズ "slowfood archives"

 今大会における生産者と並ぶもう一方の主役は、世界中から集まった1,000人の料理人でした。その中には、料理雑誌やテレビなどのさまざまなメディアに登場する有名な料理人も含まれます。日本からは、スローフード協会の末端組織にあたる「コンヴィヴィウム」から推薦され、協会本部が最終的に選抜した11人の料理人が招聘されました。
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【photo】テッラ・マードレ開会式に参加した日本の料理人の中から。右から鶴岡市「アル・ケッチァーノ」奥田政行シェフ、京都「吉兆」徳岡邦夫料理長、パリにある日本料理店で腕を奮う山形出身の女性料理人、宮城「ふみえはらはん」渋谷文枝さん

 彼らが一同に会した席上、フランスのレストラン評価本「ミシュラン」の星をもっとも多く獲得している著名な料理人アラン・デュカス氏は、食のオピニオンリーダーである料理人が固有の文化を反映した郷土料理を伝承する必要性を述べました。

 現在、世界で最も予約が困難だといわれるスペインの人気レストラン「エル・ブジ」のシェフ、フェラン・アドリア氏の「西欧の価値観に基づく料理を模倣する時代は終わった。皆さんは自身の多様性を誇りにして良い」とのスピーチに、会場は喝采に包まれました。
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【photo】エル・ブジのフェラン・アドリアは一段と大きな拍手で迎えられた

 農家レストラン「ふみえはらはん」の渋谷文枝さん(59)=宮城県加美町=は、「バイオ技術によって耐病性や収穫効率を上げる一方で、採種不能にしたため、毎年農業生産者に種子の購入を強いる "F1種子" の販売権を巨大資本が独占している現状に、改めて自然な農業のあり方でもある自家採種の大切さを痛感した」といいます。インドの経済学・物理学者のバンダーナ・シーバ女史は、F1種子販売権を独占する米国系多国籍化学某メーカーなどに負債を抱えたインドの農業生産者が、年間12万人も自殺に追いやられている現状を閉会式のスピーチで報告したのです。
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【photo】生産者に種子の選択の自由を与えよ!と訴えるバンダーナ・シーバ女史のスピーチに、会場はスタンディング・オベ-ションと鳴り止まない拍手に包まれた"slowfood archives"

 庄内ベジ・イタリアン「アル・ケッチァーノ」の奥田政行さん(37)=鶴岡市=は、「効率優先の風潮の中で失われた人間同士の食を通じた結びつきが、東北にはまだ残っている。関係性を重んじるスローフードの精神が息付いている東北から、大切なものは何かを、今まで通り発信してゆきたい」と語りました。

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【photo】世界中からテッラ・マードレに集った1,000人の料理人たちが、再会を誓ったファイナルセレモニー。高く放り投げたのは、協会から贈られた調理帽
 
 閉会式で参加者全員に配布されたのは、世界中から選ばれた1,600ものプレジディオに指定された食材を紹介した冊子でした。その名もズバリ「Terra Madre 2006」。生物多様性と個性ある食文化の縮図ともいうべき760ページあまりの分厚いこの一冊には、各プレジディオ生産団体のプロフィールや連絡先などが記載されていました。その冊子を手に「ここに集った皆が、帰国後も連絡を取り合おう」と、生産者・料理人・研究者・マスメディアらのネットワーク構築の意義をアピールして締めくくったペトリーニ会長の演出が印象的でした。
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【photo】閉会式で連帯の必要性をアピールするカルロ・ペトリーニ会長 "slowfood archives"


【注1】
「味の箱船」とは?
◆生産や流通の過程で効率を優先する近年の考え方、あるいは過度な衛生管理規定によって、伝統的な製法で作られる個性的で安全な食品の多くが、消滅の危機にある。スローフード協会は、それらの食品を「味の箱船」に指定して、保護に乗り出した

スローフード協会が規定した登録基準および禁止事項は以下の通り
●登録基準1:その生産物が、特別においしいこと
     (この場合の「おいしい」とは、その土地の習慣や伝統を基準にする)
●登録基準2:その生産物が、ある特定の集団の記憶と結びついており、相当程度の年月、その土地に存在 した植動物の種であること。また、その土地の原材料が使われた加工・発酵食品であるか、地域外からの原料であっても、その地域の伝統的製法で作られること。(この場合の「記憶」や「年月」は、現地の歴史に照合して判断する)
●登録基準3:その地域との環境・社会経済・歴史的なつながりがあること。
●登録基準4:小規模な生産者による、限られた生産量であること。
●登録基準5:現在、または将来的に消滅の危機にあること。

▲禁止事項1:遺伝子組み替えではないこと、遺伝子組み換え食品が生産の一部にも一切、関与していないこと。
▲禁止事項2:トレードマークや商業的ブランド名がついてない生産物であること。
▲禁止事項3:選定後も、スローフード協会のロゴやかたつむりマークを、直接、食品に掲載しない。

2005年12月にスローフードジャパンが認定した日本の「味の箱船」9品目のうち、6品目が東北から選ばれた。その6品目は以下の通り。
 「日本短角種」「安家地ダイコン」(岩手)
 「花作ダイコン」「米沢雪菜」(山形)
 「余目ネギ」「長面の焼きハゼ」(宮城)

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