あるもの探しの旅

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2017/04/19

土佐日記風 会津日記 【序章】 @ 摂津国

じもてぃもすなる あさらーといふものを
しょういたもしてみむとてするなり


 代々官職に就く朝廷に仕える下級貴族で、平安時代中期に藤原公任(ふじわら の きんとう)が、万葉の時代からの優れた歌人として挙げた三十六人撰(三十六歌仙)の一人としても名高い紀貫之(868 or 872~945)。

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【Photo】現存する最古の三十六歌仙を描いた絵図の部類となる「佐竹本三十六歌仙絵」下巻より紀貫之(国重要文化財・13世紀・耕三寺博物館蔵)。913年(延喜13)、律令制における正六位 大内記に叙せられた紀貫之。4年後には従五位下となり加賀国・美濃国などの次官にあたる介や大監物などを歴任。930年(延長8)に土佐守(高知の国司)となり、高知に赴任した

 土佐守として赴任した4年の任期を終えて934(承平4)に京都へと帰還する間の出来事を、58の短歌と共に日記風に綴ったのが、本邦初の紀行文とされる「土佐日記」です。

 やんごとなき身分の男性が、公式に使う文章は漢文が通例であったこの時代。公人としては異例の女性が使用するカナ文字を使い、虚構や諧謔的な表現を織り交ぜながら家人や従者と小舟に分乗しての55日間の出来事が語られます。

  をとこもすなるにきといふものを、をむなもしてみむとてするなり。
それのとしのしはすのはつかあまりひとひのひの、いぬのときにかどです。

 【現代語訳】男性が綴る日記というものを、女性である自分も試みてみる。とある年の十二月二十一日(太陽暦で2月2日)、午後8時に出立することとなった。

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【Photo】土佐の国府が置かれた現在の高知県南国市比江を出立した紀貫之ら一行。当時は大津と呼ばれた同県船戸から小舟に乗り、南西12kmほどの距離にあり、古くは浦戸と呼ばれ、現在は坂本龍馬像が立つここ桂浜から、阿波・淡路・和泉と海路を進み、難波から淀川を遡上。山城国へと入り山崎からは陸路を進み、桂川を渡って二月十六日(太陽暦で3月28日)に我が家に着くまで55日を要した

 醍醐天皇(885-930)の勅命による我が国初の勅撰和歌集が「古今和歌集」です。壬生忠岑ら4人の撰者の中で中心的な役割を果たした編纂の任に当たった当時、紀貫之は宮中の文書管理を担う次官級の御書所預(ごしょどころあずかり)の職にありました。

 奈良県櫻井市にある花の寺「長谷寺」を訪れた折、宿の主から「しばらく音沙汰がなかったですね」と言われた貫之の返歌として詠まれ、古今集に収められたこの和歌は、百人一首にも取り上げられています。

 人はいさ 心もしらず ふるさとは 花ぞむかしの かににおひける

 【現代語訳】さぁ、あなたはどうでしょうね。人の心もようは分からないけれども、馴染みの里に咲く梅の花は、昔と変わらず香っています。

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【Photo】紀貫之による自筆本の筆跡を再現した古写本「土左日記」(尊経閣文庫蔵)。現在は散逸した原本が残っていた平安時代末期から鎌倉時代初期にかけ、勅撰和歌集から秀作を選んだ小倉百人一首を成立させた藤原定家による写本

 貫之が和歌について論じた古今集の仮名序は、日本文学が漢詩の影響を脱し、源氏物語に代表される女流古典文学の確立に向けた指針を示したとされます。

  やまとうたは ひと(人)のこころをたね(種)として よろず(万)のことのは(言葉)とぞなれりける

 【現代語訳】和歌は人の心の機微を表現し、数え切れぬほどの言葉を編み出していった

 京都で生まれ、赴任先に伴ってきた可愛い盛りの女児を土佐を発つ直前に病で亡くす不運に見舞われた紀貫之。大津から浦戸に向かった12月27日に詠じたのは ー

 みやこへと おもふをもののかなしきは かへらぬひとのあればなりけり

 【現代語訳】いよいよ都へと帰還するのだけれど、どうしても悲しいのは、帰らぬ人がいるからなのだ

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【Photo】京都・嵐山付近を流れる桂川の流れを見守る松の古木とて、紀貫之が生きた時代を知るよすがもないが、世界各国から訪れる観光客が行き交う渡月橋は、現在とは異なる位置にすでに架けられていた。天皇の内裏(皇居)であり、公務を執り行った京都御所近くの京都御苑の一角に紀貫之の居宅があったといわれる

 長旅を終え、貫之が京都の自宅に戻って詠んだのは、帰還の喜びではなく、人の命の儚さを憂うこの和歌でした。

 生まれしも帰らぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ

 【現代語訳】ここで生まれた我が子が帰らないというのに、元は無かった小さな松が庭に生えているのを見るのは辛い

 亡き娘を思う悲哀を込めた短歌は、時代を越えて庄イタの胸にも響いてくるのです。

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 紀貫之の生年である貞観年間は、天変地異が頻発した時代でした。

 861年(貞観3)、現在の福岡県中部の直方(おのがた)市にある須賀神社境内に記録が残る世界最古の隕石が落下。864年(貞観6)、当時は常に噴煙を上げていた富士山が大噴火を起こし、現在は青木ヶ原樹海となった膨大な溶岩を噴出。

 1000年に一度の規模といわれた東日本大震災と同規模の大津波が三陸沿岸を襲ったと推定される貞観地震の発生が869年(貞観11)。その2年後には鳥海山が噴火しています。

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【Photo】文献に残る噴火が537年から十数回を数える鳥海山。現在の頂上部が形成された1800年(寛政12)の噴火による死者は8人。直近では1974年(昭和49)に水蒸気爆発し、噴煙を上げた〈上画像〉

 マグニチュード7.4と推定される相模・武蔵地震の発生により、南関東地域に大きな被害が及んだのが878年(元慶2)。887年(仁和3)には南海トラフを震源とするマグニチュード8規模の仁和地震で近畿地方に甚大な被害が及ぶなど、大規模な地殻変動が各地で頻発します。

 794年(延暦13)、桓武天皇(737-806)により京都・平安京に都が移され、1192年(建久3)に鎌倉幕府が成立するまでの平安時代の幕開けは、かくも平安ならざる天変地異が続いたのです。

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 昨年8月、天皇陛下が退位のご意向を色濃く滲ませた「お気持ち」を表明されたことで、平成の終わりが見えてきたこの春。2007年6月のブログ開設以来、Viaggio al Mondo~あるもん探しの旅は10年目を迎えます。

 10年目でひと区切り。

 私事ですが、4月の定期異動で大阪に赴任し、東北をフィールドに駆け巡ってきた庄イタにも転機が訪れました。

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【Photo】六甲山地の東端付近に源を発する夙川(しゅくがわ)。2.8kmの遊歩道が整備された公園緑地には枝ぶりが見事なクロマツと共に1,660本のソメイヨシノやオオシマザクラなどの桜並木が続く。5月から6月にかけて阪急甲陽線苦楽園駅の上流域ではホタルが見られる。そこは神戸出身の作家・野坂昭如の小説「火垂るの墓」の舞台となった

 プレ創刊100周年の1996年(平成8)、バブルの余韻に浸りつつ6年を過ごした東京支社から仙台本社に帰還。山形営業所の立ち上げに携わった2003年(平成15)に庄内系へと突然変異。創刊120周年の節目を迎えたこの春、摂津守として北前船で酒田湊から上方へと赴いた格好です。

 紀貫之が土佐から京の自邸に戻った日と同じ3月28日、かつては摂津国と呼ばれた関西に初めて居を構えました。

 そこは「さくら名所百選」に数えられる夙川(しゅくがわ)河川敷緑地・夙川公園まで徒歩30秒。天然記念物「コバノミツバツツジ群落」が見られ、天照大神を祀る廣田神社も徒歩圏という風雅な地。

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【Photo】日本書紀に神功皇后の創建による記述がみられる由緒正しき廣田神社。16,000坪の境内には三本に分かれた小さな葉が特徴的なコバノミツバツツジ2万株の群落が見られ、樹齢300年を数える古木もある

 新任地は、旧淀川の支流、土佐掘川のほとり。対岸の中之島には日本赤煉瓦建築番付における西の横綱「大阪市中央公会堂」や、ギリシャ神殿に倣ったコリント式円柱を備えた重要文化財「中之島図書館」が、すぐ眼下にあるハイカラな土地柄でもあります。

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【Photo】ウォーターフロント中之島のシンボル的存在「大阪中央公会堂」は明治期に在阪の株式仲買人・岩本栄之助が大阪市に寄贈した現在の貨幣価値で数十億の浄財をもとに建造された

 久方ぶりに触れる外の空気は新鮮そのもの。着任早々、京都で桜を愛でる機会があったかと思えば、新世界にある串かつの名店や、迷宮のごとき天満やミナミで粉もん文化の洗礼も。どうやら新任地では、公私ともに数え切れぬほどの出会いと発見が待っているようです。

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【Photo】およそドボルザーク作曲の交響曲第9番「新世界より」が似つかわしくないエネルギッシュな喧騒に満ちた大阪・新世界。気分はガーシュイン作曲の交響詩「パリのアメリカ人」的な「ナニワの庄内系イタリア人」。通天閣を背景に筆者近況

 仙台から伊丹空港まで1時間20分の空路で着任した庄イタとは違い、紀貫之は荒ぶる海や海賊の脅威に晒されながら、家族を伴い小舟に分乗して2か月近くを要して帰京しています。

 ひとまず距離を置くこととなる東北を題材とするネタとしては、一区切りとなる物語の舞台は、福島・会津です。

 今をさかのぼること1,000年以上前に書き記された土佐日記に敬意を表した今回のタイトル。我が国初の紀行文の名高い書き出しになぞらえた本編は、また次回。

To be continued.

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2016/09/10

巨大スケール 縦横無尽

「殿、利息でござる!」「ティファニーで朝食を」「シン・ゴジラ」と映画に関連づけた話題が続いたこの夏。その最後を締めくくるのは、桁外れの大きさの宇宙船で来襲し、地球を植民地化しようとする地球外生命体に結束して立ち向かう人類の闘いを描いた作品です。

迫力の3Dで迫り来る侵略者もタジタジのピッツァ
& 棟方志功に見る青森ねぶたの色彩


cooking-kingdom2016.6.jpg 「TOHOシネマズ仙台」がキーテナントで6~9Fを占める仙台PARCO2の1F飲食フロアには「サルヴァトーレ クオモ& バール」が東北初出店(下画像)

 7月1日(金)のグランドオープン前日に行われたプレス内覧会には、日本にナポリピッツアを広めた功労者でナポリ出身のサルヴァトーレ・クオモ氏も駆けつけ華を添えていました。

 そうして期せずしてトートバッグに忍ばせていた料理王国6月号の表紙(右画像)をちらつかせながら、落合務シェフと並んで写るクオモ氏とご対面。

©CUISINE KINGDOM

 2003年にナポリで開催されたピッツァ職人の技能を競う世界最高峰の大会「Pizzafest」において、イタリア人以外で初の最優秀賞に輝いた大西 誠氏も、生地づくりや薪窯の技術指導のため、数日間は仙台にいらっしゃる予定であることを店の方から聞き出しました。

 上杉「ピッツエリア・パドリーノ・デル・ショーザン」、楽天コボスタ内「穂波街道 赤のイスキア」、塩竃「ラ・ジータ」、定禅寺「ダ・ジェンナーロ」、台原「イル・ピッツァイオーロ」といった庄イタをうならせる本場ナポリの味を仙台に居ながらにして味わえるピッツェリアが増えつつある仙台圏。

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 一方で、東京・中目黒「ダ・イーサ」で、山本尚徳さん(下画像)の手になるサックリ&モチモチの食感が素晴らしいピッツア生地が、何故に世界一なのかを体感するなど、日々の鍛錬も怠りません。

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 マルゲリータ・レッジーナ協会主催「Trofeo città di Napoli ナポリ・ピッツア選手権」において、2007年と2008年に世界一に輝いたのが、当時、南青山の名店「Napule」のピッツイオーロだった山本さんでした。

marinala-daisa.jpg【Photo】異次元の食感で魅了する生地の旨さは特筆もの。Pizzera e Trattoria da Isa ダ・イーサのマリナーラ(1,500円)

 2003年世界チャンプ・大西氏のマルゲリータS.T.G.を新潟で食して以来の願ってもない機会ゆえ〈2013.10拙稿「すわ119番」参照〉、開店初日のランチに再訪した折には、ピッツアが冷めかねない通常メニューのランチビュッフェには目もくれず、大西さんが焼き上げたマリナーラ(下画像・S1,300円・M1,500円)を所望したのです。

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 内覧会の翌週末、再びPARCO2に足を運んだ一つの理由は、多店舗展開による個々の質の劣化という飲食店が陥りがちな悪弊に関して、サルヴァトーレ クオモ&バールが、その例外であるかどうかを見極めんがため。

 注文したカルボナーラが、熱々を食したいピッツアと同時に運ばれてくるなど、現場のオペレーション面ではオープンして間もないハンデを差し引かねばなりません。今後に期待しましょう。

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 ピッツアに換算したなら数億食分はあろうかという大きさの宇宙船(下画像)が地球に来襲するIMAX®3D版の「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」を鑑賞するのが、もう一つの仙台PARCO2を訪れた目的でした。

resergence-mothership.jpg【Photo】前作では直径24kmの設定だったエイリアンの宇宙船。新作では格段にスケールアップした母船が登場。映画「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」より ©2016 Twentieth Century Fox Film Corporation

 20年前に人類が結束して撃退したエイリアンが、遥かにスケールアップして再び地球を襲う「インディペンデンス・デイ:リサージェンス」。

 北米大陸を覆いつくすほどの巨大な宇宙船(下画像)の大きさのみならず、製作費についても1億6千5百万ドル(約165億円)の巨額を投じたSF超大作です。

indipendenceday-1.jpg【Photo】地球の重力を操作する技術を備えたエイリアンは、世界の主要都市を破滅に追い込む。映画「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」より ©2016 Twentieth Century Fox Film Corporation

 20年前に公開された第一作「インデペンデンス・デイ」では、ベトナム戦争の退役軍人ラッセル・ケイスが、ミサイルを装填した戦闘機ごと体当たりして母船を破壊。地球制服を目論むエイリアンと人類との死闘の末に地球を救いました。

 前作では湾岸戦争でパイロットとしての従軍経験がある設定だった米国大統領ホイットモアが、前作のラッセルと同じく自らの命と引き換えに人類を救う元大統領役を新作で演じます。

indipendenceday2.jpg【Photo】地球制服を目論む巨大で強力な侵略者に対し、人類はいかに立ち向かうのか。映画「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」より ©2016 Twentieth Century Fox Film Corporation

 前作より遥かに巨大化したエイリアン母船に対し、武力による徹底抗戦を挑むアメリカ。新作でもアメリカ独立記念日の7月4日が人類が勝利を収める日という設定がなされています。英雄の登場を待望し、世界の盟主たらんとする米国らしさが炸裂するこの作品。

 トランプ候補に拍手喝采するアメリカ市民のメンタリティと共通する〝善〟対〝悪〟の単眼的な図式化は、イスラム原理主義やテロとの戦いを主導する第二次世界大戦の戦勝国・米英仏の根底に流れる発想と相通じるように感じます。

IndependenceDay-queen.jpg【Photo】巨大なエイリアンの女王と繰り広げる死闘の結末やいかに。映画「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」より ©2016 Twentieth Century Fox Film Corporation

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 IMAX®デジタルシアターの巨大スクリーンに投影される空を覆いつくす巨大な宇宙船や、体長118.5mに巨大化したシン・ゴジラが引き起こした大きさの感覚に関する麻痺に追い打ちをかけたのが、既報の八戸三社大祭に加え、青森ねぶた、そして五所川原立佞武多と続いた夏祭りのハシゴでした。

oirase2016.8.jpg【Photo】鬱蒼とした樹間からこぼれる木洩れ日と、十和田湖から流れ出る豊かな水流とが、多彩な緑のコントラストを描き出す奥入瀬渓流「石ヶ戸の瀬」

 八戸から青森市への移動ルートに選んだのは、山岳コースのR103。寄り道した緑したたる樹間を変化に富んだ渓流美が続く「奥入瀬渓流」のハイライトとなる「石ヶ戸」~「銚子大滝」間、約8kmでマイナスイオンをたっぷりと浴び、まずはココロの洗濯。

choshi_otaki.jpg【Photo】雪解け水で水かさが増える春先は最大幅20mにもなり、落差7mの高さを水しぶきをあげて流れ落ちる「銚子大滝」は、奥入瀬渓流の本流では唯一の滝。轟音を響かせる滝を前に思い起こしたのが、5年前の9月、羽黒山伏修行の折に湯殿山での瀧行だった〈2011.12拙稿「修験道体験@出羽三山」参照〉

 広葉樹林帯からブナの森を縫うように走るR103。次第に標高が上がると、八甲田山が北限となるアオモリトドマツの森へと植生が変わってきます。標高890mのいで湯「酸ヶ湯温泉旅館」の名物、総ヒバ造りの「千人風呂」で身を清めてから青森市に到着しました。

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 大型ねぶたの運航が開始される19時10分までは時間の余裕がありました。そこで訪れたのが、世界的な板画家・棟方志功(むなかたしこう・1903~1975)の業績を展示する「棟方志功記念館(上画像)

munakatashiko-saku_konin.jpg 青森市で鍛冶屋の三男として生まれた棟方志功は、18歳で文芸誌「白樺」の表紙に描かれていたゴッホの「ひまわり」と出合い衝撃を受けます。「わだばゴッホになる」と画家の道を志します。1939年に発表した代表作「二菩薩釈迦十大弟子」で国内における名声を確立。1956年のヴェネツィア・ビエンナーレ版画部門で日本人初の国際版画大賞を受賞するなど、ここで改めてご紹介するまでもなく、海外でも広く認められた偉大な芸術家です。

【Photo】モノトーンの板画に裏側から色を滲ませる裏彩板画の作例。1962年(昭和37)「弘仁の柵」

 ねぶた祭を愛した志功は、郷里を離れた後も、跳人(はねと)として祭りに参加したそうです。志功が生命の象徴として好んで取り上げた丸顔で豊満な女性像に見られる裏彩板画の色合いは、躍動感に溢れるねぶたの配色を彷彿とさせます。

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【Photo】開幕を告げる打ち上げ花火に続き、血沸き肉踊る青森ねぶた祭の主役・大型ねぶたの先陣を切って出世大太鼓の勇壮な響きが近づいてくる

haneto2016.jpg【Photo】扇子持の合図で動くねぶたの曳き手、跳人と囃子が一体となって青森の夏の夜を焦がす

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画像提供:(公社)青森観光コンベンション協会

 黄昏時に聞かれる虫の鳴き声が、ヒグラシからスズムシへと変わり、過ぎ去った夏の感傷に浸るビデオクリップが秀逸なドン・ヘンリーの名曲「The Boys of Summer」が似つかわしい季節となりました。

 次回、「躍動、縦横無尽。青森ねぶた祭&五所川原立佞武多(たちねぷた)の偉容」で、笛・太鼓・手振り鉦が奏でるお囃子と、通りを練り歩くねぶたが宵闇を熱くする青森・津軽の短い夏を回顧します。

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2016/09/03

シン・ゴジラ出現@田舎館村

 前回「陸奥湊で朝食を」冒頭で登場した名作「ティファニーで朝食を」に続き、今回はこの夏公開され話題となった超・巨大な相手に立ち向かう人間の奮闘を描いた映画最新作にちなんだ話題を3回シリーズでお届けします。

最新VFXを越える田んぼアートのリアリティ

 VFXVisual Effects ビジュアル・エフェクツ)や3Dを駆使したデジタル視覚効果技術と、音響を含めた劇場設備の進歩により、映画の虚構世界をリアルに体感することが可能となりました。

 7月1日にオープンした仙台PARCO2には、床面から天井・正面の壁すべてが大きなスクリーンとなる最新鋭のIMAX®デジタルシアターを含む9つのスクリーンを備えたシネマコンプレックス「TOHOシネマズ仙台」が6~9Fにキーテナントとして入居しています。

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©2016 Toho co.,ltd.      

 まず俎上に乗せるのは、〝現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)〟をキャッチフレーズとする東宝作品「シン・ゴジラ」IMAX®版。

 羽田沖に突如出現し、大田区へと上陸した謎の巨大不明生物(ゴジラ)。予想だにしない緊急事態に右往左往し、機能不全に陥り被害を拡大させる日本政府。東日本大震災と原発事故の折の対応を想起させる政権中枢の優柔不断ぶりが、シニカルかつリアルに描かれます。

godilla_1.jpg【Photo】鎌倉に出現したゴジラは、シリーズ29作目にして過去最大の大きさに巨大化。映画「シン・ゴジラ」より ©2016 Toho co.,ltd.

 体内での核融合がエネルギー源となる巨大不明生物は、血流による体の冷却では追い付かず、突如として東京湾の海中へと姿を消します。鎌倉への再上陸時には、118.5 mまで体長が巨大化。

 ゴジラは横浜・川崎を移動して北上を続けます。戦後初の防衛出動を決断した内閣総理大臣の指示で、一斉攻撃に臨む自衛隊。しかし日本が保有する通常兵器では全く歯が立たず、ゴジラは防衛線を楽々と突破。東京都心へと移動します。

godzilla_2.jpg【Photo】首都防衛の生命線となる多摩川付近で、自衛隊は陸と空からの一斉攻撃に臨むが...。映画「シン・ゴジラ」より ©2016 Toho co.,ltd.

 日米安保条約に基づく出動要請を受けた米軍の地中貫通爆弾による攻撃で、致命傷を負ったかに思えたゴジラは、状況に応じて驚異的な進化を遂げる究極の生命体へと進化していました。国連安保理は中露が主導し、自国への被害拡大が懸念されるゴジラ殲滅(せんめつ)のため、東京での核兵器使用を決議します。

 各省庁の異端児たちの混成チームを主導する内閣官房副長官・矢口蘭堂は、日本に対する3度目の核兵器使用を回避すべく、血液凝固剤の経口投与によるゴジラの活動停止を画策。チームワークで立ち向かいます。

【Movie】映画「シン・ゴジラ」予告編 ©2016 Toho co.,ltd.

 次回取り上げるローランド・エメリッヒ監督最新作「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」でも共通して描かれるのが、絶体絶命の事態打開に向けたプロセス。日米それぞれの国情や国民性の違いが如実に表れているように感じました。

 もはやこれ以上のタネ明かしは野暮というもの。正確な金額は非公表ながら、東宝としては異例の総額20億円以上といわれる製作費を投じた超大作の結末は、どうぞ劇場で見届けて下さい。

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 この夏、最新VFXを駆使した映画の虚構世界を凌駕する現実と出合ったのが、夏祭り期間に訪れた青森でのこと。

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【Photo】田んぼアート発祥の地・青森県南津軽郡田舎館村の「道の駅いなかだて『弥生の里』」。360°の視界が開ける第2会場展望所からは、津軽平野と岩木山が一望のもと

 今回ご紹介するのは、1993年(平成5)から回を重ね、今年で24年目を迎えた田んぼアート開催真っ最中の青森県南津軽郡田舎館村(いなかだてむら)

 各地で同様の取り組みがなされる田んぼアート発祥の地・田舎館で庄イタが訪れたのは、NHK大河ドラマ「真田丸」をテーマとする第1会場ではなく、色の異なる7色9種類の水稲でシン・ゴジラを表現した第2会場でした。

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【Photo】田舎館村田んぼアート第2会場。背中から放射状に光線を発しながら国会議事堂を襲撃せんとする巨大スケールのシン・ゴジラは今にも動き出しそう。左右分割でのご紹介となったのは、18-55mmズームレンズではフレームアウトしてしまうゆえ、ご容赦のほど

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 道の駅いなかだて「弥生の里」に隣接する田んぼ約1ヘクタールの奥行き70m×幅150mが、田んぼアートのカンバスです。これは庄イタが映画シン・ゴジラを鑑賞したTOHOシネマズ仙台では最大となるシアター6(横31列・全366席)「IMAX®デジタルシアター」を遥かに超えるスケール。

 桁外れの大きさの田んぼアートを鑑賞するためには、道の駅いなかだてに4年前に造られた高さ21mの「弥生の里展望所」(入館料:中学生以上300円・小学生100円)から、鳥の視線を得て眺める必要があります。

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【Photo】自衛隊の火器による攻撃ではビクともしない分厚く強固なゴジラの外皮は、ニガウリ(ゴーヤ)をイメージしたという。風に吹かれてサワサワと揺れる稲が、あたかもゴジラが動いているかのような錯覚を生み、迫真のリアリティをもたらす

 感嘆すべきはその完成度の高さ。測量技術を用い、パースペクティブを考慮して展望所から眺めた際に形状の歪みが出ないよう下絵を基に設計図を作成します。

 今年の新作シン・ゴジラに関しては、田んぼに1万2千か所のポイントをプロットし、地元の方たちが、食用米「つがるロマン」・ 葉が白い観賞用品種「ゆきあそび」・古代米の「黄大国」や「紫大黒」など、色の異なる稲の苗を手植えしたのだといいます。

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【Photo】正しい日本語では「食べられる名作」とあるべきキャッチフレーズ。官製〝ら抜き言葉〟が気になる田舎館村作成による今年の田んぼアートのフライヤー(部分)。表面に採用された図柄は、昨年の第一会場「風と共に去りぬ」

 2013年(平成25)7月、弘前市と黒石市とを結ぶ弘南鉄道弘南線に「田んぼアート駅」が設置され、人口8,000人の村を年間35万人近くが訪れる観光集客の目玉となっています。交流人口増による地域おこしにも寄与した田んぼアートは、年を追って芸術性のレベルが向上。国内外から高い評価を受けています。

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 昨年からは巨大な「石のアート」にも新たに挑戦。〝不器用ですから〟のセリフが記憶に残る高倉健をモノトーンで器用に表現した前年作(上画像)に続く今年の新作は、昭和の大スター石原裕次郎(下画像)。苦み走った裕ちゃんは、きっとこう言っているのでしょう。「♪ 俺は待ってるぜ

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 村では例年9月末に刈り取り体験ツアーを実施します。ご興味があおりの方は、田舎館村企画観光課商工観光係(Phone:0172-58-2111 / 内線242・243)まで。

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 そもそも田舎館村が全国に先駆けて田んぼアートを始める契機となったのが、1981年(昭和56)にR102のバイパス化工事で、弥生時代中期にあたる2,000年前の水田跡が発見された垂柳(たれやなぎ)遺跡の存在でした。

 国内最大級の縄文集落跡「三内丸山遺跡」や、呪術で使われたと推測される異星人のような姿の遮光器土偶が出土した「亀ヶ岡遺跡」など、豊かな縄文文化が本州最北の地で花開いた青森。

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【Photo】田舎館村埋蔵文化財センターは、垂柳遺跡で発見された細かく仕切られた2,000年前の水田跡に建っており、 遺構露出展示室では遺構を間近に見学できる。手前の窪みは水路跡

 稲作を暮らしの基盤とする弥生文化が本州最北部に定着していたことを示す656枚(約8,000平方メートル)の水田跡は、北東北には弥生は存在しなかったというそれまでの定説を覆す発見だったのです。

 洪水により埋没し、打ち捨てられたと推定される小さく区割りされた弥生時代の水田跡で見つかったのが、当時そこで暮らしていた人々の数万にも及ぶ足跡でした。

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【Photo】田舎館村埋蔵文化財センターの入口ホール。年齢が特定された男女数名が遺した足跡をガラス越しに見ることができる

 その大きさと凹みの深さから、おおよその年齢や性別を推定。家族と推定される子どもを含む男女が揃って農作業を行っていたことが分かっています。

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 道の駅いなかだて「弥生の里」と通りを挟んで隣接する垂柳遺跡には、博物館と埋蔵文化財センター(共通入館料:大人300円・中高生200円・小学生100円)が建っています。

 田んぼアートの里を訪れた際は、稲作が北東北に定着し、弥生時代中期の人々の暮らしを支えていた田んぼの遺構もお見逃しなきよう。

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2016/07/31

吉岡宿はパラディーゾでござる!

映画「殿、利息でござる!」後日譚

 

Paradiso:パラディーゾ【イタリア語】楽園、天国、景勝の地

 今をさかのぼること250年前。時は江戸中期の1766年(明和3)から1773年(安永2)。世界に目を転ずれば、平等主義・人民主権などを掲げる啓蒙思想が欧州各地で広まりをみせていた時代。

 1769年、ジェノヴァ共和国からフランスに統治権が移行直後のコルシカ島で、のちに絶対君主制を市民が打破したフランス革命(1789)後の欧州を軍事力で席巻したナポレオン・ボナパルトが誕生。英国の植民地下にあったアメリカでは、独立宣言(1776)への布石となったボストン茶会事件(1773)が発生した頃。

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©2016「殿、利息でござる!」製作委員会 tono-gozaru.jp

 かたや極東ジパング。ところは仙台藩第7代藩主、伊達重村の治世下の陸奥国吉岡宿。財政難に陥った藩に対し、庶民が現在の価値にして3億円を貸し付け、幕末まで金利を地域で分配し続けたという実際にあった前代未聞の出来事を映画化した「殿、利息でござる!」を皆さまご覧になったでしょうか。

 5月7日に仙台先行公開されたこの作品。同14日の全国劇場公開以降、各地でロングランを続け、興行収入は7月末に13億を突破。10月5日(水)のブルーレイ・DVD発売に向けた予約も好調なのだそう。

 配役は、身を挺して宿場を救った穀田屋十三郎役が阿部サダヲ。前代未聞の奇策を発案した知恵者の茶師・菅原屋篤平治は瑛太が演じ、竹内結子が居酒屋の未亡人女将♥とき、両替商を兼ねる造り酒屋の実家・浅野屋と同じ造り酒屋の穀田屋へ養子に入った十三郎の父・先代の浅野屋甚内を山﨑努、母きよは草笛光子、家業を継いだ十三郎の弟・甚内は妻夫木聡。

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©2016「殿、利息でござる!」製作委員会 tono-gozaru.jp

 仙台藩主・伊達重村役として起用され、物語の大詰めでスクリーンに登場するや、客席から歓声やざわめきが起きるフィギアスケーター・羽生結弦さんの映画初出演ながら堂に入った演技も話題を呼びました。

 監督は中村義洋氏。仙台市在住の作家・伊坂幸太郎氏の小説「アヒルと鴨のコインロッカー」や「ゴールデンスランバー」、リンゴ農家の木村秋則さん役を阿部サダヲが演じた「奇跡のリンゴ」など東北ゆかりの作品を手掛けてきました。

mushi_no_giapponesi.jpg 吉岡宿は、仙台藩の財政援助がある直轄地ではなかったため、奥州街道の要衝として人馬を提供する伝馬役(てんまやく)の重い負担に苦しんでいました。そのため課役に耐えきれず、夜逃げや住人の離散が後を絶たない存亡の危機にあったのです。

 窮状を打開するため、とことん生活を切り詰め、さらには私財まで投げ打ち、足掛け8年をかけて用意した一千両(約3億円)を仙台藩に貸し付け、その利息100両を毎年分配することで吉岡宿を救った穀田屋十三郎(1720-1777)ら9人の篤志家らに光を当てた評伝「無私の日本人」(文春文庫)が映画の原作。著者は歴史家の磯田道史氏です。

【Photo】庶民に儒学の心を説いた中根東里、幕末の女流歌人・大田垣蓮月とともに〝いまどうしても記しておきたい〟という思いに駆られた磯田氏によって、平成の世に蘇った穀田屋十三郎。「無私の日本人」文庫版の装丁に描かれるのは、七ツ森の山並み。山のようにブレない先人の気概と生き方に心が動かされる一冊

settte-monti.jpg【Photo】奥羽山脈の一角となる標高1,500mの船形山(上画像右奥)は、「御所山」とこの山を呼ぶ山形と宮城との県境となる分水嶺。宮城側、南川ダム周辺には名前に岩を意味する「倉」の字が入った笹倉山など標高500~300m前後の小高い7つの連山があり、総称の「七ツ森」の名で親しまれている。写真提供:宮城県観光課

kuhonji-sekihi.jpg 仙台城下から北へ25kmほど。宮城県黒川郡大和町吉岡は、東北自動車道大和ICからほど近く、多くの車両が行き交うR4が旧宿場を迂回するように通っています。

 酒田湊まで続いていた出羽仙台街道と松島街道とが奥州街道と交差する吉岡宿は、江戸時代後期の1821年(文政4)と1879年(明治12)に発生した二度の大火に見舞われます。そのため、9名の篤志家が守った宿場町の面影をかろうじて留めるのは、上町・仲町周辺の旧奥州街道沿いのごく一部。

【Photo】九品寺の山門前に立つ宝暦7年(1757)建立の道標。南無地蔵菩薩と刻まれた左右には「右せんだいみち 左まつしまみち」という道案内が判読できる

 区割り以外に往時と変わらないのは、船形山を背に特徴的な山容を連ねる七ツ森の姿と、伊達家ゆかりの古刹、臨済宗「天皇寺」や、穀田屋を屋号とする高平家や菅原屋篤平治の菩提寺、浄土宗「九品寺」の山号「蓮台山」を掲げる山門前の苔むした石碑など(下画像)

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 九品寺の境内には、子宝に恵まれなかった菅原屋篤平治・なつ夫妻が眠る墓碑の脇に地元の有志が寄付を集め、2003年(平成15)に建立した「国恩記顕彰碑」(下画像)があります。

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 穀田屋十三郎は〝私がしたことを人前で語ってはならない。我が家が善行を施したことなど、ゆめゆめ思うな。何事も驕らず、高ぶらず、地道に暮らせ〟と家族に言い残し、念願が叶った4年後の1777年(安永6)、58歳でこの世を去りました。

 奥ゆかしい東北人ならではのエエ話やなァ(T-T。

 高平家には高さ20cmほどの裃と髷姿の十三郎の座像(下画像提供:穀田屋)を収めた「お堂っこ様」が伝わっており、新たな年を迎えるごと、家族そろって拝礼するのを習わしとしています。

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 磯田道史氏が「無私の日本人」を執筆する際、下敷きとなったのが、全6巻からなる「吉驛國恩記(よしおかこくおんき・国恩記)」。

 九品寺にほど近い曹洞宗「龍泉院」の住職・栄洲瑞芝(えいしゅうずいし)が、辛苦を乗り越えた9人の善行を後世に伝え、心ある者が精神を受け継ぐことを願って編纂した歴史書です。

 国恩記は、穀田屋十三郎ら9名が存命中だった1773年(安永2)から1781年(天明元年)まで8年がかりの聞き取りに基づいて記されました。9人の精神が末永く伝わるよう、漆箱や袱紗(ふくさ)で幾重にも包み、防虫対策の上、土用の時季に風通しをするなど、事細かに保管の仕方まで指示してあります。

shikishi-isoda.jpg【Photo】「無私の日本人」執筆取材のため、旧吉岡宿で穀田屋十三郎の子孫が営む酒販店「穀田屋」を訪れた磯田道史氏が、店頭で書き記した色紙。そこに選んだのは、穀田屋十三郎が最晩年に言い残した含蓄あるこの言葉。9名の功績を聞くに及んだ藩から下賜された報奨金、1名につき2両2分(浅野屋は3両3分)も、9人はすべて宿場のために分配した

 古文書から歴史を冷静に分析し、埋もれた史実を明らかにすることを常とする歴史学者磯田道史氏をして、公益のため尽力した穀田屋や浅野屋らの生きざまを記した国恩記に目を通していて、感涙を禁じえなかったといいます。

honjin-i.jpg 映画「殿、利息でござる!」宮城県先行公開に合わせ、尊い共助の心で旧吉岡宿上町にあった本陣跡に「吉岡宿本陣案内所(上画像・Phone:080-8236-2008 ・営:9:30~16:00 火曜定休/年末年始休 ※8月末まで無休)が開設されました。

 5月7日の開設以来、7月末時点でおよそ8,000名が訪れたという本陣案内所。常駐するスタッフの説明を聞きながら、展示される関係資料の理解を深められるほか、マップ(下画像)を片手に街並みを散策してはいかがでしょう。

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 吉岡宿の街並みのロケ地が、庄イタにとっては庭に等しい月山の麓スタジオセディック庄内オープンセットであることを忽ちに見抜いた映画には、茶畑のシーンが幾度か登場します。

 伊達藩が茶の栽培を奨励したこともあり、宅地化が進んだ現在では思いもつきませんが、富谷町明石・成田から、小野・宮床・吉田など大和町にかけての地域は、伊達藩における茶の一大産地でした。

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 優れた茶師であった菅原屋篤平治。茶を献上した京都九条家から〝春風の香ほりもここに千代かけて花の浪こす末の松山〟という和歌とともに授かった「春風」「薫香」「千世」など、5つの茶銘を螺鈿(らでん)で額装し、仙台藩ご用達の菅原屋の店頭を飾っていた看板(上画像)が、当時の宿場の雰囲気を今に伝えます。

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 映画の最後で紹介されている通り、250年の歳月が流れた現在、吉岡宿を救った9名の篤志家の子孫で唯一、旧宿場に現存するのが穀田屋(上画像)

 十三郎の時代は造り酒屋でしたが、現在は子孫の高平和典さんが酒販店を営んでおいでです。造り酒屋を起源とする穀田屋の店内には、磯田道史氏が訪れた際の〝一粒の花の種は ...〟の一節を記した色紙や映画ゆかりの品が展示されています。

 有機農法で栽培した宮城県産の酒造好適米「蔵の華」を用い、船形山系伏流水を仕込み水とし、加美町の山和(やまわ)酒造店に醸造を委託しているオリジナル特別純米酒「七ツ森の四季」(720mℓ・1,296円)を買い求めました。

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 藩主重村から直々に酒銘を授かった3つの酒「春風」「霜夜」「寒月」は、宿場を救う浄財一千両の1/3(約1億円)を負担したことで破産寸前となった浅野屋が売り出しました。藩主ゆかりの酒は、巷の評判を呼び、浅野屋は持ち直したといいます。

 甚内は、その後も私財を投じて橋を架け、道普請でも宿場に貢献。天明大飢饉(1782-1788)に際しては食料支援を行うなど救済に尽力。75歳まで9名の中では最も長生きをし、1802年(享和2)9月に亡くなった甚内の最期の願いは〝戒名は(位が高い)居士ではなく、先に逝った皆と同じ信士に〟というもの。

 かくして九品寺にある9名の法名碑には、誰よりも多額の寄進を寺に対して行った檀家総代の甚内に僧侶が用意した戒名「善誉院慈慶信士」ではなく「善誉慈慶信士」と刻まれています。いやはや...(T-T。

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 上町の本陣正面にあった浅野屋は、明治12年の大火後に廃業。跡地には現在「瀬戸医院」が建っています。浅野屋の廃業で途絶えた殿様ゆかりの酒が、映画公開を機に蘇りました。

 1952年(昭和27)、宮城県塩竃市で創業した「酒のやまや」傘下の大和蔵酒造が製造する大吟醸「殿の春風」(720mℓ・2,160円)は、町内の酒販店「馬場商店」「浅多商店」、酒のやまや各店またはJR仙台駅1階およびS-PAL地階の酒類販売店で。

 純米吟醸「殿の霜夜」(720mℓ・1,940円)、純米「殿の寒月」(720mℓ・1,620円)は、宮城県栗原市金成の「萩野酒造」が商品化。左党ならずとも羽生君ファンには見逃せないのでは? 

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 店を訪れた日曜日限定で穀田屋で扱っているのが、はす向かいの洋菓子店「梅香亭」が商品化したココア風味のクッキー「殿、利息ッキーでござる」(110円)。

 月~土は梅香亭でお買い求めのほど。何故なら、バナナ風味のパウンドケーキ「大和んバナナ」や「七ツ森盛りクッキー」など、おかしなお菓子と出合えますので(^0^;

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 大和んバナナと双璧をなすネーミングセンスを利息ッキーでも発揮した梅香亭や、吉岡宿本陣案内所正面の「とんかつ やぐら」がブームに乗り遅れてはならじと編み出した「殿、食事でござる 千円定食」(上画像)には思わず苦笑。

 苦心の末に庶民が用立てた千両を元手に支配者から金利を頂くことで存続した旧吉岡宿の衆の知恵者ぶり健在を見届け、吉岡宿から旧出羽仙台街道・R457を2里(8km)ほど北上、目指すは加美郡色麻町の自然食レストラン「RICEFIELDライスフィールド)」。

RICEFIELD2016.jpg【Photo】ライスフィールドという名の通り、店の前は田んぼ(上画像)。キュートなワンコが愛嬌を振りまく店内には心地よいBGMとゆったりした時間が流れる(下画像)

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RICEFIELD ライスフィールド・住:宮城県加美郡色麻町大下新町13−3 ・Phone:0229-65-3430 ・営:11:30~21:00 水曜・第二火曜日定休 <2011.8拙稿「ばんつぁん市 I'll be back.」参照>

ricefield-shop.jpg【Photo】無施肥・無農薬自然栽培によるササニシキ玄米ご飯と餡かけふっくら豆腐ハンバーグの定番セット(下画像:税込880円)ほか、カラダが喜ぶ大地の恵みを食することができる

hamburg-ricefield.jpg 今の季節の狙い目は「トマトとナスの冷製パスタ(下画像:ミニサラダ付き930円)。真夏の太陽を浴び、素材の力がみなぎる真っ赤に熟した露地トマトと茄子がゴロゴロとふんだんに入り、大葉の香りがアクセントとなる夏季限定の逸品です。庄イタが10年以上愛してやまないこのメニュー。

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 冷製に適した細目のロングパスタを使うようになった昨シーズンから、絶妙なアルデンテに食感がバージョンアップ。相性が良いひんやり夏野菜と和洋折衷の味付けが織りなす一体感もまた従来以上に向上しています。夏を元気に乗り切るパワーを充填できる一皿。美味しいですよ~。ぜひぜひ(^^。

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2016/06/12

光と闇。二つの肖像 〈後編〉

二つのバッカス。そしてダヴィデとゴリアテ


 かの万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)と同様に、出身地の名で広く知られるミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)が本格的に創作を行ったのは、15年にも満たない歳月に過ぎません。

 存命中から1620年代にかけて登場した「カラヴァジェスキ」と呼ばれる多くの追従者を輩出するものの、没後は人々の記憶から急速に忘れ去られました。

Ottavio_Leoni,_Caravaggio.jpg【Photo】「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの肖像(部分)」(1621 フィレンツェ:マルチェリアーナ図書館蔵)ローマ出身の肖像画家オッタヴィオ・レオーニ(1578-1630)は、カラヴァッジョとは7歳差。両者はともにマーダマ邸に住まうフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿の庇護下にあり、面識があった

 ごく一部の知識人を除けば、忘却の彼方に埋没していた画家に対する再評価がなされたのは20世紀半ば。バロックへの扉を開いた巨匠として復活を果たすまで、実に300年以上を要しました。

 謎多き生涯と作品についての新たな発見は、現在も続いています。

 2014年4月、フランス南西部トゥルーズで、民家の雨漏り補修のため、住民が鍵をこじ開けた屋根裏部屋に放置された1枚の油絵を見つけます。鑑定の結果、それがカラヴァッジョがローマで精力的に創作を行っていた1604~05年に描かれた真筆であるとセンセーショナルな発表がなされたのが今年4月。

 この鑑定が正しければ、1億2千万ユーロ(約150億)と評価された「ホロフェルネスの首を切るユディット」が、恐らくはナポレオンの配下によってイタリアから略奪された後、150年以上も人知れず屋根裏部屋で眠っていたのです。これぞ〝棚カラぼた餅、屋根裏カラヴァッジョ。〟(蛇足ながら、150億円を支払う財力が庄イタにあったとしても、発見された絵を部屋に飾ろうとは思いません)

bacchino-matrato.jpgBacchino malato 病めるバッカス(バッカスとしての自画像)(1593~1594 頃 ローマ:ボルゲーゼ美術館蔵)】鏡の前で酒神に扮してポーズをとる画家自身を描いたこの作品と対峙する時、バッカスが視線を向ける鑑賞者の位置にいた画家本人が仕掛けたアイロニカルな罠に慄然とする。皮肉にも酒乱だったミケランジェロ・メリージが引き起こした幾多の警察沙汰は、少なからず酒の勢いだったという。同時代を生きた伝記作家の証言や犯罪記録をまとめた「カラヴァッジョ伝記集」〈右下〉(石鍋真澄編・訳 / 平凡社ライブラリー2016.3刊)

 庄イタが信奉する酒神ディオニューソス(バッカス)を題材にカラヴァッジョが描いた二つの作品は、1917年から1940年代後半になって真筆として確認されています。

caravaggio_storia.jpg 寵愛を受けたクレメンス8世(1536-1605)からカヴァリエーレ・ダルピーノの名を拝命したローマ教皇庁ご用達の画家ジュゼッペ・チェーザリ〈左下〉(1568-1640)に師事していた1593年頃、ミケランジェロ・メリージは馬に蹴られて足に重傷を負います。

 モデルを雇う所持金がなかった画家自身を鏡像として描いたのが「病めるバッカスバッカスとしての自画像)」。困窮者に無償で医療行為を行うコンソラツィオーネ病院から退院した直後、青白い顔に笑みを浮かべる病み上がりの姿を投影したとされます。

 
Giuseppe_Cesari_Ottavio_Leoni.jpg 病的なバッカスが冠とするのはセオリー通りのブドウではなく、永遠性を示す常緑のセイヨウキヅタ。バッカスが手にする白ブドウは復活、黒ブドウはキリストの血と犠牲の象徴。解くことを促すかのように差し出された腰紐や、救済の果実モモは、一部の研究者が指摘する初期の作品における同性愛の傾向を読み解くことも無理ではなく、多様な解釈がなされてきました。

【Photo】ジュゼッペ・チェーザリ「カヴァリエーレ・ダルピーノの肖像(部分)」1621

 風変わりな酒神に自身を重ねたこの肖像は、師であるダルピーノの手元に当初ありました。粗末な藁の寝床しか与えず、静物画を主に描かせて厚遇したとはいえないダルピーノのもとをミケランジェロ・メリージが去った時、この油絵がダルピーノの工房に残されていたのでしょう。

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 現在は美術館としては最多の6点を所蔵するカラヴァッジョ作品ほか、ルネッサンス・バロック期の壮麗なコレクションを有するボルゲーゼ美術館の所蔵となっています。

 これはカラヴァッジョのみならず美術品の蒐集に情熱を傾けたシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿〈右〉(1577-1633)が、1607年に銃の不法所持を理由に投獄したダルピーノから押収したもの。ボルゲーゼ家出身のローマ教皇パウルス5世(1552-1621)も、甥の強引なやり方を黙認しました。

【 Photo】プロテスタントに対抗するカトリックの威信を示すため、ローマ教皇庁は宗教的な題材の美術品や彫像を数多く発注した。大理石を自在に扱った造形の天才ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)作「シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像」(部分・1632 ローマ:ボルゲーゼ美術館蔵 / 上画像)とディオニューソス的などんちゃん騒ぎで子どもに弄ばれる牧神ファウヌスの大理石像「バッカナールBacchanal: A Faun Teased by Children」(1616~1617 ニューヨーク:メトロポリタン美術館蔵 / 下画像)

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 枢機卿が美術品を収蔵するために造営したボルゲーゼ家の別荘は、1903年に国立ボルゲーゼ美術館として公開され今日に至ります。ローマ市民憩いの場となっている広大なボルゲーゼ公園ともども、シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿は大いなる遺産を残してくれたのです。 

 ギリシャ神話に登場するブドウ酒と陶酔の神ディオニューソス(バッカス)。彫刻やモザイク画の題材ほか、古来多くの芸術家に創作の霊感を与えてきました。

Velazquez_Baco.jpgEl triunfo de Baco バッカスの勝利(1628~1629 マドリッド:プラド美術館蔵)】スペインバロックの黄金期を築いたディエゴ・ベラスケスが描いたバッカスを囲む酒宴。酒神の姿にはローマから欧州一円に広まったカラヴァッジョの影響が感じられる

 レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロ・ブオナロッティ、バロック期のグイド・レーニ、ディエゴ・ベラスケス(上画像)、ピーター・パウル・ルーベンス、さらにはカラヴァッジョに扮したセルフポートレートを1990年に発表したシンディ・シャーマンに至るまで、芸術家がバッカスを題材とした例は枚挙に暇がありません。

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 5年前、イタリア在住のワインジャーナリスト中川原まゆみさんによる被災したイタリア料理店のための義援金の呼びかけに応じて下さった〈2011.6拙稿「Colletta per Giappone イタリアから届いた義援金)」参照〉トスカーナ州ピサ県ファウリアのカンティーナ「I Giusti & Zanza イ・ジュスティ・エ・ザンツァ」の「Nemorino ネモリーノ」のエチケッタ(上画像)を飾るのもバッカス。

 2作目となるバッカス(下画像)は、第3代トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチに贈る目的で、ミケランジェロ・メリージのパトロンとなったフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿がカラヴァッジョに描かせたもの。

caravaggio-baccos.jpgBacco バッカス(1596~1597 フィレンツェ:ウフィツィ美術館蔵)】酩酊しているのか、紅潮した顔で鑑賞者に気だるげな眼差しを向けつつ、ワインを注いだグラスを左手で差し出すバッカス。片肌を露わにして寝台に横たわりながら、右手は腰紐に手をかけており、なんとも官能的。熟れ切った果物は腐り始めており、透徹したリアリストぶりが発揮されている

 デル・モンテ枢機卿は、教皇庁内で対抗宗教改革を推し進めた親スペイン派に対し、近代化に寛容だった親フランス派に属する教養人でした。

 ユリウス2世(在位1503-1513)やレオ10世(同1513-1521)の庇護のもと、ラファエロ・サンティやミケランジェロ・ブオナローティがローマに遺した業績に接し、枢機卿から科学的知見に基づいた表現技法を授かった賜物として、ローマにおける画業初期に描かれた中性的な一連の半身像の完成形といえます。

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【 Photo】伝統的なヴェネツィアングラスのゴブレットにもみられる形状の酒杯に注がれたワインの表面には、波紋状にさざ波が立っており、グラスを差し出すバッカスの左腕の動きを表現している。グラスを持つ手の爪先には汚れが挟まっており、全能の神ゼウスの子であったバッカスの理想化を避け、あえて神性を奪おうという画家の意図が表れている

 1913年、美術研究家マッテオ・マランゴーニは、ウフィツィ美術館の倉庫で、額装すらされず埃にまみれた状態で捨て置かれたこの絵を見いだします。

Caravaggio-Bacco3.jpg カラヴァッジョ研究の第一人者ロべルト・ロンギによって真筆と確認され、修復を経てウフィツィで公開されたのが1922年。

 同じバッカスを主題としながら、自画像とされる1作目と、この2作目とでは、与える印象は随分と異なります。

 共通項は、デキャンターの液面に自身の顔を極めてさりげなく描き込む自我の強さを画家が持ち合わせている点でしょうか(左)

 感情の起伏が激しいメランコリー気質だった画家が、安定した環境で創作に向き合った作風の充実ぶりを示す作品「エジプトへの逃避途上の休息」を、ここで提示しておきましょう。

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Riposo durante la fuga in Egitto エジプトへの逃避途上の休息(1596~1597 ローマ:ドーリア・パンフィーリ美術館蔵)】エジプトへと逃れる途上、疲れ果てて眠り込むの聖母子の前に現れた天使のため、聖処女マリアを称える雅歌の楽譜を掲げるヨセフ。平穏な安らぎに満ちた画風は、背景の風景描写と併せて異例だが、敬虔な祈りを込めた深い精神性を示す宗教画と同時に、斬首に代表される凄惨な場面も少なからず描いた画家の多面性を示す作品でもある

 1606年に犯した殺人による死刑宣告を受け、ローマ近郊からナポリ、マルタ島、シチリア、そしてかつて父が仕えたカラヴァッジョ侯の未亡人コスタンツァ・コロンナ・スフォルツァがナポリ・キアイア地区に所有する屋敷へと再び舞い戻る逃亡生活を送っていたカラヴァッジョ。

 1607年7月から翌年10月にかけてのマルタ滞在中、血の気が多いカラヴァッジョは、とある聖マルタ騎士に剣で怪我を負わせました。1609年10月24日、居酒屋「チェリーリオ」で騎士が復讐に差し向けた4人の暗殺者に襲撃されます。顔の傷は死亡説が流布されるほどで、翌春まで療養生活を余儀なくされます。

 現時点で明らかになっている資料に照らし合わせ、前回ご紹介した遺作とされる「聖ウルスラの殉教」(1610)の直前に描かれたと推定されるのが、こちらの「ゴリアテの首を持つダヴィデ」。

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David con la testa di Golia ゴリアテの首を持つダヴィデ(2010または2009~2010 ローマ:ボルゲーゼ美術館蔵)】旧約聖書サムエル記に登場する羊飼いの少年ダヴィデが、投石器で倒したペリシテの巨人兵ゴリアテの首を剣で刎ねた場面。殺人犯の汚名を晴らす恩赦への望みを抱きつつ、迫りくる暗殺者と死の恐怖に慄きながら描いた二重の自画像

 額の傷がチェリーリオでの襲撃事件を連想させる巨人の首。馘首(かくしゅ)されたゴリアテが、30代後半にさしかかった罪深き画家。勝ち誇るというよりは愁いを込めた表情で、落とした首を指し示すダヴィデが、若き日のミケランジェロ・メリージだと推測されます。

 1610年7月18日、画家はパウルス5世により恩赦が認められた朗報を知ることなく、トスカーナ南部の港町ポルト・エルコレで客死しました。享年38。

 ウフィツィで対面して以来の再会となった日本初公開「バッカス」を含む真筆11点と、影響を受けたカラヴァジェスキと呼ばれる画家の作品、そして興味深い〝アーティーチョーク事件〟の裁判記録などが国立西洋美術館で一堂に会した「カラヴァッジョ展」は、本日をもって会期を終了。

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 開催にあわせてミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの光と闇に彩られた矛盾に満ちた生涯を2回にわたって追いかけてきました。

 日本では、まだ真価が理解されているとは言い難いカラヴァッジョ。Viaggio al Mondo 読者の皆さまにおかれましては、いつの日か謎多き画家の足跡を訪れ、逃れがたい魔力の実相を確かめてみられてはいかがでしょう。

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2016/05/30

光と闇。二つの肖像 〈前編〉

日伊国交樹立150周年記念 「カラヴァッジョ展」


michelangelo-merisi-caravaggio.jpg メソポタミア・エジプトを起源にギリシャ・ローマで開花した西洋美術は、盛期ルネッサンスで頂点を極め、16世紀中葉に〝マンネリ(ズム)〟の語源となったマニエリスムの時代を迎えます。

 ルーベンス、フェルメール、レンブラント、ベラスケスらに多大な影響を与え、新潮流バロックへの扉を開いたのが、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)。

【 Photo】今回のカラヴァッジョ展に出品されたカラヴァッジョの没後間もない1617頃に描かれた作者不詳「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの肖像(部分)」( ローマ:サン・ルカ国立アカデミー蔵)

 1527年5月、新教徒派スペイン王カール5世の軍勢とドイツ人傭兵が、破壊と略奪の限りを尽くした「Sacco di Roma ローマ劫掠(ごうりゃく)」で、ひどく荒廃した都の復興を果たすべく、ローマでは1585年に教皇に就任したシクストゥス5世以降、17世紀にかけて街並みの再整備が進みます。

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【 Photo 】2002年のユーロ導入により消滅したイタリア・リア紙幣のうち、ラファエロ・サンティが描かれた最高額の500,000リラに次いで2番目に高額な100,000リラ紙幣の表図柄(上)は、オッタヴィオ・レオーニが描いたカラヴァッジョの肖像とカラヴァッジョが親友マリオ・ミンニーティをモデルに描いた「La Diseuse de bonne aventureBuona Ventura 女占い師」(1596~97 パリ:ルーヴル美術館蔵)。裏面(下)はイタリア初にして最高峰の静物画とされる「果物籠」(1599~1601頃 ミラノ:アンブロジアーナ絵画館蔵 / 下画像)

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 共和制・帝政ローマの圧倒的な遺跡群とバロック様式の建築や彫刻、世界に現存するオベリスク30基のうちエジプトから運ばれた13基までもが重層的に混在する劇場都市ローマの景観は、造形の天才ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)やフランチェスコ・ボッロミーニ(1599-1667)らの功績によるところが大。

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Canestra di frutta 果物籠(1599~1601?)ミラノ:アンブロジアーナ絵画館蔵】カトリックの正当性を示す図書館設立に動いていたフェデリコ・ボッローメオ枢機卿が、併設の絵画館に収蔵するべく発注した。籠が手前にせり出して見えるだまし絵効果を含め、みずみずしいブドウ・マルメロ・リンゴ・イチジクなどの果物が写実的に描かれている。リンゴの虫食い跡や枯れた葉などに、生命の儚さを象徴的に表現した画家の意図を汲むことができる

 帝政期に推定人口120万に達するも、16世紀末には10万人が暮らすテヴェレ川沿いを除けば、樹木が生い茂る廃墟となったローマ。その再生とバロック芸術の黎明期における記念碑の一つとなったのが、ローマ在住のフランス人のため1589年に建てられた「Chiesa di San Luigi dei Francesi サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会」。

 サン・ピエトロ大聖堂の設計やナヴォーナ広場の南北にある2つの噴水などを手掛けたジャコモ・デッラ・ポルタ(1532-1602)の設計による聖堂ですが、最大の見どころは、左側廊で最も奥まった「Cappella Contarelli コンタレッリ礼拝堂」の壁面を飾るカラヴァッジョの出世作「聖マタイ三部作」(1600~1602)。

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Vocazione di san Matteo 聖マタイの召命(1599~1600)】画家のまぎれもない信仰の深さを示す出世作は「マタイ福音書第9章9節」の場面。救世主の背後から差す一筋の光。「私に従いなさい」と言うキリストが指差す先、左端が後に福音書記者・十二使徒の聖マタイとなるローマ帝国の徴税吏レヴィ

 鮮烈な明暗のコントラストが緊迫した臨場感を生む「聖マタイの召命」と「聖マタイの殉教」が公開されるや、コンタレッリ礼拝堂に群がる黒山の人だかりが引きも切らなかったといいます。〝ローマは1日にしてならず〟ですが、カラヴァッジョはローマで画家としての名声をわずか1日にして確立したのです。

 デフォルメを多用するマニエリスムとは無縁の正確なデッサン技量。陽光溢れるイタリアならではの明るい青を背景に多用したラファエロの画風に代表される盛期ルネッサンスとの決別を告げるかのようなカラヴァッジョの独創的な光と闇のドラマチックな表現は、衝撃的でさえありました。

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Martirio di san Matteo 聖マタイの殉教(1599~1600)】 聖人伝記集「黄金伝説」によれば、聖マタイは布教に訪れたエチオピアで洗礼ミサの最中、再婚に反対されたことに激怒したエチオピア王が差し向けた刺客(剣を手にした中央の半裸姿の男?)の手にかかり殉教した。天使がマタイに差し伸べる棕櫚の葉は殉教の象徴。中央奥に画家自身の顔が描かれている

 教皇クレメンス8世が布告した聖年にあたった1600年に免罪符を求めて集った巡礼者やローマ市民は、天才の出現に熱狂したことでしょう。カラヴァッジョはミレニアムにふさわしい新時代の幕開けを飾る寵児となったのです。

 礼拝堂の正面、中央祭壇画として描かれた「聖マタイと天使」は、対抗宗教改革を推し進めるカトリックの聖職者にとっては、旧来の宗教画の定石を覆すものでした。発注主コンタレッリ枢機卿の遺志を継いだ甥・フランチェスコから描き直しを命じられた2年後、全く異なる構図(下写真)の2作目で3部作は完成をみます。

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San Matteo e l'angelo 聖マタイと天使(1602)】天使から霊感を授けられ、福音書を記述する聖マタイ。カラヴァッジョは聖人を描くモデルとして農夫のごとき風貌の人物や娼婦を起用したことから、保守的な人々から攻撃されることがあった

 一躍時の人となった彗星のごとき画壇デビューの背景には、最初のパトロンとなったフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿との出会いや、巡りあわせの幸運がありました。その波乱万丈の半生を紐解くと....。

 ミラノの貴族カラヴァッジョ侯フランチェスコ・スフォルツァに仕える執事であった父フェルモが、ミラノだけで17,000人が犠牲になった深刻なペスト禍により1577年に死亡したことで、生活が保障されていたメリージ家は経済的に困窮してゆきます。

 メリージ家の長子であった12歳半の少年ミケーレ(=ミケランジェロ)が、生まれ育ったカラヴァッジョの街からは40kmほど離れたミラノで工房を構えていた画家シモーネ・ペテルツァーノ(1535-1599)のもとで4年間の徒弟契約を結んだのが1584年。

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【 Photo 】6月12日(日)まで東京上野国立西洋美術館で開催中のカラヴァッジョ展のフライヤーより。「トカゲに噛まれる少年(部分)」(右:1594 頃 ロンドン:ナショナル・ギャラリー蔵) 「ナルキッソス(部分)」(左:1598 頃 ローマ:バルベリーニ宮国立古典美術館蔵)

 契約満了後に帰郷した翌年、1590年11月に母ルチーアが没し、弟と妹の3人でわずかな財産を分け合います。生来の激しい気性が災いし、(一説に殺人のかどで)1年間投獄されたのち、郷里を離れて単身ローマに向かったのが1592年。

 やがて無一文となり、貧民街で野垂れ死に寸前のところをバチカンの要職にあったパンドルフォ・プッチ宅に住まうことを許されます。見返りは夕食のサラダ一品だけ。厨房の下働きをしながら、宗教画の模写や最初期の作品「トカゲに噛まれる少年」(上画像)を残しています。

 皮肉を込めてミケーレが「Monsignor Insalata サラダ殿下」と呼んだ雇い主のもとを去った後、徒弟となった画商やクレメンス8世から寵愛され、カヴァリエーレ・ダルピーノの名を授与された画家ジュゼッペ・チェーザリ(1568-1640)の助手となります。

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Buona Ventura 女占い師(1594~95 ローマ:カピトリーノ絵画館蔵)】 フランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿が、ミケランジェロ・メリージの画才を見出した作品。身なりの良い世間知らずの若者から指輪を抜き取ろうとするロマの女性。細部が異なる1596~97作のほぼ同じ構図の絵をパリ・ルーヴル美術館が所蔵している

 日伊国交樹立150周年記念事業として6月12日まで開催中のカラヴァッジョ展に出品されている「女占い師」(カピトリーノ絵画館蔵)(上画像)、「果物籠を持つ少年」(下画像 :1593~94 ローマ:ボルゲーゼ美術館蔵)ほか、「I bali いかさま師」(1594~95 テキサス州フォートワース:キンベル美術館蔵)などを証左とする才能を開花させてゆきます。

 1596年に天賦の才を見抜く審美眼を備えたフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿(下画像)に見い出され、(現在は改築されてイタリア国会上院となった)枢機卿の邸宅パラッツォ・マーダマで寝食の憂いなく創作に専念できる環境が整います。

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【 Photo】オッタヴィオ・レオーニ「フランチェスコ・マリア・デル・モンテの肖像(部分)」(1616 フロリダ州サラソタ: リングリング美術館蔵) 

 当初、マーダマ邸に隣接するサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂の壁面フレスコ画装飾を任されたのは、かつてミケランジェロ・メリージが師事した法王庁の御用画家ダルピーノでした。ところがダルピーノは聖年を控えて多忙を極めたため、仕事が遅延。依頼主によって契約は白紙に戻されます。

 恐らくはデル・モンテ枢機卿の取り計らいで、ミケランジェロ・メリージは依頼主の聖職者を納得させるに十分なデッサンを提出する機会を得て、当代きっての売れっ子画家と同額の報酬を得る好条件のもと、初の大仕事を成し遂げたのです。

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Fanciullo con canestro di frutta 果物籠を持つ少年(1593~1594 頃 ボルゲーゼ美術館)】肩をさらけ出しアンニュイな表情でこちらを見つめる少年が抱える籠に盛られた果物の描写は、後に描かれる前述の「果物籠」に通じる画家の手腕の確かさを物語る

 ミケランジェロ・メリージは、生まれる7年間に亡くなった著名な芸術家と同じ名を拝しながら、皮肉なことに郷里ロンバルディア方言では〝ならず者〟を意味する〝Michelaccio ミケラッチョ〟さながらに激しい気性の持ち主でした。

 2週間ほど創作に没頭した後には(都市の治安が悪かった当時、護身用として一般的だったにせよ)小柄な体躯には不釣り合いな刀身が90cmもある剣を携え、風紀の芳しくない地区に2カ月間も入りびたっては、暴行・武器不法所持・名誉棄損などの警察沙汰を引き起こすのでした。

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Decollazione di san Giovanni Battista 洗礼者ヨハネの斬首(1607~08)】強大なイスラムに対抗するカトリックの軍事拠点マルタ島の要塞都市ヴァレッタに本拠を置く聖ヨハネ騎士団の守護聖人、聖ヨハネを称えるサン・ジョヴァンニ大聖堂の祈祷所に描かれた最大(361mm×520mm)にして、唯一画家の著名が入った至高の作。この功績により、念願だった聖ヨハネ騎士としての叙列が果たされた1カ月後、上位の騎士との諍いを引き起こして騎士の称号は剥奪され地下牢に投獄されるが、騎士団長の手引きで脱獄。シチリアへ逃げ延びた

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 謎多き画家を知る資料が裁判記録。1604年4月、デ・モーロ旅館でバター炒めと油炒めで注文した好物のアーティチョーク料理を運んできた給仕の態度に立腹し、皿を投げ付けた上、剣を抜いて脅したかどで訴えられ、罰金を支払って放免されています。

 4対4の乱闘で殺人を犯し、死刑宣告が出されたローマから逃亡したのが1606年5月。デル・モンテ枢機卿の庇護のもとにあった1600年から、カラヴァッジョが官憲に連行されたり告訴された回数は、公的な記録に残っているだけで13回。

 問題が発生するごと火消しに尽力したデル・モンテ枢機卿や、新たなパトロンとなったボルゲーゼ枢機卿ほか、父フェルモがミラノで仕えたカラヴァッジョ侯フランチェスコ・スフォルツァ夫人コスタンツァ(右上)もまた、問題児ミケランジェロ・メリージを庇護する役回りを務めました。

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Cena in Emmaus エマオの晩餐(1606)】逃走資金を得るために描かれた作品。エルサレム近郊のエマオの宿で、夕食となるパンに祝福を与えた人物が、復活したキリストであると両側の使途が悟った瞬間、姿を消したというルカ福音書の記述による。1601年に同じ場面を描き、現在はロンドン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する前作(下画像)から一転、背景のトーンを抑えた静謐な作風への転換点となった

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 命を狙われるお尋ね者となり、決闘で負傷したミケランジェロ・メリージは、旧知の関係にあった侯爵夫人の実家であるコロンナ家が所有するローマ近郊の山中に建つ邸館に身を寄せます。

 4カ月に及んだ潜伏中に描かれ、今回の展示会に出品されているのが、「エマオの晩餐」(1606 ミラノ・ブレラ美術館蔵)と、2年前に真筆と認定されて以降、初公開された「法悦のマグダラのマリア」(1606 ローマ・個人蔵)。

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Maria Maddalena in estasi 法悦のマグダラのマリア(1606)】〝発見次第、殺害せよ〟という死刑宣告を受け、追手からの逃避行の間、画家が携えていた3枚の中のひとつ。娼婦だった過去を悔いるマグダラのマリアに自身を投影したのか、背景を覆いつくす闇はどこまでも深い。死の淵で神の秘蹟に触れ恍惚とする瞬間を大理石で表現したベルニーニ作「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」ほどのR18な印象は希薄

 当時はスペイン領でコロンナ家の庇護が期待できたナポリからマルタ島、シチリアまで4年以上に及んだ追手からの逃避行の末、恩赦を求めてローマを目指すも熱病に冒され、トスカーナ州南部ポルト・エルコレで38年の生涯を終えます。支援者による恩赦請求が教皇パウルス5世によって認められたのは、その直後。

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Martirio di S.Orsola 聖ウルスラの殉教(1610 ナポリ Palazzo Zevallos Stiglianoパラッツォ・ゼヴァロス・スティリアーノ美術館 蔵)】ジェノヴァを支配していたアゴステーノ・ドーリア侯が、子息マルカントニオ侯の愛娘で修道女となったオルソラのために注文し、1610年6月18日に受領した記録が残る。異教徒フン族の王アッティラの求婚を拒んだため、聖ウルスラが胸を射られた瞬間が左から射す光に浮かび上がる。命を狙う追手を逃れ、2度目のナポリ滞在中に描かれた最晩年の作。聖女の肩越しに惨劇の場面を目撃する人物として、画家は最後となる自画像を描き込んだ

 没後400年を控えた2010年、ポルト・エルコレのサン・セバスティアーノ礼拝堂の共同墓地で発見された遺骨が、炭素年代測定やDNA鑑定によって、85%の確率でカラヴァッジョのものだろうと推定されています。

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【Photo】ヴィットリオ・ストラーロ監督作品「カラヴァッジョ~天才画家の光と影~(完全版)」 カラヴァッジョの生涯を描いた劇場映画のDVD版

 現存する真筆としては60点あまりが確認されているカラヴァッジョの作品から11点と、影響を受けたカラヴァジェスキと呼ばれる画家たちの作品で構成される「カラヴァッジョ展」の会期は、残すところわずか。

 画家として活躍した15年に満たない期間、華やかな名声とともに生前から毀誉褒貶にさらされたカラヴァッジョ。画家の生涯こそが、残された圧倒的な画業以上に劇的だったように思えてなりません。

 ピエモンテ州アルバ出身の美術史家ロベルト・ロンギ(1890-1970)による〝カラヴァッジョなくしてはバロック芸術は存在しなかった〟とする再評価が、1920年代になって定着するまで、カラヴァッジョは長らく忘れられた存在でした。

 西洋美術史に偉大な足跡を残し、20世紀になって輝きを取り戻した男の栄光と悲惨を、この機会に目撃してはいかがでしょう。続編では庄イタのイコン「バッカス」を読み解きます。

to be continued...

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日伊国交樹立150周年記念 カラヴァッジョ展
・会期: 6月12日(日)まで
・開場時間:9:30~17:30 *入館は閉館の30分前まで
6/1(水)~4(土),6/7(火)~11(土)は9:30~20:00に延長
・会場: 東京上野 国立西洋美術館 東京都台東区上野公園7-7
・観覧料金: 大人1,600円 大学生1,200円 高校生800円 (団体各200円引)
・URL: http://caravaggio.jp

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2016/05/22

余は如何にしてバッカス信徒となりし乎

Road to バッカス @カラヴァッジョ展


 幼少期から水で薄めたヴィーノを体内に摂取することが珍しくないイタリア人は、自身のアルコール摂取に関する限界を知悉しているため、人前で泥酔する醜態を晒すことがありません。

 そんな前世における幼児体験のおかげか、庄イタは常に品行方正な飲み方を心掛けています。とはいうものの、過去において脛にキズがないわけではありません。

 東京支社勤務時代、JR市ヶ谷駅のすぐ目の前にあった越前料理店「みくに」を会場に、現在は合併により社名が無くなった某大手広告会社と全国各地の新聞社有志による宴席が例年12月に開催されていました。

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【Photo】〝百薬の長〟は楽しく適量を。和らぎ水も忘れずに。週に2日は休肝日。以上、自戒の意味を込めて。(本文と画像は関係ありません)

 そこでは大杯に注がれた日本酒を飲み干す儀式が恒例化しており、座の盛り上がりとともに、清酒+ビール、そこに+刺身のワサビ醤油、さらに+その他モロモロが加わり、正体不明の特製日本酒カクテルと化してゆくのでした。

 ゆえに悪酔い必至ゆえ、参加するブロック紙・地方紙業界では知らぬ人の無かったこの酒席。初参加した転勤1年目は、猫をかぶっていたために大過なく乗り切ったものの、標的となった2年目は翌朝出社できない羽目に。その反省から自分なりにコツとペースをつかんだつもりの3年目。事件は起きました。

 陶酔の極みへと至るディオニューソス的な盛り上がりは例年通り。被弾多数で撃沈は免れるも、したたか呑んでお開きとなりました。店の出口付近では、「次の店行くぞo(`・д・´)ノ━!!」的な雄叫びが響き渡っていましたが、奈落の底への誘いには応じない理性は働いていました。

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【Photo】酒神ディオニューソス(バッカス)とヘラクレスの酒豪ぶりを寓意化した1世紀頃のモザイク。カエサルやアウグストゥスの時代、対立するパルティア帝国への前線都市として、東地中海地域最大のローマ属州都市として栄えたアンティオキア(現トルコ南部アンタキヤ)。AD526 に発生した大地震で大打撃を受け衰退した都市の屋敷跡より出土した(本文と画像は関係ありません)

 当時、社宅があったJR常磐線松戸駅に向かうべく、背後の絶叫を振り払うように、市谷見附の横断歩道を急ぎ渡り終えました。そしてJR市ヶ谷駅の改札を通過した時、勝利を確信したのです。

 「ムフフ...。今年は昨年よりは飲んでないぞ

 市ヶ谷から4駅目の秋葉原、そしてJR山手線日暮里駅で乗り換えるため、JR総武線の各駅停車電車に乗り込んだのが、夜9時過ぎ(路線図参照)

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 ところが暖房が入った車内で酔いが回ったのでしょう。家路について安心したのも手伝い、吊革につかまったまま、知らぬうちにzzz...。ふと我に返ったのが、乗り換えるつもりだった秋葉原を14駅も通り過ぎた先の津田沼の手前。

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 「emoticon.jpg あ゛ーっ、乗り過ごした!

 かくなる上は、作戦変更。西船橋まで3駅ほど戻り、JR武蔵野線で5つ目の新松戸駅へ向かい、JR常磐線上り電車で3つ戻って松戸を目指そうと、津田沼駅で慌てて電車を降りました。

 総武線上り電車に乗り換え、西船橋駅で電車を降り、階段で武蔵野線ホームに移動。5分間隔で運行する総武線ほどは運転本数が多くはない武蔵野線ゆえ、間隔が10分以上空いていたはず。電車を待つ間、ベンチに腰掛けると再び睡魔が襲ったのです。

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 ...zzzz。そのままどれほど時間が経過したのでしょう。なかば意識が朦朧としつつも、覚醒した庄イタが乗り込んだ武蔵野線上り電車。5つ目の新松戸で乗り換えをするはずが、空いていた座席に腰掛けてしまったことで、さらに深手を負う羽目に。

 電車に揺られるうち、意識は遠のき、再び夢の世界へ。zzzzz...。トロイメライの幻聴とオーバーラップして耳に届いた車内アナウンスに促されるように目覚めたのが、終点の府中本町駅の手前。

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 西船橋から乗車して間もなく眠りにつき、新松戸で常磐線に乗り換えることなく、なんと1時間あまりをかけて関東平野を半周していたのです。そこは目指すべき松戸とは正反対の方向(上路線図参照)

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 「マンマ・ミーア!!

 もはや酔いも醒めた頭で、「やれやれ、下り電車に乗り換えて新松戸経由なら、1時間30分ほどで松戸まで戻れるかしらん」と思ったのも束の間。

 日付が変わって零時半近くに府中本町を出る下り最終電車は、わずか5つ先の東所沢駅止まりであるという冷酷な事実を車内アナウンスは告げていました。

 「オー・マイ・ガーっ!!!

【Photo】 Skrik/ The Scream by Edvard Munch,ムンク(1863-1944)「叫び」1893年 (本文と画像は関係ありません)

 朝が来れば、また出勤せねばなりません。窮地に立たされた庄イタに残された道は、少しでも家の近くまで電車で戻り、訪れたこともない東所沢から深夜タクシーに乗るしかないのでした。

 総武線の吊革、そして西船橋駅のベンチ(⇒この滞留時間が最長だった)、さらに武蔵野線の座席で、都合3時間近くも睡眠をとったため、これっぽっちも眠くありません(笑)。財布の中を確認し、所持金で社宅まで戻れるであろうことを確認。わずかな乗客を乗せた最終電車に揺られること20分にも満たない小さな旅はあっけなく終了。

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【Photo】栴檀は双葉より芳しというべきか。どう見ても成人年齢に達していないバッカス神。下から出しながら葡萄酒をグビグビ飲み続ける秘技はさすが酩酊の神 Bacco che beve / Drinking Bacchus by Guido Reni, ボローニャ派のグイド・レーニ(1575-1642)「酒を飲むバッカス」1623年 (本文と画像は関係ありません)

 否応なしに初めて降り立った終着の東所沢駅。終点とはいうものの、ヨーロッパの鉄道のような始発終着となる大きなターミナル駅でもなく、予想だにしない小さな駅だったので、タクシーがいるか不安に駆られました。

 捨てる神あれば拾う神あり。南口駅前のタクシープールには客待ちのタクシーが数台。ドライバーに「松戸まで」と告げた時のリアクションは、今もはっきりと覚えています。 

 深夜割増時間帯で、40km 離れた松戸まで乗車する上客が舞い込んだ運転手は、後部座席に乗り込んだ庄イタに対して開口一番、弾んだ声でこう言ったのです。

 「お客さーん、電車乗り過ごしちゃったんでしょ?」

 言わずもがなの指摘を受けた庄イタは、ぐうの音も出ません。自嘲的な愛想笑いを返すのがやっとでした。そうしてまんじりともせず1時間以上をかけて社宅に到着。2万円+α が飛んで行ったとさ (T T。

 この痛すぎる出来事があって以来、「酒は飲んでも飲まれるな」を信条に、宴席ではバッカス神のご加護を願うようになったのです。

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【Photo】画家としての活動は15年ほどだったにも関わらず、バロック絵画の先駆者となったカラヴァッジョ初期の傑作「バッカス」(背景)。1913年に見い出されるまで、ウフィッツィ美術館の収蔵庫で人知れず眠っていた。ギリシャ神話に登場するブドウ酒と酩酊の神は、ブランデーを中に閉じ込めたチョコレート、ロッテ「Bacchus (バッカス)」でもおなじみかと

 ドラマチックな陰影表現を取り入れ、バロック絵画への扉を開いたのが、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610)。フィレンツェ・ウフィッツィ美術館で対峙して以来、日本初公開となるバッカス像との再会が、東京上野・国立西洋美術館で6月12日(日)まで開催中の「カラヴァッジョ展」で実現しました。

 次回は、庄イタのイコンともいうべき二つのバッカスを遺した不世出の天才カラヴァッジョについて語ります。

to be continued...
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2016/01/17

Nostalgia del paese

ノスタルジアな絵地図で妄想里帰り


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【Photo】スイス(C.H.)・フランス(F)と国境を接するピエモンテ州とヴァッレ・ダオスタ自治州。両州各地の建築や名産品、観光資源を細密なイラストで表した1950年代にイタリアで作成された絵地図 (W237mm×H310mm)

 このヴィンテージマップは、旧市街の四方をルネッサンス期の城壁が囲むトスカーナ州の古都Lucca ルッカで購入したもの。地図の裏面には、1950年代から60年にかけて作成されたことを示す古書店による証明書(右下)が貼付されています。

certificato-garanzia.jpg ピエモンテの州都トリノのモニュメントとして登場するのが、市街地郊外の高台に建つスペルガ聖堂と、16世紀に欧州の覇権を競ったフランスを撃破し、サヴォイア公国の首都をトリノに定めたエマヌエーレ・フィリベルトの銅像。

 さらにFiat の生産工場「Lingotto リンゴット」<2007.7拙稿「そしてトリノ」参照>で、トリノの自動車産業が華やかりし1950年代から60年代に生産されたモデルFiat1100。スイスやフランスとの国境を越える鉄道を疾走するのは蒸気機関車。こうしたアイコンからも、およそ半世紀前の時代背景がうかがえます。

 この絵地図を眺めていて浮かんできたのが、1918年(大正7)に発表された室生犀星(1889-1962)の「抒情小曲集」に収められた「小景異情その二」でした。

    ふるさとは遠きにありて思うもの
    そして悲しくうたふもの
    よしや
    うらぶれて異土の乞食となるとても
    帰るところにあるまじや
    ひとり都のゆふぐれに
    ふるさとおもひ涙ぐむ
    そのこころもて
    遠きみやこにかへらばや
    遠きみやこにかへらばや

map-con-frame.jpg 文学の道を志して上京後も、室生犀星が抱き続けたのが故郷金沢への複雑な感情。元加賀藩士の父と女中との間に生まれ、生後間もなく養子に出された金沢は、血の通った親の愛情を知らずに育った犀星を暖かく迎え入れてくれる地ではありませんでした。

 そんな近親憎悪にも似たアンビバレンスな思いを抱かせるでもなく、庄イタにとってのイタリアは、降りたつたび、そこが異郷であることなど微塵も感じさせません。帰りたい。でも帰れない・・・。

 年末年始にふるさとへ帰省をされた方でも、曜日まわりの関係で、今年はお正月休みが例年になく短かったと感じておいでの方が多いのでは?

 生まれ故郷にひとかたならぬ愛着を持つ郷土愛の権化のごときイタリア人。その常として、郷里には強い帰巣本能が働くもの。庄イタの場合は、その対象が前世のピエモンテほかイタリア各地であり、現世における第二の故郷である庄内地方だったりするわけです。

 さりとて、年末年始に久しく訪れていないイタリアを満喫するに足る長期の休みをとることなど、現実には仕事の関係で夢のまた夢。そんな籠の鳥である庄イタが、遠く離れた故郷を懐かしむに十分な風物が多数ちりばめられたのがこの絵地図。

 芸術の国イタリアでは多くの家庭がそうするように、絵画には似つかわしい額装を施します。この絵地図とて例外ではなく、そうして彼の地へと思いを馳せるのです(上写真)。いざ、地図の旅へ。行け! 我が思いよ。黄金の翼に乗って。

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【Photo】Fiat1100、市街地郊外の高台に建つスペルガ聖堂、サン ・ カルロ広場のエマヌエーレ・フィリベルト像の3点セットはピエモンテ州の州都Torino トリノ(左上)  ランゲ丘陵の銘醸地の中で最も名高いBarolo バローロは、白トリュフが香るAlba アルバ近郊の小さな村。スプマンテ発祥の地がCanelli カネッリ(右上)  Cuneo クーネオ一帯のランゲ丘陵の森は、欧州きっての良質なヘーゼルナッツと栗の名産地(左下)  Biella ビエッラはイタリア繊維産業の中心地(右下)

 魅力が地に満ち、幸福が天から降臨する稀有な国・イタリアは言うに及ばず、ここ数年、歳末の恒例だった庄内&新潟村上への爆買いツアーにすら出向けなかったこの年末年始。地図中に登場するピエモンテゆかりの産品を愛で、里帰りの妄想に少しだけ浸れました。

gianduiotti.jpg【Photo】トリノ生まれのヘーゼルナッツ風味のチョコレート「Gianduiotto ジャンドゥイオット」(中)と、少し小ぶりな「Gianduiottino ジャンドゥイオッティーノ」(左)は、一個づつ金紙に包まれている。〈2007.8拙稿「チョコレートの街トリノ」参照〉  H27年産「ゆきむすび」〈2008.10拙稿「鳴子の米プロジェクト 稲刈り交流会」参照〉の現地受け取りのため、12月末に訪れた鳴子への道すがら立ち寄ったのが「あ・ら・伊達な道の駅」。ROYCE'コーナーで購入した北海道生まれの生チョコ・ジャンドゥイオット風味(右)

 例えばローストすると比類なき芳香を放つクーネオ県特産のヘーゼルナッツを練りこんだジャンドゥイオット。ナターレ(=クリスマス)に北イタリアで食する菓子パンドーロやパネトーネにぴったりなのが、Moscato d'Asti モスカート・ダスティ。

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【Photo】バニラがほのかに香るヴェローナ発祥の八角形をした円錐型のクリスマス菓子「Pandoro パンドーロ」。内袋から取り出す前に粉砂糖を加え、全体にまぶすようにシェイクしてから食するのがコツ

 1990年代半ばに飼育頭数が激減し、スローフード協会が小規模な生産者による保護すべき地域の伝統食材「Ark アルカ(味の箱舟)」に指定する「Razza piemontese ピエモンテ牛」。白毛でコレステロール値が低いこの希少な牛肉の入手はかなわずとも、黒毛和牛の霜降りのような過剰な脂肪がない赤身の旨味が凝縮した赤毛の「いわて山形村短角牛」を盛岡で調達。(2008.6拙稿「元気いっぱい! 放牧牛」参照)〝おせちもいいけど、ピエモンテ料理もね〟ということで、ワインの過剰在庫を抱えるTaverna Carlo タヴェルナ・カルロでピエモンテ風煮込みに仕立てました。

pandoro-moscato.jpg【Photo】上品なマスカット香が特徴のアスティ特産の微発泡性白ワイン「Moscato d'Asti モスカート・ダスティ」が、まさに鉄板の組み合わせ

 ピエモンテ牛と同様、アルカ認定されている日本短角種。噛めば噛むほど滋味深い短角牛の頬肉煮込みにピタピタと合ったのが、ピエモンテ人が愛してやまない「Dolcettoドルチェット」100%のヴィーノ・ロッソ。その極め付けが、土壌の異なる3か所の畑に由来する複雑味と目が詰まった重厚さがあり、しなやかな味わいのバランスに優れた「Dogliani Superiore Vigna Tecc ドリアーニ・スーペリオーレ・ヴィーニャ・テック」2011年ヴィンテージ。

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【Photo】多くの場合はミディアムボディで汎用性が高い赤品種ドルチェットが、持てるポテンシャルを最大限に発揮するのが、2011年にDOCGに昇格したエリア「Dogliani ドリアーニ」。10kmほど北のDOCGバローロ産地では、ネッビオーロを植える最も条件の良い南斜面の畑で育った完熟ドルチェット100%のヴィーノ・ロッソ「ドリアーニ・スーペリオーレ」。作り手はイタリア共和国第二代大統領を務めたルイージ・エイナウディ(1874-1961)が、政界引退後に興した醸造所「ポデーリ・ルイージ・エイナウディ」

 ドルチェットだけでは終わらないのが庄イタ。日頃は整理がつかないTaverna Carloのセラーから取り出したのが、冬場が最もおいしく感じるネッビオーロの精華Barolo バローロです。どれにしようかな~♪と、目移りする良作年ストックのうち〝そろそろ試してみてもいいかも棚〟より両手で一つかみ(下写真)。ボトルを立てて滓を落ち着かせアイドリング状態に。

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 こうして不摂生を重ねた年末年始明け。年初までの暖冬モードが一変、今週から厳しい寒波に見舞われています。かくなる上は酒と薔薇で体脂肪を蓄え、冬を乗り切るロードマップ作戦を展開中 (*^-^)ノY☆Yヾ(^-^*)。そんな他愛のないオチで今回は締めましょう。

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2015/12/20

La Fontane di Roma a casa mia

出現、ローマの噴水 @我が家

 良く言えば臨機応変。率直に申せばユル~い国民性ゆえの、イタリアでは往々にしてある「エェーっ!?」という予想だにしない展開。かかる事態への(前世)イタリア人流対処法と、そんな時に冷静さを取り戻すため、想起した曲について今回は語ります。

 先行きが見通せない今の時代ではありますが、ご紹介する事例が極端なレアケースのため、ほとんど役に立たないであろうことをお含みの上、お付き合いください。

showerhead2.jpg 2011年3月11日に発生した東日本大震災で、庄イタが暮らす仙台市青葉区は震度6弱の揺れに見舞われました。

 5分近く続いた強烈な揺れに耐えた自宅は、幸いにも基礎から躯体に至るまでビクともしていません。

 とはいえ築14年が経過した拙宅では、耐用年数が経過した住宅設備機器まわりで、ちょっとした不具合が発生するようになってきました。

 12月16日の夜、トラブルは何の予兆もなく発生しました。それは14回目の冬を迎えたリビングルームの温水ルームヒーターが故障したのと奇しくも同じ日のこと。

 皆さんも家電品や住設機器の故障って、不思議とタイミングが重なったりしませんか? テルマエ(バスルーム)壁面のフックからシャワーヘッドを取り外そうと手をかけた瞬間、予期せぬ事態が発生したのです。

shower-head.jpg なんと、ホースとの接続箇所で、樹脂製のシャワーヘッドが根元からポキッと折れてしまったではありませんか。

 ボディの外装部品がポロっと外れたり、雨が降るたびにエンジンが不調をきたす故障が頻発したAlfa Brera(通称:イタ車≒痛車)で懲りている庄イタ。「この壊れ方はイタリア製か?」と一瞬疑いましたが、シャワーはれっきとした日本製でした。

【Photo】床に落下させるなど、激しい衝撃が加えたわけでもないのに、根本から折れてしまったのが、14年間使い続けたシャワーヘッド(右写真)。まともにシャワーが使えない状況をいつまでも放置できないため、節水機能付きのシャワーヘッド(上写真)を新たに購入し、DIYで装着

 事態をすぐには飲み込めず、シャワーヘッドだけでなく心まで折れそうになりましたが、なにはともあれ頭を洗わなくてはなりません。

 そこで慌てず騒がず、壁面のフックに取り残された接続箇所に残った付け根のネジ部分の残骸を取り出しました。そしてフックに戻したシャワーヘッドが無いホースの先端から、モノは試しにお湯を出してみると・・・(下写真)。 

fontana-mia-casa.jpg

 当然といえば当然ですが、ホースの先端からは、青森・酸ヶ湯温泉の名物「千人風呂」の打たせ湯「湯瀧」さながらに、お湯が弧を描いて噴出するという自宅のテルマエでは14年目にして初めて目にする新鮮な光景が出現したのです。^ ● ^;

 そのありさまから頭に浮かんだのが、オットリーノ・レスピーギ(1879-1936)が作曲し、1917年3月11日にローマで初演された交響詩「La Fontane di Roma (ローマの噴水)」冒頭〝La fontana di Valle Giulia all'alba 夜明けのジュリア谷の噴水〟の旋律。

fontana-di-Villa-Medici.jpg【Photo】ローマの街並みを一望するスペイン階段を上った先の高台にあるヴィッラ・メディチの庭園にある噴水を描いた19世紀の絵画。レスピーギは、夕闇迫る黄昏時が最もふさわしい噴水として、交響詩「ローマの噴水」第4楽章で取り上げた

 「ローマ三部作」と呼ばれる「ローマの松」、「ローマの祭り」の中では、最も早い時期に作曲された交響詩がローマの噴水。レスピーギは、ローマに実在した4カ所の噴水を、それぞれ最も周囲の風景と調和する1日の時間の移り変わりごとに取り上げています。

 第1楽章〝夜明け〟はジュリア谷の噴水。第2楽章〝朝〟がバルベリーニ広場にあるトリトーネの噴水(2015.9拙稿:「L'anima d'Italia イタリア魂」参照)。第3楽章〝真昼〟は1年半に及んだ修復を先月初旬に終えたばかりのトレヴィの泉(下写真)。第4楽章〝黄昏時〟がボルゲーゼ公園の南隣りにあるヴィッラ・メディチ庭園の噴水(上写真)

primo-fontana-trevi.jpg【Photo】今から〇年前、観光客でごった返すトレヴィの泉にて。恐らく世界で最も有名なこの噴水を庄イタが初めて訪れたのは、5月の真昼の出来事だったことを思い起こさせる1枚

 第2楽章以降の3か所は題材となった噴水の特定が容易です。唯一はっきりしないのが、冒頭に登場するジュリア谷の噴水。ローマ北部の高級住宅地パリオリからボルゲーゼ公園北側にかけての「Galleria Nazionale di Arte Moderna 国立近代美術館」がある一帯を指す古い地名であるValle Giulia 。そのいずれの噴水が題材となったのかは特定できないのだといいます。

【Movie】朝もやに包まれた牧歌的な風景が目に浮かぶ木管楽器による情景表現が見事な交響詩「ローマの噴水」第1楽章「夜明けのジュリア谷の噴水」。1917年のローマにおける初演は失敗したものの、名匠トスカニーニによる再演が成功。作曲家としてレスピーギが歴史に名を残すきっかけとなった

 創作活動の傍ら、16世紀に創設されたサンタ・チェチーリア音楽院で教鞭をとるなど、ローマで活躍したレスピーギが、この曲を完成させた1916年から来年で100年が経過します。2000年前に敷設された上水道を今も水源とする噴水に限らず、いたるところに悠久の時を刻む歴史の痕跡を残す永遠の都ローマ。

Fontane_Oscure-Borghese.jpg【Photo】「ローマの噴水」第1楽章のモチーフとなったジュリア谷付近。国立近代美術館(中央)と境を接するボルゲーゼ公園北端の噴水。これがレスピーギが題材とした噴水かどうかは定かではない

 そこではとりわけ早起きをして、ボルゲーゼ公園の北側とされるジュリア谷で夜明けの噴水についての謎解きをするのも一興です。そんな夢想へと誘ってくれた即席ローマの噴水@我が家。湯量と角度によっては、意外と難なく頭を洗うことができるという新たな発見がありました。

 とはいえ普通にシャワーを使えない状況を年明けまで放置するわけにもゆきません。はなはだ名残惜しいのですが、この週末に二代目シャワーヘッドへと代替わりし、我が家のテルマエ噴水は、あっけなく消えてしまったとさ。

 おしまい。
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2015/12/13

Principe di Salina サリーナ侯爵

Il Gattopardo
山猫の世界を体感するピュアカシミアコート


 路面に積雪や凍結がなく、雨が降らない限りは、真冬でも自転車を仕事中の移動や通勤の手段としている庄イタ。暖冬予想が出ている今年。現在のところは、あまり出番がないイタリア製のピュアカシミアコートについて今回は語ります。

 4.5万人の住民の多くが繊維産業に従事するBiella ビエッラなど、ピエモンテ州北西部のヴァッレ・ダオスタ州にほど近い風光明媚な地域は、羊毛を服地に洗浄加工する際に欠かせないアルプスの良質な伏流水が豊富。そのため高級服地ブランドの生産拠点が集中することで知られます。

【Movie】イタリア繊維産業の心臓部がピエモンテ州ビエッラ県。自然豊かな環境に恵まれた町Pollone ポッローネにある「Fratelli Piacenza S.P.A.」本社工場では、膨大な生地見本のストックを抱える

 アルプスの山懐に抱かれたコムーネのひとつ、Pollone ポッローネで、ピエトロとジョヴァンニのフランチェスコ親子が毛織物工場を創業したのが1733年。

 1799年にはトリノで服地店を開店。1814年にはLanificio Fratelli Piacenza と改称。産業革命が起きた19世紀に編み出された最先端の紡績技術をいち早く取り入れた進取の気性は、創業から250年の伝統を積み重ねた今日もFratelli Piacenza S.P.A. の企業精神として受け継がれています。

【Movie】ゴビ砂漠北方の外モンゴル地域産カシミア山羊の胸の部分から刈った柔らかな産毛を厳選。手間を惜しまぬ伝統技法を受け継ぐ「Fratelli Piacenza S.P.A. 」の珠玉のカシミア生地は、触れた途端に魅了されるような繊維の宝石と呼ぶにふさわしい心地良い質感を有する

 Piacenza ブランドが、1990年から特に注力しているのが高級カシミア生地です。普及品で用いる金属針ではなく、伝統的なCardo dei lanaioli (オニナベナ)の実を人の手で組み込んだローラーで生地の表面を梳(す)くことで生まれるのが、逸品の証となるシルクのような光沢と独特の文様。その手触りは特有のヌメリ感があり、肌を包み込むような柔らかさがあります。

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 鈎状の突起が密集するオニナベナで起毛加工を施した上質なピュアカシミアは、妖艶なまでの輝きを放ち、しなやかで保温性と吸湿性に優れ、着心地はあくまでも軽やか。天女が羽織る羽衣は、きっとこんな着心地なのでしょう。

 希少性の高い美しい光沢を放つPiacenza のピュアカシミアに魅了され、一生ものとして濃紺のロングコートと淡い茄子紺のハーフコートの2着を愛用しています。着用後のブラッシングを怠らなければ、高い質感が損なわれることはありません。

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 今回、取り上げるロングコート(上写真)は、東京支社勤務時代に銀座・並木通りのセレクトショップ「サンモトヤマ」のメンバーセール「サンフェア」で購入した「Principe di Salina プリンチペ・ディ・サリーナ」のブランドタグが付いた一着。

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 その名を聞いてピンと来る方は、筋金入りのイタリア映画通とお見受けします。1963年に劇場公開された巨匠ルキーノ・ヴィスコンティ(1906-1976)の映画「Il Gattopardo (邦題「山猫」)」の主人公、Don Fabrizio Corbera , Principe di Salina (ドン・ファブリツィオ・コルベーラ,サリーナ侯爵)を連想させるからです。

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【Photo】当初はマーロン・ブランドを主役として想定していたというサリーナ侯爵。ハリウッド製フィルムノワールや西部劇への出演が多かったバート・ランカスターは、時代の荒波にのみ込まれてゆく威厳と憂いを湛えたシチリア貴族を演じ、新境地を開いた

 Il Gattopardo は、祖国統一運動でイタリアが混乱のさなかにあった1860年の物語。5月にガリバルディ率いる赤シャツ隊が上陸したシチリア島が舞台となります。18世紀からシチリアを支配していたスペイン・ブルボン王朝のもとでは、不在地主として体制側に属したサリーナ侯爵家。山猫を紋章とする名門シチリア貴族の目線を通して、民衆が台頭する歴史の転換点の中で、滅びゆく貴族階級の姿が描き出されます。

 ヴィスコンティが遺した17本の監督作品のうち12作の脚本を担当したスーゾ・チェッキ・ダミーコ(1914-2010)によれば、サリーナ侯爵は、貴族社会で育ったヴィスコンティ自身を投影した役柄だったといいます。侯爵を演じたのは、米国出身ながら見事なまでにシチリア貴族を演じきったバート・ランカスター(1913-1994)

 サリーナ侯爵家の当主たるバート・ランカスターは、185cmの身長以上に大きく感じる存在感を示しています。威厳に満ちた立ち振る舞い。伝統ある名門貴族の領袖たる気品。その一方で、抗いがたい時代のうねりに飲み込まれ、世代交代を迫られる者の諦念。やがて迫りくる死への怖れ...。

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【Photo】サリーナ侯爵にとっては華やかな舞踏会に身の置き場がなかった。疲れを覚えた公爵は裏部屋へと逃れる。死の床にある老人を描いたグルーズの絵画「義人の死」を前に物思いに耽るサリーナ公爵。胸に去来するのは自らに迫りくる滅びの予感

libro_gattopardo.jpg 人生経験を積み、酸いも甘いも知り尽くした男の魅力。50歳を目前にしていたバート・ランカスターの好演と、それを引き出した監督の眼力と手腕は、さすがというべきでしょう。

 原作は同じシチリア出身の貴族ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ(1896-1957)の同名小説。ミラノを拠点とする貴族出身だったヴィスコンティが1963年に映画化した山猫は、同年のカンヌ国際映画祭で、最高賞のパルム・ドールに輝きました。

【Photo】 フランス語版を元に日本語訳した河出文庫版の山猫(2004年刊)に続き、2008年には待望のイタリア語の原作から翻訳された岩波文庫版(右写真)が刊行された

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 数え切れぬほどのロウソクが灯る大きなシャンデリアのもと、着飾った実際のシチリア貴族80名を含むエキストラ240名と出演者が優雅に舞い踊る絢爛豪華な舞踏会シーン(上写真)は圧巻の一言!!

 サリーナ侯爵が目をかけている甥タンクレディ(アラン・ドロン)の婚約者アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)から、是非にとせがまれてワルツの相手をする侯爵。衆目を集める2人にジェラシーを感じつつ見つめるタンクレディならずとも、庄イタから見ても堂々とした侯爵のエスコートぶりには惚れ惚れするほど(下写真)

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 名家の誇りを表現するのに欠かせない舞台装置のひとつが、丹念に作り込まれた衣装です。1951年公開の「ベリッシマ」以降、ヴィスコンティが手掛けた舞台や映画で、衣装デザインを担当したのが、1927年フィレンツェ生まれのピエロ・トージ氏。

 その証言によれば、ヴィスコンティは、幼少期から慣れ親しんだ貴族文化と時代考証をもとに、登場人物の衣装や帽子の微妙な色合いやデザインに関して事細かに指示を出したといいます。ハイレベルな監督の要求に応えるべく、舞踏会シーンのヘアメイク・裁縫師は総勢120名にも及びました。

 完全主義者として知られたヴィスコンティは、舞踏会の撮影だけで36日を費やしました。未明まで舞踏会が行われた広間の床には、ドレスから抜け落ちた鳥の羽根が舞います。幼少期の体験に基づくこうしたディテール描写には、ファシズムの反動から生まれたネオレアリズモ運動の旗手として〝赤い貴族〟と呼ばれた第二次大戦終結後間もない初期の作品にみられた徹底したリアリズムを見ることができます(下写真)

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 オープニングから全編を通して一幅の絵画のようなシーンが連続する山猫。VFX (特殊視覚効果)を多用する今日では、もはや再現不可能といわれるこの作品の日本における劇場初公開は1964年のこと。

dvd_gattopardo.jpg 当初は、作品の真価を理解しえない米国人監督が、この映画を語る時に欠かせない舞踏会の場面を25分もカットした英語版でした。現在は、舞踏会の場面が全編のおよそ1/3を占める186分に及ぶイタリア語完全版DVD(左写真)が紀伊國屋書店から発売されています。

 冒頭に登場するサリーナ侯爵邸は、パレルモ郊外に1768年に建てられた「Villa Boscogrande ヴィッラ・ボスコグランデ」。クライマックスの舞踏会が催されたドン・ディエゴ ポンテレオーネ公爵邸は、パレルモ市内に現存する「Palazzo Valguarnera-Gangi ガンジ宮」。そこに登場するシチリア貴族の衣装を観賞するだけでも見応え十分。

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 山猫は、「揺れる大地」(1948)や「若者のすべて」(1960)などの社会的弱者を取り上げた初期の作品から、「ベニスに死す」(1971)、「ルートヴィッヒ」(1972)、「家族の肖像」(1974)、遺作「イノセント」(1976)など、晩年においては〝滅びの美学〟を追求してゆくヴィスコンティの転機となった作品です。

 日本においても、戊辰戦争と西南戦争を経て武家社会が終焉し、明治維新を迎えて近世から近代への一大転換点となったのが1860年代。その時代に第4代バイエルン国王となり、作曲家ワーグナーと築城に莫大な国庫を費やした挙句、狂気の烙印を押され謎の死を遂げたルートヴィッヒ2世。

 映画「ルートヴィッヒ」について〝私は敗北を語り、孤独な魂、現実に押しつぶされた運命を描くことが好きだ〟とヴィスコンティは語っています。〝偉大なる敗北者〟という、巨匠が後半生を通して追求したテーマは、山猫にその萌芽をみることができるのです。

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【Photo】夜の帳が明けきらぬ日の出前。白み始めた東の地平線からは太陽に先駆けて金星が昇ってくる。夜の名残りともいうべき明けの明星の美しさは古来より人の心をとらえ、ラテン語で金星を指すVenus は女性美や愛の象徴とされた

 明け方に舞踏会が終わり、馬車に乗ってサリーナ邸へと戻る家族と離れ、ひとり歩いて帰ると告げるサリーナ侯爵。東の空が白み始めても消え残る星に、侯爵はこう語りかけます。

  おお星よ 変わらざる星よ
  儚きうつし世を遠く離れ 
  汝の永遠の時間に我を迎えるのはいつの日か?

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 ラストシーンは遠くに聞こえる晩鐘が響く路地裏へ消えてゆくコート姿のサリーナ侯爵。その後ろ姿には、時代の表舞台から去りゆく者の哀愁と、ひとつの時代の終焉とが重なって見えてきます。

 言葉巧みなイタリア人とて、大人の男は背中で語るのですよ。

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2014/04/13

Ti piace la pizza napoletana?(=ナポリピッツァはお好き?)

庄イタ流 避寒術 vol.2
ナポリピッツァ紀行@盛岡Piace

capitalism_SATOYAMA.jpg 森林資源活用による新たな社会価値創造を提唱し、ベストセラーとなった「里山資本主義」の著者である地域エコノミスト・藻谷浩介氏の講演を聞く機会がありました。

 五輪招致成功に湧く東京では、2000年から2010年までの10年で、現役世代の人口比率が頭打ちから減少へと転じ、65歳以上の人口比率が加速度的に増加しています。団塊の世代が退職年齢を迎え、介護施設への入所がままならない待機高齢者問題が首都圏では深刻化しています。その一方、東北では、過去10年で高齢化の進展に歯止めがかかりました。人口減少で未来の展望が描けない地方、活力ある首都圏という構図は、もはや過ぎ去ったと藻谷氏は強調します。

 生きるために不可欠な食料燃料を金銭で調達することに何ら疑問を挟まず、繁栄を謳歌してきた戦後ニッポン。物流が麻痺して水と食料と燃料が消えた2011年3月11日からの数日間。関東以北では、戦後の食糧難を乗り越え、高度成長を成し遂げて以降、初めて生存を脅かされる情況に追い込まれたはずです。いかに手元に現金があろうと、それは役に立たず、営々と築き上げた社会システムが、いかに脆弱であるかが露呈しました。

 最たる例がコンビニエンスストア。発注システムの機能停止で震災後アッという間に店頭から食品が消え、その後は内側から盗難防止の目張りをして店を閉めたまましばらく機能停止に陥ります。震災から1カ月ほどの間、仙台で頼りになったのは個人経営の専業店や小さな食品スーパーです。

co-op-miyagi-tomizawa2011.3.16.jpg【Photo】2011年3月16日みやぎ生協富沢店。頻発する強い余震と雪が舞う中、食料を求めて整然と並ぶ人々(画像提供:みやぎ生活協同組合 出典「河北新報震災アーカイブ」)

 震災発生当時、宮城県内で48店舗を展開していた「みやぎ生協」は、名取市閖上と石巻の店舗を津波で閉鎖する打撃を受けつつも、延べ500名以上を派遣した「コープこうべ」ほか全国の生協組織の物心両面の支援を得て、被害が甚大だった沿岸部などの災害時応急物資協定を結んでいた県内22自治体に緊急物資と希望を届けました。

 グループを挙げた支援体制で生活物資を調達、震災発生からわずか2日で営業を再開したダイエー仙台店には、寒空のもと、カセットコンロ用ボンベや食料を求め、多い時には勾当台公園付近まで1km以上にも及ぶ長蛇の列ができました。目指す日用品売り場には、当時入手が困難を極めた生鮮品・牛乳・ボンベなどが揃っていました。

 藻谷氏が提唱する里山資本主義と対極にある「マネー資本主義」の行き着く果てがリーマンショックと、そこからギリシャ・スペイン・イタリアに飛び火したユーロ危機です。マネーゲームに明け暮れる拝金主義と無縁の人々は、そうした騒動には動じない強さを備えています。
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 藻谷氏が物流と情報が途絶する逼迫した情況下でも、秩序が保たれた理由として著作中で挙げ、講演でも述べられたのが、東北の食料自給率の高さ。水と食料とエネルギーの一大消費地である東京の縮図的な仙台ですら、親類縁者に農家が存在する場合が多く、主食のコメに関しては送られたストックで急場をしのげたというのです。このほど文庫化された「河北新報のいちばん長い日」にある通り、震災発生直後から不夜城と化した勤務先でも、限られた量ながらコメが集められ、女性社員が中心となり組織された「おにぎり部隊」によって、泥だらけになって取材の最前線に向かう記者の兵糧が確保されました。

 水と食料と再生可能エネルギー資源の宝庫でもある東北。研究者の間ですら日本では起こり得ないと考えられていたM9.0の破壊エネルギーにより、震度6強(宮城野区)の揺れに見舞われた仙台では、津波浸水域を除き、都市ガス以外の社会インフラは震災後1週間でほぼ復旧しました。中心部の地盤が強固なうえ、1978年(昭和53)に発生した宮城県沖地震(M7.4)後の法改正で建築物の耐震基準が強化されており、はからずも都市機能の強靭さを実証した格好です。

 講演の冒頭、旧長州藩出身の自分が東北に来て偉そうなことを語るのは気が引けると語り、会場の失笑を誘った藻谷氏。安全保障上の観点から、国家中枢機能の仙台への一部移転を提唱しました。同郷人である安倍首相は、生きる糧を海外に依存する環太平洋連携協定(TPP)に活路を求める経済界におもねり、ご執心の対外的な脅威への備えに比べ、首都圏での防災対策は、とても万全とは言えません。

onagawa2014.3.15.jpg【Photo】今年3月16日に行われた復幸祭前日の宮城県女川町。ここにJR石巻線女川駅と町役場があった。今は大型工事車両が行き交い、復興に向けた槌音が響く。女川町では、この一帯を嵩上げし、水産加工施設ゾーン、旧「マリンパル女川」周辺の海沿いはメモリアル公園として整備予定

 現政権がいかに被災地復興の加速化を標榜するも、東京五輪の誘致は、復興の足かせとなる人手不足と建築資材の高騰という事態を招いています。消費増税後の休日に日本橋三越で書籍や食品など総額で約4万円の買い物パフォーマンスをTVカメラの前でしてみせた安倍首相。これはサラリーマンの平均的な小遣い1カ月分に相当します。その重みを果たして宰相は理解しているのでしょうか。...いささか愚痴を並べすぎたようです。この辺で口直しを。

ponte_kaiun_primavera.jpg【Photo】♪春のうららの北上川...。そんな鼻歌が出そうな春の陽気のもと盛岡でもソメイヨシノが本日開花。北上川に架かる開運橋と冬の名残りを留める岩手山。目指すPiaceは駅から開運橋を渡ってまもなく右手

 安価な輸入材に押され、日本の里山の多くは放置されたまま荒れ放題です。そうした森林資源活用によるエネルギー安全保障の必要性と地方活性化を提唱する藻谷氏に倣って、岩手最北にあたる洋野町の薪を熱源とするナポリピッツァの話題に急転直下変わります。
 
piace_morioka.jpg全国の県庁所在地で、冬の平均気温が札幌に次いで低いのが盛岡。1月と2月の平均最低気温が-5℃台、寒波到来時には放射冷却によって-10℃台まで、過去には-20℃以下にまで冷え込んだことも。そんな盛岡を避寒目的でこの冬2回訪れました。それは「Piace ピアーチェ」のナポリピッツァを熱々で頬張るためです。

 オーナー・ピッツァイォーロ八柳達彦さんが郷里で開業したこのピッツェリアは、2001年10月のオープン。2010年に北上川に架かる開運橋にほど近い現在の場所に移転したのち、2011年(平成23)9月に東北で2番目、世界では373番目となる「真のナポリピッツァ協会」認定店となりました。
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 同協会日本支部支部長で、日本初の認定店「さくらぐみ」西川明男氏、副支部長「パルテノペ」渡辺陽一氏と審査を行ったのが、ナポリ本部の主任技術指導員であるガエターノ・ファツィオ氏。八柳さんは開業前にナポリ沖・イスキア島にあるガエターノ氏の店「Da Gaetanoダ・ガエターノ」で、半年間腕を磨きました。認定以来、シリアルナンバーの入ったカードを添えて師匠仕込みのピッツァを提供しています。

【Photo】ピアーチェのピッツァには、通し番号入りのカードが添えられる。認定番号にちなみ「3」と「7」がついた末尾番号は次回来店時に特典あり(右)

piace1_morioca.jpg【Photo】ナポリピッツァの美味しさの決め手となる生地の味を左右する水・酵母・小麦の配合具合を、長年の経験と勘で気温や湿度に合わせ微妙に調整する。小麦粉は世界で最も精製管理がしっかりしているといわれる国産と、本国のピッツァイォーロの支持が高いナポリの製粉会社「CAPUTO」の高精製率「tipo00(ドッピオゼロ)」の「Rinforzato(通称:サッコ・ロッソ)」を混合(左)

 JR盛岡駅から徒歩6分、車で訪れたなら複合商業施設「Cross Teraceクロステラス」の立体駐車場へ。そこからは店はもうすぐ。時間に余裕があればビルを素通りする手はありません。1F産直「賢治の大地館」は岩手各地の良質な産品が揃います。

piace3s_morioca.jpg イタリア・マルケ州のオーガニック製品生産組合「La Terra e il Cielo」など、国内外の安全で高品質な食品を扱う産直「ちいさな野菜畑」、「青龍水」や「大慈清水」といった伏流水の水場がある鉈屋町から、歴史ある町並みが残る紺屋町近辺、そしてハニーハント気分が楽しめる「藤原養蜂場」ともども、賢治の大地館は盛岡中心エリアの要チェックポイントです。

 クロステラスビル西口前の横断歩道を渡り、開運橋方向に歩みを進めると、窯で燃える薪火の香りが漂うPiaceはもう目の前。通りに面してガラス張りのPiace。ゆえに作業台に向かいGianni Acunto製薪窯の前に立つ八柳さんの姿を外から目にすることができるでしょう。

【Photo】薪の火加減に常に目を配り、対流熱で上昇する炉床温度は450度近辺に。火の通り具合を確認しながら、時おりパーラでピッツァの向きを変える八柳達彦ピッツァイォーロ(上写真)。ナポリピッツァの最大の魅力である生地の風味を知るには、トマトソースにモッツァレラチーズをトッピングせず、オレガノとニンニク風味の伝統的なナポリ生まれのマリナーラ(27cm・1050円)を(下写真)

piace5morioca.jpg

 昨年12月の訪問時は、昼の開店時刻11時より少し早く到着したので、八柳さんとあれこれ言葉を交わしました。ナポリで生まれ、世界中で愛されるナポリピッツァの本当の美味しさをそのままに、素材に恵まれた盛岡で多くの人に味わってほしい。そう八柳さんは語ります。

piace10morioca.jpg【Photo】ナポリピッツァの定番「ピッツァ・マルゲリータ」。ミニサラダとドリンクがセットされるランチメニューでは女性でも一枚いけそうな24cmの大きさでジャスト1000円。本場レベルの27cmにサイズアップされる単品オーダーは1300円

 庄イタと同様、かつて仙台の「ピッツェリア・ナプレ」で初めてナポリピッツァと出合ったという八柳さん。その言葉には、薪が燃え出すと摂氏500度に達する窯の炉内と同じくらい熱い思いが込められています。それでいて語り口は、表面がカリッと焼き上がったピッツァのコルニチョーネ(額縁)の内側のようにモチモチ柔らかいソフトなもの。

 八柳さんの話を伺いながら、庄イタの目線は、作業台の壁面に設えられた神棚の下へ。炉内の対流熱でピッツァを調理する際に向きを変えたり窯への出し入れに使う柄のついた器具「パーラ」と協会発行の認定証との間には、現在よりもスリムだった修行当時のガエターノ師匠の写真が飾ってあります。

 2012年3月、月刊誌Piattoの盛岡プチトリップ特集の取材スタッフを案内して食事に伺った時は、協会による審査時にガエターノさんが訪れた際の写真なども並んでいました。それも恩師への敬愛の情の表れなのでしょう。今年2月にお邪魔する前は、正月を控えた昨年末の訪問だっただけに、二次発酵させ熟成中の生地が「師匠へのお供え餅みたいですね」という庄イタのボケた突っ込みに苦笑いする八柳さんなのでした。

piace_caffe.jpg 日曜以外の月~土は、ミニサラダとドリンクがサービスされるランチメニューがあり、通常サイズの27cmより小さめ24cmサイズのピッツァ3種(マルゲリータほか)と旬のパスタ3種が選べます。ナポリから週3日空輸される水牛モッツァレラを使った協会認定店ならではの「マルゲリータD.O.C.」(2000円)もお試しを。

 そうそう、エスプレッソには前回軽くご紹介したナポリのロースター「Passalacqua パッサルアックア」の豆を使用していることを申し添えておきます。次回"Arriva a Napoli !? 白日夢@Caffè Passalacqua"では、堂々のナポリロケ敢行予定。

Continua / to be continued

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piace11morioca.jpgPizzeria Piace ピッツェリア・ピアーチェ

・住:盛岡市大通3-6-23
・Phone/Fax:019-624-1234
・営: 11:00~15:00(L.O.)14:30
   17:00~22:00(L.O.)21:30
・定休:日曜日  ・完全禁煙  ・カード不可
・2500円以上の飲食で、クロステラスパーキングまたはダイヤパーキングの30分サービス券進呈

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2011/11/27

トスカーナが呼んでいるぅ~

罪作りで目の毒な本
FINE WINEシリーズ「トスカーナ」

NBCtoscana.jpg 【Photo】トスカーナ州を中心に90人以上の醸造家が美しい写真とともに登場する「FINE WINE シリーズ トスカーナ」。ワインの生産現場にある造り手の顔が見えるだけでなく、ブドウが育つ大地に吹き抜ける風の香りが感じられる一冊(右写真)

 ワインジャーナリズムが発達した英国で最も権威ある評価機関が「The Institute of Masters of Wine(略称:IMW)」。IMWが認定するワインのスペシャリスト「マスター・オブ・ワインには、世界中で299人のみが認定されているに過ぎません。その一人が1940年にLAで生まれ、現在は英国を拠点にワインジャーナリストとして活動するニコラス・ベルフレージ氏です。

 1970年代からイタリアワインの魅力にとりつかれ、英国の著名なワイン評価本「Decanter」誌や、ワイン関連書籍としては世界最多の累計部数を誇る英国きってのワイン評論家・ヒュー・ジョンソン氏の「Pocket Wine Book」で、イタリアワインに関する評価を担当していたこともありました。

NB1_toscana.jpg【Photo】風が吹き抜ける音しか聞こえない典型的なモンタルチーノの風景の中に佇む醸造所「Camiglianoカミリアーノ」。1957年に現オーナーであるゲッツィ家が入手した建物は、中世期には物見台として使われたという。そこは100haにも及ぶ屈指の広大なブドウ畑に囲まれている(「FINE WINE シリーズ トスカーナ」より)

 多種多様なイタリアワインに造詣が深いベルフレージ氏が2009年にロンドンの出版社「Fine Wine Editions」が発行するワインガイド「Finest Wine」のひとつとして出版したのが「The Finest Wines of Tuscany and Central Italy(=トスカーナと中部イタリア極上のワイン)」。いずこを切り取っても絵のように美しいトスカーナの風景や、醸造家たちの姿を写真に納めたのが、英国在住の写真家ジョン・ワイアンド氏です。

 本書はシャンパーニュを代表する造り手「ルイ・ロデレール」が創設した「International Wine Writers'Awards インターナショナル・ワインライター・アワード」9つのジャンルのうち、芸術性の高い仕事に対して贈られる「The Artistry of Wine」を2010年度に受賞しています。その和訳版「FINE WINEシリーズ トスカーナ」が日本で出版されたのが昨年11月。

NB2_toscana.jpg【Photo】歴史ある名酒「ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチアーノ」を産するモンテプルチアーノ郊外に建つサン・ピアージョ教会は、周囲の風景に溶け込むルネサンス様式の美しい聖堂(「FINE WINE シリーズ トスカーナ」より)

 前回の訪問から5年のブランクを置いて、重篤な禁断症状が出ている庄イタのイタリア欠乏症。その対症療法としてトスカーナ州モンテプルチアーノで2番目に古い1,000年近い歴史を刻むカンティーナ「Contucci コントゥッチ」の扉が表紙となったこの本を出版直後に購入しました。以来、あたかも極上のワインを味わうようなワクワク感を、この美しい写真集のようなワインガイドはページをめくるたびに体験させてくれます。

 国内での名声のみならず、ここ数年で国外でもワイン産地として脚光を浴びるようになったトスカーナ。高まる一方の需要と人気を反映するかのように、ここ15年ほどで価格上昇が最も著しいイタリアワインがトスカーナ産赤ワインだと言ってよいでしょう。しかしながら本書では、変貌著しいトスカーナワインの魅力の神髄は、著名な米国のワイン評論家ロバート・パーカーが95点以上の評価をつけて国際市場で引く手あまたとなる高級ワインではなく、多くのイタリア人が日々の糧とともに楽しむ85点前後のワインにこそあることを序説で押さえています。この点に関しては私も意を同じくするところです。

 本書で登場するのは、イタリアで最も著名ながら、1970年代半ばまで横行していた過剰生産の悪弊で、ボルドーやブルゴーニュを至上とするワインスノッブの人々から白眼視されたものの、いまや変貌を遂げたキアンティ・クラシコ、クラシコゾーン以外では最も熟成能力のあるキアンティを産するRufinaルフィーナを含むフィレンツェ東部・西部、シンデレラワインが次々と登場するマレンマなどの海岸地域、バローロと並び称される高級ワインの代名詞ブルネッロを生むモンタルチーノからオルチア渓谷沿いに絵画のような風景が続くモンテプルチャーノ、そして塔の街サン・ジミニャーノなど。
 
NB3_toscana.jpg【Photo】著者ニコラス・ベルフレージも絶賛するイタリアきっての素晴らしいデザートワインである「Vin San Giustoヴィン・サン・ジュスト」。陰干ししたブドウの果汁を6年間の眠りにつかせる樽を前に揃ったマルティーニ・ディ・チガラ兄弟。右から無愛想なフランチェスコ、エリザベッタ、私を快く迎え入れてくれたルカ(「FINE WINE シリーズ トスカーナ」より)

 登場する生産者のヴィーノの多くは日本にも入ってきており、実用書としての役割を十分に果たします。醸造家の言葉と写真が並ぶ本書を眺めているだけで心はトスカーナへとトリップしてゆくかのよう。すでに確固たる地位を築いていたオルネッライアをさらなる高みに引き上げたアクセル・ハインツ氏や、アヴィニョネージと並ぶ珠玉の極甘口ワイン「Vin San Giustoヴィンサンジュスト」を心行くまで試飲させてくれたルカ・マルティーニ・チガラ氏、昨年仙台に来てくれたキアンティ・クラシコ協会会長のマルコ・パッランティ氏ら、お会いしたことがある醸造家たちの懐かしい顔も登場します。

 ヴィーノを飲みながら彼らの言葉を読み返しているうち、醸造所を訪問して肉声を聞いているような錯覚すら覚えます。そんな儚い酔いから醒めた時、思うに任せない籠の鳥のような境遇を恨むとともに、かえって禁断症状が悪化することを承知の上で、手に取らずにはいられなくなる、とっても罪作りな本なのです。

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FINE WINEシリーズ トスカーナ
ニコラス・ベルフレージ(著) 水口 晃 (監修) 佐藤志緒 (翻訳)
出版社: 産調出版 320ページ
本体価格:3,400円(税別)


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2010/08/15

イタリアソムリエ協会式テイスティング 〈前編〉

多様な食とワインの組み合わせの新たな座標軸
 @ ピエモンテフェスティバル presented by 宮城・ローマ交流倶楽部

 およそ400年前、仙台藩主・伊達政宗は、スペインとの交易を目的に支倉常長ら慶長遣欧使節を欧州に派遣します。帆船サン・ファン・バウティスタで太平洋を渡り、メキシコを経由してスペイン国王フェリペ3世やローマ教皇パウルス5世と常長らが謁見した史実から、宮城県とイタリア・ラツィオ州ローマ県は姉妹県の関係にあります。「宮城・ローマ交流倶楽部」(会長:西井 弘 弘進ゴム株式会社取締役会長)Link to website】は、イタリアとの相互交流を行う民間団体です。daniela_hiroshi_nishii.jpg同倶楽部の主催で先月初旬、仙台国際ホテルを会場に「ピエモンテフェスティバル」が催されました。「宮城の食材とピエモンテ産ワインのマリアージュ」と題するワークショップで披露されたイタリアソムリエ協会Associazione Italiana Sommeliers 以下、略称のAISと表記)式試飲メソッドで、料理とヴィーノが互いを高めあうイタリア食文化の美点を改めて体感してきました。

【photo】イタリアソムリエ協会公認ソムリエ資格取得のための日本人向け研修プログラムの窓口となるイタリアン・クリナリー・ツアーズ社代表のダニエラ・パトリアルカさんから名誉ソムリエの称号を受ける西井 弘 宮城・ローマ交流倶楽部会長

 日本ソムリエ協会(略称 J.S.A.)が認定するソムリエ試験のテイスティング実技は、Degustation デギュスタシオンなる舌を噛みそうな仏語が正式な呼称です。そこでワインの香りや味わいの例えに用いられるのが、鉛筆・コショウ・カカオ・杉・バラ・新樽由来のバニラ香など。こうした馴染みのあるモノはまだしも、完熟した黒スグリ・レッドカラント・キイチゴ・リコリス(スペイン甘草)・熟成による濡れ落ち葉や土の香りとなると、簡単には思い浮かばない方が多いのでは? これはワインを単体で評価するワインジャーナリズムが発達している英国や仏国を規範とする J.S.A.の方針によるものです。

bagna_cauda_rc.jpg【photo】現代の名工、中村 善二 仙台国際ホテル総料理長が監修したピエモンテフェスティバルで供されたバーニャ・カウダのアンチョヴィには石巻産のイワシを使用したという

 夏野菜をたっぷりと使ったカポナータ(=南仏のラタトゥイユでは用いないビネガーと砂糖を加えた南イタリア料理)、スティック状の冬野菜をアンチョビ・ニンニクとオリーブオイルなどから作る温製ディップソースで頂くバーニャ・カウダ、分厚い赤身の牛肉を塩・胡椒でシンプルにグリエしたビステッカ、白身魚をアサリやトマト・ケイパーなどと水煮するアクアパッツァ、そして各種パスタ料理やリゾットなどなど...。こうしたイタリアンに関しては、ヴィーノがないと嚥下(えんげ)機能が著しく低下して咽喉を通らなくなるラテン体質な私は、一介の「呑むリエ」に過ぎません。イタリア人がそうであるように、美酒が食事をより一層美味しくしてくれれば、それで十分。イタリアの片田舎にあるトラットリアでは、地元の人たちがカラフェに入ったその地方産のハウスワインで食事とおしゃべりに興じている光景に出合います。

Mr.nakamura_rc.jpg【photo】ピエモンテならではの贅沢な肉料理「Brasato al Barolo ブラザート・アル・バローロ(=牛肉のバローロ煮込み)」をサーブする中村 善二 仙台国際ホテル総料理長

 一見、無頓着に地元のヴィーノを選んだかのように見えるイタリア人たちの食卓にも、食事とワインのマッチングには、最低限のお約束は存在します。なにせ幼少の頃から水で薄めたヴィーノで舌のトレーニングを積んでいる人たちのこと。体感的に料理の味付けの濃淡とヴィーノのボディをあわせる彼らの鉄則からすれば、魚介や野菜の入った軽やかで繊細な冷製パスタには、強靭なタンニンが口腔を覆うアリアニコ種から造られるTaurasi タウラージなどフルボディの偉大な赤ワインでは釣り合いません。食事とヴィーノの産地を同一地方で合わせる彼らのセオリーからすれば、白トリュフの濃厚な香りに満たされるスクランブルエッグに、南イタリア屈指の高貴な白品種フィアーノ種を持ってきたのではお互いの美点を掛け算で高め合うことはないでしょう。

sommelier_franciacorta.jpg【photo】スローフード協会主催のSalone del gusto サローネ・デル・グストで行われたフランチャコルタのセミナーで参加者にサービスするAIS公認のソムリエ(右)とソムリエール(左)

 Enologia(=ワイン学)とGastronomia(=日本語では美食学と訳されるガストロノミー)を組み合わせた Enogastronomico エノガストロノミコという言葉が存在するイタリアにおいては、ワインと食事は常に一体のものとして考えられてきました。ゆえにイタリアのソムリエ資格試験においては、ワインのみならず食べ物も視覚・嗅覚・味覚を駆使して体系的に特徴を把握します。日本のようにワインを多彩な言葉を用いて表現するのではなく、食事との相性・組み合わせに重点を置くのです。こうしたイタリアソムリエ協会方式は、ワインを本来の食中酒として楽しむ一般のワインラヴァーにとって、極めて使える技能となるはずです。

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 ミラノ北西部、モンツァ通りにある日本料理店「木村」【Link to website】(⇒寿司ブームに沸くイタリアでも、中国系移民の経営によるこうした怪しげな日本料理店の何と多いことよ!! この店もサイトのBGMは中国語ゆえ、店名も看板にあるKimura ではなく、Mùcún ムーツンと中国読みするやも? )の向かいに本部があるAISは1965年の創設。4年後に発足した世界ソムリエ協会 Association de la Sommellerie Internationale (略称:A.S.I. 本部:パリ。Moët & Chandon社がスポンサードする同協会は後にイタリア主導のワールドワイド・ソムリエ・アソシエーション Worldwide Sommelier Association 略称:W.S.A. と分裂。現在J.S.A.日本ソムリエ協会はA.S.I.に加盟。45カ国で構成されるA.S.I.会長には、J.S.A.会長でプリンスホテルシェフソムリエの小飼 一至氏が2007年に就任。A.S.I.副会長は'95年に同団体が主催するコンテストで優勝した田崎 真也氏)の立ち上げにも主導的な役割を果たしました。

【photo】毎年50名のソムリエがイタリア全州のヴィーノを試飲、Grappolo (ブドウの房)の数でヴィーノを評価するイタリアソムリエ協会発行のワイン評価本Duemilavini (上写真)

 分派した格好のW.S.A.には日本を含めて英・米・独・露など14カ国が参加しています。AIS には国内20州全てに支部があり、さらに町単位の支部が存在します。日本にも支部があるAISは全世界で40,000人の会員を擁します。主な活動としては、柱となるイタリアワインの啓蒙普及活動とソムリエ育成のほか、2000年以降毎年版を重ねているワイン評価本「Duemilavini ドゥエミッラヴィーニ」の発行が挙げられます。11冊目となる2010年版では、1,792ページに渡って1,592 の醸造所が取り上げられています。AISのソムリエが 2万本以上のヴィーノを試飲、最高位の5 Grappoli チンクエ・グラッポリ(=5つのブドウ房)には279 醸造所の319銘柄が輝いています。

vini_rc7.3.2010.jpg【photo】史上初めてイタリア人と接した日本人、支倉常長の偉業にちなんで発足した「宮城・ローマ交流倶楽部」が主催したピエモンテワイン・ワークショップで試飲したヴィーノ。北イタリアらしい繊細な個性を持ち合わせたこれら5 本については、次回ご紹介

 日本のワイン消費量のおよそ半数はフランスワインで占められます。国内消費が主で海外進出が遅れたイタリアワインはその半分にも満たない2 割弱に過ぎません。2009年のデータでは、世界のワイン総輸出量の21.5%を占めるイタリアが頭一つ抜け脱して第一位。シェア16.5%で2位に食い込んだスペインに続くのがフランスで14.5%。にもかかわらず半数をフランスからの輸入で賄う日本と世界の実情との明確な違いの背景として、同じ目標のために国を挙げて行動するのが不得手なイタリア人特有の資質(笑)のみが災いしているのではないようです。世界的に消費が伸びているカリフォルニアやチリ、オーストラリアといったニューワールド産ワインの市場拡大がさほど進まず、旧態然としたブランド志向が根強い日本人のワイン消費傾向が数字から浮き彫りになってきます。冷涼な気候ゆえに赤ワインの自国生産がほとんど出来ない世界最大のワイン輸入国ドイツや、世界第二位のワイン消費国であるアメリカとフランス語を公用語とするケベック州がある隣国カナダですら、イタリアワインのシェアがフランスワインを上回っているという事実だけを述べておきましょう。
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【photo】多種多様なイタリアワインの概要を知るにはうってつけの中川原まゆみさんの著作2点。主要100品種ガイド土着品種で知るイタリアワイン(左)イタリアワイン・スタンダード110(右)

 急速な経済成長による富裕層の登場で、フランスワインの輸入量に関しては、もはや日本の数字を上回った中国は、ワイン消費のみならずブドウの作付けも右肩上がりで増えています。こうした新興の生産国を含めて世界中で最も栽培されているブドウ品種は赤がカベルネ・ソーヴィニヨン、白はシャルドネです。栽培環境を選ばない汎用性の高いこの二つのブドウ品種は、当然イタリアでも栽培されますが、画一的なニッポンのお米のようにコシヒカリに右倣えでは、個性と多様性の国イタリアらしくありません。万年雪に覆われた北の山岳地帯の斜面からアフリカ大陸にほど近い灼熱のシチリア南端の島々まで、起伏と変化に富んだ地形と気候のもと20州全てでブドウが栽培されます。資料によって数は異なりますが、その種類は400を超え、各地の風土に順応して変異したクローンまで細分化すれば優に2,000はあるともいいます。

 郷土料理の良き伴侶として愛されてきたイタリアワインは、その多様性ゆえに理解することが難しいといわれ、ワイン消費に関しては後発国の日本での普及を妨げる一因となってきました。その上、Barolo・Barbaresco の原料となる北イタリア随一の高貴なブドウ品種Nebbiolo ネッビオーロは、Nebbia (=霧)に霞むランゲ丘陵以外のブドウ畑では、本来の強靭で妖艶な魅力あるワインとなることはありません。Brunello di Montalcino など中部トスカーナで最良の結果を生むSangiovese サンジョヴェーゼは、晩熟型のため、収穫期に気候が安定しない地域ではリスクが高くなります。原産地以外への旅が出来ないイタリア品種は、やはり産地で食事とともに味わってこそ、その魅力が初めて理解できるのでしょう。

m_nakagawara.jpg【photo】美食の都・ボローニャを拠点に、イタリアワインの魅力を紹介する活動を展開する中川原まゆみさん
〈撮影:渡邉 高士 氏〉

 今回のセミナーに登場した5 品種を含め、イタリア固有の主要100品種で作られるヴィーノを紹介する中川原まゆみさんの労作「主要100 品種ガイド 土着品種で知るイタリアワイン」(産調出版刊)は、百花繚乱のイタリアワインを理解する上で格好の一冊です。初出から2年を経て改訂版を出した昨年、中川原さんは州別にヴィーノの特色を表す日本でも入手可能な110本と、その良き伴侶となる郷土料理110種のレシピを紹介した「イタリアワイン・スタンダード110」(インフォレスト刊)を上梓します。

 イタリア料理好きが高じ、東京でレストランを開業するも、さらに高みを目指すため、2001年3月単身イタリアに渡った中川原さんは、イタリアン・クリナリー・ツアーズ社が現在日本での窓口となる AIS ピエモンテとの共催による6カ月のソムリエ研修プログラム【⇒詳細はコチラに参加します。同年9月、日本人女性初のイタリアソムリエ協会公認の上級資格、Sommelier Professionista ソムリエ・プロフェッショニスタを取得。AIS主催のPremio Internazionale del Vino 2008(インターナショナル・ワイン・アワード2008)で最優秀レストラン&ワインリスト賞に輝いた1,800種に及ぶ壮麗なワインが記載された131ページのワインリスト〈clicca qui 〉を備えたエミリア・ロマーニャ州の名リストランテ「Paolo Teverini 」のソムリエールとして活躍、現在は輸出業のかたわら執筆活動を続けています。

 と、ここまで前置きだけで本題のテイスティングまで一向にたどり着かないまま、中川原さんの本でイタリアワインに関する予習をして頂いたところで、当日の模様は後編にて... (^_^; A

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2009/09/30

奇跡のリンゴ part 1

リンゴ農家・木村 秋則さんの金言
「大事なものは見えない 土も同じだ」

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 化学肥料や農薬に依存しない自然農法で栽培した野菜を我が家に届けてもらっている宮城県村田町の「ボンディファーム」の鹿股国弘さんと、その野菜を使った料理を店で提供する吉田克則シェフが仙台市青葉区で営むイタリアン「Enoteca il circolo エノテカ・イル・チルコロ」Link to backnumberの共催による「畑の真ん中で愛を叫びつつ、バーベキューパーティ」が8月上旬にボンディファームの畑で催されました。

 ボンディファームの顧客を対象とした収穫体験と作業後のバーベキューには、昨年も家族で参加していますLink to backnumber。この催しを主催したご縁の浅からぬ鹿股・吉田のご両人から、私はある特命事項を計画段階から託されていました。それは催しのキモとなる青森県弘前市で自然農法でリンゴを栽培する木村秋則さん(59)をお招きすることでした。昨年5月、木村さんはご不在でしたが、吉田シェフを一度木村さんの畑にご案内していたのです。

【photo】木村さんに頂いたサイン

 2006年(平成18)12月にNHKで放映された「プロフェッショナル-仕事の流儀」で紹介され、翌年1月に初の著作「自然栽培ひとすじに」(創森社刊)で無施肥・無農薬による自然農法に至る足取りと実践を語り、2008年(平成20)7月に、NHKの番組制作班による監修のもとノンフィクションライター石川 拓治氏が著した「奇跡のリンゴ―『絶対不可能』を覆した農家・木村秋則の記録」(幻冬舎刊)はベストセラーとなりました。今回の副題「大事なものは見えない 土も同じだ」はバーベキューパーティに持参した石川氏の著書に木村さんから頂いた直筆のサインに記してあった言葉です。

zuppa_yamazaki-akinori.jpg【photo】
木村 秋則さん(写真左)のリンゴにいち早く注目した地元弘前のフランス料理店「レストラン山崎」の山崎 隆シェフ(写真右)。冷製仕立てのクリームスープは店の看板メニュー


 メディアを通して紹介された現在に至る苦難の道のりと、飾らないお人柄から、にわかに時の人となった勢いは一向に衰えていません。所詮は自然の一部に過ぎない人間は、自然の摂理に逆らうことができないのだから、謙虚であるべきと説いた「リンゴが教えてくれたこと」(日本経済新聞出版社刊)と、UFOに拉致された驚愕の体験などをまとめた「すべては宇宙の采配」(東邦出版刊)を立て続けに上梓。畑の見学や自然農法についての講演依頼が後を絶たず、最近では国内各地は言うに及ばず、韓国やドイツなど海外からも農業指導の依頼が殺到、本業の畑仕事がちゃんと出来ているのかな、と心配になるほど多忙な毎日を送っておられます。

succo_melo.jpg【photo】古い洋館とフランス料理店が多い弘前を代表するフランス料理店「レストラン山崎」にて。木村さんのリンゴを使った冷製スープは夏場はなくなるものの、ジュース(写真中央)なら季節を問わず味わうことができる

 そもそも私が初めて木村さんを知ったのは、たまたま見ていたNHKの番組(プロフェッショナル~)を通してです。訥々(とつとつ)とした津軽弁でキャスターの脳科学者・茂木健一郎と住吉美紀アナに笑顔で語りかけるその人は、日本で初めて本格的にリンゴを無農薬・無施肥栽培することに成功したという弘前の農家でした。改めて確認した新聞のTV欄には「りんごは愛で育てる」という番組のタイトルが載っていました。

 温暖で多湿な日本では、病害虫に犯されやすい果樹栽培には、さまざまな農薬が使用されます。ことにバラ科のリンゴには一般的に幾度も散布が行われます。効能が異なる農薬の種類ごとに農協が散布時期を定めた防除暦では、年間で約10回の農薬散布が推奨されます。野生の原種をもとに近代になって品種開発された果樹は、草取りに明け暮れていた農家の労力を軽減する目的で開発された除草剤、病害虫の被害を防ぐための殺菌剤や殺虫剤、落果防止のためのホルモン剤などを使用することを前提にしていると言っても過言ではないかもしれません。果樹ではありませんが、私の自宅の庭で育つバラも、春先から夏にかけて、さまざまな病害虫に襲われるゆえ、リンゴを無農薬で育てることの困難さは容易に察しがつきました。それゆえ番組を見て「さすがはリンゴの里、津軽には並外れた生産者がいたもんだ」と感心することしきりでした。

akinori@azienda.jpg【photo】岩木山を背景とする南向きの傾斜地にある木村さんのリンゴ畑には、木村さんが「樹の実」と呼ぶリンゴにとって、自然にあるがままの理想的な生育環境が整っている。9年間の艱難辛苦の果てに理想とする自然栽培に至る軌跡について語る木村さん。笑いあり涙ありの話は2時間に及んだが、時が経つのを忘れた


 そんな私が弘前に木村さんの畑を初めて訪ねたのは、番組が放映されて8ヵ月後の2007年(平成19)8月のこと。その年の4月に弘前のフレンチ「レストラン山崎」の山崎 隆シェフがオリジナルレシピで作られた木村さんのリンゴを使用した冷製スープを頂いたのがきっかけです。かつては絶対不可能といわれた自然農法で栽培されたリンゴの皮と種を除いてスライスし、弱火でコトコト煮込んで作ったという冷製クリームスープは、TV番組で得た若干の予備知識も手伝ってか、生き生きとしたリンゴの風味に、生クリームのまろやかさとカルヴァドスの柔らかな香りが加わり、私を感動させて止みませんでした。人を感動させる料理との出逢いって、そう頻繁にあるものじゃありませんよね。"百聞は一にしかず"と言うではありませんか(?)。ここは是非ともリンゴを作った木村さんにお会いしたいと思ったのです。

fuji_akinori.jpg【photo】初秋の青空に一層映える"奇跡のリンゴ"。「自分は樹が実を結ぶのをお手伝いしているだけ」と木村さんご自身は語る

 8月にレストラン山崎を訪れた時は、リンゴの収穫前であったため、スープはありませんでしたが、木村さんのリンゴで作ったジュースは頂くことができました。食後に席にご挨拶にお見えになった山崎 隆シェフに、木村さんとの橋渡しをお願いしました。地元の素晴らしい素材を取り入れた弘前ならではのフランス料理を心掛けるという山崎シェフは、快く木村さんの携帯番号と畑の所在地の略図を書いたメモを渡して下さいました。事前にご自身が木村さんに電話を入れておくので、畑の場所がもし判らなければ、木村さんに直接電話してみてとも。ただ「携帯に電話しても、ほとんど出ないんだよね」と苦笑されました。その理由は、三回目の弘前訪問の折にご自宅に隣接した作業場にお邪魔して判明します。ご自宅の母屋脇にある作業場でリンゴの箱詰めと発送作業に追われる木村さんご夫妻の傍らには、注文を受けるFAX機能付き電話があります。お二人とも全く電話を取ろうとしないため、ひっきりなしにかかってくる電話は決して鳴り止むことがないのでした(笑)。

akinori_okusama.jpg 【photo】作業場に鳴り響く電話のコール音など意に介さず、仲睦まじく箱詰め作業にあたる木村ご夫妻。美千子さん(左)、秋則さん(右)

 弘前市中心部から鯵ヶ沢街道を岩木山の麓へと向かうと、次第にリンゴの樹が目立ってきます。通称アップルロードを右折し、目印とされた神社はすぐに判ったものの、周囲に広がるリンゴ畑のどこが木村さんものか皆目見当がつきません。神社に戻って木村さんの携帯をコールすると、山崎シェフの懸念が嘘のようにすぐに電話に出た大きな声の主は紛れもなく番組で耳にした木村さんその人でした。間もなく迎えに来て頂いた木村さんと簡単にご挨拶を済ませ、軽トラックで先導されて着いたリンゴ畑は、周囲の畑とは明らかに異質なものでした。下草がきれいに刈り込まれた他の畑とは対照的に、木村さんのリンゴ畑には一面の雑草が生い茂っています。その畑に腰をおろして45分弱に編集されたTV番組では語られることのなかったご自身の来歴やリンゴ畑で起きている奇跡に関するお話を2時間に渡ってじっくりと伺いました。

apple_road.jpg【photo】木村さんのリンゴ畑(下写真)は旺盛な雑草に覆われる一方、慣行栽培の畑(上写真)は丁寧に下草が刈り込まれ違いは歴然。自然の摂理通りに秋に紅葉する自分の畑のリンゴとは違い、農薬を散布したリンゴは雪が降っても紅葉することがなく葉が青いままという。そんなリンゴを不気味だと木村さんは言うakinori_hatake.jpg

 出版された3冊の本すべてで紹介されているので、ここでは詳しく繰り返しませんが、1978年(昭和53)、28歳になった木村さんが完全無農薬でリンゴを育てようとしたのは、当時は人体への悪影響について論議されることすらほとんどなかった農薬を散布するたびにしばらく寝込んでしまうほど化学物質に対して過敏な体質であった奥様、美千子さんのためでした。若い頃から大好きだった車のエンジン改造に関する本を探して入った書店でひょんな偶然から手にした福岡正信の著作「自然農法」に感銘を受けた木村さんが慣行栽培をやめた結果、病害虫にすっかり犯されたリンゴの樹は軒並み落葉し、秋に狂い咲きの花を付けた樹は翌年以降結実することをやめてしまいます。

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【photo】色付き始めたリンゴを慈しむように見つめる木村さんのまなざしはあくまでも優しげだ

 リンゴ農家としての収入が完全に途絶えても、なお無農薬栽培を諦めずに花すら咲かない病害虫の猛威に晒されたリンゴの樹と向き合った9年間の苦闘は筆舌に語り尽くせないものでした。当初800本あったリンゴの樹は葉を落として活力を失ってゆく8年の間に半数近くが枯れ果てたといいます。私が初めて伺った当時は幻冬舎から奇跡のリンゴが出版される前でしたから、40代にして木村さんが歯をほとんど失った理由は全くの初耳。日がな一日リンゴの樹の下で横になってシャクトリムシが葉を食べる様子を凝視し、害虫の生態を知るなどの徹底した自然観察や、酢やワサビなど思いつく限りの効果がありそうな食品の希釈液の散布をもってして、いかに手を尽くしても無農薬栽培法の答えを見出せなかったという木村さんの苦労話に引き込まれてゆきました。

 津軽弁で破産者を意味する「竈消し(かまどけし)」。婿入りした木村さんにとってはさぞ辛かったであろう不名誉な陰口を叩かれ、道で会っても挨拶すらされなくなり、家族を極貧に追い込んだという自責の念に駆られた木村さんは、無農薬栽培を試みて6年目の満月の夏の夜、もはや万策尽きたと死を決意します。畑の物置がわりに使われていた軽ワゴン車(昨年撤去された)を指差し、「ここから取り出したロープを手に、月明かりの中を山に入って首を吊って死のうとしたんだよ」と語りました。死に場所を求めてさまよい歩いた山中で、木村さんは一本のリンゴの樹を目にします。農薬や肥料を与えないのに青々とした葉を茂らせているように映ったその樹は、リンゴではなくドングリなのでした。まさに命を絶とうという極限状態で、その根元を支えていた柔らかく湿気を帯びた山の土にこそ、リンゴを自然栽培で育てる答えがあると直感したという木村さんの話を伺い、人間が持って生まれた宿命や天命の存在を信じずにはいられませんでした。

akinori_zassou.jpg【photo】大事なものは見えない。土も同じ

 土の重要さに気付いて以降、雑草を刈らなくなった木村さんの畑では多種多様な微生物・昆虫・ミミズ・野ネズミなどが生息する生態系が形作られてゆきます。マメ科植物の窒素固定作用や、耕土層の下にある岩盤層のミネラルをリンゴの根が吸収しやすいよう、雑草や地中深くに根を張る作物を活用し、本来の土の力を取り戻していきます。一匹ずつ手で駆除していたハマキムシなどの害虫の発生を抑えるため、バケツを活用した蛾の殺虫法やハチなどの益虫による駆除を取り入れるうちに、リンゴの自然栽培に理想的な局所環境を次第に作り出してゆきます。

 1988年(昭和63)、一本のリンゴの樹に7輪の可憐な花が咲き、秋に2つの飛び切り甘いリンゴが実ります(その樹の根は20m以上も地中で伸びていることが後に判明する)。翌春、木村さんの畑一面にリンゴが白い花を咲かせているのを発見した隣の畑の持ち主が、わざわざ木村さんに知らせてくれたのだそう。はやる気持ちを抑えて畑にバイクで駆けつけた木村さんは、9年ぶりに目にする光景を前に、奥様と手を取り合いながら涙が止まらなかったそうです。その時の感激を昨日のことのように語る木村さんの言葉に、私も我が事のように熱いものがこみ上げてくるのでした。

2008.5azienda-akinori.jpg【photo】岩木山の雪が解けやらぬ昨年5月中旬、エノテカ・イル・チルコロの吉田シェフご一家をお連れした木村さんの畑には、北国の遅い春の訪れを祝うかのように、白いリンゴの花々が一斉に咲いていた。21年前の春、木村さんご夫妻はどのような思いで豊かな秋の実りを約束するこの光景を見つめたのだろう

 昨年12月に東北6県のTV朝日系列の放送局で放送されたTV番組「るくなす」に登場した木村さんは、24年ぶりに山中で再会を果たしたドングリの樹に手をかけ、何度も「ありがとう、ありがとう」と万感の思いを込めて語りかけていました。自らの命を救い、答えに導いてくれたドングリに語りかける木村さんの言葉には、いささかの誇張や作為も感じられませんでした。木村さんは「自分はバカだから、リンゴが可愛そうに思って実を結んでくれたんだ」と笑います。人生の奈落をかつて経験した木村さんは、本当にカラカラとよく笑う方です。それでいてまっすぐな生き方を貫く津軽の「じょっぱり」を地でゆくような木村さんは、いかなる困難な状況にあっても己が信念を曲げませんでした。木村さんの芯が通った生き方は、閉塞感にとらわれがちな今の時代に生きる人々の強い共感を得ています。

 恐らく日本一有名なリンゴ農家となった現在では、残念ながら極めて入手が難しいのですが、大地の力を存分に取り込んで実を結ぶ木村さんのリンゴは、お人柄そのままの邪気のない味がします。akinori_smile.jpg放置しても腐敗しないというそのリンゴ果汁100%からなるジュースなら、仙台でも入手できる店があります。生涯忘れることがないであろう時を過ごした木村さんの畑で果たした出会いから、あまり時間を経過しないうちに、木村さんについて書こうと実は思っていました。しかし、その生きざまを直接伺うに及んで、若輩の私が軽々に木村さんについて語ることを躊躇するようになり、時間ばかりが無為に経過してしまいました。今回こうして、2年前の体験をまとめることができ、少し肩の荷が下りた思いです。

 【photo】畑からの去り際、カメラを向けると律儀に帽子を脱いだ上で満面の笑みで見送って下さった木村秋則さん

 木村さん人気(...言うまでもなく私のコトではない)で昨年に比べて倍以上の130人あまりが参集した先月のバーベキューパーティについては、奇跡のリンゴ part2 リンゴ農家・木村 秋則さんの金言 「奥歯見せて笑える一生」にて。

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2009/07/05

秘密の花園@深山

花盛りの「藤沢カブ」を訪ねて

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 仕事の都合がつかずに私は参加できなかったのですが、昨年11月に鶴岡で総合地球科学研究所(本部:京都)と山形在来作物研究会(鶴岡)・東北文化研究センター(山形)・鶴岡市の共催による「第二回焼畑サミット」が行われました。焼畑と野焼きの文化-今、東北が熱い!-と題するフォーラムの告知ポスターには、まだ真っ暗な早朝、山の斜面に火を放つ人の姿が写っています。炎に照らし出された眼鏡をかけた男性の横顔には見覚えがありました。それは紛れもなく2年前に「藤沢周平の故郷の味」Link to backnumberでご紹介した湯田川温泉街に隣接する鶴岡市藤沢地区で在来野菜「藤沢カブ」を栽培しておいでの後藤勝利(まさとし)さんでした。  【クリックで拡大⇒】

 焼畑によるカブ作りには、森林資源保持のために計画伐採される区画の確保がまずは必要です。消防署に届けをした上で、山焼きを行う前日までに切り株だらけとなった急斜面の下草を刈って整地するきつい作業〈clicca qui 〉を終えなくてはなりません。藤沢カブは連作障害が出やすいため、栽培する場所を毎年変えています。6年前、鶴岡市金峰山中の急峻な斜面に切り開かれた畑というよりはカブが一面に生えた山の一角を訪れて以来、後藤さんご夫妻の素敵な笑顔にお会いしたくて後藤さんのもとを毎年訪れて来ました。

yamayaki_06.jpg【photo】好天に恵まれた2006年(平成18)8月9日早朝。鶴岡市湯田川郊外、山谷地区の急斜面で行われた焼畑の火入れ 

 「焼畑農業」にどのようなイメージをお持ちでしょう? 未開地の非文明的な耕作法だという印象を持つ方や、環境保全型農業とは程遠い否定的な見方をされる向きが多いのではないでしょうか。これには、南米アマゾンや東南アジアの一部で横行する自然の回復サイクルを無視した無計画な伐採で熱帯雨林が失われており、伐採の主たる目的である焼畑が地球環境を破壊する元凶だとする情報が影響しているように思われます。対して、東北各地では雑草を燃やした草木の灰を肥料に地力を上げ、持続可能な循環サイクルのもとで雑穀や根菜類の栽培が古来より広く行われてきました。岩手・宮城を貫流する東北最大の川、北上川河口域には、茅葺屋根や葦簀(よしず)の材料となる国内最大級のヨシの原群落があります。収穫されないまま立ち枯れしたヨシに火を放ち、新たな芽吹きを促す野焼きが行われるのが、4月中旬。こうした「火耕」の知恵は、昭和末期までにわずかな例外を除いてほとんどが失われてゆきました。

2003.11.3fujisawa-kabu.jpg【photo】 20年前に当時60代半ばを過ぎた近所に暮らす女性から盃一杯分の種を託された後藤清子さんが、ご主人と採種を繰り返しながら大切に育ててきた藤沢カブ。2003年(平成15)11月、アル・ケッチァーノ奥田シェフの案内で初めて訪れたこの後藤さんの畑〈clicca qui 〉で勧められるままに土からもぎたてのカブにかじりつくと、すがすがしい辛みがパキッとしたみずみずしい食感と共に口腔いっぱいに広がった

 一帯を森林に覆われた鶴岡市温海(あつみ)の山あいにある一霞(ひとかすみ)地区では、400年以上前から伝統野菜「温海カブ」作りが行われています。湯田川温泉の南方、虚空蔵山を挟んで隣接する少連寺地区には、形状は温海カブ同様に丸いものの、より赤みと辛味が強い「田川カブ」、温泉街の東方に位置する藤沢地区でも地上に露出した部分が赤くなる細長い「藤沢カブ」、これら赤カブ系統ではなく、白く細長い形状の「宝谷カブ」は、同市宝谷地区にお住まいの畑山丑之助さんによって作られてきました。これらのカブに共通するのは、全て焼畑農法で作られているということ。これら以外の地区でも作付けされる温海カブ系統の品種は、焼畑ではない普通の畑で栽培されます。夏場は幾分品薄になりますが、晩秋から春先にかけて、鶴岡IC近くの「庄内観光物産館〈 Link to website 〉」では、各地の生産者が栽培した温海カブや同市大山の漬物専門店「本長」が製品化した藤沢カブの甘酢漬やたまり漬などを試食しながら選ぶことができます。私の好みは、焼畑で作られる藤沢カブや一霞産の温海カブですが、一口にカブの甘酢漬といっても造り手によって味はさまざま。どうぞお好みのカブラ漬をじっくりと選んで下さい。

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ojiichan_no_kabu_zukuri.jpg【photo】火の勢いを注視しながら山焼きの指揮をとる後藤勝利さんの凛々しい立ち姿。物腰が柔らかで小柄な後藤さんがいつになく大きく見えた     

(上写真)

後藤さんのお孫さん、ほのかちゃんの目を通して描かれた藤沢カブ作りが絵本化された「おじいちゃんのカブづくり」

(右写真)


 農村から都市部へ働き盛り世代の流入が続いた高度成長期、それまで各地に伝わっていた焼畑で栽培される在来種のカブの多くが、残された高齢者の手では重労働の焼畑で作ることができなくなり、多くの種が消滅してゆきました。庄内では珍しい赤く細長い系統のカブの種をただ一人作っていた近所の知人から「種を絶やさないで」と託された奥様の清子さんと共に後藤さんが作り続けてきた藤沢カブは、徐々に需要が広がり、作付けを増やしてきました。そんな後藤さんご夫妻にとって、大きな励みになったのが、昨年2月に鶴岡市出身の絵本作家 土田 義晴さんの手で、後藤さんをモデルにした絵本「おじいちゃんのカブづくり」(そうえん社刊 1260円)が出版されたことでした。現在は郷里の鶴岡を離れて東京で創作活動を行っている土田さんは、1年半に渡って後藤さんの畑に足を運んで精力的にカブ作りの模様を取材されたのだそうです。

【photo】私たちが今日この美味しいカブを食することができる恩人自らが漬け込んだ甘酢漬は、一般の流通には乗らない限定品。譲って頂いた藤沢家富(カブ)〈clicca qui 〉と、お土産にと頂いた美味しさはなんら変わらない不揃いのカブ。この藤沢家富 甘酢漬のラベルにある通り、「まぼろし」のカブにまつわる物語を知るにつけ、味わい深さもまたひとしお
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 杉材が切り出された区画を選んで下草を刈り、8月の夜が明けきらぬ早朝から行われる山焼きに始まる後藤さんのカブ作り。自家採種した種を撒いてから2ヶ月弱で収穫が始まる藤沢カブが、収穫の最盛期を迎えるのは10月末から。火入れによって土壌から病害虫が駆逐されるため、肥料や農薬などの人工的な要素は一切使用せずに育つカブの収穫は、山一面が雪に覆われる頃まで続きます。昨シーズンは生育が遅れ、丈の短いカブしか収穫されず、思うように出荷できなかったご苦労を年末にご自宅で伺いました。

fujisawa_29_12_2008.jpg【photo】昨年12月29日朝に訪れた藤沢カブの畑(上写真手前)。2003年にカブを栽培した畑があったのが奥の白い山肌を見せる山。例年より積雪が少ないものの、一面を雪で覆われたそこは、静寂が支配していた。それから4ヶ月あまりを経た今年5月初旬、上記と同じ畑を再訪した(下写真)。丸5年を経過して緑の潅木が回復しつつある奥の山を見ても明らかなように、茫漠とした冬とは打って変わって生命の再生を感じさせた

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 カブの焼畑栽培が行われる地域では、5月になるとアブラナ科特有の菜の花に似た花を咲かせるカブに出合えます。温海カブを焼畑で作っている一霞地区では、道沿いに黄色い花が咲き乱れています。地元の有志が3年前から始めた「蕪主制度」で再評価の機運が起こり、長らく唯一の栽培者だった畑山さん以外にも栽培を再開する生産者が出始めた宝谷カブは、棚田の畦道に花を咲かせます。いずれも比較的身近かな所で栽培されるカブです。一方、後藤さんの藤沢カブは、ほとんど人が足を踏み入れない金峰山周辺の山中で栽培されています。人里離れた山の中でひっそりと花を咲かせる藤沢カブの菜の花畑は、私が大好きな春の風景です。

primavera_fujisawa2.jpg【photo】周囲の木々のバリエーション豊かな緑色の中に黄色いじゅうたんを敷き詰めたような愛らしい藤沢カブの花。人知れず深山に咲く花々は、北国にようやく訪れた春と、やがて種を結んで命の連環を果たす喜びに満ちている

 人を容易に寄せ付けない山中ゆえ、雪が積もる季節には、かんじきを履いて山に入り、雪の下から甘みの乗ったカブを掘り出すこともあるといいます。昨年12月29日の朝、例年より積雪が少ない山に入って畑の様子を見に行きました。そこはキツネやカモシカはもちろん、クマも生息する場所です。新雪の上に点々と続く野生動物の足跡の先にある畑で、藤沢カブたちは雪の下で眠りについていました。

 そして金峰山が一斉に芽吹きの季節を迎えた5月上旬。私が初めて後藤さんのもとを訪れた2003年(平成15)にカブを作っていた区画の手前に作られた新たな畑では、藤沢カブが種をつけるために精一杯黄色い花を咲かせていました。「 誰も知らない秘密の花園...」というアイドル時代に松田聖子が放ったヒット曲はもちろん(?)、小鳥のさえずり以外は何も聞こえてきません。深山の木々は、萌黄や浅緑など多種多様な緑のパッチワークで彩られています。鬱蒼とした木々に囲まれた畑の一角だけが、黄色に輝くありさまは「金の峰」というその山の名にふさわしい光景でした。
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 詳細は追ってご案内しますが、この秋、収穫作業真っ只中の藤沢カブの畑を訪れる行程を組み込んだ仙台発のバスツアーを計画しています。ツアーのプロデュースは庄内の魅力を知り尽くした庄内系イタリア人。実りの季節を迎えた旬の美味の数々と癒しに満ちた庄内の魅力を一泊でたっぷりと味わって頂けますので、どうぞご期待ください。
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2008/04/13

佐藤 久一さんのこと 〈後編〉

「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」

《前編》より続き

【Photo】内装から調度に至るまで、佐藤久一が理想のおもてなしを提供するための場としてのこだわりが随所に見られる酒田東急プラザビル3Fの「ル・ポットフー」。このメインダイニングは地中海クルーズの客船をイメージしたという

Lepotaufeu1.jpg 酒田駅前の再開発計画によって、ビジネスホテルチェーン「東急イン」がキーテナントとなる「酒田東急プラザビル」が酒田駅前に完成したのは1975年(昭和50年)9月。地元挙げての誘致に成功した宿泊施設の顔としてホテル3階に「ル・ポットフーLink to Websiteの2 号店が開店したのが同年12月のこと。常務取締役支配人に就任した佐藤 久一が事細かに注文をつけた豪奢な内装のダイニングルームには、80坪のフロアに32席のテーブルと二つの個室「ル・シャトー」と「ラ・スフレ」が用意されました。中町の清水屋デパート5 階にそれまであったル・ポットフーは、デパートの移転を機に2年後に店をたたみますが、当初はそちらも残したままの船出でした。

 こうした潤沢な事業資金の後ろ盾には、地元の名士だった久一の父・久吉と経営母体の「荘内振興」社長・五十嵐 薫(ただす)の後押しがありました。久一は駅前のホテルという立地条件を考慮し、店の特色を前面に打ち出すため、メニュー構成を庄内浜の魚介主体に変えてゆきます。サクラマス、ハタハタ、ノドグロ、大越中バイガイ、岩ガキ、寒ダラ、タラの白子、カスベ ・・・。こうした伝統的Lepotaufeu2.jpgなフランス料理では使うことがそれまで無かった旬の庄内産食材を積極的に取り入れてゆくのです。自他共に認めるワインラヴァーの私も国内のワイナリーでは屈指の品質の高さに一目置く山形県上山市の「タケダワイナリー」のワインをハウスワインにするなど、地産地消やスローフードという言葉が誕生する遥か以前から、久一はその理念を実践していました。

【Photo】 淡いモスグリーンに明るいシルバーの草花や鳥の図柄で覆われた壁紙、ゴブラン文様の椅子、アンティークの掛時計がしつらえられた個室「ル・シャトー」。常連客には久一がここで付き切りでサービスをした

 朝5時半に始まる酒田港の朝競(せ)りで久一が手に入れた素材を元に料理を考えるのは、6人の厨房スタッフを率いる太田 政宏シェフ。 固定したメニューに束縛されることなく、その日入手した最上の素材でメニューを組み立てる「おまかせ」コースに二人は力を入れてゆくのでした。ランチの準備と接客を終えると、新たな魚の調達のため、夕競りが行われる鼠ヶ関、吹浦、象潟の漁港へと久一は車を走らせます。ディナー客が引けた夜10時過ぎに個室ラ・スフレにひとり籠って、辞書を片手に仏語の料理書を読み漁りました。「久一さんは時間さえあればいつも料理書を読んでいた」と太田シェフは振り返ります。こうして久一は余人の追従を許さない域にまで料理に対する知識と理解を深めてゆきます。

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【Photo】 久一が手書きした夏のメニュー ※クリックで拡大

 たとえば、一組のカップルが酒田駅前に出来た評判のフレンチレストラン「ル・ポットフー」にお任せコースの予約を電話で入れたとしましょう。客をもてなすこと、わけても女性客を喜ばせることにいつも心を砕いた久一は、電話の口調や食事の目的を聞き出して、あれこれ想いをを巡らせます。料理の組み立てはどんな内容にするか。テーブルに飾るのはどんな花がふさわしいのか。テーブルに向かう動線から眺めてどの角度が最もその花が美しく見えるのか・・・。

 花を生けた花瓶を前に、答えの出ない自問自答が延々と続きます。仕事を終えて帰宅する従業員たちは、片手を顎に当てて腕組みをしながら物思いにふける久一の姿をしばしば目にしました。翌朝、出勤してきた彼らは、昨夜と同じ場所に同じ格好で座っている久一と再び相まみえるのです。こうして四六時中店にいる久一は、従業員の目には全く私生活が見えなかったのだといいます。映画の世界から離れても、久一は客がドラマチックな非日常の時間を過ごす空間の演出に絶えず情熱を燃やし続けていたのです。

Kyuichi_con_suzuki.jpg【Photo】 「レストラン欅」に復帰した1993年、常連客に送った挨拶状より。今も欅のメインダイニングルームに掛かるマリー・ローランサンの絵を前に大きなスズキを手に笑みを浮かべる佐藤 久一

 作家 山口 瞳は、著書『酔いどれ紀行』の取材で酒田に滞在した4日間、連日連夜ル・ポットフーに通い詰めます。山口が「サービス魔」と形容した久一は、同書の表現を借りれば「この材料、この味で、これだけの店構え(ル・ポットフーの調度はとても立派で、かつ瀟洒である)」で提供していました。食事を目的に毎年フランスを訪れ、フランス料理通を自認していた落語家 古今亭志ん朝をして「日本で初めてすごいフランス料理にぶつかった」と驚愕させておきながら、その代金は非常に安価なものでした。とはいえ、魚を求めて久一が市場に顔を出すと、競りの立会い人たちは"あらかた良い魚はル・ポットフーに持って行かれる"とか、目をつけた魚を手に入れるためには金に糸目を付けなかったため、浜値が上がってしまうとボヤきあったのだそうです。

 久一の伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」では、彼の徹底したこだわりを物語るさまざまなエピソードが紹介されています。ル・ポットフーが開店して間もない頃、久一は室井という新人コックに東京八重洲の百貨店「大丸」に夜行列車で向かうよう指示します。
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 翌日のディナーには、酒田の鉄工所が外国の客をもてなすための予約が入っていました。目的は卓上を飾るにふさわしい大きさのその国の旗と日の丸を手に入れること。それだけの目的のため「旗を買ったら、すぐに電車で戻って来い」と久一から念を押されていた彼は、翌朝開店とともに旗を入手、とんぼ帰りで酒田へと戻るのです。それからも偶然に久一と目が合っただけで「山に行ってタラの芽を採って来い」などと命じられることがしばしば。東京生まれで、自生する天然の山菜など見たことも無いその新人を見送りながら「熊には気を付けろ」と久一は言い添えるのでした。

【Photo】 日本イタリア料理界の重鎮、室井 克義氏

 先月末に同書の著者・岡田 芳郎氏の講演が酒田で催されました。岡田氏の講演に続いて、氏を進行役に太田シェフとかつて旗を買いに行かされた室井 克義氏による鼎談が行われました。開会に先立って話を伺ったご本人の弁によれば、太田シェフに憧れて25歳でル・ポットフーに入ったという室井シェフ。久一がいつも店でこうしていたと言いながら、彫刻家ロダンの「考える人」のように腕組みをして歩く様子の真似をしてみせてくれました。常識に囚われず、もっと良いもの、更なる高みを常に目指していた久一は、「そうじゃないんだよ」と噛み締めるように力を込めて語るのが口癖だったそうです。久一から薫陶を受けた一年の間に料理の道を志す者として多くのものを得たと室井シェフは語ります。この道で成功した現在でも、時折「常務(久一のこと)なら、こんな時にきっとこうしただろうな」と、思うことがあるのだとか。接した期間は一年と短かったものの、久一からは計り知れない大きな影響を受けたと振り返ります。

Talksession.jpg【Photo】2008年3月末、酒田で行われた岡田 芳郎氏の講演会で。左より聞き手の岡田氏と"一度も面と向かって褒められたことはなかった"久一との思い出を語る太田 政宏氏、室井 克義氏

 久一のもとで素晴らしい素材と出合った室井氏は、のちにイタリア料理に転進。ホテル西洋銀座「アトーレ」総料理長を17年間務め、2003年(平成15年)銀座にリストランテ「M' Di Piu エム・ディ・ピュー」をオープン。現在もオーナーシェフとして活躍中です。(「M」は名前の頭文字。「Di Piu」は 「もっと」「より以上に」という意味のイタリア語)氏は「日本イタリア料理協会」を1988年(昭和63年)に設立し、初代会長に就任。1991年に北イタリアピエモンテ州Torino トリノで設立されたイタリア料理を学ぶ若い外国人のための教育研修機関「ICIF イチフ」(Italian Culinary Institute for Foreigners)の立ち上げにも尽力、本部を同州Costigliole d'Asti コスティリオーレ・ダスティに移した今も数多くの料理人を志す若者がアンジェロ・ガヤやマウリッチャ・フェレッロLink to Backnumberなど一流の講師陣が揃うICIFで学んでいます。いつの日か久一のような類いまれな足跡を残す若者がそこから現れるのかもしれません。

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【Photo】1976年10月29日午後5時40分、グリーンハウスで火災が発生。折からの強風のもと燃え盛る炎によって、市街中心部を焼き尽くす大火となった。左写真は炎上するグリーンハウス。(写真提供:酒田市資料館)   酒田大火の被害を伝える1976年10月30日(土)の河北新報夕刊(下写真)クリックで拡大
 
1976.10.30KAHOKU.jpg 1976年(昭和51年)10月29日の夕刻、ディナー客に料理の説明をしていた久一に、酒田中心部の中町で火災が発生して市街に燃え広がっていることが知らされます。みぞれ混じりの冷たい雨と瞬間最大風速26メートルの西寄りの強風が吹き荒れる中、煽られた炎は、あっという間に東側市街地へと燃え広がります。その火元となったのが若き日の久一が手塩にかけてつくり上げたグリーンハウスだったのです。翌朝5時に鎮火するまでに延焼面積は22.5haに及び、1,023世帯 3,300名が焼け出されます。

sakatataika.jpg 死者1名・負傷者1,003名を出したこの「酒田大火」の被害総額は405億円と推計され、火災による被害規模では戦後四番目といわれました。当時社長の座にあった父・久吉は、謝罪会見の席上、映画事業を整理し、その余剰金と土地の売却益を罹災者に全額拠出することを発表します。映画館の運営は久一の手を離れて久しかったものの、酒田市民の間ではグリーンハウスと久一は深く結び付いていました。家財を失い復興に向け苦難の道を歩んだ酒田市民にとって、久一は怨嗟の対象であり続けました。酒田大火は、街の誇りだった映画館グリーンハウスを造り、"酒田にル・ポットフーあり"と全国に街の名前を知らしめた立役者、佐藤 久一の名に暗い翳を落としたのです。

【Photo】火災の発生から一夜明けた1976年10月30日、一面の焦土と化した酒田市街中心部。外壁だけを残して焼け落ちた大沼デパート。その右隣に火元となったグリーンハウスがあった

 仙台市泉区のフランス料理店「ジュアン・レパン」のオーナーシェフ 織田 寛二氏は、1978年(昭和53年)にル・ポットフーで料理人としてのスタートを切りました。1954年(昭和29年)兵庫県生まれの織田シェフは、関西大学で法律を学んでいた1976年(昭和51年)にル・ポットフーの料理と出合います。学生時代より食べ歩きが趣味だった織田氏はその味に魅せられ、料理人の道に進みました。'83年に渡仏するまで在籍したル・ポットフーで接した久一は、直接厨房に対してあれこれ言うことは無かったそうです。自分が目利きした素材で「こんな料理ができないか」と相談を持ちかけるのが太田シェフでした。久一の意図を汲んだ太田シェフが手がける試作品を久一が味見をして、ル・ポットフーの料理として磨き上げていったのです。

kanji_oda.jpg 当時「日本一」との呼び声が高まっていた店を訪れる客に最高のものを提供すること。その難題に応えて皿の上にそれを見事に表現した太田シェフは、織田氏にとって善き指導者であり、生き方を見習うべき先輩でもありました。織田シェフによれば長い歴史を持つにもかかわらず、ル・ポットフー出身の料理人は意外と数少ないのだといいます。なぜならそこは"居心地が良かった"からだとか。厳しい上下関係が当たり前の料理の世界では珍しく、太田シェフは調理が一段落したところで厨房スタッフ全員で洗い物をしていました。太田シェフ以下全員でスキューバダイビングの免許取得に取り組み、皆で「バイ貝」や岩礁に生息する「カメノテ」などを採っていたそうです。
  
【Photo】 「ジュアン・レパン」の織田 寛二シェフは、当時誰も同行しなかった久一の魚の買出しにしばしば運転手役として同行した。夜中に厨房の調理用ワインを飲んでしまう久一に対抗して「ワインにヴィネガーを入れたり、タバコの中にマッチを忍ばせたりした」と笑う

 久一の並外れた味へのこだわりを一身に受け止め、それを料理として完成させる太田シェフ。この頃には店の名声は高まる一方で、この二人が編み出す類まれな料理を味わう観光バスのツアーが組まれるまでになります。1978年(昭和53年)、評判を聞きつけて店を訪れた雑誌「四季の味」編集長・森須 滋郎(もりす じろう)は、見事な久一の接客ぶりに感嘆します。全国の飲食店を見てきた森須編集長は、素晴らしい料理を優雅な立ち振る舞いで提供する久一を「日本一のメートル・ドテル」《注》と絶賛します。 一方で人口10万程度の地方都市で、原価率がいかにも高いであろう料理を常識ではあり得ない低価格で出して経営が成り立つのかを問いかけました。Otacuccinakeyaki.jpgすると久一は「ホテルの4階・5階と6階の一部を占める宴会場収入で採算は取れている」と事もなげに説明するのでした。さらにこうも付け加えます。「3階のレストランは、道楽であり、自分の生き甲斐だ」と。

【Photo】 階段を下りて店の扉を開けると目に入る「レストラン欅」の厨房。父の跡を継いだ息子の舟二(しゅうじ)さんら、きびきびと動く調理スタッフとともに調理の指揮を執る太田シェフ(左) 撮影;2008年3月

 "食は芸術であり、文化である"との固い信念のもと、原価率が七割を超える看板のおまかせ料理を提供するル・ポットフー。日ごと高まる名声とあいまって店に投入する労力と経費は膨らむ一方。店は慢性的な赤字体質を抱えていました。家に戻らず店に泊り込む日々を送る久一に "会社の資金を道楽に注ぎ込んでいる" という風当たりが次第に強まります。その重圧から逃れるため、久一は酒に溺れてゆきました。「日本一のレストラン」という賛辞は、同時に久一を追い込んでいたのです。過度の飲酒による十二指腸潰瘍で倒れた後も、コックコートに酒を忍ばせ酩酊状態で接客する久一に従業員たちは距離を置くようになります。

 1988年(昭和63年)6月にはフロアを取り仕切る名マダムとして活躍していた鈴木 新菜(にいな)が、8月には仕入れに関する意見の相違で太田シェフが相次いで店を去ります。こうして厨房とフロアの核を失ったル・ポットフーには、その後微妙なズレが生じてゆきます。"酒田の宣伝のためだから"と採算を度外視した久一のやり方を擁護してきたオーナーの五十嵐 薫も、累積赤字が一億円を超えた'80年代後半には経営上看過できない状況に陥っていました。オーナーが代替わりした翌月の1993年1月31日、久一は心血を注いだル・ポットフーの支配人の座を解雇同然の形で追われます。それは清水屋デパートにル・ポットフーを開店して20年目のことでした。

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【Photo】 「魚たちがおいしくなるから―。寒流にもまれた冬が好きです」という添え書きとKyuichi Sato のサインがある'95年冬のおまかせメニュー。料理人の神様と称えられたリヨン近郊のレストラン「La Pylamide ピラミッド」のフェルナン・ポワン未亡人、マダム・ポワンのような味わいのある美しい筆跡はもはや失せている。太田シェフはこの頃すでに久一の体調がかなり悪かったはずだと語る。前年に日本テレビの取材を受けた際のメニュー クリックで表示 の筆跡には、現場復帰一年後の意欲がまだ滲み出ているように読み取れる

 自身が創り上げた夢の城と呼ぶにふさわしいル・ポットフーを追われた久一に救いの手を差し伸べたのは、'84年(昭和59年)から荘内振興の社長に就任していたかつての盟友・小林 元雄氏でした。自ら飛び出す形で一度は袂(たもと)を分けた小林氏の誘いでグループ傘下の和食店を手伝うものの、そこはフランス料理を極めた久一の居場所ではありませんでした。久一が完全に浮いた存在となっていると聞いた小林社長の提案で古巣の欅に久一が戻ったのが1993年9月。63歳を迎えていた久一は、再び原点に戻って日本一のレストランを目指そうと欅のスタッフに呼びかけます。かつての顧客約1,000名に宛てて送られた挨拶状クリックで表示には、あと20年常にレストランに立って料理の夢を追い続けてゆきたいとの決意が記され、こう結ばれていました。「料理、それは思い出・・・・・。」
 
 しかし待ち受けていた運命はそれを許さなかったのです。
 
 1996年(平成8年)に年が改まる頃には、久一は体調を崩して店を休みがちになります。医者嫌いの久一は、家族や周囲に体の不調を一切明かしませんでした。michikomikawa.jpg嫌がる本人を周囲が説き伏せて市立酒田病院に入院させたのが10月29日。それが奇しくも酒田大火の日であることに不吉な思いにとらわれたというのが、欅でフロア係を務める三川 美和子さん。1989年(平成元年)にル・ポットフーに入社以来、久一が欅に戻った'93年9月に欅に移り、尊敬する久一のもとで働いてきました。欅のダイニングルーム奥にある個室に私を案内した三川さんは「久一さんはこの場所にテーブルを二つ並べてメニューを書いていました」と部屋の隅を指差すのでした。そこには久一の残像がまだ残っているように思えてなりませんでした。

【Photo】 「ここで久一さんはメニューを書いていたんですよ」と語る三川 美和子さん。清水屋が新生「マリーン5清水屋」としてリニューアルした2012年、新規開店したフレンチレストラン「L'Oasis ロアジス」に太田シェフとともに移った

 親族に伝えられた精密検査の結果は、久一が末期の食道ガンに侵されているというものでした。自身の病名を知らない久一は、入院後もしばらくは三川さんに店の予約状況を確認する電話を毎朝かけてきたそうです。起き上がれぬほどに衰弱が進み、集中治療室に移ってからも、混濁する意識が覚醒するひとときの間に「中華料理を研究して欅で本格中華に挑戦するんだ」と語っていた久一は、1997年(平成9年)1月23日、静かに息を引き取ります。夢を与えた多くの人々から「久ちゃん」と親しまれ、世界一の映画館と日本一のレストランの支配人という輝かしい業績を地元酒田に残した男。かつてグリーンハウスで映画の幕開けを告げた「ムーンライトセレナーデ」が流れる葬儀場の祭壇に飾られた遺影は、欅で再起を期した3年半前の挨拶状の写真でした。その葬儀は華やかな伝説に彩られた久一には不釣合いなほど、ひっそりとしたものだったといいます。

libro_okada.jpg 岡田 芳郎氏は、著書「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」の中で、久一が駆け抜けた67年の人生の栄光と悲惨を見事に描いています。岡田氏は光と同時に闇を抱えていた生身の久一を果たして好きになったかどうかわからないと語ります。それでも著者が逆説的なこの本のタイトルに込めた思いに共感する酒田市民が多いことは、地元でこの本がベストセラーになっていることからも窺えます。つい最近まで酒田では佐藤 久一の記憶は封印されたままでした。

 久一の名を口にすることすらタブーにした大火から30年が過ぎた2007年12月に本の出版に先立って酒田で催されたグリーンハウスの「想い出コンサート」と、この本の出版を契機に死後10年を経てようやくスポットライトを浴びた感がある久一の業績。その検証は、これから改めて市民の手によってなされることでしょう。愛する地元の素材を徹底して磨き上げることで、鮮烈な輝きを放った一人の男の存在が忘れ去らないためにも、そうあって欲しいと願わずにはいられません。

「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」岡田 芳郎著 講談社刊 1785円(税込)

《注》メートル・ドテル(Maitre d'hotel 仏語)レストランにおける現場サービスの責任者。メイン・ダイニングルームで給仕を指揮をする給仕長

◆食べログもチェック ⇒ ル・ポットフーフレンチ / 酒田駅

昼総合点★★★★ 4.5 。
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2008/03/16

佐藤 久一さんのこと 〈前編〉

世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男の物語

 映画館「グリーンハウス」。フランス風郷土料理「レストラン欅」。フランス料理店「ル・ポットフー」。
 これらは一人の男が日本海に面した湊町・山形県酒田市を舞台に追い求めた夢の軌跡。世の中の大勢の人から喜んでもらえる仕事をしたい。そんな幼い頃から抱いていた夢を形にするためには決して妥協することをしなかった男。やがて彼は夢と現実のはざまで運命に翻弄され無残に押し潰されてゆく・・・。一度ならず二度までも夢を形にして、人々の賞賛を受けた男の名は佐藤 久一さとう きゅういち・1930~1997)。没後10年を経て、この伝説の男が遺した業績に光を当てる伝記「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」(岡田 芳郎著)がこのほど講談社より出版されました。
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【PHOTO】良い魚が手に入ると、きまってご機嫌だったという佐藤 久一。庄内浜に春を告げるサクラマスを手に「ル・ポットフー」で<写真協力:コマツ・コーポレーション>

 映画が庶民の娯楽の花形だった1950年代。萩 昌弘や小森 和子などの著名な映画評論家を魅了し、淀川 長治に"世界一"と賞賛せしめた映画館。それが山形県酒田市にあった「グリーンハウス」でした。久一は、1930年(昭和5年)1月に酒田で造り酒屋「金久酒造」《注》を営む名家に長男として生まれます。日本大学芸術学部に在学中、父・久吉は買収したダンスホールを改装した500席ほどの洋画専門館グリーンハウスの運営を久一に打診します。 大学を中退して酒田へ戻った彼は、20歳の誕生日に支配人に就任、青年らしい一途さで仕事に打ち込んでゆくのです。

 敗戦の混乱から抜け出そうと必死にもがいていた当時の日本人にとって、アメリカ映画は単なる娯楽ではなく、豊かな暮らしやロマンチックな恋物語への憧れを掻き立てるものでした。まだ全国でも珍しかった回転ドアや蝶ネクタイと白手袋で正装した案内係を配置、夢を見る場にふさわしい非日常空間へとグリーンハウスを改装します。館内に定員10名のミニシアターを設け、個室での誰気がねのない映画鑑賞を可能にします。シネコンの原型といえる複数スクリーンと観賞用の個室は、日本中のどの映画館にも当時は無かった施設でした。あわせて人々を惹きつける独創的なイベントや企画を数多く実施、その映画館を自ら思い描いた理想の姿に変貌させてゆきました。

 1958年(昭和33年)5月に発行されたグリーンハウスの情報誌「グリーンイヤーズ」300回記念号に、当時の久一の心情が余すところ無く語られています。筆者の岡田氏が感嘆する通り、このとき久一は弱冠28歳。不世出の男が若くして残したこのマニフェストは、久一が長じてからの歩みを暗示するものなので、少々長くなりますが引用しておきます。

 「私は幼い頃から一つの夢を抱いていた。"何かひとつ世の中の大勢の人から喜んで貰(もら)える仕事をしたい"と・・・。  幸せは決して自分ひとりだけのものではない。世の中のみんなが幸せになることが自分自身を幸せにするものだと考えていた。  私はいつか大人になり自分の能力の限界が解ってきた。そして私は幼い頃から持ち続けたこのささやかな希(ねが)いを映画を通じて具現したいとこの仕事にぶつかった。だから映画の仕事は私にとって生き甲斐ともいえるものだ。  生きることの悩み、苦しみ、悲しみ、そして喜びなどの一切の縮図が映画館の中に繰り広げられる。このような映画の内容から例えどんなささやかでも、みんなが幸せになるための種子を摘みとって頂ければ私達の喜びはこれに過ぎるものはない。  私は映画が皆さんから強い共感を得られた時ほど幸福なことはない。 私はこの幸福を味わいたいためにもよりよい映画を、そしてよりよい環境を創り出す仕事に今後も全力を尽くして行きたいと思っている。
 緑館(りょくかん)支配人」

 1960年6月、グリーンハウスでアラン・ドロンが主演したルネ・クレマン監督の話題作「太陽がいっぱい」が東京日比谷スカラ座と同時封切り公開されます。映画フィルムのプリント本数が限られていたGreenHouse.jpg当時、東京のロードショウ館と地方の小映画館が話題作を同時上映することなど到底あり得ませんでした。久一の卓越した手腕がなせるそうした事例が、それ以降増えてゆきます。酒田市民は、そんな映画館グリーンハウスを誇りに思い、心から愛していました。

【PHOTO】酒田市民の誇りだった映画館「グリーンハウス」(写真協力:酒田市資料館)

 そのように順風満帆だったグリーンハウス支配人の座を突如打ち捨て、妻を残し一人の女性を伴って久一が東京へと向かったのは34歳のとき。そうした彼の私生活は生涯清算されることはありませんでした。その頃、すでに東京でもグリーンハウスの名前は知られていました。酒田での実績を買われ、彼は誕生間もない日生劇場の企画運営を嘱望され、採用されます。"芝居の生の迫力が伝わる劇場を郷里に造る"という新たな夢の実現に向け、映画といういわば虚構の世界から、生身の役者が演じる演劇という実在の世界に久一の関心が移っていたのです。後に佐藤 久一が「食」の世界で新たな伝説を生み出す契機は、採用一年後の食堂課への配置転換でした。劇場のレストラン「アクトレス」で使用する食材の買い付けを担当した久一は、自分の裁量に全てが任される食材の目利きの仕事に自らの新たな適性を見出します。二年後、久一は当時酒田市議会議長の要職にあった父から、酒田市中心部に建築中の「酒田市産業会館」地階に造る本格的洋食レストランの立ち上げを任されます。地元財界関係者らが出資する運営会社「荘内振興」が同時に創設されました。
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【PHOTO】庄内産食材を用いたフランス風郷土料理という新たなジャンルを確立させた立役者、太田 政宏シェフ。地元の調理師学校での講師を長年務める傍ら、調理技術向上を目的とする庄内DEC(Development European Food Creation)クラブ会長、食の都庄内親善大使としても活躍中

 アクトレスで働いていた腕の立つ若い料理人やサービススタッフらを引き連れて酒田へと戻った久一は、1967年11月に竣工した産業会館地階にオープンした「レストラン欅」の取締役支配人となります。そこで久一と「フランス風郷土料理」と呼ばれる新たなジャンルの創作料理をのちに作り上げてゆくのが、「ル・ポットフー」の黄金期を築き、現在もレストラン欅の総料理長として陣頭指揮にあたっている太田 政宏氏です。1943年(昭和18年)横浜に生まれた太田氏は、東京ステーションホテル、東京会館を経てアクトレスで久一と出会います。当初は商用客相手に明確な方向性を打ち出せずにいた欅の転機は1972年に訪れます。大阪の辻調理師学校が催したポール・ボキューズ、ジャン・トロワグロら3名の著名なフランス人シェフによる公開技術講座へ参加、彼らの軽やかで深みのある味付けに衝撃を受けます。当時、伝統的なフランス料理界に新風を起こしていたヌーヴェル・キュイジーヌの祖との出会いによって、二人は常識に囚われず素材と向き合うことの大切さに気付かされるのです。鮮度が高い日本海の魚介をはじめとする庄内産食材の数々。その質と種類はボキューズが店を構えるフランスを代表する食の都リヨンに勝るとも劣らないものでした。

【PHOTO】2008年3月末に「世界一の映画館と日本一のフランス料理店・・・」の著者、岡田 芳郎氏が酒田で行われた講演会に持参して紹介したTV番組のVTRより。取材で「ル・ポットフー」を訪れたレポーターに料理をサーブするコックコート姿の佐藤 久一。太田シェフはスクリーンを眺めて「不器用な人でしょ?」とコメント(笑)

 辻調理師学校の講習会場でコックコート姿で指揮を執る辻 静雄の堂々たる振る舞いに感銘を受けた久一は、以降コックコートに身を包むようになります。酒田市街中心部にある「清水屋デパート」からの出店要請を受ける形で新たなフランス家庭料理を提供しようと「ル・ポットフー」を開店させたのが1973年9月。すでに固定客を掴んでいた欅の運営は日生劇場以来の事業パートナー、小林 元雄(あさお)氏に一任します。太田シェフの手によるグラタンとスープを柱とする親しみやすいメニューは、当時はまだ本格的なフランス料理に馴染みが薄かった女性客の評判を呼びます。予約制の本格的な料理を提供する夜間営業を開始した後の1974年10月、作家の開高 健が店を訪れます。「ウズラの網焼き」「トマト入り牛センマイのグラタン」「ガサエビのマリニエール」・・・・。食に関する造詣が深い開高がそこで出合ったのは開高の表現によれば "生まれて初めて食べる素晴らしいフランス料理" でした。その噂を聞きつけたのが作家の丸谷 才一です。鶴岡出身の丸谷には、隣町の酒田にそんなフレンチがあるとはにわかには信じられなかったのです。文藝春秋に食のエッセーを連載中だった丸谷は、さっそくル・ポットフーへと足を運びます。「蕎麦粉のクレープとキャビアの前菜」「アカエイの黒バター掛け」「赤川寄りの砂丘で獲れたキジのパテ」・・・・。丸谷はその日食べたコースを評して、文藝春秋に "裏日本随一のフランス料理" と記します。

こうしてル・ポットフー伝説は生まれてゆくのです。

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【PHOTO】 太田 政宏シェフが編み出した「ガサエビのマリニエール」。絶品。レストラン欅にて

 私がまだ学生だった1984年、「東北で一番おいしいフランス料理店が酒田にある」という評判を聞き、仙台に帰省した折に訪れたル・ポットフー(《後編》で登場する「酒田東急イン」に移転後の店)で印象深かったのは、なんといっても魚介料理の美味しさでした。中でも「手で召し上がって下さい」と出された「ガサエビのマリニエール」の印象は鮮烈でした。口腔を満たすスープの濃厚なエビのコク。それでいて軽やかで澄み切った味わい。身がとろけるようで甘味のあるガサエビを、柔らかな殻ごとガブっと丸かじり・・・。バイト代を工面してたまに行っていた東京のフレンチとは、一味も二味も違う本格的な料理を手頃な値段で楽しめるその店と、酒田出身の写真家 土門 拳のマスタープリントを展示する土門拳記念館を気に入った私は、以降何度か酒田に足を運ぶことになります。その土門 拳も郷土の酒田に戻ると、ル・ポットフーを訪れることを殊のほか楽しみにしていたそうです。

 私が庄内系に変異する素地は、こうして当時から作られていたのかもしれません。


佐藤 久一さんのこと 〈後編〉
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男は
なぜ忘れ去られたのか」に続く


《注》佐藤 久一は「金久酒造」の跡取りである父・久吉と母・智恵の間に1930年に誕生した。当時、家業の経営は、久吉の義父に当たる三五郎が当たっていた。久吉が5歳の時に父の岩吉が急死し、母の芳(よし)が番頭の三五郎と再婚したためである。三五郎は、義理の息子夫妻の間に生まれた久一をたいそう可愛がり、酒の銘柄を皆に愛され喜ばれるようにと「金久(きんきゅう)」から「初孫」へと変えた。つまり、銘酒「初孫」の孫とは佐藤 久一その人を指すのである。ちなみに社名が金久酒造から初孫酒造に変更されたのは1960年のこと。現在は社名を「東北銘醸㈱」として「初孫」銘柄の酒を造り続けている


 

2007/12/15

どこかの畑の片すみで

 だだちゃ豆、温海カブ、民田ナス、佐藤錦、もってのほか・・・。皆さんも一度は耳にしたことがあるであろう農作物の名前。これらは山形県に伝わる在来作物です。すでに商品化され名が知られたこうした例だけでなく、山形各地には個性豊かな伝統野菜に代表される在来作物が数多く残されています。

 在来作物に詳しい山形大学農学部 江頭 宏昌准教授によれば、現在山形県内で確認されている在来作物は133 品目。ひとつの県単位でこれだけの在来作物の存在が確認されている例は全国でも珍しいといいます。山形県下四地域における在来種の分布数は以下の通り― 新庄市周辺の最上地域20 品目、山形市周辺の村山地域34 品目、米沢市周辺の置賜地域22 品目、酒田市・鶴岡市周辺の庄内地域64 品目。この中には、複数地域で栽培されるケースも含まれますが、他地区の2倍~3倍の在来作物が伝わる庄内地域の突出ぶりが目につきます。

【Photo】鶴岡市白山地区に広がるだだちゃ豆の畑。収穫時期が異なる品種を栽培するため、丈が異なるのがお判りいただけるかと

 鶴岡市在来の枝豆「だだちゃ豆」にしても、極早生種「舞台(ぶで)」から最晩生種「彼岸青(ひがんあお)」に至るまで、系統を大別すると20 種以上。収穫時期にも二ヶ月もの開きがあるのです。地元の食味コンテストでトップクラスの評価を受ける無農薬のだだちゃ豆を生産する「月山パイロットファーム」の相馬一廣氏【下の集合写真・前から3列目右から2番目 】によれば、細分化すると40 種は存在するはずだといいます。64 品目という庄内地方における在来作物の数では、だだちゃ豆はあくまで1品目としてカウントしているのだそう。いやはや恐れ入りました。

 鶴岡市外内島(とのじま)地区に伝わる在来野菜「外内島キュウリ」を、ごく最近まではただ一人で栽培してきた上野 武さん【集合写真・前列から3列目右から4番目】の畑を8月上旬に訪れた時のこと。もはや旬を過ぎた畑には褐色に変色した採種用のキュウリがわずかに残るだけです。その畑の片すみに育つ枝豆を指差し、「あの甘露(かんろ)という品種は8月中旬、そっちの外内島だだちゃは8月下旬が旬。」と仰っていました。鶴岡市近辺に点在する産直施設を7月末から9月の夏場に訪れてみて下さい。時期ごと、場所ごとに多種多様なだだちゃ豆が試食用に出ており、系統ごとの形状と味わい・香りの違いを実感することができるでしょう。

mousou.jpg【Photo】朝採りプリップリの谷定孟宗。真っ白な断面の形状が楕円形の地中で圧力をうけた平孟宗(ひらもうそう)は美味しさの証

 桜前線が通り過ぎた後、まだかまだかと私がその到着を待ち焦がれるのが"筍(タケノコ)前線"です。鹿児島・福岡・京都・静岡・・・と北上する筍のなかでも食味に優れる孟宗(もうそう)の北限とされるのが南庄内。柔らかでエグミが無く、アク抜きの必要すらない庄内産孟宗。鼠ヶ関に近い海沿いの鶴岡市早田(わさだ)地区と、湯田川周辺から信仰の山・金峯山(きんぼうざん)北東側斜面の鉄分が多い粘土質土壌が広がる集落、滝沢・谷定(たにさだ)へと産地が東へ移動すると、姿は同じでも微妙に味が異なってきます。鮮度が命の孟宗ゆえ、何を差し置いても地元へ赴いて食べるのが一番。庄内は孟宗に関して一人当たりの消費量が日本一だといわれる土地柄です。酒粕と味噌仕立てで頂く庄内の郷土料理「孟宗汁」 【click!】は、春から初夏への季節の移ろいを旨みたっぷりに感じさせてくれます。金峯山南東斜面や修験道の里・羽黒町高寺(たかでら)に広がる孟宗竹林は、京都からこの地を訪れた修験者が植えたものが広まったのだとされます。
 
 ちなみに鶴岡市早田地区には、在来のマクワウリ「早田ウリ」も残っています。1950年代に登場した甘味が強く日持ちするアンデスメロンに押され、現在では10軒ほどの農家によって細々と栽培される早田ウリ。キュウリのような味にメロン特有のほのかな甘みが交差する早田ウリは、大正期に北海道松前町へと出稼ぎに出向いた早田地区の男性が持ち帰ったものだとか。そのためか、「松前ウリ」とも呼ばれているようです。私を魅了して止まない庄内の食文化は、こうしたさまざまな物語を持つ個性豊かな在来作物を受け継ぐ人々の存在と、四季折々の山の幸と庄内浜の海の幸の恵みがもたらすものです。

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【Photo】在来作物を伝える生産者が、行政・研究者・料理人と結束して地域の宝を守ろうとしている庄内。今年7月、al.chè-cciano の隣に開店したカフェ il.chè-cciano のオープニングパーティに集った「藤沢カブLink to back Number」「平田赤葱Link to back Number」「カラドリイモ」「ヤマブドウ」などの生産者・研究者と店のスタッフ。彼らは固い信頼で繋がっている
 
 2003年11月には「山形在来作物研究会(略称:在作研)」が発足しました。在作研には、研究者・行政・料理人・生産者・一般消費者など、県内外のさまざまな立場の人々からなる360人ほどの会員が現在参加しています。在作研の母体となった山形大学農学部は、1947年に前身の山形県立農林専門学校が設立されて以来、ずっと鶴岡の地に置かれています。当初、実習に欠かせない演習用地探しが内陸の村山地域で難航していたところに、1945年に当時の加藤精三 鶴岡市長(加藤紘一衆院議員の父)が周辺町村に呼びかけて用地提供を含めて誘致に乗り出した経緯があります。

 1949年から山形県立農林専門学校で教鞭をとり、山大農学部の教授を1976年まで務めた青葉 高氏(1916~1999)は、著書「北国の野菜風土誌」(東北出版企画 1976)や「野菜-在来品種の系譜」(法政大学出版局 1981)の中で、かけがえのない在来作物の価値を指摘、わが国でいち早く保護の必要性を訴えた研究者です。日本が飽食の時代を迎えた1980年代中盤以降、京野菜や加賀野菜が脚光を浴びる以前から、山形には在来種の価値を見抜いていた先人がいるのです。在作研では、現在年1回の公開行事と会員向けの会報「SEED」を発行しています。青葉氏が撒いた種は、教え子や遺志を受け継ぐ人々によって芽吹き、在来研を通して実を結びつつあるのです。

dokokanohatake.jpg【Photo】表紙は温海カブ。かけがえのない地域の固有の遺産である在来作物が数多く残る山形の底力を知るには最適の一冊「どこかの畑の片すみで」

 今年(2007年)8月末、山形大学出版会から在作研が編纂した「どこかの畑の片すみで」が出版されました。研究者向けの専門的な内容ではなく、身近かにある宝物の価値を一般消費者に認識してもらうための、平易な読み物となっています。冒頭では、生物多様性が必要な理由や、在来作物の保護の必要性が解りやすく解説されています。在来研の幹事を発足以来務める江頭准教授と在来研のメンバーに名を連ねるアル・ケッチァーノ奥田シェフによる対談を挟んで、地元・山形新聞夕刊に連載中の「やまがた在来作物」で紹介された45 種の在来作物の物語が写真入りで紹介されています。そこでは足掛け5年にわたる綿密なフィールドワークを通して、在作研が確認した個性豊かな在来作物とともに風土が生み出した貴重な種を受け継ぐ人々の声が紹介されています。

【Photo】2006年3月に鶴岡を訪れたイタリア・マルケ州アンコーナ県 Arceviaアルチェヴィアのシルビオ・プルガトーリ町長(中央)から、地元の在来作物を守る取り組みに対し、表彰状を贈られた江頭准教授(右)と奥田シェフ(左)

 しかし現実に立ち返ってみると、人の手による品種改良が加わった商業品種と比べれば、生産効率が悪く、個体間のばらつきが出やすい在来作物は、種を受け継ぐ人たちの高齢化も手伝って、急激に数を減らしています。山形県内各地の畑を精力的に回る江頭先生は、「去年までは作っていた」「数年前までは見かけた」という言葉とよく出くわすといいます。現代のバイオテクノロジーをもってしても、一度途絶えた種は、もう永遠に甦らせることはできません。まさに覆水盆に帰らず。在来種が途絶えることは、単にひとつの品種の滅びと、先人が残した生産技術の消失を意味するのではありません。それは特徴ある食べ物や生産物にまつわる暮らしぶりや調理法など、営々と受け継がれてきた地域の記憶とかけがえの無い財産の消失にほかならないからです。

 あなたもそんな畑の片すみに目を凝らしてみませんか?

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どこかの畑の片すみで =在来作物はやまがたの文化財=
山形在来作物研究会 編  発行:山形大学出版会
A5判 167ページ  本体定価1,429円+税

山形在来作物研究会
URL:http://zaisakuken.jp/

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2007/10/25

イタリアフェア雑感

ferdinando_martinotti.jpg 本国から招かれた有名リストランテのシェフや、溜め息が出そうな伝統工芸品のマエストロらが、多彩なイタリア文化の魅力を紹介してくれる百貨店のイタリアフェア。所有欲を呼び起こし、美味に事欠かない国にふさわしく、芸術の秋・食欲の秋に催されるケースが多いようです。仙台では満足できず、目の保養を兼ねて質量ともに充実した在京百貨店に出向く事もあります。

【Photo】2007年春の新宿高島屋イタリアフェアでは、ウンブリア州の銘醸「Lungarotti ルンガロッティ」ワイン博物館所蔵の陶器などが展示されたほか、ミラノの名店Peck 直営のBar でシェフを務めるフェルディナンド・マルティノッティ氏(写真左)による調理セミナーも行われた

 有名リストランテのインショップとはいえ、水も違えば素材の鮮度も違う上、まして仮設の調理設備で本国そのままの味を再現するのは至難の業です。プロ意識が高いカメリエーレが質の高いサービスをしてくれるイタリアとは違い、テーブルセッティングも侘しいしつらえであることは否めません。それでも規模が大きな東京のフェアでは、食のみならず幅広くオールマイティなイタリアの魅力の片鱗に触れることはできます。

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【Photo】2002年10月、新宿伊勢丹のイタリア展に登場した Venezia サン・マルコ広場にあるカフェ・フローリアンのインショップ。現存するイタリア最古のカフェの雰囲気を伝えようと、それなりに手をかけた内装。本店と同じリチャード・ジノリ製の特注カップに入ったカッフェには、獅子の紋章の砂糖が添えられていた。モデルは当時4歳の Mia bambina

 これが地方の百貨店の場合、呼び物は「東京にある人気店の出店」となるのがセオリーでしょうか。2007年春に開催された仙台三越のイタリアフェアには、落合 務シェフのラ・ベットラが出店、ローマ下町のトラットリアのような味付けの料理を提供しました。同年秋に開催された新潟伊勢丹イタリアフェアの呼び物は、鶴岡アル・ケッチァーノのインショップレストランでした。東京の店じゃないだろうですと? 私があの店と出合った頃とは違い、東京に活動の軸足を移した感すらあるゆえ、白羽の矢が立ったのでしょう。

piadina_fujisaki.jpg【Photo】仙台のイタリアフェアより。東京にあるナポリピッツァの頂点ともいわれた中目黒「Savoiサヴォイ」を招聘するも、電気窯では本来の味を出せるわけもなく撃沈。写真はエミリア・ロマーニャ州の気軽な郷土食Piadinaのイートイン

 各界の人たちが店の魅力を綴ったオマージュ「奇蹟のテーブル」に奥田シェフから乞われて寄稿した私の一文にあるとおり、瑞々しいシェフの感性と多彩かつ質の高い庄内の素材たちが出逢って生み出される唯一無二の世界です。「地元のため、生産者のため」の活動は、やがて新奇さを追い求める各メディアの注目を集めるようになります。

 2006年夏にTBS系列のTV番組「情熱大陸」で紹介されて以来、奥田シェフはそれまでのペースをすっかり失ってしまいました。厨房以外の活動が増えて得たものの代償は大きかった...。いち早く紙面に取り上げ、全国区デビューの一端を担い、店の歩みをずっと見てきた者の一人として、メディアの功罪を自問しつつ今そう感じています。私が感動に打ち震えた魔法のような在来作物のフルコースを出してくれた平成16年前後の頃の闊達で自在な姿にあの店が戻る日は来るのでしょうか。

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【Photo】完熟したブドウをパッシート(=陰干し)して、糖分を凝縮させて作る Rupestr ブランドの極甘口デザートワイン「INSUPERABILE」(=至極の・越えることのできない)を手にする荒井基之氏、奥田シェフ、ジョルジョ。新潟伊勢丹にて(写真右より)

 新潟伊勢丹では、たまたま来日中だったピエモンテ・カネッリでアグリツーリズモ Rupestr を経営するジョルジョ・チリオ氏も自家農園のブドウで仕込んだ Moscato d'Asti モスカート・ダスティなどを紹介。ピエモンテワインについて1時間のトークショーでお得意のエンドレスマシンガントークを繰り広げました。ジョルジョを案内して訪れた魅力溢れる鮭の町・新潟村上のご紹介は機会を改めてたっぷりと。そのほか新潟のフェアでは、イタリアワインの魅力を日本にいち早く紹介した日本ソムリエ協会副会長で渋谷ヴィーニ・ディ・アライのオーナー荒井 基之氏や、昨年イタリア・ピエモンテ州 Alba の有名なトリュフ祭り会場でもお見かけした日本人初のAISイタリアソムリエ協会認定のソムリエ資格を取得した林 茂氏らが、イタリアワインのセミナーを行いました。

bettora_mitsukoshi2007.jpg【Photo】2007年春、三越仙台店にイートインで出店した銀座「ラ・ベットラ」落合 務シェフの弟子が作ったメリハリが利いたプリモピアットのパスタ2皿。ジェノヴェーゼ(写真上)& キノコノクリームソース(写真下)は、本店の気取らない味付けとの格差は感じなかった

 先週まで仙台で行われていた藤崎イタリアフェア2007では、「イタリアワイン最強ガイド」(文藝春秋刊)の著者 川頭 義之氏がセミナーを行いました。「闘うワイン商、フランスワインに喧嘩売ります!」のオビに目が留まって書店で手にしたこの本。地域性が強い多様な食と密接に結びついたイタリアワインの魅力を知る私が激しく共感した一冊です。

 「こんな貴方におすすめします」と表紙裏にいわく、★とにかく美味しいワインが飲みたい★イタリアは好きだけど、ワインは種類が多すぎて難しい★そろそろ「ブランド信仰」を卒業したい★フランスワインは不当に高すぎると思う★ロバート・パーカーって胡散臭いと思う★能書きは嫌いだが、ワインの本質を理解したい★ワインの職人に興味がある・・・五項目該当した私は、序文「宣戦布告!」の内容に数回大きく頷きながら読み進み、"こんな本を待っていた"と確信してレジへと向かったのです。

saikyouguide.jpg 本国では見向きすらされない「ボジョレー・ヌーボー」は、初物を尊ぶ日本においては、ビジネスとして成功しています。その経緯を見ても明らかな通り、周到なプロモーションで日本のワイン市場を寡占してきたフランス。イタリアワインを特集したワイン雑誌にすら、ボルドーを紹介するタイアップ記事やフランスワインコンセイエ【注】の資格を持つ販売員がいる酒販店を紹介する冊子が綴じ込まれてきます。こうした国や業界を挙げての販促活動の巧みさは、てんでバラバラなイタリアの到底及ぶところではありません。そんなこんなでイタリアワインが過小評価されている日本の現状を苦々しく見てきた私の積年の溜飲を下げてくれたのが川頭氏の著作だったのです。

 フランスワインこそが地球上で一番だと信じ、相当額の投資をされておられる諸氏には決してこの本をお勧めしません。なぜなら、さまざまな嗜好のテイスターによるフランスワインとイタリアワインの価格帯別ブラインド対決で、次々とイタリアワインがボルドー・ブルゴーニュのワインを打ち破ってゆくのですから。しかも勝利したイタリアワインの日本での値段は、総じて比較されたフランスワインの1/3~2/3程度です。評論家からの高い評価と希少性ゆえに高騰する「スーパートスカーナ」と呼ばれる一部のトスカーナ州産を除き、コストパフォーマンスの高さはイタリアワインの魅力のひとつです(最近はユーロ高も手伝ってそのメリットが失われつつある)

 食卓で一層輝きを増す食事の良き伴侶としての魅力にかけてはピカ一のイタリアワイン。豪州やチリなどのニューワールド産の赤ワインにありがちな後味の甘ったるさが無く、綺麗な酸を備えているため、ワイン単体で飲んでも美味しく感じます。その実力は決してフランスに引けを取らないことを川頭氏の本は証明しています。

bettora_sencondo2007.jpg【Photo】2007年三越仙台店イタリアフェアの「ラ・ベットラ」イートインよりセコンド・ピアット2皿。ズバ抜けてはいないものの、手軽でフツーに美味しいこの店らしい味を提供していた

 フランスの有名シャトーのワインは、収斂(しゅうれん)性が強いタンニンが落ち着き、味わいのバランスが取れてくる飲み頃を迎えるまでに良年作で20年~30年もの長い年月を要します。イタリアにも伝統的な造りをする Barolo バローロや Brunello di Montalcino ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、Taurasi タウラージといった同様のワインが存在します。しかし大方のイタリアワインは、ボルドーなどに比べて熟成のピークが早く訪れます。

 屋内温度が上がらない石造りのヨーロッパの家に比べ、夏季は高温になりがちな日本の住宅環境で、こうした長熟型のワインを劣化させずに保管・熟成させるには、セラーが欠かせません。予想される飲み頃を記した自作のワインリスト無しには管理不能に陥る400本以上(「異常」と言った方がふさわしいかも?)の自宅ストックを収容するため、200本収容セラーが1台、40本収容セラーが2台ある私のような熱心なワインラヴァー以外は、それ自体が決して安くは無いセラーを備えるのを躊躇することでしょう。

cellar_casa.jpg 【Photo】3台のセラーが稼働する仙台市在住の某イタリアワインラヴァーのセラールーム。収蔵するワインの9割はイタリア各地の熟成能力が高いヴィーノで占められるという

 その点、リリース時点で楽しめる状態になっている場合が多いイタリアワインはオススメです。さらに日本の家庭料理は、素材の味を生かす料理が多く、その点でもイタリアとの共通点があります。ご存知の通りイタリアの食卓にはVinoが欠かせません。日常的にワインに親しむのならば、豊富なブドウ品種のバリエーションを持つイタリアワインは日本の一般家庭の食卓でも活躍できるシーンが多いはずです。飲まず嫌いは人生の損失ですよ。

 東京から火がついたイタリアンブームに遅れることおよそ10年、ようやく仙台にもパスタとピッツァ以外のイタリア料理を提供するレストランが増えつつあります。在仙のイタリアンレストランの中にも、ようやく頑張ってるなぁという店が何軒か出て来てくれました。女性を中心にご自宅でもイタリアンを召し上がる機会は多いのではないでしょうか?

 そうしたイタリア料理の普及度合いと比較して、良き食卓の伴侶たるイタリアワインの存在感は、日本ではまだ希薄と言わざるを得ません。今ではほとんど見かけなくなったフィアスコ・ボトルという藁で覆われた独特の形状の瓶に入った安いキアンティ=イタリアワインというイメージが日本では強かったように思います。

 品質の向上が著しいキアンティ・クラシコも、かつては「白ブドウを15%混醸すべし」という組合が定めた規定に沿って作られた軽めのものが多かったのです。こうした安酒のマイナスイメージは、ようやく海外に目を向け始めたここ10年あまりの生産者の努力によって、現在では払拭されつつあります。それでも酒販店の店頭にあるイタリアワインは若干淋しい品揃えの場合があります。仙台に本社がある大手輸入酒類・食品販売店が、お膝元の店舗で扱うイタリアワインですら、同社が首都圏で展開する店舗のそれと比べて質量ともに見劣りするのが正直な印象です。

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【Photo】店が一段落したところで、Enoteca il Circolo の吉田シェフ(写真右)もワイン談義に加わった。私がプレゼントした宮城の観光情報を一冊にまとめた「宮城通本」(河北新報社発行)を前に熱くワインを語る川頭義之氏とジョヴァンナ夫人

 そんな仙台で、イタリアワインの魅力を一人でも多くの方に知っていただくには最適のキャスティングともいえる川頭氏のワインセミナーが行われるというので、楽しみにしていました。セミナーの前夜、Enoteca il Circolo の吉田シェフとインポーターのモトックスさんのご好意で、川頭氏と個人的にお会いすることができました。氏が自宅でも愛飲するという Vino 数種を傾けながらの"イタリアワインバカ一代"同士の語らいの内容は次回ご報告します。

【注】conseiller コンセイエ(=助言者:仏語)。パリに本部があるフランス食品振興会(通称SOPEXA)が認定するワイン販売員の資格。フランスワインコンセイエについてはこちらを参照http://www.conseiller.jp/index.php?action_conseiller=true

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