あるもの探しの旅

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2011/11/27

トスカーナが呼んでいるぅ~

罪作りで目の毒な本
FINE WINEシリーズ「トスカーナ」

NBCtoscana.jpg 【Photo】トスカーナ州を中心に90人以上の醸造家が美しい写真とともに登場する「FINE WINE シリーズ トスカーナ」。ワインの生産現場にある造り手の顔が見えるだけでなく、ブドウが育つ大地に吹き抜ける風の香りが感じられる一冊(右写真)

 ワインジャーナリズムが発達した英国で最も権威ある評価機関が「The Institute of Masters of Wine(略称:IMW)」。IMWが認定するワインのスペシャリスト「マスター・オブ・ワインには、世界中で299人のみが認定されているに過ぎません。その一人が1940年にLAで生まれ、現在は英国を拠点にワインジャーナリストとして活動するニコラス・ベルフレージ氏です。

 1970年代からイタリアワインの魅力にとりつかれ、英国の著名なワイン評価本「Decanter」誌や、ワイン関連書籍としては世界最多の累計部数を誇る英国きってのワイン評論家・ヒュー・ジョンソン氏の「Pocket Wine Book」で、イタリアワインに関する評価を担当していたこともありました。

NB1_toscana.jpg【Photo】風が吹き抜ける音しか聞こえない典型的なモンタルチーノの風景の中に佇む醸造所「Camiglianoカミリアーノ」。1957年に現オーナーであるゲッツィ家が入手した建物は、中世期には物見台として使われたという。そこは100haにも及ぶ屈指の広大なブドウ畑に囲まれている(「FINE WINE シリーズ トスカーナ」より)

 多種多様なイタリアワインに造詣が深いベルフレージ氏が2009年にロンドンの出版社「Fine Wine Editions」が発行するワインガイド「Finest Wine」のひとつとして出版したのが「The Finest Wines of Tuscany and Central Italy(=トスカーナと中部イタリア極上のワイン)」。いずこを切り取っても絵のように美しいトスカーナの風景や、醸造家たちの姿を写真に納めたのが、英国在住の写真家ジョン・ワイアンド氏です。

 本書はシャンパーニュを代表する造り手「ルイ・ロデレール」が創設した「International
Wine Writers'Awards インターナショナル・ワインライター・アワード
」9つのジャンルのうち、芸術性の高い仕事に対して贈られる「The Artistry of Wine」を2010年度に受賞しています。その和訳版「FINE WINEシリーズ トスカーナ」が日本で出版されたのが昨年11月。

NB2_toscana.jpg【Photo】歴史ある名酒「ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチアーノ」を産するモンテプルチアーノ郊外に建つサン・ピアージョ教会は、周囲の風景に溶け込むルネサンス様式の美しい聖堂(「FINE WINE シリーズ トスカーナ」より)

 前回の訪問から5年のブランクを置いて、重篤な禁断症状が出ている庄イタのイタリア欠乏症。その対症療法としてトスカーナ州モンテプルチアーノで2番目に古い1,000年近い歴史を刻むカンティーナ「Contucci コントゥッチ」の扉が表紙となったこの本を出版直後に購入しました。以来、あたかも極上のワインを味わうようなワクワク感を、この美しい写真集のようなワインガイドはページをめくるたびに体験させてくれます。

 国内での名声のみならず、ここ数年で国外でもワイン産地として脚光を浴びるようになったトスカーナ。高まる一方の需要と人気を反映するかのように、ここ15年ほどで価格上昇が最も著しいイタリアワインがトスカーナ産赤ワインだと言ってよいでしょう。しかしながら本書では、変貌著しいトスカーナワインの魅力の神髄は、著名な米国のワイン評論家ロバート・パーカーが95点以上の評価をつけて国際市場で引く手あまたとなる高級ワインではなく、多くのイタリア人が日々の糧とともに楽しむ85点前後のワインにこそあることを序説で押さえています。この点に関しては私も意を同じくするところです。

 本書で登場するのは、イタリアで最も著名ながら、1970年代半ばまで横行していた過剰生産の悪弊で、ボルドーやブルゴーニュを至上とするワインスノッブの人々から白眼視されたものの、いまや変貌を遂げたキアンティ・クラシコ、クラシコゾーン以外では最も熟成能力のあるキアンティを産するRufinaルフィーナを含むフィレンツェ東部・西部、シンデレラワインが次々と登場するマレンマなどの海岸地域、バローロと並び称される高級ワインの代名詞ブルネッロを生むモンタルチーノからオルチア渓谷沿いに絵画のような風景が続くモンテプルチャーノ、そして塔の街サン・ジミニャーノなど。
 
NB3_toscana.jpg【Photo】著者ニコラス・ベルフレージも絶賛するイタリアきっての素晴らしいデザートワインである「Vin San Giustoヴィン・サン・ジュスト」。陰干ししたブドウの果汁を6年間の眠りにつかせる樽を前に揃ったマルティーニ・ディ・チガラ兄弟。右から無愛想なフランチェスコ、エリザベッタ、私を快く迎え入れてくれたルカ(「FINE WINE シリーズ トスカーナ」より)

 登場する生産者のヴィーノの多くは日本にも入ってきており、実用書としての役割を十分に果たします。醸造家の言葉と写真が並ぶ本書を眺めているだけで心はトスカーナへとトリップしてゆくかのよう。すでに確固たる地位を築いていたオルネッライアをさらなる高みに引き上げたアクセル・ハインツ氏や、アヴィニョネージと並ぶ珠玉の極甘口ワイン「Vin San Giustoヴィンサンジュスト」を心行くまで試飲させてくれたルカ・マルティーニ・チガラ氏、昨年仙台に来てくれたキアンティ・クラシコ協会会長のマルコ・パッランティ氏ら、お会いしたことがある醸造家たちの懐かしい顔も登場します。

 ヴィーノを飲みながら彼らの言葉を読み返しているうち、醸造所を訪問して肉声を聞いているような錯覚すら覚えます。そんな儚い酔いから醒めた時、思うに任せない籠の鳥のような境遇を恨むとともに、かえって禁断症状が悪化することを承知の上で、手に取らずにはいられなくなる、とっても罪作りな本なのです。

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FINE WINEシリーズ トスカーナ
ニコラス・ベルフレージ(著) 水口 晃 (監修) 佐藤志緒 (翻訳)
出版社: 産調出版 320ページ
本体価格:3,400円(税別)


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2010/08/15

イタリアソムリエ協会式テイスティング 〈前編〉

多様な食とワインの組み合わせの新たな座標軸
 @ ピエモンテフェスティバル presented by 宮城・ローマ交流倶楽部

 およそ400年前、仙台藩主・伊達政宗は、スペインとの交易を目的に支倉常長ら慶長遣欧使節を欧州に派遣します。帆船サン・ファン・バウティスタで太平洋を渡り、メキシコを経由してスペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウルス5世と常長らが謁見した史実から、宮城県とイタリア・ラツィオ州ローマ県は姉妹県の関係にあります。「宮城・ローマ交流倶楽部」(会長:西井 弘 弘進ゴム株式会社取締役会長)Link to website】は、イタリアとの相互交流を行う民間団体です。daniela_hiroshi_nishii.jpg同倶楽部の主催で先月初旬、仙台国際ホテルを会場に「ピエモンテフェスティバル」が催されました。「宮城の食材とピエモンテ産ワインのマリアージュ」と題するワークショップで披露されたイタリアソムリエ協会Associazione Italiana Sommeliers 以下、略称のAISと表記)式試飲メソッドで、料理とヴィーノが互いを高めあうイタリア食文化の美点を改めて体感してきました。

【photo】イタリアソムリエ協会公認ソムリエ資格取得のための日本人向け研修プログラムの窓口となるイタリアン・クリナリー・ツアーズ社代表のダニエラ・パトリアルカさんから名誉ソムリエの称号を受ける西井 弘 宮城・ローマ交流倶楽部会長

 日本ソムリエ協会(略称 J.S.A.)が認定するソムリエ試験のテイスティング実技は、Degustation デギュスタシオンなる舌を噛みそうな仏語が正式な呼称です。そこでワインの香りや味わいの例えに用いられるのが、鉛筆・コショウ・カカオ・杉・バラ・新樽由来のバニラ香など。こうした馴染みのあるモノはまだしも、完熟した黒スグリ・レッドカラント・キイチゴ・リコリス(スペイン甘草)・熟成による濡れ落ち葉や土の香りとなると、簡単には思い浮かばない方が多いのでは? これはワインを単体で評価するワインジャーナリズムが発達している英国や仏国を規範とする J.S.A.の方針によるものです。

bagna_cauda_rc.jpg【photo】現代の名工、中村 善二 仙台国際ホテル総料理長が監修したピエモンテフェスティバルで供されたバーニャ・カウダのアンチョヴィには石巻産のイワシを使用したという

 夏野菜をたっぷりと使ったカポナータ(=南仏のラタトゥイユでは用いないビネガーと砂糖を加えた南イタリア料理)、スティック状の冬野菜をアンチョビ・ニンニクとオリーブオイルなどから作る温製ディップソースで頂くバーニャ・カウダ、分厚い赤身の牛肉を塩・胡椒でシンプルにグリエしたビステッカ、白身魚をアサリやトマト・ケイパーなどと水煮するアクアパッツァ、そして各種パスタ料理やリゾットなどなど...。こうしたイタリアンに関しては、ヴィーノがないと嚥下(えんげ)機能が著しく低下して咽喉を通らなくなるラテン体質な私は、一介の「呑むリエ」に過ぎません。イタリア人がそうであるように、美酒が食事をより一層美味しくしてくれれば、それで十分。イタリアの片田舎にあるトラットリアでは、地元の人たちがカラフェに入ったその地方産のハウスワインで食事とおしゃべりに興じている光景に出合います。

Mr.nakamura_rc.jpg【photo】ピエモンテならではの贅沢な肉料理「Brasato al Barolo ブラザート・アル・バローロ(=牛肉のバローロ煮込み)」をサーブする中村 善二 仙台国際ホテル総料理長

 一見、無頓着に地元のヴィーノを選んだかのように見えるイタリア人たちの食卓にも、食事とワインのマッチングには、最低限のお約束は存在します。なにせ幼少の頃から水で薄めたヴィーノで舌のトレーニングを積んでいる人たちのこと。体感的に料理の味付けの濃淡とヴィーノのボディをあわせる彼らの鉄則からすれば、魚介や野菜の入った軽やかで繊細な冷製パスタには、強靭なタンニンが口腔を覆うアリアニコ種から造られるTaurasi タウラージなどフルボディの偉大な赤ワインでは釣り合いません。食事とヴィーノの産地を同一地方で合わせる彼らのセオリーからすれば、白トリュフの濃厚な香りに満たされるスクランブルエッグに、南イタリア屈指の高貴な白品種フィアーノ種を持ってきたのではお互いの美点を掛け算で高め合うことはないでしょう。

sommelier_franciacorta.jpg【photo】スローフード協会主催のSalone del gusto サローネ・デル・グストで行われたフランチャコルタのセミナーで参加者にサービスするAIS公認のソムリエ(右)とソムリエール(左)

 Enologia(=ワイン学)とGastronomia(=日本語では美食学と訳されるガストロノミー)を組み合わせた Enogastronomico エノガストロノミコという言葉が存在するイタリアにおいては、ワインと食事は常に一体のものとして考えられてきました。ゆえにイタリアのソムリエ資格試験においては、ワインのみならず食べ物も視覚・嗅覚・味覚を駆使して体系的に特徴を把握します。日本のようにワインを多彩な言葉を用いて表現するのではなく、食事との相性・組み合わせに重点を置くのです。こうしたイタリアソムリエ協会方式は、ワインを本来の食中酒として楽しむ一般のワインラヴァーにとって、極めて使える技能となるはずです。

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 ミラノ北西部、モンツァ通りにある日本料理店「木村」【Link to website】(⇒寿司ブームに沸くイタリアでも、中国系移民の経営によるこうした怪しげな日本料理店の何と多いことよ!! この店もサイトのBGMは中国語ゆえ、店名も看板にあるKimura ではなく、Mùcún ムーツンと中国読みするやも? )の向かいに本部があるAISは1965年の創設。4年後に発足した世界ソムリエ協会 Association de la Sommellerie Internationale (略称:A.S.I. 本部:パリ。Moët & Chandon社がスポンサードする同協会は後にイタリア主導のワールドワイド・ソムリエ・アソシエーション Worldwide Sommelier Association 略称:W.S.A. と分裂。現在J.S.A.日本ソムリエ協会はA.S.I.に加盟。45カ国で構成されるA.S.I.会長には、J.S.A.会長でプリンスホテルシェフソムリエの小飼 一至氏が2007年に就任。A.S.I.副会長は'95年に同団体が主催するコンテストで優勝した田崎 真也氏)の立ち上げにも主導的な役割を果たしました。

【photo】毎年50名のソムリエがイタリア全州のヴィーノを試飲、Grappolo (ブドウの房)の数でヴィーノを評価するイタリアソムリエ協会発行のワイン評価本Duemilavini (上写真)

 分派した格好のW.S.A.には日本を含めて英・米・独・露など14カ国が参加しています。AIS には国内20州全てに支部があり、さらに町単位の支部が存在します。日本にも支部があるAISは全世界で40,000人の会員を擁します。主な活動としては、柱となるイタリアワインの啓蒙普及活動とソムリエ育成のほか、2000年以降毎年版を重ねているワイン評価本「Duemilavini ドゥエミッラヴィーニ」の発行が挙げられます。11冊目となる2010年版では、1,792ページに渡って1,592 の醸造所が取り上げられています。AISのソムリエが 2万本以上のヴィーノを試飲、最高位の5 Grappoli チンクエ・グラッポリ(=5つのブドウ房)には279 醸造所の319銘柄が輝いています。

vini_rc7.3.2010.jpg【photo】史上初めてイタリア人と接した日本人、支倉常長の偉業にちなんで発足した「宮城・ローマ交流倶楽部」が主催したピエモンテワイン・ワークショップで試飲したヴィーノ。北イタリアらしい繊細な個性を持ち合わせたこれら5 本については、次回ご紹介

 日本のワイン消費量のおよそ半数はフランスワインで占められます。国内消費が主で海外進出が遅れたイタリアワインはその半分にも満たない2 割弱に過ぎません。2009年のデータでは、世界のワイン総輸出量の21.5%を占めるイタリアが頭一つ抜け脱して第一位。シェア16.5%で2位に食い込んだスペインに続くのがフランスで14.5%。にもかかわらず半数をフランスからの輸入で賄う日本と世界の実情との明確な違いの背景として、同じ目標のために国を挙げて行動するのが不得手なイタリア人特有の資質(笑)のみが災いしているのではないようです。世界的に消費が伸びているカリフォルニアやチリ、オーストラリアといったニューワールド産ワインの市場拡大がさほど進まず、旧態然としたブランド志向が根強い日本人のワイン消費傾向が数字から浮き彫りになってきます。冷涼な気候ゆえに赤ワインの自国生産がほとんど出来ない世界最大のワイン輸入国ドイツや、世界第二位のワイン消費国であるアメリカとフランス語を公用語とするケベック州がある隣国カナダですら、イタリアワインのシェアがフランスワインを上回っているという事実だけを述べておきましょう。
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【photo】多種多様なイタリアワインの概要を知るにはうってつけの中川原まゆみさんの著作2点。主要100品種ガイド土着品種で知るイタリアワイン(左)イタリアワイン・スタンダード110(右)

 急速な経済成長による富裕層の登場で、フランスワインの輸入量に関しては、もはや日本の数字を上回った中国は、ワイン消費のみならずブドウの作付けも右肩上がりで増えています。こうした新興の生産国を含めて世界中で最も栽培されているブドウ品種は赤がカベルネ・ソーヴィニヨン、白はシャルドネです。栽培環境を選ばない汎用性の高いこの二つのブドウ品種は、当然イタリアでも栽培されますが、画一的なニッポンのお米のようにコシヒカリに右倣えでは、個性と多様性の国イタリアらしくありません。万年雪に覆われた北の山岳地帯の斜面からアフリカ大陸にほど近い灼熱のシチリア南端の島々まで、起伏と変化に富んだ地形と気候のもと20州全てでブドウが栽培されます。資料によって数は異なりますが、その種類は400を超え、各地の風土に順応して変異したクローンまで細分化すれば優に2,000はあるともいいます。

 郷土料理の良き伴侶として愛されてきたイタリアワインは、その多様性ゆえに理解することが難しいといわれ、ワイン消費に関しては後発国の日本での普及を妨げる一因となってきました。その上、Barolo・Barbaresco の原料となる北イタリア随一の高貴なブドウ品種Nebbiolo ネッビオーロは、Nebbia (=霧)に霞むランゲ丘陵以外のブドウ畑では、本来の強靭で妖艶な魅力あるワインとなることはありません。Brunello di Montalcino など中部トスカーナで最良の結果を生むSangiovese サンジョヴェーゼは、晩熟型のため、収穫期に気候が安定しない地域ではリスクが高くなります。原産地以外への旅が出来ないイタリア品種は、やはり産地で食事とともに味わってこそ、その魅力が初めて理解できるのでしょう。

m_nakagawara.jpg【photo】美食の都・ボローニャを拠点に、イタリアワインの魅力を紹介する活動を展開する中川原まゆみさん
〈撮影:渡邉 高士 氏〉

 今回のセミナーに登場した5 品種を含め、イタリア固有の主要100品種で作られるヴィーノを紹介する中川原まゆみさんの労作「主要100 品種ガイド 土着品種で知るイタリアワイン」(産調出版刊)は、百花繚乱のイタリアワインを理解する上で格好の一冊です。初出から2年を経て改訂版を出した昨年、中川原さんは州別にヴィーノの特色を表す日本でも入手可能な110本と、その良き伴侶となる郷土料理110種のレシピを紹介した「イタリアワイン・スタンダード110」(インフォレスト刊)を上梓します。

 イタリア料理好きが高じ、東京でレストランを開業するも、さらに高みを目指すため、2001年3月単身イタリアに渡った中川原さんは、イタリアン・クリナリー・ツアーズ社が現在日本での窓口となる AIS ピエモンテとの共催による6カ月のソムリエ研修プログラム【⇒詳細はコチラに参加します。同年9月、日本人女性初のイタリアソムリエ協会公認の上級資格、Sommelier Professionista ソムリエ・プロフェッショニスタを取得。AIS主催のPremio Internazionale del Vino 2008(インターナショナル・ワイン・アワード2008)で最優秀レストラン&ワインリスト賞に輝いた1,800種に及ぶ壮麗なワインが記載された131ページのワインリスト〈clicca qui 〉を備えたエミリア・ロマーニャ州の名リストランテ「Paolo Teverini 」のソムリエールとして活躍、現在は輸出業のかたわら執筆活動を続けています。

 と、ここまで前置きだけで本題のテイスティングまで一向にたどり着かないまま、中川原さんの本でイタリアワインに関する予習をして頂いたところで、当日の模様は後編にて... (^_^; A

2009/09/30

奇跡のリンゴ part 1

リンゴ農家・木村 秋則さんの金言
「大事なものは見えない 土も同じだ」

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 化学肥料や農薬に依存しない自然農法で栽培した野菜を我が家に届けてもらっている宮城県村田町の「ボンディファーム」の鹿股 国弘さんと、その野菜を使った料理を店で提供する吉田 克則シェフが仙台市青葉区で営むイタリアン「Enoteca il circolo エノテカ・イル・チルコロ」【Link to back number】の共催による「畑の真ん中で愛を叫びつつ、バーベキューパーティ」が8月上旬にボンディファームの畑で催されました。

 ボンディファームの顧客を対象とした収穫体験と作業後のバーベキューには、昨年も家族で参加しています【Link to back number】。この催しを主催したご縁の浅からぬ鹿股・吉田のご両人から、私はある特命事項を計画段階から託されていました。それは催しのキモとなる青森県弘前市で自然農法でリンゴを栽培する木村 秋則さん(59)をお招きすることでした。昨年5月、木村さんはご不在でしたが、吉田シェフを一度木村さんの畑にご案内していたのです。

【photo】木村さんに頂いたサイン

 2006年(平成18)12月にNHKで放映された「プロフェッショナル 仕事の流儀」で紹介され、翌年1月に初の著作「自然栽培ひとすじに」(創森社刊)で無施肥・無農薬による自然農法に至る足取りと実践を語り、2008年(平成20)7月に、NHKの番組制作班による監修のもとノンフィクションライター石川 拓治氏が著した「奇跡のリンゴ―『絶対不可能』を覆した農家・木村秋則の記録」(幻冬舎刊)はベストセラーとなりました。今回の副題「大事なものは見えない 土も同じだ」はバーベキューパーティに持参した石川氏の著書に木村さんから頂いた直筆のサインに記してあった言葉です。

zuppa_yamazaki-akinori.jpg【photo】
木村 秋則さん(写真左)のリンゴにいち早く注目した地元弘前のフランス料理店「レストラン山崎」の山崎 隆シェフ(写真右)。冷製仕立てのクリームスープは店の看板メニュー


 メディアを通して紹介された現在に至る苦難の道のりと、飾らないお人柄から、にわかに時の人となった勢いは一向に衰えていません。所詮は自然の一部に過ぎない人間は、自然の摂理に逆らうことができないのだから、謙虚であるべきと説いた「リンゴが教えてくれたこと」(日本経済新聞出版社刊)と、UFOに拉致された驚愕の体験などをまとめた「すべては宇宙の采配」(東邦出版刊)を立て続けに上梓。畑の見学や自然農法についての講演依頼が後を絶たず、最近では国内各地は言うに及ばず、韓国やドイツなど海外からも農業指導の依頼が殺到、本業の畑仕事がちゃんと出来ているのかな、と心配になるほど多忙な毎日を送っておられます。

succo_melo.jpg【photo】古い洋館とフランス料理店が多い弘前を代表するフランス料理店「レストラン山崎」にて。木村さんのリンゴを使った冷製スープは夏場はなくなるものの、ジュース(写真中央)なら季節を問わず味わうことができる

 そもそも私が初めて木村さんを知ったのは、たまたま見ていたNHKの番組(プロフェッショナル~)を通してです。訥々(とつとつ)とした津軽弁でキャスターの脳科学者・茂木 健一郎と住吉 美紀アナに笑顔で語りかけるその人は、日本で初めて本格的にリンゴを無農薬・無施肥栽培することに成功したという弘前の農家でした。改めて確認した新聞のTV欄には「りんごは愛で育てる」という番組のタイトルが載っていました。

 温暖で多湿な日本では、病害虫に犯されやすい果樹栽培には、さまざまな農薬が使用されます。ことにバラ科のリンゴには一般的に幾度も散布が行われます。効能が異なる農薬の種類ごとに農協が散布時期を定めた防除暦では、年間で約10回の農薬散布が推奨されます。野生の原種をもとに近代になって品種開発された果樹は、草取りに明け暮れていた農家の労力を軽減する目的で開発された除草剤、病害虫の被害を防ぐための殺菌剤や殺虫剤、落果防止のためのホルモン剤などを使用することを前提にしていると言っても過言ではないかもしれません。果樹ではありませんが、私の自宅の庭で育つバラも、春先から夏にかけて、さまざまな病害虫に襲われるゆえ、リンゴを無農薬で育てることの困難さは容易に察しがつきました。それゆえ番組を見て「さすがはリンゴの里、津軽には並外れた生産者がいたもんだ」と感心することしきりでした。

akinori@azienda.jpg【photo】岩木山を背景とする南向きの傾斜地にある木村さんのリンゴ畑には、木村さんが「樹の実」と呼ぶリンゴにとって、自然にあるがままの理想的な生育環境が整っている。9年間の艱難辛苦の果てに理想とする自然栽培に至る軌跡について語る木村さん。笑いあり涙ありの話は2時間に及んだが、時が経つのを忘れた


 そんな私が弘前に木村さんの畑を初めて訪ねたのは、番組が放映されて8ヵ月後の2007年(平成19)8月のこと。その年の4月に弘前のフレンチ「レストラン山崎」の山崎 隆シェフがオリジナルレシピで作られた木村さんのリンゴを使用した冷製スープを頂いたのがきっかけです。かつては絶対不可能といわれた自然農法で栽培されたリンゴの皮と種を除いてスライスし、弱火でコトコト煮込んで作ったという冷製クリームスープは、TV番組で得た若干の予備知識も手伝ってか、生き生きとしたリンゴの風味に、生クリームのまろやかさとカルヴァドスの柔らかな香りが加わり、私を感動させて止みませんでした。人を感動させる料理との出逢いって、そう頻繁にあるものじゃありませんよね。"百聞は一にしかず"と言うではありませんか(?)。ここは是非ともリンゴを作った木村さんにお会いしたいと思ったのです。

fuji_akinori.jpg【photo】初秋の青空に一層映える"奇跡のリンゴ"。「自分は樹が実を結ぶのをお手伝いしているだけ」と木村さんご自身は語る

 8月にレストラン山崎を訪れた時は、リンゴの収穫前であったため、スープはありませんでしたが、木村さんのリンゴで作ったジュースは頂くことができました。食後に席にご挨拶にお見えになった山崎 隆シェフに、木村さんとの橋渡しをお願いしました。地元の素晴らしい素材を取り入れた弘前ならではのフランス料理を心掛けるという山崎シェフは、快く木村さんの携帯番号と畑の所在地の略図を書いたメモを渡して下さいました。事前にご自身が木村さんに電話を入れておくので、畑の場所がもし判らなければ、木村さんに直接電話してみてとも。ただ「携帯に電話しても、ほとんど出ないんだよね」と苦笑されました。その理由は、三回目の弘前訪問の折にご自宅に隣接した作業場にお邪魔して判明します。ご自宅の母屋脇にある作業場でリンゴの箱詰めと発送作業に追われる木村さんご夫妻の傍らには、注文を受けるFAX機能付き電話があります。お二人とも全く電話を取ろうとしないため、ひっきりなしにかかってくる電話は決して鳴り止むことがないのでした(笑)。

akinori_okusama.jpg 【photo】作業場に鳴り響く電話のコール音など意に介さず、仲睦まじく箱詰め作業にあたる木村ご夫妻。美千子さん(左)、秋則さん(右)

 弘前市中心部から鯵ヶ沢街道を岩木山の麓へと向かうと、次第にリンゴの樹が目立ってきます。通称アップルロードを右折し、目印とされた神社はすぐに判ったものの、周囲に広がるリンゴ畑のどこが木村さんものか皆目見当がつきません。神社に戻って木村さんの携帯をコールすると、山崎シェフの懸念が嘘のようにすぐに電話に出た大きな声の主は紛れもなく番組で耳にした木村さんその人でした。間もなく迎えに来て頂いた木村さんと簡単にご挨拶を済ませ、軽トラックで先導されて着いたリンゴ畑は、周囲の畑とは明らかに異質なものでした。下草がきれいに刈り込まれた他の畑とは対照的に、木村さんのリンゴ畑には一面の雑草が生い茂っています。その畑に腰をおろして45分弱に編集されたTV番組では語られることのなかったご自身の来歴やリンゴ畑で起きている奇跡に関するお話を2時間に渡ってじっくりと伺いました。

apple_road.jpg【photo】木村さんのリンゴ畑(下写真)は旺盛な雑草に覆われる一方で、慣行栽培されるリンゴの畑(上写真)は丁寧に下草が刈り込まれ違いは歴然。自然の摂理通りに秋に紅葉する自分の畑のリンゴとは違い、農薬を散布したリンゴは雪が降っても紅葉することがなく葉が青いままという。そんなリンゴを不気味だと木村さんは言うakinori_hatake.jpg

 出版された3冊の本すべてで紹介されているので、ここでは詳しく繰り返しませんが、1978年(昭和53)、28歳になった木村さんが完全無農薬でリンゴを育てようとしたのは、当時は人体への悪影響について論議されることすらほとんどなかった農薬を散布するたびにしばらく寝込んでしまうほど化学物質に対して過敏な体質であった奥様、美千子さんのためでした。若い頃から大好きだった車のエンジン改造に関する本を探して入った書店でひょんな偶然から手にした福岡正信の著作「自然農法」に感銘を受けた木村さんが慣行栽培をやめた結果、病害虫にすっかり犯されたリンゴの樹は軒並み落葉し、秋に狂い咲きの花を付けた樹は翌年以降結実することをやめてしまいます。

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【photo】色付き始めたリンゴを慈しむように見つめる木村さんのまなざしはあくまでも優しげだ

 リンゴ農家としての収入が完全に途絶えても、なお無農薬栽培を諦めずに花すら咲かない病害虫の猛威に晒されたリンゴの樹と向き合った9年間の苦闘は筆舌に語り尽くせないものでした。当初800本あったリンゴの樹は葉を落として活力を失ってゆく8年の間に半数近くが枯れ果てたといいます。私が初めて伺った当時は幻冬舎から奇跡のリンゴが出版される前でしたから、40代にして木村さんが歯をほとんど失った理由は全くの初耳。日がな一日リンゴの樹の下で横になってシャクトリムシが葉を食べる様子を凝視し、害虫の生態を知るなどの徹底した自然観察や、酢やワサビなど思いつく限りの効果がありそうな食品の希釈液の散布をもってして、いかに手を尽くしても無農薬栽培法の答えを見出せなかったという木村さんの苦労話に引き込まれてゆきました。

 津軽弁で破産者を意味する「竈消し(かまどけし)」。婿入りした木村さんにとってはさぞ辛かったであろう不名誉な陰口を叩かれ、道で会っても挨拶すらされなくなり、家族を極貧に追い込んだという自責の念に駆られた木村さんは、無農薬栽培を試みて6年目の満月の夏の夜、もはや万策尽きたと死を決意します。畑の物置がわりに使われていた軽ワゴン車(昨年撤去された)を指差し、「ここから取り出したロープを手に、月明かりの中を山に入って首を吊って死のうとしたんだよ」と語りました。死に場所を求めてさまよい歩いた山中で、木村さんは一本のリンゴの樹を目にします。農薬や肥料を与えないのに青々とした葉を茂らせているように映ったその樹は、リンゴではなくドングリなのでした。まさに命を絶とうという極限状態で、その根元を支えていた柔らかく湿気を帯びた山の土にこそ、リンゴを自然栽培で育てる答えがあると直感したという木村さんの話を伺い、人間が持って生まれた宿命や天命の存在を信じずにはいられませんでした。

akinori_zassou.jpg【photo】大事なものは見えない。土も同じ

 土の重要さに気付いて以降、雑草を刈らなくなった木村さんの畑では多種多様な微生物・昆虫・ミミズ・野ネズミなどが生息する生態系が形作られてゆきます。マメ科植物の窒素固定作用や、耕土層の下にある岩盤層のミネラルをリンゴの根が吸収しやすいよう、雑草や地中深くに根を張る作物を活用し、本来の土の力を取り戻していきます。一匹ずつ手で駆除していたハマキムシなどの害虫の発生を抑えるため、バケツを活用した蛾の殺虫法やハチなどの益虫による駆除を取り入れるうちに、リンゴの自然栽培に理想的な局所環境を次第に作り出してゆきます。

 1988年(昭和63)、一本のリンゴの樹に7輪の可憐な花が咲き、秋に2つの飛び切り甘いリンゴが実ります(その樹の根は20m以上も地中で伸びていることが後に判明する)。翌春、木村さんの畑一面にリンゴが白い花を咲かせているのを発見した隣の畑の持ち主が、わざわざ木村さんに知らせてくれたのだそう。はやる気持ちを抑えて畑にバイクで駆けつけた木村さんは、9年ぶりに目にする光景を前に、奥様と手を取り合いながら涙が止まらなかったそうです。その時の感激を昨日のことのように語る木村さんの言葉に、私も我が事のように熱いものがこみ上げてくるのでした。

2008.5azienda-akinori.jpg【photo】岩木山の雪が解けやらぬ昨年5月中旬、エノテカ・イル・チルコロの吉田シェフご一家をお連れした木村さんの畑には、北国の遅い春の訪れを祝うかのように、白いリンゴの花々が一斉に咲いていた。21年前の春、木村さんご夫妻はどのような思いで豊かな秋の実りを約束するこの光景を見つめたのだろう

 昨年12月に東北6県のTV朝日系列の放送局で放送されたTV番組「るくなす」に登場した木村さんは、24年ぶりに山中で再会を果たしたドングリの樹に手をかけ、何度も「ありがとう、ありがとう」と万感の思いを込めて語りかけていました。自らの命を救い、答えに導いてくれたドングリに語りかける木村さんの言葉には、いささかの誇張や作為も感じられませんでした。木村さんは「自分はバカだから、リンゴが可愛そうに思って実を結んでくれたんだ」と笑います。人生の奈落をかつて経験した木村さんは、本当にカラカラとよく笑う方です。それでいてまっすぐな生き方を貫く津軽の「じょっぱり」を地でゆくような木村さんは、いかなる困難な状況にあっても己が信念を曲げませんでした。木村さんの芯が通った生き方は、閉塞感にとらわれがちな今の時代に生きる人々の強い共感を得ています。

 恐らく日本一有名なリンゴ農家となった現在では、残念ながら極めて入手が難しいのですが、大地の力を存分に取り込んで実を結ぶ木村さんのリンゴは、お人柄そのままの邪気のない味がします。akinori_smile.jpg放置しても腐敗しないというそのリンゴ果汁100%からなるジュースなら、仙台でも入手できる店があります。生涯忘れることがないであろう時を過ごした木村さんの畑で果たした出会いから、あまり時間を経過しないうちに、木村さんについて書こうと実は思っていました。しかし、その生きざまを直接伺うに及んで、若輩の私が軽々に木村さんについて語ることを躊躇するようになり、時間ばかりが無為に経過してしまいました。今回こうして、2年前の体験をまとめることができ、少し肩の荷が下りた思いです。

 【photo】畑からの去り際、カメラを向けると律儀に帽子を脱いだ上で満面の笑みで見送って下さった木村秋則さん

 木村さん人気(...言うまでもなく私のコトではない)で昨年に比べて倍以上の130人あまりが参集した先月のバーベキューパーティについては、奇跡のリンゴ part2 リンゴ農家・木村 秋則さんの金言 「奥歯見せて笑える一生」にて。

2009/07/05

秘密の花園@深山

花盛りの「藤沢カブ」を訪ねて

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 仕事の都合がつかずに私は参加できなかったのですが、昨年11月に鶴岡で総合地球科学研究所(本部:京都)と山形在来作物研究会(鶴岡)・東北文化研究センター(山形)・鶴岡市の共催による「第二回焼畑サミット」が行われました。焼畑と野焼きの文化-今、東北が熱い!-と題するフォーラムの告知ポスターには、まだ真っ暗な早朝、山の斜面に火を放つ人の姿が写っています。炎に照らし出された眼鏡をかけた男性の横顔には見覚えがありました。それは紛れもなく2年前に「藤沢周平の故郷の味」Link to back numberでご紹介した湯田川温泉街に隣接する鶴岡市藤沢地区で在来野菜「藤沢カブ」を栽培しておいでの後藤勝利(まさとし)さんでした。  【クリックで拡大⇒】

 焼畑によるカブ作りには、森林資源保持のために計画伐採される区画の確保がまずは必要です。消防署に届けをした上で、山焼きを行う前日までに切り株だらけとなった急斜面の下草を刈って整地するきつい作業〈clicca qui 〉を終えなくてはなりません。藤沢カブは連作障害が出やすいため、栽培する場所を毎年変えています。6年前、鶴岡市金峰山中の急峻な斜面に切り開かれた畑というよりはカブが一面に生えた山の一角を訪れて以来、後藤さんご夫妻の素敵な笑顔にお会いしたくて後藤さんのもとを毎年訪れて来ました。

yamayaki_06.jpg【photo】好天に恵まれた2006年(平成18)8月9日早朝。鶴岡市湯田川郊外、山谷地区の急斜面で行われた焼畑の火入れ 

 「焼畑農業」にどのようなイメージをお持ちでしょう? 未開地の非文明的な耕作法だという印象を持つ方や、環境保全型農業とは程遠い否定的な見方をされる向きが多いのではないでしょうか。これには、南米アマゾンや東南アジアの一部で横行する自然の回復サイクルを無視した無計画な伐採で熱帯雨林が失われており、伐採の主たる目的である焼畑が地球環境を破壊する元凶だとする情報が影響しているように思われます。対して、東北各地では雑草を燃やした草木の灰を肥料に地力を上げ、持続可能な循環サイクルのもとで雑穀や根菜類の栽培が古来より広く行われてきました。岩手・宮城を貫流する東北最大の川、北上川河口域には、茅葺屋根や葦簀(よしず)の材料となる国内最大級のヨシの原群落があります。収穫されないまま立ち枯れしたヨシに火を放ち、新たな芽吹きを促す野焼きが行われるのが、4月中旬。こうした「火耕」の知恵は、昭和末期までにわずかな例外を除いてほとんどが失われてゆきました。

2003.11.3fujisawa-kabu.jpg【photo】 20年前に当時60代半ばを過ぎた近所に暮らす女性から盃一杯分の種を託された後藤清子さんが、ご主人と採種を繰り返しながら大切に育ててきた藤沢カブ。2003年(平成15)11月、アル・ケッチァーノ奥田シェフの案内で初めて訪れたこの後藤さんの畑〈clicca qui 〉で勧められるままに土からもぎたてのカブにかじりつくと、すがすがしい辛みがパキッとしたみずみずしい食感と共に口腔いっぱいに広がった

 一帯を森林に覆われた鶴岡市温海(あつみ)の山あいにある一霞(ひとかすみ)地区では、400年以上前から伝統野菜「温海カブ」作りが行われています。湯田川温泉の南方、虚空蔵山を挟んで隣接する少連寺地区には、形状は温海カブ同様に丸いものの、より赤みと辛味が強い「田川カブ」、温泉街の東方に位置する藤沢地区でも地上に露出した部分が赤くなる細長い「藤沢カブ」、これら赤カブ系統ではなく、白く細長い形状の「宝谷カブ」は、同市宝谷地区にお住まいの畑山丑之助さんによって作られてきました。これらのカブに共通するのは、全て焼畑農法で作られているということ。これら以外の地区でも作付けされる温海カブ系統の品種は、焼畑ではない普通の畑で栽培されます。夏場は幾分品薄になりますが、晩秋から春先にかけて、鶴岡IC近くの「庄内観光物産館〈 Link to website 〉」では、各地の生産者が栽培した温海カブや同市大山の漬物専門店「本長」が製品化した藤沢カブの甘酢漬やたまり漬などを試食しながら選ぶことができます。私の好みは、焼畑で作られる藤沢カブや一霞産の温海カブですが、一口にカブの甘酢漬といっても造り手によって味はさまざま。どうぞお好みのカブラ漬をじっくりと選んで下さい。

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ojiichan_no_kabu_zukuri.jpg【photo】火の勢いを注視しながら山焼きの指揮をとる後藤勝利さんの凛々しい立ち姿。物腰が柔らかで小柄な後藤さんがいつになく大きく見えた     

(上写真)

後藤さんのお孫さん、ほのかちゃんの目を通して描かれた藤沢カブ作りが絵本化された「おじいちゃんのカブづくり」

(右写真)


 農村から都市部へ働き盛り世代の流入が続いた高度成長期、それまで各地に伝わっていた焼畑で栽培される在来種のカブの多くが、残された高齢者の手では重労働の焼畑で作ることができなくなり、多くの種が消滅してゆきました。庄内では珍しい赤く細長い系統のカブの種をただ一人作っていた近所の知人から「種を絶やさないで」と託された奥様の清子さんと共に後藤さんが作り続けてきた藤沢カブは、徐々に需要が広がり、作付けを増やしてきました。そんな後藤さんご夫妻にとって、大きな励みになったのが、昨年2月に鶴岡市出身の絵本作家 土田 義晴さんの手で、後藤さんをモデルにした絵本「おじいちゃんのカブづくり」(そうえん社刊 1260円)が出版されたことでした。現在は郷里の鶴岡を離れて東京で創作活動を行っている土田さんは、1年半に渡って後藤さんの畑に足を運んで精力的にカブ作りの模様を取材されたのだそうです。

【photo】私たちが今日この美味しいカブを食することができる恩人自らが漬け込んだ甘酢漬は、一般の流通には乗らない限定品。譲って頂いた藤沢家富(カブ)〈clicca qui 〉と、お土産にと頂いた美味しさはなんら変わらない不揃いのカブ。この藤沢家富 甘酢漬のラベルにある通り、「まぼろし」のカブにまつわる物語を知るにつけ、味わい深さもまたひとしお
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 杉材が切り出された区画を選んで下草を刈り、8月の夜が明けきらぬ早朝から行われる山焼きに始まる後藤さんのカブ作り。自家採種した種を撒いてから2ヶ月弱で収穫が始まる藤沢カブが、収穫の最盛期を迎えるのは10月末から。火入れによって土壌から病害虫が駆逐されるため、肥料や農薬などの人工的な要素は一切使用せずに育つカブの収穫は、山一面が雪に覆われる頃まで続きます。昨シーズンは生育が遅れ、丈の短いカブしか収穫されず、思うように出荷できなかったご苦労を年末にご自宅で伺いました。

fujisawa_29_12_2008.jpg【photo】昨年12月29日朝に訪れた藤沢カブの畑(上写真手前)。2003年にカブを栽培した畑があったのが奥の白い山肌を見せる山。例年より積雪が少ないものの、一面を雪で覆われたそこは、静寂が支配していた。それから4ヶ月あまりを経た今年5月初旬、上記と同じ畑を再訪した(下写真)。丸5年を経過して緑の潅木が回復しつつある奥の山を見ても明らかなように、茫漠とした冬とは打って変わって生命の再生を感じさせた

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 カブの焼畑栽培が行われる地域では、5月になるとアブラナ科特有の菜の花に似た花を咲かせるカブに出合えます。温海カブを焼畑で作っている一霞地区では、道沿いに黄色い花が咲き乱れています。地元の有志が3年前から始めた「蕪主制度」で再評価の機運が起こり、長らく唯一の栽培者だった畑山さん以外にも栽培を再開する生産者が出始めた宝谷カブは、棚田の畦道に花を咲かせます。いずれも比較的身近かな所で栽培されるカブです。一方、後藤さんの藤沢カブは、ほとんど人が足を踏み入れない金峰山周辺の山中で栽培されています。人里離れた山の中でひっそりと花を咲かせる藤沢カブの菜の花畑は、私が大好きな春の風景です。

primavera_fujisawa2.jpg【photo】周囲の木々のバリエーション豊かな緑色の中に黄色いじゅうたんを敷き詰めたような愛らしい藤沢カブの花。人知れず深山に咲く花々は、北国にようやく訪れた春と、やがて種を結んで命の連環を果たす喜びに満ちている

 人を容易に寄せ付けない山中ゆえ、雪が積もる季節には、かんじきを履いて山に入り、雪の下から甘みの乗ったカブを掘り出すこともあるといいます。昨年12月29日の朝、例年より積雪が少ない山に入って畑の様子を見に行きました。そこはキツネやカモシカはもちろん、クマも生息する場所です。新雪の上に点々と続く野生動物の足跡の先にある畑で、藤沢カブたちは雪の下で眠りについていました。

 そして金峰山が一斉に芽吹きの季節を迎えた5月上旬。私が初めて後藤さんのもとを訪れた2003年(平成15)にカブを作っていた区画の手前に作られた新たな畑では、藤沢カブが種をつけるために精一杯黄色い花を咲かせていました。「 誰も知らない秘密の花園...」というアイドル時代に松田聖子が放ったヒット曲はもちろん(?)、小鳥のさえずり以外は何も聞こえてきません。深山の木々は、萌黄や浅緑など多種多様な緑のパッチワークで彩られています。鬱蒼とした木々に囲まれた畑の一角だけが、黄色に輝くありさまは「金の峰」というその山の名にふさわしい光景でした。
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 詳細は追ってご案内しますが、この秋、収穫作業真っ只中の藤沢カブの畑を訪れる行程を組み込んだ仙台発のバスツアーを計画しています。ツアーのプロデュースは庄内の魅力を知り尽くした庄内系イタリア人。実りの季節を迎えた旬の美味の数々と癒しに満ちた庄内の魅力を一泊でたっぷりと味わって頂けますので、どうぞご期待ください。

2008/04/13

佐藤 久一さんのこと 〈後編〉

「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」

《前編》より続き

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【Photo】
内装から調度に至るまで、佐藤久一が理想のおもてなしを提供するための場としてのこだわりが随所に見られる酒田東急プラザビル3Fの「ル・ポットフー」。このメインダイニングは地中海クルーズの客船をイメージしたという

 酒田駅前の再開発計画によって、ビジネスホテルチェーン「東急イン」がキーテナントとなる「酒田東急プラザビル」が酒田駅前に完成したのは1975年(昭和50年)9月。地元挙げての誘致に成功した宿泊施設の顔としてホテル3階に「ル・ポットフー」【Link to Website】の2 号店が開店したのが同年12月のこと。常務取締役支配人に就任した佐藤 久一が事細かに注文をつけた豪奢な内装のダイニングルームには、80坪のフロアに32席のテーブルと二つの個室「ル・シャトー」と「ラ・スフレ」が用意されました。中町の清水屋デパート5 階にそれまであったル・ポットフーは、デパートの移転を機に2年後に店をたたみますが、当初はそちらも残したままの船出でした。こうした潤沢な事業資金の後ろ盾には、地元の名士だった久一の父・久吉と経営母体の「荘内振興」社長・五十嵐 薫(ただす)の後押しがありました。久一は駅前のホテルという立地条件を考慮し、店の特色を前面に打ち出すため、メニュー構成を庄内浜の魚介主体に変えてゆきます。サクラマス、ハタハタ、ノドグロ、大越中バイガイ、岩ガキ、寒ダラ、タラの白子、カスベ ・・・。こうした伝統的Lepotaufeu2.jpgなフランス料理では使うことがそれまで無かった旬の庄内産食材を積極的に取り入れてゆくのです。自他共に認めるワインラヴァーの私も国内のワイナリーでは屈指の品質の高さに一目置く山形県上山市の「タケダワイナリー」のワインをハウスワインにするなど、地産地消やスローフードという言葉が誕生する遥か以前から、久一はその理念を実践していました。

【PHOTO】 淡いモスグリーンに明るいシルバーの草花や鳥の図柄で覆われた壁紙、ゴブラン文様の椅子、アンティークの掛時計がしつらえられた個室「ル・シャトー」。常連客には久一がここで付き切りでサービスをした

 朝5時半に始まる酒田港の朝競(せ)りで久一が手に入れた素材を元に料理を考えるのは、6人の厨房スタッフを率いる太田 政宏シェフ。 固定したメニューに束縛されることなく、その日入手した最上の素材でメニューを組み立てる「おまかせ」コースに二人は力を入れてゆくのでした。ランチの準備と接客を終えると、新たな魚の調達のため、夕競りが行われる鼠ヶ関、吹浦、象潟の漁港へと久一は車を走らせます。ディナー客が引けた夜10時過ぎに個室ラ・スフレにひとり籠って、辞書を片手に仏語の料理書を読み漁りました。「久一さんは時間さえあればいつも料理書を読んでいた」と太田シェフは振り返ります。こうして久一は余人の追従を許さない域にまで料理に対する知識と理解を深めてゆきます。

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【PHOTO】 久一が手書きした夏のメニュークリックで拡大

 たとえば、一組のカップルが酒田駅前に出来た評判のフレンチレストラン「ル・ポットフー」にお任せコースの予約を電話で入れたとしましょう。客をもてなすこと、わけても女性客を喜ばせることにいつも心を砕いた久一は、電話の口調や食事の目的を聞き出して、あれこれ想いをを巡らせます。料理の組み立てはどんな内容にするか。テーブルに飾るのはどんな花がふさわしいのか。テーブルに向かう動線から眺めてどの角度が最もその花が美しく見えるのか。花を生けた花瓶を前に、答えの出ない自問自答が延々と続きます。仕事を終えて帰宅する従業員たちは、片手を顎に当てて腕組みをしながら物思いにふける久一の姿をしばしば目にしました。翌朝、出勤してきた彼らは、昨夜と同じ場所に同じ格好で座っている久一と再び相まみえるのです。こうして四六時中店にいる久一は、従業員の目には全く私生活が見えなかったのだといいます。映画の世界から離れても、久一は客がドラマチックな非日常の時間を過ごす空間の演出に絶えず情熱を燃やし続けていたのです。

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【PHOTO】 「レストラン欅」に復帰した1993年、常連客に送った挨拶状より。今も欅のメインダイニングルームに掛かるマリー・ローランサンの絵を前に大きなスズキを手に笑みを浮かべる佐藤 久一

 作家 山口 瞳は、著書『酔いどれ紀行』の取材で酒田に滞在した4日間、連日連夜ル・ポットフーに通い詰めます。山口が「サービス魔」と形容した久一は、同書の表現を借りれば「この材料、この味で、これだけの店構え(ル・ポットフーの調度はとても立派で、かつ瀟洒である)」で提供していました。食事を目的に毎年フランスを訪れ、フランス料理通を自認していた落語家 古今亭志ん朝をして「日本で初めてすごいフランス料理にぶつかった」と驚愕させておきながら、その代金は非常に安価なものでした。とはいえ、魚を求めて久一が市場に顔を出すと、競りの立会い人たちは"あらかた良い魚はル・ポットフーに持って行かれる"とか、目をつけた魚を手に入れるためには金に糸目を付けなかったため、浜値が上がってしまうとボヤきあったのだそうです。

 久一の伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」では、彼の徹底したこだわりを物語るさまざまなエピソードが紹介されています。katsuyoshimuroi.jpgル・ポットフーが開店して間もない頃、久一は室井という新人コックに東京八重洲の百貨店「大丸」に夜行列車で向かうよう指示します。翌日のディナーには、酒田の鉄工所が外国の客をもてなすための予約が入っていました。目的は卓上を飾るにふさわしい大きさのその国の旗と日の丸を手に入れること。それだけの目的のため「旗を買ったら、すぐに電車で戻って来い」と久一から念を押されていた彼は、翌朝開店とともに旗を入手、とんぼ帰りで酒田へと戻るのです。それからも偶然に久一と目が合っただけで「山に行ってタラの芽を採って来い」などと命じられることがしばしば。東京生まれで、自生する天然の山菜など見たことも無いその新人を見送りながら「熊には気を付けろ」と久一は言い添えるのでした。

【PHOTO】 日本イタリア料理界の重鎮、室井 克義氏

 先月末に同書の著者・岡田 芳郎氏の講演が酒田で催されました。岡田氏の講演に続いて、氏を進行役に太田シェフとかつて旗を買いに行かされた室井 克義氏による鼎談が行われました。開会に先立って話を伺ったご本人の弁によれば、太田シェフに憧れて25歳でル・ポットフーに入ったという室井シェフ。久一がいつも店でこうしていたと言いながら、彫刻家ロダンの「考える人」のように腕組みをして歩く様子の真似をしてみせてくれました。常識に囚われず、もっと良いもの、更なる高みを常に目指していた久一は、「そうじゃないんだよ」と噛み締めるように力を込めて語るのが口癖だったそうです。久一から薫陶を受けた一年の間に料理の道を志す者として多くのものを得たと室井シェフは語ります。この道で成功した現在でも、時折「常務(久一のこと)なら、こんな時にきっとこうしただろうな」と、思うことがあるのだとか。接した期間は一年と短かったものの、久一からは計り知れない大きな影響を受けたと振り返ります。
【PHOTO】2008年3月末、酒田で行われた岡田 芳郎氏の講演会で。左より聞き手の岡田氏と "一度も面と向かって褒められたことはなかった"久一との思い出を語る太田 政宏氏、室井 克義氏

 久一のもとで素晴らしい素材と出合った室井氏は、のちにイタリア料理に転進。ホテル西洋銀座「アトーレ」総料理長を17年間務め、2003年(平成15年)銀座にリストランテ「M' Di Piu エム・ディ・ピュー」をオープン。現在もオーナーシェフとして活躍中です。(「M」は名前の頭文字。「Di Piu」は 「もっと」「より以上に」という意味のイタリア語)氏は「日本イタリア料理協会」を1988年(昭和63年)に設立し、初代会長に就任。1991年に北イタリアピエモンテ州Torino トリノで設立されたイタリア料理を学ぶ若い外国人のための教育研修機関「ICIF イチフ」(Italian Culinary Institute for Foreigners)の立ち上げにも尽力、本部を同州Costigliole d'Asti コスティリオーレ・ダスティに移した今も数多くの料理人を志す若者がアンジェロ・ガヤやマウリッチャ・フェレッロLink to Backnumber〉など一流の講師陣が揃うICIFで学んでいます。いつの日か久一のような類いまれな足跡を残す若者がそこから現れるのかもしれません。

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【PHOTO】1976年10月29日午後5時40分、グリーンハウスで火災が発生。折からの強風のもと燃え盛る炎によって、市街中心部を焼き尽くす大火となった。左写真は炎上するグリーンハウス。(写真提供:酒田市資料館)   酒田大火の被害を伝える1976年10月30日(土)の河北新報夕刊(下写真)クリックで拡大
 
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 1976年(昭和51年)10月29日の夕刻、ディナー客に料理の説明をしていた久一に、酒田中心部の中町で火災が発生して市街に燃え広がっていることが知らされます。みぞれ混じりの冷たい雨と瞬間最大風速26メートルの西寄りの強風が吹き荒れる中、煽られた炎は、あっという間に東側市街地へと燃え広がります。その火元となったのが若き日の久一が手塩にかけてつくり上げたグリーンハウスだったのです。翌朝5時に鎮火するまでに延焼面積は22.5haに及び、1,023世帯 3,300名が焼け出されます。死者1名・負傷者1,003名を出したこの「酒田大火」の被害総額は405億円と推計され、火災による被害規模では戦後四番目といわれました。当時社長の座にあった父・久吉は、謝罪会見の席上、映画事業を整理し、sakatataika.jpgその余剰金と土地の売却益を罹災者に全額拠出することを発表します。すでに映画館の運営は久一の手を離れて久しかったものの、酒田市民の間ではグリーンハウスと久一は深く結び付いていました。家財を失い復興に向け苦難の道を歩まざるを得なかった市民にとって、久一は怨嗟の対象であり続けました。酒田大火は、街の誇りだった映画館グリーンハウスを造り、"酒田にル・ポットフーあり"と全国に街の名前を知らしめた立役者、佐藤 久一の名に暗い翳を落としたのです。

【PHOTO】 火災の発生から一夜明け、一面の焦土と化した酒田市街。外壁だけを残して焼け落ちた大沼デパート。その右隣に火元となったグリーンハウスがあった

 仙台市泉区のフランス料理店「ジュアン・レパン」のオーナーシェフ 織田 寛二氏は、1978年(昭和53年)にル・ポットフーで料理人としてのスタートを切りました。1954年(昭和29年)兵庫県生まれの織田シェフは、関西大学で法律を学んでいた1976年(昭和51年)にル・ポットフーの料理と出合います。学生時代より食べ歩きが趣味だった織田氏はその味に魅せられ、料理人の道に進みました。'83年に渡仏するまで在籍したル・ポットフーで接した久一は、直接厨房に対してあれこれ言うことは無かったそうです。自分が目利きした素材で「こんな料理ができないか」と相談を持ちかけるのが太田シェフでした。久一の意図を汲んだ太田シェフが手がける試作品を久一が味見をして、ル・ポットフーの料理として磨き上げていったのです。当時「日本一」との呼び声が高まっていた店を訪れる客に最高のものを提供すること。その難題に応えて皿の上にそれを見事に表現した太田シェフは、織田氏にとって善き指導者であり、生き方を見習うべき先輩でもありました。織田シェフによれば長い歴史を持つにもかかわらず、ル・ポットフー出身の料理人は意外と数少ないのだといいます。なぜならそこは"居心地が良かった"からだとか。厳しい上下関係が当たり前の料理の世界では珍しく、太田シェフは調理が一段落したところで厨房スタッフ全員で洗い物をしていました。太田シェフ以下全員でスキューバダイビングの免許取得に取り組み、皆で「バイ貝」や岩礁に生息する「カメノテ」などを採っていたそうです。
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【PHOTO】 「ジュアン・レパン」の織田 寛二シェフは、当時誰も同行しなかった久一の魚の買出しにしばしば運転手役として同行した。夜中に厨房の調理用ワインを飲んでしまう久一に対抗して「ワインにヴィネガーを入れたり、タバコの中にマッチを忍ばせたりした」と笑う

 久一の並外れた味へのこだわりを一身に受け止め、それを料理として完成させる太田シェフ。この頃には店の名声は高まる一方で、この二人が編み出す類まれな料理を味わう観光バスのツアーが組まれるまでになります。1978年(昭和53年)、評判を聞きつけて店を訪れた雑誌「四季の味」編集長・森須 滋郎(もりす じろう)は、見事な久一の接客ぶりに感嘆します。全国の飲食店を見てきた森須編集長は、素晴らしい料理を優雅な立ち振る舞いで提供する久一を「日本一のメートル・ドテル」《注》と絶賛します。 一方で人口10万程度の地方都市で、原価率がいかにも高いであろう料理を常識ではあり得ない低価格で出して経営が成り立つのかを問いかけました。Otacuccinakeyaki.jpgすると久一は「ホテルの4階・5階と6階の一部を占める宴会場収入で採算は取れている」と事もなげに説明するのでした。さらにこうも付け加えます。「3階のレストランは、道楽であり、自分の生き甲斐だ」と。

【PHOTO】 階段を下りて店の扉を開けると目に入る「レストラン欅」の厨房。父の跡を継いだ息子の舟二(しゅうじ)さんら、きびきびと動く調理スタッフとともに調理の指揮を執る太田シェフ(左)

 "食は芸術であり、文化である"との固い信念のもと、原価率が七割を超える看板のおまかせ料理を提供するル・ポットフー。日ごと高まる名声とあいまって店に投入する労力と経費は膨らむ一方。店は慢性的な赤字体質を抱えていました。家に戻らず店に泊り込む日々を送る久一に "会社の資金を道楽に注ぎ込んでいる" という風当たりが次第に強まります。その重圧から逃れるため、久一は酒に溺れてゆきました。「日本一のレストラン」という賛辞は、同時に久一を追い込んでいたのです。過度の飲酒による十二指腸潰瘍で倒れた後も、コックコートに酒を忍ばせ酩酊状態で接客する久一に従業員たちは距離を置くようになります。1988年(昭和63年)6月にはフロアを取り仕切る名マダムとして活躍していた鈴木 新菜(にいな)が、8月には仕入れに関する意見の相違で太田シェフが相次いで店を去ります。こうして厨房とフロアの核を失ったル・ポットフーには、その後微妙なズレが生じてゆきます。"酒田の宣伝のために"と採算を度外視した久一のやり方を擁護してきたオーナーの五十嵐 薫も、累積赤字が一億円を超えた'80年代後半には経営上看過できない状況に陥っていました。オーナーが代替わりした翌月の1993年1月31日、久一は心血を注いだル・ポットフーの支配人の座を解雇同然の形で追われます。それは清水屋デパートにル・ポットフーを開店して20年目のことでした。

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【PHOTO】 「魚たちがおいしくなるから―。寒流にもまれた冬が好きです」という添え書きとKyuichi Sato のサインがある'95年冬のおまかせメニュー。料理人の神様と称えられたリヨン近郊のレストラン「La Pylamide ピラミッド」のフェルナン・ポワン未亡人、マダム・ポワンのような味わいのある美しい筆跡はもはや失せている。太田シェフはこの頃すでに久一の体調がかなり悪かったはずだと語る。前年に日本テレビの取材を受けた際のメニュークリックで表示の筆跡には、現場復帰一年後の意欲がまだ滲み出ている

 自身が創り上げた夢の城と呼ぶにふさわしいル・ポットフーを追われた久一に救いの手を差し伸べたのは、'84年(昭和59年)から荘内振興の社長に就任していたかつての盟友・小林 元雄氏でした。自ら飛び出す形で一度は袂(たもと)を分けた小林氏の誘いでグループ傘下の和食店を手伝うものの、そこはフランス料理を極めた久一の居場所ではありませんでした。久一が完全に浮いた存在となっていると聞いた小林社長の提案で古巣の欅に久一が戻ったのが1993年9月。63歳を迎えていた久一は、再び原点に戻って日本一のレストランを目指そうと欅のスタッフに呼びかけます。かつての顧客約1,000名に宛てて送られた挨拶状クリックで表示には、あと20年常にレストランに立って料理の夢を追い続けてゆきたいとの決意が記され、こう結ばれていました。「料理、それは思い出・・・・・。」  
 しかし待ち受けていた運命はそれを許さなかったのです。
 
 1996年(平成8年)に年が改まる頃には、久一は体調を崩して店を休みがちになります。医者嫌いの久一は、家族や周囲に体の不調を一切明かしませんでした。michikomikawa.jpg嫌がる本人を周囲が説き伏せて市立酒田病院に入院させたのが10月29日。それが奇しくも酒田大火の日であることに不吉な思いにとらわれたというのが、現在も欅でフロア係を務める三川 美和子さん。1989年(平成元年)にル・ポットフーに入社以来、久一が欅に戻った'93年9月に欅に移り、尊敬する久一のもとで働いてきました。欅のダイニングルーム奥にある個室に私を案内した三川さんは「久一さんはこの場所にテーブルを二つ並べてメニューを書いていました」と部屋の隅を指差すのでした。そこには久一の残像がまだ残っているように思えてなりませんでした。

【PHOTO】 「ここで久一さんはメニューを書いていたんですよ」と語る三川 美和子さん

 親族に伝えられた精密検査の結果は、久一が末期の食道ガンに侵されているというものでした。自身の病名を知らない久一は、入院後もしばらくは毎朝三川さんに店の予約状況を確認する電話をかけてきたそうです。もはや起き上がれないほど衰弱が進み、集中治療室に移ってからも混濁する意識が覚醒するひとときの間に「中華料理を研究して欅で本格中華に挑戦するんだ」と語っていた久一は、1997年(平成9年)1月23日、静かに息を引き取ります。夢を与えた多くの人々から「久ちゃん」と親しまれ、世界一の映画館と日本一のレストランの支配人という輝かしい業績を地元酒田に残した男。かつてグリーンハウスで映画の幕開けを告げた「ムーンライトセレナーデ」が流れる葬儀場の祭壇に飾られた遺影は、欅で再起を期した3年半前の挨拶状の写真でした。その葬儀は華やかな伝説に彩られた久一には不釣合いなほど、ひっそりとしたものだったといいます。

 岡田 芳郎氏は、著書「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」の中で、久一が駆け抜けた67年の人生の栄光と悲惨を見事に描いています。岡田氏は光と同時に闇を抱えていた生身の久一を果たして好きになったかどうかわからないと語ります。それでも著者が逆説的なこの本のタイトルに込めた思いに共感する酒田市民が多いことは、地元でこの本がベストセラーになっていることからも窺えます。つい最近まで酒田では佐藤 久一の記憶は封印されたままでし
libro_okada.jpgた。久一の名を口にすることすらタブーにした大火から30年が過ぎた昨年12月に本の出版に先立って酒田で催されたグリーンハウスの「想い出コンサート」と、この本の出版を契機に死後10年を経てようやくスポットライトを浴びた感がある久一の業績。その検証は、これから改めて市民の手によってなされることでしょう。愛する地元の素材を徹底して磨き上げることで、鮮烈な輝きを放った一人の男の存在が忘れ去らないためにも、そうあって欲しいと願わずにはいられません。

「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」岡田 芳郎著 講談社刊 1785円(税込)

《注》メートル・ドテル(Maitre d'hotel 仏語)レストランにおける現場サービスの責任者。メイン・ダイニングルームで給仕を指揮をする給仕長
 

2008/03/16

佐藤 久一さんのこと 〈前編〉

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男の物語

 映画館「グリーンハウス」。フランス風郷土料理「レストラン欅」。フランス料理店「ル・ポットフー」。
 これらは一人の男が日本海に面した湊町・山形県酒田市を舞台に追い求めた夢の軌跡。世の中の大勢の人から喜んでもらえる仕事をしたい。そんな幼い頃から抱いていた夢を形にするためには決して妥協することをしなかった男。やがて彼は夢と現実のはざまで運命に翻弄され無残に押し潰されてゆく・・・。一度ならず二度までも夢を形にして、人々の賞賛を受けた男の名は佐藤 久一さとう きゅういち・1930~1997)。没後10年を経て、この伝説の男が遺した業績に光を当てる伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(岡田 芳郎著)がこのほど講談社より出版されました。
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【PHOTO】良い魚が手に入ると、きまってご機嫌だったという佐藤 久一。庄内浜に春を告げるサクラマスを手に「ル・ポットフー」で<写真協力:コマツ・コーポレーション>

 映画が庶民の娯楽の花形だった1950年代。萩 昌弘や小森 和子などの著名な映画評論家を魅了し、淀川 長治に“世界一”と賞賛せしめた映画館。それが山形県酒田市にあった「グリーンハウス」でした。久一は、1930年(昭和5年)1月に酒田で造り酒屋「金久酒造」《注》を営む名家に長男として生まれます。日本大学芸術学部に在学中、父・久吉は買収したダンスホールを改装した500席ほどの洋画専門館グリーンハウスの運営を久一に打診します。 大学を中退して酒田へ戻った彼は、20歳の誕生日に支配人に就任、青年らしい一途さで仕事に打ち込んでゆくのです。

 敗戦の混乱から抜け出そうと必死にもがいていた当時の日本人にとって、アメリカ映画は単なる娯楽ではなく、豊かな暮らしやロマンチックな恋物語への憧れを掻き立てるものでした。まだ全国でも珍しかった回転ドアや蝶ネクタイと白手袋で正装した案内係を配置、夢を見る場にふさわしい非日常空間へとグリーンハウスを改装します。館内に定員10名のミニシアターを設け、個室での誰気がねのない映画鑑賞を可能にします。シネコンの原型といえる複数スクリーンと観賞用の個室は、日本中のどの映画館にも当時は無かった施設でした。あわせて人々を惹きつける独創的なイベントや企画を数多く実施、その映画館を自ら思い描いた理想の姿に変貌させてゆきました。

 1958年(昭和33年)5月に発行されたグリーンハウスの情報誌「グリーンイヤーズ」300回記念号に、当時の久一の心情が余すところ無く語られています。筆者の岡田氏が感嘆する通り、このとき久一は弱冠28歳。不世出の男が若くして残したこのマニフェストは、久一が長じてからの歩みを暗示するものなので、少々長くなりますが引用しておきます。

 「私は幼い頃から一つの夢を抱いていた。“何かひとつ世の中の大勢の人から喜んで貰(もら)える仕事をしたい”と・・・。  幸せは決して自分ひとりだけのものではない。世の中のみんなが幸せになることが自分自身を幸せにするものだと考えていた。  私はいつか大人になり自分の能力の限界が解ってきた。そして私は幼い頃から持ち続けたこのささやかな希(ねが)いを映画を通じて具現したいとこの仕事にぶつかった。だから映画の仕事は私にとって生き甲斐ともいえるものだ。  生きることの悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びなどの一切の縮図が映画館の中に繰り広げられる。このような映画の内容から例えどんなささやかでも、みんなが幸せになるための種子を摘みとって頂ければ私達の喜びはこれに過ぎるものはない。  私は映画が皆さんから強い共感を得られた時ほど幸福なことはない。 私はこの幸福を味わいたいためにもよりよい映画を、そしてよりよい環境を創り出す仕事に今後も全力を尽くして行きたいと思っている。
 緑館(りょくかん)支配人」

 1960年6月、グリーンハウスでアラン・ドロンが主演したルネ・クレマン監督の話題作「太陽がいっぱい」が東京日比谷スカラ座と同時封切り公開されます。映画フィルムのプリント本数が限られていたGreenHouse.jpg当時、東京のロードショウ館と地方の小映画館が話題作を同時上映することなど到底あり得ませんでした。久一の卓越した手腕がなせるそうした事例が、それ以降増えてゆきます。酒田市民は、そんな映画館グリーンハウスを誇りに思い、心から愛していました。

【PHOTO】酒田市民の誇りだった映画館「グリーンハウス」(写真協力:酒田市資料館)

 そのように順風満帆だったグリーンハウス支配人の座を突如打ち捨て、妻を残し一人の女性を伴って久一が東京へと向かったのは34歳のとき。そうした彼の私生活は生涯清算されることはありませんでした。その頃、すでに東京でもグリーンハウスの名前は知られていました。酒田での実績を買われ、彼は誕生間もない日生劇場の企画運営を嘱望され、採用されます。“芝居の生の迫力が伝わる劇場を郷里に造る”という新たな夢の実現に向け、映画といういわば虚構の世界から、生身の役者が演じる演劇という実在の世界に久一の関心が移っていたのです。後に佐藤 久一が「食」の世界で新たな伝説を生み出す契機は、採用一年後の食堂課への配置転換でした。劇場のレストラン「アクトレス」で使用する食材の買い付けを担当した久一は、自分の裁量に全てが任される食材の目利きの仕事に自らの新たな適性を見出します。二年後、久一は当時酒田市議会議長の要職にあった父から、酒田市中心部に建築中の「酒田市産業会館」地階に造る本格的洋食レストランの立ち上げを任されます。地元財界関係者らが出資する運営会社「荘内振興」が同時に創設されました。
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【PHOTO】庄内産食材を用いたフランス風郷土料理という新たなジャンルを確立させた立役者、太田 政宏シェフ。地元の調理師学校での講師を長年務める傍ら、調理技術向上を目的とする庄内DEC(Development European Food Creation)クラブ会長、食の都庄内親善大使としても活躍中

 アクトレスで働いていた腕の立つ若い料理人やサービススタッフらを引き連れて酒田へと戻った久一は、1967年11月に竣工した産業会館地階にオープンした「レストラン欅」の取締役支配人となります。そこで久一と「フランス風郷土料理」と呼ばれる新たなジャンルの創作料理をのちに作り上げてゆくのが、「ル・ポットフー」の黄金期を築き、現在もレストラン欅の総料理長として陣頭指揮にあたっている太田 政宏氏です。1943年(昭和18年)横浜に生まれた太田氏は、東京ステーションホテル、東京会館を経てアクトレスで久一と出会います。当初は商用客相手に明確な方向性を打ち出せずにいた欅の転機は1972年に訪れます。大阪の辻調理師学校が催したポール・ボキューズ、ジャン・トロワグロら3名の著名なフランス人シェフによる公開技術講座へ参加、彼らの軽やかで深みのある味付けに衝撃を受けます。当時、伝統的なフランス料理界に新風を起こしていたヌーヴェル・キュイジーヌの祖との出会いによって、二人は常識に囚われず素材と向き合うことの大切さに気付かされるのです。鮮度が高い日本海の魚介をはじめとする庄内産食材の数々。その質と種類はボキューズが店を構えるフランスを代表する食の都リヨンに勝るとも劣らないものでした。

【PHOTO】2008年3月末に「世界一の映画館と日本一のフランス料理店・・・」の著者、岡田 芳郎氏が酒田で行われた講演会に持参して紹介したTV番組のVTRより。取材で「ル・ポットフー」を訪れたレポーターに料理をサーブするコックコート姿の佐藤 久一。太田シェフはスクリーンを眺めて「不器用な人でしょ?」とコメント(笑)

 辻調理師学校の講習会場でコックコート姿で指揮を執る辻 静雄の堂々たる振る舞いに感銘を受けた久一は、以降コックコートに身を包むようになります。酒田市街中心部にある「清水屋デパート」からの出店要請を受ける形で新たなフランス家庭料理を提供しようと「ル・ポットフー」を開店させたのが1973年9月。すでに固定客を掴んでいた欅の運営は日生劇場以来の事業パートナー、小林 元雄(あさお)氏に一任します。太田シェフの手によるグラタンとスープを柱とする親しみやすいメニューは、当時はまだ本格的なフランス料理に馴染みが薄かった女性客の評判を呼びます。予約制の本格的な料理を提供する夜間営業を開始した後の1974年10月、作家の開高 健が店を訪れます。「ウズラの網焼き」「トマト入り牛センマイのグラタン」「ガサエビのマリニエール」・・・・。食に関する造詣が深い開高がそこで出合ったのは開高の表現によれば “生まれて初めて食べる素晴らしいフランス料理” でした。その噂を聞きつけたのが作家の丸谷 才一です。鶴岡出身の丸谷には、隣町の酒田にそんなフレンチがあるとはにわかには信じられなかったのです。文藝春秋に食のエッセーを連載中だった丸谷は、さっそくル・ポットフーへと足を運びます。「蕎麦粉のクレープとキャビアの前菜」「アカエイの黒バター掛け」「赤川寄りの砂丘で獲れたキジのパテ」・・・・。丸谷はその日食べたコースを評して、文藝春秋に “裏日本随一のフランス料理” と記します。

こうしてル・ポットフー伝説は生まれてゆくのです。

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【PHOTO】 太田 政宏シェフが編み出した「ガサエビのマリニエール」。絶品。レストラン欅にて

 私がまだ学生だった1984年、「東北で一番おいしいフランス料理店が酒田にある」という評判を聞き、仙台に帰省した折に訪れたル・ポットフー(《後編》で登場する「酒田東急イン」に移転後の店)で印象深かったのは、なんといっても魚介料理の美味しさでした。中でも「手で召し上がって下さい」と出された「ガサエビのマリニエール」の印象は鮮烈でした。口腔を満たすスープの濃厚なエビのコク。それでいて軽やかで澄み切った味わい。身がとろけるようで甘味のあるガサエビを、柔らかな殻ごとガブっと丸かじり・・・。バイト代を工面してたまに行っていた東京のフレンチとは、一味も二味も違う本格的な料理を手頃な値段で楽しめるその店と、酒田出身の写真家 土門 拳のマスタープリントを展示する土門拳記念館を気に入った私は、以降何度か酒田に足を運ぶことになります。その土門 拳も郷土の酒田に戻ると、ル・ポットフーを訪れることを殊のほか楽しみにしていたそうです。

 私が庄内系に変異する素地は、こうして当時から作られていたのかもしれません。


佐藤 久一さんのこと 〈後編〉
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」に続く


《注》佐藤 久一は「金久酒造」の跡取りである父・久吉と母・智恵の間に1930年に誕生した。当時、家業の経営は、久吉の義父に当たる三五郎が当たっていた。久吉が5歳の時に父の岩吉が急死し、母の芳(よし)が番頭の三五郎と再婚したためである。三五郎は、義理の息子夫妻の間に生まれた久一をたいそう可愛がり、酒の銘柄を皆に愛され喜ばれるようにと「金久(きんきゅう)」から「初孫」へと変えた。つまり、銘酒「初孫」の孫とは佐藤 久一その人を指すのである。ちなみに社名が金久酒造から初孫酒造に変更されたのは1960年のこと。現在は社名を「東北銘醸㈱」として「初孫」銘柄の酒を造り続けている


 

2007/12/15

どこかの畑の片すみで

 だだちゃ豆、温海カブ、民田ナス、佐藤錦、もってのほか・・・。皆さんも一度は耳にしたことがあるであろう農作物の名前。これらは山形県に伝わる在来作物です。すでに商品化され名が知られたこうした例だけでなく、山形各地には個性豊かな伝統野菜に代表される在来作物が数多く残されています。

 在来作物に詳しい山形大学農学部 江頭 宏昌准教授によれば、現在山形県内で確認されている在来作物は133 品目。ひとつの県単位でこれだけの在来作物の存在が確認されている例は全国でも珍しいといいます。山形県下四地域における在来種の分布数は以下の通り― 新庄市周辺の最上地域20 品目、山形市周辺の村山地域34 品目、米沢市周辺の置賜地域22 品目、酒田市・鶴岡市周辺の庄内地域64 品目。この中には、複数地域で栽培されるケースも含まれますが、他地区の2倍~3倍の在来作物が伝わる庄内地域の突出ぶりが目につきます。

【Photo】鶴岡市白山地区に広がるだだちゃ豆の畑。収穫時期が異なる品種を栽培するため、丈が異なるのがお判りいただけるかと

 鶴岡市在来の枝豆「だだちゃ豆」にしても、極早生種「舞台(ぶで)」から最晩生種「彼岸青(ひがんあお)」に至るまで、系統を大別すると20 種以上。収穫時期にも二ヶ月もの開きがあるのです。地元の食味コンテストでトップクラスの評価を受ける無農薬のだだちゃ豆を生産する「月山パイロットファーム」の相馬一廣氏【下の集合写真・前から3列目右から2番目 】によれば、細分化すると40 種は存在するはずだといいます。64 品目という庄内地方における在来作物の数では、だだちゃ豆はあくまで1品目としてカウントしているのだそう。いやはや恐れ入りました。

 鶴岡市外内島(とのじま)地区に伝わる在来野菜「外内島キュウリ」を、ごく最近まではただ一人で栽培してきた上野 武さん【集合写真・前列から3列目右から4番目】の畑を8月上旬に訪れた時のこと。もはや旬を過ぎた畑には褐色に変色した採種用のキュウリがわずかに残るだけです。その畑の片すみに育つ枝豆を指差し、「あの甘露(かんろ)という品種は8月中旬、そっちの外内島だだちゃは8月下旬が旬。」と仰っていました。鶴岡市近辺に点在する産直施設を7月末から9月の夏場に訪れてみて下さい。時期ごと、場所ごとに多種多様なだだちゃ豆が試食用に出ており、系統ごとの形状と味わい・香りの違いを実感することができるでしょう。

mousou.jpg【Photo】朝採りプリップリの谷定孟宗。真っ白な断面の形状が楕円形の地中で圧力をうけた平孟宗(ひらもうそう)は美味しさの証

 桜前線が通り過ぎた後、まだかまだかと私がその到着を待ち焦がれるのが"筍(タケノコ)前線"です。鹿児島・福岡・京都・静岡・・・と北上する筍のなかでも食味に優れる孟宗(もうそう)の北限とされるのが南庄内。柔らかでエグミが無く、アク抜きの必要すらない庄内産孟宗。鼠ヶ関に近い海沿いの鶴岡市早田(わさだ)地区と、湯田川周辺から信仰の山・金峯山(きんぼうざん)北東側斜面の鉄分が多い粘土質土壌が広がる集落、滝沢・谷定(たにさだ)へと産地が東へ移動すると、姿は同じでも微妙に味が異なってきます。鮮度が命の孟宗ゆえ、何を差し置いても地元へ赴いて食べるのが一番。庄内は孟宗に関して一人当たりの消費量が日本一だといわれる土地柄です。酒粕と味噌仕立てで頂く庄内の郷土料理「孟宗汁」 【click!】は、春から初夏への季節の移ろいを旨みたっぷりに感じさせてくれます。金峯山南東斜面や修験道の里・羽黒町高寺(たかでら)に広がる孟宗竹林は、京都からこの地を訪れた修験者が植えたものが広まったのだとされます。
 
 ちなみに鶴岡市早田地区には、在来のマクワウリ「早田ウリ」も残っています。1950年代に登場した甘味が強く日持ちするアンデスメロンに押され、現在では10軒ほどの農家によって細々と栽培される早田ウリ。キュウリのような味にメロン特有のほのかな甘みが交差する早田ウリは、大正期に北海道松前町へと出稼ぎに出向いた早田地区の男性が持ち帰ったものだとか。そのためか、「松前ウリ」とも呼ばれているようです。私を魅了して止まない庄内の食文化は、こうしたさまざまな物語を持つ個性豊かな在来作物を受け継ぐ人々の存在と、四季折々の山の幸と庄内浜の海の幸の恵みがもたらすものです。

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【Photo】在来作物を伝える生産者が、行政・研究者・料理人と結束して地域の宝を守ろうとしている庄内。今年7月、al.chè-cciano の隣に開店したカフェ il.chè-cciano のオープニングパーティに集った「藤沢カブLink to back Number」「平田赤葱Link to back Number」「カラドリイモ」「ヤマブドウ」などの生産者・研究者と店のスタッフ。彼らは固い信頼で繋がっている
 
 2003年11月には「山形在来作物研究会(略称:在作研)」が発足しました。在作研には、研究者・行政・料理人・生産者・一般消費者など、県内外のさまざまな立場の人々からなる360人ほどの会員が現在参加しています。在作研の母体となった山形大学農学部は、1947年に前身の山形県立農林専門学校が設立されて以来、ずっと鶴岡の地に置かれています。当初、実習に欠かせない演習用地探しが内陸の村山地域で難航していたところに、1945年に当時の加藤精三 鶴岡市長(加藤紘一衆院議員の父)が周辺町村に呼びかけて用地提供を含めて誘致に乗り出した経緯があります。

 1949年から山形県立農林専門学校で教鞭をとり、山大農学部の教授を1976年まで務めた青葉 高氏(1916~1999)は、著書「北国の野菜風土誌」(東北出版企画 1976)や「野菜-在来品種の系譜」(法政大学出版局 1981)の中で、かけがえのない在来作物の価値を指摘、わが国でいち早く保護の必要性を訴えた研究者です。日本が飽食の時代を迎えた1980年代中盤以降、京野菜や加賀野菜が脚光を浴びる以前から、山形には在来種の価値を見抜いていた先人がいるのです。在作研では、現在年1回の公開行事と会員向けの会報「SEED」を発行しています。青葉氏が撒いた種は、教え子や遺志を受け継ぐ人々によって芽吹き、在来研を通して実を結びつつあるのです。

dokokanohatake.jpg【Photo】表紙は温海カブ。かけがえのない地域の固有の遺産である在来作物が数多く残る山形の底力を知るには最適の一冊「どこかの畑の片すみで」

 今年(2007年)8月末、山形大学出版会から在作研が編纂した「どこかの畑の片すみで」が出版されました。研究者向けの専門的な内容ではなく、身近かにある宝物の価値を一般消費者に認識してもらうための、平易な読み物となっています。冒頭では、生物多様性が必要な理由や、在来作物の保護の必要性が解りやすく解説されています。在来研の幹事を発足以来務める江頭准教授と在来研のメンバーに名を連ねるアル・ケッチァーノ奥田シェフによる対談を挟んで、地元・山形新聞夕刊に連載中の「やまがた在来作物」で紹介された45 種の在来作物の物語が写真入りで紹介されています。そこでは足掛け5年にわたる綿密なフィールドワークを通して、在作研が確認した個性豊かな在来作物とともに風土が生み出した貴重な種を受け継ぐ人々の声が紹介されています。

【Photo】2006年3月に鶴岡を訪れたイタリア・マルケ州アンコーナ県 Arceviaアルチェヴィアのシルビオ・プルガトーリ町長(中央)から、地元の在来作物を守る取り組みに対し、表彰状を贈られた江頭准教授(右)と奥田シェフ(左)

 しかし現実に立ち返ってみると、人の手による品種改良が加わった商業品種と比べれば、生産効率が悪く、個体間のばらつきが出やすい在来作物は、種を受け継ぐ人たちの高齢化も手伝って、急激に数を減らしています。山形県内各地の畑を精力的に回る江頭先生は、「去年までは作っていた」「数年前までは見かけた」という言葉とよく出くわすといいます。現代のバイオテクノロジーをもってしても、一度途絶えた種は、もう永遠に甦らせることはできません。まさに覆水盆に帰らず。在来種が途絶えることは、単にひとつの品種の滅びと、先人が残した生産技術の消失を意味するのではありません。それは特徴ある食べ物や生産物にまつわる暮らしぶりや調理法など、営々と受け継がれてきた地域の記憶とかけがえの無い財産の消失にほかならないからです。

 あなたもそんな畑の片すみに目を凝らしてみませんか?

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どこかの畑の片すみで =在来作物はやまがたの文化財=
山形在来作物研究会 編  発行:山形大学出版会
A5判 167ページ  本体定価1,429円+税

山形在来作物研究会
URL:http://zaisakuken.jp/

2007/10/25

イタリアフェア雑感

ferdinando_martinotti.jpg 本国から招かれた有名リストランテのシェフや、溜め息が出そうな伝統工芸品のマエストロらが、多彩なイタリア文化の魅力を紹介してくれる百貨店のイタリアフェア。所有欲を呼び起こし、美味に事欠かない国にふさわしく、芸術の秋・食欲の秋に催されるケースが多いようです。仙台では満足できず、目の保養を兼ねて質量ともに充実した在京百貨店に出向く事もあります。

【Photo】2007年春の新宿高島屋イタリアフェアでは、ウンブリア州の銘醸「Lungarotti ルンガロッティ」ワイン博物館所蔵の陶器などが展示されたほか、ミラノの名店Peck 直営のBar でシェフを務めるフェルディナンド・マルティノッティ氏(写真左)による調理セミナーも行われた

 有名リストランテのインショップとはいえ、水も違えば素材の鮮度も違う上、まして仮設の調理設備で本国そのままの味を再現するのは至難の業です。プロ意識が高いカメリエーレが質の高いサービスをしてくれるイタリアとは違い、テーブルセッティングも侘しいしつらえであることは否めません。それでも規模が大きな東京のフェアでは、食のみならず幅広くオールマイティなイタリアの魅力の片鱗に触れることはできます。

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【Photo】2002年10月、新宿伊勢丹のイタリア展に登場した Venezia サン・マルコ広場にあるカフェ・フローリアンのインショップ。現存するイタリア最古のカフェの雰囲気を伝えようと、それなりに手をかけた内装。本店と同じリチャード・ジノリ製の特注カップに入ったカッフェには、獅子の紋章の砂糖が添えられていた。モデルは当時4歳の Mia bambina

 これが地方の百貨店の場合、呼び物は「東京にある人気店の出店」となるのがセオリーでしょうか。2007年春に開催された仙台三越のイタリアフェアには、落合 務シェフのラ・ベットラが出店、ローマ下町のトラットリアのような味付けの料理を提供しました。同年秋に開催された新潟伊勢丹イタリアフェアの呼び物は、鶴岡アル・ケッチァーノのインショップレストランでした。東京の店じゃないだろうですと? 私があの店と出合った頃とは違い、東京に活動の軸足を移した感すらあるゆえ、白羽の矢が立ったのでしょう。

piadina_fujisaki.jpg【Photo】仙台のイタリアフェアより。東京にあるナポリピッツァの頂点ともいわれた中目黒「Savoiサヴォイ」を招聘するも、電気窯では本来の味を出せるわけもなく撃沈。写真はエミリア・ロマーニャ州の気軽な郷土食Piadinaのイートイン

 各界の人たちが店の魅力を綴ったオマージュともいうべき本「奇蹟のテーブル」に奥田シェフから乞われて寄稿した私の一文にあるとおり、瑞々しいシェフの感性と多彩かつ質の高い庄内の素材たちが出逢って生み出されるのは、彼の地以外では真似のできない唯一無二の世界です。「地元のため、生産者のため」の活動は、やがて新奇さを追い求める各メディアの注目を集めるようになります。

 2006年夏にTBS系列のTV番組「情熱大陸」で紹介されて以来、奥田シェフはそれまでのペースをすっかり失ってしまいました。厨房以外の活動が増えて得たものの代償は大きかった...。いち早く紙面に取り上げ、全国区デビューの一端を担い、店の歩みをずっと見てきた者の一人として、メディアの功罪を自問しつつ今そう感じています。私が感動に打ち震えた魔法のような在来作物のフルコースを出してくれた平成16年前後の頃の闊達で自在な姿にあの店が戻る日は来るのでしょうか。

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【Photo】完熟したブドウをパッシート(=陰干し)して、糖分を凝縮させて作る Rupestr ブランドの極甘口デザートワイン「INSUPERABILE」(=至極の・越えることのできない)を手にする荒井基之氏、奥田シェフ、ジョルジョ。新潟伊勢丹にて(写真右より)

 新潟伊勢丹では、たまたま来日中だったピエモンテ・カネッリでアグリツーリズモ Rupestr を経営するジョルジョ・チリオ氏も自家農園のブドウで仕込んだ Moscato d'Asti モスカート・ダスティなどを紹介。ピエモンテワインについて1時間のトークショーでお得意のエンドレスマシンガントークを繰り広げました。ジョルジョを案内して訪れた魅力溢れる鮭の町・新潟村上のご紹介は機会を改めてたっぷりと。そのほか新潟のフェアでは、イタリアワインの魅力を日本にいち早く紹介した日本ソムリエ協会副会長で渋谷ヴィーニ・ディ・アライのオーナー荒井 基之氏や、昨年イタリア・ピエモンテ州 Alba の有名なトリュフ祭り会場でもお見かけした日本人初のAISイタリアソムリエ協会認定のソムリエ資格を取得した林 茂氏らが、イタリアワインのセミナーを行いました。

bettora_mitsukoshi2007.jpg【Photo】2007年春、三越仙台店にイートインで出店した銀座「ラ・ベットラ」落合 務シェフの弟子が作ったメリハリが利いたプリモピアットのパスタ2皿。ジェノヴェーゼ(写真上)& キノコノクリームソース(写真下)は、本店の気取らない味付けとの格差は感じなかった

 先週まで仙台で行われていた藤崎イタリアフェア2007では、「イタリアワイン最強ガイド」(文藝春秋刊)の著者 川頭 義之氏がセミナーを行いました。「闘うワイン商、フランスワインに喧嘩売ります!」のオビに目が留まって書店で手にしたこの本。地域性が強い多様な食と密接に結びついたイタリアワインの魅力を知る私が激しく共感した一冊です。

 「こんな貴方におすすめします」と表紙裏にいわく、★とにかく美味しいワインが飲みたい★イタリアは好きだけど、ワインは種類が多すぎて難しい★そろそろ「ブランド信仰」を卒業したい★フランスワインは不当に高すぎると思う★ロバート・パーカーって胡散臭いと思う★能書きは嫌いだが、ワインの本質を理解したい★ワインの職人に興味がある・・・五項目該当した私は、序文「宣戦布告!」の内容に数回大きく頷きながら読み進み、"こんな本を待っていた"と確信してレジへと向かったのです。

saikyouguide.jpg 本国では見向きすらされない「ボジョレー・ヌーボー」は、初物を尊ぶ日本においては、ビジネスとして成功しています。その経緯を見ても明らかな通り、周到なプロモーションで日本のワイン市場を寡占してきたフランス。イタリアワインを特集したワイン雑誌にすら、ボルドーを紹介するタイアップ記事やフランスワインコンセイエ【注】の資格を持つ販売員がいる酒販店を紹介する冊子が綴じ込まれてきます。こうした国や業界を挙げての販促活動の巧みさは、てんでバラバラなイタリアの到底及ぶところではありません。そんなこんなでイタリアワインが過小評価されている日本の現状を苦々しく見てきた私の積年の溜飲を下げてくれたのが川頭氏の著作だったのです。

 フランスワインこそが地球上で一番だと信じ、相当額の投資をされておられる諸氏には決してこの本をお勧めしません。なぜなら、さまざまな嗜好のテイスターによるフランスワインとイタリアワインの価格帯別ブラインド対決で、次々とイタリアワインがボルドー・ブルゴーニュのワインを打ち破ってゆくのですから。しかも勝利したイタリアワインの日本での値段は、総じて比較されたフランスワインの1/3~2/3程度です。評論家からの高い評価と希少性ゆえに高騰する「スーパートスカーナ」と呼ばれる一部のトスカーナ州産を除き、コストパフォーマンスの高さはイタリアワインの魅力のひとつです(最近はユーロ高も手伝ってそのメリットが失われつつある)

 食卓で一層輝きを増す食事の良き伴侶としての魅力にかけてはピカ一のイタリアワイン。豪州やチリなどのニューワールド産の赤ワインにありがちな後味の甘ったるさが無く、綺麗な酸を備えているため、ワイン単体で飲んでも美味しく感じます。その実力は決してフランスに引けを取らないことを川頭氏の本は証明しています。

bettora_sencondo2007.jpg【Photo】2007年三越仙台店イタリアフェアの「ラ・ベットラ」イートインよりセコンド・ピアット2皿。ズバ抜けてはいないものの、手軽でフツーに美味しいこの店らしい味を提供していた

 フランスの有名シャトーのワインは、収斂(しゅうれん)性が強いタンニンが落ち着き、味わいのバランスが取れてくる飲み頃を迎えるまでに良年作で20年~30年もの長い年月を要します。イタリアにも伝統的な造りをする Barolo バローロや Brunello di Montalcino ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、Taurasi タウラージといった同様のワインが存在します。しかし大方のイタリアワインは、ボルドーなどに比べて熟成のピークが早く訪れます。

 屋内温度が上がらない石造りのヨーロッパの家に比べ、夏季は高温になりがちな日本の住宅環境で、こうした長熟型のワインを劣化させずに保管・熟成させるには、セラーが欠かせません。予想される飲み頃を記した自作のワインリスト無しには管理不能に陥る400本以上(「異常」と言った方がふさわしいかも?)の自宅ストックを収容するため、200本収容セラーが1台、40本収容セラーが2台ある私のような熱心なワインラヴァー以外は、それ自体が決して安くは無いセラーを備えるのを躊躇することでしょう。

cellar_casa.jpg 【Photo】3台のセラーが稼働する仙台市在住の某イタリアワインラヴァーのセラールーム。収蔵するワインの9割はイタリア各地の熟成能力が高いヴィーノで占められるという

 その点、リリース時点で充分楽しめる状態になっている場合が多いイタリアワインはオススメです。さらに日本の家庭料理は、素材の味を生かす料理が多く、その点でもイタリアとの共通点があります。ご存知の通りイタリアの食卓にはVinoが欠かせません。日常的にワインに親しむのならば、豊富なブドウ品種のバリエーションを持つイタリアワインは日本の一般家庭の食卓でも活躍できるシーンが多いはずです。飲まず嫌いは人生の損失、ですよ。

 東京から火がついたイタリアンブームに遅れることおよそ10年、ようやく仙台にもパスタとピッツァ以外のイタリア料理を提供するレストランが増えつつあります。在仙のイタリアンレストランの中にも、ようやく頑張ってるなぁという店が何軒か出て来てくれました。女性を中心にご自宅でもイタリアンを召し上がる機会は多いのではないでしょうか?

 そうしたイタリア料理の普及度合いと比較して、良き食卓の伴侶たるイタリアワインの存在感は、日本ではまだ希薄と言わざるを得ません。今ではほとんど見かけなくなったフィアスコ・ボトルという藁で覆われた独特の形状の瓶に入った安いキアンティ=イタリアワインというイメージが日本では強かったように思います。

 品質の向上が著しいキアンティ・クラシコも、かつては「白ブドウを15%混醸すべし」という組合が定めた規定に沿って作られた軽めのものが多かったのです。こうした安酒のマイナスイメージは、ようやく海外に目を向け始めたここ10年あまりの生産者の努力によって、現在では払拭されつつあります。それでも酒販店の店頭にあるイタリアワインは若干淋しい品揃えの場合があります。仙台に本社がある大手輸入酒類・食品販売店が、お膝元の店舗で扱うイタリアワインですら、同社が首都圏で展開する店舗のそれと比べて質量ともに見劣りするのが正直な印象です。

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【Photo】店が一段落したところで、Enoteca il Circolo の吉田シェフ(写真右)もワイン談義に加わった。私がプレゼントした宮城の観光情報を一冊にまとめた「宮城通本」(河北新報社発行)を前に熱くワインを語る川頭義之氏とジョヴァンナ夫人

 そんな仙台で、イタリアワインの魅力を一人でも多くの方に知っていただくには最適のキャスティングともいえる川頭氏のワインセミナーが行われるというので、楽しみにしていました。セミナーの前夜、Enoteca il Circolo の吉田シェフとインポーターのモトックスさんのご好意で、川頭氏と個人的にお会いすることができました。氏が自宅でも愛飲するという Vino 数種を傾けながらの"イタリアワインバカ一代"同士の語らいの内容は次回ご報告します。

【注】conseiller コンセイエ(=助言者:仏語)。パリに本部があるフランス食品振興会(通称SOPEXA)が認定するワイン販売員の資格。フランスワインコンセイエについてはこちらを参照http://www.franceshoku.com/conseiller/conseiller07.html

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